2014年12月31日水曜日

大みそか・今年もお世話になりました。

2014年も大みそか、31日となった。
「もうひとつ寝るとお正月」である。
今年、2014年もいろいろなことがあった。
その締めくくりの一日を、どのように過ごされているだろうか。

今年の私の大みそかは、穏やかに静かに一日が過ぎている。
年末までカウントダウンしてがんばった障子の張り替えも、一昨日、無事終了した。

日記帳の「今年をふりかえって」の欄を書き入れるのに、一週間かかったけれども、なんとか書き終えて、やっぱり、充実した佳い一年だった、と思う。
そして、来年の目標は、というと、また一週間を必要としながら、きっと日記を書きこむことになるだろう。

このブログ「朝倉聡子・日々のつぶやき」も、今年は何度かの休養を入れながら、なんとか一年間、書き続けることができた。
読者の皆さまには、ただただ、ありがたい、ありがとう、という気持ちでいっぱいです。

いろいろなことがあったけれど、本当に今年も、お世話になりました。
たくさんのチームメイト、仲間の皆さんにも、とても懐かしく、温かい思いを感じています。

どうぞ、よいお年を。
今年も本当にお世話になりました。
ありがとうございました。

朝倉聡子

2014年12月31日


2014年12月30日火曜日

ディズニー映画「アナと雪の女王」感想。--ネタバレあり。

2014年も、残りわずか、となった。
大みそかには紅白歌合戦も放送される。
紅白歌合戦は、その年の社会現象や話題になった言葉などを取り上げて企画が行われるので、一年を振り返りながら年越しをするのに、本当に楽しくてよい番組だと思う。
私も、今年の社会現象を、ひとつ取り上げてみたい。
話題となった映画として、ディズニー映画「アナと雪の女王」がある。
この映画はミュージカル仕立てとなっているが、劇中歌であり、テーマソングでもある「Let it go」は、とても人気の歌となった。
いわゆる「レリゴー」、日本語歌詞では「ありのままで」である。

この「アナと雪の女王」の感想を、ストーリーごとに、追いかけてみたい。
「ネタバレ」であるから、年末年始にお子さんと楽しもうと予定していたかたは、お許し願いたいと思う。

北欧、が舞台となったらしい。
ある平和な国に、王様とお妃さまがいらっしゃった。
そこには、小さな姉妹がいた。
姉がエルサ、妹がアナである。
この、姉のエルサは、生まれつきに魔法を使える体質であった。
手で触れたものが、雪のように凍りつくのである。

幼い姉妹たちは、こうした魔法の世界に暮らしているのかもしれない、小さな妹は、まだ眠い姉を起こす。
「ねえ、雪だるま作ろう!」
姉は起きると、両手を少し曲げて、輪を描くようにする。
そうすると、両手の間に、雪と氷の結晶が生まれて、それが小さな雪だるまになるのだ。
幼い姉妹は、こうして魔法で遊んでいた。

ところがある日、姉のエルサがこの魔法を使っているときに、小さな氷のかけらで、妹のアナの頭に傷をつけてしまう。
両親は心配して、山のドワーフのところに相談に行く。
ドワーフの長老の言うことには、氷のかけらが、頭に傷をつけたのでよかった、ということだ。
もしも胸に刺さったのなら、取り返しがつかなくなり、アナは、凍ってしまうというのだ。

姉のエルサの成長と共に日に日に強くなっていく魔法の力。
両親は、とってもいい人たちだったのだが、とても心配して、エルサの魔法を隠そうとする。
城じゅうの窓を閉め切り、お客さんもあまり呼ばないようにして、エルサを人目から隠そうとするのだ。

そうして、姉のエルサは、一人、部屋に閉じこもりきりになる。
妹のアナは、ドアの前で、「ねえさん、雪だるま作ろう!」と呼びかける。
これが、ミュージカルのなかでもとても人気の曲「雪だるま作ろう」である。
妹のアナの、天真爛漫で疑いを知らない心が、そのまま表れたような、かわいらしい呼びかけの歌である。

しかし、アナの声に、姉のエルサは答えることがない。
とても孤独なのだろう。

そしてある日、両親である王様とお妃さまは、ご公務のため、大きな船に乗って、外国へ行くことになる。
ところが、この船が難破してしまうのである。
ご両親が亡き人となった姉妹は、暗い城のなかで、寂しく暮らしている。

ある日、ここからが物語の大きな展開となる。
姉のエルサが、20歳となり、成人にともなって、王位を継承することになる。
そのお披露目晩餐会が行われることになる。
これまで閉められていた窓という窓が開け放たれ、人々が集まってくる。
他の国からも、お客さんがくる。
この晩餐会、舞踏会に、浮き立つこころが、妹アナの「うまれてはじめて」の歌によく表現されている。
こんなふうににぎやかに人が集まって、きれいなドレスも着て、もしかしたら、素敵な恋人に出会えるかもしれない。
姉が20歳であるから、妹は16歳くらいになっているであろうか、初々しい少女の気持ちが「うまれてはじめて」のときめきに表されている。

この舞踏会に出席してきた、ハンス王子。
アナはこの王子様と、恋に落ちる。
このときの歌もとてもかわいらしく素敵である。
ハンス王子の好きなものは「サンドイッチ」「わたしもよ」「わたしたち本当によく似ているわね」
ということで、すぐさま結婚の約束をする。
そして、ふたりそろって、姉のエルサのところに、結婚の報告に行く。

ところが、孤独と悲しみと憎しみでまいっていたエルサにとって、これは、ショックであった。
「絶対に許しません!」
怒りとともに感情が爆発すると、抑えていた魔法の力も爆発する。
そこいらへんのものをすべて凍らせてしまったエルサは、遠くの高い山を目指して、城を家出する。

このときに歌うのが、「レリゴー」である。
日本語に訳するときに、「ありのままで」と訳したために、歌としては素晴らしい歌になったのだが、その歌だけ聞くと、ストーリーの意味をはかりかねる状況になる。
個性を隠すのでなく、外見を繕うのではなく「ありのままの自分らしさを大切に生きよう」という意味だと、とらえがちである。
しかし、本来のストーリー上のエルサの意味は、もう魔法という欠点や悩みを、人々から覆い隠すのはやめよう、爪を隠すのをやめよう、という意味である。
魔法の力を抑えに抑えてきたけれども、「ダメならダメなりに好き勝手でいいじゃないか」と思う。
それで、家出をして、山のてっぺんに登り、思い切り魔法を使って、雪と氷でできた城を作る。
そして、国と街中を凍らせてしまうのである。
「レリゴー」は、こうした、悲しみと憎しみの発露の歌なのである。

残された妹のアナは、山の上まで、姉を説得に行くことにする。
姉によく話をして、街の氷の魔法をほどいてもらおうとするのである。
「お姉さんに話せば、本当に伝わるの?」という問いかけにも「大丈夫よ、だってあたしたち姉妹なんですもの」と、いたって楽観的である。
出発のときに、アナは、王女らしく、すでに婚約者になったハンス王子に、国のすべてを任せることを宣言する。

雪と氷に閉ざされた山で、アナは、山の男クリストフ青年と出会い、彼のトナカイ馬車で、エルサの氷の城に向かう。
ここからは、氷の冒険物語である。
雪は本当に美しい。
雪だるまの道化・オラフも、友達になる。
クリストフはカジュアルな青年で、アナと馬車で連れ立って行くところは、まるでドライブをするボーイフレンド、といったところだ。

しかし、やっとたどり着いた氷の城で、姉のエルサは、妹のアナの言う言葉を聞こうとしない。
そればかりか、氷のモンスターまで魔法で出現させる。
そのときに、妹のアナは、再び、エルサの魔法の氷で怪我をしてしまう。
その怪我は、今度は頭ではなく、胸に刺さった氷のかけらだった。
そのときから、アナの身体は凍り始める。
髪の毛からだんだん白くなっていく。
この氷を解かすのは、「真実に愛する人のチュー」だということである。
青年クリストフは、アナの愛する人って誰だったっけ?と考えて、婚約者・ハンス王子を思い当たる。
そして、街までアナを連れて帰る。

このあたりの、クリストフの表情はどこか悲しい。
見ていても、「真実の愛って、本当はクリストフのほうが、仲が好さそうなんだけど」と思ってしまう。

ここからが、ネタバレのどんでん返しである。
なんと、ハンス王子は、他国では13番目の王子で、王位を継承するには遠すぎる。
それで、エルサとアナの国にやってきて、まんまとアナと婚約し、エルサを亡き者にしようとするのだ。
つまり、アナの国の乗っ取りである。
王様になりたいのである。

まったくもって、前半のハンス王子のイケメンぶりを考えると、この裏切りはひどすぎる。
そして、氷の城に行って、エルサを捕まえてきて、手錠までかけてしまう。

すでに、アナの身体は凍り始めているが、街中も港も船までも凍っている。
その状況のなかで、追いかけっこが始まる。
逃げるエルサ。
そこを、本当にアメリカ映画らしいが、ハンス王子は、剣を持って追いかけるのだから、こわい。

まさに今、ハンス王子が、エルサに剣を振り下ろしたそのとき、アナが「わたしのお姉さんよ」と、エルサをかばう。
そして、本当にアメリカ映画らしく、ハンス王子の剣は、アナの身体に打ち下ろされるのである。
アナはその一打ちで、すべて凍ってしまう。

そのときである。
エルサはやっと気づいた。
姉を思う、真実の愛に。
妹がここまで姉を信じて守ってくれたことに。
エルサは一粒の涙をこぼす。
その涙が、凍りついたアナを溶かし始めるのである。

そして、魔法が次々に解けはじめて、街中も、港も、溶けていく。
街は、夏をとりもどすのである。

その後、エルサとアナは、仲良く暮らす。
エルサは、魔法のコントロールの仕方を覚えて、国民のために、スケートリンクを、魔法で作ってあげて、国民はフィギュアスケートを思い切り楽しむ。

じゃあ、真実の愛ってなんだったのだろう?と思う。
本当の愛って??

アナの「うまれてはじめて」のときめきが、大人の気持ちに育って行ったとき、そこに気が付いたのかもしれない。
それとも、アナが生まれつき持っていた純粋な心こそが、真実の愛だったのかもしれない。

本当にディズニーらしい、明るくて楽しくて、そしてアメリカらしい茶目っ気のある映画だった。
アナはクリストフに、新しい荷馬車をプレゼントする。
「飲み物入れつき」だそうである。

何度でも何度でも、見直したい映画である。
何度でも何度でも、歌いたい歌である。

エルサにとって、「ありのままで」とは、どういう意味だったのだろう。
明日の紅白歌合戦では、出場者全員で、歌われるそうである。
歌おう♪
歌い忘れのないように、年忘れである。
「ありのままで」私は来年もこれでいきたい。


2014年12月27日土曜日

NHK「マッサン」第13週「急いては事をし損じる」感想。

朝の連続テレビ小説「マッサン」も、半年の半分、三か月の放送を終えた。
これから一週間は、年末年始のお休みとなる。
次回の放送は1月5日だそうである。
ぜひとも見逃しのないように、録画予約をしたいものである。

今週の「マッサン」は、先週放送分から4年の歳月が流れていた。
「マッサン」をずっと見てきた人ならわかるが、ウイスキー造りには、樽で寝かせる熟成の期間が5年は必要ということが、すでに知識として前提になければならない。
しかし、鴨居商店の大将ことカモキンは、まだ熟成が4年目なのに、商品として出荷を命じるのである。
背景には、不景気があった。
商売というのは、面白そうだ、と思うことがある。
不景気もあれば、好景気もあり、ひとつの商店でも、大繁盛のときもあれば、全然うまくいかないときもある。
経済というのが、人の気分に左右される、というのも、不思議な現象である。
ともかく、あれだけ繁盛していた鴨居商店が、経営危機に立たされたのである。

ウイスキー造りは、とてもコストがかかるようである。
それは、作り始めてから製品化するまでに、歳月が必要だからである。
樽を寝かせてある間は、商品を寝かせてあるようなものである。
在庫であり、倉庫という空間を消費しているわけである。

ところで、今週の題名は「急いては事をし損じる」である。
「急がば回れ」とも相通じることわざだろうと思う。
世の中には、「急いてはいけない」ものごとが、たくさんあると思う。
たとえば、子どもの成長である。
這えば立て、立てば歩めの親心、ということわざもある。
しかし、子どもの成長がいくら早いといっても、心身共に成長するためには、それ相応の年月がどうしても必要なのである。
草をひっぱっても、伸びることはない。
それと同じように、ウイスキーの熟成を一年早めろ、と言われても、速くできないものはできないのである。

心も同じかもしれない。
傷ついた心に包帯を巻いて、その傷がひそかにじっくりと癒えていくまでには、自然治癒力と時間が必要である。
この時間を短縮しようとすると、今回の「マッサン」で描かれたような、失敗を呼び起こしてしまうのである。

政春には、本物のウイスキーがわかっている。
しかし、商売を本業とするカモキンには、本物を追求することのほかに、たくさんのお客様に販売する、というサービス業の精神がある。
これはこれで、商売の精神としては、本物であるだろう。

きょう、土曜日の放送では、「信念」という言葉が出てきた。
まったくやっかいな言葉である。
もしも世の中に、信念などというものがなかったら、もしも仕事にも人生にも、信念など要らなかったら、人生も社会も、とても楽になるにちがいない。

それにしても、今年の年末年始は、ウイスキーを口にする人も多いのではないか、と思うが、スモーキーフレーバーというのは、どういうものなのだろうか?
現存するニッカウイスキーは、アサヒビールに買収されているが、私が北海道にいたときから、経営悪化のうわさが絶えなかった。
今でも、サントリーウイスキーに比べると、ニッカのほうが、少数派だと言えるかもしれない。
それでも、100年経ってみれば、「信念あるウイスキー」のほうが、人気が出そうではないか。

政春VS鴨居欣二郎の勝負は、今年のお正月にかかっているのである。

2014年12月25日木曜日

クリスマス内閣に来年を考える。

師走の人々の気持ちがどんなものかに関係なく、クリスマスイブに第三次安倍内閣が発足した。
この内閣がめざすところは、憲法改正であるらしい。

年末、暮れも押し迫り、来年の手帳や日記帳を買い求める。
新しい年はどんなふうにしようか、どんなふうになるのか、想像してみる。
でも、私の想像は、とてもゆううつなものだ。

今年は、集団的自衛権で、さんざんな目に遭った、と思う。
私がかつて目指していたものは、北欧のような高福祉社会であった。
もしも今から来年にかけて、高福祉社会を目指すなら、一生懸命書いて、書くことに喜びも生きがいも見出すことができたかもしれない。
けれども、結局は、消費税は、国防軍に使われることになった。
これではあの、野田内閣のときに、がんばったことが報われないどころか、私が目指していた社会制度からはますます遠ざかることになる。

そんな仕事を来年も続けるのか、と思うと、新年のことを予想してみても、ゆううつなだけなのである。
もともと、集団的自衛権も、無茶だと思ってきたし、やりたいとも思っていなかった。
それが、あっという間に決まってしまって、その後のフォローをしなければならなくなった。
国民の大半が反対であった集団的自衛権の、私自身も反対であった自衛権の、論理的な裏付けの仕事をしなければならなかったのは、苦痛であった。
今年はまったく面白くない一年であった、とつくづく思うのである。

これで、朝ドラの感想、という記事に思い入れがなかったら、とっくにやめていたであろう、ブログ記事作成の仕事である。
いっそ、今年いっぱいで朝ドラ感想の未練を断ち切って、政治からは一切手を引こうか、と真剣に考えている。

安倍内閣は、暴走していると言われているが、少なくとも、急ぎすぎている。
急進派、というのは、こういうものなのか。

世の中の混乱や社会不安は、見えていないのだろうか。

東日本大震災から、3年と9カ月の時が流れている。
震災のあとは、政府もメディアも国民も力を合わせて一生懸命立ち向かった。
復興のために力を合わせた。
けれども、メディアというのは、政府に常に反抗して、政治に鋭く目を光らせているのが、本来の姿なのではないだろうか。
このところは、政府VSメディア、という構図もようやく見えてきたかんじがする。
これが、一番自然な形なのではないだろうか。

大震災の傷跡が、ようやく4年経って、本格的に表れてくるころだ、と言われている。
私も正直言って、今年は身体がまいってしまって、お医者さんにもかかった。
「震災の疲労が出てくる時期なんですよ」と言われた。
休養を勧められているなかを、ひとり、書かなければならず、本当にまいってしまった。
なかなか休みもとれなかった。
メディアの人たちがたくさんの人が、順番で記事を書けばよいところを、私はひとりで書き続けてきたと思う。
心身共に、疲労してしまった、というのが、実情である。

これから、国民大反対の憲法改正に取り掛からなければならない、となると、来年も仕事をしたら、まさに命を削って、もう長生きできないのではないか、と悲観的な気持ちにもなってくる。
私が書けば、なんでも実現できるように錯覚している人たちが、どこかにいるのではないか、と思えて、その欲求の暴走に、哀しくなってくる。

憲法改正など、やめようではないか。
私も、やめたい。
世の中がそのように進めば、ついていくしかないのかもしれないが、以前のように、瞳をキラキラ輝かせて、毎日毎日、ブログを書くことが楽しくてたまらなかったときとは、うってかわった様相である。

このようなゆううつな仕事を、来年もいやいやながら続けていかなければならないのだろうか。
メディアの人たちも、本当に心から、これを実現したい、と強い思いとエネルギーを持っている人たちが、いったい何人くらいいるのだろうか。
本当はみんな、休みたいのではないだろうか。

私も、休みたい。
静かで穏やかな、新年を生きていきたい、と思うのだ。
心から望んだ文章を書いていきたい、と思うのだ。



第三次安倍内閣に思う。

昨日、2014年12月24日。
第三次安倍内閣が発足した。
戦後でも、「第三次」とまで内閣が続くことは、例が少ないそうである。
また、長期政権となり、その「長期」は、首相の求心力の強さを表すことになる。
他に人材がいない、ということでもあるかもしれない。
人材というより、ライバルといおうか、向かうところ敵なし、である。

この安倍内閣が、第二次の時代には、集団的自衛権の拡大解釈を決定した。
「この道しかない」という安倍内閣は、次の道しるべとして、集団的自衛権の法整備と、それから、憲法の条文改正も、目指しているらしい。

ところで、今回の選挙の投票率と、自民党の議席配分を考えてみると、ここでたくさんの人が思う、問題が浮かび上がってくる。

それは、投票率が52パーセントととても低かったこと、つまり国民の約半分は棄権している、ということである。
自公連立与党では、三分の二の議席を獲得したということなのだが、投票した半分の国民のうちの、そのまた三分の二が、与党に賛成票を投じたということになる。
すると、与党に投票しなかった人を、棄権した人と合わせると、国民の65パーセントは、与党を信任していなかった、ということになるのである。
こうしたことで、「声なき声」という言葉が出てくる。
この、棄権したり、投票しても与党に入れなかった人たちの「思い」というのはどんなものか。
そして、与党はいったい国民のどれくらいの割合の人に支持された政権なのか、という疑問である。

しかし私はこう思う。
私は、今回の、選挙戦の前に、もしも安倍政権、現政権、そして、集団的自衛権や憲法改正にどうしても強く反対する人たちがいるのなら、自分たちで政党を作り、自分たちのなかから、候補者を立てるべきである、とここで書いた。
解散総選挙は、安倍政権や集団的自衛権に反対する人たちにとって、チャンスだったはずである。
そのときに、政党も作らず、候補者も立てず、ただ黙っていた、これでは民主政治に参加したことにならない。
これでは民主主義を保っていることにならない。
民主主義や選挙というチャンスを得ていながら、黙していたことは、民主主義への背信である。

棄権は、イエスともノーともとれるものである。
あるいは、投票した人たちに、全権委任したとも取れるものである。
選挙への参加、ということは、教育の問題や意識啓発の問題もあるかもしれないが、棄権したということで、民主主義の放棄、という意思を発したと思ってもよいと思う。
そして、民主主義に参加し、投票や立候補という形で、意思表明をした人たちだけで、政治を運営していく権利を任された、といってもいいと私は思う。
政治や選挙に「興味がない」と言っている人たち、また考えはあっても行動ができなかった人たちは、これからも政治に不平や不満を言う権利などないと思う。
政治にきちんと参加した人たちが、これからの日本をけん引していく、これからの政治は、こうあるべきであるし、またこうするしかないし、また選挙に行った私たちは、政治を背負っていく権利と責任があるのだと、思う。


2014年12月24日水曜日

わたしのような、頭のよい女の子を作るための教育とは。

このところ、自分でいうのもなんであるが、「どうしたら聡子みたいに、頭がよくなれるの?」と聞かれることが多い。
私自身では、どうしてなのかよくわからない。
どんなに考えてもよくわからない。
それで、身近な友達に、聡子が頭がよくなったポイントを、いくつか教えてもらった。

その1、甘やかす。
私は、教育者であった父親から、教育を授かったというよりも、とてもとても甘やかされて育った。
ほしいおもちゃや絵本はなんでも買ってもらえたし、童謡のレコードも買ってもらえた。
私が高校生のとき、父の同僚は、娘の私のことを、「過保護ちゃん」と呼んでいた。
私自身、大人になってからも、ときにはたとえば説明なしでどうしてもお金が必要なときなど、理由を問い詰めることなく送ってくれたりしたので、とても感謝している。
人に迷惑さえかけなければ、どこでどんな人生を送っていても、大きく包んでくれる父である。

その2、お姫様になる。
小さな子どもには、勉強するための動機づけが必要であると思う。
まだまだ小さくて、大人の社会がどうなっているのか認識が柔らかい時期に、勉強に取り組む姿勢を身に着けることが大事だと思う。
私は、幼稚園のときに、絵本を読むのが大好きだった。
特に、白雪姫、シンデレラ、眠り姫などの、お姫様の童話が大好きで、大きくなったらお姫様になりたい、どうしたらなれるのだろう、と真剣に考えていた。
小学校の入学式のときに、校長先生の訓話で、「小学校に入学したみなさん。小学校はすばらしいところです。ここで一生懸命勉強をすると、大きくなったらなりたいものに、なんでもなれます」と言った。
私は、「やった!」と思い、小学校で勉強すればお姫様になれると思って、小学校は素晴らしいところだ、と本当に心から思った。
それで、学校の授業は、食い入るように黒板を見つめ、先生の話を一言一句聞き漏らさないようにした。
そして、ノートもきれいに書いた。
家に帰ってからは、宿題がないときにも、漢字の書き取りや算数ドリルをどんどん進めていった。
漢字の書き取りは、漢字用のマス目を、漢字ひとつを一ページ、必ず埋めるようにした。

学研の科学と学習、という雑誌があり、両親が買ってくれた。
特に「科学」では、さまざまな実験用具がついてくるので、庭に出て、好きなように実験をしていた。面白かった。

小学3年生ごろになると、さすがに「もしかしたら学校で勉強しただけでは、お姫様にはなれないのかもしれない」と気づき始めた。
しかし、群馬県にいたので、市内から、正田美智子さまが皇太子妃にお嫁さんに行ったので、「やっぱり勉強すればお姫様になれる」と決意を新たにした。

小学5年生ごろになって、ようやく現実に気が付いたときには、世界の偉人、というシリーズの本を学校図書館から借りて読むようになっていて、キュリー夫人、ヘレンケラー、宇宙飛行士テレシコワさん、などの女性偉人が「これがお姫様だ」と思うようになって、あこがれていった。

だいたい、そうして、現実に気が付いたときには、学校だけで(塾なしで)勉強がしっかり身についていて、クラスで一番の成績を取れるようになっていた。

その3、素直
私に仕事を教えてくれた人が言っていたのだが、やはり私は性格が素直なので、なんでもどんどん吸収する。
これは、大人になってから勉強した分がとても大きい。
本や新聞を読んで、勉強すると、乾いた砂が水を吸い込むように吸収する。
これは、性格がとても素直だからである。ということである。

その4、努力家
お姫様になりたかったときがそうであったように、目標を持つと、とても努力家である。
今でも、マフラーを編み始めると、最後まできちんと編み上げる。
通信教育を受けると、きちんと最後まで添削を受けて、必ず卒業する。
忍耐強く努力するところがある。

その5、能天気で失敗をおそれない。
親が甘いので、失敗してもそんなに怒られないで、フォローしてもらえる。
親の性格もアバウトなところがある。
親自身が「何事も試行錯誤でやればいいんだよ」と応援してくれるところがある。



2014年12月23日火曜日

ロシアと中東。

今、私は、ロシアの問題を考えている。
ロシアは、以前はソ連と呼ばれていた。
ソビエト連邦は、東欧や中央アジアを連邦国として、強大な帝国を構えていた、といっても過言ではない。
しかし、ゴルバチョフ率いるペレストロイカによって、その連邦制は崩れてしまった。

それでも、あれだけ広い国土を維持している。
もしもロシアが、さまざまな国と関係を結びたいと思うなら、中国側、ヨーロッパ側と、いくつもの選択肢があるはずである。
それなのに、黒海からバルト海、そして中東へと、ロシアからの道が伸びているのはなぜか。
それは、エネルギー問題ではないか、と私は思う。

中東には、豊かな石油資源、原油がある。
原油は、燃料になるだけでなく、プラスチック製品を造ったりすることもできる。

ロシアのエネルギー事情を、一度よく考察してみる必要があるように思う。
液化天然ガスもある、ということであるが、これは性質が原油とはまったくちがう。
また、とても気温の低い冬が、一年の半分以上続き、国民の生活に、燃料は欠かせない。
そのほかにも、火力発電などで、燃料は使うだろう。
その上に、経済的発展というと、エネルギー源、資源は、とても必要となってくる。

国土は広大であるが、一年の半分を冬として過ごすとなると、労働や都市化には向かないだろう。
資源の発掘にも、たいへんな時間と労力がかかると思われる。

また、港の問題もある。
ロシアの国土事情から、港は冬の間、凍りついてしまう。
貿易や国防に際して、夏は港を使えるが、冬はまったく使えない、ということである。
北海道の近くの北方領土は、ロシアの数少ない不凍港として、重要なのだそうである。
だから、日本側がどんなに折衝しても、ロシアがこの不凍港を手放すわけがない、と私は考えている。

ロシアは、ソ連時代と比べると、経済的に凋落してしまったと言えるかもしれない。
それは、温かい豊かな土地を、連邦制度に依存していたからではないだろうか。
ウクライナの穀物資源や、東欧の貿易、中央アジアの農業、というところではないかと思う。

ペレストロイカ以降のロシアが、経済の活路を、まず燃料エネルギーに求めて、もしかすると国民の凍死寸前の命をかけて、中東にその手を伸ばしているのではないか、と私は思う。


ロシアという国。

クリスマス寒波が来ている。
今年の冬もとても寒い。
この寒波は、シベリアから来るそうである。
私は北海道に住んでいたので、「晴れた日は気温がとても下がる」という認識があった。
晴れた日というのは、高気圧に覆われる日で、その高気圧というのは、シベリアから来る高気圧なので、シベリアの空気を連れてくるのである。
いったい、ロシアというのはどれほど寒いところなのか、といつも思う。

私にとってロシアは、北海道のお隣の国であり、ときどきラジオで、ロシア語の放送がよく入るし、ロシアとの漁業の取引もしていて、たまに街角でロシア人を見かけることもあった。
北海道の大学には、ロシア語学科もあって、ロシア語を学ぶことは、割合に普通のことだった。

私自身は、そういったことで、ロシアという国や人に対して、割合に好印象を持っている。
北海道と同じように、一年の半分は雪に閉ざされる国で、雪の上で橇遊びなどをして、同じように厚いコートを着て、雪の夜を楽しんでいるのではないか、と思う。

また、私は、トルストイの大ファンであるので、やはりロシアに対して、夢見るような憧憬の気持ちも持っている。
特に、トルストイの描く、北国の短い夏の印象は、とても素晴らしい。
トルストイの描くロシアやロシア人、ロシア気質というものは、人間的でとても素晴らしいものだと思う。
私自身も、トルストイ主義である、と自分で思いたいくらいであるが、トルストイ主義というのはもっと、高邁で高遠なところがあるので、なかなか追いつかない。

レーニンやスターリンが出てきたのは、第二次世界大戦のことだろうと思う。
これは、もともとのロシア気質やトルストイ主義とは、まったく別の主義主張である。
しかし私は、ロシアというところ、ロシアという国や人への、理解や親近感を持つことが、とても大事であるように思う。

トルストイを読めばわかる。
そこには、同じように人がいて、泣き、笑い、愛し、活動し、生きて、苦しんで、喜んでいる。
まずは、同じ人間である、と友好の気持ちを持つところから、すべてをスタートさせたほうが、よいのではないだろうか、と思う。


2014年12月22日月曜日

イスラム国とマララさん。

これまで、さまざまな社会問題について書いてきたが、これからは、もう一歩、視点を外に広げて、世界情勢について、よく学び、考え、書いていきたいと思う。
特に、アメリカが抱える、山積する問題について、考えていきたいと思う。
アメリカが抱える問題は、日本国が持つ問題とは、ずいぶんちがっているところがある。
たとえば、人種問題がそうであるし、地理的な問題、歴史的な問題がそうだろうと思う。
それは、日本で生まれ育った私には、経験も観点も、まったく異なる問題であるにちがいない。
経験がない、ということは、弱みにもなり、長所にもなりえるかもしれない。
新鮮な視点で、物事を捉えてみたいと思う。

ここ最近のニュースでは、世界情勢で一番気にかかることは、イスラム国という課題である。
今年に入ってから、いつの間にか、こうして中東にイスラム過激派が集まり、「国」を宣言してしまった。
そして、ここに、アメリカの宿敵であるタリバンが参入してしまった。

パキスタンでは、10月にノーベル平和賞を、ひとりの少女、マララ・ユフスザイさんが受賞した。
そして、12月にノルウェーで授賞式が行われた。
ノーベル平和賞の授賞式の時期を狙うかのように、パキスタンで、学校の子どもたちを相手取ったテロが実行された。

タリバンといえば、2001年9月11日のアメリカ同時多発テロを思い出す。
今や世界は「アメリカ対タリバン」と言っても過言ではないほど、ふたつに分かれて相争っているようだ。
また、タリバンの背景には、ロシアがついている、とも言われている。
東と西の対決である。
根は深い。
根本的な解決は、いったいどこにあるのだろうか。
これは、時間をかけて解決すべき課題である。
私も、じっくりと取り組んでみたいと思う。

根本的な解決とはまた別に、具体的なひとつひとつの例に関して、対応するべきことは、あると思う。
それは、マララさんと女性教育、という点である。
マララさんが訴える女性と子どもへの教育は、民主的であり、近代的である。
それに比べて、女性や子どもが教育を受けてはいけないというのは、時代と人間性に逆行する、旧習である。
この対立において、マララさんと女性教育が、勝利を収めなければならない。

私が思うのは、日本としても、マララさんの主張する教育に対して、何かの手助けができないだろうか、ということである。
マララさんは今現在、イギリスで保護されて、学校に通っているそうだ。
それはそれで、何か大きな団体に保護されている、ということだと思う。
もしかすると、非政府組織NGOと呼ばれるような団体かもしれない。

これらの、女性の人権保護、子どもたちへの教育の推進、第三国の発展の促進を思うボランティア団体を、日本からも、イギリスからも、アメリカからも、アジアからもヨーロッパからも、推薦して、組織だった、大きな活動形態にしてはどうか、と思う。
やわらかく言えば、世界中の女性たち、志ある人たちが手をとりあって、マララさんの活動を実際的に支援して、輪を造りたい、と思うのだ。
もちろん、私も参加したい。

その輪と団結と勢力を以て、マララさんの教育活動を推し進め、大きな勢力として、教育を拒否するタリバンと闘いたい、と思うのである。
マララさんの活動と目的が一日も早く、たくさんの人の手で成就することが、タリバンに対しての、唯一の勝利なのだと思う。

2014年12月21日日曜日

憲法改正は男の仕事。

かつて、明治維新、という時代があった。
あれは、時代ではなくて、変革そのものだったのか。
あるいは、歴史だったのか。
あるいは、駆け抜けた青年たちそのものだったのか。

アメリカからの黒船を前にして、男たちは、新しい時代、新しい日本を模索した。
ときには出会い、ときには語り合い、ときには畏れ、ときには、果し合いをした。
そうして、時代を作っていった。

明治維新という時代は結局、尊皇攘夷派と開国派に分かれていった。
攘夷とは、外国や外国からの文化を拒否する、という意味合いが強い。

今の日本と相通じるものがあるように思う。

時代の中で、男たちは、どのように選び、どのように生き、どのように死んでいったのか。
そして、どのように時代を造っていったのか。

私は、その男たち、青年たちの群像に、女性ながら、一歩でも二歩でも、参加したいと思った。
そして、友達であるか恋人であるか、そんなことは時代の波のなかでどうとでもなるような状況のなかで、言論を重ねていった。

けれども、やはり私は今は思う。
時代変革というのは、男の仕事である、と。

今の私は、激動とも激流ともいえる時代のなかで、ただただ、押し流されて引っ張られていくしかない。
とても、「参加」とは言えない状況である。

私は、この明治維新の時代の激動と変革から、離れることにした。
それは、私には、私自身にとって、一番思いがけないことだった。
けれども、潮流というものには逆らい難い。

憲法改正は、男の仕事である。
その仕事に、ひとことも、口をはさむまい、と思った。

これからも私は、ときおり、時代の波の下にある穏やかな生活を、ここに書いてくかもしれない。
けれども、憲法改正は男の仕事である。

遠くから近くから、見守っている。



連載・83 玉子焼き。

お料理エッセー・そら豆のひとりごと。

とかく物事は、極めれば極めるほど、シンプルになっていくような気がする。
職人技といわれるものも、極めた人の腕は、とてもシンプルである。
たとえば、大工さんが、木の枝を一本切る。
小さな子どもにはとてもむずかしいその一本の木が、大工さんにとっては、いとも簡単に、そして美しい動作なのである。

お料理にも、同じことがいえるように思う。
極めれば極めるほど、お料理はシンプルに素朴になっていく気がする。
たとえば、玉子焼きである。

小さな子どもが、初めて挑戦する料理が、玉子焼きかもしれない。
小さな手には、この玉子が、とても大きくて繊細に感じるのではないだろうか。
こわごわと掴み、こわごわと割る。
こわごわとかき混ぜて、そこまでで肩で息をつくほどの緊張である。

あるいは、今から料理を上達させたい、という若い奥さんがいる。
どんな玉子焼きを作ろうか、と思案する。
調べる。
試す。
あれやこれや、と調味料もお皿も付け合せも工夫する。

それでも、やはり、プロの料理人だったら、この玉子焼きを、きわめてシンプルに作るにちがいない、と思う。

なんの映画だったか、題名は忘れてしまったが、モノクロだったと思う。
男性の料理人が主人公であった。
すべての物語の終わりに、映画フィルムの長回しが行われる。
10分間くらいあったと思う。

料理人がキッチンに入ってきて、自分のランチをとるのであるが、そのときに、パンと、それから玉子焼きで、ランチをとるのである。
まずフライパンをとる。
火にかける。
オイルを注ぐ。
玉子を二個、片手で割る。
フォークでかきまぜる。
玉子焼きができる。
皿にすべらせる。

パンをかじりながら、この玉子焼きを、フォークでちぎって食べる。

料理人が作った玉子焼きの味が、物語のエピローグからよくわかった。
いつでも、いつまでも、どこか心の片隅で、この料理人の玉子焼きが、消えていかない。
きょうもできるだけシンプルな玉子焼きをめざして、なんだか悪戦苦闘しているのが、私のお料理エッセーである。


憲法改正には反対。

2014年12月14日。衆議院議員選挙が行われた。
それから一週間たった。
この選挙の結果に、いろいろなことを思う。
また、いろいろな人が、あちこちでこの選挙の結果について、討論したり分析したりしている。
それらの記事を読んでみる。

ここから先の安倍政権が目指すところは、憲法改正なのではないか、と誰もが思うところである。
与党だけで、三分の二の議席を獲得することができた、というのは、憲法改正が可能である、ということだ。

しかし、自民党に投票した国民の大半が、集団的自衛権で充分、と考えているのではないだろうか。
それは、中国やアジア情勢に関して、脅威を感じている人たちでさえ、憲法の拡大解釈だけで充分だと思っている、ということである。
今の自衛隊だけで、南シナ海は防げると、私も思う。

安倍政権は、戦争をしたがっているのではないだろうか。
どうも、夫婦仲がよくないトップは、戦争をしたがるので困る。
奥さんの安倍昭恵さんが、戦争や憲法改正に反対なので、それに対抗しようということではないだろうか。
以前、アメリカのブッシュ大統領も、ご夫婦仲が険悪で、外に向かって戦争を始めたものだ。
まったく夫婦仲というのは、やっかいである。

安倍総理大臣は、来年から三年間にわたって、大殺界に入る。
調子が良かったのも、ここまで、ということではないだろうか。
国内情勢も、傾きかけているように思う。
政権を失う前に、考え直したほうがよいのではないだろうか。



2014年12月20日土曜日

NHK「マッサン」第12週「冬来たりなば春遠からじ」感想。

今週は、本当に寒い一週間であった。
クリスマスも近く、冬至も近く、寒波がやってきていた。
その週の朝ドラの題名が「冬来たりなば春遠からじ」とは、本当に励まされる日本の名言である。

今週の「マッサン」は、先週から引き続き、エリーの不妊問題と、鴨居商店の長男英一郎が、話題の中心であった。
鴨居商店の「大将」ことカモキンは、やり手の商売上手であるが、そこの息子・英一郎は、ひねくれ度この上ない、頑固な青年である。
大将と英一郎は、父親とその息子の、絵に描いたような典型を表していて、「お母さん」をめぐって反発しあっている。

息子・英一郎は、やり手の父親が、家庭を犠牲にしたこと、特に病弱な母親を「見捨てた」ことが、どうしても許せなくて、怨念の塊になっている。
それでも、大商売人である父親に頭が上がらないという、屈折したところも持っている。
その英一郎を、政春・エリー夫妻に住み込みで預けて、なんとかこの曲がった根性を叩き直してやりたい、というのが、カモキンの願いである。

政春は、職場においては、国産初のウイスキー造りに取り組んでいるが、ここで英一郎という若い部下を育てることになる。
そして、自宅・プライベートにおいては、やはりこの若い部下を、ファミリーとして育てることになる。
自宅で育てるところで、妻のエリーも面倒をみることで、関わっている。

昔の会社ではこういうことがあったのだろうか、自宅に住み込みで、仕事とプライベートの面倒をみる、ということであるが、家庭教師の逆バージョンということになるかもしれない。
まだまだ若い青年を、住み込みで面倒を見る、それも上司からの命令であるから、たいへんなことである。
珍しいことであるともいえるかもしれない。

最高の良妻であるエリーは、この困難な仕事を引き受けることになる。
これは、夫の会社関係から頼まれたことであるから、夫の会社での仕事にも関わる、大事な職務であるにちがいない。

しかし、エリーの自然な態度は、まるで英一郎の母親のようになるらしい。
英一郎は、エリーが台所に立つ姿に、実の母親を投影する。
そして、親子関係の「やりなおし」をはかるようである。

ところで、私はここまで「マッサン」の感想を書いてきて、政春の人生から、「男のサクセスストーリー」を見出したい、と念願してきた。
でも、政春の仕事は遅々として進まず、先週から今週にかけて、ウイスキー造りが始まったところであるが、それでもやはり、政春が悩みそして、真摯に取り組んでいるのは、「家庭」なのである。
それに比べると、鴨井欣二郎の姿の方が、「サクセスストーリー」を体現しているように見えてならない。
成功した男の「悩み」というのは、家庭において、反発をくらう、息子がぐれる、ということらしいのだ。

もともと、家庭、家族というのは、それ独特のペースを持っているものだ。
妻であり女性であるひとりの人間の生きるペースが、すでに家庭というペースである。
それから、家庭というのはプライベートであるから、衣食住や睡眠、健康、ご近所や親戚の人間関係、というとても生物学的なところを含んでいる。

それに比べて、仕事のペースというのは、社会の決まりごとで動いている。
約束した期日には、仕事は間に合わせなければならない。
「この日に集まってください」と言ったことを、撤回することは、信用を失うことになる。
もともと、仕事のペースと家庭のペースとは、ずれてずれてずれまくっているところなのである。
その調整をすることは、とても困難であるだろう。

もちろん、仕事のペースと家庭のペースを、上手に棲み分けして、両立させられる人もいるだろう。
しかし、仕事メインで動くとなると、仕事は成功するかもしれないが、家庭は壊れてしまうかもしれない。
その、「仕事メインで家庭は壊れました」の姿が、鴨居欣二郎である。

ここで、エリーという、「家庭の女神」が現れる。
家庭の女神は、自分自身の家庭だけではなく、他者の家庭に対しても、そのご威光を発揮するようである。
「ご威光」というと、なんだかわからなくなってしまうが、ドラマのなかでは、「ラブ」という言葉が使われていた。

英一郎もまだ大学生の青年であり、鴨居欣二郎の息子であり、大人と子どもの、ちょうど端境期にいる存在である。
子どもは子どもとして、とても愛情を必要としている。
そして、まだ経験が少なくて、夫婦というものを、体験して理解することは、できていない。
家庭にもっともっとラブがほしかった、ラブが足りなくて、ひねくれてしまった、大人になりきれない、という状況だったのではないかと思う。

私は以前から思っていたけれども、子どもが大人になるときには、女性の存在が必要なのではないかということである。
それは、実の母親でなくとも構わない。
お姉さんや近所のおばちゃんであってもよいのかもしれない。
ともかく、女性だけが持っている愛情、というのが、子どもの成長の栄養素として、エネルギーとして、必要なのではないかということである。

今回、エリーが示したのは、心遣いであり、配慮であり、言葉でもあった。
でも、それ以上に、存在そのものであり、愛情深く包み込む、ということでもあったかもしれない。
もちろん、愛には、言葉や行動にすることが、必要である、ということも含めて、女性が女性であること、その存在意義を思うのである。

それにしても、このにぎやかなドラマは、たくさんの人々が現れる。
なんだか必要以上に演技力があるのに、なんだか無名で見たことも聞いたこともない女優さんが、たくさん現れるような気がする。
それも、劇団関係者の面白さなのだろうか。

これからも、にぎやかでしたたかな、このドラマに、期待していきたいと思う。
寒い。寒い。冬来たりなば、春遠からじ、である。

2014年12月13日土曜日

NHK「マッサン」第11週「子に過ぎたる宝なし」感想。

NHKの朝ドラ「マッサン」も、12月なかばとなった。
10月から始まった放送であるから、3か月目に入った、ということである。
「花子とアン」のときを考えてみると、4月・5月・6月と物語が続いてきて、7月には「花子とアン」の一番のクライマックスである「白蓮事件」が、起ころうとしているところである。
だから、半年間の朝ドラの、一番のクライマックスが3か月目から4か月目ということになるので、「マッサン」も今、半年間の一番の盛り上がりに入ろうとしているところである。
その盛り上がりのテーマが、ご夫婦のお子さん問題である。

お子さん問題といえば、このところは、「お子さん問題」と言葉を選ばなければならないほど、慎重で繊細な問題である。
世の中には、不妊医療やマタハラ問題で、裁判も起こっている。
また、子どもを授かったなら授かったなりに、お受験や、ママ友カーストも起こっている。
子どもがほしくても授からないご夫婦の悲しみ、というのも、クローズアップされている時期である。

もともと、現代がこうした課題を抱えていなくても、ご夫婦と子ども、という問題は、口にするにはタブーを含んでいることである。
それを、あえて直面して詳細に描くのは、ドラマとしてどうなのか、というところである。
白蓮事件なら、恋愛沙汰として、食事や酒の席でも笑って口にできることであるのだが、お子さん問題というと、どうなのか。
だが、そこを丹念に描きこむところに、この「マッサン」というドラマのクライマックスがある、ということなのである。

これから先の物語が、インターネットのホームページでもある程度、公開されているので、先を見越すことができる。
年明けの放送からは、北海道の余市で、本格的にウイスキー工場を作って、政春オリジナルのウイスキー造りを始めることになる。
その時期に、政春の母親であり、エリーにはお姑さんとなる早苗が、亡くなることになっている。
これは、早苗役を演じる泉ピン子さんが公言していたのだから、きっとまちがいないだろうと思う。
そのころに、政春とエリーは、養女を迎える。
この養女は、政春の実の姉の、子どもさんである。
その子を、北海道に迎えての、ファミリーとなって、物語が続いていく。

それなので、ご夫婦がどのようないきさつで、養女を迎えることになったのか、という点は、とても大事な話となる。
それを描いているのが、今週から来週、12月いっぱいにかけて、ということになるだろう。

ご夫婦の物語としては、お子さん問題に触れないわけにいかない。
たとえNHKだとしても、ご夫婦の寝室に大きなベッドがふたつ置かれていたとしても、なかなか触れられない問題だと思うが、そこをNHK朝ドラなりに、「人間として」という視点で、できるだけ追及して描こうとしているように思える。

それにしても、この「マッサン」というドラマは、とても濃く、人間関係が描かれているようである。
ご近所もそうであるが、親子とか、夫婦とかきょうだい、とか、血縁のある人間関係を、ある意味「ごみごみと」描いているように思える。

それは、日本初のウイスキー造りを成功させた男の物語、夫婦の物語としては、ピントが多少ずれているようにも思う。
だが、これも、脚本家の描き方であるから、どうこうは言えない。
脚本家の羽原大介氏は、つかこうへい劇団の出身だということだが、やはりここでどうしても「つかこうへい」という劇作家の影響を見て取れらないわけにいかない。

つかこうへい氏は、血縁の人間関係とそこから生じる人間の苦悩と憎しみ、愛情と親愛の情を描いた人であったように思う。
それが作風であり、テーマであったように思う。

そして、今週の「マッサン」にも出てきたセリフであるが、「私たちは一生懸命生きているのに、どうしてこんな辛い目に遭わなければならないのか?」これが、つかこうへいが乗り越えられなかった、一生の問題であったように、私には思える。
乗り越えられなかったのかどうかは、わからないが、もしかすると、「それでも笑って暮らそうよ」「人間、生きていればいいこともある」というのが、結論だったのかもしれない。

その、つか劇団の影響をもろに受けたのが、「マッサン」である、と言えるように思う。

しかし、日本初のウイスキー造りをした人の悩みは、血縁や人間関係や「私たちはまじめにやっているのに」という悩みでは、なかったのではないだろうか。
「ごま粒のようなひとり」ではなく、「きらきら輝く一等星」になるための苦闘が、そこにあったように思うのだ。
そのあたりで、この「マッサン」のドラマのクライマックスに、もう一工夫、ほしいところである。


2014年12月10日水曜日

期日前投票へ行ってきた!! ーーあと4日

選挙ウイークも、すでに最終週である。
きょうは、友達と待ち合わせをして、クリスマスのお買い物をしてきた。
そして、そのついでと言ってはなんだけれども、どちらが「ついで」ということなしに、衆議院議員選挙の期日前投票に行ってきた。

期日前投票の会場は、役所の建物のロビーの一角で、たくさんの人が集まっていて、次々に投票を行っていた。
役員のかたも、とてもきびきびして、手際よかった。
選挙葉書を持って行くと、そこに「誓約書」を書く欄があって、日付と名前(自著)それから、生年月日と、投票日当日に投票所に行けない理由を、選んで書くことになっている。
簡単な手続きである。
私は、14日当日は、家で用事があるので、夜は選挙の開票速報を見なければならないし、それで、きょうのうちに、期日前をすることにした。
投票する候補も、政党も、もうすでに心にピシッと、決めてあるから大丈夫。

街角にはクリスマスツリー。
金色のきらめき。
クリスマスソングもどこからか、たくさんの鈴の音が聞こえてくる。
ラストクリスマスがあり、サイレントナイトがあり、真っ赤なお鼻のトナカイさんの歌もある。
オルゴールで静かに流れている曲もあって、とてもロマンチックである。
ライトはすべてLEDになっていて、きらめきもとても美しい。
さすがは、今年のノーベル物理学賞である。
このLEDのクリスマスツリーが、世界中を照らしているのか、と思うと、本当に感動する。

雑貨店では、卓上で、小さなツリーを作れるものが販売されている。
ガラス製のツリーもあるし、紙を組み立ててつくるものもある。
白いワイヤーが三角塔になっているものに、サンタさんが登っているものもある。
雪の結晶の六角形の形に切り取った、赤いフェルトのオーナメントもあって、これは、きれいなチェーンにつながれていて、クリスタルのおもりもついているので、どうしても玄関に飾りたくなって、これを購入した。

それから、クリスマスプレゼント用に、きれいに箱に入った、小さなイヤリングやネックレスもある。
私は、クリスマスに会う友達のために、それをいくつか購入した。
店員さんも、いつも行く店なので、とても喜んでくれて、新しい商品を説明してくれる。
「どうぞ、ゆっくり店内を見ていってくださいね」と笑顔でとても親切である。
新製品のバッグやポーチもあり、どれもとてもかわいらしくて目移りする。
私は、お正月の福袋の予約をしようか、と思って迷う。
一応パンフレットはいただいてきた。
福袋というと、本当に中身が楽しみで、毎年、年末からウキウキしてしまう。

と思うと、街頭の大型テレビジョンでは、政見放送があって、候補者のガッツポーズが流れている。
政党のコマーシャルも、すっかり覚えてしまった。

選挙まであと数日。
素敵なクリスマス、素敵なお正月、素敵な選挙となりそうだ。
とても楽しかった!!


2014年12月6日土曜日

新しい時代への挑戦。

昨日12月5日。
アメリカのNASAが、無人宇宙船オリオンを発射した。
地球を二周して帰ってきたそうである。
いずれ、有人宇宙船を火星に送るための、試験飛行のようである。

遠く火星まで、いったい何年かかるのだろうか。
いずれにしても、人類的な挑戦になることは、まちがいない。
その宇宙船の原動力となるエネルギー源は、核だそうである。
核融合のエンジンを抱いているそうである。

新しい時代には、新しいエネルギーがある。
これから、核融合のエネルギーは、人類にとって、とても大切なものになってくるにちがいない。

かつて原始時代に、火を発見してそれを手にしたときには、有益な面と危険と二面性を持つ、とても怖いものだった。
今でも、火は怖いものにはちがいない。
けれども、人類の知恵と勇気は、それを手につかむことに成功して、文化的な生活を営んでいる。

これからの時代は、核エネルギーの安全な利用をしていく時代である。
だから、私は、原子力発電の再稼働に、賛成する。

今回の、衆議院議員選挙では、原発再稼働推進を自分自身の意見として、投票先を選びたいと思う。

次に、集団的自衛権という課題である。
私は、これからの日本の国造り、という意義を考えて、新しい日本のあり方を考えたいと思う。
それは、アメリカやヨーロッパと同じように、国防の軍隊を持つ国、というあり方である。

これから、ますます世界情勢のグローバル化が進んでくると思う。
グローバル化というのは、世界各地との人と人とのやりとりが、多くなる、という意味だと思う。
人も物も情報も、これまで以上に、多く、速く、やりとりをするようになるだろう。
そのときに、警察や裁判所のようなシステムが必要である。
それは、国防の軍隊と同じ意義を持つものだと思う。

日本は、いまだ体験したことがないけれども、国防軍を持つ国になるほうがよいと思う。
中国でも韓国でも北朝鮮でも、軍隊は持っている。
今の世界的世論や人権意識の向上した状況では、文化先進国がおいそれと戦争を起こすことは、できないと思う。
だから、日本が、簡単に戦争に向かうことはない。
日本は人権水準と文化水準の高い、先進国だからである。

アメリカやヨーロッパのような国になることは、新しい日本の時代を迎えることになる。
いまだ体験したことのない状況を、こわがることは、よくないと思う。
新しい自国のあり方に、挑戦してみたいと思う。
体験してみれば、きっと、欧米の人たちと同じように、それが常識となって、それが当たり前となって、きっと慣れると思う。
その「よい点」の利益を享受することもできるだろう。

それで、国防軍を持つ国、集団的自衛権を持つ国、という点を、自分の意見のなかに、持ちたいと思う。

これからの日本のあり方を思い、これからの新しい時代への挑戦を思い、今回の衆議院議員選挙では、大切な一票を、この意志のもとに、投票しようと思う。

NHK「マッサン」第10週「灯台下暗し」感想。

毎朝楽しみな「マッサン」も、もう2か月も見ていることになる。
このところは、すっかりキャラクターたちとお友達になってきた。
大好きなエリーも、日本語がとてもうまくなり、ときおり、英語もまざったセリフが、とても自然なかんじになってきた。
友達が言うには、このごろアドリブが多くなってきた、ということである。
私は演劇にはあまり詳しくないので、アドリブなのか、最初から脚本に書いてあったのか、よく見分けがつかない。
それくらい自然で、元気闊達なドラマ展開になっている。

今週は、いよいよ政春の仕事が始まった。
これまでにもいろいろな仕事はしてきたが、今度こそ本当に、ウイスキー造りの仕事である。
仕事に打ち込んで活き活きしている男の姿というのは、本当によいものだ。
妻のエリーもほっと一安心であるし、これまで支えて来てくれたご近所のご婦人たちも、心から喜んでくれている。
そして、広島の実家のほうでも、それは同じであるようだ。

職がなくて、とても辛い時代、まさに「辛抱の時代」もあったけれど、人生も世の中と同じく、いろいろなカラーに包まれた、「時代の色」というのが、あるのかもしれない。

エリーはご褒美として、家の改築をすることになる。
かまどをはずして、ガスを入れるし、ミシンもオルガンも買ってもらえる。
古い日本家屋だったものが、あちこちに大工さんの手を入れることになる。
これは、この時代が進歩してきたことを表すというよりも、やはり夫である政春の「稼ぎ」がよくなって、夫婦ともども、生活が向上してきたことを、表すものだろうと思う。
しかし、夫の政春は仕事で頭がいっぱいになり(男性にとっては幸せなことであるが)なかなか妻のエリーとの会話の時間がなくなる。
「男のサクセスストーリー」を考えるうえで、妻との会話の時間もなくなるほど仕事で頭がいっぱい、時間もいっぱい、というのは、実はとても大切なことである。
家のことはすべて妻に任せておけるのが一番いい。
そして、仕事だけに専念できる状況が、夫の仕事にとって、ベストな状況だと思う。

仕事を持つ人は、その仕事に専念したことがあれば体験しているだろうが、本当に仕事以外は見えなくなる。
家族の存在や言葉はもとより、食べ物の味もわからないし、趣味の道具もぼうっと眺めているだけになる。
聞いた話であるが、本当にフロー状態になるほどひとつの物事に専念すると、ほかのことは脳が排除してしまうらしい。
このくらい打ち込める仕事があれば、幸せである。
もし男性が、この状態になっていたら、妻としても女性としても、それを喜んで見守ってあげるべきかもしれない。

それで、エリーは、夫の政春に相談なしに、ご近所のご婦人たちと相談して、どんどん、家の改築を進めてしまう。
これは現代用語で言えば、リフォームである。
妻がリフォームに打ち込むようになると、夫婦仲がうまくいかなくなる、という説があるから、エリーも要注意状態になってきた。

エリーはエリーで、女性の幸せ、妻の幸せを構築中、というところであるが、こうしたときに、夫婦の仲に、溝ができやすいのではないだろうか?と思う。
それでも、時間を見つけて、ハイキングに出かけるところは、とてもよい。
自然のなかで、ふたりきりの時間を持てたのも、とてもよいシーンだった。

ここでエリーのリフォームの面白さを考えておきたい。
大工さんに日本家屋の造りというか、思想というものだろうか、思想というにはあまりにもおこがましいだろうか、それでも、日本の考え方というのを取り入れて、すべてをヨーロッパ式にしてしまわないところが、とても素晴らしいと思う。
日本に来たからには、日本の良さを取り入れたいという気持ちが、エリーというひとりの女性を日本で活かしてくれる根本姿勢となるのかもしれない。
また、こうした和洋折衷の家の改築は、エリーと政春の国際結婚を形にしたもの、とも呼べそうだ。
エリーと政春の、さまざまな挑戦が、新鮮である。
新鮮ではあるのだが、実際には、現代の世の中が、結局はどの家も、どのマンションも和洋折衷になっているのだから、この試行錯誤はのちの時代の人たちに受け継がれていく、新しい時代への格闘となるわけである。

新しい時代への格闘、といえば、政春と鴨居氏の、ウイスキー造りもそうである。
ウイスキーを造るということは、ウイスキーを好む日本人を作る、ということであり、日本にウイスキーを広めるということであり、新しい時代を作る、ということである。

いまだ、ウイスキーを知らない日本人に向って、世界レベルであるウイスキーの味を一口一口味わってもらう、そして、ウイスキーを日本のスタンダードにするのは、これは、単なる仕事の成功ではなくて、新しい時代を拓く、作る、ということなのである。
「いまだウイスキーを知らない日本人」というのは、心のなかに壁があるものだ、と思う。
「これまで日本人は日本酒だけを味わってきた。日本人なのだから、これからも日本酒で行くべきだ」という頑固で強固な考えである。
それは、過去を懐かしみ、古い時代に固執する、ある意味、悪い性癖のようなものである。
現代の日本にも、「和」を尊ぶことはよいことなのだが、そこに固執する方向性があるように思う。
そして、広く世界から飛び込んでくるものや、新しいもの、新しいライフスタイルに、なじもうとしない。
それは、「一口も味わったことがないもの」を、「新しいから」という理由だけで拒否しているのと同じではないだろうか。

鴨居氏も政春も、「一口も味わったことがない」「体験がない」という人々に、新しい味を一口一口、広げて行こうとしている。
それが、新しい時代を拓く、ということなのだと思う。
日本一の、日本で最初の、仕事をするには、人々の心の壁を崩して、新しい時代を実際に味わってもらうことが、必要なのである。
これは、壮大な夢の実現でもあるだろう。

時代は、誰が連れてくるもの、とも、誰が作るもの、ともはっきり言えないときもある。
政春が生きた、大正から昭和にかけての時期は、まさに時代が大きく変化しようとしていた時期であった。

政春と鴨居氏は、その新しい時代の息吹を体中で感じながら、新しい気風を日本中に広げようとしている。
それは、まさに、古い時代との格闘である。

政春の「男のサクセスストーリー」は、こうして、古い時代との戦いをして、勝って、新しい、いまだかつてない時代を構築することなのだ、と思う。


2014年12月4日木曜日

仁義ある戦い。ーーあと10日。

寒風が吹きすさぶ日本列島に、任侠二大巨匠が去った。
そして、今ふたたび、熱い戦いが始まる。

私の育った群馬県では、「正義」よりも「仁義」が重んじられる気風があった。
おばあちゃんでさえ、漬物石の置き方ひとつでも「そりゃあ、仁義ってものが通らないじゃないのよ!」と怒ったりしたものである。

2014年冬の頂上決戦である衆議院選挙は、おととい火曜日に公示があった。
再来週の日曜日が、投票日である。
序盤の戦況報告では、自民党が300議席を獲得するばかりの圧勝、ということである。
自公連立政権は、本物だ。やはり強い。

今回の仁義ある戦いでは、本来は集団的自衛権と反原発が、争点であったはずである。
というか、集団的自衛権や国際情勢がよく理解できない人々が、フンマンやるかたない状況なので、いっぺん選挙をしてみて、国民の総意で、これを再度確認いたしましょう、という「念のため選挙」であったはずだ。

それが、あれほど教えたのにも関わらず、「緑の党」は、結成されないし、反原発や反集団的自衛権を表から訴えた候補も出ない。
なにしろ、一番騒いでいる女性たちが、女性候補を立てないのだから、これはもう弱腰、ヤル気なし、と高をくくっていた。

ところが、である。
彼女たちは、始めていたのである。
何か。
名付けて「沖縄的なんでもかんでも作戦」である。

考えてみれば確かに、沖縄の知事選挙では、知事の任務をまっとうする政治的能力がなさそうな候補に、たくさんの票が集まった。
これは、党派を越えて、「自民党じゃいやだ」というアンチ勢力が集まった結果である。
これを、日本列島全域で行おう、という作戦らしい。

昨夜、「さよなら安倍政権」というサイトが登場した。
ツイッター上で、あっというまに拡散している。
よくできたサイトで、12月2日に公示された情報だが、立候補の届け出が終わってすぐに、100人体制で作ったものじゃないか、と推測される。
まるで、新聞社やテレビ局の開票速報サイトのように、詳しくて完璧な出来栄えである。
よくできているのは、「反原発」も「集団的自衛権」も、一文字も記されていないところからもよくわかる。

これで、主義も主張も特にない、ただ単にいつも常に、政権に対しても自分の人生に対しても不満しかない、そういった人たちが、アンチで集結するだろう、というのが、この「沖縄的なんでもかんでも作戦」の首謀者のはかりごとであるらしい。

選挙戦がますます、面白くなってきた。
楽しい試合、わくわくする試合を、楽しみに観戦している。


2014年12月1日月曜日

連載・82 チーズトースト

お料理エッセー・そら豆のひとりごと。

師走となった。
なぜ忙しいのかわからないが、時がスピードを上げて、走り去っていくかんじがする。
年末の用件を、紙に書きだしてみる。
年賀状書き、クリスマスの予約、おせちの昆布巻き、大掃除、お歳暮の発送…。
今年はできるだけ簡素に、用件も少なく済ませよう、と思うのに、まだまだたくさん、メモ帳が足りない。
最近では、奥さまがたも考えて、12月にはいったら、一日一用件、ということで、手際よく着々とすべての用件を片づけて行こう、というカレンダーまで販売されている。

その用件の合間、合間に、クリスマスパーティがあって、冬休みがあって、「楽しまなければならない」気持ちにもなる。
できれば、ゆっくりとした年の暮を迎えたいものだ、と思いながら、やはりあわただしく立ち上がっては、手を動かしている。

忙しい年末は、おなかが空いておやつにしたい、というときがある。
あるいは、ちょっとした手間でランチを済ませたいときもある。
そうしたときに役立つのが、チーズトーストである。

私も、お昼を簡単に済ませて午後の仕事に入りたいときには、このチーズトーストを作る。
チーズとケチャップの独特な濃さと、トーストのサクッとした軽さが、素敵なバランスである。

市販のスライスチーズは、いったい誰が考え出したのか、「食パンの大きさで、薄くなっているチーズがあったらいいな」と、おそらく「みんなが」思っていた時期に、発売されて、あっという間に広がったかんじがする。
サンドイッチにするなら、ふつうのプロセスチーズでOKだが、チーズトーストにするなら、ぜったいにおすすめなのが、「とろけるチーズ」である。
トースターの熱で、溶けるのである。
ちなみに、「溶けない」タイプのふつうのチーズでも試したことがある。
これはこれで、いけないことはない。
でも、プロセスチーズというのは、やはり熱では、とろーりと伸びるような溶け方はしないようである。

食パンにケチャップを薄く塗り、好きな人はもっとたくさん塗り、その上に、とろけるスライスチーズを乗せる。
オーブントースターで、これをトーストする。
トースターの機種によってもちがうが、だいたい3分くらいだろうか。
この3分を待つ間に、コーヒーをいれておくのも一案である。
できればカフェオレがいい。

あつあつで、サクサクのところを、いただく。

今年はいつもにも増して、あわただしい年末となりそうである。
お母さんやお姉さんに頼むよりも、ちょっと自分で、トースターにパンを乗せてみるのもいいんじゃないだろうか。
パンが焦げてくる香りをかぎながら、背伸びして肩を回してみるのも、それもそれで、とてもいい師走である。



2014年11月29日土曜日

金メダリストには金メダリストの生き方がある。

きょう、フィギュアスケートを観ていた。
NHK杯である。
男子フィギュアスケートでは、以前から応援していた羽生結弦選手を、今年も応援していたのだが、入賞を逃して4位となった。

私は、羽生選手が、先月、中国の大会で怪我をしたことを知っていた。
それから、今回のフリーのプログラム、「オペラ座の怪人」は、誰のどんなスケートよりも、素晴らしかった。
だから、4位という結果がとても悔しく思った。

でも、「男の子っていいな」って、思った。
日本の男子スケート界には、あとからあとから、すごい選手が沸き立つように生まれてくる。
昨年のソチ五輪の選考のときに、調子がよくなかったという、村上選手も、無良選手も、どんどん、どんどん、自由に演技をしていった。

日本人でも、若くても、できる、と羽生選手が教えてくれた。
羽生結弦さんが、ソチオリンピックで金メダリストになったことで、「わたしにもできる」「自分でもやればできる」という自信が、たくさんの人たちに、金色の贈りものになった、舞い降りてきた。

羽生選手は今、以前とはちがう、という何かちがうもっとこれまでとはちがう、苦悩があるのではないかと思う。
それは、金メダリストとして生きる、という苦しみなのではないか、と思う。
それは、苦しみかもしれないし、役割かもしれない。
試練かもしれないし、使命かもしれない。

金メダリストと同じ、NHK杯で、同じスケートリンクに立つことができた、ということそれだけでも、他の選手にとっては、大きな喜びになることだろう。
羽生選手に、追いつけ、追い越せで、熱烈で執拗なライバル心を持っていることだろう。
そのライバル心は、向上心でもあり、自信でもある。

国際大会となり、世界が舞台となれば、政治も絡んでくることだって、あるかもしれない。
羽生選手は、自分が最高の演技をしたのに、時には認められなかったり、時には他の選手にチャンスが与えられたり、時には、嫉妬や憎しみや闘争心の的にならなければならない、そういう状況になった。
それが、金メダリストの立ち位置なのだ、と思う。

金メダリストが築いた、日本の男子スケート界のレベル、というものは、確固としてこれからも存在するのに、金メダリストが築いた基盤の上で、後輩たちが、熱気のもとで、競い合ってスケーティングをするのである。

金メダリスト、という生き方を、これから、新しい課題として、生きてほしい、と思う。
金メダリスト、という試練を、見事に勝ち抜いて、誰よりも誰よりも、強く華麗に、生きてほしい、と思う。


NHK「マッサン」第9週「虎穴に入らずんば虎児を得ず」感想。

マッサン、鴨居の大将と一緒にウイスキー造りをする!
なかなか動きの起こらない「マッサン」であった。
今回の朝ドラの、重要だと思われる視聴者に、お酒好きな男性陣がいる。
彼らは、朝ドラは「女子どもの観るもの」と知ってはいるのだけれども、その世界に飛び込む理由として、「酒好き」を看板にしている。
いつも楽しんでいるウイスキーが、どのように作られているのか。
日本で初めて作られたウイスキーにはのはどんな歴史があったのか。
サントリーとニッカの関係はいかに。
どっちのウイスキーをこれから愛好して行こうかどうか。
いかにお酒のうんちくを語ろうか。
…というところである。

しかし、物語は、政春とエリーの夫婦ものとなり、嫁と姑のドタバタ劇になったり、揺れているようである。

特に今週は、私は、男のサクセスストーリーとして、政春がどんなふうに、無職・夢職から、頭一つ抜けていくのか、というポイントを興味深く観ていた。

そして、「なるほど、そうなのね!」と本当に心から合点がいった、というかんじである。
それというのも、楽しい金曜ロードショーがあり、先日亡くなった高倉健さんを偲んで、「幸福の黄色いハンカチ」が放送され、私も手にハンカチを握りしめて、観ていたからである。

「幸福の黄色いハンカチ」は、子どものころ、北海道の地元映画として、観た。
その後、名作となり、何度もテレビで放送されていて、そのたびに観ている。
映画というのは不思議なもので、年齢や経験を重ねると、また視点がちがって見えたりする。
今回、見終えたあとに夜も眠れずに考えたのは、「3人の関係」というところであった。

ロードムービーであり、一台の車に何名かが乗り合わせて、その旅がストーリーになっている。
3人の出会いがあり、言葉があり、昼があって夜があって、心が少しずつ変化していく。

健さんの心が次第に開いていき、人生を語り始め、黄色いハンカチのいきさつを話して協力してもらうまでに、あるいは、健さんが夕張に行こうか行くまいか、この心の葛藤を乗り越えるために、とても重要だったのは、なにか。
男性2名、女性1名、というメンバー構成の「女性1名」というところではなかったか、と思った。
桃井かおりが演じる「朱美」という若い女性が、健さん演じる、刑務所帰りの無骨な男と、武田鉄矢演じる東京から来たふられた若い男性・欽ちゃんを、つなぐ役割をしているようである。

物語当初は、このぼんやりした内気ではっきりしない朱美という若い女性の存在が、わずらわしくも感じたものだが、だんだんと、朱美の役割の重要度を、感じるようになった。

男二人だけであったなら、なかなかできなかっただろうことを、朱美が、橋渡しをしているのである。
朱美は、時にはでしゃばらずに黙っている。
そして、時にはでしゃばりすぎるほどに、いろいろな行動を起こす。

この、「女のでしゃばり」が、男性たちの間には、とても大切で必要な、女性の役割であるように思えたのだ。

話を「マッサン」に戻せば、商売万歳の鴨居氏と、夢見る技術屋・政春の橋渡しをしたのが、エリーだった、というわけである。

確かに、それぞれ力もあり個性もある男性を、結びつけるのは、女性の役割であるのかもしれない。
この、エリーという妻に恵まれたので、政春は、「そのほかおおぜい」の夢見る失業者から、頭ひとつ抜け出せた、というわけである。

でも、どうしたら、こんなよい妻に恵まれるのだろう?
エリーや朱美の橋渡しは、天性の女性のおせっかい、というものだろうし、さじ加減の必要なものである。
こんなよい女性に恵まれたのは、政春の幸せ、というものなのかもしれない。

サクセスストーリーは、まだまだ先が長い。
女性の役割、というものも、考えさせられる、一週間であった。


2014年11月24日月曜日

NHK「マッサン」成功への道筋。大事な課題。

マッサン、成功への道筋。大事な課題。
NHKの朝ドラ「マッサン」を見ていて、これから描かれる場面で、とても注目している箇所がある。
それは、どのようにして、マッサンが、成功への第一歩を踏み出したのか、ということである。
夢はあるけれど、叶わない、実現できない、という人はおおぜいいる。
夢を優先させるために、好きなことをして生きていきたいがために、いわゆる「貧乏暮し」を余儀なくされる人も多いだろう。
しかし、そういった人たちは、ある意味で「その他おおぜい」である。
政春は、「その他おおぜい」から、一歩抜きんでるための、何か、をしたはずである。
あるいは、「その他おおぜい」では、おさまらなかった、何らかの特別な性格を、生まれつき持っていたのかもしれない。

「貧乏暮し」を楽しむことや、そうした生活を描ける人はたくさんいるかもしれないが、果たして今回のドラマでは、サクセスする人だけが持っている「何か」が、描けるのだろうか?

たとえば、これから、鴨居商店に頭を下げて、一緒にウイスキーを造らせてください、と言わなければならない場面である。
しかし、鴨居氏の、「やり方」というものが、政春には不満のことこの上ない。
商売のために、売れればいいのか、という疑問である。

作家や芸術家も、「売れればいいのか?」という疑問に突き当たることがある。
そして、自分の納得するもの、純粋な理想のものだけを作りたい、と思うこともある。
しかし、商売というのは、お客さんあってのもの、買ってくれる人あってのもの、という鴨居氏の理論も、大いにうなづけるところがある。

スコットランドでは当たり前の、「本物の」ウイスキーは、日本人の口には合わないのではないか、と鴨居氏は思う。
そして、まずは、日本人に向けて、初歩の初歩から、飲み口に柔らかい、炭酸で薄めたウイスキーを紹介しようとする。
これはこれで、日本人や日本のお客さんに向けて、とても親切な手法である。

しかし、政春は、純粋理論のほうに固執してしまうようだ。
頑固といってしまえばそれはそれで、どこか褒め言葉のようでもあるが、実はそれは、「素直さが足りない」「謙虚さが足りない」という意味でもある。
まだ、若くて、仕事も駆け出しである。
自論はともかくとして、先輩に学ぶ素直さ、というものは必要ではないだろうか。

それができないので、夢が夢で終わってしまう人は、多いのではないだろうか。
純粋理論を追いかけるのもいい。
しかし、飲んでくれる人あっての、ウイスキー造りであることを、政春が気が付くかどうか、である。


NHK「マッサン」第8週「絵に描いた餅」感想。

今週の「マッサン」は、住吉酒造を退職した政春が、次の就職先を見つけられず、ウイスキー造りの夢に一歩も近づけず、足踏みしている状況の続きである。
「夢を追う」「夢を実現する」というのは、こんなにも困難が多いのだろうか。
夢が大きければ大きいほど、困難も大きく牙をむいてくるようにも感じる。
政春のところに、広島の実家から、「チチキトク」という電報が入るが、これは、母・早苗のお芝居であった。
母・早苗は、どうしても政春を実家に呼び寄せて、酒造りの跡を継がせたいようである。
また、エリーとの結婚も、いまだ反対でいて、半年もすれば熱が冷めるだろう、と期待しているくちである。

それにしても、今週のストーリー展開は、広島へと舞台が飛んで、「嫁姑問題」となり、ドラマを盛り上げるための、一週間だったように思える。
それでも、やはり、政春の目標の実現、「男のサクセスストーリー」に関しては、考えさせられる問題が、とてもたくさん描かれていたと思う。

嫁と姑の問題は、平安時代にも、清少納言が「めずらしきもの、姑に好かれる嫁」と断言していたくらいで、とてもむずかしい問題のようである。

私自身は、実体験がないので、想像してみるしかないのだが、実体験のある人にとっては、とても反響の多いシーンであるようだ。

母親の気持ちになってみれば、おなかを痛めて産んだ子どもであり、手塩にかけて育てた息子である。
その息子が、自立した証拠であるにはちがいないが、自分の力で、唐突に、「お嫁さん」を連れてくる。
これは、母にとっては、ひとつの大きな裏切りに近いものがあるのかもしれない。
また、なぜかはわからないが、母親にとっては、長男よりも、次男のほうが、すごくかわいいようである。
ずっと昔の日本やアジアの風習では、年老いた両親は、父親の面倒は長男が見る、母親の面倒は次男が見る、と決まっていたらしい。

母にとっては、父親である夫と、長男、長女、次男、次女、と、それで長い間、家庭を築いて維持してきたものが、そこへ突然、他人のお嫁さんが「家族です」として入ってくるのだから、困惑もたいへんなものだろう、と思う。
女性同志にも、小さい社会であっても、リーダー格の女性もいれば、サブリーダーとなる女性もいる。
また、現在、とても問題になっているとおり、「ママ友カースト」という人間関係の上下もある。
嫁と姑といえば、小さな社会のなかで出来上がっていたカーストのなかに、「嫁」が、突然入ってきて、居所を作る、ということであり、ボスであった姑の座をめぐって、激しい下剋上が繰り広げられる、ということだろうか。

特に、男性が女性カーストのなかで中心核となる場合も多いのかもしれない。
政春の「最愛」は誰ですか?みたいなかんじである。
これまで政春の「最愛」は、母・早苗であったのに、そこへ嫁のエリーが割り込んだ形である。

そこを、工夫する知恵はいろいろあるのだろう、と思う。
そういうことは、先達に学ぶのが一番よいのかもしれない。
ただ、エリーはこうしていた、と思うのだが、「ママはマッサンを愛している」というのである。
愛する夫を育んだ母親に対する、尊敬と愛情の思いが、いつもあるように思う。
夫を愛しているから、夫を育てた母をも愛する、というふうに自然につながっていくのではないか、と思う。

男のサクセスストーリーということで言えば、基盤となる家庭が、仲間割れをしていたり、常に争っていたりするのでは、なかなか仕事に打ち込めないのではないか、と思う。
豊臣秀吉のところでは、母親とお嫁さんが、秀吉を立派にしてあげようと、力を合わせて奔走したそうである。
嫁と姑は、真ん中にはいる男性に「どっちの味方なのよ!」と言わんばかりのところもあるのかもしれないが、嫁姑ができるだけ力を合わせて仲良くすることが、男性をサクセスに導くための、大きなエネルギーになるのではないか、と思う。

それにしても、今週の「マッサン」は、編み物好きな私としては、政春の茶色のセーターも、エリーの草色のカーディガンも、とても興味があって、どうしてもその模様編みに、目が行ってしまうのであった。
政春の着ていたセーターは、ガーンジー模様であると思う。
スコットランド地方では、ああいった模様が伝統的に編まれていたのかもしれない。
エリーが編んであげたものなのかどうか、とても気になるところであった。
愛する人のために、その人を温めるセーターを編む季節になった。
元気なドラマが、心と身体をぽかぽかにしてくれる。



2014年11月15日土曜日

NHK「マッサン」第7週「触らぬ神に祟りなし」感想。

大好きな、朝の連続テレビ小説「マッサン」も、放送が11月になった。
後期の朝ドラは、秋から冬そして春までの長い期間になる。
見ているほうとしては、あわただしい年末、寒い冬の支度、お正月、年明け、年度末、子どもたちの卒業シーズンと、人生の動きが忙しい季節である。
「マッサン」が始まったころはまだ、紅葉も始まったばかりだったのに、今は寒風が吹き始めている。
「巣ごもり」のリビングに、楽しいドラマ、これもまた、冬の風物詩のようだ。

今週の「マッサン」は、政春の仕事はどうなったのやら、エリーも仕事を見つけるはずがどうなったのやら、よその家のことに、まさに首をつっこんでの、大騒動である。
政春とエリーは、家賃が払えず、やむなく家主のところに行って直接話をすることになる。
その家主は、野々村さん、という資産家風の大きな家であった。
ここの子どもたち、幼い娘ふたりに、英語を教えてあげれば、家賃は待ってもらえる、という話がまとまる。
エリーは、英語教師という職に就くことになった、という状況である。
お給料は、家賃と差引、ということで、時給いくらなのか、はっきりとは決めないようだ。

政春のほうは、「こひのぼり」という居酒屋、一杯飲み屋で、皿洗いのアルバイトをしている。
この皿洗いのほうは、一応は安定しているようである。
それでも政春は、ウイスキーの夢はあきらめていない。
なんとか、自分で資金を作って、ウイスキーづくりをしよう、と基礎の基礎から始めるようだ。
皿洗いのアルバイトが安定したところで、次の「一攫千金」になる仕事を模索し始める。
それが、パンを焼いて売る、という仕事である。
庭に、パン焼き釜を、レンガを積み立てるところから、始めている。

どうも政春には、こうして自分の手で何かを作って、それも口に入れるものを作って売る、という職業に目が向くようである。
パンは発酵食品であるから、ウイスキーとも作り方が共通するところがあるのだろう。

こうして、酒造会社を辞めてから、ある程度、家賃も食費も安定したところで、次の段階に取り掛かっている状況であるが、男のサクセスストーリーを考えると、まだまだ始まったばかり、というところである。

ところで、今週の、エリーと政春には、英語会話教師の仕事がらみで、小さな子どもたちがご夫婦の間に、いろいろな形で入ってくることになる。
あらかじめ知っておきたいのだが、このご夫婦は、モデルとなったご夫婦も、子どもさんには恵まれなかったようだ。
しかし、人間は大人になっていく過程で、夫婦としても、社会人としても、いろいろな形で、小さな子どもたちとの関わりは、持つものだろう。
そして、エリーの母性や、養育者としての力、女性的魅力も引き立つところである。

また、政春としても、仕事の大成だけではなく、あるいはそのためにも、今は人間的な力を養っている時期だ、と言える。
新婚で日本に来てから、まだ一年も経っていない時期で、仕事の基礎となる家族関係を、築いている状況なのだろう、と思う。

考えてみれば、仕事の成功も、人生の充実も、家族なしでは語れない。
いずれ仕事が忙しくなれば、省みる時間も少なくなってしまうのが、家族なのだろう。
今、時間のある時に、若いときに、家族という基礎を築くのはよいことであり、必要なことなのだろう、と思う。

そしてまた、考えさせられるのは、結婚というのは、「ふたりだけ」でするものではない、ということである。
ともすれば、結婚のときには、夫婦ふたりだけの世界を作りたいものかもしれない。近年では、そうした傾向がとても強くなっているように思える。

しかし、エリーと政春を見ていると、ご近所の別嬪同盟の皆さまや、英語教師の生徒や、仕事仲間、飲み屋の仲間、とたくさんの人々のネットワークのなかで、夫婦という一組の組み合わせが、居場所を得ているように思える。

年長の人や、年下の人たちとの、密接な関わり、時には親しみを越えた関わりが、人の心を開いていくようにも思えた。
「触らぬ神」というのは、人の心の、踏み込んではいけない領域なのかもしれない。
その場所に踏み込んでいく力が、エリーにはあるのかもしれない。
ときには、それは、必要なものだ、と思えた一週間だった。


2014年11月14日金曜日

動物愛護の風潮について思う。

ここ数年、というべきだろうか、動物愛護の風潮が、とても大きくなった、と思う。
主に、インターネットで、感じることである。
ツイッターで、「迷い犬」「捨て猫」などが、多くの人にいわゆる「拡散」をされて、「誰か飼ってくれる人はいませんか」と、情報として多く共有されている。
また、自宅のペットの猫や時には小鳥やちょっと変わった動物などを、写真や動画でインターネット上にアップしている人もいる。
全体的に「かわいい」と好評である。

そして、迷い犬や捨て猫などが、保健所で殺処分になることが、とても大きく取り合上げられている。
「かわいそう」ということなのだろうか。

私は、子どものときから、子どもなりの自然な気持ちで、雨の日に鳴いている子猫などを、拾ってくるような子どもだった。
そして、大人になって、農業や生物を専門とする大学に進んだ。

けれども、「現実」というものは、「かわいそう」だけでは、済まされないものだ。

保健所に務めることになった、友達の獣医師がいるが、その人の仕事は、野良犬や捨て犬などで、保健所に集まってきた犬や猫を、検査して、殺処分することだという。

もともと、保健所が、飼い主のいない、犬や猫を集めるようになったのは、大きな理由がある。
かつての日本は、昭和初期や大戦のころなどは、たくさんの野良犬がいた。
東京の街にも、野良犬が群れを成して走り回ったり、人に危害を加えていたそうである。
また、野良犬や野良猫は、ごみをあさったり、どぶ川を泳いだりする。
不衛生なことはこの上ない。
さまざまな病原菌の媒体となっている。

私は、ツイッター上で、小鳥を食事の皿に載せているような写真を見ても、危険だと思うのだが、動物はたとえ、ペットとして飼育されていても、たくさんの病原菌を持っているものである。

だから、街の治安と衛生を守るために、野良犬や野良猫、ほかの野生の動物たちに関する対策は、どうしても必要なのである。

私たちが大学で教えられたのは、「人間のための動物である」ということである。
人間の生活を侵害してまで、動物を大切に生かす、ということは、あってはいけないと厳しく教えられた。
だから、現在の獣医師も、病気になった動物を、「治す」「生かす」という方向で医療も研究もしていない。
できるだけ早く、「人間に伝染する」病原菌を見つけて、感染が広がるまえに、察処分することが、獣医師の仕事である。

動物や植物を、どのように、人間の生活を向上させるために、使っていけるか、ということが、農業、生物、獣医学の、基本理念なのである。

その上で、生命への愛情と態度を見に着けていくのが、私たち学生の四年間であった。

「かわいそう」だけでは済まされない現実がある。
猫も犬も、ほうっておけばどんどん増えてしまう。
猫や犬に、あるいは馬に、どれだけお金を使えるか?
公的な税金を使うことができるか?

このところ、子どもたちの純粋な心が、インターネットを通じて、世間中に伝播して、人々が博愛主義になってしまっているような気がする。
人の生活もままならないような世の中で、どうやって猫の健康を守るのか。
課題にもなりえない話題であった。


それにしても、このごろの人間は、動物に対して、「かわいい」と思うようになったのだろうか?と思うと、そのあたりも不思議な気がする。
私の祖母は、田舎の大きな農家の家に暮らしていたのだが、窓も戸もなにしろ農家、という状況で、猫だって、どこから、誰が飼い主ともわからない状況の猫たちが入ってきたものだった。
そういう台所で魚を焼くと、あっと言う間に猫がさらって行ってしまうので、祖母にとって、猫は「にっくき存在」であった。
かの「サザエさん」にだって、「お魚くわえたドラ猫」と歌われている。

もっと時代が昔だったころは、家には、猫もいて、犬もいて、にわとりもいて、つばめの巣があって、牛も飼っていた。
そういう時代には、猫は「かわいいペット」ではなかったと思う。
私が何軒か訪れた農家でも、猫の扱いは、「いつの間にか住み着いている」「にっくき」「しかたない」「同居人」「まだいた」「油断大敵」という相手だった。

動物に対する態度や気持ち、一緒にいるときの、「暮らし方」が、変化しているのかもしれない。


2014年11月13日木曜日

「政治的である」ということ。

たとえば、社交的である人が、妬まれたりする。
礼儀に厚い人が、憎まれたりする。
そっけないほど「虚礼廃止主義」の人が、結局のところ、どんな味方も付けられなかったりもする。
世の中は、人間関係がすべてである、といっても過言ではないかもしれない。

たとえば、サッカーの試合がある。
たとえば、プロ野球の試合がある。
厳正なルールに則った上で、戦う。

戦う以上は、なんらかの戦略がある。
監督がいて、選手がいる。

サッカーであれば、フォーメーションであったり、選抜選手であったり、選手交代であったりもする。
右の脇から、小さなパスをつないでいく、というのも戦略であるし、大きなボールを遠くまで飛ばして、そこに決まった選手が立っている、というのも、戦略である。

この戦略が上手いか、そうでないかで、サッカー監督の腕が決まる。
上手い監督もいるし、なかなか勝てない監督もいる。

野球であれば、ランナーを一人、一塁に出しておいてから、次の選手はバントを決める、という戦略もある。
これは、野球の戦略としては、比較的、基本の戦略である。
ふたりめの選手はバントでアウトになるが、一塁に出ていたランナーは二塁まで進むことができる。
チームの利益になるのだから、うらみっこなしである。

ここには、ひとりひとりの個人プレーではなく、団体であったり、チームであったりするところの、大きな規模のプレーがある。
ひとり以上の人が集まって、何かを成し遂げようとするときに、必要なものは、ルールと戦略である。

とかく人はイメージから、「戦略」や「策略」という言葉自体を嫌ってしまう。
しかし、策士というのは、子どもたちのゲームを見ていてわかるとおり、誰もが提督になりたいし、誰もが高名な策士になりたがるものだ。
人が集まる集合体には、なくてはならない存在なのだ。
戦略を練って練って勝ち進んだのは、織田信長であっただろうか。
信長をテーマにしたゲームも、とても人気である。

人が集まって何かをする以上は、戦略はあってしかるべきだ。
戦略もなければ策士もない、だから、烏合の衆になってしまう。
結局は個人プレーであったり、個人の名誉だけが浮いてしまうものである。

選挙は、ルールに則って、たくさんの人が、「勝ち」を目指して戦うものである。
だから、「選挙戦」という。
誰もが公平なルールに則って、声を枯らし、意見表明をして、勝ちに行くわけである。
政党となりチームとなれば、優秀な策士のもとで働く人たちが、物事を成し遂げることもできるし、「勝てる」というわけである。
「勝てる」策士のもとで、働きたいものではないか。

机の上の片づけひとつにしても、「段取り八分」と言われる。
段取りとはすなわち、戦略ではないか。

烏合の衆には、提督となる策士が必要である。
さて、誰が、「自分が」と手を挙げるのか。
もし、誰もその人がいないとなれば、選手ひとりひとりが、どんなに優秀であっても、意見が正しくても、やはり、メダカの学校である。


2014年11月12日水曜日

地球環境問題・緑が好きな人たち。

世の中には、環境問題で、深刻に頭を悩ませている人がいる。
自分の人生もままならないのに、なぜ、地球規模の環境問題をそんなに気にしているのか、はたから見ると全然わからないところがある。
人間が息をするときにさえ、二酸化炭素は排出されている。
人口を減らしたら地球環境を守れるだろうか。

原子力発電をしない、というのなら、火力発電に頼るほかないだろうが、火力発電は、多量の二酸化炭素・温室効果ガスを、大気中に排出する。
地球規模の環境問題に頭を悩ます人は、まるで、迷路のなかに、進んで入ろうとしているかのようである。
自分で自分の頭をこんがらかすことに一生懸命であるかのようだ。
自己否定、人間の存在の否定ともなりかねない。

こうした人は、自宅にあっても、洗濯洗剤にエコを使い、ごみを少なくしたり分別したりすることに、時間と命を削っている。
それで本当に、活き活きと生きていられるのだろうか。

20数年前であるが、環境問題が起こった時に、環境活動家たちは、大人に教えても全然実行に移さないので、子どもたちに教えることにしたそうである。
未来ある子どもたちに、ずいぶんな負荷をかけてしまったようだ。
その当時の子どもたちが、今、大人になっていて、自分が使うお箸ひとつにしても、森林資源のことに心を痛めながら生きているのだろう、と思うと、人間のための自然なのか、自然のための人間なのか、わからなくなってくる。

よく、「お金に使われるな」という。
あるいは、「モノに使われるな」という。
「お金を使っても使われるな、モノを使っても使われるな」という意味である。
そういう言い回しから考えると、「環境問題をテーマにしても、環境問題に振り回されるな」と言いたい。
人が人として生きていくためには、現実に立ち向かわなければならない。
環境問題で活動している人たちは、人間よりも植物が大事、動物が大事、空気が大事、と言いたいようである。
まず自分自身が人間ではないか。

実際に、実行力のある、温室効果ガス削減のための、試みは、すでにたくさんの人たちが行っている。
環境白書、京都議定書、という会議もあった。
しかし、京都議定書では、中国もアメリカも署名をしなかった。

本当に、温室効果ガスを削減したいのなら、APECの会議や、日中首脳会談に注目すべきである。
中国とアメリカが手を取り合うような政治状況になって初めて、地球規模で協力しあって、温室効果ガスを減らしましょう、という状況になるだろう。

環境問題活動家は、ファンタジー小説を読んでいる場合ではなくて、きのう、きょう、あすの、国際政治に、活発に参加するべきなのである。

また、先日、名古屋では、ユネスコの持続可能な開発のための会議が行われ、皇太子ご夫妻が参加された。
未来の資源を枯渇させることなく、地球の環境を損なうことなく、開発や経済発展を続けていくには、どうしたらいいか、というチャレンジは、すでに始まっているのである。
環境問題に深刻な思いがあるのなら、こうした活動をよく知って、参加することが、必要絶対条件である。
気分で物事を言ってはいけない。


2014年11月11日火曜日

日中首脳会談について思うこと。

昨日11月10日、日中首脳会談が行われた。
APECが行われている北京で、午後の時間、25分ほどのことだったという報道である。
このときの、「握手写真」が、話題になっている。
冷え込んでいると言われる日中の関係を、そのまま表すような、習近平氏の、苦虫をかみつぶしたような表情を見ていると、誰もが会談の内容や、日中のこれからを、想像してはなんだか、不穏な気持ちになってくる。

日本の側からは、安倍総理大臣は、それなりの礼儀を笑顔を以て、言葉もかけていたが、習近平氏は無言で憮然とした表情であった。
たとえ、人間関係や国際関係があったとしても、こんなふうに、「顔に出す」ことは、なんだか大人げないような気がする。

一方で、韓国の朴大統領とは、うって変った笑顔であるから、こんなに態度がちがってよいものか?と不思議に思う。
韓国側とは、午前中に会談をして、FTAを締結させた、ということであった。

私は思った、今回のAPECは、経済の会議である。
中国と日本との関係も、主に経済の件が、話題となっていたのは、まちがいないだろう。
その経済の話で、日本の総理大臣と、中国の国家主席との一対一の対決が行われたのだと思う。
それは、公式の会談の前には、激しいやりとりのなかで、すでに決定していたのだろう。

だから、日本の安倍総理の表情は、疲れは見えていたとはいえ「勝った」という手ごたえが、感じられた。
他方、中国の習近平氏には、「負けました」「悔しい」「もういいから早く帰ってくれ」という表情が見えたように思う。

経済で言えば、日本はアメリカやオーストラリア、ASEANの東南アジア各国を結んで、TPPの協議が進んでいる。
「今後、TPPが締結される予定である」というだけで、経済の動きはすでに、中国と韓国を取り残して、アメリカ、オーストラリア、東南アジア、日本、そして、遠く太平洋の向こうでは、コロンビアやメキシコ、といった国々まで広がっている。

TPPの協議で、すでに水をあけられてしまった中国は、特に経済に関して「置いてけぼり」を食わされた状態になっている。
近年の、中国経済の翳りは、日本と東南アジア諸国の連携の緊密さと、TPP協議によるもの、と考えて差し支えないだろう。

それでも、今回の、日中首脳会談では、中国側から、なんらかの経済的な譲歩を、強くせまられていたのではないか、と思われる。
中国と日本のFTAであろうか。
二国間の関税なしの貿易である。
そんなことをしたら、中国の安価な製品の数々に、日本は圧倒されてしまうだろう。

しかし、安倍総理は、そこをなんとか持ちこたえたか、言い負かしたのではないか、と思われる。

これで、武器を持った戦争は回避された。
しかし、経済戦争は、あった。
その経済戦争には、勝ったのだと思う。

2014年11月10日月曜日

APECに期待する。

中国・北京で、APECが始まった。
APECというのは、日本語に訳せば、「アジア太平洋経済協力会議」となる。
アジア・太平洋、というと、実際にはどの国が属することになるのだろう?
とても広い範囲になりそうである。
今回のAPECの首脳会議には、アメリカからもロシアからも、そして開催地中国からも、トップが集まっている。

「経済協力」なので、主に経済の話をするようである。
経済的に協力するのか、それとも競争するのか、実際のところはどうなのだろう?

APECの開催期間中には、せっかく集まったのだから、「ついでに」ということだろうか、公式の首脳会談も行われる。
会場で顔を合わせて、ひとこと挨拶を交わしただけでは、公式な会談とはならないようだ。
あくまで、「公式に、首脳同志が、一対一で話し合った」ということが、会談と名がつくものらしい。

それにしても、今回の顔ぶれは、サミットといっても差し支えないほどの重責クラスである。

実際には、会談といっても、話し合いといっても、公式の会議だけではなく、夜通し、お酒でも酌み交わし、チェスでも行いながら、くつろいで話をするものなのではないだろうか。
そう、まるで映画のシーンのように、権力を持ったトップが、一対一の駆け引き勝負に出るのでは…?
などと、想像をふくらませてしまう。

世界のトップが集まったとき、その一番の関心事、というのは、なんなのだろう?
私は思う、オリンピックなどで、世界レベルの選手たちが集まった時、というのも、「世界レベルだからこそ」わかる、悩みや話題が、あるのではないか、と。
「あなたの国では、こういうこと、どうしてる?」
などと尋ねてみるのではないだろうか。

また、最近、国際的に話題となり課題となっているテーマに関しては、エボラ出血熱に関しても、イスラム国に関しても、さまざまな問題を、経済だけに関わらず、語り合うのではないだろうか。

今回のAPECは、世界中でさまざまな問題が起こっている、この世界情勢のまっただなかで行われる。
ぜひとも、協力して、グローバルガバナンスを実現してほしいものだ、と思う。

ここ数年の、世界情勢も、それに伴う、世界のトップの集まりの回数も、いずれ近いうちに、グローバルガバナンスが実現するための、大切な会であるように思う。

APECの開催に、とても期待している。


2014年11月9日日曜日

「戦争と女性」について考える。

ものの見方や考え方をめぐって、女性ならでは、男性的な、という考え方が、確かにあるような気がしてくるときがある。
たとえば、朝のドラマを見ていても、女性は女性同志で意見が合うときがあるし、男性は男性ならではの意見を、男性たちだけで、闊達に交換しているときがあって、そこに女性が入り込もうとしても、なんだかうまくいかないときがある。

それは、話題によるかもしれない。
たとえば、アメリカの選挙などで、「私は民主党」「私は共和党」というようなときには、女性であるとか、男性であるとか、そういったちがいによる意見の相違は、そう簡単には見られない。
しかし、「戦争をするかしないか」という点では、特に現代の日本においては、「戦争に対して絶対に反対」という意見は、女性がとても多いように思う。
また、戦争に対して、無条件で、「するべき」「いざとなったらする」という対応が、すぐに発言できるのは、男性のほうが、多いように思う。

こうした、事実を踏まえて、男女の相違による、意見の相違を、明らかにしていくことが、今後の学問研究によって、必要なことだろう。

そうした前提の上で、このところ、女性たちが女性同志で集まって、政治や経済について語り合うのを、とても興味深く思っている。
深夜のテレビ番組でも、「女性の活躍」をめぐって、いわゆる、キャリアウーマンの代表と呼んで差支えないような、社会的活動範囲の大きい女性たちが、集まって討論をしていた。

また、各地で、女性の識者が集まって、ディスカッションを開いているのも、とてもよいことだと思う。

こうした、女性たちの少人数の集まりが、やがて大規模な人数に集まっていくことが、一番望ましいと思う。
そうしたときに、たくさんの女性たちが、それは人数が多ければ多いほど当たり前ではあるが、個々の意見を持つことになる。
しかし、それだけでなく、時にはある目的に向って、ひとつの具体的な目標に向かって、集結することが、重要なことであると思う。

選挙も、年内か年明けすぐ、という状況までせまっている。
意見を集約して、ひとつのまとまった見解を持つことは、女性たちにとって、早急に求められる課題である。

ひとつの大きなポイントは、女性たちが平和への意見を持つときに、それが、戦争を抑止するという「防波堤」になるのかどうか、という点である。
私は思う、「防波堤」では、あまり意味がない。
平和を実現する力は、戦争をする力に対して「防波堤」になるのではない。
平和を実現するための、大きな「勢力」となることが大事である。
それは、戦争をしよう、とする勢力に、打ち克つような、大きな勢力であり、積極的かつ能動的に、活動する力である。
それは、いざ戦争が起こりかけてから、動き始めるのではなくて、ふだんからたゆまずに、平和を築いていく力である。

「防波堤」という言い方は、とても受け身であり、受動的である。
こうした考え方が、女性的に過ぎるところもある。
いかにも女性的な受け身であってはいけない。

次に、男女差別に対する考えであるが、社会的に活動している女性は、男女観が、歪んでいるところがある。
たいていの女性たちが、恋愛もして、結婚もするだろう。
父親もいて、兄も弟もいる。
そうした家族や社会のなかで、自然に男性たちと人間関係を保っていれば、男性がそれほど、女性をさげすんでいるようには、思えないのではないか。
また、男性と良好な人間関係を持ち、男性を尊敬し、時にはある男性を好きになることもある、とすれば、女性たちは、男性に対して、それほど強く嫌悪感や蔑視を持たなくなるはずである。

しかし、社会のなかで、男性に対して、男女を比較したがり、その結論として女性のほうが優れている、と言いたがる女性は、たいていの場合、男性を軽蔑しすぎている。
おそらく、こうした女性は、日ごろの人間関係のなかで、男性との良好な人間関係を築くことができなかったり、好きになった男性にひどく振られたりして、男性に恨みや憎しみを抱いているのだろう、と思う。

女性たちは、自然な態度で、ある男性はとても尊敬できて、好きになる、ある男性に対しては理解できないので、不思議に思う、ある男性に対しては、その思想や行動様式において、嫌うこともある、という態度で、よいのだと思う。

特に、女性は、愛情深く、父親や息子のことを思うことだってあるだろう。
そうした、自然な気持ちを、大切にするのがよいと思う。

男性が、戦争や戦いに心惹かれるのは、小さな子どものときから、木登りが好きだったり、やんちゃだったり、車や飛行機や戦隊ヒーローが好きだったりする「男の子らしさ」の延長ではないか、と思う。
それは、女の子が、小さいときから、可愛いものピンク色のもの、うさぎやリボンや甘いものが好き、だというのと、同じ理屈である。

男性と女性とで、どちらか片方が、とても弱いとか、いうことはない。
男性と女性は、その生まれながらの性質からして、理解しあえない点も多いが、歩み寄る努力は、する価値があると思う。

年末年始とクリスマス。

いよいよ11月。
「年末年始」が、始まった。
「終わりの始まり」という表現があるが、「年末年始の始まり」も、それに似た感覚がある。
一年をよりよく「終える」ために、するべき行事がたくさんある。
クリスマスケーキの予約受付はまだだろうか?
年賀状は、すでに販売開始されている。
来年の手帳、スケジュール帳、カレンダーは?
早いところでは、すでに企業や商店のカレンダーサービスが始まっている。

女性や子どもが楽しみにしているのは、クリスマスである。
12月にはいると、街中が一気にクリスマスムードになる。
鈴の音、イルミネーション、色とりどりのクリスマスツリー。

私は、11月の20日ごろには、クリスマスツリーを玄関に飾ってしまうことにしている。
できるだけ早くクリスマスの準備を自宅ですることで、年末商戦に巻きこまれず、余計な買い物をしない、という戦略だ。
そのぶん、長く、ツリーのイルミネーションを楽しめる。

本当に、11月・12月は、忙しい。

年が明けてしまえば、あのお正月1月の、「まったりしたかんじ」というのは、なんなのだろう?
それでいて「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」となる。
春まではあっと言う間だ。

時の流れは、「待った」を許してはくれない。
しかし、政治の流れはときには、「待った」もあるものだ。
いくさの準備は万端だろうか?

年末にはボーナス商戦も始まる。
常にいつもどこかで、「いくさ」というものは、続いているのだなぁ、と思う。


2014年11月8日土曜日

食の安全について。

ここで、女性たちのかねてからの願い「食の安全」について、考えてみようと思う。

「食の安全」について、私個人の考えを、ここで述べようと思う。
というのは、私がこうしてブログを書いて、政治的意見を書き述べてきたなかで、「食の安全」や、「環境問題」について、あまり関心がなかったように思えるご同輩が多かったのではないか、と思えるからだ。
私が「食の安全」「環境問題」に関して、あまり関心がなかったのは、生物や医療、農業を学んできたからである。
また、食品工学や食品衛生学についても、学んできた。

農業の見地から言うと、農薬や食品添加物は、適度に使ったほうがよいものである。
というのは、まったくの無農薬の農業をすると、むしろ、悪い害虫がついたり、植物が悪いウイルスに感染したりするからである。
ウイルスに感染したままの植物を、食物として摂るほうが、身体によくない。
それで、「適度の農薬は使ったほうがむしろ良い」と、学校の授業で教わっているのである。

また、食品衛生に関しても、高温、高圧、高塩分、高糖分、は、食品保存のためにとても良いことである、と学んでいる。
缶詰やレトルト保存などは、食品化学的には、理想の食品管理法であって、理論的には、缶詰というのは、100年間、品質が変わらないものとなっている。

また、食品添加物に関していえば、たとえば「グルタミン酸ナトリウム」があるが、これは、昆布を煮出した汁の結晶を取ったときの、主たる成分である。
塩を「塩化ナトリウム」と言うのと同じことである。
「グルタミン酸」や「ナトリウム」といった、化学表示があるので、不安になってはいないか、と思うのである。
実際には、昆布も塩も、とても安全なので、そこから取ったものは、やはり安全であると考えるので充分であると思う。

また、環境に関しても、人は、人類始まって以来、環境にたくさんの影響を与えて、環境を変化させて生きてきたと考えている。
「里山の自然」というが、里山というのは、人の手が、たくさん入ってできたものである。
林の下草を伐採し、柿やみかんなど、人に利益がある木を植えている。

また、地方の農村に行くと、自然を感じるかもしれないが、広い土地を耕作することも、自然への人為的な加工であるし、そこで、稲なら稲ばかり、大量に育てているのも、「大自然」と比べると、とても人為的なことである。

それは、畜産もそうである。

そうしたことから、私は、食の安全に関しても、環境に関しても、それほど重大な問題点を感じていない、と自分でも思う。
それは、身近な人から「なぜ?」「どうして?」とも問われることであるが、私が特に、生物や自然科学をむしろ学んでいるから、ということなので、少数派であることを意識して、改めてここに理由を書いてみた。

その上で、やはり、どうしても安心安全の食を望む、無農薬やオーガニックを望む、というのは、人の気持ちや、新しいライフスタイルの発現なのではないか、と思い始めた。
人々の、環境問題に関する要望は、とても大きくなってきているように思う。

それなので、特にそれを望む人々は、食の安全と環境問題の解決を、志すのがとてもよいと思う。

問題意識を持っている人たちがたくさんいるので、ここから、市民運動、女性運動を始めるのも、とてもよいことだと思う。
具体的な市民運動は、いくつか考えられる。

私が思うのは、特に中国産の食品に対して、危機感が強まっていることから、「中国産食品の不買運動」を、たくさんの女性たちで、起こしてはどうか、ということである。
食卓から、中国産の危険な食品を、追い出していく。
そして、日本産の安全な食品を買うことにしてはどうかと思う。

私は「適度な農薬」「専門家が算出した基準内の農薬」は、日本国内において徹底していることから、日本産はとても安全だと思う。
しかし、中国産は、基準があいまいであることや、政府も安定しないことから、考えもつかないような種類の農薬や食品添加物が大量に使われている可能性が、あると思っている。
つまり、中国産は日本産に比べて、信用度が落ちる、と思えるのだ。

しかし、中国産に比べて、日本産は、値段が高い。
このインフレのご時世に、家計を考えれば、値段の安いほうへ、安いほうへ、と、「まあいいわ」で買ってしまいがちである。
しかし、運動というのは、積極的かつ活発なものである。
高くても国産のものを買う、これが運動である。

今年の冬は、コートは去年のもので我慢して、新調しない、そのかわり、高くても国産のものを、買う、これが、女性たちの、食の安全に対する、積極的な運動である。

反原発女性連合の勝利を願って。

衆議院解散総選挙が、近づいている。
反原発を主張する女性たちにとって、これは、千載一遇のチャンスである。
ぜひとも、このチャンスに、「力いっぱい選挙戦、戦いました!」と言える、結果を掴んでほしいと思う。
精一杯戦った結果なら、誰も文句を言えないだろうし、また、それくらい本気で取り組んだところに、これまで通用しなかった理由も欠点も見えてくる、という意味である。
私は、互角の勝負こそ、選挙の醍醐味である、と思っている。
今のところ、政府であり与党である自民党に対して、反原発派の勝算はまったくない状況である。
女性たちも負けずに、選挙をしてほしい、と思って、いろいろなことを考えているつもりである。

ひとつ、重要なことは、「政治をする」ということである。
意見や主張がどんなに正論であっても、それが通るとは限らないのが、現実社会である。
木の葉のような、「ひとりひとりの意見」を積み重ねても、塵が積もって山となることはない。
政治を動かすということは、山を作ることではなくて、今ある山を動かすことなのである。

政治というのは、交渉であり、駆け引きであり、勝負である。
たとえ少人数であっても、強い勢力を作れば、自民党に勝つことはできるかもしれない。
「私は正しい」ということで、満足してしまってはいけない。
現実に、実際に、選挙で、自民党よりも多数の議席を獲得しなければ、政治を動かすことはできないのである。

「私は正しい」に満足してしまうと、力を合わせるということが、できなくなってしまう。
候補を立て、その候補に、当選できるほどたくさんの票を集めることが、必要である。
目標の議席数を立てて、どの人が候補に立ってくれるか約束をして、候補に立ってくれればたくさんの票を集める、という約束も必要である。

また、政党政治の日本政治であるので、政党を作ることも大事である。

超党派の女性連盟でもいいだろう。
これは、「反戦」とも関わりがあるのだが、男性をひとりでもトップグループに入れると、いつか「やっぱり戦争をする」と言う可能性がある。
女性は、本能的に、本質的に、戦争を嫌うものであるから、女性がトップ政治家であれば信頼できる。
また、女性が戦争をしたい、と積極的に言い出すことは、絶対にあり得ないから、超党派で、女性たちが手を結ぶことは、反戦・反原発にとって、とても力強い絆となる。

現在の政党政治では、いったん、投票の時点で、政党名で当選した人は、別の政党に移ることはできない。
今ある政党のなかで、参議院などがそうであるが、政治をするしかない。
今回、衆議院を解散総選挙して、議席を集めても、参議院まで動かすには、あと数年待たなければならなくなる。
しかし、超党派で、女性連盟を作れば、こと反原発に関しては、人数を集めることができる。

原発再稼働・川内原発に地元が同意。

東日本大震災以降、止まっていた原発が、再稼働へと動き始めた。
昨日、九州、鹿児島県の伊藤知事が、再稼働を承認した。
地元の承認と同意があって、再稼働が始まる。
これから、日本の各地で、止まっていた原発が、再稼働を始めることになるだろう。
こうした再稼働の動きにとても敏感で、すぐにも反対の運動を起こすのが、原発反対派である。
しかし、その反対派の一番強力な人たちが、埼玉県の人、神奈川県の人、東京都の人、というのは、理解できないところである。
一番、電気を使っている地域の人たちではないか。

福島県の人も、反原発に立ちあがってデモを起こすことはない。
しょせん、反原発というのは、都会のインテリの趣味なのではないだろうか。

あるいは、遠くからでも汚染物質が届くのが、こわいのだろうか。
汚染された風や水、食べ物が、東京に届く、と想像している。
被害者意識もまんべんなく強い。

原子力発電というのは、高度な技術の結晶である。
何に関しても、100パーセントの確率など、ないものである。
地元の知識層にしっかりと説明したら、「理解した」ということである。
埼玉の一市民、東京の一市民に対しては、そこまで説明しようとは思わなかったのかもしれない。
あるいは、埼玉の一市民は、あまり真剣に考えていなかったのかもしれない。
フィーリングやニュアンスや感性で、「原発はこわい」と思ってしまったのかもしれない。

地元のほうが、よっぽど、真剣に正面から考えて取り組んでいる。
電気の必要性は、地元の人が一番よく知っている。

大きな鉄塔と高架線を通して、地方の発電所から、都会に電気が運ばれてくる。
その電気で暮らしている人が、なにをかいわんや、である。


NHK「マッサン」第6週「情けは人のためならず」感想。

失業者マッサン。
楽しみにしているNHKの朝ドラ「マッサン」。
主人公の政春が、やがて夢を実現して、国産初のウイスキー造りに成功する、サクセスストーリーである。
サクセスストーリーといっても、まだ途中である。
今週は、政春にとって、一番つらい時期ともいえる、失業・職探し・家賃払えず、という状態となった。
日本中で、世界中で、このような状況にある男性、そして妻も多いことだろうと思う。
ドラマの政春に考えさせられ、共鳴し、一緒にこのつらい時期を乗り越えていきたいものだ、と思ってしまう。

それにしても、仕事のない男、というのは、カッコ悪いものである。
今週の政春は、これでもか、というほど、「ダメ男ぶり」を発揮していた。
仕事はしたい、でもない。あってもなかなか続かない。
やりたいことも夢はある、でも、心が荒れてすさんでしまって、掛け声と理想ばかり大きくなるが、給料をもらえるような仕事に身が入らず、いわゆる「職を転々とし」という状況に陥ってしまう。
ウイスキーを売る酒屋に就職したりもするが、それも「こんな酒は偽物だ」とまで言ってしまうし、行きつけの居酒屋では、店員をするけれども、お芋も満足に剥くことができない。
家にいるしかないが、妻の作ったマーマレードまで食べつくしてしまう。
職がなくてもおなかはすく、いや、職がないからこそ、おなかがすくのだろうか。
「こういう人、いるいる」というかんじがしてくる。

仕事のない男は、本当に荒れてすさんで、情けないものである。
お酒を飲んで、大声を出したりもする。
世界中で、男性たちが荒れてすさんでいる地域は、どこも失業率が高い。
アメリカでも、裏町通りでは、職のない男性が、昼間から、ただ何をするのかわからないが、階段に座っていたりする。
その目つきは、うつろというよりも、こわいくらいに憎しみがあるように思う。

こういった状況は、長く続くことではないはずである。
夫が次の職に就くまでの、数か月か、長くても数年であるはずである。
こうしたときに、妻はなにをすればいいのか。
ドラマのなかでも、エリーは「わたし、どうすればいい?」と悩んでしまう。
経済的なことでは、妻が仕事を見つけて働いて給金を持ってくるのが一番、手っ取り早いように思う。
エリーも職探しをする。
しかし、夫の政春は「俺が働いて、妻を食べさせる」と、これも強い男性的なプライドである。
そう言われたら、妻もどうしたらいいかわからない。

でも、一番大事だったのは、妻のエリーの心が、政春から離れて行かなかったことかもしれない、と思う。
職を失くして、次の職もうまくいかないで、居酒屋でくだを巻いている夫を抱えて帰ってきたり、八つ当たりする夫、隠し事をする夫を、いつまで信じていられるか、愛していられるか、であると思う。

こんなに、「ダメ男ぶり」を発揮している夫に、愛想を尽かして、離婚だ、と言って、出て行ってしまう妻も、現実の世の中には、多いのではないだろうか。
また、ぶん殴られて涙にくれる妻も多いのではないか、と思ってしまう。
ストレス度の高い家族と一緒に暮らすのは、大変なことだと思う。

妻のエリー自身にも、コメがない、家賃が払えない、とストレスが重くのしかかっている。
夫婦して、ストレス度がとてもとても高い時期である。

特に、家賃が払えないのは、賃貸の住宅に暮らしたことのある人なら、多少は感覚として共感できるかもしれないが、「衣食住」の「住」が、不安定になるのは、人としての生活の基盤が揺らぐことなので、とてもつらいと思う。
住宅を追い出されたら、道端で寝るしかないのか、雨の日は、と思う。
暮らしとしても、人間社会の格差としても、一段かもっと、下がることになる。
政春は、実家に手紙を書くことも考えるが、実家では、政春の仕事や結婚に、とても反対している状況で、その反対を押し切っての結婚であるから、お金を用立ててもらうとしたら、親にすべての主義主張を折り曲げてしまうしかない。
「家賃が払えなくなる」が、意味するところは、主義や信念の崩壊であり、今度という今度は、本当にウイスキー造りは断念するしかない、となる。

政春は、仕事やお金と闘っているように見えるが、実際は「ウイスキー造りを、やめるか、続けるか」という自分自身の信念と闘っているのである。

こうした時期に、実際に妻のエリーがしたことは、「人間関係の和」というところが大きい、と思う。
夫の政春の人間関係は、住吉酒造の職場の人間関係でつながっていた。
妻は妻で、自宅とその近隣で、「ご近所づきあい」「女性たちのつきあい」という点で、人間関係を築いていた。
これが「情け」である。

今週のテーマは「情けは人のためならず」である。
エリーは、夫の政春が失業状態になる前から、女性として人として、いつも親切で明るく、ご近所のご婦人から人気があり、人のために尽くすところもあった。
妻が、女性として、人間関係のネットワークを築くのが上手であったことは、とても大切なことだったと思う。
また、エリーは、こういうときだからこそ、「人のためになれてうれしい」「誰かに必要とされてうれしい」と、言っている。
つらいときだからこそ、「人の役に立っている自分を確認したい」ものなのだろう、と思う。
それは、つらい心の、支えになる。

「エリーちゃんのために」と、玉子や、橙、などなど、差し入れが届く。
職の紹介もくる。
こうした人間関係は、ドラマでは昔の人情として描かれているけれども、現代の世の中にあっても、とても大切なことであると、私は思う。
「いざ」というときに、妻が、町内会で顔見知りが多かったか、家族のことを、お互いによく知りあっていたか、である。

日本でも、東日本大震災のときに、「ふだんからのご近所付き合い」が注目された。
「絆」という言葉もとても注目された。

夫が失業した、というのは、ある意味、天災のようなものであるが、そうしたときに、妻が作っていた絆が、とても力強く、基盤を支えたように思う。

こうした基盤のなかで、育まれて、守られて、仕事を失った男性は、次の仕事に就くまでの間を、過ごしていくのかもしれない。
そこで何か大切なものを得るのかもしれない。

私は、こうした、妻や女性たちが作るネットワークこそ、「家庭」と呼べるものではないか、と思っている。
男性も女性も、家庭のなかで生まれて、家庭の中で心を癒していく、そういったことは、とても大切であり、ふだんは目に見えないけれども、いざというときに、政春はこの絆の存在を知るのだと思う。

エリーが病気になったことは、とても印象的である。
その妻を介抱するのが、夫であることもまた印象的である。
夫婦してストレス度の高い時期に、どちらか片方が病気になることも、よくあることなのではないか、と思う。
介抱をする政春はまた、自分自身の心の傷をも癒しているのかもしれない。

来週も、まだまだ政春の、つらい時期が続くのだろうか。
そのつらい時期に得るものこそが、きっと、将来の成功に結び付く、大切な宝であったり、教訓であったりするのだろう。
来週もとても、楽しみにしている。
がんばれマッサン、エリー!!!




ホットドティーの作り方.

今週のドラマのなかで、エリーがお隣の子ども・健太くんの風邪を治すために、症状を軽くする「お薬」を作った。
風邪は、こうした身体を温める飲み物で熱を下げ、咳などの症状を軽くすることで、抵抗力が強くなって乗り越えることができる。
今年の冬は、ホットドティーで、風邪を乗り切りたい、と思った。
さっそくレシピをメモした。

ウイスキー  ワンショット
砂糖     ティースプーン半分
これをお湯で割る。

ドラマのなかで、エリーは、レモンとハチミツ、そこにウイスキーとお湯、というレシピを提案していた。
レモンがなかったので、橙で作ったマーマレードで、代用をしていた。
柑橘類は、喉の痛みを和らげるので、味を調えて子どもにも飲みやすくするために、工夫したものだと思われる。


2014年11月7日金曜日

反戦女性連合の勝利を願って。

いよいよ、年末選挙へと、世論が走り始めた。
今回の選挙の争点は、ズバリ、集団的自衛権、となりそうである。

今年7月1日に、集団的自衛権の閣議決定がなされた。
その後、ある意味で「そのあとになってから?」反戦派が騒ぎ始めた。
反戦派が活動を開始するのは、ずいぶんと立ち遅れたように思われる。

ここで、衆議院解散総選挙をするとすれば、自民党のほうには、勝算がある、ということになる。
いつか近日中に、まるで突然のように「解散」を宣言して、野党や国民があわてるときには、すでに選挙の準備がすっかり整っている、ということだ。
何に関しても、「いくさ」というものは、先手必勝である。

国会は、少しずつ、確実に崩れ始めた。
世論は、相次ぐ増税案で、騒がしくなってきている。

ところで、小笠原沖、つまり太平洋上に、太平洋側から、というべきか、日本を取り囲むようにして、中国の漁船が表れた。
密漁の漁船である。

漁船の下には潜水艦があり、漁船のあとには、巡視艇が続くのだろうか。
不穏な雰囲気である。

こうしたことを今、発表するのも、集団的自衛権を、国民に了承させるための、ひとつの戦略なのだろう。
政権与党はかねてから、南シナ海、東シナ海だけではなく、太平洋上からも、中国の漁船が近づいていることを、知っていたのだろう。
そして、ここへ来て、発表したのだと思う。

こうなると、集団的自衛権を決定しておいて、よかった、ということになる。
これから、「戦争か否か」という論議を、世論で活発にさせていくのだろう。
そのあと、「戦争か集団的自衛権か」という点で、争点を絞り込むのだろうか。

自民党の世論作りは、とても巧みで、だんだんわかってくると、とても興味深い。

今回の選挙の争点は、集団的自衛権であり、戦争と反戦である、とすれば、反戦派にとっては、チャンスとなる。
しかし、与党・自民党の対立政党となる、野党・民主党が、この状況では、選挙戦を互角に持ち込むことさえ困難である。

反原発、反戦、食の安全を願う女性たちは、こんなチャンスにも、共同して力を合わせるということは、しないのだろうか?
このままでは、大切な女性たちが負けてしまうのではないか、と思って気がかりである。
ともかく、議席を、自民党より多く、過半数にしなければならない。

そのためには、解散した自民党議員を含めて、民主党全部と、野党を、反戦派として、選挙公約で宣言できるほどに、集めなければならない。
社民党の福島瑞穂議員を、女性議員のトップにして、女性連合を集めるのも、勝てる試みだと思う。
また、昨年、議席が取れなくて引退した、みどりの風、みどりの党の女性議員も、集めてくることも、案のひとつとしてあるだろう。
民主党には、蓮舫さんをトップとして、野党の女性議員が集まり、それを支持するのもいいだろう。

それから、争点が集団的自衛権となると、すでに崩れ始めている公明党は、今後、反戦派にまわるしか、なくなるのではないか。
解散が宣言されたら、すぐにでも、自民党との連立を解消するのではないか、と思われる。
公明党、民主党、維新の会、を中心として野党連合を立てることができたら、反戦派は、自民党に勝てる可能性が出てくる。

せっかくのチャンスなのだから、反戦女性連合は、ここで、議席の大量獲得のために、力を合わせてほしい。


2014年11月6日木曜日

アメリカ中間選挙・これまでとこれから。

昨日、2014年11月4日、アメリカで中間選挙が行われた。
結果は、共和党の勝利である。
上院でも下院でも、共和党が、過半数を獲得した。
オバマ大統領の民主党は、敗北した。

アメリカでは、2年に一度、大規模な国政選挙がある。
4年に一度は、大統領選挙である。
大統領選挙から2年たつと、中間選挙である。
中間選挙の「中間」というのは、大統領の任期4年のちょうど中間にあたっているからである。
この、2年目の中間選挙で、大統領はこれまでの2年間の「成績表」を、与えられるわけである。
2年間の大統領としての政治に、アメリカ国民は、どんな評価を下したのだろうか。
それが、民主党の敗北、という結果であり、結果が評価のすべてだ、ということだろう。

オバマ大統領は、当初はどうだったのかはわからないが、とても民主的で人道的な政治を行おう、としていたように思える。
山積するアメリカ国内の課題を乗り越え、世界的課題にも挑戦しようとした。
特に、核廃絶に関しての演説は衝撃的でさえあった。
あの核廃絶宣言で、ノーベル平和賞を受賞したのであるから、いかに鮮烈な平和宣言だったのかがわかる。

また、健康保険、いわゆる「オバマ・ケア」も、人道的で福祉的でとてもよい政策であったと私は思う。


しかし、アメリカ国民が望んでいたのは、経済の回復と、台頭する中国・アジアに対する課題だった。
アジアに対する課題、というと何のことか、と思うけれども、アメリカ国民は「強いアメリカ」という名誉を望んでいたのであり、GDPや国際的な勢力などで、台頭して勢力を伸ばしつつある中国に対して、「中国に打ち克つアメリカ」を望んでいたのだと思う。

3年前、2011年のクリスマスに、オバマ大統領は、アフガンから全軍を撤退させた。
アメリカ軍にとっては、素晴らしいクリスマスの贈りものであるように思えた。
しかし、同時に、オバマ大統領は、オーストラリア、太平洋に、軍を配備し始めていた。
2011年の年末に、北朝鮮で、金正日氏が亡くなった。
このときに、アジア情勢は、大きく揺らいだ。
北朝鮮での訃報と、アメリカ軍の太平洋配置は、偶然だったのだろうか?
私にはそうは思えない。
しかし、年末の危機は回避された。

翌年、2012年の8月に、私たちが呼んでいる、いわゆる「アジア危機」が訪れた。
中国、韓国、ロシアからの、日本に対する威嚇である。
2012年は、アメリカで大統領選挙のある年であった。
11月の大統領選を控えて、オバマ大統領は、経済的な政策と、アジア政策を、同時に成功させようとしたのではないか、と私は考えている。

アメリカ経済は、軍事で回っている。
軍事経済である。
低迷する国内経済に、軍需景気をもたらそうとしたのが、アジアに対する戦略であった。
もし、あの年の8月にアジア戦略が、オバマ大統領にとって、「成功」していたなら、中国と対立が起こり、アジアと軍事的な衝突が起こって、アメリカには、中東危機以来の、軍需景気が盛り上がったはずである。
また、台頭するアジアに対しても、戦果を成し遂げた、ということになっただろう。
アメリカ国民の、オバマ大統領に対する支持は、熱狂的なものとして盛り上がったことだろう。

しかし、忍耐強いアジアと日本は、アメリカからの戦略を断固拒否して、忍耐強く、持ちこたえた。
その年、10月には、アジアにおける、危機的状況はおさまっている。
オバマ大統領が、11月の選挙が間近になったので、アジア戦略はあきらめたのだと思われる。

それでも、2012年の大統領選挙では、オバマ大統領はからくも勝利を手にした。
しかし、その後の2年間、つまり今日までに、アメリカは、世界的な評判を、落とした。

アジアも、ヨーロッパも、アメリカが「ヒーローぶっている」ことに気が付いてしまったのである。
世界のヒーロー・アメリカは、実は戦略であちこちに紛争を起こして、その後、軍を出動させて、民主化に協力したふりをしている、演劇性の高い国だ、ということが、世界中にばれてしまったのである。

アメリカ国民も、経済的な低迷と、アジアや世界情勢に対する、アメリカの権威の失墜に耐えられなくなってしまった。
それが、今回の中間選挙の結果として、現れたのだと思う。

オバマ民主党の敗北は、そのまま、アメリカ国民の敗北でもあると、私は思う。


今後のアメリカは、どのように国内政治を治めていくのだろう。
今後の世界情勢はどうなるのだろう。

すでに2年前から、世界の勢力分布図は変化し始めている。
この変化は、数年から数十年かかるものだろう。
その変遷期の真っただ中にいるのが、現在であるといえる。
これからも、アメリカ中心だった勢力が、分布図をどんどん変えていくことになるだろう。

また、日本にとってみれば、TPPの交渉が、長引くことが考えられる。
しかし、TPPの交渉は、アメリカのオバマ政権が強く要望してきたことであり、アメリカ経済の打開策として、とても期待されてきたものだった。
オバマ政権がこのような状況になったことで、日本にとっても、太平洋地域にとっても、不利であったTPPが、「なしになる」ことは、考えられるかもしれない。

また、世界情勢に関しては、シリアやイスラム国に対しての軍の発動が、今後、オバマ大統領の決断では、できなくなるので、アメリカが、中東に関与できなくなるかもしれない。
これは、アメリカの発言権や行動圏の低下を意味する。

その分、ヨーロッパやアジアが、発言権を大きくすることはあり得るかもしれない。
また、経済に関しても、アメリカ経済の低迷と、アジアや他の地域の成長は、同時に起こるのかもしれない、と思う。

いずれにしても、オバマ大統領は今後2年間は、大統領の職務を遂行しなければならない。
上院も下院も共和党過半数で、四面楚歌、となるわけである。
しかし、アメリカ国民としても、政治は続けて行かなければならないだろうし、また、なんらかの変革を迫られるとしたら、アメリカは、変わらなければならないだろう。

アメリカ国民は、正義漢の顔を、いったん取り下げて、もう一度、一から始めなければならないのかもしれない。

また、もうひとつ特筆すべきは、今回、過半数を占めたのが、共和党であった、とういうことである。
共和党は、保守である。
オバマ大統領の民主党は、革新である。

日本でも、保守が、政権を執っている。
これから、世界的に、保守という思想が強まっていくのだろうか、と思う。

日本とアメリカの関係としては、年末に、ガイドラインの改定がある。
オバマ政権が弱まった状態であれば、ガイドラインに関しても、日本は態度を少し変えることができるのだろうか。
かねてから、日本国内の課題であった、沖縄県の基地問題に関しても、アメリカが沖縄基地を撤退することも、考えられるかもしれない。
日本からアメリカに要求することも可能だろうか。

2年後の大統領選では、共和党の大統領が選ばれることになるのかもしれない。
それまでの2年間で、アメリカを取り巻く世界情勢は、ゆっくりと大きく、あともどりできない状況で、変化していくことだろう。


2014年11月5日水曜日

尊厳死についてあれこれ思う。

先日、アメリカで29歳の女性が亡くなった。
この一女性が広げている波紋は、この亡くなりかたが「尊厳死」というものだったことである。
ブリタニー・メイナードさんは、脳腫瘍を患って余命わずか、と宣告されていた。
尊厳死を選び、尊厳死が法律で認められているオレゴン州に移住した。

私たちが驚くのは、アメリカではこうして、州ごとに法律が異なっていることや、それが生命や生き方にとって、とても重要な法律であることである。

メイナードさんが、なぜ、どのようにして、「尊厳死」という選択をしたのか、詳細は明らかではない。
しかし、メイナードさんが、世界各地を旅して歩き、ネパールで学校の生徒を教えていたいきさつから、もしかすると、アジアの死生観、輪廻転生、というものを、学んだり触れたりしていたことも、考えられると思う。

それでも、尊厳死というのは、薬物を投与されての死であり、結局は自殺ではないのか、家族や医師もそれを手伝ったのではないか、という思いも払拭できない。

もしも自分だったら、重い病気で余命わずかと宣告されたら、どのように選択をするだろう。
あるいは、それが家族のことだったらどうだろう?

もし私だったら、やはり、与えられた命は精一杯生きたいように思う。
あるいは、家族であったら、最後の最後まで、家族として一生懸命、手を尽くしたい、一日でも長く、一緒に生きていたい、と願うと思う。

でも、そのときになってみないと、わからない、とも思う。

先日、ある小冊子をいただいてきた。
公民館や病院で、啓発のために行っているパンフレットの配布で、記入式になっている。
「私の意思表示ノート」というものである。
「自分らしく生きるために健康な時から考えましょう」と表紙に書いてある。

☆----☆
あなたの思いを大切にします・・・
「自分らしく生きる」とは、どのような生き方でしょうか?
誰にでも自分の望む生き方や、大切にしたいことがあると思います。

もし、あなたが、病気や事故などで判断ができなくなったとき、どのような治療を望みますか?
あらかじめ意思を示しておくことで、自分の望む生き方を家族や周囲の人に知ってもらうことができます。
また、自分の意に反して不必要な治療を受けなくてもよくなります。
あなたの思いを大切にしたいと考えています。
最後の瞬間まで「あなたらしく」生きるために、ご自分の意思を記録しておくことをお奨めします。

署名・同意される方々へのお願い
ご本人へ
☆気持ちが落ち着いている時に記入しましょう。
☆年齢や状況によって考えは変化します。考えが変わったら、そのつど書き直しましょう。
☆定期的に(一年に一度、誕生日など)内容を見直しましょう。

ご家族へ
☆ご本人の意思を十分にご理解、ご納得された上でご署名ください。

一回目 私の意思表示 ~私の思い、願い~
○年○月○日

もし、あなたが病気や事故により、
・現在の医学による治療では回復が見込めず、
・すでに死期が間近に迫っていると診断され、
・あなたが明確な意思表示ができない状態になった場合、
どのような治療を望まれますか?
ご自身のお考えに印をお付けください。
1、できるだけの治療を望みます。
2、延命治療は望みません。
3、今はわかりません。

☆ーーー☆

次のページには、延命治療についての詳しい記入ページが続いている。
胃ろうや、輸血、人工呼吸器、などである。

このパンフレットは、本人が明確な意思表示ができなくなったときに備えて、あらかじめ健康なときに、延命治療を望むかどうかを、考えて、決めておくものである。
「尊厳死」とは、多少、意味合いがちがうかもしれないが、延命治療をしない、ということは、同じことだと思う。

それにしても、「尊厳」とは、どういう意味なのだろう?
病院の治療といえば、検査の段階からすでに、「尊厳」からは、程遠い状況ではないか、と思う。
生きていきたい、と思えば、藁にすがってでも、生きていきたいものではないのだろうか?

昨日、散歩をしていたら、公園のベンチでお隣に、高齢のかたが、座っておられた。
なんとはなしに、話しかけられた。
「わたしはね、心臓にペースメーカーを入れていてね。
昔だったら人生50年、医学っていうのはすごいもんだね。
ほんとなら、わたしなんか、もうとっくに生きてないんだけどね。
ありがたい、ありがたい、って孫のような年ごろのお医者に、言っているんだよ。」

なにか、このお年寄りの声のほうが、人として本当のことを、言っているような気がして、心がやさしく切なくなった。




2014年11月4日火曜日

月と宇宙船。

先日、宇宙船が墜落してしまった。
とても残念なことである。
宇宙開発は、アメリカとロシアが中心になって、時には手を取り合って進めてきた、人類的な仕事である。
国を挙げての事業、つまり国策だったわけだが、ある程度まで実用化できた段階で、民間での商業利用へと方向転換をした。
「民間」というと、コストダウン、利益の向上、というイメージがあるが、その通りで、なんらかのコストダウンを図った結果、安全性が低下してしまったのではないかと思うと、本当に残念である。

宇宙事業は、国策であり、人類の願いでもあった。
たとえば、「月に行ってみたい」というのは、単純な願いだったと言えなくもない。
「空を飛びたい」というのも、とても単純な、人類的夢想であった。

「空を飛びたい」のほうも、たくさんの研究があり、探究があり、残念な事故も起こっている。
そうした事故から教訓を学び、反省点を見つけて、また取り組むものである。

思えば人類は、あらゆる「乗り物」を開発してきた。
牛車もそうであるし、馬車もそうだろう。
自転車もそうであるし、あるいは、ラクダ、という手もある。
時には振り落とされながら、馬の背に乗ったこともあるだろう。

車もそうである。
今でも、新型車は、乗ってみなければわからないような、何らかの問題点があったりもする。
あるいは、機械というのはそういうもので、私の友達は、新型のオーディオプレイヤーを早々に購入したが、初期不良があったとかで、修理もむずかしいようだ。
パーソナルコンピューターもそうで、Vistaを改良したものが、Windows7である、と言われれば、それまでVistaでさんざん手こずったユーザーは、その「手こずり」を臨床実験結果として、マイクロソフトに提供した、ということになる。

私は、機械をはじめとして、さまざまなものを、新製品を試すのは好きなのだが、こと安全性に関するもの、となると、二の足を踏むところがある。
たくさんの人が使って、ある意味「失敗」して、改良を積み重ねてからのほうが安心である。

今回の宇宙船事故も、「私が月に行きたくなったら、もっと1万人くらいは利用して安全だった、という結果が出てからにしよう」と固く心に決めている。

それにしても、あんなにお金もかけて、人類の努力を重ねた結晶でもある宇宙事業は、結局、商用に向けるしかないのだろうか?
月旅行、宇宙旅行は、観光にしかならないのだろうか?
何か、もっと別の目的はないだろうか。

月には結局、必要な有効資源はなかった、ということなのだろうか?
考えてみれば、南極大陸の探索も、人類の可能性を試すことが目的だったように思う。

地球だけでも問題が山積しているというのに、宇宙空間になんらかの意義を見出すことは、むずかしいのだろうか。

私は、月旅行、というのを、商用や観光だけではなく、もっと意義のあるものとして楽しむこともできると思う。

たとえば、「地球は青かった」と言ったガガーリン。
「わたしはカモメ」と言ったテレシコワ。
宇宙へ一度出て、外から地球を見たひとは、人生観がとても大きく変わるという。

私たちは、日常から離れて、二泊三日で古都京都を訪れただけでも、人生観が変わるものだ。
ぜひ、月旅行を、人生や、地球や、人類や、環境問題を今一度考えるための、ひとつのきっかけにしてみたいものだ。
人生に絶望した人に、月旅行をプレゼントする、というのはどうだろう?
かけがえのない、自分の命に気が付くかもしれない。

商用だけではない、なんらかの、「意義」を見つけて、いま一度、元気を出して、宇宙開発にトライしてほしいものだ、と思う。

月に宇宙ホテルを造ったり、国際宇宙ステーションへに一泊旅行を企画したり、できないものだろうか?

そして、たぶん20年後には、一般庶民にも、月旅行が叶うようになってくる。
修学旅行で月に行くのも楽しい。
ああ、長生きはしてみたいものだ、と思う。
人生も退職後には、私もあなたも、月旅行を、楽しむことができる。

沖縄県知事選の予想について。

今月、11月16日には、沖縄県の知事選の投開票が行われる。
地方の一知事の選挙とはいえ、国政のために、とても大事な選挙である。
特に、沖縄県は、九州の南から、東シナ海、南シナ海、と、南北に長い地域である。
所属する海域もとても広い。
また、近年とても課題となっている、中国との関係で、尖閣諸島を「含んでいる」ともいえる。
この沖縄県の地方自治を、どんな政党が担うかは、国政にとってとても大事なことである。
また、沖縄県には、アメリカ軍の基地がある。
アメリカとの関係において、沖縄県にアメリカ基地を置くのかどうかは、とても重要な問題である。
年末には、アメリカと、ガイドラインの改定を交わす予定なので、現政府としては、沖縄県に基地を存続させておけることが、大事なことになるだろう。

沖縄県知事選挙には、4人の人が立候補している。
現職の仲井真知事は、基地容認派である。
ほかに、自民党公認候補、民主党公認候補、無所属候補がいるが、沖縄の県民にとっては、政党支持とはあまり関係のないところが多くて、なかなか乱戦もようである。

私が、「これは」と興味を惹かれるのは、喜納昌吉氏である。
喜納氏は、沖縄県のミュージシャンである。
以前、「沖縄ブーム」という時代があり、そのときに、沖縄県の文化や音楽は、全国的に、とても広がって楽しまれた。
私たちも、音楽を聞けば思い出すが、「ハイサイおじさん」という歌曲がある。

この夏も、甲子園では、沖縄県出身の選手がバッターボックスに立つと、アルプスの応援団では、「ハイサイおじさん」を演奏した。

♪ハイサイおじさん
ハイサイおじさん
ゆうびのさんごびんはのことんが
のことんがわんにわけらんが
ありありわらわーえいわらわー♪

こういう歌である。
これは、沖縄県の方言で歌われている。
標準語で書けば、

♪こんにちは、おじさん
こんにちは、おじさん
昨夜の三号瓶(のお酒は)残っていますか?
残っていたら私に分けてくれませんか?
あれあれ、童、おい童♪」

こういう歌である。
沖縄県独特の、三線という沖縄三味線を使って、とても賑やかに皆で歌って踊れるような楽曲である。

喜納昌吉氏は、ほかにも、たくさんの人から愛されている曲を作っている。
「花」という歌は、ご存知ではないだろうか?

♪泣きなさい
笑いなさい
いつの日か いつの日か
花を咲かそうよ♪

このフレーズがとても有名で、たくさんの歌い手がカバーソングとして歌っている。
今でも、「癒しの音楽CD」というような、たくさんの「みんなが歌える歌」「リラックスできる歌」というアルバムには、収録されるような歌である。
全国的にヒットして、紅白歌合戦でも歌われた。
石嶺聡子さんが、紅白歌合戦で、「花」を歌っている。

カラオケでも、女子が集まると、みんなで大合唱するほど、好まれている歌である。

その後、喜納昌吉氏は、民主党から、参議院議員として立候補して当選している。
沖縄県では、民主党から、いわゆるタレント議員として、玉城デニーさんも立候補して当選している。
いずれも、地元ではとても人気のあるタレントである。
私も、知っている。

沖縄県は芸術や音楽に、みながとても親しんでいて、一般の一市民が、生涯に一度は歌を歌ったCDを出すのだそうである。
全員が全員、歌がとてもうまいのが、沖縄県民だ、といっても差し支えないくらいである。
石嶺聡子さんの声も、何か魂に響くような素晴らしさがあるが、そうした歌声を持つ人がとても多いそうである。

しかし、喜納氏は、その後も、先住民族の権利、を主張しているようなところがあり、歌でも、北米のホピや、北海道のアイヌの権利を歌っていることもある。

こうしたいきさつを踏まえて、喜納氏が、全国的に応援されて、当選したら、沖縄県はとてもよくなるのではないか、と私は思う。


2014年11月3日月曜日

11月3日・文化の日。

きょうは11月3日。文化の日である。
11月といえば、たいていの日本に暮らす人々にとって、空の青い秋なのだろう、と思う。
でも、私にとっての11月は、もう雪の降る、真冬である。

北海道で暮らす人々にとっては、すでに10月の28日に初雪が降っている。
なぜかいつも28日で、27日ではない。
その前に、雪虫が白く飛び始めている。
「そろそろ雪かな」と思わせる雪虫のふわふわした姿を見ていると、なぜなのか少しときめきながら、じゃがいもや石炭や薪を、備えなくては、と思う。
そして、厚ぼったいセーターを出して、ストーブの支度をする。
支度といっても、年中出してあって、夏でも片づけていないものを、煤払いするのである。

11月は七五三もあるのだが、北海道では10月に済ませてしまう。
子どもたちの晴れ着姿は、雪の振る前がいい。
そうして、雪の降る前に、降る前に、と手際よく着々と準備を整えたところで、「ああ」とばかりに初雪が降るのである。

11月3日の文化の日、というと、照れることなく文化人らしくして、集ったものである。
北海道だけでなく、津軽海峡を渡って遠くから、一年に一度くらいは、文学サークルの仲間で集まろう、と約束してあった。
文化の日は祝日なので、集まりやすい。
一年に一度であっても、文学仲間は時間を感じさせることなく、「先日送ってくださった歌集、読ませていただきました」から始まって「あの本、読みました?」とあふれるように言葉が湧いてくる。

北海道の11月は、雪雲が空に厚く暗くたれこめて、セーターとマフラーと、分厚いコートの月である。
そして、寒く閉ざされた部屋のなかで、ストーブの燃える火を手掛かりに、ぎゅっと集まった仲間にこそ、冬と文学が燃え上がるのである。

巣ごもりの本と林檎と友達と背の高い木々冬は真しろに   聡子

マキリ彫るほのほの中に浮かんでは笑う横顔君と背中と   聡子

イスラム国について考える。--キリスト教について

「イスラム国」について、特に宗教という観点から、いろいろなことを考えている。
エルサレムは、三つの宗教の聖地であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が、それぞれに主張して、トラブルが絶えない。

きょうは、キリスト教について、仏教とのちがい、という点で考えてみようと思う。

宗教を考えるときの着眼点は、いくつかあるが、それぞれの宗教の「ちがい」を見てみようとするときに、着眼点のひとつとなるのが、「死をどう捉えるか」である。
たとえば、仏教では、人は死んだあとも生まれ変わる、と考えている。
これは、チベットや東南アジアの仏教を考えても、生まれ変わり、輪廻転生を前提として、死を捉えているところがあり、したがって、生きている間も、「来世」のことを考えて、よく生きよう、とするところがある。

しかし、キリスト教においては、人の生は一回限りであり、生まれ変わるということはない、と捉えている。
キリスト教文化圏において、人の生は一回限り、ということは、文化圏として「当たり前」となっているようだ。
それは、生まれ変わる、ということに関して証拠がないからかもしれない。
それなので、たとえば、欧米の精神医学の診療では、「生まれ変わりを信じている」というと、精神的に病気である、という症状と捉えられるようである。

しかし、80年そこそこの人生が一回限りだとすると、そこに、「何をしても無駄」「死によってすべてが消滅する」という発想になり、無気力や絶望に陥るのだそうだ。
考えてみれば、アジアの人々は、日本人としても、自分としてもそうであるが、親しい人が亡くなっても、「あの世から見守っている」「お盆のときには来てくれる」「お位牌のなかに魂が宿っている」という考え方をするので、もしかしたらあまり寂しさがないかもしれない。
また、自分の人生としても、死んだあとは「あの世に行く」と考え、あの世で自分の人生が続くように考えている。
また、生まれ変わったら今度は、男性になりたい、とか、あんな場所に生まれたい、などということも、文化環境のなかで、ごく当たり前に、発想しているように思う。

私も、子どものときなどは、友達と集まった時に、「生まれ変わったら今度は」という話をしたと思う。
芸能人でも「今度生まれ変わった時にはまた会いたい」というようなことを言う人もいる。
仏教圏のアジア人にとっては、「生まれ変わり」はごく当たり前のことで、人生は、死んだあとも続いていくものなのだ。

それが、キリスト教圏には、まったくない、ということである。
また、イスラム教においても、「人は死んだら光になる」ということになっている。
これも、人としては、存続しない、ということになるし、生きている間に、いいことを積み重ねても無意味だ、ということになり、無気力や自暴自棄になりかねない、と思う。
あるいは、生きている間に、なんでも好きなことをしてしまおう、と思うかもしれないし、死んでから確実に、神様の元に行くために、聖戦・ジハードをして、命をまっとうしよう、と考えることもあるだろう。

キリスト教、イスラム教においては、「死」は、人間として、個人として、すべての終わりを意味する。

そして、キリスト教では、死んだ者が、ある時期、未来に復活して審判を受ける、という考えもある。
死んだ人は、長い間、ずっとお墓のなかにいるのであるが、ある時期、遠い未来に、審判が行われる、という宗教的な教えである。

「世界の終り」というときがくる。
終末思想である。
その終末のときに、神様が表れて、お墓のなかの人たちも、そこから出てきて、生きてきた間にしたことを、採点され、審判される。
悪いことをした人は、地獄に堕ちるが、いいことをしてきた人は、天国に行ける。
この天国は、地上の天国、という意味もあるようだ。

世界の終末のあとに、地上の天国を、神様が作ってくれる。
地上の楽園ともいえる。
この楽園で永久不滅に生きていける人は、生前にいいことをして、審判で「よし」と認められて選ばれた人たちである。

この審判の門をくぐるのがとてもむずかしいので「狭き門」と表現される。
(狭き門、には、ほかにもいろいろな解釈がある)

こうしたことで、キリスト教圏では、社会的に大きな問題が起こると、「終末である」「最後の審判が起こる」と考える人も多い。
今のこの時代に、そう考えるキリスト教信仰者も多いのではないか、と思われる。

一方で、仏教圏には、そうした終末思想はないので、この世の終わりというのは、漠然としているようであるし、最後の審判もないのである。


次に、女性観である。
キリスト教では、男女差別が著しいように思う。
いくつかの点があるので、書いてみたい。
1、女性は男性の「あばら骨」から生まれた。
アダムとイブの物語である。
2、キリストは、お母さんのマリアが、処女懐胎したことになっている。
3、キリストは、生涯独身であった。

これと比較するために、仏教を考えてみる。
釈迦は、結婚していて、奥さんと子どもがいた。
それだけでも充分かと思われる。
一般にお寺というのは、割合にオープンなところがあるが、仏教においては、性というのは、忌み嫌うものではなく、結婚に関しても、開かれた面があると思う。

キリスト教では、たとえば、「最後の審判」という、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵で、「実はキリストの横に、妻であるマリアの像が描かれていた」という噂がまことしやかに囁かれている。
キリストは、女性を愛することもあったし、妻を持つこともあった、ということである。
これが、キリスト教信仰者の間では、とても禁じられている話題である。
ルネサンスの時代や、近代になってから、キリストも妻帯していた、キリストは女性にも信仰を許していた、という話になったが、これは、秘密結社が「キリストは本来は男女平等であった」という思想を、秘密で保っていた、という話である。

ヨーロッパでは、修道院も多い。
修道僧などは、生涯独身である。
徹底的に男女のちがいを明らかにして、性を否定している面も見受けられる。

そういう点で、アジアの仏教のオープンさや気楽さは、欧米の人々から、人気があるようである。

2014年11月2日日曜日

NHK「マッサン」第5週「内助の功」感想。

今週も月曜日から土曜日まで、「マッサン」を観た。
始まってからもう一か月となる。
とても好調で、たくさんの人に親しまれているドラマであるようだ。
私も、友達と「今朝のマッサン、観た?」とお話しするのが、楽しみになってきた。
話にも登場人物にも、どんどん感情移入してきて、朝、「おはよう」を言うのが楽しみになってくる。
主題歌「麦の唄」もすっかり覚えて、携帯電話のアラームには、「麦の唄」が鳴るように仕掛けてある。

今週のテーマは「内助の功」ということで、とても注目していた。
政春が、ウイスキー造りを許してもらえるように、つまり資金提供をしてもらえるように、株主たちに頭を下げ、プレゼンテーションをする。
最初は「こんなに煙のにおいがするお酒ですか?」と懐疑的な反応だった。
そのときに、妻のエリーが、スコットランドの郷土料理を作って運んできて、「ウイスキーにとても合います」と、株主たちに振る舞う。
株主たちも、思わず拍手して、「夢は素晴らしい」と言ってくれる。
こうした、女性なりのふだんの家事やものの見方から、手助けをすることが、「内助の功」というのだろう。

だがしかし、「夢だけではうまく行きません」と却下である。
そして、政春も、辞職を迫られる。
ウイスキー造りの夢はきっぱりあきらめて、住吉酒造で働くか、もしも、これからもウイスキー造りを続けるなら、資金提供と優子さんのお見合いの話をお断りさせていただきます、ということなのである。

私は「男のサクセスストーリー」を、観てみたいと思っていたのだが、やはりその道は険しいようである。
何にしても、「先立つものはお金」ということである。

夢のために、資金を得ることは本当に厳しい。
政春のウイスキー造りには、大きな銅製の機械「ポットスチル」を特注で作ってもらうことが必要なのだが、その資金がどこからも出ない、ということなのである。

「金は天下の回りもの」というが、回ってこないところには回ってこない。
こんなに大きな夢があって、勉強も研究もしてきて、ヤル気も実力もあるのに、お金がない。
こうした若者に、チャンスということで、「お金」を、提供してくれはしないものだろうか。
世の中はそんなに甘くない、ということなのだ。

現代の世の中では、専門のインターネットサイトがあって、若者が夢をプレゼンテーションして、その夢に協同する人が、ほぼ無償で、資金援助をする仕組みがあるそうである。

本当に、ありがたいことである。

これから、政春はどうするのだろう。
仕事を辞めるしかない政春、絶望の淵にいる政春を、妻のエリーは背中からそっと抱きしめて、歌を歌ってあげる。
女性の歌声というのは、こんなにも優しく温かいものなのだろうか。
これも、内助の功、というものだろう。

妻のエリーはまた「私は、マッサンの夢を食べて生きていける」という。
ありがたい妻である。
まるで霞を食べて生きていく仙人のようである。
現実が、見えていない夫婦が、若々しくて愛らしいかんじがする。

これから、政春はどんなふうに資金を得るのだろう?
来週は、住吉酒造を辞職した政春の、転職期間が始まるようである。

今の日本でも、リストラされた男性がとても課題となっている。
夫がリストラされたときに、妻はどんなふうに振る舞って、支えるのだろう?
だいたい、リストラされた男性というのは、どんなふうになるのだろう?
もしかしたら、自暴自棄になるのだろうか?
奥さんに対して、甘えたり八つ当たりしたりするのだろうか?
時には、リストラされたことを妻に言わないで、毎日、妻の作ったお弁当を持ってネクタイをしめて、会社に行くふりをして朝玄関を出て、そのまま一日中、公園で過ごす夫もいるそうである。

どんなふうに、政春は、「荒れて絶望する」のだろう?
それを、どんなふうに、エリーは、支えていくのだろう?
どんなふうに政春は、乗り越えていくのだろう?

来週もとても楽しみである。



エボラ出血熱について。

エボラ出血熱が広がりを見せている。
数年前に、西アフリカで発生して、その後、しだいに広がっていった。
グローバル社会を反映して、世界各国に急速に広がっている。
致死率が高く、治療法が確立されていないことから、人々の間に不安が高まっている。
日本にも、入ってくるのではないか、と予測されて、すでに対策がとられている。

すでに、各国で治療法を追求して、研究・予防に入っているが、まだまだ時間が足りない。
なぜ時間が足りないのか、理由はある。

ひとつは、このウイルスの性質がよくわからないからである。
わからないのは、たとえば、ひとつのウイルスの性質を知るには、たくさんの実験とその結果の積み重ねが必要だからである。
ウイルスが発生してから治療が完結するまでに、半年から一年の月日がかかる。
これを何年分も研究結果を積み重ねていかなければ、ウイルスの性質がすべてわかったとは言い切れない。
また、血清療法は、抗原抗体反応といって、人の身体のなかで、いったん感染して、発症して、それから治った状態の人の血液から、作るものである。
まず、人が感染しなければならない。
そして、完治しなければならない。
一度ウイルスが入って、増殖して、その後、治療ができたときには、人の身体のなかに、抗体ができている。

この抗体を取り出して、すでに病気が発症した人の身体に注射すると、抵抗力が高まって、治療することができる。

いったんは、誰かが病気になってそして治らなければ、血清療法は行えないが、血清療法が一番確実な治療法であると思われる。

そういったことは、すでに国際的な医療機関が一生懸命研究しているので、私が何かをいう立場ではない。

私なりの個人的な推測をいくつか書いてみようと思う。

その1、アフリカ大陸にもともとあったウイルスではないのではないか。
アフリカの人たちは、アフリカ大陸にもともと存在したウイルスには抵抗力があるはずである。
もしかしたら、欧米から、など、外から持ち込んだウイルスなのかもしれない。
それで、アフリカの人たちには免疫がなく、感染が広がったのかもしれない。

その2、もしも「その1」の通りだとすると、欧米やアジアの人には、すでに免疫があるウイルスなのかもしれない。
だから、感染しても、発熱程度でおさまるのかもしれない。

その3、なんらかの栄養素と関係があるのではないか。
西アフリカでは、皆が知っている通り、衛生環境や栄養状況が必ずしも高いとは言えない。
きれいな水がないかもしれない。
あるいは、単に欧米やアジアと比べて、なんらかの栄養素に偏っていたり、栄養素が足りなかったりするのかもしれない。
そういった栄養条件のもとで、発症するのかもしれない。

その4、西アフリカならではの、温度や湿度、環境要因が、プラス条件となって、発症するのかもしれない。
医療関係者が多く感染しているが、その多くは、現地に長期にわたって滞在した人である。
温度や湿度、水などが、プラスアルファの要因となって、組み合わせると発症したり、悪化したりするものかもしれない。


2014年10月31日金曜日

衆議院解散総選挙をしてみたい。

この秋冬、衆議院解散総選挙をしてみたい。
選挙、というチャンスを、与えてほしいものだと思う。

時にはうんざりするほど潔癖な、正論と生真面目さで、断固として融通の効かない女性たちであるが、一度動き始めたら、粘り強く行動を起こすのが、また女性たちの性質でもある。

女性たちは、火がつくのがゆっくりなのかもしれない。
2年前の衆議院選挙のときも、争点は原発と憲法であった。
そのときに、安倍氏が代表を務める自民党は、すでに反原発を打ち出していたし、憲法改正を訴えていた。
当時、何の手ごたえもなく、何の反応もなかった女性たちが、今になってようやく声を上げはじめているようである。

衆議院選でも参議院選でも、「みどりの風」「みどりの党」などが、女性代表を候補に押し上げて、反原発、食の安全を打ち出していた。
あの当時、黙していた女性たちは、今、何をどう思っているのか。
生真面目で潔癖な女性党首をいただいた党は、選挙で全滅してしまった。

もう一度、チャンスがほしいというなら、潔癖で、「よい政治家」である候補をいただいて、政党を作るところからがんばってみてはどうなのか。

それとも、自分では政治はしなけれども、誰か男性政治家が、「やってくれる」まで待っているのだろうか。
不平と不満を抱きながら、言いやすい相手に八つ当たりして、その場しのぎで気晴らしをしているだけが、日本女性の性質なのだろうか。

安倍総理大臣に、申し込んでみたらいい。
もう一度、チャンスをください、と。
もう一度、衆議院の選挙というチャンスをください、と。
そうしたら、たくさんの国民を説得して、勢力を広げて、コツコツと地道な世論作りをして、公平で民主的な選挙で、勝ちを決めてみせます、と言ってみたらいいと思う。


2014年10月30日木曜日

2014年秋・衆議院解散総選挙の可能性について。

このところ、安定政権と呼ばれた政権が、少し揺れているように思える。
「大揺れに揺れている」とは、いえないほどである。
9月に内閣改造があった。
一昨年の12月に衆議院の選挙があったので、今の政権は2年続いているといえる。
ここへ来て、「年内解散ではないか」「総選挙ではないか」という、ささやきが聞こえてくるような状況である。

解散総選挙をするべきなのか、そうでないのかは、一般市民がどうこう言える問題ではないが、実際のところ、どうなのだろう?

現在の日本の社会状況を見ていると、とても騒がしく、不安感が増大しているように思える。
これ以上、解散総選挙などで、騒がしくなると、社会不安がもっと増えて、困る人がたくさんでるように思う。
また、年末で、「師走」とあるとおり、ただでさえ、あわただしくなる時期である。

また、エボラ出血熱に関しては、予断が許されない。
国内外協力してことにあたる場面である。
国際情勢で言えば、イスラム国や中国、韓国との問題も、続いている。
できるだけ安定政権で続けてほしいところだ。
秋の臨時国会の議題も、これからの日本の国造りにあたって、とても重要な課題である。

一方で、「なんとなく」今の政権が、まったりしてきた、と言えなくもない。
先週には福島県知事の選挙があり、来月には沖縄県知事の選挙もある。
各地方の知事選に遠慮しての、政権の戦略ではないか、と思えるふしもある。
なんとなく、「反原発派」「反戦原理主義派」に対して、少しずつ、少しずつ、有利に傾いてきたように、「見せている」のではないか、と思えるのだ。
これが与党自民党の圧倒的な政治力なのではないか、と思えてくる。

また、別の考えとしては、その与党自民党が、政治に飽きてきた、倦んできたようにも感じられるのだ。
安倍総理大臣は、自分が総理である間にしたかったことを、もうすべてやり遂げてしまったのではないだろうか?
総理大臣の座を退いても、「元総理」というポストがある。

また、これから解散総選挙をしても、野党民主党への支持率は、政権交代をできるほど高くない。
ということは、結果は目に見えていて、次の与党も自民党だ、ということである。

自民党は自民党でも、いったん選挙をすれば、総理大臣も内閣閣僚も、議員も一新できることにはちがいない。
ここは、選挙をしてみたほうがいいのかもしれない。

反原発派も、反戦原理主義派も、一度選挙をしてみれば、充分に活動してみれば、その結果だったら受け入れるのではないだろうか。

一度、選挙をしてみてはどうだろう。
日程としては、11月中旬までに解散して、2年前と同じように、12月に投開票を行い、年内に新内閣成立、ということになるだろうか。

今、国内に溜まっている不満は、政権が長いことが理由のようである。
一度、選挙をしてみてはどうだろうか。

私も、正々堂々と、国民の票決で、いろいろなことが決まっていくなら、一生懸命がんばろうと思う。


NHK「マッサン」第5週・感想・優子さんとお見合い結婚。

きょう、木曜日の「マッサン」は、本当に楽しかった。
夫・政春の大株主を前にしてのプレゼンテーションで、妻のエリーが、見事な手助けをする。
お料理を作って運んできて、このお料理が、ウイスキーにとても合う、というのである。
大株主たちも「これはいけますな」と大喜びで拍手をする。
ウイスキーを造らせてもらえるかどうかは、まだこれから段階を踏まなければならないが、ともかくは大成功である。
エリーの「内助の功」は、とても素晴らしい、と思った。

ところで、このエリーのアイディアは、住吉醸造の一人娘・優子さんのお料理を見ていて思いついたものであった。

政春がスコットランドから帰ってきたら、結婚する予定であったと、これはなんらかの誤解なども混ざっていたようなのだが、その予定だった優子さんである。

この優子さんは、最初はエリーに意地悪をしたりもしたけれど、お父さんやお母さん、お祖父さんの考えもあって、お見合いをすることになった。
お見合いの相手は、浪華銀行の預金課課長代理で、29歳。
住吉酒造の株主である海運会社社長の
藤岡正太郎の次男・藤岡次郎さんである。
紆余曲折はあったけれど、次郎さんと会ってみて、とてもよい人で、「私はほっとしたわ」と優子さんは言っている。

お見合い結婚、親の決めた結婚、これは、なぜか「幸せにはなれないもの」と決めつけがないだろうか?と私は考えてしまう。
なぜなら、私はずっと以前に、いろいろな高齢者のかたから、結婚や人生について話を聞いたことがあったからである。
ちょっと前まで、第二次世界大戦のころまでは、お見合い結婚が主流だったようである。
たいていの高齢の婦人が「うちはお見合い結婚よ」と言ったときもあった。
そして、その結婚が幸せだった、という女性もたくさんいた。

「結婚してから恋愛したのよ」
「会ってみたら、とてもいい人で、やさしい人でね」
「結婚してから、子どもができて、趣味の話をしたり、仕事の話や家族の話をゆっくりしたりして、主人のことを大好きになったのよ」
こういうお話が多かった。
そのときは意外な気がしたけれども、生活環境がよく似たところに育って、両親からも祝福されて、仕事も人柄も「大丈夫」という男性とお見合いをして、それから、小さいながらも結婚式を挙げて…そういうお見合い結婚にも、幸せな夫婦像が、あるのではないか?と私は思ったのである。

「マッサン」では、優子さんが、お見合い結婚に向けて準備中である。
ぜひ、「お見合い結婚の幸せ」を教えてほしいものだ、と思う。
結婚にはいろいろな形があって、どんな道すじであっても、出会いは出会い、縁は縁なのではないか、と私は思う。
穏やかに紡ぐお見合い結婚の夫婦、というのも、あっていい、と私は思う。


手漉和紙技術がユネスコ無形文化遺産に。

日本の、手漉き和紙の技術が、ユネスコの無形文化遺産に登録される見通しとなった。
このところ、数年続けて、時には一年に二回でも、ユネスコの遺産登録が行われるような気がする。
文化遺産、とか、無形遺産、とか、いろいろな遺産登録があるのだろう。
そして、日本のものが、登録されることも多くなったようで、うれしく思う。
日本ならではの文化を見直す、きっかけともなる。
改めて、「和紙」のことを考えてみる。

紙といえば、このところよく使っている紙は、いわゆるPPC用紙、と呼ばれるもので、つまり、コピー用紙だ。
ファクシミリにも、パソコンからの印刷にも使える、手軽な紙である。

紙といえば、本を選んだり、手帳を選んだりするときに、紙の色や手触りを気にするときがある。
小説の表紙の「ジャケ買い」のように、手触りのよいクリーム色の紙を使った本を手に取ることがある。
手帳の場合はもっと複雑で、万年筆で書いても裏に文字が透けない紙が、基準になったりする。

折り紙や千代紙の場合は、これは和紙の手触りが一番いい。
このごろでは、千代紙と名がついていても、日本製ではないものもあってなんだか物悲しいときもある。

和紙の生活からは、少し離れた現代生活を送っている。
一番身近な和紙というと、障子紙やお習字の半紙ではないかと思う。
それから、最近では、女性たちに人気の「かわいい」で、マスキングテープというのがある。
セロファンテープのような丸い形のもので、テープになっているのだが、これは手でちぎることができる。
和紙で出来ている。
若い女性からも、この和紙の感覚、紙ならではのニュアンスに惹かれて、とても人気があるのだという。
私も、セロファンテープを使っていたところを、すっかりこのマスキングテープに替えてしまった。
紙なので、いろいろな色や模様や、ときには言葉も書き込まれていて、とても楽しめる。

「紙」と言っただけで、こんなにいろいろな話題が出てくるし、こだわりやうんちくまで、たくさん語れそうだ。

今回、その技術が文化遺産登録となった「手漉き」がどういうものか、ちょっとだけ垣間見ることが、自宅でもできる。
なるほど、紙って、そうなっているの?と思うような、ちょっとした遊びである。
牛乳パックで作る葉書である。

牛乳パックを、きれいに洗って、水に2~3日漬ける。
裏と表に付いているポリエチレンのフィルムをはがす。
細かくちぎる。
ミキサーに水を入れて、少しずつ撹拌して、どろどろにする。
葉書の大きさの枠に流し込む。下は平らなまな板など。
水気をしぼって固める。
アイロンなどでよく乾燥させる。

リサイクルの再生紙なども、こうして作っているのだろうか?
本物の樹の樹皮から作る紙もこうして作っているのだろうか。
遺産登録されたことで、これから、いろいろな詳しいことが、解説されたり、実際に行ってみたりするのだろう。
「人類の遺産」を、大切にしたい。


2014年10月29日水曜日

イスラム国について考える。--イスラムの女性たち。

今年に入ってから、中東地域に、イスラム原理主義を政治的信念とする、イスラム国が作られた。
このイスラム国はまだ国際社会に承認されたものではないし、国境線も未だ曖昧で、政府も曖昧な状況である。
この国の政治的信条がとても危険であると考えられることから、イスラム国について、考えてみたい。

きょうは、イスラムの女性たちと、女性たちを取り巻く状況について、考えてみたいと思う。
イスラム女性たちの服装、頭から被っている布は、「ブルカ」「ヒジャブ」など、いくつかの名前があるようである。
ここではひとまとめにして「ブルカ」という名称で書いてみたいと思う。
形もさまざまで、名称もさまざまあるとはいえ、イスラム女性たちがこうした布を被っていることは、とても印象的である。
ひとつは、欧米やアジアとちがって、手首や足首、顔の大部分と髪を隠していることである。
もうひとつは、この布の色が、いろいろと場合によってもちがうようであるが、黒一色であることである。
こうした、黒一色の大きな布に身体のすべてと顔の半分を隠して、目だけ見えている状態は、私たち中東以外の人たちから見て、何か異様というか、奇異な印象もするものだ。
しかし、「奇怪さ」「違和感」というのは、文化・伝統のちがいだと認識することにも、私たちは慣れてきている。
世界にはさまざまな風習・風俗があるものだ。

この衣裳・ブルカ文化は、イスラム教の、女性への抑圧の象徴と捉えられている。
説明するまでもなく、誰が見ても、女性の姿を他者に見せないようにするため、と思われるが、女性の身体の活発な動きを封じ込めているようにも見える。
また、髪や肌を「大切だから」守っているというよりは、それらを、時には忌み嫌うように認識しているのではないか?と感じさせる。
少なくとも「開放的だ」という言い方とは、逆の印象である。

閉鎖的ではないか、男女不平等ではないか、と言われている、アジアや日本においても、髪や顔まで隠さない。

ところで、あの黒いブルカの下で、女性たちはどのような姿形をしているのだろうか?
興味を持ってはいけないほど、何か黒々とした壁を感じるが、私は、日本のあるテレビ番組で、その姿のいったんを、知る事ができた。
「潜入取材」的な番組であったが、日本の若い女性タレントが同伴していたので、その女性タレントだけが、ある建物に入ることができた。
イスラムの女性たちが集まる、大きな三階建てのショッピング娯楽施設である。
もちろん女性だけしか入れないし、カメラも持ち込んではいけない。

その日本の女性タレントも、ブルカを被って、カメラなしで、この建物に入って見学してきた。
そして、建物から出た後、「イラスト」を描いてくれたのである。
イラストの専門家ではなかったのだが、描かれたイラストは、一瞬「えっ?」と思うものだった。
あれだけ女性たちへの抑圧が強いところであるから、黒いブルカの下も、質素な服装をしているのか、と思った。
実際は逆である。
それどころか、日本や欧米でも、一般の女性たち、ショッピングセンターに行く女性たちが、「していない恰好」をしていた。
キラキラとたくさんの光る飾りをつけて、そう、まるで、南の島の観光地で、男性だけが集まるバーで、踊り子たちがショーを行うが、そういった格好をしていたのである。

その建物のなかでしていることも、「爪をきれいに塗る」とか、マッサージをする、とかいうことである。
また、販売されているものも、色とりどりのそういった、「踊り子さん用の」衣裳である。

もしも黒いブルカの下が、夜のショーパブ並の「きれいな格好」だとしたら、これは確かに、街中や人前では隠さなければならない姿だろう、と思う。
また、妻や娘がこうした格好をしているとしたら、やはり人前では、真っ黒な布でも被って隠しなさい、ということだろう。
いや、妻たちに、家ではそうした格好をさせて、もしかすると、踊りを踊らせているのだろうか?
それはどんな踊りなのだろうか?

イスラムの男性たちの女性観は、そうしたものだ、と考えるなら、それはそうなのかもしれない、と思わされる。

イスラムの男性たちの女性観が、とても歪んでいることを、よく考えることが大切であると思う。

女性の蔑視は、女性をよく知らないところから始まるだろう。
子どものときから、女性たちや女の子たち、母親からも隔離されて、男は男同志で育ってしまうと、女性とはどんなものなのか、女性との付き合い方、話し方をどうしたらいいのか、わからないまま大人になってしまうのではないだろうか。
そして、人から聞いた情報や、テレビやインターネットで聞いた情報だけで、「女性像」を作ってしまうのではないだろうか。

日本でも、男子高校出身で運動部だった男性などは、思春期の年ごろに、女性と接する機会が少なかったため、女性とうまく話せない男性が、いる、という話を聞く。

また、家で「お母さん」と接することも、とても大切なことだろうと思う。

女性が教育を受けることを、頑強に拒むのは、欧米化を畏れているということなのだが、イスラム圏の男性が知っている「欧米の女性」というのは、どんな姿なのだろう?
あまり一般的ではない映画やポスターを、「欧米の女性」と思ってしまっているのではないだろうか?

また、女性に教育を受けさせたくない理由のもうひとつとして、男性も、教育を受けたい、という意味もあるのではないか。
世界各地から、さまざまなボランティア団体が、「子どもにも教育を受けさせるべき」「女の子にも教育を受けさせるべき」と活動をするために入っているが、子どもでもなく女性でもない、十代から大人にかけての男性が、教育を受けられる環境が、とても少ないのではないか。
十代から大人にかけて、というと、中学校、高校、大学、である。

ノーベル平和賞を今年受賞した、マララ・ユフスザイさんは、今、イギリスで高校教育を受けている。
環境や経済的事情から、高校教育を受けられない男性たちが、中東イスラム圏にはたくさんいることだろう。
こうした男性たちが、「なぜ女性にばかりスポットライトが当たるのだろう?」という、むしろ男性への不平等の叫びであるかもしれない。

まず、男性たちに、教育を受けられるようにすることも、必要なのではないだろうか。
男性たちが、必要な教育を受ければ、女性への対応の仕方も、大きく変化していくだろうと思われる。
また、近代化や社会に対する態度も、変化していくのではないか、と思われる。

女性観は、今の日本でも、とても大きな課題である。
イスラム国の女性観を考えることは、日本のこと、自分のことを考えることでもある。

イスラム国の問題に関して、これからも、また折に触れて、ひとつひとつ考えて書いていきたいと思う。


「ペコロスの母」と介護について。

介護をテーマとしたマンガ「ペコロスの母に会いに行く」が、話題になっている。
作者は岡野雄一さんで、作者自身が、実の母親が認知症になり、その介護をした体験をもとに、マンガを描いた。
介護は、社会のなかでとても大きな比重を占める問題となっている。
それは、個人においても、とても大きな比重を占めているだろう。
実の親の介護でもあるし、自分もいつか、介護を受ける側になる、という問題でもある。
また、認知症という病気に対する、畏れや不安もある。
自分が認知症になったらどうしよう、親が認知症になったらどうしよう?という不安である。
何しろ「わからない病気」「わからなくなる病気」なので、不安の増大感は半端ではない。

そうした、「わからなさ」からくる不安を、払いのけてくれるのが、マンガ化することではないか、と思われる。
最近では、うつ病をマンガ化したり、映画化したりすることもあって、知識と理解をさわりだけでも、知る事が出来る。
また体験した人の話をこうして知る事も、とても重要なことである。

「ペコロスの母に会いに行く」という題名は、ちょっと変わっている。
「ペコロス」というのは、玉ねぎの一種だそうである。
外国産の玉ねぎで、日本地元のものより、少し小さくて丸くまとまっているようだ。
老いて認知症になった母の姿は、まるで小さな玉ねぎのようだ、と愛情を込めてつけたあだ名である。

私も全編通してではないが、4コママンガなのであちこちで目にすることもあり、介護パンフレットなどにも載っているので、読んだことがある。
介護をする息子さんの葛藤や、お母さまの様子などが、あたたかい視点で描かれている。
介護ってこういうものなのかな、とほっとすることもある。

これは、やはり介護をする著者本人が、「お母さんの介護を、マンガのネタにしてしまおう」と思ったところで、客観視が出来ているのではないかと思う。
客観視してマンガ化して、たくさんの読者を持つことで、自分自身の葛藤を昇華しているのではないか、と思う。
実際に介護の現場にいる人々にとっては、この「客観視」と、「共通の思いを持つ読者がいる」状態こそが、必要なのではないだろうか。
そういった点で、著者の岡野さんは、「ペコロス」を描くことで、自分自身の課題を乗り越えることができた、幸運な人のひとりかもしれないと思う。

認知症の介護に関して、本音を語ってみたらどうなるだろうか。
たいていの人は正直言って、介護はしたくない、と思うだろう。
それが実の親のことだとしても、実の親だからこそ、家族なりの葛藤がある。
子どものころから、親には反抗してきた、という人がたくさんいる。
ある日、親が要介護の状態になったからといって、突然「孝行息子」に変身したりできるものだろうか。
「若いときにさんざん好き勝手したくせに」とは思わないだろうか。
「好き勝手して、子どもたちにも迷惑かけたくせに」
「介護の費用を貯金しておかないで、海外旅行ばかり行っていたくせに」
「私のことを、あんなに叱って家から追い出したくせに」
「子どもの私にご飯を作ってくれなかったのに、今になって私が親にご飯を作ってあげるんなんて」
「世話をするとしたら、親が子どもの世話をするべきであって、子どもの私が親の世話をしなければならないなんて」
…そうは思わないだろうか。

また、こういう気持ちもあるかもしれない。
「あんなに立派で頑固で壮健だった親も、老いてこんなに弱くなってしまうなんて」
「私にあんなにお説教をして、そのおかげでここまで強い大人になることができた、その親のトイレの始末なんてしたくない」
「弱くなった親の姿を見たくない」
「いつまでも強い親でいてほしい」

小さな子どもの、食事とトイレの世話は、子どもの笑顔でなんとか越えられるものかもしれない。
でも、大人が大人の世話をするのは、大変なものである。
大人は身体も大きいし、自我も自尊心もある。
自尊心のある大人同志で、どんなふうに上から下まで、世話を見たらいいのだろう?
それも、話も通じなくなってしまった状態で…。

「ペコロスの母に会いに行く」は、比較的おとなしいおばあちゃんであったように思われる。
幸運にも、良心的なグループホームに入所することができた。
今、特別養護老人ホームなども、入所待ち、順番待ちだそうである。
さまざまな被害もある。

いつかは、自分も老いるのだ、ということを、心に省みて、高齢になっても大切にされる社会を作りたいものだ。

田舎に行って感じるのだが、高齢者が大切にされている町は、なぜか小さい子どもが多い。

2014年10月28日火曜日

イスラム国について考える。--イスラム教。

このところ、世界情勢がとても緊張しているように思われる。
世界情勢が抱える課題はいくつかあり、緊急性を要するものもあれば、さまざまな角度から、長期的に解決をはかっていくべき問題もある。

私は、今回は、イスラム国について、考えてみたいと思う。
中東を取り巻く問題は、石油や歴史、地理的条件など、いくつかの要素から成り立っている。
そして、その大きな要素のひとつが、宗教である。
エルサレムは、三つの宗教の聖地となっている。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。
これらの三つの宗教は、もともとの文化的な基礎が同じである、と私は思っている。
もっとも現地の人たち、それぞれの宗教を信仰する人たちにとっては、死活問題となるほどの、おおきなちがいなのだろう。
その「ちがい」ゆえに争っているようだ。

しかし、遠くアジアの仏教国から見てみれば、あるいは日本を何の宗教と見るかは見地の分かれるところであるにしても、少なくとも、キリスト教やイスラム教を文化的基礎としていないアジアから見ると、エルサレムを聖地とする宗教は、互いによく似通っている。
そうであるにも関わらず、互いの小さな差を見つけては攻撃しあう姿は、哀しくもあるし、理解できない、と首を振ってしまう状態である。

最近、そう今年になってから、急激な動きをもとに出来てきた国「イスラム国」は、イスラム原理主義の国である。
原理主義というのは、教祖の教えに帰ろう、という運動ではないかと思う。
キリストもモハメッドも、仏陀も、生存していたときから数千年の時が流れてしまった。
彼ら人類の教師の教えは、文字となって残っている場合もあれば、人づてに残っている場合もある。
どちらにしても、「誰か別の人の手」に渡っているにはちがいない。

キリスト教も、キリストが生きた時代には、教会も牧師もなかったはずである。
ただ、教祖キリストに教えを願うだけであった。
キリストが亡くなったあとに、教会が出来て、儀式ができた。
そして、現代になって、近代化が起こった時に、キリストのもともとの教えを、近代的に解釈しよう、という試みがなされた。
この解釈に、不服を申し立てる人たちが、「もう一度、始祖の教えに帰ろう」「本来の教えに戻ろう」としているのが、原理主義ではないかと思われる。

キリストの教えも、モハメッドの教えも、生きた当時の社会文化に基づいて、生活の知恵を教えた部分がとても多い。
そうしたことから、当時の社会風習を、そのまま現代にも当てはめよう、としている面もある。
そうすると、近代的な進歩から取り残される心配が出てくる。
暮らし方、住む家、着る物、使う言葉、儀式や儀式で使う品々、といったことである。
そうしたものを、近代化の波から「守ろう」としているのが、イスラム原理主義であるようにも見える。

しかし、近代化は、ライフライン、たとえば水道や電気、ガスといった、近代的な設備を伴っている。
清潔に、安心して暮らすためのたくさんの知恵と工夫が、「近代化」にはあふれている。
また、物質的な豊かさもある。
そして、精神的な豊かさである。

精神的な豊かさは、たとえば、モラルハラスメント、マタニティハラスメント、アカデミックハラスメント、というように、人権問題への「目覚め」を伴っている。
男女平等、人間はみな平等、という考え方も、人類が人間として、精神的進歩を遂げてきた成果であると、私は思う。

そういった、物質的、精神的進歩を、一切否定しているのが、原理主義であると言わざるを得ない。
それは、近代化の波や、あるいは中東であれば、欧米から侵害されているという懸念から、欧米化を払拭しようという、懸命な抵抗であるように思える。

そうした意味で、イスラム国の、現代人から見れば奇異とも思える教義が、今、活動範囲を広げているようである。

また、イスラム国がとても攻撃的であること、戦闘的であることにも、原理主義のいったんを見ることができるようだ。
というのは、もともと教祖マホメッドという人は、戦闘によって、布教活動をしたからである。
日本には、イスラム教を研究した文献は少ないが、私も、多少ではあるが、井筒俊彦さんの書籍を読む機会があった。
井筒さんはたくさんの文献を残されているが、そのなかで私が特に興味を持ったのは、マホメッドの生涯である。
その人の生涯の軌跡には、その人の思想そのものが現れるように思う。

そして、イスラム国の原理主義の人々が、教祖マホメットの「真似をする」ことで、教えの通りに振る舞おうとしているのなら、本当にその通りでまちがいない、ということだろう。

エジプトや中東など、西アフリカの砂漠地帯には、オアシス都市というのが点在していた。
オアシスをひとつ占拠することが、布教活動につながったのだという。
マホメッドも、戦略を練って、先頭に立って、早朝に橋を破壊するなどして、戦績を挙げた、ということだ。
とすれば、イスラム教というのは、それほど戦闘的なことを、教祖自らしていた、ということなのだろうか。

穏健派のイスラム教徒も存在する、ということなのだが、原理主義の人たちに、マホメット自身の行動について、問いかけをすることは、ひとつのきっかけになるのかもしれない、と思う。
「どんな宗教でもいいところはある」という日本的な認め方をするよりも、もしかしたら、「イスラム教は悪い宗教である」という認識をしていくことも、考えるべきなのだろうか。

これからも、イスラム国とその対応、克服について、折に触れて考えていきたいと思う。


NHK「マッサン」第5週「内助の功」・「マッサン」に学ぶ夫婦仲。その2.

今週の「マッサン」は、テーマがその名も「内助の功」。
夫婦仲、というものに興味津々な私は、ドラマ「マッサン」から、ぜひとも仲良し夫婦の極意を学びたいと、真剣に見ては考えている。
きょう火曜日の「マッサン」は、やはり夫・政春の仕事が、壁にぶつかっている状況である。
住吉酒造の社内にも「敵」がいるし、大株主もまた、ウイスキー造りには反対の「敵」である。
これらの人物を説き伏せて、なんとか了承を得なければならない。
了承、といっても、お金の問題なので、これは本当にむずかしい。

人にものを頼むときというのは、男にとっても、女性にとっても、本当につらいことである。
時には頭を下げて、時には要求を呑んで、負けを認めて、そして頼みごとをする。
政春は、ウイスキー造りのための、資金集めからしなければならない状況である。
頭を下げている。
大株主、小株主、あちこちに土下座までしている。

土下座というと、昨年、話題になったTBSドラマで「半沢直樹」というのがあった。
本当に男の人は、土下座をするものなのだろうか?
そこまでするのだろうか?
それとも、これが最終手段なのだろうか?
一般の会社でこうしたことが行われているのだろうか?
それで本当に、相手は頼みごとを受け入れてくれるのだろうか?

このあたり、「男のサクセスストーリー」として、ちょっと疑問に思うところである。
「頼みごと」というのは、営業でもあるし、プレゼンテーションでもあるだろう。
ある意味で、頭を下げれば了承してもらえるならば、そんな楽なことはないんじゃないか、とも思う。
相手に、納得してもらうこと、あるいは相手にも同じ気持ちになってもらうこと、「自分もウイスキー造りに参加したい」「それは面白そうだ」「やってみたい」「成功してもしなくても、挑戦し甲斐がある」と思わせることも、男の仕事の手腕であるように思われる。
手土産やもてなしもそうであろうし、私はなによりも、仕事の内容やお金の使い道を、よく説明することが、大事であるように思う。
ウイスキーを「おいしい」と思ってもらうことも、とても大切だと思う。
政春はどうするのだろう?

次にエリーである。
エリーは、目の前で夫の土下座を見て、どうだったのかなぁ?と思う。
もし私だったら、夫がそこまで人に頭を下げているのを見たら、とても悲しいと思う。
ごめんね、マッサン、私がもっとがんばればよかった、なんとか私の力で大株主を説得してあげたい、なんとでもしてあげたい、と思うかもしれない。

しかし、きょうのエリーは、さんざんお酒を飲んでよっぱらった政春に、叱咤激励をしたのであった。
いかにも日本的な飲み屋さんに、酔いつぶれた夫を迎えに行く姿が、すでにもう、新婚を通り越して、立派な奥さんである。
夫の青い帽子をちょこんと頭に載せたところが、とても可愛い。
こうして、夫の持ち物や着る物を、なんの抵抗もなく身に着けることができるのも、妻の自然なしぐさだろうか。
あるいは、妻の特権だろうか…?

ともかく、エリーは叱咤激励をする。
酔いつぶれたのであるから、ただ叱る、ただ怒る、という場面でもある。
「叱咤」の次に「激励」をつけたのは、よき妻の内助の功かもしれない。
しかし、夫を叱り飛ばす妻、というのは、恐妻ではないだろうか?
夫は妻から叱られたいものだろうか?
もし私だったら、夫を叱ったり怒ったりしないで、やさしく励ますだろうと思う。
…とそこまで考えてみたけれども、できるだけ優しく対応しようと思いながら、できるだけ言葉で説明して理解と納得を試みたつもりでも、10日に1割は、叱咤・怒りまくる、かもしれない、と思う。

世の中の男性陣は、妻から女性から、叱られてみたいものだろうか?
これはとても面白いところである。
脚本家が男性なので、世の中の男性は、こうして妻から叱られると発奮するものだ、と心得ておくことにしようと思う。


赤瀬川原平さんとトマソン。

先日、赤瀬川原平さんが亡くなった。
作家で芸術家、と言われてもピンと来ないが、「トマソンの」と言われると「あぁ」と思う。
私は芸術とか美術にはそんなに詳しいほうではないのかもしれない。
イタリア・ルネッサンスの絵画なら、好きな絵はいくらでもあるのだが、現代芸術、それも前衛芸術というと、さっぱりわからない。
名前と作品が一致しないのは、やはりあまり好まないからかもしれない。
特に「前衛」と呼ばれるものは、文学であっても、あまり好みではない。

それでも、シュールレアリズムというのには、いっとき興味があって、いろいろ見聞したものだが、友人もうなずいていたのだが、シュールレアリズムが好きな時期、というのは、はしかのようなものであって、いっときは熱に浮かされたようになるが、その後、パタリと止んでしまうような「好き」なのだそうである。

「トマソン」は、その友人が「トマソン写真集」を持っていたので、見せてもらった憶えがある。
トマソンというのは、誰かプロ野球選手の印象からとった、いわば「あだ名」のようなものであるが、「無用の用」に近いような意味だったと思う。

階段があって、その階段を昇った先に、ドアがない。
二階建ての白壁に、ぴったりと階段がくっついているだけであって、昇ったとしても、二階の部屋に入れないのである。

こうした建物は、前衛美術として造形したものではなく、一般家屋に存在する。
なぜこうした建物ができるか、というと、古い建物を改築したり、増築やリフォームをしたりする際に、二階の壁はふさいだのだが、階段を取り外すのは、費用がかかるからやめにした、そのままにしておいた、というような理由であるらしい。

こうした、何か不自然な建物が、日本だけではなく世界中の都市や町々に点在していて、それを見つけては写真を撮って、芸術としているのだそうだ。
旅行先で「トマソン」を見つけるのが趣味、という人もいるのだそうである。

「トマソン写真集」を見たとき、とても面白かったので、笑ってしまった。
芸術を味わう態度ではないのかもしれないが、とても面白かった感覚が残っている。

「お笑い文化」が、日本でも盛んである。
「面白い」と感じるのは、常識を逸脱した何かを感じるからだ。
常識をはずれたときの「はずれ具合」の面白さは、常識を知っているからこそ、得られる楽しみである。
もともと常識を知らない人にとって、これが常識からはずれているかどうか、は認識できないだろうと思う。

「トマソン」の面白さは、あってしかるべきところにドアがない、あってしかるべき入口がそこにない、という「しかるべき」の常識を、超えたところにある。

笑いを楽しめない人が増えているのは、「しかるべき」という乗り越えるべき常識を、最初から知らない人が、増えているということなのだろう。


2014年10月27日月曜日

読書週間始まる。

今年も読書週間が始まった。
10月27日から11月9日までだそうで、毎年11月3日の文化の日を中心とした二週間を、読書週間に充てているのだそうである。
今年の標語は「めくる めぐる 本の世界」となっている。
このキャンペーンの発足のきっかけやキャンペーンの内容を、ホームページで見ていると、読書週間には、新しい時代の、何か新しい目的観や手法が必要なような気持ちがする。
というのは、読書週間の始まりは、終戦後間もない昭和22年で、本、出版物への、要望や必要性がとても高かったころだ、ということだからである。
その時期に、出版社や公共図書館などが集まって、「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」と運動が始まったのだそうである。

昭和20年代には、戦後間もない、ということもあって、本というよりも、情報への希求が強かったのではないだろうか。
それも、海外の文化や、外国の情報、外からの情報である。
本や活字が定着してから、写真、映像(動画)、テレビや映画の情報が、媒体として普及し始める。
写真や映像以前というと、活字への要望というより、「欲求」に近いものが、強く強く存在したのではないか、と思われる。

それは、活字媒体への欲求であって、よくよく突き詰めてみれば、情報への欲求だったのではないだろうか。

現代社会では、インターネットが加速度的に普及している。
ファクシミリの普及でもそうだったのだが、文字や活字だけではなく、絵や写真が、とても手軽に送れるようになった。

ツイッターやフェイスブックでもわかるとおり、デジタルカメラはとても発展して、手軽に使えるようになった。
フェイスブックの記事では、文字の数はとても少なくても、写真が主だった伝達手段として使われることが多いようである。
また、ツイッターを見ていてもわかるとおり、イラストやマンガを描ける人が、とても多くなったように思う。
サインペンやボールペンで、手帳に「アイコン」的なイラストを記入している人も多いようだ。
また、手帳の余白に、絵画的なアイディアを書き留める人も多いようである。

私自身は、自分で自信を持って言えるほど、「活字派」である。
デジタルカメラも持っているし、簡単なイラストならがんばれば描くこともできるが、「言葉か?絵画か?」と問われれば、即答で「言葉です」と答えると思う。
ツイッターもフェイスブックも、文字の打ち込みを「私」の表現手段にしたい、と思っている。
言葉を使っての発信で、それをすべてにしたい、それは個人所有の主義である。

私個人が予想していたよりも、写真や映像での情報発信が多くなったようである。
また、情報の受信も、文字より写真や映像が多く、スマートフォンやタブレットも含めて、インターネットを介する場合が多いようである。

こうして、国内外からも海外からも、たくさんの情報が受信できるようになって、活字への欲求は薄れてしまったようだ。

私自身も、「チボー家の人々」「狭き門」「戦争と平和」「レ・ミゼラブル」「モンテ・クリスト伯」など、長編小説を、夢中になって読んだものだ。
あのときの、長編小説に浸りきる、という感覚を、子どもたちにも教えてあげたいように思う。
けれどそれは、今にして思うと、とても忍耐力と読解力の必要なことだったのかもしれない。
そしてそれは、なんらかの「欲求」に基づくものだったように思う。

現在では、映像文化が盛んとなり、イラストも音楽も手軽にパソコンで作れるようになった。
そして、作り手も多くなった。

活字文化、文学は、グーテンベルグが活版印刷を発明してから、起こったものだそうである。
とすれば、インターネットやデジタルの発達で、文学とはまた別の文化が生まれるものなのかもしれない。
「昔はよかった」と思わないで、イラストがすらすら描ける子どもたちを、褒めてあげればよいのだろう。

とはいえ、言葉には言葉にしか表現しえないものがあると、やはり思う。
言葉で残さなければならないものも、たくさんあるだろう。
言葉を通して読み取らなければならないものもあるだろう。

私は、言葉、活字文化の衰退は、現代の活字文化の中にあるテーマに問題があるのではないか、と考えている。
思想やテーマ性が、低くなったり、軽くなったり、あるいは深刻であったりしすぎないだろうか?
せっかく、忍耐力と読解力をもって、長編小説を読んでも、そのあとに苦々しい気持ちが残ったりしないだろうか?

いわゆる「ソフト」の面で、活字文化、日本文学は、まだまだ改善と進展の余地があり、問題点がとてもたくさん残っていると思う。

アニメも、コミックも、とても力強く、活発である。
特に青春を描くときに、とても元気が良い。
日本の現代文学のなかに、今、それがあるだろうか?
活字文化は、ひとにぎりの「文学オタク」の溜り場になってはいないだろうか?

言葉でしか表現できない「なにか」を求めて、私も、一生懸命、文字を書いている。