2023年10月16日月曜日

お片付け

片付けたいことをリストアップしてメモ帳に書き出す。
「労働者のように」リストの通りに片付ける。
何か出てきたら、置いておく。
良いもの、いつかまとまったお金が必要になったとき、売って資金にできるような、良いものが出てきたら「神戸箱」と呼ぶ箱に入れておく。
机がある部屋。文章を書いたり、絵を描いたりする部屋。

2023年10月5日木曜日

連載 40 「若草物語」 末の妹 エミー

連載・40 名作文学に読む素敵な女性たち。 末の妹エミー。女の子たちの派閥作り。 オルコット作「若草物語」。 四人姉妹の少女たちが成長していく物語である。 そこには、女性たちが十代で身に着けなければならないたくさんの教訓としつけが描かれている。 もともとこの家では、父親が牧師であり、母親も敬虔な信仰を持つ女性である。 それで四姉妹たちに、厳しく温かいしつけをする。 生まれ持った困難な性質を、おだやかな方法で矯正していくこともする。 子どもたちのしつけにおいて、あるいは人間として自分自身が成長していく過程において、生まれ持ったあまりよくない性質を克服することは、とても重要な課題かもしれない。 「ほめて育てる」面もあるが、「ここはいけない」という点も、きっちりと克服していかないければならないのである。 可愛らしい女の子に対しては、親としてもたいへんかもしれない。 そこをしつけていくのが、この四姉妹の母親である。 父親が戦争に行って留守の一年間に、この四姉妹が成長していけるのは、何よりもこの母親の、しっかりと筋の通った教育方針に理由があるのだろう。 四番目の妹エミーは、とても美しい娘である。 自分の顔かたちが美しいことでとても自信を持っているし、 きれいなもの、たとえばドレスや指輪が大好きである。 気の強いところもあり、次女の作家志望ジョーと争ったときには、ジョーの原稿を燃やしてしまうような激しい面も持っている。 このエミーの、欠点を克服するエピソードは学校のワンシーンである。 当時のアメリカの学校では、もちろん女の子たちだけのクラスであるが、 そこで休み時間に「塩漬けのライム」をおやつにすることがはやっていたらしい。 誰かひとりがライムを持ってくると、それをクラスのお友達に分けて、 一緒に楽しむ。 ライムを分けてほしくて、「私のビーズアクセサリーをあげるわよ」などと、 友達が集まってきて、クラスの中心人物、つまりお姫様というか女王様になれるようだ。 こういうことは、小学生、中学生のクラスの女子では、よく起こることだ。 私が幼いときには、さまざまな模様の千代紙がはやり、それを配ってくれる女の子は女王様であったし、親が千代紙を買ってくれない女の子は、みじめな思いをしたものである。 みじめというより、仲間外れになってしまうのだ。 女性社会において、仲間外れは一番に酷いしうちだ。 現在の小学校、中学校においても、女子生徒たちのサークルのなかで、 「仲間外れ」が行われ、それが「いじめ」と呼ばれ、深刻な問題になる。 親としても教師としても、この少女たちの「仲間づくり」「仲間外れ」に関しては、どうにも手出しができないというか、理解しにくいところがあるのだろう。 エミーは、24個持ってきたライムを、好きな女の友達にはあげるけれど、 常日頃ライバルであった女の子にはあげない。 それでライバル女子は、担任の教師に告げ口をして、エミーは罰を受けるのである。 エミーは家に帰ってきて泣きじゃくる。 なぜ私だけがクラス全員の前で罰を受けなければならないのか。 なぜ、親にもぶたれたことのない、きれいな白い手を、ムチで打たれなければならないのか。 姉のジョーは、気丈で積極的な性格を持って、担任に立ち向かっていく。 「小さな女の子にそんな仕打ちはないでしょう!」 エミーの気持ちとプライドは少しだけいやされる。 そこへ母親が「でもね、学校にライムを持っていくのは規則で禁止されているでしょう」と優しく諭す。 エミーの、「女王様になりたい」エゴはこうして矯正され、 大人になってもそれで威張ったり、トラブルを起こしたりしないように、 しっかりと胸に刻まれる。 現代日本の女性社会も、同じ問題がたくさん起こっている。 たとえば、携帯電話、携帯メールがそうであった。 携帯を持っていない女の子だけ、「呼び出せないから」という理由で、 遊びの集まりに誘ってもらえなかったりする。 どんな時代にあっても、女性たちは「仲間づくり」と「仲間はずれ」で気持ちを傷つけられる。 それを知っていて心にとめて、しないように心配りをしていこう、と、 姉妹たちのお母さんは、優しく教えきかせている。 末娘エミーの、幸せなエピソードである。

連載 39 「若草物語」 次女のジョー

朝倉聡子・日々のつぶやき 連載・39 名作文学に読む素敵な女性たち。 若草物語。作家志望の少女ジョー。 オルコットの名作「若草物語」。 16歳から12歳までの四人姉妹が成長していく物語である。 ここからは、ひとりひとりの性格や特徴に焦点を当てて考えていきたい。 まず一番に印象的なのは、次女のジョーである。 この少女は読書が大好きで、将来は作家になりたいと夢見ている。 性格は明るく活発で何事にも積極的、ちょっと「男勝り」と呼べる性質である。 それはジョー本人が自覚しているようで、自分が書いた脚本を四人姉妹で演じさせて、ジョーは騎士の役をしたりもする。 私自身も読書好きであり、将来は作家になってみようかしら、と夢見心地で思ってもいた。 だからジョーの行動のひとつひとつが、自分も経験のあることであり、思わずうなづいてしまうのである。 脚本を書いて、友達を集めて演劇をする、 おしゃれもせずにおこずかいで新しい本を買う。 お客様に行った家でまず本棚を見てうれしくなってしまう。 挙句の果てに、自分で書いた原稿を、家族にこっそり新聞社に持っていったりするのである。 まったく楽しめる。 そして、もうひとつ、作家志望の少女として、体験もしたことがあった。 それは、物語のなかで、ジョーのエピソードとしては秀逸なところであるが、 末娘(4番目の娘)のエミリーと仲たがいをしたときに、 怒ったエミリーが、ジョーの書いた原稿を燃やしてしまった、というエピソードである。 ジョーが5年もかけて書いた小説である。 当時はコピーの機械もない。手書き原稿である。 これを妹が、暖炉で燃やしてしまったのである。 気の強いジョーと、これも負けん気の強いエミリーは、よくこうしてぶつかったようであるが、どんなに怒ったとはいえ、原稿を燃やしてしまうというのは、あんまりではないか。 もし、私なら、絶対に許せない。悔しくて悲しくて、たとえ12歳の妹がしたことでも、夢にまで見てうなされると思う。 エミリーも大変なことをしてしまったと気づき、母親も姉たちも仲直りをさせようとする。 しかしどうしても、ジョーはエミリーを許せない。 「若草物語」には、人間としても女の子としても、守るべき礼儀や、心のしつけが描かれている。 作家志望のジョーが、妹エミリーの人間としての弱さを許して仲直りをする、その理由が印象的である。 ジョーが冬の凍った池でスケートをするときに、あやまろうとしたエミリーが追いかけてくる。 凍った池というのは、池の端はしっかりと厚い氷になっているが、 池の中心は薄いものだ。 友達が「中心は氷が薄いから行かないように」と注意する。 エミリーにはそれが聞こえていない。 ジョーはエミリーにそれを伝えなければといったんは思うのだが、 原稿を燃やされた憎しみが蘇って、黙ってしまう。 そして、エミリーは凍った池に落ちてしまうのだ。 原稿は、作家にとって命よりも大切なものである。 でももっと大切なものがあるのだ、と気づいたときに、 ジョーはエミリーを許せるようになる。 わが身にあてはめて、どうだろう? 少女たちの幼く激しい心の葛藤に、心洗われるシーンである。

連載 38 名作文学に読む素敵な女性たち オルコット作 「若草物語」の世界

朝倉聡子・日々のつぶやき 連載・38 名作文学に読む素敵な女性たち。 オルコット作「若草物語」の世界。 19世紀アメリカの小説「若草物語」。 全世界の少女たちに読み継がれ、受け継がれている永遠の名作である。 アメリカの、南北戦争の時代に、父親が出征してしまった、残された家族の、 特に四人姉妹の様子が描かれている。 著者のルイザ・メイ・オルコットは女性である。 女流作家の描いた、19世紀のアメリカの家庭の様子、特に女性たちの暮らしが丁寧に描かれている。 四人の姉妹は、一番上が16歳、一番下が12歳である。 年子で四人の娘を持った家庭は、どんなだっただろうか。 少女たちは、一番上の娘が16歳であるから、まだまだ子どもである。 ようやく大人への階段を、一歩また一歩と昇ろうとする姿が、 ういういしく、はつらつとしている。 時に背伸びをし、大人の女性の仲間入りを果たそうとし、 ときに子どものように集まっては騒ぎを起こして大笑いする。 この少女たちは、人生においてとても貴重な時期を生きているのだ。 最初のほうを読んだだけでも、両親から愛されて、教育を受けて育った子どもたちだということがわかる。 戦争中だということで暮らしは決して豊かではない、と書かれていて、 娘たちも、新しいドレスがほしかったり、アルバイトに出なければいけなかったりして、その面での苦心が綴られているが、 実際には、ハンナという召使(家政婦)の女性をやとっており、描写から見ても部屋の数も多いところから、それなりの中流以上の家庭であったことがわかる。 四人の姉妹の、それぞれの性格のちがいがとても楽しい。 私自身も姉妹がいるのし、従姉妹たちもたくさんいるが、 どうして同じ両親から生まれて同じ環境で育ったはずの女の子たちが、 こんなに性格がちがってしまうのか、不思議かつ楽しい。 四人の性格を描き分けて、それぞれが家庭のなかで果たす役割を描き分けているところにも、この物語の特色がある。 父親は戦争に出てしまっていない状態なので、物語は、四人姉妹と、母親と、ハンナと、近所の男性たちとで進められる。 ご近所の年配の男性やボーイフレンドも描かれているが、 女流作家の特徴として、やはり男性というものを克明に輪郭深く描いたとは言えない状態である。 それでもこの作品が、とても優秀であるのは、女性たちと女性社会をしっかりと描き切ったところだろう。 そして、少女たちでありながら、しっかりと女性社会を築き上げ、 それぞれの言い分も、性格も、ぶつかりあう時があるのを、「仲良く」という両親の教えのもとに、自己の弱点を克服して、協力しあうのである。 女性たちが本当に心の底から仲良くして、一致団結して困難を乗り越えることは、実際にはむずかしいのではないだろうか。 「若草物語」はそれをテーマにしていると思う。 そして、子どもでしかなかった少女たちが、まさに思春期に、困難に立ち向かいながら身に着けていくべきなのは「女の子たちが仲良く協力し合う」ということなのである。 少女たちの、女性として、人間としての成長の教科書となる、素敵な一冊である。

短編小説 種を蒔く人

短編小説・種を蒔く人 ゆうべは本当にまいった。 「現代的仕事できます女性」として、こういう場が欠かせないことはわかっている。 お酒の席だ。 昨夜は、恋人も一緒だった。 彼と、彼の仕事仲間と、先輩のえらい作家先生と。 …どんな小説を書いているのかは知らない…その場で初めて対面したのだ…。 「現代的仕事できます女性」としては、 まず、仕事の話。 それから、政治の話。 世論と、新聞とニュースと、国際情勢と、経済の先読みと。 その方面の話は得意である。 しかしどういったものか、男性陣が多人数を占めた酒席では、 例の込み入った話になる。 彼らはこういう話が好きだ。 生き生きと、ときに息をひそめて、 ときに意気揚々と、 ときに語気を荒くして、語る、語りつくす。 それをただ、耳を澄ませて聴いているだけならいい。 レモンスカッシュを頼んで、柑橘の爽やかな風味に、 それらの話を呑み込んでしまえばいい。 けれど、彼ら男性陣の、たっての願いは、 この話に女性が加わることである。 それはたぶん、女性の意見が聴きたい、いや、女性の好みが聴きたい、 いや、今後のためにぜひとも「この件」について、女性の本音を聴いておきたい、 ということなのだろう。 いやもしかすると、彼らはただとても不安で、 この地球の人口の半数を占める髪の長い人間たちの行動と、心が、 見えなくてもがいているのかもしれない。 レモンスカッシュを一口ふくんで、にこやかに笑って聞き流す。 それだけでは許されない夜があった。 新鮮な、五月の風に身をゆだねる。 私が身をゆだねて安心できるのは、 ただ、五月の風だけかもしれない。 連休は、庭に取り組む、こういうガーデナーは日本中にたくさんいる。 というより、ガーデナーにとって、五月の連休は、八十八夜、畑作の重要日である。 この日に、どこか外にでかける用事を作るはずがない。 この日々をはずしてしまったら、夏の庭を作ることができなくなるのだから。 ホームセンターで780円の、ただしかし私に言わせればとてもおしゃれな、ゴム長靴を履く。 女性ガーデナーにとって、「おしゃれ」は重要である。 一歩まちがえば、農家のおばあちゃんになる。 なにも農家のおばあちゃんをどうこう言うつもりはない。 むしろ、私の憧れは、農家のおばあちゃんだ。 若いころから化粧っ気ひとつない。 陽に当たりっぱなしの肌は丈夫でしみひとつなく、 太陽の下で照り輝いている。 「丈夫な肌」こそが、「健康な肌」で、「美人女性の肌」なのだとつくづく思う。 陽に当たらないで、化学合成の液体を顔に塗りつけているひとたちの、 病弱に思える薄い弱い肌を思ったりする。 「老後はぜひ、農家のおばあちゃんみたいに」とひそかにあこがれている割には、 「おしゃれ」には気を使っている…つもりだ。 アームカバーには、今話題の赤い小花模様を使っている。 ジーンズは欠かせない。 ちょっと色落ちした、ビンテージものである。 帽子は、日光から頭を守るのに必要なもの。 つばのある麦わらだと、風の強い日には飛んで行ってしまう。 私は、しっかりと手で編んだ、麻糸の帽子をかぶる。 これなら風が吹いても頭にしっかりついているし、 何よりも、砂ぼこりから、髪を守ることができる。 彼からのメールには、ゆうべのことを立腹している旨が書かれていた。 このところ、この件で対立が続いている。 今後も長く社会人として仕事を続けて行きたいならば、 もっと世の中に「適応」しなければならないと言う。 「きみはきれいすぎる」と言う。 「世の中きれいごとばかりじゃないんだからね」 そう言ってのける彼は、社会のなかで、並大抵ではない仕事をたくさんこなしてきた。 それは知っている。 彼と、彼の仲間たちの仕事ぶりを見て、 むしろ女性同士の、幼稚園のママ友とかいうような、べったりした人間関係よりも、 スポーツマンシップのような男性同士の力強い連帯感のようなものに、 尊敬を覚えたものだった。 女性が社会のなかで仕事をしていくこと、 痛感している。 痛みとして感じている。 それでも仕事を続けたいとしたら、そのエネルギーはどこから湧き出でるものなのだろう。 そしてその上にこの試練である。 私は、「試練」ととらえている。 どうもこうもない、歴史始まって以来この社会とこの仕事の仕組みは、男性本位で作られた、と思う。 その社会のなかで、実力を示して、成果を上げるだけではいけないのだろうか。 大きなエプロンは、剪定鋏を入れられる特別丈夫な帆布でできている。 これはガーデンセンターでとても高かった。 …これだけ工夫をこらしても、庭に出てみれば、立派な田舎風の苦労人である。 本当に、その宴席での彼ら男性の「話題」というものに、 女性は、乗っていけるようになることが、 それが新しいことなのだろうか。 「別れることになるかもしれない」 電話を片手に、ふとそう思う。 小さな白いスコップ。 持ち手は淡いピンクグレーである。 ひとりの庭仕事は穏やかで、静かで、なごやかである。 黙々と小さな雑草を、片付けている。 右手のスコップで根の下の土を少し持ち上げ、 それから、左手で抜く。 自分の庭だから、計画性はなくても大丈夫。 誰からも文句は言われない。 庭のこちらの片隅で、雑草を抜いていたかと思えば、 突然、バケツを片手にあちらの隅へ移動して、 腐葉土を運び始める。 その一連の行動を…腐葉土を手にバケツを持ちあげたこの仕草を、 どこかで見かけた。 そうだった、外国の、有名な庭園の、女性だった。 バラの花をたくさん咲かせていたと思う。 「彼女もそうだった」と思う。 たいていの女性ガーデナーは、恋人や伴侶とうまくいかず、 年も相当に高くなってから、庭園を恋人にしてしまう。 あるいは、植物を孫子どもにしてしまうのだろうか。 恋愛と社会は似ている。 仕事と男性は似ている。 恋愛と仕事から手を引くことは、社会と男性から手を引くことなのかもしれない。 あのガーデナーも、このガーデナーも、 立派な庭園を作り、日々を、太陽と雨と土のもとで暮らして一生を終えたけれど、 そこにはどこか、人生をあきらめたような、虚無がただよっているような気がする。 …負けたくない。 種から芽が出る。 その過程で、土の中でなにが起こっているのかは知らない。 毎日、土を乾かさないように、一日に何度でも水やりをする。 彼が突然あらわれた。 私の庭の最中にである。 私の作業を遠くから見つめていたらしい。 「才能のある女性が、野良仕事か」 仕立てのいいスーツに、イタリア製のネクタイがそよいでいる。 「いいかげんに機嫌なおせよ」 今私が耕したばかりの土を、ひとつかみして、しゃがみこむ。 そんなことをしたら、ほこりだらけだ。 「種を蒔く人、か」 彼の細い目が、鋭くもなり、そして、ふとやわらかく輝きだす。 「これ、芽、出たの?」 「あっ」 私も、気付かなかった。 ただ毎日の水やりで精いっぱいだった。 あまり苗床を見ていなかった。 水やりの仕事に追われていて、彼ら種たちを全然見ていなかった。 「芽、出た」 水を含んで濡れた黒い土に、小さい緑が双葉を広げている。 彼のおだやかな瞳が、いたずらっぽく笑いかける。 「がんばったな」 私は、赤い小花のアームカバーをはずしながら、背の高い彼を見上げた。 彼の手の中の土。 「芽を出したい」心から思った。 「負けたくない」心から思った。 Posted 9th June by SatokoAsakura Labels: 小説と詩

短編小説 自由の女神

小説・自由の女神 母の記憶はただ、とても努力家だった、ということだ。 いろいろな評判で母を言う人たちがいた。 けれど結局、最後の最後まで母をかばってきたのは、 ほかでもない実の娘の私自身だったと思う。 母は、とびきり美人で、とびきり頭がよかった。 父からプロポーズされたときに、 「明眸皓歯」という言葉を言われたそうである。 「美人は歯並びまでいい」という意味なのだそうだ。 それをちょっと自慢そうに話していた母を思い出す。 私が努力家だと思うのはその先だ。 美人に輪をかけて、お化粧やファッションの術がうまかった。 私は娘なりに、年頃になったらお母さんにお化粧を教えてもらえる、と思い込んでいた。 実際に、教えてもらった記憶はない。 ある年齢になったら、紅筆と鏡を持たされた…というのが理想なのだけれど、 そういったドラマティックなエピソードはなかった。 ただ大人になってから思い出したのは、 私の中学校の入学式に、母が私の髪をカールしたことだ。 写真を見て、びっくりした。 母は、子どものときから娘をお人形さんみたいにファッショナブルにしておくことで、自然とファッションやお化粧を教えていたのだと思う。 幼いころの、母の手作り服は、いつも最新の子供服から型紙をとっていた。 母が亡くなったのは、もうずいぶんと前だ。 私は大人になっていたし、もうしばらく長く病床に伏していたから、 父から「いずれもしも」の話をされていた。 けれど、一番勇気づけられたのは、同じ年頃で母を亡くした、 友達の彼女の存在だったと思う。 私は彼女の「母親論」「母親批判」を充分すぎるほど聞き、 充分すぎるほど手紙を書き、母を非難し、母を嘲笑し、 母を笑い飛ばしてきたと思う。 料理が好きで、キッチンを磨くのが好きで、 玄関にお花を飾るのが好きだった。 編み物が好きで、縫物が好きで、ロッキングチェアに憧れていた。 子どもっぽく甘えて口けんかするときもあった。 母の形見で一番に思うのは、 父がアメリカに旅行に行ったときのお土産で、 純金でできたゴールドの四角い板に、 自由の女神像が刻まれたものだ。 母は、父と言い争った日でも、このお気に入りのペンダントをつけた。 その行動はちょっと不思議だった。 昔の時代を生き、 昔の制度の中で、 おしゃれを楽しみ、 日々、キッチンに立ち続けてきた母は、 本当は、自由の女神になりたかったのだと思う。

短編小説 サラダとオレ

小説・サラダとオレ 母のサラダはよく覚えていない。 砂糖の入ったポテトサラダか、きゃべつの千切りにソースをかけたもの、 くらいだったかもしれない。 理子のマンションで仕事の打ち合わせをしていたとき、 あまりにも長い作業で私はキッチンの係となった。 軽い夜食は朝まで続く作業の大切なスパイスだ。 「コーヒーじゃないの。水」 ワイシャツを腕まくりした彼が横から突然口をはさむ。 「これからサラダを食うんだろ。 野菜っていうのは、繊細なの。 だから、コーヒーなんかを先に飲んだりしないの」 マグカップを一口ずつ含みながら料理をしようとしていた私は、 驚いてあわてて、ガラスのコップに水をいれる。 「レタスはよく洗ってね、二枚だろ」 そこからの彼の指図は、手際よかった。 「なんでボウルに入れるの?皿に盛りつけながらするんだよ」 「小さくちぎって。最後はまぜまぜして一気に食うんだ」 「トマトはふたつ。ふたつだよ。トマト食いたそうな顔してたくせに」 ってていうか、サラダに作り方とか、盛り付け方とかってあったっけ? 料理は下手だとは思わない。 決して得意だとか趣味だとか言わないけれど、 必要最低限のごはん味噌汁目玉焼きくらいはこなせる。 「トマト、切ったらそのまま置いとくの。 最後に盛り付けんの。並べとくの。きれいにヘタとって」 思わずまな板の上を整理したがる私を制止する。 白いまな板の上に、先のとんがったトマトたちが所狭しと並んだ。 「じゃあ、レタスの上に…おっと待って、先に一度ドレッシングをかけておくんだよ」 学生時代に、つきあっていた男子とちょっとおこずかいを出して、 大きなレストランに夕食をとりにでかけた。 そのときその男子は言ったっけ、 「うまいな、このサラダ」のあとに、 「おまえもいつかこれくらいは作れるようにならんとな」 たぶん、あの一言から、別れは始まっていたんだろう…レタスのちぎり方…。 「皿に並べたレタス、その上にドレッシング、 いいか、最悪のサラダの作り方を教えてあげよう、 ドレッシングが足りない、これが命取りだ」 彼はそう言って冷蔵庫から、理子が作り置きしたバジルのドレッシングを取り出す。 「軽く振り下ろす」 私はいつの間にか、彼の手先になって動いている。 「それから、ちょっと混ぜてもいいぞ」 菜箸でレタスを混ぜる。 「その上に、トマトを並べるんだ。うまいぞ」 なるほど、心の中で感嘆の声が上がっているが、なにしろ手と包丁と布巾とドレシングで手がいっぱいである。 「どうやって並べるの?」 「おまえの並べたいように並べろ」 私はきれいに円を描いて、八割にしたトマトを並べていった。 「仕上げのドレッシングだ。まず真ん中にたっぷりと」 「それから、まわりを三周」 「さらに真ん中にたっぷり」 はあーっ、私がそのなにか美しさみたいなものにみとれるヒマなく、 彼はお盆に水とフォークを載せて理子たちのもとに先に立っている。 「サラダ、それとパン、恋する女はサラダとパンだ」 理子と沙世がわっと笑う。 奥の部屋でパソコンをいじっていた真田君も大笑いしながら出てきた。 「なんで?恋する女はなんでサラダとパンなの?」 私だけが真剣に尋ねている。 「知らん。 恋してる女は必ず、サラダとパンだ。 とんかつなんか食ってる女は絶対に恋していない」 また場がどよめく。 私の作ったサラダに、どんどんフォークが差し込まれる。 「わっ、おいしいじゃん」 「待って、私…」 たぶん料理の間じゅうキッチンの換気扇でたばこをふかしていた彼が、 今私に、フォークを渡す。

短編小説 コラージュの記憶

コラージュの記憶 彼女から手紙が届いたとき、その最新流行の手作りカードに軽い嫉妬を覚えながら、 やはり優しく温かな印象の彼女の言葉に、ほっとしたものだった。 彼女の手紙は本当に短かった。 「お誕生日おめでとう。 私も仕事を始めたのよ。 今度一緒に、お茶でもしましょう」 たったこれだけの言葉を伝えるのに、彼女がしたことは、「コラージュ」なのだった。 クリーム色のざらざらした厚紙に、赤い水玉模様の紙が貼ってある。 その下には、緑色で縁取りした花束が、連続模様になって続いている。 レースの切り抜きになった白い紙も隅に貼ってあった。 そして、動物シールである。 私は、この動物シールについて、明らかな見識を持っていたわけではないけれど、 最近の事情として、一昔前に幼い、ほんの幼稚園か小学生の少女たちが、 シール集めに熱中したことは覚えている。 そのシール集めが、今、年相応の大人の女性たちに人気なのだという。 かわいらしくデフォルメされた、キャラクター風のものではなく、 線画で描かれたリアルな動物。 しかも、彼女が使っているのは、アメリカ大陸にいたであろう、角のある大きなバイソンである。 それが、「かわいい」のだという。 それが、「はやり」なのだという。 女性同士で、こんなリアルな「モモンガ」や「サイ」の動物シールをやりとりする。 それが、はやりなのだという。 私の感覚にはなじまないものだった。 けれど、彼女は、流行だというとさっそく使ってみる。 そして、受け取った私には「変なもの」という違和感がなく、 むしろ、彼女のコラージュのセンスに舌をまき、嫉妬しているのだった。 夜の九時になってから、ひとりのアパートに辿りつき、 とりあえずのシャワーを浴びてから、 テレビの前に座り込む。 掃除機をかけるのは日曜日と決めていたから、 全体に、仕事のあとの家事はしない。 階段もほこりっぽいし、グラスはいつも同じもの。 これはたぶん、国内産のグレープフルーツジュースについてきたガラスカップだと思う。 このところ、街に出てもいない。 でも通信販売の会社はずいぶんチェックしている。 たぶん、世の中の女性たちの楽しみといえば、こんなものだ。 仕事でくたくたになって帰ってきて、テレビを見ながらカタログを開く。 給料だけはたくさんたまっている。 仕事に忙しくて「消費」など楽しむ暇はないのだ。 だからカタログを開く。 シャワーのあとの、めがねのないぼんやりした視界に、 「コラージュセット」だけが、ふせんをつけられているのが見える。 「こんなもの」 注文しておくと、一ヶ月もしてから「お届け」だという。 「自分で自分にプレゼントが届くみたい」なのだという。 金額とデザインは選べるが、色は選べない。 それが「お楽しみ」なのだという。 変った商売もあったものだ。 コラージュをするための、材料が、アソートされて詰め合わせになって800円。 カタログを凝視しても、なにがどう入っているのか、写真が小さすぎてよく見えない。 なにしろ、「なにが届くかわかりません」が売り物の通信販売なのだから、仕方ない。 「さて」 心に秘密ができてから、一ヶ月はたつ。 秘密の注文をみすかすように、忘れたころに届いた箱。 情けなかった。 コラージュセットを購入してしまった自分である。 彼女はきっと、手近にあった包装紙の包み紙や、きれいなチラシの模様を、 常に切り取ってためておいたにちがいない。 毎日の通勤列車に疲れ、 一日の終わりに髪を洗うときにもぞんざいになる、自分を見つめ返す。 「前はそうじゃなかったのに」 私は思う。 コラージュまではしていなかったかもしれない。 けれど、雑誌の付録についてきた、きれいなポストカードを、 お菓子の箱に入れてとっておいたことがあった。 海に行ったときに拾った貝殻を、お菓子の缶にためていた。 いや、ガラスの小瓶だったろうか。 少女のころ、それから、しばらくしてからも、 きれいな髪飾りや、小さな、身につけて歩くにはかわいらしすぎる小さな石のついた指輪も、 ガラス瓶や小箱のなかに、とっておいたと思う。 透明なビニールにはいっている「コラージュセット」を取りだす。 慎重すぎるほどに慎重に取りだす。 薄い紙だ。 爪をひっかけてはいけない。 私はいきなり立ち上がった。 先に爪を切ろう。 たぶん、おしゃれな女性用通信販売会社は、 いろいろな女性たちの「秘密」をご存じで、 世の中に流通しているさまざまな女の子たちの「事情」を熟知しているのだろう。 そして、コラージュがはやっているのに、コラージュの作り方がわからない、 「深刻な悩み」を抱えた女性たちに、 内緒のアドバイスをくれるのだろう。 「内緒に、内密で、注文しなさい」 「内緒に、内密で、作ってみなさい」 そう、そして、 「ある日、突然、女友達にそれらを見せなさい」 何のために見せるのかは、わかっている。 遅れないため、進んでいると見せるため、センスあると言われるため、 情けない、ますます情けない女心である。 「コラージュの作り方」の厚紙を見ながら、 そっくり同じものを作っていく。 そっくり同じものが作れるように、 模様の紙も、シールもセットされているのである。 こんなことは、こんな姿は誰にも内緒だ、決まっている。 最初から創造力があるかのように見せかけなければならないのだ。 創造力や才能が、きらめくように輝きわたるために、 ひとりの部屋で苦闘があったなどと、知られてはいけない。 絶対に知られてはいけない。 「プライドが高い」と言われることがある。 自分でもそうだと思う。 それでもゆずれない。 どうしてもゆずれない。 それは、突然に押し寄せた感覚だった。 まずメッセージを書き入れるための、白地の紙、枠の模様がついているのを切り取る。 それから、台紙となる、薄い青色の包装紙を、さきほどの枠より少し大きめに切り取る。 このときに、青色の台紙に細かく描きこんである花模様がよく見える位置にするのだそうだ。 私はしばらく考えてから、白い枠の紙を、青い台紙に貼りつけた。 小花模様がほんの五ミリの間にきれいに見えるように位置を少しずつずらしていく。 決まったところで、指でしっかり押さえながら、裏に糊をつけた。 表にかえして、しっかり押さえる。 それから、周囲を切り取った。 目見当ではさみを入れる。 青い台紙に白い枠が貼られている。 今度はその上に、枠に少しかぶるように、レースペーパーを切って貼る。 レースペーパーは、丸い、本当にケーキの皿に敷くような紙である。 これを、青い台紙の左上の角に沿う形に切り取る。 レースペーパーには、規則的に穴があいていて、 もくもくと雲のようなかたちがあるわけだから、 台紙の左上に貼るためには、この「もくもく」の具合はぜひとも必要だった。 迷っては、「作り方」の紙を見て、ハサミを入れ、糊づけする。 少しずれた加減がよい、とわかっていた、コラージュだった。 糊も、たくさんはつけない。 ちょんちょん、とつけて、重ねていく。 ここまでくると、「作り方」の写真にずいぶん近づいてくる。 最後にシールを貼ってできあがりになる。 透明なビニールシールで、貼れば下の模様が浮き出すことになる。 左上には、右向きの赤いウサギのシールを、 右下には、香水の瓶のシールを貼った。 時間を忘れていた。 机の上には、10枚の小さなグリーティングカードが並べられていた。 彼女への手紙は、そっけないものだった。 「このまえありがとう。 わたしも元気でやってる。 お茶しようよ。メール待ってるね」 私の、初めての、コラージュカードを使う。 私は気が付いていた。 最新流行センスを持った彼女への嫉妬と対抗心ではなかった。 「私も対抗しました。勝ったでしょ」というメッセージではなかった。 取り戻せたことへの、彼女へのありがとうの気持ちだった。 そして、コラージュを日課としている彼女への、敬愛と思慕の気持ちだった。 遠い昔、少女の日、 夏休みの毎日を、折り紙と工作と、海水浴で拾った貝殻を並べてすごした、 あの日々への回帰。 長い長い回り道をして、私は少女に帰っていく。 大人のハイヒールを始めて身に付けた日に、 捨ててしまった何かを、 彼女は持っていた。 捨ててしまったなにかを、今も持ち続けている彼女に、羨望を抱いた。 もし私のなかに、なにか熱いものがあったとしたら、 それは、ただ、ショッピングをするという、ちょっとした行動力だったのかもしれない。 私はきょうも、ビジネススーツに身を包み、 髪を結いあげて、会社にでかける。 ITの時代に、油断は許されない。 ダッシュで走りながら、私は取り戻した何かをぎゅっと抱きしめていた。