「政治的である」ということ。

たとえば、社交的である人が、妬まれたりする。
礼儀に厚い人が、憎まれたりする。
そっけないほど「虚礼廃止主義」の人が、結局のところ、どんな味方も付けられなかったりもする。
世の中は、人間関係がすべてである、といっても過言ではないかもしれない。

たとえば、サッカーの試合がある。
たとえば、プロ野球の試合がある。
厳正なルールに則った上で、戦う。

戦う以上は、なんらかの戦略がある。
監督がいて、選手がいる。

サッカーであれば、フォーメーションであったり、選抜選手であったり、選手交代であったりもする。
右の脇から、小さなパスをつないでいく、というのも戦略であるし、大きなボールを遠くまで飛ばして、そこに決まった選手が立っている、というのも、戦略である。

この戦略が上手いか、そうでないかで、サッカー監督の腕が決まる。
上手い監督もいるし、なかなか勝てない監督もいる。

野球であれば、ランナーを一人、一塁に出しておいてから、次の選手はバントを決める、という戦略もある。
これは、野球の戦略としては、比較的、基本の戦略である。
ふたりめの選手はバントでアウトになるが、一塁に出ていたランナーは二塁まで進むことができる。
チームの利益になるのだから、うらみっこなしである。

ここには、ひとりひとりの個人プレーではなく、団体であったり、チームであったりするところの、大きな規模のプレーがある。
ひとり以上の人が集まって、何かを成し遂げようとするときに、必要なものは、ルールと戦略である。

とかく人はイメージから、「戦略」や「策略」という言葉自体を嫌ってしまう。
しかし、策士というのは、子どもたちのゲームを見ていてわかるとおり、誰もが提督になりたいし、誰もが高名な策士になりたがるものだ。
人が集まる集合体には、なくてはならない存在なのだ。
戦略を練って練って勝ち進んだのは、織田信長であっただろうか。
信長をテーマにしたゲームも、とても人気である。

人が集まって何かをする以上は、戦略はあってしかるべきだ。
戦略もなければ策士もない、だから、烏合の衆になってしまう。
結局は個人プレーであったり、個人の名誉だけが浮いてしまうものである。

選挙は、ルールに則って、たくさんの人が、「勝ち」を目指して戦うものである。
だから、「選挙戦」という。
誰もが公平なルールに則って、声を枯らし、意見表明をして、勝ちに行くわけである。
政党となりチームとなれば、優秀な策士のもとで働く人たちが、物事を成し遂げることもできるし、「勝てる」というわけである。
「勝てる」策士のもとで、働きたいものではないか。

机の上の片づけひとつにしても、「段取り八分」と言われる。
段取りとはすなわち、戦略ではないか。

烏合の衆には、提督となる策士が必要である。
さて、誰が、「自分が」と手を挙げるのか。
もし、誰もその人がいないとなれば、選手ひとりひとりが、どんなに優秀であっても、意見が正しくても、やはり、メダカの学校である。


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