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一年間の休載のお報せ。

こんにちは。
朝倉聡子です。
きょうは、一年間の休載の決心をしたことを、お報せするために、この記事を書いています。
休載一年後の復帰については、「ハーフ ハーフ」です。

理由といたしましては、とても休養が必要な状況である、ということです。
先日、フィギュアスケート選手の浅田真央さんが、「来季休養」を発表されました。
その後の進退については、「ハーフ ハーフ」ということで、現在の時点において決まっていないことを示しました。
私はその決心を聞いて思うことがありました。
それは、世界というレベルにおいて、とても緊張度の高い競技をしてきた選手にとっては、心身共に、休養が必要であるということが、「とてもよくわかる」という気持ちです。
そして、その休養は、一年という長期的な期間であることも、「とてもよくわかる」という気持ちです。

サッカー選手の中田英寿さんも、サッカーワールドカップのあとは、ほとんど公の場に姿を見せませんでした。
これは、スポーツをよく知っている人から聞いた話ですが、世界的な競技のあとは、心も身体も、そのテンションを高めたものをときほぐすには、一年、二年という年月が必要なのだそうです。
たとえば、長いマラソンを走り切った選手が、だんだんと、すぐに身体の動きを止めないで、少しずつ休息の状態に入っていくように、整理体操をする、そしてしばらく休養してから次のレースに挑む、というようなことです。

私は、私自身の体調や仕事の仕方を、今後のことも含めて何通りも考えました。
そして、スポーツ選手の手法に学ぶことにしました。

これから、まず丸一年間は、ブログとツイッターの活動を、すべて休養いたします。
浅田真央さんも、講演会やCMには出演されるそうなので、そういったような意味で、インターネット上で、少しずつ何か「競技」とは別のことで、お見かけするようなことはあるかもしれないです。
インターネットは生活必需品でありますので、そのあたりは、ご了承ください。

これまで、このブログ「朝倉聡子・日々のつぶやき」はときおり休みつつも約3年間続けてまいりました。
その間に、読んでくださったみな様、お世話になったみな様に、本当に心から感謝しています。
ありがとうございました。
これから休養に入る朝倉聡子を、温かく見守ってください。
本当にありがとうございました。

朝倉聡子

2014年5月24…

人口のブラックホール現象について。

今、人口問題で課題となっているのは、「人口のブラックホール現象」だそうである。
少子高齢化や、限界集落など、人口問題をめぐってはさまざまなテーマが課題となってきた。
これに対応する工夫が求められている。

人口のブラックホール現象に対してとる態度は、まずは、あまり悲観的にならずに、てきぱきと対処することであるかと思う。
というのは、日本全体を見るような立場、たとえば、政治家であるとか、社会問題の評論家といった人たちにとっては、人口は都市に集中しすぎることなく、まんべんなく広がっている状況が理想的であるだろう、と思える。
だが一方で、暮らす人々にとっては、自らの人生設計やより豊かな生活、暮らしやすさを求めて、移住・移転することも、とても大切なことであるだろうと思える。
それから、特に歴史の長い故郷に暮らす人にとっては、跡継ぎもなく「自分にとって」大切な村が消えてしまうことへの、失望や不安があるのではないかと思えるが、世代を継ぐ新しい人たちにとっては、やはり先人の思い出を継ぐために生まれてきたのではない、ということも重要であると、私は思う。

人口問題は、このところ、特に「減少」が言われているが、ほんの30年前までは「人口の爆発的増加」のほうが、大問題であった。
20年後、50年後の人口の予測をして、それだけたくさんの人たちが人口過密地帯でどのように暮らすのか、社会学者にとって、人口増加のほうが問題だったのである。
現在ではそのときの政策もあってか、人口の安定とそして、減少となっている。
この経緯を考えると、これからまた30年ほどで人口が増え始めることも考えられると思う。
実際に、少子化対策は次々に取られている。

そうした将来のことを踏まえて、いくつか、てきぱきとした対応策を考えてみた。
ひとつは、ブラックホール現象となった村落を、「整理整頓」することである。
いくらかの金額と人手はかかることであるが、建物をそのまま放置することは、危険が予測される。
使わなくなった建物はきれいに整理して、片づけることが必要であるかと思う。
そしてここで思うのが、まったくきれいな、人のいない更地にしてしまうのではなく、これからまた暮らす人々が集まるために、ライフラインを残しておくことである。
せっかく先人が拓いた土地なので、電気やガス管、水道管、主要な建物をいつでも復活可能な程度に残して…

NHK「花子とアン」第7週「さらば修和女学校」感想。

花子の就職活動。
NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」。
ひとりの女性をヒロインにして、その生涯を描いていくのが、朝の連ドラの楽しみである。
ヒロイン花子は、今週は、いよいよ20歳を迎え、女学校の卒業を目前にして、就職活動にいそしむこととなる。
この週は、女学校時代の友達や、幼なじみ、妹たちが、それぞれに、職業を持って社会に羽ばたく物語になっている。
それにしても、女性の就職先はいろいろと本当に選択肢があるものである。

花子の腹心の友、蓮子は、遠く九州へお嫁に行った。
お見合い結婚である。
「小さい人たち」と呼ばれた入学のころから一緒だった醍醐さんは、何回もお見合いを繰り返して、お医者さんと縁談がまとまった。
ここまでなら「お見合い結婚派」となる。
以前は、結婚のことを「永久就職」などと呼んだものであるが、その「職」を選ぼうとしている。ところが…それを蹴って、職業婦人となる。
花子自身は、まずは、女学校の英語担当の教師、あの厳しかった富山先生から「この学校で英語の教師になりませんか」と声をかけてもらうことになる。
だがこのとき、山梨の故郷から、妹のカヨが、女工場から逃げ出して、東京の姉である花子のところに身を寄せていた。
当時、山梨県では、製糸工場というと、とても勤労の条件が厳しかった、という描かれ方である。
それで、「もう二度と、工場には戻らない」と言い出す。
工場に戻らない、ということは、山梨には戻れない、という意味である。
5年間の労働契約に違反したことになるので、山梨では顔が立たなくなる、という意味でもあるだろう。
労働基準法が確立していない時代のことであるから、妹のカヨとしては、自分自身が生きるために、懸命の選択をした、ということだろう。
それを許してくれた実家、母親、姉であった。
そして、姉である花子のコネクションで、東京で、外国から来た人たちの衣服を作る仕事の見習いに就くことになる。
お針子見習い、ということである。
これも、当時の女性の、職業選択だろうと思う。

花子自身は、富山先生からの、英語教師の申し出を断り、東京で出版社勤務をしたい、と思う。
そして、以前、ブラックバーン校長先生の紹介でアルバイトをした出版社に、ほとんど直談判ともいう形で、「お願いします」と行く。
そして、了承をもらうのだが、ここで、山梨の妹ももから、葉書が届く。
山梨の実…

原発のない暮らし。

反原発派が、世の中を荒らしまわっている。
思い通りにならない不満でうっぷんがいっぱいであるようだ。
それなので、もしも彼ら反原発派の言い分が通った場合のことを、シュミレーションして、彼らに提示してみたい。
原子力発電がまったくなくなるとすると、他の電力源に頼ることになる。
火力、水力、太陽光、自然的発電などいろいろあるが、火力発電は大量の二酸化炭素を排出する。
エコライフを目指す反原発派にとって、二酸化炭素を増やしてでも火力発電をしようというのは、つじつまの合わない話であるからやめてもらうことにしよう。
貿易赤字も膨らんで大変である。

また、こうして原発がなくなったあとどうするのか、代替案を示してくれというと、その代替案を考えるのが政治をする人たちの仕事であるから、我々は示された政治に対してただ「いやだ」と言えばいい、言う権利がある、という理屈がある。
とんだ甘えん坊さんである。
その甘えん坊さんのために、原発がなくなった暮らしを、シュミレーションして提案してあげなければならないだろう。

太陽光をはじめとする天然資源を使った発電はとても不安定である。
私も自宅で、ソーラーの電灯を使っているが、きょうのような雨の日にはまったく役に立たない。
蓄電池の生産も、20年、30年がかりとなるが、それでも代替できなくはない。
しかしそれでも、原発をすべてフル稼働していた当時の電力量には到底追いつかない。
そのときの、日本人の生活は、現代とは一変してしまうことを、具体的に想像してみよう。
まず、電車は動かない。新幹線も動かない。空港の設備が動かないので、飛行機にも乗らない。
夜、深夜のコンビニは開いていない。
夜間トラックは配送をしない。
夏の間、エアコンは使えない。
夏の間、冷蔵庫は使えない。
冬、暖房器具は使えない。灯油や火を使うものは二酸化炭素を排出するのでこれもダメである。
そしてもちろん、パソコン、携帯電話、スマートフォン、インターネットは使えない。
ファクシミリも使えない。
電話交換手は夜間は電力節減のために、お休みをしているので、電話は使えない。

美しいエナメルの靴は、工場で電気を使って作られているものである。
こうした靴はもう履けない。
機械織りの繊維を使った安価なスーツ、これを着ることはできない。
服を着たい人がいたら、自分で機織りをするのがベストである。

三浦綾子「塩狩峠」

今年も、夏がやってくる。
毎年夏休みのシーズンには、子どもたちに読書をすすめる意味で、各出版社が本を選抜して紹介する。
これは、夏にさきがけて、ということだろうか、書店で小さなパンフレットをもらった。
「高校生に読んでほしい50冊」という小冊子である。
今、「高校生に読んでほしい」というと、どんな本が推奨されているのだろうか。
興味を持って、一冊一冊確かめてみた。
その中の一冊に、とても印象深い本があった。
三浦綾子さんの「塩狩峠」である。

その紹介文をここに書きとめよう。
「結納のため札幌に向った鉄道職員永野信夫の乗った列車が、塩狩峠の頂上にさしかかった時、突然客車が離れ、暴走し始めた。声もなく恐怖に怯える乗客。信夫は飛びつくようにハンドブレーキに手をかけた…。
明治末年、北海道旭川の塩狩峠で、自らの命を犠牲にして大勢の乗客の命を救った一青年の、愛と信仰に貫かれた生涯を描き、生きることの意味を問う長編小説。」
また、こうした題字も書かれている。
「誰だって、他人のために死にたくない。
……そうだろうか、本当に?」

列車事故も交通事故も、一度あることが、二度も三度もある。
それでも人は、車に乗り、列車にも乗る。
事故の大きさや、影響の大きさで、「一度あることは二度あるからもう二度とこれはしない」というのは、理屈としてはどうなるのだろう。
列車事故が二度も三度も起きている状況のなかで、便利な現代社会に慣れて、我が息子の命だけが大事、列車にも車にも乗るが、原発だけは反対、これで何の筋が通っているものか。
「生きることの意味」「命を燃焼しつくすことの意義」も知らない生存本能だけで、自己保身に生きるだけで、本当に成長をすることができるのだろうか。
「成長」というのは、人間的成長、という意味である。

そうした意味でも、現代の日本には、宗教や生きることの価値が、あまりにも薄れてしまっているのではないだろうか。
なにか根本的な精神を忘れてはいないだろうか。

今、高校生の若者たちが、「塩狩峠」を読んでいる。
大人たちも、見習うべきだと、私は思う。


論点を整理して書く。

集団的自衛権の解釈、あるいは憲法の改正に関して、論点を整理して書く。
ひとつ。
正当防衛の権利は、アメリカ社会でいう、銃刀法の合法化の理論とイコールであるかどうか。
私が思うのは、日本には伝統的に古来から、武道があったということである。
武士は刀を持っていて、それを使う権利も持っていたが、刀を抜かずに物事を解決する、という、武士の道を習い覚えていた。
これは、道徳であり、倫理であり、「道」である。
日本が軍隊を持つことは、日本人が刀を持つことであり、武士が刀を持つことである。
この刀を抜かずに物事を解決する道が、武士道の根本的な精神なのである。
これは、柔道や剣道にも通じるところである。
アメリカの銃合法化とは、その根底にある精神がまったくちがうものである。

ひとつ。
旧ソ連による、シベリア抑留について。
ソ連が日本人を強制連行したのは、日本が武力や、武力をもとにした強い力を持っていなかったからである。
スターリンのような、未だ捉えがたい、非人道的な独裁者に対して、どのように対応し、被害に遭わないようにするのか。
最終手段として、まずは武力を整えるしかないのではないかと思う。
また、こうした損害に遭わないために、向こうからしかけられた戦争の被害に遭わないために、その被害を最小限にするために、スターリンと闘う方法を身に着けるしかないと思う。
仕掛けられた戦争に「乗らない」ための、武力の保持である。
むしろ、戦争をしないための、武力維持である。
シベリアのような惨劇を繰り返さないために、軍を持つというのが、今の集団的「自衛」の理論である。
シベリアで被害に遭った人たちは、その現実を書き留めたのであって、史実と事実関係を書き留めた、理解した、というわけではない。
要するに、「こんなことはなしにしよう」と言いたかったのだろう。
しかし、最も大切なことは、戦争の原因を確かめることである。
この当時のソ連に、独裁者体制があったことを、筆者は知っていたかどうか、それをよく知って、二度と起こさないことが大切である。

ひとつ。
ハンセン病被害と、差別と、宗教に関して。
このところ、「法人税の軽減」が課題となっている。
法人の見直しを、抜本的にはかろう、ということかもしれない。
私は、「宗教」そのものを、よく研究することが大切であると思う。
思いハンセン病を患った人たちは、当時、医…

集団的自衛権に関する安倍総理の会見について。

昨日5月15日、夕方から、安倍総理の記者会見が行われた。
今、安倍内閣が推し進めようとしている、集団的自衛権に関する憲法解釈、憲法改正に関しての、説明である。
こうした説明が、総理本人からなされることは、とても珍しいことだと思う。
テレビはもとより、インターネットでもライブで中継が行われ、全国民がこれを注視した。
もちろん、私も、である。

私がまず一番最初に思ったのは、これまで自分自身が「集団的自衛権」を、誤解していた、ということである。
これまで、憲法9条の改正というと、「国防軍」の明記がメインだったと思ったので、読んで字の通り、国、つまり自国を守るための軍隊だと思っていたのである。
そしてその軍隊は、まさか一人で兵となるわけではないだろうから、「軍」という意味で、集団だと思ったのである。

実際に、総理から説明を受けてみると、そういうわけではなかった。
しかし、誤解が解けてみたら、もっと驚いた、というわけである。
「集団的自衛権」の「集団」とは、自国・日本と、同盟国・アメリカ等を指すのだった。
つまり、自国だけでなく、同盟を結んでいる友好国が、なんらかの脅威にさらされることがあって、危機的状況になるのなら、助けに行く、ということである。
そして、この「助けに行く」は、食料補給や燃料補給ではなくて、攻撃的な軍隊を差し向ける、ということである。

次に私が思ったのは、総理大臣の、世界情勢に関する説明である。
テロや北朝鮮の行動、そして、インターネットを使ったテロリズムなど、世界は脅威にさらされている。
アジアの情勢もそうである。
国際情勢は危機的状況にある、という説明である。
これまで、日本の国内の復興だけに興味・関心を向けてきた私にとっては、寝耳に水の話である。
安倍総理は外務大臣を歴任してきた、ということだ。
そして、総理大臣に就任してからも、海外への歴訪を繰り返している。
総理大臣の仕事というのは、国内を治めるだけではなく、国際情勢において、国と国との交渉をすることなのだ、と改めて思い知らされる。
総理大臣の視点は、世界のなかの日本、世界情勢に向けられているようだ。

次に、私がこの言葉を聞きたかった、と本当に思って、安心したのは、「決してこちらから戦争を仕掛けるわけではない」「戦争をこちらから始めることはない」という言葉である。
決して、戦争をしたくて、闘争心の…

NHK「花子とアン」第6週「腹心の友」感想。

大好きな、NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」。
第6週目にはいった。
もう、主題歌の「にじいろ」もすっかり覚えて、テレビ放送と一緒に口ずさんでいる。
音楽としてはけっこうむずかしい歌である。
音程を取って、歌詞を覚えて、そしてようやく伴奏の音が聞こえ始める。
伴奏がなかなか素朴なアレンジで素敵な音楽だと思う。

第6週の「腹心の友」では、友となった花子と蓮子の、それぞれの恋愛が描かれていく。
花子は、学校に通いながら、学校から紹介されたアルバイトに行くことになる。
そこは出版社で、雑用をしながら、でも英語ができるので、ピンチのときには、英語の翻訳をする、という場面となる。
ここで初めて出会うのが、将来の夫となる村岡英治である。
もう「村岡」と苗字が出てきているので、将来的には夫婦になるのだろう、と思うと、なんだかうきうきして観てしまう。
この村岡さん、役者は鈴木さんというのだが、これまでにいろいろな役をしてきて、あだ名もすでに定着しているようであるが、東京外国語大学の出身だそうである。
これからどんどん、英語をしゃべりそうだ。

この英治が、花子と出会うのは、花子が高い本棚の上段にある、英英辞典を取ろうとしているときである。
背の高い男性が、そっと手を差し伸べて取ってくれて「どうぞ」なのだから、ときめく。
しかし、たとえば、大きな荷物でぶつかったり、花子の翻訳文を「ばかでもわかる」と言ったり「動物のナマケモノに似てますね」といったり、かなり失礼である。
でも、恋の始まりというのはたいがいそういうものだ。
失礼で大嫌いで顔も見たくない、サイテーの奴が、いつの間にかかけがえのない大切な人になっていく。
これからその過程を見ることができるのかと思うと、とても楽しい。

一方で、蓮子のほうでは、お見合いの話が持ち上がる。
蓮子の実家の伯爵家では、名前はあってもお金がない、ということで、お見合い結婚なのだ。
それも、結納金をすでに受け取ってしまっているという。
相手は、九州の炭鉱で一代で一儲けした年上の男性で、この大金持ちの男性としては、お金があるから、今度は地位がほしい、というところだろう。
フランスでもナポレオンは、ある程度、戦果を治めたあとには、地位がほしくなった。
それも血筋に由来する地位である。

九州の炭鉱王が、華族の御嬢さんをお嫁さんに迎えた、というと、知ってい…

自民党・公明党の連立に関して思うこと。

ゴールデンウィークが終わって、国会のほうも、にぎやかさを増してきたようである。
6月の会期末に向かって、憲法改正のために、一直線に走ろう、という政治の意図が、見て取れる。
与党自民党がまず行っているのは、連立政党である、公明党との関係性の、調整である。
これまでも常に「調整中」であった。
しかし、憲法9条の改正のためには、そろそろ、公明党としても、態度に決着をつけなければならないだろう。
本来であれば、政治としては、駆け引きであったり交渉であったり、話し合いであったりする。
話し合い、論じ合えば、これまでの考えが、だんだん変化していくこともあるだろう。
しかし、公明党は、日本においては、独特な政党である。
というのは、公明党は、支持母体を、創価学会という宗教団体においているからである。
公明党の支持者は、ほとんどが創価学会員である、といえるだろう。
選挙運動においても、創価学会員が、選挙運動を積極的に行っている。

この創価学会という宗教団体は、宗教はどこもたいていそうであるが、「平和」「友好」「話し合い」を信条としている。
また、核兵器廃絶運動なども、積極的に行っているようである。
核兵器と原子力発電所とでは、ちがいがあるからなのか、公明党として、反原発や憲法改正に対しての反対、という意思表明は、はっきりと出されていないいようである。
こうした、宗教的理念が基底にあるので、これから先、憲法改正に関して、賛成、という方向性は、ないと思われる。
ここが問題である。
「戦争を絶対にしない」ことをモットーとしている思想団体が、憲法9条の改正に賛成するわけがない、ということである。

この点に関しては、自民党の考えは、「公明党に何を話しても変わるわけない」というところだろうか。
それは、ある意味、宗教に対する、評価であり期待でもありかもしれない。

公明党はこれから、どんなふうになっていくのだろう?
自民党から三行半を突きつけられるのだろうか。
そういうこともあるだろう。
もしも、自民党から離脱することがあれば、しかしこれは、ちょっとこわいことにもなる。
というのは、反原発の勢力、反憲法改正派の勢力は大きくなっているからである。
民主党や維新の会、みんなの党や社民党と一丸となって、反原発の一大勢力となって、「オール野党」を結成する可能性は大いにあるだろう。
その際には、今、与党…

サッカーワールドカップ・サムライブルー必勝法。

昨日、5月12日、サッカーワールドカップ・日本代表選手の発表があった。
サッカーの世界的な大きな大会というと、いくつかあるが、ワールドカップというと、4年に一度の、世界最大のサッカー大会、ということになる。
今年6月に、ブラジルで開催されるサッカーワールドカップは、決して見逃せない、いや、決して負けられない戦い、と言われている。
日本だけではなく、世界中のサッカーファンが、熱く熱く、燃える戦いである。
このサッカー大会の選手、日本代表になれるのは、日本の国の本当の本物のトップと言えるだろう。
この代表メンバーに選ばれるだけでも、とても栄誉あることだといえると思う。
だから私も、昨日の午後2時のライブ中継は、真剣に見ていた。

こうしてメンバーが決まると、あとは試合の6月までの一か月間、選手たちの調整や作戦が始まる。
街中でも会社の中でも、この戦いの戦略について、おおいに語られるところである。
私も、サムライジャパン、サムライブルーの勝利の方程式を解くのに、夢中である。

まず、私が思うのは、各選手と監督とサポーターが、サッカーのルールを今一度、確かめて、自分のものにすることである。
「そんなこと今更」というかたもいるかもしれないが、実はこのルールをわかっていない人は、案外多いようである。
テレビで試合の中継を見ていれば、すっかり見えるとおり、向かっている向こうに立っている、ネットのついた白い枠、この枠のなかに、サッカーボールを投入すると、これが得点となる。
単純なルールであるかもしれない。

しかし私は、この「目で見えるサッカー」を、自分の買い物カゴに林檎を入れるゲームであると思い込んでいた時期があった。
そして、「敵チーム」は、その私の買い物を、邪魔しようとする存在である、と思っていた。
こういう気持ちで観ていると、サッカーの試合はまったく、邪魔ばかりはいってちっとも買い物が進まない、イラつくゲームである。

ある日あるとき、サッカーの先輩に聞いた話で、これは買い物ゲームではない、とわかった瞬間があった。
サッカー、これはまさに、戦争ゲームなのである。

このご時世で、「戦争」という言葉を口にするともうそれだけで非国民のように扱われるから、いろいろと慎重に言葉を選ばなければならない。
しかし、そうしたことを考えてみても、これは戦争ゲームとしかいいようがない。
私は思う、戦…

おかあさん。ありがとう。

きょう、5月11日は、母の日である。
毎年5月11日が母の日、と決まっているわけではなくて、「5月の第二日曜日」という設定のしかたである。
冬が終わり、桜が咲いて、五月の青空が広がるこの、一年で一番いい季節に、母の日を決めたことを、とても楽しく思う。
子どものころの母の日は、幼稚園や学校で、お母さんの似顔絵を描いたり、お母さんへのプレゼントを、折り紙で作ったりした。
似顔絵を描こうとすると、どうしてこうもまた、お母さんと似ていない絵になるのだろう、と本当に悲しくなったものである。
ずっと以前、昭和の時代であるが、サトウハチローという詩人がいて、「母という字のむずかしさ、やさしさ」と言っていたように思う。
母の似顔絵は、むずかしくて、やさしくて、ときどき涙が出てしまう。

年齢があがるにしたがって、母の日への思いも変わってくるものだ。
女の子として生まれ育てば、母と同じように、女性を生きることになる。
そして、年齢それなりに、そのときの母の思いが、わかるようになってくる。

そして面白いのは、年齢が上がるにしたがって、母に似ているところが、むしろクローズアップされてくるところである。
子どものころは、「お母さん似ね」とか、「お目目がそっくり」などと言われると、うれしかったものだ。
背の高さや、あとは、電話での声がそっくりだ、と言われると、そうなのかも?と笑ってしまう。

もっとずっと大人になってくると、物の考え方や口調が、母とそっくりになってきて、自分でも苦笑してしまう。
そして、大人になって世間を知るようになると、子どものころに母からの教育を受けたと思っていたのとは、またちがうことに、気づかされる。

それはたとえば、私の大好きな編み物である。
編み物がちょっとした流行になってくると、編み物を初めてしてみたい、という人がとても多いことに気付く。
そして、自分はいつから編み物をしていたのだっけ?どんなふうに覚えたのだったかな?と改めて考えてみるのである。
そうすると、初めての編み物は、母が、自分の道具と毛糸を使わせてくれて、手取り足取り、教えてくれたのだった。
確か、小学校2年生ごろだったと思う。
お人形さんのマフラーを編んだのだった。
お母さんから何かを教えてもらうのは、とても楽しかった。
憧れのお母さんに、一歩近づくわけであるし、編み物などは特に針を使うので「もっと大人…

ゴールデンウィークが明けて思うこと。

ようやく、といったふうで、ゴールデンウィークが明けた。
今年は、お正月そうそうから、社会を困らせるような事故が起こったり、2月には大雪、3月には消費税増税のための準備、そして4月にはすっかり疲労しきっていたところへ、オバマ大統領の訪日があった。
理化学研究所では、STAP細胞に関するニュースが、「なぜここまで?」というほど、世間を席巻した。
社会不安のなかで、いったいなにがどうなっているのか、と漠然とした思いで、少し様子を見なければ、という思いで、日延べで、一日、また一日、と毎日を生きていたようなところがある。

2011年3月の震災から、3年の年月が流れた。
日本の社会は、復興に向かおうとしてるのだろうか。
それとも、むしろ疲労が極に達しているのだろうか。

震災の直後には、「がんばろう」「がんばろう」という気持ちになれたものが、3年経って、今になって社会全体に疲労が蔓延してきたようにも思える。
このあたりで、少し休んでもよいような気がするのだが、私自身は、あまり休む気持ちになれないでいる。
休まなければならないような、気持ちの張りつめ方だったことは百も承知なのだが、この4月に、オバマ大統領が訪日したあたりの、アジアの情勢は、本当にそれは、自然現象として、「いろいろあった」ということなのだろうか。
マレーシアでは旅客機が行方不明となって、もう二か月になる。
韓国では、先進国としてはあり得ないような客船の事故が起こった。

政治を司る人たちにとっては、4月の消費税増税は「うまくいった」と思えることなのかもしれないが、消費者にとっては、単なる増税では済まないような、実感として物価の上昇を感じる毎日である。
その上、ゴールデンウィーク中に地震があり、きょうはまた、大気の状態が不安定、ということで、風が冷たい。

政治や社会の、あまりにも速度の速い進み方に、人の気持ちがついてきていないような気がする。
また、本当に、オバマ大統領の訪日、アジア歴訪と、アジア諸国に起こった数々の出来事が、連動していないのか、アメリカが何かを計画して実行したのではないか、と疑問が止まらない。
タイのデモは、アメリカが、内乱をわざと起こさせたとは、言えないのだろうか。

そういった意味では、日本国内も、国のなかで、勢力が二分するような、妙な構図が作られてしまったように思う。
権力が大きくなると、それを「…

登山に関して思うこと。

日本は、諸外国に比べて、休日が少ないのではないか、と言われているらしい。
国民的に祝日となれば、休みも取りやすくなるし、いろいろな形で祝日が増えるのは、喜ばしいことである。
今、国会では、「山の日」の制定を目指しているそうである。
そういえば、7月に「海の日」ができたのは、けっこう最近であったような気がするから、そうして法律で祝日が制定できるのは、楽しい試みであるように思う。

今回の「山の日」に関しては、憂慮すべきことがらも、いくつかあるようだ。
ひとつは、山岳遭難事故の多発である。
以前から思っていたことだが、大みそかの「紅白歌合戦」を見ていると、間にニュースが5分間くらい入るのだが、それがほぼ必ず、冬山の遭難のニュースであるような気がする。
「なぜ山に登るのか」…。
登らない人たちにとっては、わざわざ危険な山に登るのは、単なる趣味にしか思えないところもあり、そこで遭難して命を危険にさらすのは、理解に苦しむことがある。
しかし、このところ、「森ガール」「山ガール」など、自然に親しもうという若い人たちの流行も出てきて、自然に親しむのは、積極的に行いたいこと、となってきた。

私が、この登山ブームと、遭難事故の多発に関して思うことは、いくつかある。
ひとつは、以前、海難救助をする専門の人たちをテーマにしたドラマ「海猿」を見ていて、感じたことである。
海上保安庁の特殊訓練を受けた海難救助の専門家たちは、命がけで救助活動をしている。
そして、特別に災害がないときには、海に関する安全広報活動をしている。
ある日、遊泳禁止区域の海岸を巡回していた。
そこに、若いおにいちゃんたちがいて、テントを張って、バーベキューをしている。
この人たちに、海上保安庁の人たちが「ここはとても危険な場所です」「ここでキャンプをしないでください」「危険に遭うことがあります」「すぐに退去してください」と必死の思いで呼びかける。
しかし、海を甘くみたのか、海上保安庁を甘くみたのか、彼ら若者たちが、言うことをきかない。
撤収をしないのである。

ドラマであるから、その続きはあきらかである。
案の定、海が荒れ始めて、その遊泳禁止区域には、高波が押し寄せる。
そして、キャンプの若者たちは、海に流されてしまうのである。
さっき、注意勧告をしたばかりの海上保安庁の特殊部隊の専門たちが、「命がけで」救助にあたるので…

NHK「花子とアン」第5週「波乱の大文学会」感想。

朝の連続テレビ小説「花子とアン」。
モンゴメリ原作の「赤毛のアン」を翻訳した、村岡花子さんの生涯が、ドラマ化された物語である。
第5週目にはいって、いよいよ「連続小説」という雰囲気になってきた。
登場人物への愛着も湧いてくるのが、第5週目の視聴者の心情かもしれない。
5週目「波乱の大文学会」では、ヒロイン花子が学んでいる修和女学校で、文化祭が開催される、というストーリーになっている。
文化祭の大きな演目に、女学生たちが演じる、演劇がある。
演目を決めるところから、練習風景、そこでのさまざまな学生たちのやりとりや、本番の舞台まで、丁寧に描かれているのが第5週である。

女学生たちも、もう16歳、17歳と、「女の子」というよりは、ひとりの自立した大人の女性として、恋愛にめざめる年ごろである。
なので、演劇の演目には、あこがれの恋愛ロマン悲劇である「ロミオとジュリエット」を選ぶ。
「ロミオとジュリエット」は、イギリスの名作で、シェイクスピアの三大悲劇とも呼ばれる、有名な恋愛物語である。
何度も映画化されたり、舞台化されたり、海外でも日本でも評判の高い、不朽の名作ともいえるかもしれない。
つい2月の、ソチオリンピックでは、男子フィギュアスケートで金メダルを獲得した羽生結弦選手が、フリーの演技でこの「ロミオとジュリエット」の曲を選んだ。
みなが、羽生選手のロミオに、酔いしいれたところである。
羽生選手の演目となった曲は、1968年にオリビア・ハッセーがジュリエットを演じたイギリス・イタリアの合作映画で、仮面舞踏会のシーンにも使われる主題曲である。
羽生選手のフリーの演技は、ジュリエットの従兄弟を、トラブルによって傷つけてしまう、激しい情熱的なシーンで始まっている。

「ロミオとジュリエット」は、互いに敵対しあう「家」に生まれた、少年と少女が、仮面舞踏会で、相手をその立場を知らずに会って、愛し合うようになる物語である。
家同士の確執がもとで、この恋愛は成就がとてもむずかしく、ラストでは、悲劇となる。
だが、この悲劇がもとで、家同士が、仲良くしようということになる。

現代ではとても考えられないような時代背景があるように思う。
現代の日本では、立場や家柄、といった事情で、恋愛関係にある恋人同士が、会うこともままならない、という状況は、まずないのではないだろうか。
また、親が決めた許嫁…

都市計画の楽しみ。

東京では、6年後の東京オリンピックをめざして、さまざまな形で新しい都市計画が進んでいるようである。
新国立競技場の建設計画に関しては、日本国内のそうそうたる建築家のメンバーが、都市景観や東京・日本の文化伝統までも含めて、集っては計画を練る、というふうになっているようだ。
それは、計画というよりは、夢を語るようなものかもしれない。
オリンピックの競技場が設立される予定地域では、すでに土地の値上がりや、あるいは早々にこの地域に可能性を見出して、移り住む人たちもいる、という話である。
各種鉄道やバス、地下鉄なども、新しい車両や路線を作るには、もってこいの機会となるだろう。
こうしたことを考えると、私も、小さな都市模型を作って、建物や樹木やときにはそこに集まる人々の模型も作りたくなる。

実際には、現代の都市計画において、頭を悩ますのは、交通の問題かもしれない。
都市への人口集中において、交通網の整備は、都市計画の重要なテーマのひとつだろう。
私がそのとき思い出すのは、誰かの本に、これも引用されていた話だと思うのだが、人口集中の社会において、こんな興味深いアイディアが紹介されていた。
それは、都市、たとえば東京において、23区ほどであるから、中心地を真ん中にして、半径20キロメートル以内は、個人的な車両は立ち入り禁止区域にする、という内容である。
そして、この半径20キロメートル以内には、公用車しか立ち入れないようにする。
公用車とはたとえば、救急車、消防車、公共交通機関のバスなどである。
それから、搬送用のトラックは認可制になり、個人が車で移動したいときにはタクシーを使うことになるが、このタクシーも台数が決まっていて、認可制となり、厳しい安全基準が定められて、定期的な点検を行う、ということになる。
もちろん、ドライバーも厳選されることになるだろう。

こうした都市計画は、札幌市にはあったようだ。
これは、札幌に暮らしていたときに、誰か人から聞いたのであるが、実際にそうした都市づくりになっていたと思う。
札幌はもともと、碁盤の目の地図でわかるように、計画都市である。
札幌駅と大通り地区の中心部から、東西・南北に地下鉄が伸びていて、その東西線の東の端に、「新さっぽろ」という駅がある。
この駅は、地下鉄東西線の終点であるが、ターミナル駅となっている。
このターミナル駅は、バスター…

「東南アジア系」と差別用語について。

このところ、ヘイトスピーチや差別に関する用語、事件に関しての糾弾が、かまびすしい。
日本が右傾化している、という、世界的な懸念があり、それに対して、国内外で、たくさんの人たちが神経をとがらせているようである。
また、現在の日本の様相が、第二次世界大戦中のドイツで、起こった非常に極端な民族主義に似ている、という懸念があって、それで、あたかも「赤狩り」のように、言葉遣いに神経質になっているようである。

以前から、もう20年も前から、こうした「差別的表現」に関して、日本はずいぶんと対応を変化させてきているようだ。
ほんの10年前の映画を観ても、テレビ放映にあたって、当時と現在とでは、表現の範囲がちがっているところがあり、あらかじめ、ということで、但し書きがついている場合がある。
現在、問題となっている、戦争中を描いた漫画「はだしのゲン」にしても、言葉遣いや表現が、差別的である点が問題になっているようだ。

私たち、文筆家にとっても、ここ数十年の「差別的表現への枠」は、言葉のひとつひとつに至るまで、非常に範囲がせばまってきたところがある。
文筆を職業にする人たちにとっては、表現の幅のせばまりと同時に、あらぬ誤解をされることもあって、とても肩身の狭い思いをするものだ。
たとえば、すでに「土人」という言葉は、こうしてワープロで打っていても、漢字に変換できないようになっている。
あるいは、「片手落ち」という表現があるが、こうした言葉も、障がい者を連想させるということで、すでに使用禁止だという。
「障がい者」という言葉表現でさえ、「障害」「障碍」と、言い換えを、ほんの数年のうちに、変化している状況である。

先日わたしは、ツイッターで、こんなことをつぶやいた。
ツイッターはほんの140文字の字数のなかで、限られたことを書くものである。
「つぶやき」というゆるさもあってか、あまり意識することもなく言葉を打ち込むこともあるし、また、そこに書いたことの意味が、説明不足になることもあるようだ。

私のそのときの「つぶやき」というのは、格安航空会社ピーチの、低空飛行事故問題であった。
以前から、日本における格安航空の仕組みに疑問を持っていた。
それは、エア・ドゥの経営に関する報道で聞いた話であるが、どのようにして、航空運賃を下げるか、コストを下げるか、という点で、乗務員つまり、人件費のコストを下…

NHK「花子とアン」第四週「嵐を呼ぶ編入生」感想。

2014年。今年の春は「花子とアン」で、朝を始めることにした。

物語は、第四週目に入り、子ども時代から、女学校入学、ほのかな初恋を経て、この週は、「腹心の友」との出会いである。
このドラマ「花子とアン」は、モンゴメリの「赤毛のアン」と、ストーリーを絡めてあるところがある。
そして、「赤毛のアン」で、とても大切なテーマのひとつとなっているのが、女の子同士の友情である。
「赤毛のアン」のなかでは、アンは、ダイアナと友達になる。
夢見がちで文学少女のアンは、この友達、親友のことを「腹心の友」と呼んでいる。
「腹心の友」という表現は、何か企てや悪巧みを持っている仲間同士が使う言葉なので、そのあたりのアンの感性は、「赤毛のアン」の読みどころである。
そしてまた、アンとダイアナの数々の友情エピソードで、誰もが忘れられないのが、「ワインまちがい事件」である。

第四週目「嵐を呼ぶ編入生」では、アンとダイアナの「ワイン事件」が、さっそく取り上げられていた。
おそらくは、物語の上でこれから、重要な友達のひとりになっていくであろう、編入生との「出会い」が描かれている。
この編入生は、お名前を「葉山蓮子」という。
登場の仕方はとても華やかで、公爵家のお嬢様ということもあってか、桜吹雪のなかを、まるでおとぎ話のお姫様のように現れた。

ところが、観ていてなんだか、「?」と思うのは、この蓮子さんのお着物である。
公爵令嬢なのだから、ゴージャスだ、ということなのだろうが、どうにも、これは、おいらんさんのセンスである。
半襟と着物の色、帯との合わせ方など、どうにもあでやかすぎて、気品には欠ける。
髪の結い方も、おいらん風である。
これは、困った編入生である。
私も、本当に台本には、公爵家の令嬢、という設定になっているのか、それとも、公爵令嬢としては、こうした艶っぽい服装をする、あだな女性、という設定なのか、わからなくなってきてしまった。

また、授業中の発言も、与謝野晶子の名歌、名歌であるが、どうにも女学校的ではないようなお歌「やわはだのあつきちしおにふれもみで」と言ってのけるのである。
目つきもなんだか色っぽい。
そして、話し方も、である。
ということは、これは、現代の高校に当てはめると、いわゆる「不良」というタイプなのだろうか。
確かに、学校のクラスに、ひとりやふたりは、こうしたお姉さんぽい女…

小学生時代の思い出。

メモ1、小学校入学式。校長先生の話。
私が、小学校でよく勉強をしよう、と決心するキッカケとなったのは、小学校の入学式で、校長先生のお話を聞いたからである。
校長先生はこうおっしゃった。
「これから、みなさんは、小学校でお勉強をします。よく勉強をすると、おとなになってから、みなさんがなりたいもの、なんでもなれます」
まだまだ幼稚園の絵本が抜けなかった私は、将来はどうしてもお姫様になりたかったので、「勉強をすればお姫様になれる!」と、とてもいいことを教えてもらったので、入学式の翌日、最初の授業から、懸命に勉強に励んだ。
メモ2、4月中に予習。
幼稚園のときに「あいうえお」を覚えて、絵本が自分で読めるようになっていたこともあり、教科書をもらうと、4月中にすべて読み終えてしまった。
国語の読み物が面白かった。理科も社会も算数も全部、4月のうちには読み終えてしまった。
毎年、年度が替わると、新しい教科書を4月中に読んだ。
それから、前の日に、先へ先へ、と教科書を読んでいた。
そうすると「ここなんだかわからない」という箇所がある。
翌日の授業で先生がよく解説してくれるので、よくわかった。

メモ3、もともと身体が小さくて、学校はけっこう厳しいかんじはしたが、登校拒否になることはなかった。何が面白かったかというと、勉強が面白かった。
新しい知識がどんどんわかっていくのでとても楽しかった。
授業中にすべて理解する。
先生の話はよく耳で聞いていた。
集中して聞いていると手で落書きをするので、それを見た先生が、遊んでいると思ったのか、突然に手をたたかれることがあった。こわかった。
「そんなに絵が描きたかったら、ペンを全部出しなさい!」とか、教室の前のところに、ノートに描いた絵を出されることもあって、とてもいやだった。

中学校に上がってからは、授業が終わった後の休み時間や昼休み、放課後に、先生に質問攻めにした。
「今の授業で、ここがよくわからなかったのですが…」と、友達とふたりで職員室まで行ったり、廊下で尋ねたりすることもあった。
手で書いて覚えるタイプではなくて、目で覚えるタイプだったので、何度も紙に書いて覚えることはなかった。
色ペンは使わなかった。

メモ4、中学校に上がってからの英語の勉強は、教科書を予習した。
すべて、英単語を辞書でひいて、全文暗唱した。
単語帳は使わなかった。(…

連載・77 包丁、鍋、フライパンを使わないラクラクレシピ(?)

お料理エッセー・そら豆のひとりごと。
このところ、「包丁、鍋、フライパンを使わないラクラクレシピ」なるものが、流行しているようだ。
時短レシピも同じで、簡単に、短時間で、おいしいものを作りましょう、という流行である。
それは、「お料理」というと、むずかしい、時間がかかる、仕事を持っているので短時間で調理したい、それでいて、「カフェランチみたいな」というおいしさと見栄えも付け加えているようなのだ。
これではまるで、「注文の多い料理店」である。

お料理をするときには、包丁、まな板、鍋、フライパンは、シンプルかつ有効な三種の神器ともいうべき調理器具で、わざわざこれらを手放して、何かを作ろうというのだから、現代人の工夫にも恐れ入るところがある。
しかし、ここ20年ほどで、電子レンジは一般家庭にすっかり普及して、あって当たり前のものになった。
そして、レンジとセットともいうべき、冷凍食品も、冷凍の技術が格段に進歩して、いろいろな料理や食材が、おいしく手に入るようになった。

調理器具が発売されるごとに、その使い方、使いこなし方を練習するだけで、ずいぶんと手間取るものだ。
それでも、電子レンジは便利だと思う。
ただ、いろいろ試してみた結論としては、電子レンジで加熱調理したお魚は、あまりおいしくない、と感じる。
それから、昨夜の残りのカレーを温めるときでも、火を通した方がおいしい。
電子レンジでの過熱は、あまりおいしいとは言えない気がする。

現代の若い人たちが、お料理を覚えたいと思うのなら、私は、いったん、基礎からみっちりと、一か月か二カ月は時間をかけて、手作業で練習してみるのがいいと思う。
それを、どうやって練習するか、であるが、ひとつは、「家庭料理」に的を絞るのがよいのではないか、と思う。
というのは、料理の本がたくさん出されていて、とても専門的に分かれているからである。
また、料理研究家の創作料理などもあるので、むしろむずかしい、ということになる。
私は、主婦の友社から出されている料理の本で、家庭料理の基本料理をひとつひとつ作ってみた。

NHKの教育テレビの「きょうの料理」は、NHKだけあって、商品名を出すことができない。
それで、よくわからない名詞が出てきて、なんとも歯がゆい状況である。
また、テレビで紹介する以上は、インスタントの調味料を一切使ってはいけない、という料理…

思春期の子どもたちのことを、考えてみる。

このところ、話題となり問題ともなっているのが「スマホ」である。
「歩きスマホ」はもとより、中学生や高校生の子どもたちが、スマホに夢中になっていて、一日に何時間もスマホに向かっている。
一口にスマートフォンといっても、いろいろな使い道がある。
自由にいろいろなアプリを入れることができるので、写真や音楽、ニュースやゲームなど、スマホの使い道はとても広く、個々人でそれぞれの個性がある、と言ってもいいだろう。
中でも人気なのは、無料の通話アプリで、「LINE」というものである。
これは、メールよりももっと、「仲間」という状況が強いものであるようだ。
たとえば、電話なら、一対一で対話するわけであるが、LINEは、数名のグループで「話し合う」「語り合う」という人の輪、サークルになっているようである。

こうした、電波を使っての子どもたちの交流が、とても盛んになっていて、それが理由で勉強をおろそかにする子どもがいたり、仲間はずれができたり、悪口を言い合ったり、という状況になっていて、親たちにとっては、とても心配であるようだ。

私は、私個人の考えであるが、こうした親たちの心配は、そんなに必要ないように思う。
というのは、使う手段がスマートフォンであろうと、携帯電話であろうと、ポケベルであろうと、固定電話であろうと、またファクシミリや電報や封書や、あるいは実際に会うことであっても、こうした思春期の子どもたちが、「仲間」との交流をすることを、やめないだろうから、である。
私が思うのは、思春期の子どもたちにとって、「仲間」こそが、一番大切なことなのではないか、ということである。
すでに、幼少期は過ぎていて、両親のもとで充分に心身が成長している。
次に必要なのは、社会に出る、という段階なのだろうと思う。
そこで必要なのは、友達、仲間、ということなのだ。

仲間という小さな社会のなかで、自己を主張し、確立し、認められることが、とても大切な、成長の過程なのではないかと、私は思う。
だから、この「仲間体験」のなかで、認められ尊敬されるために、全力を尽くしているのだろう、と思う。
それで、勉強がおろそかになったりする。
「仲間」にとても精力を注いでいるので、それ以外のことに力が入らなくなるのだろう。

そして、「仲間」のうちで、株を上げることが、なんとも必要になってくる。
親への途方もない、理由を告げ…