2014年1月31日金曜日

STAP細胞と小保方さんの研究。

昨日130日、「NUTURE」誌に、日本の女性科学者である、小保方晴子さんのSTAP細胞の記事が掲載された。
細胞の初期化、再生などの用語が使われている研究であるために、一昨年にノーベル賞を受賞された、山中教授の研究と比較されている。
女性の化学研究者が、こうして、新発見をしたことで、とても注目されている。
私も、研究の内容を、興味を持って、詳しく読んでみた。
山中教授のiPS細胞との比較も、とても興味深い。

私が第一印象として思ったのはまず、ヒトに関して、この実験が、いまだ成功していない点である。
この時点で、つまり、マウス実験においての研究成果は、それほど価値が高い、とはいいがたい。
この時点で、公に明らかに発表されてしまったら、若い研究者としては、どうなのかな、ということを思った。

マウスの実験までなら、ある意味、いくらでもどんなことでもできるし、倫理上の問題もない。
山中教授のiPS細胞は、ヒトに対して有効であるから、価値が高いのである。

次に、こうしたある意味、奇抜ともいえる研究成果に対して、吟味されるのは「再現性があるかどうか」という点であるが、これに関して、再現性が確認されていないのは、とても残念なことである。
すなわち、誰がどのように行っても、一定の条件のもとで、この結果が出せるのかどうか、これが「再現性」と呼ばれるものであるが、今回の研究では、再現性は不確定で、偶発性が高いようである。

次に、今回の研究が、アンチエイジング、老化対策に有効である、という話である。
これは、今回の研究によって再生される細胞が、胎盤に関わりがある、ということである。
現在、女性の美容や健康、アンチエイジングとして評判が高いのが、「プラセンタ」という物質であるが、これは、馬や豚、羊の胎盤から作られるものである。
赤ちゃんを育む胎盤であるから、当然、若い細胞と生命力にあふれている、というわけである。

次に、この研究成果を、すぐに商品化に結び付けて、すでに特許を出願している点である。
これは、この研究を、ヒトに対する医療に使う方向ではない、ということだろうと思う。
つまり、医療分野に使う意向はなく、ここで、「マウスでかまわない」「牛でも羊でもかまわない」という、化粧品や健康食品としての、利用価値を求めている、ということだと思う。

次に、この研究成果が、今後、世界の生物界、医療界で、データとして、重要な資料として使用されるか、というと、答はNOということである。
なぜなら、すでに特許を出願していて、この研究の詳しい仕組みは、公表されないからである。

私が個人的に心配するのは、何か地球上に存在しない化学物質を合成して、それが、たとえば遺伝子組み換え作物と同様に、地球や環境への影響が、ないかどうかわからない、というような状況である。
こうした実験結果には、それ相当の対応と評価が求められる。




2014年1月26日日曜日

現代家計簿事情。

私はこのところ、家計管理に興味を持っている。
というのは、4月に消費税の増税があるので、それまでに買うものを、計画しておきたい、と思っているからである。
「お金」に関するさまざまな知識と情報は、インターネットでも手に入るし、雑誌や口コミなどでも手に入るが、どんなふうにそれを自分の家計に役立てるかは、自分自身である、と思う。

私は、小学生のころからいわゆる「おこずかい帳」を持たされて、高校生になってからは、こずかい帳から毎月、郵便貯金まで出していた。
そして、学生時代にひとり暮らしを始めてからも、ずっと家計簿はつけていた。

そのころから考えてみても、現代の家計簿は、ずいぶんと事情が変わってきたように思う。
ひとつは、クレジットカードの普及である。
それから、各種料金の自動引き落としである。
そして、お給料の自動振り込みである。
これらを考えると、手元に現金として数えられるお金を記入することができなくなり、想像上で、お金というものを、把握するしかなくなる。
これまでの出来上がりの家計簿では、クレジットカードの扱い、自動引き落としの扱いが、うまくいかなくなる。
つまり、クレジットカードの使用分は、家計簿のどの日付に書き込めばよいのか、ということである。
それで、一か月の収支を、想像上、理論上でとらえるしかなくなってくる。

ずっと以前からのご婦人雑誌の、ベストセラー的な家計簿のテンプレートでは、当てはまらなくなってくる。
また、細目についても、「お弁当」は、主食なのか、副食なのか、という点で、記入に困ることになる。
外食ランチにしても、ランチ料金が全体に下がっていることや、仕事を持つ女性は、必要な食事としてとっているので、食費なのか、交際費になるのか、区別がつかなくなる状態である。

それでも、やはり家計管理、お金の管理は必要である、と思うので、女性たちは、女性には限らないが、ともかくは家計簿をつけなくては、と思う。
それで、まずは領収書、レシートを記入するところから始めることになる。
しかし、家計簿で一番大切なことは、記入したものを見て、過去の支出を反省したり、未来の予算を立てたりすることなのである。

この「家計の見直し」ということが、自分ではなかなかできない、ということは、とても問題である。
ある時期、ワイドショーで、家計診断のコーナーがあった。
視聴者から募集して、その家にロケに行く。
そして、経済学の専門家が、その家の暮らしぶりをよく見て、主婦にもご主人にも話を聞き、そして、記入してあった家計簿を見る。

ここでスタジオになると、支出の表が大きく張り出されていて、家計診断をする経済学博士が、これを具体的に見ていく。
たとえば、「ここの部分は大事です。ご夫婦で車を二台持っていますが、一台をレンタルにすると、税金も助かります」
「携帯電話のプランも見直して、家族で一緒の携帯会社に入るようにするとこれだけ助かります」
「その浮いた分で、将来、10年後には、お子さんの教育費がこれだけかかりますから、今から教育費の積立を始めます」
ということを、具体的にアドバイスしてくれるのである。
たいていのご家庭の主婦は、専門家の家計診断を受けてみたい、と思っているのではないか、と思う。
公費、公営で、家計診断が受けられたら、とてもたすかると、私は思う。

☆私なりの家計管理のコツ。
光熱費、水道費は、ケチケチしない。
一円、二円をこまごまするよりは、
3900円のワンピース一枚を我慢することにする。

私は、友達の税理士さんから、家計診断を受けた。
これは、まず、支出を書いておいた。
それを見せて、ここを減らす、等々、指導を受けた。

予算編成。
毎年一月には、今年一年の予算を立てる。
私にとって大事なことは、父の日、母の日、お友達の誕生日、
年末年始、クリスマス、お中元・お歳暮、予算をとっておく。



2014年1月25日土曜日

日本テレビ「明日、ママがいない」第二回放送を見て・感想。

何かと話題になっている、テレビドラマ「明日、ママがいない」の第二回放送を見た。
モデルとされた病院や福祉団体からは、放送中止の申し出が出されているが、テレビ局側では、放送は続ける、という話である。

第二回の放送を見てみて、これはなるほど、11回なら11回、と放送回数が決まっているとすると、続けられるものだ、と思った。
というのは、このドラマの舞台である児童保護施設に在籍する、子どもたちの数とそれから、その施設長の大人、この登場人物のことを、一回の放送で、ひとりずつ取り上げて行けば、物語が続くのである。
それなので、たとえスポンサーが降りたとしても、テレビ局側では、話題性があるということなら、続けるのだろう、と思う。

脚本家は、新人の松田沙也さん、となっているが、脚本と監督をしているのは、野島伸司さんである。
私は、以前から、野島氏のドラマが、一定の話題性があるということで、見ることがあったが、とても問題を感じるのである。
それは、とても悲観的である、ということと、その世界観がどこか、歪んでいるように感じるからである。

特に、今回の「明日、ママがいない」では、女性、それも「母親」に対する、痛烈は批判が繰り広げられているように思える。
児童保護施設に預けられた子どもたちのいきさつを、毎回毎回語ることで、世の中の母親への、批判をしているようだ。
それは、期待との裏返しでもある。
野島さんのお母さんというかたは、どういうかたなのだろう?

そして、主人公の少女のなかに、「本当の愛」を見出す、これが、野島氏の、変わらないテーマである。
時に少女は、大人よりも博愛と慈愛を発揮するものである。
こうした「本当の愛とはこれだ」のテーマが、訴えるに値するものかどうか、そこが、視聴者への問いかけになっていると、私は思う。



2014年1月24日金曜日

NHKドラマ「紙の月」第三回「清らかな罪」感想。

新春から始まった、NHKドラマ「紙の月」も、第三回の放送が終わった。
5回の放送であるから、物語もなかばを過ぎたわけである。
今週のテーマは、どうにも「お金と女性」であるように思えた。
「お金と夫婦仲」のようにも思えるし、「お金と愛」のようにも、感じられる。
人間にとって、「お金」とは、なんだろうか?
私は、これは、考えれば考えるほど、わからなくなる。

世間には、経済学なる学問がある。
私にとっては、政治も歴史にも、それなりの法則を見出してきたわけであるが、経済学だけは、どうにもわからないところがある。
経済学の専門に聞いても、それぞれ、理論や学派もあるようで、どれが正しいというわけでもなさそうだ。
日本では、一昨年の暮れから、新しい経済政策が始まっていて、世の中の経済が回転している、というかんじがする。

今回は、40代の女性友達、三人の、それぞれの金銭事情が描かれれているように思う。
これらは、現代の女性たちが、抱える金銭事情、家庭事情を、3人の人物に象徴して描いたようにも思える。

主人公の梨花は、裕福な家で育ち、その実家の会社経営がうまくいかなくなった、という経歴を持つ。
また、高校時代には、ご両親からもらったおこずかいから、ボランティア募金をしていた。
そして、結婚してからは、仕事は忙しいが収入が高い夫のもとで、主婦として暮らしているが、何か物足りないものを感じて、銀行のパートを始める。
そして、銀行のお金を横領してしまう。

友人のひとりである、木綿子は、何か役名の通りの、「木綿の」イメージのある主婦である。
夫と、小学生の娘の三人で暮らしている。
この木綿子は、いわゆる「節約主婦」である。
今、とても「節約」がはやっているようである。
これは、デフレと呼ばれた時代のものでもあるが、やはり一家の家計を預かる主婦としては、収入が一定なので、支出をできるだけ抑えれば貯金ができる、というシンプルな理論から、節約を心掛けている。
ただ、木綿子は、「お金があればそれがイコール幸せだとは思わない」という信念を持っている。

もうひとりの友人である亜紀は、離婚ののちに、ファッション雑誌の編集の仕事を続けながら、ひとりで暮らしている。
恋人がいるがうまくいかない。
元夫ともうまくいかない。
元夫のもとに引き取られた娘とも、会ってはみるけれど、うまくいかない。
この亜紀の悩みは、買い物依存症である。
買い物依存で使いすぎたのか、元夫からは「もう自分では物足りなくなったのだろう」と言われて、縁を切られた、というわけだ。
そして、離婚してから数年たってからも、買い物依存から抜け出せない自分を、自分で情けなくなっているようだ。

ここで、私は、四人目のお友達になってあげて、彼女たちといろいろ、お話をしてみたい、と思う。
まず、ヒロインの梨花は、すでに横領が見つかって、外国を放浪している状態なので、まずは日本に帰ってきてもらうことが先決かな、と思う。
そのうえで、やっぱり、学生時代に「困った人がいたら、何かしてあげたい」という気持ちがあったのなら、学生時代にでも、結婚してからでも、ボランティア活動をしたり、NPO活動をしてみたらどう?と話すと思う。
自宅にいても、ちょっとした手芸品を作って、近所の小学校のバザーをすることができるし、地域の子ども会の役員をすることもできる。
ちょっと前には、「緑のおばさん」という横断歩道を渡してくれるボランティアがいたものだ。
そうしたところから、海外活動への取り組みなどを、勉強してみたらよかったのではないかと思う。
また、お金のことに関していえば、実家のご両親が、会社経営でうまくいかなくなったことを話している。
大人になってからでいいので、会社の経営とはどういうものなのか、そして、商業とはどういうものなのか、学んでみたらよかったのに、と思う。
お金、特に、会社の経営をするとか銀行で扱う金額というと、なかなかカンがつかめないものだ。
私自身も、もちろん、1億円といっても、まさに、「500円のランチを一日三食たべて、何年間生きられる」という計算をしてみないと、よくわからないところがある。
ただ、この計算を、してみなさい、と言ってくれた上司がいて、OL時代には、計算機を持って、「この金額を係長のカレーライスで計算してみなさい」と言ってくれたものだ。
また、三億円の宝くじを買ったらどうするか、これを考えてみたことがある。
というのは、三億円の年末ジャンボなら、一枚で300円なのだが、この一枚だけを買ったわけである。
宝くじは夢を買う、というわけなので、この一枚で、できるだけ多くの夢を見てみよう、と思った。
それを、近所のおばさんにちょっと話すと「あなたね、若いんだから、それだけお金があったら、海外留学をしてきなさいよ」というのである。
それで、さっそく、海外留学の手続きと費用を調べた。
ところが、2年間の海外留学、オーストラリアあたりに行ってきても、3000万円くらいしか、「かからない」のである。
それで、ほしかったCDをリストアップして、すべて買う、とか、ほしかった本をすべて買う、と計算してみた。
しかし、である、CD100枚も買ったとしても、たかだか30万円なのである。
それでさらに、マンションも買ってみることにした。
毎日、新聞の折り込みに入ってくるチラシを見て、マンションを選んでみる。
これだって、3000万円もあれば、手に入るのである。
それで、三億円を使うのは、本当に大変なものだ、とだんだん、身に染みてわかってきた。
それで、宝くじのテレビコマーシャルで「宝くじが当たったので、遊園地をお取り寄せしたの」という話では、これはまったくでたらめだ、ということがすぐにわかった。
遊園地は、三億円では、建てることはおろか、経営だって成り立たないのである。

そんなふうにして、梨花さんには、お金の感覚、それも、大金の感覚を、シュミレーションでいいから、覚えてほしかったように思う。
ある意味、一億円くらいは、たいしたことないのである。

次に、木綿子さんとお話をしてみよう、と思う。
木綿子さんの気持ちになってみると、収入が決まっていて、奥さんがパートには出ないことが決まっている状態なので、支出を少なくする、そして、お金をためておいて、「好きなこと」を「自由にする」のを目的としている。
そして願いは、家族の幸せである。
それから、やはり学生時代のことが描かれているが、実家がそれほど裕福ではなかったことから、お金のありがたみ、ということを痛切に感じていて、そして、その上に「お金があることだけが幸せではない」というひとつの思想を、信じ込もうとしているところがあるように思う。
今のところ、木綿子さんの家庭では、借金などに困ることはないので、これはとても庶民的な、いわゆる「普通の」考えだと思う。
ただ、やっぱり、「貧しさに負けた」「いいえ、世間に負けた」という歌があるように、お金がないところに、愛は生息できない。

木綿子さんがしている節約生活は、貯金通帳のなかにどんなに数字を積んだとしても、貧しい生活である。
年ごろの娘さんには、従姉妹のおさがりのワンピースを継あてをして、着させる。
娘の友達が見ていても、スーパーの特売セールに走る。
冷蔵庫の開け閉めにはうるさいし、夫のシャワー水道水使用タイムまで決定しているのである。
これは、節約生活ではなくて、貧しいかたがたの生活そのものである。
ここのご主人は、いっしょうけんめい働いてきたのに、自宅でくつろぐ、ということができない。
外で働いて、この家を維持する賃金を働いてきたのは、いったい何のためなのだろうか。
自分が家でくつろぐこと、そして、愛する奥さんと子どもに、楽しい暮らしをさせるためではないだろうか。
ここの木綿子さんは、そこのところを、完全にピントをはずしてしまっている。

おうちに帰ってきたら、ご主人にたくさんお湯を使わせてあげて、幸せそうなのどかな表情で、くつろがせてあげたらいいのに、と思う。
そして「あなた、お仕事、いつもありがとう」「あなたの働いたお金で、ちょっとぜいたくさせてもらっちゃった、いいかな、きょうはケーキよ」なんて、言ってみたらいいのに、と思う。
ご主人の前で「あなたのおかげでこんなに幸せです」と表現してみたらいい。
そうしたら、ご主人も、幸せそうな笑顔を見に、ほかの女性にワインをおごることもなくなるだろう。

次に、亜紀さんである。
このかたは、仕事を持つ女性である。
買い物依存症というのは、現代病のひとつのテーマとしてとても大切なことなのだろうと思う。
ここでとても大切になるのは、ファッションとお金、という問題である。
亜紀さんがライフワークにしているファッションというのは、ひとつの重要な芸術である。
そして、世界的には、パリコレに代表されるように、フランス、パリのあたりが中心となって、世界の最先端、最高峰が、構築され、進んでいるのである。

このときに、元夫は、亜紀さんのファッションを、「派手である」と評価したようである。
そして、亜紀さんと別れたあとは、娘さんに、ちょっと見てそれとわかるほどの、質素な服装をさせている。
これは、ファッションというものを、まったく理解していなかった、そして亜紀さんの仕事をまったく理解していなかった、ということなのだ。
しかし、仕事上の上司である、この編集長は、ファッションの仕事、最高峰を目指すということ、そして、20万円の服を日本で買うのでは、全然足りないのだ、ということを、しっかりと理解していたのである。
仕事で、ファッションで、世界の最高峰を目指している、この仕事の醍醐味と、そこでのストレスと、そして充足感、こうした、仕事を持つ女性の生き生きとした姿を、愛することが、認めることが、できるかどうか、ということである。




2014年1月19日日曜日

日本テレビ「明日、ママがいない」第一回・感想。

116日に第一回の放送があった、日本テレビの「明日、ママがいない」が、とても話題を集めているようだ。
実在する病院や、医療、教育のシステム、それらの団体が、抗議を申し入れた、という話である。
私は、この木曜日夜10時のドラマは、いわゆる「社会派」という枠であるということで、今回はどんなドラマ作りになるのか、興味があった。
都合で、当日には視聴することはできなかったのだが、翌日、翌々日と、インターネットサイトで無料放映されていて、視聴することができた。
いろいろなことを、たくさん思った。
この問題、いわゆる、親のない子どもたちが、施設で育てられる、というテーマに関しては、とてもデリケートな心で、対応しなければならないものだ、と思う。
なので、私自身の真意が誤解なく伝わるように、という気持ちで、長くなるかもしれないが、買いてみたいと思う。

まずひとつは、ドラマ全体に対する、一視聴者としての、第一印象である。
それは、興味をかきたて、フィクションの世界にのめりこませる、視聴率を上げる、という目標において、とても「ドラマティック」である、ということである。
音楽や映像、エピソードの数々にしても、とてもドラマ的、つまり、フィクション的であって、小説でいえば、「読み物としては面白いが、真実味に欠ける」というところである。
エンターテイメントとして、うまく出来上がっている、というところだと思う。

次に思ったことは、ドラマの出来具合としても関係してくるところだが、テーマが散っている、ということである。
さまざまな理由で、実の両親のもとで暮らすことのできない子どもたち、この子たちが集まった施設、ここでのストーリーである。
社会派として訴えたいのは、ポイントとして、どこになるのだろうか。
「親子、家庭、愛情」という点では、実の親子でも、実際にはうまくいかないことがあったり、理想どおりではなかったり、たくさんの問題があると思う。
それから、この子たちが、この施設に預けられた理由である。
赤ちゃんポストは赤ちゃんポストで、とても大きな社会的なテーマを提起している。
また、一時代には、コインロッカーベイビーということも、実際の社会問題となった。
これらの、「施設に来た理由」には、掘り下げられるべきたくさんの点がある。
それから、実際に施設というのは、どういうところなのか、実際に、親切に子どもたちが育てられているのか、という問題である。
これは、施設のあり方や、現状を変えるべきかどうか、というテーマを含んでいる。
次に、里子・里親問題である。
これは、理由によっては、ほかの理由でも、里子・里親になるケースがあり、そこでの問題も起こっている。

それから、「母親」という女性の生き方の問題である。
このドラマでは、ここに描かれる母親に対しては、批判的であるような印象があった。
恋愛をし、子どもを産み育てる母親、このひとりの人間の生き方も含まれている。

そして、もうひとつ、人間にとって「おかあさん」とな何か、アイデンティティ的な、心理的な意味、出自、「生きること」「なぜ生まれてきたの」という、思想に似た問いかけも含んでいる。

こうして、ドラマとしては、たくさんの社会問題を幅広く扱っているようでありながら、どこか散乱してしまったイメージがある。
ここから先の展開では、どこかひとつにきっちり絞っていったほうがよいのではないか、と思う。

次に、私が思ったことは、このドラマが、最近、とても話題になっている、女の子の子役たちを集めたドラマである、ということである。
この子役の子どもたちに対しての配慮、芸能界というところについて、本当に考えさせられた。
たとえば、人気の女性歌手グループがあるが、ここも、まだ10代前半の少女たちを集めて、人前で歌ったり踊ったりする。
問題は、それらが映像として残る時代である、ということである。
それから、これらの子どもたちが、まだ自分自身の意思で、「テレビに出たい」と決定できる以前に、いわゆるステージママという人が、わが子をテレビに出させたい、という気持ちのもとに、小さな子どもに仕事をさせているところである。

芸能界では、子役時代にとても人気のあった女優さんが、親がステージママであったことや、芸能界のしきたりから、仕事の内容を選ぶことができず、大人になって、芸能界というものがわかってから、人生の苦痛を味わった、ということである。
こうした、ドラマ作り、映画作り、というところで、小さな子どもを子役として演技をさせることに、なんらかの人権的な配慮は、できないものだろうか、と思う。
子どものときに演じた役が、一生ついてまわって、その負荷に耐えられない、という人がいるのではないか、と思えるふしがある。

また、こうして、ドラマ作りをするときに、監督、脚本、テレビ局のほうでは、ひとつの作品としてのドラマを作るときに、子役だけではなく、女優さんをも、自分たちの作品を作るための、素材として扱っているところがあるのではないか、と思う。
私は、時に「もしかしたら悪意なのかしら?」とも思えるのは、いわゆる清純派として、仕事を選んできた女優さんに、「汚れ役」をさせる傾向が、このところ目立つように思えるところである。
女優としての、イメージ作りや仕事上のスタンスは、大切にされるべきで、その上でもっと大切なのは、ひとりの人間として、どう扱われるか、ということだと思う。
日本には、伝統的に、歌舞伎や狂言などの芸能があり、そうしたからみから、子役や女優の扱いに対して、まだまだ非人間的なところが、あるように思う。
文化を追求するなら、社会派を思うなら、まず監督・脚本、自らが、本当に人権に配慮した作品作りをしているのか、自らをよく問いなおすべきであると、私は思う。

そうした、作品としてのドラマ、を、全面的には肯定できない、ということを前提にして、ここからもう少し書き進めたいと思う。
ひとつは、赤ちゃんポストの必要性の問題、それから、こうした児童施設の必要性の問題である。
まず、児童施設の問題である。

私は、事情がどうであっても、さまざまな状況で、実の親元で暮らすことがむずかしい子どもたちに関しては、積極的な支援を、もっと行うべきではないか、と思う。
たとえば、高齢者の施設に関しては、必要性もあり、需要もあり、すでに年金のシステムも整っていて、次々に整備されていく状況である。
それと同じように、社会的に、弱者という言い方はあまり好まないが、ひとりで生計を立てていけない状況の子どもを、社会全体で、守り、育てる仕組みは、大切なのではないかと、私は思う。

ドラマのなかでは、「本当のお母さん」ということが、とても大切になっていたが、実際は子どもたちは、「母親的な存在」のもとで、健やかに育つことができる。
それは、親戚のおばさんであったり、近所のおばさんであったり、お姉さんであったり、幼稚園の先生、保育士さん、そうした、あたたかい母性というものである。
小さな子どもにとっても、大人にとっても、「お母さん」という存在はとても大切なものである。
心理学的にもアイデンティティに関わる問題でもある。
また、愛され恵まれ望まれてこの世に生まれて来た、という確信が、人には必要なのだと思う。
そのときに、小さな子どもたちに、そばにいる人たちが、ありったけの愛情を注いであげることは、できると思う。

また、ドラマを見ていた視聴者の皆様が、「本当は実際はどうなのか?」と、このような児童施設の実態を知らない、ということがあるようである。
実は私は、まだ高校生のときに、学校のボランティア活動の一環で、こうした児童施設を、訪れたことがある。
それは、施設のクリスマス会であった。
こうした施設では、クリスマス会に、この施設の卒業生や、学校の友達、友達の親などを、積極的に呼ぶようにしている。
そして、施設の小さな体育館で、コーラスや、演劇を披露する。
全体的に、そこにいる子どもたちが、そんなに悲しそうであったり卑屈であったりする印象はなかった。
一番記憶に残っているのは、施設の少年たちと卒業生たち、これは男の子たちであるが、彼らがバンドを組んで、ロックというのを演奏したときのことである。
中学で卒業しなければならない施設を出て、いろいろな職業に就いているのであろう。
元気いっぱいに「クールズ」という、ちょっとかなり不良っぽいバンドの曲を、ドラムを打ち鳴らし、シンバルを打ち鳴らして、がなり立てていた。
がんがん歌ったあとに一言「てめえら、クールズなめんなよ!」とボーカルの少年が叫んだ。
そのとき、私の後ろに座ってみていた、年配のおばちゃんが、「キヨシく~ん!!」といって、立ち上がって大きな拍手をしたのである。
「キヨシく~ん、大きくなったわね~!」
その席は、職員の人が集まる席だったので、おそらくは、このキヨシくんを、小さなときから面倒みてきた保育士さんだったのだろう、と思う。
キヨシくんは、ふくれっつらをして、照れていた。
その場にいた全員が、笑って、拍手をした。

施設の実際の様子、それから、職員の人たち、教師や保育士さんが、どんなに真心をこめて、どんな気持ちで、この子どもたちを育てているのか、本当のことを、ドラマからではなく、知るべきであると、私は思う。
できる限り、精一杯のことを、してあげている、と私は思う。
そうした意味で、今回のドラマは、「キテレツな」エピソードが多く、賛成できない点がとても多い。
そして、また、こうした子どもたちに、もっと興味や関心を持って、必要とされる子どもたちに、充分な環境が授けられるように、と願うものである。

次に、赤ちゃんポストの必要性について、である。
これについては、実際にこれを行っている病院施設があり、そちらにたくさんの考えがあるようなので、意見はゆずりたいと思う。

メモ

アンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピットは、アメリカハリウッドを代表する大物俳優と女優の夫婦である。
アンジェリーナさんは、先日、手術を受けた。
国連UNHCR親善大使である。
ここの夫婦は、現在は正式な結婚をしているが、以前は、事実婚であった。
そして、里子を数名もらって、育てている。
最近になって、この子どもたちからの希望があって、正式な夫婦となった。
それなので、このドラマでは、あこがれの里子先として、描かれている。

次、「ドキュン」とはDQNとも表記される。
ずっと以前、十数年前であるが、「目撃ドキュン」という番組があった。
そこで扱っていたのは、実録で視聴者参加型で、中学校卒業程度で、配管工をしているようないわゆる不良と呼ばれる人たちの、更生の物語を扱っている。
「ヨロシク」を「夜露死苦」と、当て字して、地下道の壁などに、スプレーで書いたような状況である。
この「当て字」の様子と、最近のキラキラネームの様子を合わせて、当て字を使った一般的ではない名前を、「ドキュンネーム」と呼ぶ。
これは、学歴や育った環境などを、差別した言葉である。

次、女流文学において、たとえば、ジェーンエア、たとえば、「赤毛のアン」などでも、孤児であったり、孤児院の様子が描かれたりしている。
そこにおいて、女の子たちの友情は、とても重要なテーマとなっている。

次、ずっと以前、子役の安達祐美さんが有名になった「家なき子」では、「同情するなら金をくれ」というせりふが有名になった。
このシチュエーションでは、父親がなく、母親が、大変に重い病気で、入院していて、手術のために、大金が必要である。
このお金を稼ぐために、小さな女の子が、お金を稼いでくる、という物語であった。
このときにも、経済が苦しい状況というなら、なぜ、そんなに立派なきれいなパジャマを着ているのか、と視聴者から、問い合わせがあったようだ。
このときに、母親役を演じていたのは、今は亡き、スーちゃんこと、キャンディーズの田中好子さんである。
やさしい、あたたかい、お母さん役であった。

安達祐美さんは、その後、子役という仕事に関して、さまざまな発言をしている。
その、主たる主張は、母親がステージママであり、小さな子どものときから、自分の意思に関係なく、さまざまな役をさせられたことである。

★ーーー★


赤ちゃんポストについて。
赤ちゃんポストの是非が、「今になって」とさえ思える状況で、とても論議となっている。
赤ちゃんポストは、九州の産婦人科病院が、設置を決めたもので、母親は匿名のままで、さまざまな理由で育てることができない、赤ちゃんを、あずける場所である。

この設置に関しては、賛否両論あったなかで、この病院が、設置を決めた。
私が思うのは、産科・婦人科の医師たちが、実際に現場で婦人科の診療にたずさわっているときに、この設置を決心せざるを得ない、たくさんの状況があったのではないか、ということを思うのである。
病院、医療、という職業がら、個人の秘密を守ることが、求められている。
そうした状況のなかで、医師としての個人的道徳から、決心したのではないか、と思う。

私がもうひとつ思うのは、この赤ちゃんポストを設置した病院が、キリスト教の病院だ、ということである。
今、アメリカでは、「超保守派」と呼ばれる人たちが、キリスト教の信仰、マリア様の信仰と結びつけて、人工妊娠中絶に、絶対反対を唱えている。

「赤ちゃん」「信仰」「妊娠」と出産について、この病院では、宗教や思想信条上の、信念があるのではないか、と思われる。
「赤ちゃん」「生命」という点で、生命倫理の思想が、関連しているように思われる。