介護をテーマとしたマンガ「ペコロスの母に会いに行く」が、話題になっている。
作者は岡野雄一さんで、作者自身が、実の母親が認知症になり、その介護をした体験をもとに、マンガを描いた。
介護は、社会のなかでとても大きな比重を占める問題となっている。
それは、個人においても、とても大きな比重を占めているだろう。
実の親の介護でもあるし、自分もいつか、介護を受ける側になる、という問題でもある。
また、認知症という病気に対する、畏れや不安もある。
自分が認知症になったらどうしよう、親が認知症になったらどうしよう?という不安である。
何しろ「わからない病気」「わからなくなる病気」なので、不安の増大感は半端ではない。
そうした、「わからなさ」からくる不安を、払いのけてくれるのが、マンガ化することではないか、と思われる。
最近では、うつ病をマンガ化したり、映画化したりすることもあって、知識と理解をさわりだけでも、知る事が出来る。
また体験した人の話をこうして知る事も、とても重要なことである。
「ペコロスの母に会いに行く」という題名は、ちょっと変わっている。
「ペコロス」というのは、玉ねぎの一種だそうである。
外国産の玉ねぎで、日本地元のものより、少し小さくて丸くまとまっているようだ。
老いて認知症になった母の姿は、まるで小さな玉ねぎのようだ、と愛情を込めてつけたあだ名である。
私も全編通してではないが、4コママンガなのであちこちで目にすることもあり、介護パンフレットなどにも載っているので、読んだことがある。
介護をする息子さんの葛藤や、お母さまの様子などが、あたたかい視点で描かれている。
介護ってこういうものなのかな、とほっとすることもある。
これは、やはり介護をする著者本人が、「お母さんの介護を、マンガのネタにしてしまおう」と思ったところで、客観視が出来ているのではないかと思う。
客観視してマンガ化して、たくさんの読者を持つことで、自分自身の葛藤を昇華しているのではないか、と思う。
実際に介護の現場にいる人々にとっては、この「客観視」と、「共通の思いを持つ読者がいる」状態こそが、必要なのではないだろうか。
そういった点で、著者の岡野さんは、「ペコロス」を描くことで、自分自身の課題を乗り越えることができた、幸運な人のひとりかもしれないと思う。
認知症の介護に関して、本音を語ってみたらどうなるだろうか。
たいていの人は正直言って、介護はしたくない、と思うだろう。
それが実の親のことだとしても、実の親だからこそ、家族なりの葛藤がある。
子どものころから、親には反抗してきた、という人がたくさんいる。
ある日、親が要介護の状態になったからといって、突然「孝行息子」に変身したりできるものだろうか。
「若いときにさんざん好き勝手したくせに」とは思わないだろうか。
「好き勝手して、子どもたちにも迷惑かけたくせに」
「介護の費用を貯金しておかないで、海外旅行ばかり行っていたくせに」
「私のことを、あんなに叱って家から追い出したくせに」
「子どもの私にご飯を作ってくれなかったのに、今になって私が親にご飯を作ってあげるんなんて」
「世話をするとしたら、親が子どもの世話をするべきであって、子どもの私が親の世話をしなければならないなんて」
…そうは思わないだろうか。
また、こういう気持ちもあるかもしれない。
「あんなに立派で頑固で壮健だった親も、老いてこんなに弱くなってしまうなんて」
「私にあんなにお説教をして、そのおかげでここまで強い大人になることができた、その親のトイレの始末なんてしたくない」
「弱くなった親の姿を見たくない」
「いつまでも強い親でいてほしい」
小さな子どもの、食事とトイレの世話は、子どもの笑顔でなんとか越えられるものかもしれない。
でも、大人が大人の世話をするのは、大変なものである。
大人は身体も大きいし、自我も自尊心もある。
自尊心のある大人同志で、どんなふうに上から下まで、世話を見たらいいのだろう?
それも、話も通じなくなってしまった状態で…。
「ペコロスの母に会いに行く」は、比較的おとなしいおばあちゃんであったように思われる。
幸運にも、良心的なグループホームに入所することができた。
今、特別養護老人ホームなども、入所待ち、順番待ちだそうである。
さまざまな被害もある。
いつかは、自分も老いるのだ、ということを、心に省みて、高齢になっても大切にされる社会を作りたいものだ。
田舎に行って感じるのだが、高齢者が大切にされている町は、なぜか小さい子どもが多い。