2014年7月25日金曜日

NHK「花子とアン」第16週「あなたがいる限り」感想。

2014年を代表する傑作となりつつある、NHK朝のテレビ小説「花子とアン」。
大みそかの紅白歌合戦の出し物も気になってきた。
先週第15週「最高のクリスマス」に続いて、第16週は「あなたがいる限り」である。
「最高のクリスマス」では、土曜日に、朝ドラ最大のポイント「プロポーズ」が敢行された。
そして、日曜日をはさんで、月曜日には、甲府のご両親へ、花子と英治の、ご挨拶、火曜日に結婚式、水曜日におめでた、木曜日にご出産、と本当に大忙しの花子さんであった。
大変にお祝いもうしあげたい。本当におめでたい。

考えてみれば、クリスマス関連でのプロポーズは、朝ドラの注目としては、今回は誠に質素倹約であった。
夫となる村岡英治が、花子の、妹と同居している女性ふたりの下宿先に上がりこんで、テーブルをはさんで、畳の上で、正座して行うものである。
考えてみれば、プロポーズと言えば、あの歴史的な、「ちゅらさん」の、南の島の、「あの樹の下で」の、ロマンチックかつ誓いのたった、プロポーズがあった。
しかし、花子の場合は、自宅居間である。
さすがに不倫のプロポーズは、簡単に行うものである。
しかしまた、このときの英治のセリフにも、驚愕させられる。
「自分の本当の心と向き合うことにした」というのである。
ということは、これまでは、本当ではなくて、嘘の心を態度にしていたわけだ。
もしも英治が、このとき、自分の本当の心に向き合ったら、どれだけたくさんの「本当」が出てきたのだろう。
それでも、これまでの「逃げ」の姿勢を改めて、前向きになったのは、とてもよいことである。
中園ミホさんの脚本から学ぶところはとても多いのだが、ここでは、実際には恋愛もし、お子さんも出産された中園さんは、ご結婚だけはされていないのだが、もしも中園さんにとって、「こうあったら結婚にいたった」というワンポイントレッスンがあるとすれば、「男性が反省すればいい」ということになる。

また、その後の、月火水の流れを観ても、不倫シングルマザーにとっては、男性の反省に基づくプロポーズさえあれば、すべて片が付く、という素晴らしく単純明快な図式を見せてもらうことができた。
つまり、中園さんには、恋人からのプロポーズの言葉がなかった、ということなんだろう、と思う。

実際の結婚では、プロポーズから、お付き合い、両親へのご挨拶、結婚式の準備、これらのさまざまな行動が、ふたりがふたりで行う初めての共同作業となり、家庭を持つための、たくさんの社会的プロセスが踏まれるわけである。

そのあたりが、ドラマとしてとても描きごたえがあるエピソード満載なのに、すっとばした中園さんは、やはり自分の体験だけに基づいてこの脚本を書いているので、「体験がないことは手を抜きました」ということだろう。
お付き合いから結婚式まで、そして結婚してから子どもを授かるまで、このとても短い期間が、夫婦が夫婦として成立していくための、大切な二人の絆プロセスである。
言い合いもあり、葛藤もあり、ときには「別れようかな」「やっぱりだめかも」と迷ったりする。
ほんのささいな、生活上の習慣で、ぶつかって成長して、他人様と一緒の「暮らし」を営んでいくことも、平凡な主婦の誰もが通る、大切な過程である。
エンゲージブルー、マリッジブルーというのも実は、「娘」が「妻」になるための、そして、「妻」が「母」になるための、大切な期間である。
蝶に例えれば、変態、というほど、幼虫からさなぎ、蝶々にいたるまでの、劇的な変遷プロセスなのである。
そのあたりを綿密に、回を重ねて描くと、視聴者にとっても、経過が見て取れる、ぱっとみただけで夫婦と見える、素晴らしい映像が見られるはずなのだが、それがなかったのが残念だ。
花子夫婦に、生活感や夫婦らしさを見出すことができず、先週からの続きで、香澄さんを裏切って訪問した浮気亭主が、愛人と一軒家で密会しているようにしか見えない。
なんとも残念である。

そして、この週は、白蓮事件が取り上げられる。
誰もが「神回」と絶賛して振り切れた、三輪明宏さんの絶唱であった。
これから、つじつまが合わない場面が生じた際には、「愛の賛歌」を大合唱することにした。

2014年7月12日土曜日

映画「八日目の蝉」おすすめポイント。

今夜7月12日(土)夜8時30分から、BSプレミアムで、映画「八日目の蝉」が放送される。
「蝉」といえば、あの宇田川満代先生、ではなくて、角田光代女史の、最高傑作とも評される文学作品の映画化である。
この「蝉」には、井上真央さんが出演される。
井上真央さんといえば、来年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」で、主演を務められる女優さんである。
今、新進気鋭で評価の高い女優さんというと、やはり井上真央さんなのではないか、と思う。
井上さんは、ドラマ「花より男子」のヒロイン・つくし役で、一躍有名になった。
あの可愛らしくて元気な「つくし」のイメージがとても似合っていて、印象的だった。
「八日目の蝉」は、ミステリーとかサスペンスとかいう評価もあるようだが、満たされぬ恋愛と、強い本能的な母性愛とを描いているように思える。
映画の冒頭部分では、泥沼の状態に陥った、不倫の恋愛が描かれる。
そして、非情といえば非情であるが、正妻のおなかに宿った命は生かされ、不倫の愛人の子どもは、堕胎される。
そこから、愛人・希和子の流浪の旅が始まる。
正妻の子どもを、盗んでしまったのである。
ある女性のもとから、夫を盗み、子どもを盗んだ、希和子の業が、これでもか、これでもか、と綿密に描かれている。

そして、その希和子が盗み育てた子どもが、これは女の子であるが、この女の子が大きくなった娘さんの姿を演じるのが井上真央さんであるが、役名・恵理菜は、これまた、育ての母と同じく、不倫の恋と、なさぬ仲の子どもの妊娠、となるわけなのである。
本当に、業を持った女性の人生というのは、こういうものなのか、とため息が出てしまう。
この義理の娘は、不倫のなれの果てである育ての母・希和子を許すとも愛すとも理解するともつかない状況でのらりくらりと生きているのだが、自分自身が希和子と同じ状態を経験することで、希和子を許す、という変なストーリーである。

印象的な場面は、小さな島で、子どもを誘拐した「母」と、盗まれたことを知らない「娘」が、会話をかわすところである。
この娘さんは、人目を忍ぶためであろうか、男の子のような服装をさせられている。
そして、「お母さん大好き」「誰よりもお母さんだけが好き」と言う。

このところ、シングルマザーが増えているという。
私には、こうした「子どもがあれば生きていける」という母親の気持ちが、こんなふうに見える、つまり、誰からも愛されなかった女性が、子どもからは愛される、愛の渇望である。
愛されることに餓えていた女性が、子どもからのひたむきな愛情を受け取って、ようやく生きていける状態である。
しかし、小さな子どもが、親を愛さない、欲さない、ということが、あるだろうか。
小さな子どもは、自分が生きていくためにも、親を必要としているのである。
「愛されたい」「必要とされたい」という女性の切実な渇望が、子どもによって満たされるとしたら、これは、母親のひとりよがり以外、なにものでもない気がする。
そうしたエピソードが、島の美しい情景とともに映像化されると、見事に美化されるものなのだ、と感心する。

また、このシーンも印象的であった。
娘が大きくなって、誘拐事件もそれなりの解決をして、娘は一人暮らしをしている。
その時、この娘の父親、不倫の中心にいた男性であるが、この父親が、娘に会いに来る。
「大学だけは出席して卒業したほうがいい」
「金は足りているか、ほら、な」
財布からお札を取り出して渡そうとする父親を、この娘は軽蔑したように見下すのである。
「あなたっていう父親は、いつもお金ばっかり」と。

私は、この母娘(育ての)に、何か根源的なまちがいを感じる。
父親からの、最大の愛情表現は、教育を受けさせることである。
そして、血と汗と涙の結晶である、金銭を渡すことである。
ときには、保証人となり、後見人となり、後ろ盾にもなる。

世の中の不満ある妻と娘たちは、なんらかの誤解をしているのではないだろうか。
夫そして父親の、経済という屋根があって初めて、母子は安心して暮らして、生きて、成長していけるのである。
夫は、父親は、社会の屋根と、経済的基盤を支えるために、一生懸命働いて稼ぎをもってきているのだ。
それは、夫の愛、父親の愛の最大の表現である。
これを、軽蔑して、一笑に付して「あんたっていつもそれだけ?」と言ってみる女性は、男性からいったい、何がほしいというのだろうか。

私は正直言って、この希和子という女性に、母親らしいところは、どこにもない、と思った。
食べるものも、友達も家も環境も何も準備してあげなかった。
ただただ、自己中心的な本能に従っているだけだった。

子どもを産みたい、育てたい、というのは、人間が生物として生まれ持った、種の保存の欲求である。
欲求に溺れて生き、そして育てた子どもにも、同じく、欲望にまみれた生き方を教え、「それしか」残せなかった親を、はたして母親と呼ぶことができるだろうか。

小さな子どもに、幸せになるために、ありとあらゆる手だてを、たくさんの人たちが、大きな社会のなかで、してあげたいものだ、と心から思う。



☆それにしても、かわいそうな女性である。
平安時代には、2号さんでも3号さんでも、子どもを産み、その子が認知されて、跡を継ぐこともできた。
今後、2号さんや3号さんの、人権や社会的立場の保証、扶養手当や厚生年金、老齢年金まで、すべて対応できる社会にしていったほうがいいのか、ちょっと悩んでしまう。

2014年7月11日金曜日

連載・79 大正ライスカレー

お料理エッセー・そら豆のひとりごと。

ニワトリが先か、玉子が先か、というテーマがある。
同じように、カレーライスなのかライスカレーなのか、というテーマがある。
これもまた、永遠の謎である。
ライスカレーの淵源は、ご存知のとおりインドであるが、もともとはこうしたアジア熱帯地方のターメリックを中心としたさまざまな香辛料を使った料理である。
日本に入ってきたのは明治時代だったそうだ。
もともと、外国から入ってきた料理を、日本風にアレンジするのは得意なことであるから、その大本を掴んだうえで、いろいろに工夫して広がっていったようだ。
明治時代には、高級料理であった。
現代では、高級ライスカレーもあれば、家庭的ライスカレーもある。
では、日本における、ライスカレーの中心地は、というと、これは東京なのだそうだ。
東京・神田の書店街に、古書店の間と間に、レトロで小さな料理店がある。
あるいは、喫茶店でもある。
喫茶店でナポリタンやライスカレーをメニューにいれている。
そうして、今一番新しいカレーは、神田で作り出されているエチオピアカレーなのだそうだ。

私も、家で作る料理として、ライスカレーは大好きだ。
じゃがいも、にんじん、たまねぎ、を具材として、あるときはチキンカレー、あるときはビーフカレー、またあるときには、小間肉であり、あるときには、ひき肉である。
簡単に、市販の固型ルーを使うのであるが、その仕上げに、何やら隠し味をすると、作るたびにちがった味のカレーができあがる。

幼いころ、お母さんが作ってくれる夕食のカレーも、こうした市販の固型ルーを使ったものだった。
うちの母は、いろいろな種類の固型ルーをブレンドして使っていた。
子どもたちが小さいときは、林檎とはちみつ入りの「甘口」で、少しおとなになってくると、「中辛」にしてくれる。
弟は男の子だからなのか辛いのが平気で、激辛にしてほしい、などという。

母は、夕食の支度をしながらいろいろな話をしてくれるのが好きで、カレーを作りながら、カレーについて話してくれる。
「ずっと前は、バーモントカレーなんでいう便利なものはなかったから、カレー粉と小麦粉とバターとでルーを作ったのよ」
という。
私が不思議に思っていると「お母さん、今から作ってみようか、ね」という。
フライパンにバターを熱して溶かす。
そこに、カレー粉をたくさん入れて、焦がすように炒める。
それから、小麦粉を入れて、これも軽く炒める。
そして、水を少し流しいれる。
そうすると、カレー味のとろっとしたルーができあがる。
これを別にとっておいて、別のお鍋に、ニンジンと玉ねぎを炒めて、豚の小間肉を炒める。
ちょうどいいころ塩梅になったところで、さっきフライパンで作ったルーを野菜にからめるように流し込んで溶かす。

「ハウスバーモントカレーなんてのがなかったころは、こうして小麦粉でとろみをつけたのよ、どう、食べてみる?」
ほかほかのライスを横長の深い皿に盛って、その上にカレールーをかけた。
はっきりいって、バーモントカレーとはちがうものだ!

お母さんは、「どうかな?おいしい?いつもとちょっとちがうでしょ?」と言って、大きなスプーンを渡してくれる。
きっとたぶん、明治大正のカレーはこんなふうだったのだろう、と思う。

大人になって本場エスニックカレーを作るようになっても、あのときのやさしい小麦粉の甘さは忘れられない。
今、なつかしの昭和レトロブームだという。
神田の古書街には、今も当時の味のまま、今も当時の皿とスプーンのままの、カレーがあるのだという。
タイムトリップしたようにときおり昔の味を、作ってみたくなる。
母から電話が来て、「札幌スープカレーにブームが来てるんだ、作ったし」と笑い声がする。

2014年7月10日木曜日

NHK「花子とアン」第15週「最高のクリスマス」今後を予想する。

その1、英治と香澄。
英治と香澄。
花子が恋する相手・村岡英治と、その亡き妻・香澄との夫婦の絆には、まだ決着がついていない。
妻が病気で亡くなった後、夫である英治はどのように、気持ちの整理をつけていくのだろう。
このあたりは、夫婦の濃やかな絆や愛情、妻亡きあとの、英治の心情を、リアルに切実に描いてほしいものである。
特に、実在の村岡氏には、子どもさんがいらっしゃったそうである。
子どもを持った父親として、亡き妻そして、残された子どもに対して、どのような思いを抱いていたのか、そのあたりの描写がほしいところである。
英治に横恋慕するヒロインの立場としては、子どもがいるのといないのとでは、心情がちがうものなのではないだろうか。
また、社会からの評価としても、子どもさんがいるのといないのとでは、不倫の意味合いがちがってくる。
今回、ドラマ化するにあたって、相当の脚色が行われたようであるが、そのあたり、事実とフィクションの間をどのように色付けするのか、あくまでフィクションで通す予定なのか、とても興味深い。

また、夫婦というのは不思議なもので、はたから見ていてもわからない、結婚してみなければわからない、夫婦ならではの、心情や言葉のやりとり、複雑な思いがあるのではないだろうか。
生活を共にすることや、子どもを持つことや、互いに両親がいること、また今回のドラマでは、英治の弟・郁弥も、大事な役割をしている。
そこに流れ通う、独特の心情を、書き表してほしいものだ。

私の予想では、たとえば、こんなエピソードを思う。
先日、ヤフー知恵袋で話題になっていたエピソードであるが、夫が妻に内緒で、妻へのプレゼントを考えて、購入して、サプライズで贈った、という話だ。
妻がテレビをとても好きなので、夫は、大きくて高くて立派なテレビを、あちこちで見て探して、プレゼントした。
きっととても喜んでもらえるだろうと思っていたのに、妻はとても不機嫌になったというのである。
妻の言葉としては「そんなに予算があるなら、生活費に入れてほしかった」
「テレビを買う予定があるなら、一言私に相談してほしかった」ということなのである。
返品・返金してほしい、とまで言うのだそうだ。
夫としては、何が何やらわからない、というところだろう。
妻のほうの気持ちが、私にはよくわかる。
こういいたいのだろう、「テレビって次の買い替えは、10年後でしょう。10年間このテレビを観るっていうことなの?私はテレビが大好きで、新しいテレビがほしいと思っていて、このあいだもヤマダ電機に行って店員さんにいろいろ聞いてきたの。パンフレットもたくさんもらって、割引の交渉までしていた。今買えばポイントもたくさんつけてくれるし、何より、ブルーレイディスクのついた、それも録画も再生もできて、それからインターネットにもつなげられて、ゲームもできて、福山雅治の特典もついてくる、三菱のテレビをほとんど予約寸前まで話していたのよ。夫よ、あなたの懐に、50万円もの予算があるなら、どうして一言いってくれなかったの?私のへそくりから10万円足して、4Kテレビを買うことだってできたのに、あなたが私に黙ってこんな高い買い物するから、中途半端にブルーレイもついていないようなテレビで今後10年間は買い替えなし、というわけじゃないの。なんでなんで一言いってくれなかったの!!!」

また、こんなエピソードもあった。
婚約指輪の話である。
夫となる男性が、ティファニーの50万円もする指輪を、自分で店に行って、選んで購入してプレゼントしたのだが、妻となる女性は「返してきて頂戴!」と怒るのである。
妻の言い分としてはこうである。
「確かにあなたがプレゼントしてくれるものかもしれない、でも指につけて一生暮らすのは、妻である私なのよ。それなのに、ティファニーといったら、今やカジュアルリングじゃないの。私は一生に一度の大切な婚約指輪のために、中学生の乙女のときからゼクシィを買って、指輪研究をしてきたの。一言買いに行こうとか、予算はこれくらい、といってくれたら、最高に素敵な指輪があったのよ。たとえば、京都の老舗のエンゲージリング専門店では三か月前から予約したら、世界にひとつしかない、エンゲージリングを、オリジナルで作ってくれるの。それは、ふたりのイニシャルと結婚記念日と、ふたりの結婚の誓いの言葉を刻印してくれるものなのよ。たった一言いってくれたらいいじゃないの。パンフレットだってたくさんもらって用意してあるんだから。それに、予算が50万円なら、私の独身時代の貯金からあと70万円出して、うちの母親だってこの日のために貯金があるから80万円は上乗せして、200万円の、ダイヤがついた指輪だって買うことができたのよ。うちの母の、指輪のときは店までついていくって、いっていたの。それなのに、ひとりでどこかそのへんの店に行って、どこの女性店員かわからないけれど、口車にのっておすすめ品を、じゃ、これひとつ包んで、とかいい顔してきたんでしょう。だまってらっしゃい。いつもアディダスのジャージしか着たことないあなたに、どうして指輪を選ぶ眼力があるっていうのよ!返品!交換!頼むから!一生、女友達に、あなたのダンナってダサいわねって言われるのは私なのよ!」
…とこういうわけである。
ダンナさんのプレゼントに対する興味、関心、熱意を奪ってしまうことにはなるだろうが、妻のほうも必死なのである。
また、こうした言い分を言えるのが、妻という立場なのではないだろうか。
夫婦はあくまで対等で、よりよい結婚生活のために、また自分のために、あらゆる言い分を率直に言ってぶつかって、傷つけあう、これが夫婦である。
しかしまた、相手が病に倒れたとか、悩み苦しんでいるとか、誰かにいじめられた、というときには、まるで自分のことのように、身体まで痛みを感じる、これが夫婦の絆というものだろう。

英治と香澄には、そうした夫婦の絆、やりとり、心情というものがあったはずである。
妻が亡くなって半年後には、別の女性と再婚できるものだろうか。
私が妻だったら、カメオの裏側に彫って、義理の弟にきっちりことづけして、こういう。
「あなた、私以外の誰かと再婚したりしたら、化けて出てやるから!」
「一生私のこと、思って生きて頂戴!」
絶対に、香澄は、「あなたは誰か健康な女性と再婚して新しい人生を送ってください。私のことは忘れてください」などと言い残したりしない。
そんなの不倫女から見た都合のいい話である。
妻には妻にしかわからない、村岡英治があるのである。


その2、朝市と武のキャラクター。
きょうの「最高のクリスマス」木曜日では、カフェードミンゴでの、新しい時代とあるいは新しい世代による、クリスマスパーティーが描かれた。
とても楽しくてなごやかなクリスマスパーティーである。
にぎわいのあとに、照明も落とした暗く静かな店内で、ぐっすり眠った花子を置いて、英治と朝市の話し合いが始まる。
いやこれは、話し合いではなく、果し合いなのかもしれない。
ナレーションの三輪明宏さんも、「決闘が始まる」と言っている。
果たして、英治と朝市、どちらが勝つのだろう。
ひとつの予想としては、まずは「村岡」という苗字が示すとおり、原作どおりに、村岡英治が勝つ説である。
こちらはとても有力である。
なにしろ、最初からこうした名前で事実の裏をとってあるわけである。
しかし、「花子とアン」は、生きていたら村岡花子さんも恨むであろうぐらい、あるいは教文館も名誉棄損を訴えるかもしれないくらい、脚色されている。
フィクションなのだから、ここは、花子の苗字が「村岡」ではなく、別の苗字になってもよいのではないか、と思える。
そういうわけで、亡き妻との誓いをまっとうする村岡英治に、軍配は上がらないのではないか、と思えてくる。

次に、心当たりとなるのは、朝市くんである。
こちらも、勝ち目というと相当あるものだ。
というのは、「花子とアン」は、村岡花子の人生と、「赤毛のアン」の物語と、「赤毛のアン」作者のモンゴメリの人生を、かけあわせたストーリーになっているからである。
「赤毛のアン」では、主人公のアンは、幼いころからの幼なじみでありクラスメイトである、ギルバートと結婚している。
このギルバートに対して、幼いアンは、教室で、石板を投げつけるという痛い事件を起こしている。
同じく「花子とアン」でも、主人公の花子は、教室で石板を投げて割るのだが、その相手というのが、朝市くんなのである。
だから、朝市くんは、花子の結婚相手として、かなり高い確率で予測されるところなのだ。
しかしまた、このときに、「アンをからかったクラスメイトの男子生徒」というあたりでは、武、武しかいないのである。

女性にとって、幼なじみという存在は貴重で不思議なものだ。
物心つく前から一緒にいて、一緒に大人への階段を登ってきた。
いいところも悪いところも、成功も失敗も、すべていっしょに体験してきて何もかも知っている。
また、同級生というのは、いわゆる「タメ」という状況で、「タメぐち」などという口のきき方もある。
女性のがわからすると、男性をある意味、尊敬や畏怖の念を持って思うのとは別の感情となってくる。
このタメの幼なじみに、ある日突然、ときめきや恋心を持つようになるか、というと、これは難しい問題である。
しかし、これからもずっと一緒に生きていくには、伴侶として、とてもよいパートナーになりそうである。
「互いに支えあう」ことはとても大事である。
英治と花子の関係では、花子は英治に支えてもらう存在であるが、
朝市と花子の関係では、花子はときどき、朝市を支えてあげなければならない。
ちょっと「お姉さんぶった」態度で、朝市をかばってあげなければならないときもある。
夫婦はあくまで対等で、男性というのは、女性がいつも一方的に頼り切れるものではないのではないか。
むしろ、男性にとっては、厳しい社会と人生のなかで、唯一弱みを見せることができて、頼ることができる女性が、妻という存在だろう。
花子が、英治に頼るところから始まった関係で今でも英治に支えられっぱなし、英治のほうから花子を頼る気配はまるでなし、という状況なので、いい夫婦になれるのは、朝市と花子、というカップル成立となりそうだ。

ダークホースの武も負けていないだろう。
大人になってから恋心が芽生えることも充分に起こりうるのである。

女性はできるだけたくさんの男性と知り合い、いわゆる「男を観る目」を養うべきであると、私は思う。
今さら英治と別れることはつらいだろうが、傷ついても傷ついても、本当によい伴侶を得られるために、長い長い旅を続けてきたのである。
男性は、顔でもなく、職業でもない。
第一、朝市の教師という職業は、子どもたちに未来を拓く、素晴らしい聖業ではないか。
挫折と失敗の果てに、幸せな結婚を、花子にはぜひとも掴んでほしい。
顔がよくて身体が大きいからといって、松岡が世界最高だとは限らないのである。
最高のクリスマスには、最高の伴侶に対して両目を開く、そういう展開が待ち望まれるものである。


2014年7月9日水曜日

白蓮事件・その本質にせまってみる。

このところ、いわゆる「白蓮事件」に関して、話題が高まっているようだ。
白蓮事件とは、大正時代に、福岡の炭鉱王のところに嫁いだ女性・柳原白蓮が、東京の若い男性・宮本龍一と、かけおち、出奔を起こした一連のいきさつである。
この出奔の際に、白蓮が、新聞紙上に、夫である炭鉱王に対して、離縁状を掲載したことも、とても大きな行動であり、話題となって残っている。

今、NHKの通称「朝ドラ」で、「花子とアン」が放送されている。
物語のヒロイン・安東花子は、女学校の時代に、この柳原白蓮と交流があったようだ。
ドラマのなかでは、花子と白蓮が、強い友情で結ばれていた、と描かれている。
それは、互いに女学校時代の輝くばかりの夢や希望、将来や運命への不安、その不安な未来に挑戦する気持ちや、夢をかなえたい気持ち、愛する男性と一緒になりたいという、強い気持ちがあると思う。
また、共通して、若いころから学問を身に着けた女性であり、学芸や文芸にも優れていた。
日本や外国の文学も読み、音楽や語学もたしなみ、また明治から大正という、時代が大きく変化して、女性の人権も生き方も、大きく変化しようという時期である。
そういった時期に、学問を身に着けた女性が、どのように人生と仕事と恋愛、そして結婚を選択していくのか、悩み苦しみ、決断していくのか、これは女性の自立への、死闘ともいうべき、戦いの時期なのだと、私は思う。

柳原白蓮は、侯爵家・華族の家柄である。
家柄に縛り付けられて、自らの望まない男性と、家の定めにより、結婚をすることになった。
このことが、白蓮にとって、最大の苦痛になったようである。
女学生の時代に、西洋から入ってきた文学や新しい文化に触れた白蓮にとっては、「愛する男性と結婚したい」ということが、強い望みとなっていたが、それは、この時代にしては、「新しい望み」でもあった。

そうして、白蓮は、家の定めた結婚の呪縛から逃れて、「愛する男性」と巡り合い、家から出て、「愛を成就する」ということになっている。
これが、白蓮が思い描いた人生であり、愛であり、望みであり、新しい自立した女性の姿であった。
この白蓮の姿は、現代の女性たちからも、「愛を貫いた女性」として、支持されているようだ。

しかし、本当に興味深いのは、この「愛を貫いた女性」という見方が、女性のものだけのことだ、という問題である。
男性からみた「白蓮事件」は、まったくちがう様相を呈している。
そのことを知らなければ、男性と女性は、永遠に分かり合えないかもしれない。

男性から見た、「白蓮事件」は、こうである。
簡単に言うと、誰が見ても、この若い社会主義者が、ブルジョア階級を憎いと思うあまりに、その妻を、泥棒したのである。
そして、思想と討論と正論によってではなく、男の世界の掟によって、勝負をつけたのである。
この場合、あらかじめ確認しておくが、「勝ち」は社会主義の若者のほうに、軍配が上がったということになる。

女性たちは今も、気が付かないのかもしれないが、「女性」という存在は、男たちの勝負の世界において、「戦果」そのものである。
「戦利品」そのものである、と言っても差し支えないかもしれない。
男性心理から見ても、「自分の妻」である女性のすべてを、別の男性に泥棒されるのは、一生の恥であり、社会的な失脚を意味する。
男性同士の社会は、厳しい上下関係であり、この若い社会主義者は、ブルジョアの炭鉱王を相手に、戦いを挑んで、上下関係をひっくりかえそうとしたのである。
その戦いに使ったのが、戦利品である、美しい妻だったのである。

この若い社会主義者の心は、大金持ちのブルジョアに対する嫉妬と、うだつのあがらない気勢ばかりさかんな自分自身に対する劣等感で、いっぱいであった。
この劣等感をひっくりかえすために、白蓮を利用したのである。

白蓮の心に、巧みに取り入って、あたかも白蓮本人には「愛」があるかのように思わせた。
もともと、お金があってもなくても虚ろだった白蓮の心に、自尊心をたかめるようなことつまり、「あなたの短歌は素晴らしい」というようなほめ言葉をささやいたら、蓮子は「あなたこそ本当の運命の人、だって私をほめてくれるこの世でただ一人のひとだから」となってしまったのである。
白蓮の自意識過剰の「素晴らしい」ところは、まずこの若い社会主義者が、歌集をほめたあたりで、心が急変したあたりに見て取ることができる。

白蓮は、この炭鉱王から、充分に愛されていた。
夫婦として、努力と忍耐の心があれば、立派に添い遂げることができたと思う。
どこからか、何か幻想のような「たった一人の理想の人」を夢見るようになってしまったのではないか、と思う。

心の自由や、愛というものを実感したい気持ちから、こうして、男性の気持ちや社会のなかでの立場、男性なりの愛情表現というものを、察知しまちがえている女性は、多くはないだろうか。
こうして、夫の社会的立場を踏みにじるようなことを平気で、あるいはまったく無意識に、気づかずにしている妻は、多くはないだろうか。
男性のがわからすると、本当に愛すべき妻には、妻らしい配慮や、言動や、男性社会の厳しさ、上下関係の厳しさへの既知がある。

「自分が、自分が」と、愛と自由を追い求めた白蓮が、若い野心家の罠にはまってしまって、それを最後まで「愛」だと思い込んでいたのは、愚かであると、男性陣からは、評価されるものなのである。
それは、現代の社会においても、まったく変わることのない、原理なのである。

2014年7月8日火曜日

NHK「花子とアン」第15週「最高のクリスマス」感想。

NHKの通称・朝ドラ「花子とアン」がとても注目されているようだ。
朝ドラというと、常にそうであるが、ヒロインが恋愛をして、結婚にたどり着くまでの経緯が、一番盛り上がるエピソードである。
今回のシチュエーションは、これまでの朝ドラになく、複雑な事情がある。
それで、これから花子はどうなるのか、英治はどうなるのか、ここでダークホースの武はどうなるのか、というたいへんな話題が持ち上がるのである。
手堅いところは朝市くんなのだが、どうにもそうはいかないところも、朝ドラのむずかしいところだ。
今回の結婚問題は、村岡英治氏の、離婚、再婚、恋愛、なんといったらいいのかいろいろな事情が重なっているところも、重圧である。
英治はどんな気持ちでどんな判断をするのか、また、この苦悩を抱えた英治に、誰がどのようなアドバイスや支援をするのか、また花子がどう振る舞うのか、とても難題なところである。
きょう、火曜日まで観たところでは、英治の亡き妻の形見を抽斗に持っている、英治の弟・郁弥、そして、英治のことを、本心から心配して温かく見守る、父親と、出版社の仲間たち、こうしたところが、とても心温まる様子で描かれていると思う。
ここで、父親が、長男の再婚に関して、なんらかの口出しや手配をしそうでもあるし、また、弟の郁弥が、兄の感情を引き受けてくれているところもある。

私が予想するのは、やはり何か、弟の郁弥が、亡き妻(義姉)から、なんらかの遺言を託されていたというあたりである。
亡き妻の形見が、聖母子像であったことから、キリスト教への信仰心がうかがえるものであり、そのあたりで、香澄が何か言い残したこと、あるいは、弟の郁弥に言い残したことがありそうである。
また、父親も、親の直感や人生体験から、英治に新しい人生に踏み出してほしいところがあり、力強く背中を押しているようでもある。

それにしても、英治の心は、亡き妻への、「亡くなった」という思いでいっぱいなのではないかと思う。
幸せにしてあげられなかったように思ったり、自分の責任であるように思ったりするかもしれない。
まさに「愛と死を見つめて」の状況なのである。

私は、子どものころ、私の母親がとてもストーリーテラーなところがあって、たとえば夏休みに、母がお洗濯をしながら、夕食の支度をしながら、いろいろな話をしてくれたものだった。
母は、たとえば「愛と死を見つめて」の、ミコとマコの話を、三日もかけて、語ってくれるのである。
私は真剣に聞き入っていた。
(このあたりはネタばれになってしまって、申し訳ないかもしれないが)
ミコ、が不治の病にかかったところでは、ミコの気持ち、マコの気持ちを思いやり、愛というものの素晴らしさを思った。
また、ミコが先に亡くなったところでは、本当に涙を流して、母のエプロンにしがみついたものである。
「死ぬ」ということは、とても恐ろしいことだと思った。
もう二度と、マコに会えなくなるのが、死ぬ、ということなのだ。
そして、感動の涙に泣きくれた。

しかし、翌日にも、母のお話は続くのである。
なんと、マコは、ミコが亡くなってから、別の女性と結婚したのである。
目を丸くして、裏切りとか、何かそういう心情である私に、母は言った。
「あのころ、マコくんへの風当たりがとても強くて、純愛を貫くべきだ、とか、がっかりした、とかいろいろなことを言われて、マコくんがかわいそうだったよ。
でも、あとに残された、マコくんにだって、人生はあって、まだまだ若いのよ。
ミコちゃんは、先に亡くなってしまったでしょう。
マコくんも、新しい恋人と出会って、素晴らしい人生を始める権利があるでしょう。
マコくんは、ミコちゃんをとっても好きだった、でも、人生は続いていく、それでいいでしょう」

母は、いろいろな話をしてくれた。
たとえば、今思い出したが、芸能人のかたの結婚や離婚や死別に関しても、いろいろな考えや思索を語ってくれた。
伊集院静、という作家がいて、以前、女優の夏目雅子さんと、ご結婚されていた。
その後、夏目雅子さんは、突然に不治の病にかかり、とても若くして、亡くなった。
日本中のファンがとても悲しみ、何年たっても、何十年経っても、夏目さんの写真を追悼などで、表すものである。

そうした状況を見て、私の母が言うのは、「これでは、篠ひろ子さんが、かわいそう」というのである。
「いつまでも亡くなった人のことを言っていて、生きている、今、奥さんである篠さんの立場も心情も、思いやることがないのね。今生きて、これからも生きて幸せになっていくことは、とても大切なことでしょう」
というのである。

これは私ひとりの、あるいは、私の母の、思い入れであるが、村岡英治さんにはとてもむずかしいことかもしれないが、気持ちの整理というのはあると思う。
村岡英治さんにも、生きて幸せになる、ということを、大切に感じてほしい、そして、いろいろに人生の決め方をして、前に進んでほしい、と思うものである。

台風8号が近づいてくる。ツイッターまとめ。

台風が近づいていますね。まだ晴れていますが、関東圏に来るのは、11日の金曜日になりそうです。関東圏、きょうは晴れて暑いですが、明日から台風の影響の雨です。雨が降り始めると、台風のいろいろな準備ができなくなっちゃいますので、きょうのうちに、準備しましょうね。
私は、ベランダや玄関に出してあった鉢や傘、電灯を、家の中に入れました。それから、洗濯物も入れておきました。明日からもう外出できない、という気持ちで、食品や水も確認したいですね。土曜日に台風が去るまで、5日間は外出しない覚悟で、食品や懐中電灯も準備です。  

北海道では、猛吹雪が三日も続くことがあり、学校は臨時休校になって、前の晩には連絡網で、各家庭に連絡が来ました。当日の朝になってから、臨時休校になることもありました。そのときも、電話による連絡網です。登下校の途中で遭難してからでは遅いですものね。

私は、北海道にいたときに、風速50メートルを体験したことがありますが、半端じゃないです。道路を歩いていても、街路樹がなぎたおされて、その樹が頭に飛んできて、亡くなった方もいらっしゃいました。今回の台風は風速75メートルということで、想像を絶するかんじです。

晴れている今日のうちに、台風の準備をしてくださいね! 会社も学校も、休みにしてしまいましょう!

外食や、宅配ピザもない、と思った方がよいと思います。運送や郵便も、一日や二日は遅らせるようにして、未然に災害事故を防ぎましょう!

台風の名前は、日本語で「たぬき」という名前らしい。名前は可愛いが、気圧が910ヘクトパスカルにまで下がるようだ。1気圧で1000ヘクトパスカルなんだから、宇宙旅行いや、富士山頂みたいになってしまう、カップラーメンのお湯も100度まで上がらない、というすごい気圧です。こわい。

じゃ、いろいろ準備しますので、BSのアンテナはどうしたらいいの?じゃまた→ 台風の準備について・まとめmatome.naver.jp/odai/2140470







2014年7月4日金曜日

NHK朝ドラ「花子とアン」第14週「ゆれる思い」感想・後編

毎朝、楽しみに見ているNHK朝ドラ「花子とアン」も、きょうが放送第83回である。
脚本家の中園ミホさんが、おそらくは自分自身の体験に基づいて、恋愛心理を描写してくれるのではないか、というところが、このドラマの見どころとなっているので、私も、こういった状況における、男性と女性の心理と行動、そして周囲の心理と行動などを、よく知りたいと思い、熱心に観察させていただいている。
ひとつは、昨日よく自分でも整理して書いてみたからか、ずいぶんと筋が通ってきたように思う。
ここで、すでに、英治(男性側)で、妻の側から言い出して離婚が成立しているならば、何の問題もなくなる。
英治の側でもともと個人の問題として抱えていたのが、結婚も仕事もうまく行っていない、という状況である。
人間であれば誰もが、仕事がうまく行かない、結婚もがんばって努力してみているがうまくいかない、という時期があるものである。
またここで、上司の編集長も、「私も結婚に一度失敗している」と体験を語っている。男性としてもそうしたことはあるだろう。
ということになる。
それに、花子も英治もとても悩んでいるのだし、ここで何の罪悪感も感じないというなら、そのほうが問題であるが、こんなに苦しんでいるのだから、許してあげてもいいではないか、という心情になってくる。

昨日、私のブログに関しても、感想をいただいて、男性陣を含めて何人かの友達と、花子の状況について、話してみた。
すると、ちょっと驚くようなことを発見した人がいた。
つまり、NHKということもあり、朝ドラということもあったのか、表現が抑えられているが、「あの夜」つまり、花子が雷鳴を聴いただけで赤い傘を思い出すフラッシュバックのような「あの夜」であるが、傘を落として抱擁したそのあとは、温泉マークのお店に行ったのだ、という話なのである。
私も、同座した友達も「えっ!」「まさか!」と驚いてしまった。
ここで、花子と英治がしたことが「ハグ」であるとしても、家族やご近所もいる、玄関前のお稲荷さんの前でというのも、ずいぶんと間の抜けた話である。
絶えず周囲の状況に目を配るのが男性の習性なので、男としてはまともな判断力ではない、というのが男性陣のご意見なのだ。
しかし、もっと驚くのは、ここで「あの夜」あったことが、「ハグ」なのか、湯気のマークのお店なのかは、これは大問題である!

全然、状況がちがってくるではないか。

しかし、英治はなんだってこんなときに、温泉に行こうと思い立ったのか。
奥さんは三年前から結核で寝込んでいる。
これも、男性陣の忌憚のないご意見を聴くと、もっともである。
また、英治は、もともと絵描きになりたかったのを、挫折している。
そんなこんなで、英治というのは、やさぐれのろくでなし、ということになるのだ。
しかも、相手女性の上司にばれている、この上司は取引先である。
こういうあたりで、出世もできない、仕事も家庭もうまくいかない、かなりダメンズな英治像が浮かび上がってくるのである。

また、当時の時代背景を考えると、「奥さんのほうから離婚を言い出した」というよりも、奥さんのご両親が、「うちの娘は、もう嫁として役に立たないので、申し訳ないので、家同士のやり取りをやめましょう」と引いたわけである。
旧習のなかに縛られている女性像が、確かに描かれているが、こうして旧習から抜け出せないお嫁さんの状況だったからこそ、花子も英治も救われた、ということになる。
女性の人権は、こんなにも踏みにじられている。当時の状況が本当によく描かれている。

男は女を幸せにしないと、自分の男としての価値を試されていて、その「男度」に自信が持てないのだそうだ。
花子は、新進気鋭で東京に出てきて、出版社、女流作家としてデビューする綺羅星だったわけだが、挫折と劣等感のダメ男英治に、ダメにされた、ということになる。

よく考えてみれば、花子はその後も翻訳を続けるのだが、もともと作家として、童話や小説を書きたいという気持ちがあったはずである。
作家として、翻訳の仕事は、二番目に派生してくることもあるけれども、もともと翻訳を目指していたならともかく、作家をあきらめて翻訳家になった、と取れなくもない。

「ゆれる思い」という題名で思い出すのは、ZARDの坂井泉水さんの曲「揺れる想い」である。
坂井さんも、不倫の恋に苦しんだ女性であった。
坂井さんに、シンガーソングライターになるように、強く言った男性がいた、という話である。
彼女の本来の行きたかった道、きらきらと輝いて可能性に満ちていた道を、閉ざして方向性を変えさせたのは、この挫折にうちひしがれた英治のような、年上の男性だったのだろうか…。

もしも、英治に出会わなければ、花子は女学校教育と英語教育を活かして、オリジナルを描く女流作家になっていたのではないか、と思われる。

2014年7月3日木曜日

NHK「花子とアン」第14週「ゆれる思い」感想。前編。

NHK連続テレビ小説「花子とアン」も、脚本家・中園ミホにとって、佳境にはいった。
つまり、「道ならぬ恋」に身をやつす場面に入ったのである。
脚本家の中園さんが、自身が「道ならぬ恋」をして、シングルマザーになったのであるから、中園さんにしか描けない、恋の様を、克明に観察して描写してくれるだろうことは必須で、私も非常に楽しみにしていた場面であった。
それで、いつもは一週間見終えてから、書いている「感想」であるが、ドキドキするので、きょう、木曜日の分を観終わってから、考えをまとめる意味で書いている次第である。
まず、第一に、花子がどうして、そんなに村岡英治氏を思うようになったのか、そのあたりが今一つ、ピンとこない。
村岡氏との最初の出会いは、花子がまだ女学校の時代に、アルバイトで出版社で働くようになった時期であるから、十代の終わりごろである。
その後、女学校を卒業してから十年間は山梨で小学校の教員をしていて、それから改めて東京に出てきた。
英治との再会があって、十代のころには目覚めなかった恋心が芽生えた。
そしてその恋がとても情熱的な思いとなるわけである。
このあたりの流れというか、花子の心情がよく見えてこない。
出会ったころは「ナマケモノ」と呼ばれて、プンとふくれていた可愛い花子と、これまたとても無邪気で屈託のない村岡青年であった。
それが、恋に身をやつすことになっていて、これはなんだか、キャラクター的に、これまでの花子の、ちょっとコメディタッチのキャラクターとは、合わない。
それも、突然に合わなくなった、という印象である。

それで、ここでまとめてみようと思う。
その1、出会い 十代のころ。アルバイトで出会って、一緒に仕事をしたが、少年少女のような会話しかしていない。
その2、プレゼント、村岡氏から、当時のアルバイトのときに、英英辞典をプレゼントされている。これは、花子が語学力が優れていて、翻訳が上手だったから、花子も当時なかなか手に入らなかった英英辞典がとてもほしかったから、向学心に応じて、村岡氏がプレゼントしたものである。
その3、「みみずの女王」で文学賞を受賞したときに授賞式で会っている。このとき、「あなたはあなたらしく自信を持って書き続けてほしい」と励まされている。
その4、花子が山梨から上京して東京の出版社で働くことになったとき、歓迎会で花子がワインに酔ったときに、おぶって家まで送ってもらっている。
その5、おぶって送ってもらったときに、「英語の勉強を続けていない」「あなたには翻訳の才能があるのに」と叱られている。実際には、才能をほめられているのとイコールである。
その6、雨の日に雷鳴が轟くときに、情熱的な抱擁がある。
その7、抱擁の次の日に「忘れてください」と言われ、しばらくたってから、英治が妻帯者である(花子が山梨に行っていて会わなかった10年間の間に、英治は結婚していた)
その8、花子は英治のことを「大きい人」「壁みたい」と繰り返し表現している。また英治も初めて会ったときに、「小さくて見えませんでした」と言っている。

これらのエピソードと流れを分析してみると、このようになる。
その1、花子と英治は、仕事を介して出会っている。花子の英語の才能を見つけてほめて育てたのが英治である。
その2、花子が自信を無くしているときや、劣等感の塊になっているときに、ただひとり励まして自信をつけてくれるのが、英治である。
その3、出会いのときと比べると、カフェーや、本格的な仕事など、大人の付き合いを始めている。
その4、花子はもともと名前が「はな」であり、「花子」と呼ばれたい、つまり出自から脱皮したいという念願があったのだが、「はな」を「花子」にしてくれたのが、英治である。
その5、英治の妻よりも先に出会っていた、という事実確認のようなものがある。
その6、お互いに相手を、「大きい」「小さい」と感じていて、これは、とても異性を意識した主観であるようだ。

雷鳴が聞こえると、花子は、英治との「あの夜」のことを、フラッシュバックのように思いだし、とても苦しくなるようである。
そして仕事も手に着かなくなる。
「仕事に身が入らなくなるほど」、これが愛情のバロメーターであろう。
そして、プレゼントやふたりで作った本を見るたびに、どちらを向いても彼を思う、これがやはり強い気持ちの表れでもあるだろう。
これからの「花子とアン」「花子と英治」「英治と香澄」とても楽しみである。


2014年7月2日水曜日

世界的平和への最終決戦。

昨日、7月1日、日本において、集団的自衛権の解釈変更が閣議決定された。
これに対して、日本国民の、かなりの多くの人たちが、反対の声をあげている。
正直、「閣議決定されてからの平和シュプレヒコールなのか」と思うこともあるし、「今になって憲法を学ぶのか」と思うこともある。
自国の憲法を知らないのは、日本人くらいだそうである。
だから、今からでも学びなおすことは、とてもよいことだろうと思う。
これを機会に、学んでほしいと思う。

日本国政府は、集団的自衛権を、国際情勢のなかで、とても必要なことだと認識して、これを推し進めてきた。
この、日本から集団的自衛権をもって、国連軍に参加するまでの過程は、そんなに短い道のりではない。
しかし、国際情勢に足並みを揃えて、国際的な紛争や課題を解決するために、とても大切な道のりである。

国民に理解を求めたいところであるが、これは、「平和観」「人間観」であり、ひとつの思想でもある。
だから、とても説明がむずかしいところであるし、その説明に対する理解と納得も、とてもむずかしい、ということになるだろう。

ヨーロッパでは、ナチスドイツ、あるいは、ロシアのスターリンという、とても痛いい歴史的な体験がある。
そして、人間観の確立は、ナチスドイツとユダヤ人迫害の歴史とその反省、研究を踏まえたところがある。
それで、「ヒットラーのような」人物が、独裁的な政権を持って、人々を扇動することがある、とよくわかっている。
そして、それらの兆候やあるいは、ヒットラーのような独裁者に飲み込まれてしまう大衆の心理もよく研究されている。

それらを踏まえたうえで、「人間の世界には、悪い人たちがいて、その人たちが人々を扇動し、武器を持ち、とても悪いことをする場合がある」とよく理解しているのである。
私たちに必要なのは、この、人間観とその理解である。

世界情勢は今、まるでそこに引き寄せられるかのように、中東、イラン、イラク、シリア、ウクライナ、クリミア半島、というところに、国際的テロ組織が集まっている。
そして彼らは、ツイッターなどインターネットを通じて、仲間を増やしつつある。

この状況は本当にまるで、中東というこの一帯に、悪の集結があるかのようである。

私は、私自身の人間観に基づいて、これまでもいろいろな人物に関して、このブログで書き綴ってきた。
そのひとつが、日本国内において、特に政治の世界においての「小沢一郎」という人物とそれを取り巻く心理と人々である。
私たちは、日本の国の政治世界において、「小沢一郎」という人物を「壊し屋」「破壊が目的の人」と位置付け、小沢氏の甘言にだまされないで、この「ただ壊すことだけが目的の人物」を、排除したりやっつけたりしてきた。
その結果、政治はまとまるようになり、政治は、先に進むようになった。

すべての社会において、こうした理論は、あてはまることではないか、と思う。
ひとりの人物を、「悪い」と決めつけ排除することは、人間として倫理道徳にかなっていないかもしれないが、そこを「悪い」と判断して、徹底して戦うのである。

今、世界というレベルに拡大して、「悪い」「破壊屋」を、排除して、駆逐するべきときなのかもしれない。
その彼らは、中東地域に集結しつつある。
これが、世界的平和への、最終決戦になるのではないか、と思うのだ。

そういった、人間観、世界観というのは、先に述べたようにヨーロッパを中心とした国連が、先導しているのだと思う。
安倍総理の積極的平和は、この世界観に基づいているのだと思う。
逐一、指導を受けて、世界情勢のなかで行動しているのだろう。

日本国においては、7月1日に、憲法の解釈変更によって、集団的自衛権を持つことになり、国連軍への参加の見通しもたった。
次にするべきことは、日本国内で、おそらく反論が起こって、憲法に対する裁判が起こるだろうと予測されるので、国内世論としては、次の展開があると思う。

しかし私は、何よりも国民に対する、まだよく国際情勢まで考えない国民に対する理解というのは、先手先手で、世界的平和を目指して、次の行動を起こすことではないかと思う。

中東のテロリストは、今も人数を増やしている。
このあたりの、心理的なところを、次に次にと、対応していくこと、世界的平和を進めていくことが、日本国民への根本的な、説明となり、納得に導いていけることではないかと思う。