昨日、2014年12月24日。
第三次安倍内閣が発足した。
戦後でも、「第三次」とまで内閣が続くことは、例が少ないそうである。
また、長期政権となり、その「長期」は、首相の求心力の強さを表すことになる。
他に人材がいない、ということでもあるかもしれない。
人材というより、ライバルといおうか、向かうところ敵なし、である。
この安倍内閣が、第二次の時代には、集団的自衛権の拡大解釈を決定した。
「この道しかない」という安倍内閣は、次の道しるべとして、集団的自衛権の法整備と、それから、憲法の条文改正も、目指しているらしい。
ところで、今回の選挙の投票率と、自民党の議席配分を考えてみると、ここでたくさんの人が思う、問題が浮かび上がってくる。
それは、投票率が52パーセントととても低かったこと、つまり国民の約半分は棄権している、ということである。
自公連立与党では、三分の二の議席を獲得したということなのだが、投票した半分の国民のうちの、そのまた三分の二が、与党に賛成票を投じたということになる。
すると、与党に投票しなかった人を、棄権した人と合わせると、国民の65パーセントは、与党を信任していなかった、ということになるのである。
こうしたことで、「声なき声」という言葉が出てくる。
この、棄権したり、投票しても与党に入れなかった人たちの「思い」というのはどんなものか。
そして、与党はいったい国民のどれくらいの割合の人に支持された政権なのか、という疑問である。
しかし私はこう思う。
私は、今回の、選挙戦の前に、もしも安倍政権、現政権、そして、集団的自衛権や憲法改正にどうしても強く反対する人たちがいるのなら、自分たちで政党を作り、自分たちのなかから、候補者を立てるべきである、とここで書いた。
解散総選挙は、安倍政権や集団的自衛権に反対する人たちにとって、チャンスだったはずである。
そのときに、政党も作らず、候補者も立てず、ただ黙っていた、これでは民主政治に参加したことにならない。
これでは民主主義を保っていることにならない。
民主主義や選挙というチャンスを得ていながら、黙していたことは、民主主義への背信である。
棄権は、イエスともノーともとれるものである。
あるいは、投票した人たちに、全権委任したとも取れるものである。
選挙への参加、ということは、教育の問題や意識啓発の問題もあるかもしれないが、棄権したということで、民主主義の放棄、という意思を発したと思ってもよいと思う。
そして、民主主義に参加し、投票や立候補という形で、意思表明をした人たちだけで、政治を運営していく権利を任された、といってもいいと私は思う。
政治や選挙に「興味がない」と言っている人たち、また考えはあっても行動ができなかった人たちは、これからも政治に不平や不満を言う権利などないと思う。
政治にきちんと参加した人たちが、これからの日本をけん引していく、これからの政治は、こうあるべきであるし、またこうするしかないし、また選挙に行った私たちは、政治を背負っていく権利と責任があるのだと、思う。