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2014年9月25日木曜日

わたしのしたいこと。

わたしのしたいこと。
本当に、平和な社会を作りたい。
心の底から、安心して暮らせる社会を作りたい。
子どもたちが安心して伸び伸びと暮らせる社会を作りたい。
女性たちが、安心して伸び伸びと生きていける社会を作りたい。

今の自分がどうなってもいいから、どんなに苦労をしてもいいから、次の世代のために、平和な社会を作りたい。
何が幸せで、何が平和で、どうすれば平和になるか、わからないけれど、自分が信じた道を一生懸命やってきたけれど、うまくいかなかったみたいだ。
本当の意味で、人々が平和で平穏に暮らしていける社会を作りたい。

平和への道や、平和への手段がどういうものか、私にはよくわからなかったのかもしれない。
ただ、チームとなって力を合わせれば、きっと成し遂げられると信じてきた。
一生懸命やってきた。

でもよくわからなくなってしまった。
戦争を始めることは、私が望んだことではないし、私が計画したことでもないし、私に前もって知らされていたことでもない。
いつの間にか巻き込まれてしまった。
私は、不本意だ。
本当に心から戦争のない社会、平和な社会を望んできた。
集団的自衛権は、あるべきではないと思ってきた。
一生懸命協力して書いてきたら、こういうことになってしまった。
何度もやめようと思ったけれど、実際に戦争を始める気なのかどうか、よくわからなかった。
信じていたのに裏切られた気持ちでとても悲しい。
でもここで、平和運動を始めたら、私自身のいのちも危ないと思う。
安倍政権に関しては、衆議院選挙のときから、信用できないものを感じていた。
野田政権と一緒に、高福祉社会、北欧型社会を作ろうと思って、増税、消費税にも取り組んできた。
それが、税だけ上がって、福祉はしないで、戦争をするというのではあんまりだ。
私は、平和な社会を作りたいのだ。




安倍政権の目指したもの。

国際政治のなかで、世界の平和を目指したのではなく、国際社会の中でのランク付けにこだわり、国連の常任理事国になろうとした。
平和への道は、平和的手段によってしか進めない。
戦争のあとにあるのは、戦争のみである。
安倍政権は、平和を目指したのではなく、かつてのアメリカのように、世界のあちらこちらに口出しと軍隊の出動をして、脅威を見せつけたかったのではないだろうか。

わたしは、そう思う。

2014年9月24日水曜日

イスラム国への空爆と日本とこれからの暮らし。

イスラム国への、国際情勢が高まっている。
アメリカが空爆を始めた。
ヨーロッパもこれに続くと考えられる。
日本も、参戦すると考えられる。
これからの日本では、国内の暮らしとして、治安をとても重要にした、国民の対応がのぞまれるかもしれない、と思う。

たとえば、NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」でよく見たように、女性と子どもたちは、質素倹約した生活が望まれると思われる。
ぜいたくを慎み、夜は出歩かない、等々の行動が必要である。
子どもたちも、もしかしたら、学校がお休みになるのではないだろうか。
あるいは、学校の行きかえりを親が送迎することも必要である。
国民は、ぜいたくを戒めて、不要不急の外出をしないで、お金も大事にして、しばらくの間、国の政策に従うことが重要である。

イスラム国をめぐる現状について。

中近東、イスラム圏をめぐる現状は、日々、変化している。
ついこの間までなかった「イスラム国」が、いつの間にかできている。
これに対して、アメリカからの空爆も始まっている。
イスラムをめぐる動きは、今年に入ってから活発になってきた。
イスラム、イスラエル、エルサレムを中心として、イスラム過激派の人たちが集まってきたようにも見える。
これに対して、平和を思う人たちは何をしているのだろうか。
国連は何をしているのだろうか。
国連安全保障理事会は、これに対して、戦略的で計画的な行動を、すでに開始しているように思われる。
たとえば、これは、各報道を見て、私が考えたことであるが、7月に、ウクライナ上空で、旅客機が撃墜された。
これに関してはさまざまな原因と理由が考えられるが、もしこれが、計画的になされたとすると、一体だれが考えて、誰が実行したのか。
「誰が考えた」というところは、私にはわからないが、もしかすると、国連かもしれない。
このウクライナ上空の旅客機の、飛行ルートと発着地を調べて線で結ぶ、地図の上で定規をもって行うとよい、そうすると、この線が、イスラムを取り囲むように、引かれていくのである。
つまり、他の墜落した飛行機や、他国の内乱を考えて、地図上で印をつけたり、線で囲んだりすると、イスラムの人たちが、中近東の土地に追い込まれて、包囲されたように、見える。
これは、気のせいでそう見えるのかもしれない。
すっかり包囲したので、本格的な攻撃態勢に入ったのではないかと思われる。
これは、私の気のせいで、そう見えるのだと思う。

こうしたことが、国連主導のもと、計画的に行われて、日本もそれに参加しているとすると、世界的にとても大きなことが起こっているように思われる。
そして、イスラム国の人たちが、人間観として攻撃するしかないような種族の集まりで、それは第二次世界大戦中のナチスドイツのような人格を持った人たとすると、とても、大きなことが起こっているように思われる。

でもそうだとしても、ウクライナ上空で、撃墜された飛行機に乗っていた、80人の幼い子どもたちのことを考えると、やはりどうしても、私は、こうした戦争に賛成する気持ちにはなれない。
これらの動きが、「自衛」なのか、「積極的攻撃」なのか、というと、私は、積極的攻撃であるように思う。
どちらにしても、人の命を犠牲にして大義を成し遂げようという考えには、反対である。

2014年9月23日火曜日

秋分の日

秋のお彼岸の中日となった。
日本の文化は、日本人の心にやさしい。
亡くなった人は、いったいどこへ行くのだろうか。
遠い山の向こうだろうか。
遠い海の向こうだろうか。
人の人生のその向こうには、何があるのだろう?

欧米の文化では、そうしたことは、欧米なりの宗教文化で考えるようである。
でも、亡くなった人にまた会える、というような発想はないそうである。
人の人生は終わってしまったらそれで本当に何もかもおしまいなのだそうだ。
それで、苦悩を抱く人も少なくないようである。

日本では、たとえばお盆に、ご先祖様の魂が、家に帰ってきていますよ、という習慣がある。
あるいは、お仏壇のお位牌のなかに、魂がこもっている、とも言う。
あるいは、「あの世」というのがあって、「あの世」という世界に、亡くなった人がいて、時どき、往来ができるのだそうである。
「あの世」というのは、大きな河の向こう岸にある。
「こちらの岸」つまり、私たちのいる現実が「此岸」で、
「あちらの岸」つまり、亡くなった人たちのいる世界が、「彼岸」である。

春のお彼岸と、秋のお彼岸の時期には、この大きな河に、舟が渡るのだそうである。
亡くなった人と、心の交流ができる、というのである。

これは、宗教的なお話でもあるし、また日本の伝統文化という話でもあるから、事実かどうか、という話は場にそぐわない。
ただ、日本のこうしたお彼岸の習慣は、人の心にとても優しい、と思うのである。


2014年9月22日月曜日

札幌三越でぼや。

昨日9月21日午後5時ごろ、札幌市の百貨店・三越で、ぼやがあったそうだ。
1000人近くの人が避難したそうである。
札幌三越は、札幌市営地下鉄の大通駅と地下道・地下街でつながっている。
地下鉄大通駅を利用した人は、地下道を通って、デパートの地下2階からデパートに入る。
このあたりは、ポールタウン、オーロラタウンという地下街も、南北につながっていて、たくさんのデパートやショッピングビルが、地下道でつながっている。
三越の地下2階から、エスカレーターを使って、店内を見て回り、買い物をしながら、三越の一階に出て、地上の「出口」から、4丁目のスクランブル交差点に出て、この近辺でショッピングや街歩きを楽しむことができる。

つまり、百貨店の地下が、地下鉄と地上を結ぶ通路になっていて、誰でも通ることができる。
このようなシステムは、真冬に戸外がマイナス気温になって、雪道が凍っているときなどは、とても便利なショッピングモールである。

集団的自衛権の解釈決定に関して思うこと。

今年2014年7月1日、集団的自衛権に関する拡大解釈について、閣議決定が行われた。
あれから、三か月近くになろうとしている。
秋の臨時国会では、女性の活躍と地方創生が、討議の中心となる予定である。

私が、7月1日の閣議決定の際に思った、本当の気持ちとして、やはり政権はなにかうまくいかないことをした、しまった、というかんじがした。
それは、この集団的自衛権の解釈が、とても思想的であり、哲学的であり、とても深い人間観に即しているからである。
人間観とは、性善説か性悪説か、あるいはそれらの融合したものなのか、という点である。
今回の日本の、集団的自衛権の解釈は、「自衛権の解釈で軍を持つ」という考え方としては、フランスにもスイスにもオーストラリアにも、未だない考えで、とても高いレベルの考え方だそうである。

こうした考え方、哲学を理解するためには、基礎的な学力の上に、専門的な思索と、専門的な学問が必要である。
この基礎的、専門的な学問と理解とその習熟を、全国民が成し遂げるまでには、100年もかかるかもしれない。
それは、人間とか日本人をばかにしているのではなく、今回の集団的自衛権の解釈が、とても高度で、人類的進歩の高みにあるからである。
私は、国連における、人類的進歩である、人間に関する考え方、自衛や平和の考え方を、少しだけ学ぶ機会があった。
やはり、とても高度な基礎知識を身に着けたうえで、その上に成立する概念であるようだ。

こうした、高度な学問に基づいて、おそらくは日本政府は国連や国際的な学問の手ほどきを受けながら、集団的自衛権の解釈を進めて行ったのだろうと思う。
亡くなられた小松一郎氏も、そうした意味で国際的な活動をしていたかたであった。

とてもむずかしい概念ではあるが、将来的には、国民のためになるから、よいことであるから、理解をしてもらう時間をとらないで、どんどん決めてしまおう、としたのが、現政権だといえるかもしれない。
そして、この閣議決定に基づいて、その後、3か月、日本は国際社会において、どんどん活動を広げている。
もうあともどりはできない。

この閣議決定に関して、とても強い不満と恨みを抱く人たちがいる。
この理由のひとつは、集団的自衛権の解釈の内容が、申し訳ない言い方ではあるが、理解ができないのであろうと思う。
しかし、個人の力であっても、図書館などに通うという努力で、理解への道を克服することはできる。
「私は反対意見だ」ということは、意味をなさない。
まず理解してから、賛成か反対かを決めるべきであって、「私の意見」は、理解のための努力以前には、無効である。

もうひとつは、集団的自衛権の概念を、きちんと国民全員が理解し納得するまで、政府が時間をかければよかったところを、そうした民主的な手続きを取られなかった、ということで、この政府の手法が、独善的で、支配的であるように感じる、ということだろう。
確かに、それが国民のために良いことであったとしても、民主的ではない、一方的である、独断である、と感じさせる手法は、国民を混乱させ、意見を二分させることにもなるだろう。

よく勉強することが、この問題を克服するための、ただひとつの道である。


2014年9月21日日曜日

子どもたちの「いじめ問題」を考える。

今、教育の現場では、「いじめ問題」が、とても大きな課題となっている。
私はNHKのテレビ番組をよく視聴するが、教育テレビ・Eテレでも、子どもたちが自分で、あるいは学校で、地域の子ども会で観るために、いじめ問題をとりあげたテレビ番組が作られて放送されている。
そこでは、子どもたちが集まって話し合いを開いていて、「つい軽い気持ちで」
「メールで」と、体験談を発言しあっている。
特に、メールやインターネットでの匿名性は、いじめをエスカレートさせるようである。
いじめは、昔からあったと言われている。
子どものケンカであるから、放っておけばいずれなくなる、と考える人もいる。
しかし一方で、いじめは、大人社会の反映である、という考えもある。
子どもたちは、その真っ白な心に、大人の言動や態度を見て刷り込んで、そのまま真似をしているのではないか、という説である。

また、成績はよいのに、陰でいじめをする子どもの、「心の闇」も、とても大きな問題である。
こうした子どもは、家庭や性格に、問題を抱えていると思われる。
こうした子どもたちに対しては、親や教師がチームで、あるいは一対一で、しっかりと心の問題に取り組むことが、必要である。

また、からかい、冷やかしは、野次にも通じる。
やはり、大人社会の鏡となっているのが子どもたちの社会であるとは言えないだろうか。
大人は大人として、公開の場で、問題解決をすることができる。
しかし、子どもたちにとっては、もっと深刻な問題であるはずだ。
いじめられる子どもの心が深く傷つくことはともかくとして、いじめる子どもの心の問題、子ども社会の問題は、大人がもっともっと、専門家やたくさんのケアワーカーの力をもって、しっかりと取り組む必要があると思われる。

2014年9月20日土曜日

スコットランド独立否決・再び団結できる。


先日、スコットランドで独立の是非を問う、国民投票が行われた。
結果は、反対多数で否決であった。
私たちにとっては、遠くイギリス、イングランドで、独立運動が起こっていたなんて、まったく知らない話だった。
もしも、国民投票で可決されたら、イギリスはふたつに分かれてしまう。
それも、合法的にである。
これは、もしかすると、ロシアというか、東側からの、策略か陰謀だったのではないだろうか?
このところ、クリミア国も、ウクライナも、独立、独立、と言っている。

こうした東側の策略を、見破って回避できたのかもしれない、と思う。

スコットランド独立・住民投票について。

先日18日、英国スコットランドで、独立の是非を問いかけた住民投票が行われた。
結果は否決、反対多数で独立はなしとなった。
イギリスは興味深い国で、スコットランドとアイルランドが、それぞれに民族を異にしている。
そして、独立を主張している。
以前には、王族があって、それぞれに独立した国であったようだ。
その国のそれぞれに、王様や女王様、お姫様や王子様がいたのだ、と思うと、シンデレラや白雪姫の物語もリアリティをもって感じられる。
このスコットランドは、日本では、北海道と同じくらいの地理的条件なのだそうだ。
面積や緯度や暮らしなども、北海道ととても似ている。
それで、私も、北海道もスコットランドのように独立ができるかどうか、考えてみた。
北海道民の感受性としては、「やっぱり無理なんじゃないかしら?」というところである。
経済的に、税収というか、そのあたりで成立できないんじゃないかと思う。
スコットランドは北に油田やガス田があって、経済的に豊かに成り立つそうであるが、北海道は農業が中心である。
やはり本州とのつながりや経済的相互関係がなければ、成立できないんじゃないかしら、と思う。
このところは、北海道新幹線や第二青函トンネルの話題もとてもうれしいものだ。

気になるのは、函館から札幌までの予定路線区間で、これが、小樽まわりの函館本線となっている。
実際には、函館から札幌までの区間というと、千歳線、というのがあって、こちらのほうが営業キロ数としては多いのだが、平地を通るのと、千歳空港を通るのとで、現在では特急などの本数も、小樽まわりの函館本線と比べると、格段に多い。
というか、小樽まわりの函館本線は、現実的には、札幌への陸路としては、ほぼ全然使用されていないという状況である。

第二青函トンネルと千歳空港の関係でいえば、北海道にいたときに、エアカーゴ計画というのを聞いていた。
日本の航空貨物輸送の基地空港として、千歳空港を設置して、貨物輸送航空機をたくさん発着させる。
そして、その貨物を、陸路・鉄道・青函トンネルを通して、本州へ運ぶ、という計画である。
そのために作った青函トンネルである、と聞いていたからずいぶん前の計画であるが、どうなのだろうか?

こうして、青函トンネルと千歳空港、エアカーゴ計画が実現したら、この貨物輸送を貿易とするのだろうか、そうすると、北海道の独立王国も、可能となりそうだ。
面白い計画である。


2014年9月19日金曜日

李香蘭とイサム・ノグチ。

先日、李香蘭こと、山口淑子さんが亡くなった。
私も、世代はちがっているものの、「蘇州夜曲」「夜来香」の歌は何度も耳にしたことがあり、よく知っていたので、とても興味をもって、李香蘭に関する記事やサイト文章などを読んでみた。
たくさんのミュージシャンが、「蘇州夜曲」をカバーで歌っていたようで、一番最初に歌ったのが李香蘭だとは、初めて知ったところである。
映画のストーリーも時代を反映したものであった。
たくさんの人から愛されていたようである。
どんな人だったのだろうか。

私は、李香蘭の人生で、一回目の結婚は、イサム・ノグチ、という点にとても興味を惹かれた。
イサム・ノグチの彫刻なら、何度も、触ったり写真を撮ったりよじ登ったり、したことがある。
そこで、イサム・ノグチについて調べてみると、やはり、ということだが、札幌の大通公園で、8丁目から9丁目にかけて、児童公園を手掛けていた。
よくよく思い出してみれば、確かに、8丁目から9丁目は、大きな木があって、緑のあるとても広い公園だったような気がする。
グーグルマップで確かめてみたら、果たしてその通り、今でも、8丁目と9丁目の間にだけは、道路がない。
碁盤の目に都市計画がなされている札幌の街であるから、これはとても面白いことである。

イサム・ノグチさんは、日本とアメリカのハーフだそうである。
お父さんがアメリカ人、お母さんが日本人、ということで、育つのも大学も、日本とアメリカを行ったり来たりしたそうだ。
もしかすると、イサム・ノグチさんと、李香蘭さんは、よって立つところがとても似通っていて、気持ちの通じ合うところが、あったのかもしれない。


つまり、「わが祖国とはどこなのか」「わたしは何人なのか」というアイデンティティの問いかけである。
今、世界のグローバル化にともなって、日本でも、帰国子女のアイデンティティには問題が起こっているそうだ。


札幌大通り公園の、8丁目と9丁目の間には、もともと道路があったそうだ。
その道路を撤廃して、子どもたちが仲良く遊べる児童公園にしたのは、イサム・ノグチさんの、心からの願いがあるような気がしてくる。
あの公園に、イサム・ノグチさんの経歴を書いた看板ひとつなかったのは、ノグチさんが、子どもたちに伝えたかったメッセージを、より穏やかな形で、残すためなのかもしれない。

2014年9月15日月曜日

縦並び社会と横並び社会のちがいについて。

このところ、日本女性の活躍が、とても世間から喝さいを浴びている。
政府の女性支援政策を追い風として、あるいは恵まれた環境として、言いたいことを言える、したいことをしてみることができる、というチャンスが与えられている。
その与えられたチャンスのなかで、女性たちは見事に成長してきている。
今、女性たちは、家庭のなかへと内向きであった顔を上に上げて、社会を眺め渡している。
そして、社会論まで展開して考え始めている。
社会は、縦並びのピラミッド型社会が一番よいのか、それとも横並びの社会にするべきなのか。
とても成長し、考えが進歩してきたようである。
横並びの社会を考え、理想とした人がいる。
思想家である。
この思想家の考えに従ってすでに、国造りがされているところがある。
この思想は共産主義であり、この国は、ソ連や中国、北朝鮮、といったところである。
支配階級はなく、すべての人が労働者として平等な権利を分かち合い、持つことになる。
こうして貧困を克服し、すべての伝統的・文化的慣例から自由になろうとしたのである。
今、日本の女性たちは、共産主義の思想に行きついたところである。
そうしたいなら、やってみたい。

おりしも世界情勢では、アメリカ・ヨーロッパ・日本を中心とした民主主義国と、ロシア・中国を中心とした共産主義国と、そして新たに勃興したイスラム国とのみっつの勢力に分かれてきている。
特に、民主主義と共産主義の対立は、溝が埋まるどころか対立が深まるばかりである。
こうしたときに、日本女性が、全体主義、コミュニストとして考えを持っているのは、本当に憂うべきことである。

それにしても、女性たちはなぜ、男性を憎むのであろうか。
昨日私は、男性は縦並び社会、女性は横並び社会を好む傾向にあるようだ、と書いたのだが、それがどうしても気に入らない、これからは横並び社会にしたい、共産主義国のように全体革命を起こしたい、とまで言う女性がいるのである。
ふだんは、「女らしくしなさい」と言われれば怒っている。
そのくせ、男のようなファッションをしている。
本当は、男性を憎んでいるのではなくて、男性が大好きで男性になってしまいたい、女性である自分を憎んでいるのではないだろうか。
そういった女性は、本当に心から、男性たちと信頼に基づいた関係を結んだことがないのである。
男性はさっぱりした友情の気質を持っている。
あるいは、愛情を持ったときにもとても深く濃やかな情愛を持っているし、その「守りたい」「いつくしみたい」という気持ちもとても大きく強いものである。
こうした男性から愛された体験のない女性ほど、男性を強く憎むようだ。
そして、結婚を拒否して、なぜか子どもだけは産むのである。

本当に男性の気持ちを理解し、尊敬して、信頼と友情と、仕事を通した同志愛というものを、育んでこそ、男性と女性とが共鳴しあい、共同参画できる社会ができるのではないかと思う。

社会のなかで、大きな仕事を成し遂げるときに、組織構成はぜひとも必要である。
これは、チームを形成する、ということである。
チームには、まず構成員がいるが、その構成員の全体を見渡し、チームの行動方針を決定するリーダーシップが必要である。
管理職は、このリーダーシップの役を担っている。
全体を見渡し、大局に立って判断し、部下の失敗は、リーダーが責任を取っている。

これは、家庭内においても同じである。
一家の主が、家庭というチーム社会のリーダーとなっている。
このリーダーは何もしていないようでいて、一家全体を見渡して、全員の希望を集め、一家の向かう方向を決定し、トラブルがあったときには対処し、謝罪責任があるときには、リーダーが責任をとって謝罪をする。
今、管理職はその仕事をしている。
ルーティンワークに時間を費やしているチーム構成員には、とてもわからないような、体験してみなければわからないような、重圧と責任がその肩にのしかかっている。
一社の社長もそうであるし、一国のトップもそうだろう。
そうした、目に見えない「責任」「いざというときの仕事」がわからないで、「何もしていない」は、目が見えているようで何も見ていない、社会というものを見ていないのである。

縦並び社会が女性に適用されると、ママ友カーストとも呼ばれる状態になる。
ママ友カーストでは、「夫の職業」が、カースト上位下位を決定する大切な要素になるそうだ。
男性社会にも、言わずもがなで、この男性カーストがある。
その際に、「妻の状態」が、カースト決定の重要要素になることは、男性諸氏がみなさんご存知のところである。
ママ友たちがそうであるように、男性諸氏も、愛なんかで結婚していないかもしれない。
もちろん、カースト上位になれるような女性と結婚しているのである。
婚活の際に、女性たちが見えないで苦心しているのは、男性にも選ぶ権利がある、ということである。
尽くすだけでなく、夫が社会的に上位に立てる妻になれるように、ぜひとも気品ある女性になってほしい。

横並び社会への革命を、たくさんの人たちが賛成賛同して、それをしてみる気持ちがあるなら、私も参加してみたいものだ、と思う。
ただこれは、男性陣と仲良く相談してから、決めるべきことだと思う。
社会は、女性だけが支配しているのではなく、男性もいるのである。
話し合いで決めるべきである。

2014年9月14日日曜日

女性が輝く社会へ。

このところ、「女性が輝く社会へ」というキャッチフレーズが、世間をにぎわせている。
実際に、女性たちが活躍する場が増えているようだ。
企業も、女性を登用することに積極的になっている。
これからは、女性にもスポットライトを当てて、その才能をいかんなく発揮できるように、日本の社会は、まず環境整備から、始まっているのである。
しかしここで、重大な問題が生じているように思われる。
それは、「女性が輝く」「女性活躍」という概念が、抽象的であり、それぞれの人によって思い描くところがずいぶんとちがっているようだ、という事態である。
ある人は、女性が「自由に」生きる、生き方をさして考えているようだ。この考えは、女性たちが、男性に比べて、社会制度や「あるべき姿」に囚われていて、自由度が少ない、という前提に基づいている。
ある人は、女性が、持てる才能を十全に発揮できることを考えているようだ。この考えには、今現在において、女性たちが、男性に比べて、才能を発揮できる機会が少ないという前提に基づいている。
つまり、「今現在の問題」と、「目指すべき姿」に一致点がなく、そのせいで、女性の活躍は、方向性を見失っている感があるのだ。

しかし、実際のところ、政府が思っているのは、具体的に表現すると、女性が、政治の場で、トップに立てる状態を目指す、ということである。
これは、どういう活動かというと、専業主婦たる女性が、会社勤めに出て、お茶くみやコピー取りにいそしもう、という活動目標ではない。
女性が、会社の管理職になって、リーダーシップを発揮してほしい、という非常に強くはっきりした姿がある。
この、管理職という社会的な仕事こそが、政治そのものである。

男性が築いた社会、男性社会ともいえるかもしれないが、この上下格差ピラミッド式社会、組織社会において、その組織社会のシステムを理解し、そのシステムのなかで、上をめざし、上に立ったからには、下部組織を指導する、リーダーシップの立場で働くことを意味している。

ところで、女性には、脳科学的にも心理学的にも、平等や横並びの性質があると言われていて、ピラミッド型社会は、もともと心の中に概念として持っていないという説がある。
そういった女性たちに、男性社会たる、ピラミッド型縦社会をインストールして使えるようにすることが必要である。
男性はもともと持って生まれた性質であるのに、女性には、この縦社会の政治的発想が生まれ持ってない、という状況のなかで、女性だけが持って生まれなかったものを後天的に身に着けなければならない、ということだ。
これが、今、待望されている、女性への教育である。
女性への教育は、あたかも、iPhoneに、アプリを新しくインストールするように、持っていなかった機能を掴みいれ、それを毎日使えるようにすることが、要望されているのである。
正直言って、今現在の女性たちには、この政治的性質がない。

女性は女性なりの観点で、社会に言論をしてほしい、と要望されると、毎日毎日、出てくるニュース記事は、子育て支援、食の安全、とこんな話題ばかりである。
なかには、社会問題であるにも関わらず、「子どもたちがかわいそう」という、感情論、感傷論で結論付けて、討論をそらす癖のある女性記者もいる。
仕事を持とうとする女性たちは「女性は家事と育児」と言われると、ヒステリーを起こして怒るくせに、社会に女性なりの視点からの発言、といわれても、相変わらず家事と育児の話題しか、脳のなかに、ないのである。

今年が明けてからの半年以上、社会問題となるのは、食への不安、子どもたちが痛い目にあっているというニュースそればかりである。
命に関わる不安になるだけに、社会不安を煽っているようにも思える。
問題提起をするだけで、解決は男性政治家に任せている、これは、家庭の主婦が、やれお金がない、食べ物がない、と依存している姿勢そのままである。
また、悲観的であるのもよくない。
何がそんなに不安なのかわからないが、女性は不安になりがちである。
その不安感を、社会に広げるのはよくない。
女性に求められているのは、その現実感覚に根差した、安心感と笑顔、安定した大地のような穏やかさなのである。

女性が活躍する社会は、母性本能だけではいけない。
本能は克服すべき欲である。
本能は理性で乗り越えてコントロールしなければならない。
本能的不安を乗り越えたところに安心立命があるのではないだろうか。
また、女性らしさを「母性」と置き換えるなら、先に述べたように、大地のように安定した精神状態である。
ヒステリーを起こした女性の嘆きと叫びであってはいけない。
そうした心情があったとしても、社会のなかで、役を持つときには、その感情を抑えて、理性で部下をコントロールすることが必要なのである。

これからの、女性が輝く社会は、女性が管理職に就く時代、とはっきりと言うことができる。
そこにわがままは許されない。
男性と比べて2倍、3倍働くことは、当たり前である。
環境に甘える前に、自己を磨くべきである。

討論、論戦の仕方も、男性に見習って、感情的にならないように、正論だけで丸め込まないように、技術的なところを習熟すべきである。
文章の書き方も、もっともっと訓練するべきである。
また、キャリアウーマンが正論を唱えているのになぜ嫌われて、提案が受け入れられないのか、自己自身でよく問い直し、男性と上手に付き合っていく方法を、よくよく考えて、学んで、物柔らかな物腰を身に着けるべきだ。
「私は正しいのに誰も受け入れてくれない」というわがままで尊大な態度が、働く女性の言い分であり、その言い分は誰からも耳を貸してもらえない。
また、世の中はもともと平安であるのが普通の状態であり、私が苦労するのは、理不尽だ、という考え方も、世界観が狭すぎる。
世間はとても厳しいところであり、男性同士では、自己の意見が受け入れられないのは当たり前のことで、こわい事件が起こるのも当たり前の、ジャングルなのである。
ジャングルで生き残るのが厳しいのは当たり前で、そういうときに、家庭という巣のなかが安全で温かい場所なのではないか。
女性は、母性本能のためか、社会全体が温かい巣のような家庭でなくてはいけない、と思っている。
そして、それを誰かが「私のために」用意してくれていて当然、といった態度で、嘆き、悲しみ、不満を訴えている。

そんなに社会に不満があるなら、自らの手で建設することを始めてみればいい。
誰かに用意してもらう社会ではなく、社会に対して主体的になり、社会建設の参加者になるべきだ。
不満を言い募っているだけではなく、建設者となるべきだ。
ほしい法案があれば、自分で創る、自分で訴えることも必要だ。

これからの、女性が輝く社会は、女性が自ら自分で自分を律して、政治能力を一生懸命身に着けることが大切である。
そうして、男性社会のなかで、家事と育児の分野だけでなく、政治も、経済も、社会問題も国際問題も、一家言持つほど、勉強することが大事である。
そうして、男性でさえむずかしい、管理職への登用を、実力で勝ち取ることが必要である。
幸いにして今は、男性と政府と企業が、全面的に女性たちの活動をバックアップする体制にはいってくれている。
こうした環境に甘えず、喜んで感謝の気持ちを表して、その気持ちに応えて、一生懸命がんばることが大切である。

それから、そのためにも、女性が女性同士、仲良くすることが大切である。
「女の敵は女」であってはいけない。
特に、年上の女性が年下の若い女性を、厳しく叱る場面がある。
何を思っているのか知らないが、これが母性が本能的に表れた瞬間なのである。
女性たちが、仲良くしようと努力しない、これでは、せっかくの女性たちへの支援が台無しである。
女性は女性同士、本音でわかりあえるはずではないか、と男性諸君は思い込んでいる。
男性の期待に応えることも、大切である。

男性が求める姿である、女性が輝く社会へ、目標をひとつにしたときに、その願いは必ず、実現する。


2014年9月11日木曜日

9月11日・2001年から今日まで。


きょうは、9月11日である。
あの怖ろしい2001年9月11日から、もう何年経つというのだろう。
私たちは、あの日から「9・11」を忘れない。
そして今年の9月11日、アメリカは、シリアに対する攻撃を宣言した。
日本としては、集団的自衛権の解釈が決定したばかりである。
アメリカに合流することはまちがいないだろう。
しかし、このアメリカは、NATO北大西洋条約機構に加盟している。
ここ数週間で、世界情勢も日本を取り巻く状況もどんどん変化して、今、日本の自衛隊は、NATOに参加する話となっている。
NATOと国連軍は、ほぼ一体となる活動をしている、といっても過言ではない。
NATOと国連とアメリカと日本、つまり、ヨーロッパとアメリカと日本は、一体となって、イスラム国を、攻撃して滅ぼそうとしているのである。

これは、数カ月かけて、いや数年かけて、アメリカとヨーロッパと国連と日本とで、イスラムのテロ組織、イスラム過激派を、なくするための、戦略だったといえる。
イスラム過激派、イスラム急進派に対して、今、世界は、大きな、平和のための、一手を打とうとしている。



2014年9月10日水曜日

テニスのプリンス・錦織圭選手おめでとうございます!

昨日、テニスの全米オープン男子で、錦織圭選手が、見事に準優勝に輝いた。
本当におめでとうございます!
実をいうと、私はテニスにはそんなに詳しくなくて、でもどの学校にもテニス部というのがあって、どちらかというと、ハイクラスなスポーツという印象があったように思う。
コミックでも、「テニスの王子様」という題のものがあって人気である。
ずっと以前では、「エースをねらえ!」というコミックがあって、これも「お蝶夫人」というハイクラスな優雅な選手が出てきて、なんだかそういうイメージがあった。
でももしかしたら、日本においてはまだまだ、すそ野はあまり広くないスポーツなのかもしれない。

昨夜は、素敵な満月であった。
ここ数年、「月ブーム」とも呼ぶべき状況が静かに浸透しているように思う。
遠い天体を見上げることは、地球環境エコブームともつながるのだろうか。
新月や満月などのマークが、カレンダーに記されるようになったのも、ここ数年であるように思う。
月の影響が、人の心や身体にどれほど影響を及ぼすのかまだよくわからないところであるが、影響がある、ともいわれている。
その影響は、ひとことで言えば「癒し」ということだろうか。
「癒し」は、一過性のブームではなく、すでに人の気持ちに定着しているものである。
月の癒しと、太陽の活躍。
錦織選手の闊達なスポーツと活躍とテニスという種目は、太陽のようである。
とかく物静かである、と言われがちな若者層にあって、錦織選手の活躍は太陽の輝きそのものである。
太陽をめざし、夜には、月に癒される。
静かで穏やかでそれでいて元気いっぱいに、人間は自然のリズムと、やはりいつも一緒なのかもしれない。

2014年9月9日火曜日

雅子さまと紀子さま。

昭和天皇のご記録が出来上がり、国民にも公表された。
「謎の遊び・クロックノール」というのも、何かとてもユーモラスで楽しい。
昭和天皇というかたは、とても身近な雰囲気をお持ちのかたであったように思う。
そして今は、平成26年である。
私はこういうことは、案外ケロッとして口にしてしまうほうなのだが、平成の次はどんな元号になるのだろう?
「平成」の元号が発表されたときに、どこでどんなふうに、そのニュースを聞いたか、覚えていますか?
時代が大きく変わっていく不思議な気持ちがしたものでした。
それは、歴史の中に生きている、という実感のようなものだったと思う。

ところで、平成天皇のお次の天皇陛下は、いったい誰なのかしら?とこれも、私はケロッとして口にしてしまうのだが、実は国民の誰もが、いや女性たちなら誰もが、陰に隠れなくても、表だって、井戸端会議というやつで、話し合っているもっかの話題である。
日本国の女性なら誰しも、天皇陛下は人間なのである、と学校で習った覚えはあって、きっと人間なんだろう、と思うけれども、すごくえらいのかどうかまでは、なんだかよくわからない。
すごく威張っている人はすごくえらいのだと思うけれど、あまり威張らないで、お仕事も民間の人とにこやかに握手をする内容なので、やさしい人なのだと思う。
それでも、この世の中には、「お姫様」とか「王様」「王子様」というかたがたが存在するのだ、と思うと、なんだかその存在と、その人々を尊敬することが、心のなかでとてもうれしい、誇らしい気持ちになる。
王族、という存在は、ワールドワイドな世界状況になって、ますますいろいろな価値を持ってくるものだと思う。
フランス人だって、フランス革命以来、王様を探している、という話ではないか。

私たち女性国民とすると、皇太子殿下というか、次の天皇陛下が誰になるか、という問題は、日本国民を代表する女性トップは誰なのか、という問題になる。
これは女性一般論であると思うし、私も女性の友達とあれこれお茶飲み話をした結論であるが、やはり、美智子妃殿下、皇后陛下は、とても立派でおやさしくて、すばらしいかたであると思う。
そうして、女性週刊誌でも書かれている通り、話題として、「雅子さんと紀子さんと、あなたはどちら派?どちらが好き?」という話になる。
これは、本当にお茶飲みの話題だから、誰もがしていることとして許してほしい。
私も、友達も、たいていの友達も、みんな紀子さまのほうが大好きである。
紀子さまは、謙虚で、おとなしくて、それでいてしっかりしているかんじがする。
お子さまを見ればあきらかである。
お子さんは、お母さんの鏡であって、どんなに取り繕っても、子どもさんの笑顔までは、お母さんが取り繕うことはできない。
三人のお子さま、眞子さん、佳子さん、悠仁さまを、あんなに立派に育て上げることができたのは、ひとえに紀子さんの「女性力」の高さであると思う。
女性力というのは、女性たちが、たとえば「ママ友カースト」なので、自然と感知している、女性としての力である。
夫を支えて、幸せな家庭を作る力であるし、そもそも、夫の仕事が成功するのは、妻の力である、というふうに判断する。
それから、お洋服のセンスであるとか、お子様に着せるお洋服のセンスもここには入ってくる。
お子様の持ち物や服装も、紀子さまはとてもきちんとしていらっしゃる。

紀子さまご自身も、ご公務の際には、やさしいやわらかい、ふわっとしたワンピースを着ることが多く、女子力高い、と思わせる。
一方で、雅子さまは、キャリアウーマンらしく、ご懐妊中も、スーツ姿を崩さなかった。
固い雰囲気があるし、何よりも傲慢なご表情をしていらして、勝気なかんじがする。
東京大学を卒業したことも、ハーバード大学へ行ったことも、素晴らしいキャリアであるが、それを鼻高々に顔に表しているようなかんじがする。
…これはすべて、私の友達が、お茶とケーキの合間に、くつろぎながら話した内容である。

それにしても、昨年4月のオランダ訪問のときの、雅子さまの態度というと、女性たちの間でも話題になったものであった。
専用の飛行機がオランダの空港に着き、慣例ながら、飛行機のタラップの階段を、皇太子殿下とご夫婦おふたりで、降りていらっしゃる。
そして、出迎えの人たちのところに、皇太子殿下が背筋を伸ばしてまっすぐに歩いて行こうとしたときに、うしろを歩いていた雅子様が、皇太子殿下の背中をうしろからたたいたのである。
「あちらに日本からのメディアがいらしてますよ。カメラのほうに挨拶なさったら」という合図だったようだ。
しかし、このとき、皇太子殿下に必要だった仕事は、日本のカメラに手を振ることだったのだろうか。
これから、オランダで重要な儀式が始まるところで、緊張と覚悟を定めて仕事に挑もうとしている男性の背中、SPもたくさんいる、危険もあるその歩行の最中に、妻だからといって、なれなれしく背中をたたくものだろうか。

男女平等が身についている、といっても、飛行機から出迎えの人たちの元まで歩くのに、男性のうしろを歩くのが、そんなに気に入らないのだろうか。
こうした、妻としても女性としても、ご公務に就かれる皇族としても、なんだかそぐわない振る舞いが、日本国民の女性たちから「なんとなくあの人嫌い」みたいな状況を作ってしまうのではないか、と思う。

紀子さんの場合は、飛行機の、これはタラップ階段を登るときなのであるが、秋篠宮殿下の手首をしっかりと握りしめて、一段あとから登っていく姿勢をしている。
これは、階段の足元の確保なのだろうけれども、この方法、夫君の手首をしっかり握る方法は、美智子皇后から教わったものなのだそうである。
お姑さまから学ぶ姿勢のあるお嫁さん、という点でも、紀子さまは、とても尊敬できる女性である。

悠仁さまが、皇位継承者であることはすでに決定している。
これから先、「天皇陛下と皇太子殿下」が、並んで歩くときに、親子でないという状況は、ちょっとなんか違和感あるんじゃないかしら…?

…と、きょうも日本女性たちは、うららかに井戸端会議をしている。


2014年9月8日月曜日

宇宙開発と技術開発について。

今夜は、中秋の名月である。
月を眺めれば、自然とロマンチックな気分になる人がいる。
歌など詠むのも、とてもすてきなことだ。
一方で、あの月にロケットを飛ばそうとする人もいる。
性格は人それぞれなのだろうか。
月には、すでに人類が足を踏み込んだ、という話だ。
アメリカの月ロケット・アポロが、相当前に、たぶん30年以上は前に、月面着陸を行っている。
その後、アメリカは、月へは行っていない。
月へのプロジェクトはやめて、スペースシャトルとか、国際宇宙ステーション、そして、火星探査、木星探査と、遠くへより遠くへ、と探検を始めているようである。
どうもこうした、より遠くへ、という探査は、アメリカだけが行っているような気がする。
ロシアや中国も、ロケットを作成しているが、「より遠くへ」という気持ちも経済的基盤もないようだ。
でもこれは、アメリカ人の気質であるように思える。

かつて、南極大陸がそうであったように、宇宙開発、月や火星の土地や政治や資源の分割は、協力体制が組まれるのが一番よい、と思う。
そうしないと、ずっと以前の歴史に残る、アフリカ大陸の発見、アメリカ大陸の発見のように、「早いもの勝ち」の、領土の奪い合いになってしまうからだ。
しかし、歴史の法則というのはそういうものかもしれないが、開発や開拓というのは、最初は植民地的に行うものかもしれない。
もしこれから月開発、開拓、資源の発掘を行うとしたら、植民地的な政策をとられるだろう。
今後は、宇宙空間や宇宙領土に関しても、政治はとても必要になってくるだろうと思う。
それは、地球上の政治がとても関連してくるだろうと思う。
地球の政治が、宇宙空間に持ち込まれるのだろう。

しかしまた、開墾、開拓、というと、以前アメリカの映画(遥かなる大地へ)を観たが、アメリカ大陸の開墾には、「その地をならして住宅地や農地にした人が、その土地の持ち主になることができる」ということで、早いもの勝ちで、土地区画を手にできた状況だった。
北海道開拓においても、その土地を開拓した人が、その土地の持ち主になることができた。
確か、ハワイにおいても、ブラジルにおいても、日系人は土地をもらえる、ということで、新天地を求めて、開拓に出かけたはずである。
こういうスタイルで、宇宙開発に、新天地を求めることは、あるのではないか、と思う。

経済や税の使い道としては、宇宙という未知数のロマンにお金をかけるよりは、国内の福祉政策に使うべきだ、という声も圧倒的であると思う。
けれども、たとえば東京オリンピックにしても、「そんな夢のようなことを」という声が圧倒的であったにも関わらず、決まってしまえば、東京中いや日本中の、将来の展望となることができた。
人には、夢や希望が必要なのだ、と思うのである。

アメリカのNASAでは、宇宙開発の途上で産生された新しい材質が、とても保温性のある毛布になって、発売されて、人々の生活の向上に貢献している。
宇宙開発というひとつの、人類的な高みを目指すことで、人類の意欲や学問や新発見は、上へ上へと、上昇していくものなのではないだろうか。
人は、高みへと成長を目指すべきであると、私は思うのである。


2014年9月7日日曜日

新設された地方創生相への大きな期待と夢と希望。

新しい内閣が始動している。
次々に新しい動き、さっそくの動きが始まって、本当にわくわくする。
やはり、地方在住が長かった私としては、新設された地方創生相には、たくさんの期待と夢と希望がある。
これは、単に、地方から国の中央省庁への要望になるかもしれない。
しかし、これから地方の活性化に、国が重要政策として力を入れてくれるというと、地方としては、これほどうれしい未来はない、ということになる。
私は特に、北海道にいたので、北海道からの、期待があるので、そういったことを書いてみたいと思う。

まず、道州制についてである。
道州制というのは、厳密に言えば、都道府県の境界線を見直しをして変えて、もっと住みやすく地方自治がしやすく、というたくさんの複雑な地方の見直しであるらしい。
しかし、私は、北海道に住んでいたころ、道民がみな口にしていた道州制とは、北海道が州となり、東海道や山陰道、東北道、と「道」で分けられるところを分けて、そこを、「州」として、アメリカ合衆国のように、「合州国」にする、という概念であった。
北海道は、中央首都である東京からとても遠く、気持ちの上での遠さかもしれないが、北にある地域柄や文化風習から、北海道は北海道だけで、自治をしたい、という気持ちが強かったようだ。
実際には、東京や内地とのつながりがない状態で、経済や政治が成り立ったのかどうかわからないが、たとえば、国際都市として、ロシアとのほうが、地理的に距離が近いので、ウラジオストクやサハリンなどと直接貿易をしたり、サマータイムを導入して、これは、東京やほかの日本の地域とはビジネスタイムがちがってしまうということであるが、サマータイムは、朝が一時間ほど早くなる状態で、午後4時には仕事を終え、白夜に近い夏の夜の長さを楽しんで、その分を休養や経済効果にあてよう、という試みである。
また、北海道の人に限らず、北海道の地理的な条件を考えて、「北海道王国」のようなものを作りたい、というロマンチストがいるようである。
私も、それはとても興味がある。

次に、やはり現実的には、日本の一地方として、国とのもっともっと密接な関わり、ということを考えてみたいと思う。
地方として、どうしても国の力が入らなければどうにもならない問題がある。
たとえば、国立のさまざまな施設である。
国立大学であるとか、国立病院、国道、これは、現在は国で運営しているものではないが鉄道、それから、国立公園である。
こうしたところに、中央省庁からの目配りというのが、なかなかない、というのが現状である。
たまには、せめて、見に来てほしい、足を運んでほしい、と思うこともある。
国立の各施設はすでに老朽化していて、できればほんの少し予算がほしい。
以前、北海道出身の鈴木某議員が、涙を流して悔しがっていたのは、国からの予算、たとえば箱ものであったとしても、北海道からどんなに足を運んでも、箱モノをつくらせてもらえない、ということであった。

また、民間の企業の問題も、地方にとても大きな影響を及ぼしている。
たとえばある一企業が、いくつも支店を作って、全国展開しようとする。
そうすると、東京本社であるものが、大阪支店の次は名古屋支店、福岡支店、と作るのだが、北海道支店は最後の最後である。
それだけならまだ、仕方ないかもしれないが、この企業が業績不振に陥ったときに、まず一番先に「切る」のが、北海道支店なのである。
以前、西武系、プリンス系、が、業績不振から企業の再建をはかったときに、一番先に切ったのが、北海道のさまざまな商業施設であった。
これは、北海道民としては、遠くからやってきた東京の人たちが勝手に商業を始めて、そこに雇用されたり、買い物に行ったりしてみたものが、ある日突然、消えてしまった、という現実である。
都会に利用された、という感のいなめないものである。

小樽市では、運河を中心にした観光名所があるが、ここも、東京資本である。
せめて観光業務だけでも、地元に収益があるようにできないものだろうか…。

次に、学校の問題である。
北海道はその広い大地に町々が点在しているために、いわゆる「へき地校」と認定される小学校、中学校が、日本一多い地域である。
これは、義務教育であるから、一クラスに一年生から六年生まで合わせて10人であっても、学校の先生が遠くから赴任してきてくださって、学校教育を受けることができる。
しかし問題は、高校進学である。
自宅から通える範囲内に、高校が、ないのである。
もしも高校進学がしたかったら、家から出て、札幌や旭川、釧路といった地方都市に下宿するしかない。
しかし、親としても、そんな経済的余裕はない、というのが現実である。

バスや電車といった交通機関はもとより、道路も細い。
すべての子どもたちが、高校に進学できるようにできないものだろうか。


2014年9月6日土曜日

デング熱の予防について。

東京都内では、今、デング熱の感染が広まっている。
もともと、海外から渡来したヒトスジシマカという蚊であるが、これが媒介して起こる感染症である。
蚊に刺された人が感染して発症する病気なので、蚊に刺されなければ、発症することはない。
そういった意味では、「人から人へ」伝染する病気ではない、ということを、よく覚えておくことが大事である。
そして、予防としては、この蚊に刺されないようにすることが、必要である。
蚊は、夏がさかんに飛び回るように思うかもしれないが、少し涼しくなった秋のはじめごろは、一番活発に活動している。
蚊は、水のあるところで、成長するので、水の周りを用心することが必要である。
すでに東京都内の下水道や、水路、樋、川、などから、広がっている可能性はあると私は思う。
水で広がるものなので、都内はすでに用心に用心を重ねるに越したことはない、と思う。


「女性の活躍」について。

9月3日に、新しい内閣が発足した。
すぐに、つぎつぎに、新しい内閣の仕事が始まっているようで、本当にわくわくする。
地方創生は、きょう、看板を掲げた。
地方の活躍は本当にうれしいものである。

また、新設された「女性活躍」も、とても楽しみなことである。
これからどんなふうに、女性の活躍に具体的な法が出されるのか、誰もが期待している。
今、女性の問題は、とても多くのテーマを抱えている。
これは、時代がどんどん新しくなり、進んで行って、また国際化、欧米化がすすめられていっている、という意味でもある。
そういった意味で、日本はまだまだ、女性の社会参加、女性の人権問題に関しては、後進国である、という認識を、まず新たにしなければならない。
これは、アジア全体の問題である。
もともと、アジアには女性と男性のそれぞれの認識や文化があり、その伝統文化と思想を背景とした女性の立ち位置があった。
それらを、アジアとして尊重することが、大切なのではないか、と私も考えたことがある。
一概に、欧米化することだけを、「好し」とするのでなく、日本は日本なりの、アジアはアジアなりの、男性と女性の在り方が、あるのではないか、とも思ったものである。
しかし、「人間として」つまり、人権として考えてみると、やはり日本とアジアの女性の人権と社会的地位は、尊厳が守られているとはいいにくい。
こうした前提にたって、まずは欧米を見習う気持ちで、女性の人権、立場、社会的存在価値を、希求していくことが大切であると、私は考える。

これは、安倍内閣がしきりと訴えている「積極的平和主義」に通じるものであり、決して、経済政策というわけではない。
「平和」と一言に口にするが、実際には、「平和学」という学問があり、学問には派閥もあれば、高い学問、そうでもない学問もある。
今、国連で、つまり世界の最高峰で展開されている「平和学」は、「積極的平和主義」である。
積極的平和とは、ただ単に国家間の戦乱や地域紛争がない状況ではなく、社会における貧困や差別がない状況を指している。
だから、日本で今行われている、経済政策は、貧困対策と通じているといえる。
そして、女性活躍の政策は、男女差別の是正という、積極的平和の建設なのである。

確かに、女性が社会に出て、ある意味、会社に出て働くほうが、国全体としてみて、経済効果は上がるだろう。
生産能力の向上である。
それは、日本という国にまだまだ眠っている労働力の発掘である。
他国と比較してみると、家庭に眠らないで会社に出て働いている女性が99パーセントであるフランスと比べれば、その「眠れる資源」は、とても大きいものだろう。

そうしたことは、特に男性の目から見ても明らかなのだろう。
時に、一家の主婦が専業主婦であり、子育ても終わって、友達とランチやショッピングで一日の大半を過ごすような場合、夫から「うちの不良債権」と、あだ名をつけられてしまう。
女性の在り方は、本当にこれでよいのだろうか?というのは、男性の目から見ても、率直な疑問なのではないだろうか。

また、女性の立場に立ってものを考えると、私自身もこうして社会に目を向けて政治や経済、社会問題に視点を持ち、ひとつの仕事を持っていて痛感するのは、仕事を持つことは幸せだ、ということである。
同じ年ごろの女性の友達、同級生たちを見ていると、働く女性たちにとっては、これは明らかなことである。
仕事を持たないで専業主婦になった女性たちは、20代においては、ウエディングドレスのイメージそのままに、とても幸せそうである。
しかし、30代には、子育てに追われ、40代には子どもたちが巣立ち、年齢をひしひしと感じる年ごろになって、自分の人生が、からっぽ、なのである。
そして、ここから一念発起して、働きたい、小さなお店を始めたい、と言ってみても、重ねてきた仕事経験を比べると、本当になにもない、むなしい状態なのである。
そう考えると、20代、大学を卒業してからずっと仕事を続け、キャリアを積み、40代、50代を迎えることが、「人間として」幸せな人生だとはっきりと言えるのである。
こうした、幸せで充実した人生を生きるために、政策を行う、というのが、女性活躍政策の、根本であると私は思う。

しかし、女性たちというのはこういうものなのか、とため息をついてしまうのだが、「ああ言えばこう言う」という具合で、「わざわざ政策を作られて働かされるなんて」と文句を言っているのが、当の本人の女性たちなのである。

女性が、旧習から解放されて、社会の中で生き生きと活動し、自力の経済力を持ち、その能力と才能を充分に発揮して、人として生きることの充実を味わうことができる社会、これが、女性活躍の社会であると、私は思う。
文句ばっかり言わないで、女性後進国である日本の女性が、まず自分ががんばることが、大切であると私は思う。

次に、夫婦別性論議について思うことである。
日本では、伝統的に、結婚すると女性は、男性(夫)の姓に変わる。
これは、戸籍の問題でもあるが、結婚を「家にはいる」と捉える文化が背景にある。
ずっと昔から、女性と子どもとお年寄りは、いや誰もが、ひとつの集団である「家」に属する決まりがあった。
これは、生計を立てることや防犯上、社会秩序の維持といった目的があったと考えられる。
それで、結婚を当人同士のふたりだけのこととは考えず、ひとりの女性が、「家から家に移動する」「所属する家を替える」といった見方をしたのではないかと思われる。
それで、所属する家の姓を名乗ることが、社会秩序上、必要だったのだと思う。

さて、ここで、女性が社会参加、特に仕事、ここではビジネスという言葉が適しているが、ビジネス上で、一生の間に、姓が変わることは、どんな影響があるかということである。
たとえば、ある女性が医師となり、医院を開業したとしよう。
この女性の独身時代の姓が「木村」であったなら、「木村医院」となるだろうか。
しかし、この女性医師が結婚して姓が変わって、中居という苗字になったなら、病院の看板まるごと「中居医院」に替えなければならなくなる。
これは、仕事の上で、ハンディともいえる状況ではないだろうか。
人生の途中は仕事の途中である。
政治家、議員であっても、名前の浸透はとても重要なことなので、せっかく浸透した名前を途中で替えるのは、とても不利である。

ある女性が、娘時代には、正岡、一度目の結婚で中原、再婚して二度目の結婚で泉と姓が変化したとしよう。
この女性は、職場で電話を受け取るときに、最初は「正岡さんお願いします」と言われ、そのあと「中原さん」そのあと離婚したときには、「ごめんなさいね、私、離婚いたしましたので正岡にもどりました」とプライベートな説明をし、そのあと再婚の際にはもうなんだったか名前がわからなくなっている。
これが、男性だと、プライベートを取引先に打ち明ける必要はないし、一生名前もはんこも、実印も変わらない。

姓名というのは、とても大切なものである。
そして、ビジネスでは、またもっとたくさんの価値を持つものである。
それなので、やはり女性が活躍できる社会では、夫婦は別性にしたほうが、よいのではないだろうか。もちろん、選択式ということであるが…。
それでも、結婚したときに、息子のヨメが、苗字は別にしたい、と言ったら、お姑さんもおしゅうとさんも、たいそう怒ることだろう。