4月から、毎週の「花子とアン」の感想を綴っている。
週ごとにストーリーを追いかけている書き方であるが、ここで、登場人物のひとり、醍醐亜矢子女史に、スポットを当てて書いてみたいと思う。
醍醐さんは修和女学校時代からの、花子の学友である。
花子が女学校に入学したのはまだ、「小さい人たち」と呼ばれる10歳ごろであるが、その当時、先に入学していて「はなさん。お友達になりましょう」と言ってくれた友達が、醍醐亜矢子さんである。
「はなさん。髪におリボンはつけないの? 髪におリボンをつけないのは、お着物に帯を締めないのと同じなんですって。よろしかったら、私のおリボンをさしあげるわ」と言って、自分のリボン箱のなかから、花子に、大きな花のようなリボンをプレゼントしてくれた友達である。
この醍醐さんは、成長して、職業婦人になるのだが、大正時代、昭和の時代、と日本の最先端の時代を東京・銀座で生きるのであるから、さすがに素晴らしいファッションセンスである。
まさに、「歩く文明開化」と呼びたいほどである。
醍醐さんは華族出身であるようだが、まさに明治から大正、昭和と、このドラマを文明で彩ってくれている。
花子の「腹心の友」は、蓮子さんであるようだが、醍醐さんもまた親友のひとりと言えるだろう。
この醍醐さんは、女学校の卒業当時は、婚活にうちこんでいた。
永久就職を求めるタイプだったのである。
どちらかというと、清純でおとなしめ、芯の強い醍醐さんには、いい家に嫁ぐのが一番向いているようにも見える。
しかし、決まりかけていたお医者様との縁談をやめて、職業婦人になることにした。
出版社で、花子の同僚を務め、花子のサポートもしてくれる。
そして、白蓮事件のあとでは、白蓮のことを、フリージャーナリストとして取材して、連載、そして、一冊の本にまとめるのである。
これは本当に、当時の最先端の職業であっただろうと思う。
蓮子と醍醐さんも女学校で同級生であったわけだから、ここで、花子、蓮子、醍醐亜矢子が、女流文筆家として仲良くそろうわけだ。
女学校時代の卒業生がこうして、社会で活躍する職業婦人になることは、本当にすがすがしい女性の生き方である。
しかし、醍醐亜矢子にも、「結婚」「恋愛」は、なぜかとてもむずかしいハードルであるようだ。
平成の現代でも、仕事を持つ女性は、いつの間にか年齢が上がってしまっていて、よい出会いがない、という状況で30代を迎えている。
本日の放送で、女学校時代の思い出を「20年も前のこと」というセリフがあったので、三人とも、醍醐さんももちろん、35歳にはなっているはずである。
醍醐さんは、花子の実兄である吉太郎と出会い、お互いに好意を持ったようである。もちろん、花子を介して出会った状況であり、このあたりの人間関係は、兄弟、姉妹、家族や幼なじみ、といった出会い方になっていて、昭和初期の人間関係を、詳しく見る気がする。
現代では兄弟同士で顔を合わせることも少ないかもしれない。
それにしても、醍醐亜矢子の恋愛は、唐突である。
吉太郎は憲兵であり、以前は社会主義者である宮本龍一を秘密任務で追いかけていた。
その宮本龍一と駆け落ちした蓮子さん、その友達の花子さんと醍醐さん、となっていて、村岡家で、一同に会して、お昼弁当にお稲荷さんなどを一緒にいただいている状況である。
白蓮事件をジャーナリズムした醍醐さんと、宮本龍一を追っていた吉太郎が、どうして一緒になれるはずがあろうか?というところである。
このあたりはまだおいておくとしても、NHKのドラマはいつも、なぜか、女性のほうから「好きです」の告白である。
これは、NHKの朝ドラでは、もしかすると必須の条件であるようなことを聞いたことがある。
朝ドラの視聴者は、年配のかたが多く、お見合い結婚や家同士の結婚であったために、「(今の結婚にも満足しているけれど、できるならば)好きな人と結婚してみたかった」という女性の声が高いのだそうだ。
それにしても、女性のほうからの、「好きです」は、いかがなものであろうか。
私は、絶対的に、「好きです」の告白は、男性からであるべきだ、と考えている。
というのは、男性にも、告白する権利、というのがあるのではないか、と思うからである。
また、男性の側にも、事情というのがあるのではないだろうか。
たとえば、心のなかに忘れられない初恋の女性がいる、とか、郷里に残してきた婚約者がいる、とか、今は仕事が充実しているので、恋愛や結婚は考えられない、とか、正直いってあなたのこと好きじゃない、とかいう事情である。
そういえば、吉太郎の初恋の人は、蓮子さんだったし、醍醐さんも以前は村岡英治を好きだと言っていたし、これはいったい、どういう人間関係なんだろう?
そういうわけで、愛の告白は、結婚を含めて、男性の側で、心の準備、環境の準備、覚悟と忍耐力が定まってから、男性から計画的に決心して行うのが、一番良いと思う。
これは、女性が、自分の心や立場を守るための、大切な心得でもあると思う。
ドラマのなかでも、職業をしているだけに、活発で積極的で発言力もある女性が、その積極性のままに愛の告白をして、あとから男性を困らせて、結局は傷ついている。
「あなたには、自分よりももっとふさわしい男性がいます」
こんなひどい言い方をされるなら、壁の花になって、静かに申し込みを待っていたほうがよいのではないか、と思う。
醍醐さんの仕事ぶりについては、またこれからも、働く女性として楽しみなところなので、注目して、みならっていきたい。
「花子とアン」の登場人物は、どのメンバーもとても魅力的で、一言では語れない。これからもとても楽しみである。
2014年8月19日火曜日
2014年8月18日月曜日
NHK「花子とアン」第20週「海にかかる虹」感想。
NHK朝ドラ「花子とアン」は、白蓮事件も一難去って、蓮子さんは何事もなかったかのように、一般庶民に落ち着いている。
伝助との別れと許しは、とても印象的な場面だった。
そして、花子は、本来の職業だった、あるいは視聴者も待ちに待ってまちくたびれて、もうすっかり忘れてしまっていたのだったが、翻訳業に本腰を入れ始める。
小学校の教員をしていたときには、文筆の道に進むための、なんらかのきっかけが必要だった。
そして、文筆業が翻訳業へ、そして児童文学へ、と方向性を持つためには、やはり大きなきっかけが必要だったということだろう。
考えてみれば、「文筆」あるいは童話作家というはずだった花子に、「英語の翻訳」という道を示したのが、夫である村岡英治である。
花子の人生と職業選択は、そのときそのときの出会いや、環境にとても左右されているようだ。
しかしこれも、明治、大正、昭和、という、女性の職業の先駆けであった時代であるから、いたしかたない、ともいえる。
夫となる男性、あるいは職場の男性から、職業や社会人としての「作法」を教わることは、女性にとってはよくあることで、どんな社会人たる男性と知り合えるかは、女性の職業に対する姿勢や取り組み方、具体的な仕事の仕方にとても影響してくるようである。
そうした意味で、村岡英治は、ドラマのなかでこそ影薄いイクメンであるが、陰に日なたに、社会人として、職業を、妻の花子に叩き込んだ張本人でもあるかもしれない。
また、花子が夫・英治に対する思いというのも、「仕事をさせてくれた」「仕事を応援してくれた」あるいは、「自身の才能というものを、開花させてくれた」という意味で、とても大きいのかもしれない。
自宅に印刷所まで作ってくれるのだから、すばらしいことである。
当初は、家内制手工業、とも思い、印刷の仕事がたくさんほしいから妻に働かせたのか、ともかんぐったものだが、花子の、当時としては貴重な、英語と翻訳という才能を、だれよりも評価していたのは、夫の英治だったかもしれない。
このあたりで、「夫連」が描かれるのだが、蓮子の夫、シュギシャたる宮本龍一はすでに、姑にやっつけられ、子煩悩なふつうのオジサンになってきている。
なんとも情けない話で、蓮子が駆け落ちしたその理由、男性的な魅力というのが見えてこない。
もしかしたら、宮本龍一というのは、駆け落ち前から、マイホームパパな一面をのぞかせていて、アットホームな雰囲気が、蓮子は好きだったのかもしれない。
どちらにしても、花子も蓮子も、文才を後押ししてくれる夫に出会って、本当に幸せである。
実際には、こんな男性がいるわけない、というのは、誰もがご存知の事実である。
さて、この週「海にかかる虹」の本題は、ひとり息子・歩の件である。
小さな子どもを失う悲しみを、日本中の子どもたちのために、児童文学を翻訳したい、という大きな目標に変換していったのである。
ドラマを見ていても、「こっちがパパのダーリング」と歌まで覚えてしまった視聴者としては、本当に心が痛む思いがした。
そして、花子が、その痛みを、忘れることではなく、常にいつもそばに、歩くんがいる、歩くんに話聞かせている、という気持ちになったこと、これは、とても大切であると、私は思う。
世の中には子どもが大好きでも、子に恵まれない女性もいる。
また、我が子さえよければ、ほかの家の子どもはどうでも関心がない、という母親もいる。
そうしたなかで、ご近所の子どもにも、日本中の子どもにも、自分の文筆力と英語力で、一生懸命仕事をしていきたい、と思えた花子は、とても幸せであると思う。
何か遅咲きなところはあったが、ここからが花子の本領発揮となるのだろう。
海のシーンはとても印象的だった。
もっともっと、ダンナに甘えて、悲しみ苦しみ涙ももっと見せてもよかったのではないか、と思う。
ダンナ自身の苦しみ悲しみ、そして、父親だってつらいのに、母親だけつらいふりする妻、こうした妻をもって、それでも支えていく英治の孤独も、もっと描いてよかったのではないか、とも思う。
父親としての、英治の心意気も、言葉や態度にして、見せてほしかった週であった。
伝助との別れと許しは、とても印象的な場面だった。
そして、花子は、本来の職業だった、あるいは視聴者も待ちに待ってまちくたびれて、もうすっかり忘れてしまっていたのだったが、翻訳業に本腰を入れ始める。
小学校の教員をしていたときには、文筆の道に進むための、なんらかのきっかけが必要だった。
そして、文筆業が翻訳業へ、そして児童文学へ、と方向性を持つためには、やはり大きなきっかけが必要だったということだろう。
考えてみれば、「文筆」あるいは童話作家というはずだった花子に、「英語の翻訳」という道を示したのが、夫である村岡英治である。
花子の人生と職業選択は、そのときそのときの出会いや、環境にとても左右されているようだ。
しかしこれも、明治、大正、昭和、という、女性の職業の先駆けであった時代であるから、いたしかたない、ともいえる。
夫となる男性、あるいは職場の男性から、職業や社会人としての「作法」を教わることは、女性にとってはよくあることで、どんな社会人たる男性と知り合えるかは、女性の職業に対する姿勢や取り組み方、具体的な仕事の仕方にとても影響してくるようである。
そうした意味で、村岡英治は、ドラマのなかでこそ影薄いイクメンであるが、陰に日なたに、社会人として、職業を、妻の花子に叩き込んだ張本人でもあるかもしれない。
また、花子が夫・英治に対する思いというのも、「仕事をさせてくれた」「仕事を応援してくれた」あるいは、「自身の才能というものを、開花させてくれた」という意味で、とても大きいのかもしれない。
自宅に印刷所まで作ってくれるのだから、すばらしいことである。
当初は、家内制手工業、とも思い、印刷の仕事がたくさんほしいから妻に働かせたのか、ともかんぐったものだが、花子の、当時としては貴重な、英語と翻訳という才能を、だれよりも評価していたのは、夫の英治だったかもしれない。
このあたりで、「夫連」が描かれるのだが、蓮子の夫、シュギシャたる宮本龍一はすでに、姑にやっつけられ、子煩悩なふつうのオジサンになってきている。
なんとも情けない話で、蓮子が駆け落ちしたその理由、男性的な魅力というのが見えてこない。
もしかしたら、宮本龍一というのは、駆け落ち前から、マイホームパパな一面をのぞかせていて、アットホームな雰囲気が、蓮子は好きだったのかもしれない。
どちらにしても、花子も蓮子も、文才を後押ししてくれる夫に出会って、本当に幸せである。
実際には、こんな男性がいるわけない、というのは、誰もがご存知の事実である。
さて、この週「海にかかる虹」の本題は、ひとり息子・歩の件である。
小さな子どもを失う悲しみを、日本中の子どもたちのために、児童文学を翻訳したい、という大きな目標に変換していったのである。
ドラマを見ていても、「こっちがパパのダーリング」と歌まで覚えてしまった視聴者としては、本当に心が痛む思いがした。
そして、花子が、その痛みを、忘れることではなく、常にいつもそばに、歩くんがいる、歩くんに話聞かせている、という気持ちになったこと、これは、とても大切であると、私は思う。
世の中には子どもが大好きでも、子に恵まれない女性もいる。
また、我が子さえよければ、ほかの家の子どもはどうでも関心がない、という母親もいる。
そうしたなかで、ご近所の子どもにも、日本中の子どもにも、自分の文筆力と英語力で、一生懸命仕事をしていきたい、と思えた花子は、とても幸せであると思う。
何か遅咲きなところはあったが、ここからが花子の本領発揮となるのだろう。
海のシーンはとても印象的だった。
もっともっと、ダンナに甘えて、悲しみ苦しみ涙ももっと見せてもよかったのではないか、と思う。
ダンナ自身の苦しみ悲しみ、そして、父親だってつらいのに、母親だけつらいふりする妻、こうした妻をもって、それでも支えていく英治の孤独も、もっと描いてよかったのではないか、とも思う。
父親としての、英治の心意気も、言葉や態度にして、見せてほしかった週であった。
NHK「花子とアン」第19週「春の贈りもの」感想。
NHK連続テレビ小説「花子とアン」。花子の人生も、関東大震災を迎えた。
季節は春、となっている。
この春は、どういう春なのか。
関東大震災が9月1日に起こり、翌年の春、ということである。
春は復活の季節、再生の季節であり、表題の「春の贈りもの」は、関東大震災からの再生をさすものだろう。
何事であっても、半年あればすぐに復活の、村岡夫妻である。
村岡夫妻は、消失してしまった村岡印刷と、やはり銀座にあって焼失した、花子の出版社であった聡文堂、に関して、さまざまな思いがあったようである。
もちろん、再建である。
しかし、この再建の道のりは、たいへんになにか不愉快というか、またも不自然さを感じさせるものであった。
ここのご夫婦は、何につけても、「夫唱婦随」ならぬ、「婦唱夫随」なのである。
「印刷所兼出版社を作りましょうよ!」と高らかに宣言したのは、妻である花子である。
そこに、「そうしよう」と賛同したのが、夫の英治である。
この夫、これが本当に「敷かれた亭主」というのだろうか、妻のいうことを次々に実現するために、一生懸命がんばる夫君で、自ら何かを提案して、始める、というところがまったくない。
実際には、男性は、妻が提唱したことに、賛成することはないし、がんばって仕事をすることは、絶対にない。
…と私は思う。
そういう意味で、ここの村岡英治氏は、いるはずのない男性であり、ある意味、女性作家が作り出した、空想上の男性像である。
こうして、空想上の男性と、あまりにも意気盛んな妻とで、あっと言う間に新しい会社が設立される。
会社の設立資金も、妻が、女学校時代の学友、(正確に言えば、学友の夫君の財産)から、集めた資金なのである。
奥さんがいたれりつくせり、の村岡夫婦であるが、村岡英治氏の自立性はどこにあるのだろうか。
なにかふわふわした、得体のしれない優しい夫として描かれているようで、心もとない。
ともかく、こうして、亡き義弟のための(このあたりもどことなく不自然な)最初の一冊を、印刷・出版することになる。
花子が、初めて翻訳して連載した「王子と乞食」である。
現代では、「乞食」は、使ってはいけない語句となっているのだが、これがこんなに頻発されるNHKドラマもなかなかである。
こうして、関東大震災というとてもつらい状況を、花子がひとりで本を印刷して、ひとりで春を作って、みんなにばらまいた、というわけである。
季節は春、となっている。
この春は、どういう春なのか。
関東大震災が9月1日に起こり、翌年の春、ということである。
春は復活の季節、再生の季節であり、表題の「春の贈りもの」は、関東大震災からの再生をさすものだろう。
何事であっても、半年あればすぐに復活の、村岡夫妻である。
村岡夫妻は、消失してしまった村岡印刷と、やはり銀座にあって焼失した、花子の出版社であった聡文堂、に関して、さまざまな思いがあったようである。
もちろん、再建である。
しかし、この再建の道のりは、たいへんになにか不愉快というか、またも不自然さを感じさせるものであった。
ここのご夫婦は、何につけても、「夫唱婦随」ならぬ、「婦唱夫随」なのである。
「印刷所兼出版社を作りましょうよ!」と高らかに宣言したのは、妻である花子である。
そこに、「そうしよう」と賛同したのが、夫の英治である。
この夫、これが本当に「敷かれた亭主」というのだろうか、妻のいうことを次々に実現するために、一生懸命がんばる夫君で、自ら何かを提案して、始める、というところがまったくない。
実際には、男性は、妻が提唱したことに、賛成することはないし、がんばって仕事をすることは、絶対にない。
…と私は思う。
そういう意味で、ここの村岡英治氏は、いるはずのない男性であり、ある意味、女性作家が作り出した、空想上の男性像である。
こうして、空想上の男性と、あまりにも意気盛んな妻とで、あっと言う間に新しい会社が設立される。
会社の設立資金も、妻が、女学校時代の学友、(正確に言えば、学友の夫君の財産)から、集めた資金なのである。
奥さんがいたれりつくせり、の村岡夫婦であるが、村岡英治氏の自立性はどこにあるのだろうか。
なにかふわふわした、得体のしれない優しい夫として描かれているようで、心もとない。
ともかく、こうして、亡き義弟のための(このあたりもどことなく不自然な)最初の一冊を、印刷・出版することになる。
花子が、初めて翻訳して連載した「王子と乞食」である。
現代では、「乞食」は、使ってはいけない語句となっているのだが、これがこんなに頻発されるNHKドラマもなかなかである。
こうして、関東大震災というとてもつらい状況を、花子がひとりで本を印刷して、ひとりで春を作って、みんなにばらまいた、というわけである。
NHK「花子とアン」第18週「涙はいつか笑顔になる」感想。
日本中をにぎわせた「白蓮事件」のエピソードも幕を閉じて、物語は次々に進んでいく。
ここまで来ると、放送もあと2か月となり、ラストスパートに向けて、花子の人生を、着々と進めていかなければならない状況のようだ。
これまでも、NHKの朝ドラを見ていて、こうした、何か「人生早送り」の場面も慣れてきて、あら、と思ったらナレーションと字幕が出てきて「大正12年」と、数年も飛んでいたりする。
これも朝ドラの見どころである。
朝ドラは、ひとりの女性の一生または半生を描くものであるが、やはり人の人生というのは、「飛ばせる時期」と、「刻銘に描きこむべき時期」とが、あるのではないかと思う。
結婚をして、子どもが生まれて、白蓮事件があって、その次としては、関東大震災は欠かせない。
これまでも、明治から大正、昭和を描いたドラマや小説があるが、必ずその時期に、関東大震災は入ってくる。
時代背景として欠かせないものである。
これから先、平成という時代を舞台にしてドラマや小説を描くとき、あるいはひとりの人の人生を描くとき、東日本大震災は、やはり欠かせない時代背景になるのだろう。
「そのとき、ヒロインはどうしていましたか?」という問であり、「私はどうしていました」の答でもある。
また、作家の腕が問われる場面でもあるだろう。
今回の朝ドラでは、関東大震災を一週間で扱うことにしてしまった。
これは、ドラマの筋書きを進める上での、必要悪か、やりたくない宿題のように扱われるような状況でもある。
ただ、時間の関係で、簡素に描くしかなかったのかもしれない。
関東大震災では、花子の夫・英治、その弟である郁弥が、震災の犠牲になる。
花子の妹かよの、恋人でもあった、郁弥であった。
ここでは、花子が震災で受けたショックが描き切れず、ただ、「どんなつらい境遇でも、涙のあとには笑顔になる」という、テーマが強調されたように思う。
また、子育てでは、大正時代としては、「これ本当?」というくらい、育児に熱心な父親が描かれた。
平成の時代では、お母さんだけが子育てをしているようなシーンは、視聴者からお叱りを受けてしまうのだろうか。
花子・かよの姉妹の対比が、あまりにも単純で、そこに、姉妹らしい女性らしい、感情の葛藤が見えてこないところもある。
ただ、ここで花子は、とてもつらいときに、子どもたちにお話をする、という経験をする。
花子の、児童文学への道は、このあたりをきっかけに始まったようである。
花子が、白蓮のように恋愛短歌に進まず、宇田川満代のように現代小説に進まず、翻訳と児童文学に進んだ、なんらかの芽生えが、見え始める週であった。
ここまで来ると、放送もあと2か月となり、ラストスパートに向けて、花子の人生を、着々と進めていかなければならない状況のようだ。
これまでも、NHKの朝ドラを見ていて、こうした、何か「人生早送り」の場面も慣れてきて、あら、と思ったらナレーションと字幕が出てきて「大正12年」と、数年も飛んでいたりする。
これも朝ドラの見どころである。
朝ドラは、ひとりの女性の一生または半生を描くものであるが、やはり人の人生というのは、「飛ばせる時期」と、「刻銘に描きこむべき時期」とが、あるのではないかと思う。
結婚をして、子どもが生まれて、白蓮事件があって、その次としては、関東大震災は欠かせない。
これまでも、明治から大正、昭和を描いたドラマや小説があるが、必ずその時期に、関東大震災は入ってくる。
時代背景として欠かせないものである。
これから先、平成という時代を舞台にしてドラマや小説を描くとき、あるいはひとりの人の人生を描くとき、東日本大震災は、やはり欠かせない時代背景になるのだろう。
「そのとき、ヒロインはどうしていましたか?」という問であり、「私はどうしていました」の答でもある。
また、作家の腕が問われる場面でもあるだろう。
今回の朝ドラでは、関東大震災を一週間で扱うことにしてしまった。
これは、ドラマの筋書きを進める上での、必要悪か、やりたくない宿題のように扱われるような状況でもある。
ただ、時間の関係で、簡素に描くしかなかったのかもしれない。
関東大震災では、花子の夫・英治、その弟である郁弥が、震災の犠牲になる。
花子の妹かよの、恋人でもあった、郁弥であった。
ここでは、花子が震災で受けたショックが描き切れず、ただ、「どんなつらい境遇でも、涙のあとには笑顔になる」という、テーマが強調されたように思う。
また、子育てでは、大正時代としては、「これ本当?」というくらい、育児に熱心な父親が描かれた。
平成の時代では、お母さんだけが子育てをしているようなシーンは、視聴者からお叱りを受けてしまうのだろうか。
花子・かよの姉妹の対比が、あまりにも単純で、そこに、姉妹らしい女性らしい、感情の葛藤が見えてこないところもある。
ただ、ここで花子は、とてもつらいときに、子どもたちにお話をする、という経験をする。
花子の、児童文学への道は、このあたりをきっかけに始まったようである。
花子が、白蓮のように恋愛短歌に進まず、宇田川満代のように現代小説に進まず、翻訳と児童文学に進んだ、なんらかの芽生えが、見え始める週であった。
NHK「花子とアン」第17週「腹心の友ふたたび」感想。
NHKの朝の連続テレビ小説「花子とアン」も、真夏の放送となった。
半年間の物語は、この季節にクライマックスを迎える。
すなわち、子どもたちの一学期が終わり、夏休みにはいるころ、梅雨が終わり、真夏の日差しが照りつけるころである。
先の週で、話題の「白蓮事件」を精一杯描き切ったNHKスタッフは、ようやく続きをつなげているかのように、ほどけたピースをひとつひとつ合わせていくように、「腹心の友ふたたび」の週を乗り切った。
白蓮事件は、蓮子さんの出奔だけで、とても大きな話題となるものであるが、「花子とアン」のテーマは、女性の友情だそうである。
だから、白蓮を心の底から、心身共に助けた仲間、友達の在り方が、とても重要になってくる。
このあたりで、「花子とアン」は、ダブルヒロインの物語だったのか、とも話題になった。
もしかすると、本当のヒロインの花子がかすんでしまうくらいの、大胆な蓮子の恋情であった。
蓮子はすぐにおなかに子どもができる。
でも、追われる身でもある。
そうしたときに、助けたのが、「腹心の友」である、花子である。
花子はまず自宅にかくまった。
この自宅は、すでに結婚して子どもも生まれていた、村岡英治との新居である。
その後、花子の実家である、甲府の家にも、蓮子を連れて行ってかくまっている。
蓮子の新しい夫となった宮本龍一は、社会主義者としても、白蓮事件としても追われる身であるから、ここで、「身柄」という点で、応援するのは、本当に「困った時の友こそ真の友」といえる状況だろう。
しかし、ここで、いま一度よくよく考えてみなければならないのは、本物の友情とはなにか、という意義である。
友達のためなら、一切合財すべてを肯定して、味方になってあげるのが、友情なのだろうか。
「あなた、それは本当はまちがっているんじゃないの?」と、筋を教えてあげるのも、友情の大切な核心ではないだろうか。
「かわいそう」これは同情であって、友情ではない。
このときの花子の行動が、はたして本当に「友情」と呼べるものだったのかどうかは、賛否両論ではないだろうか。
蓮子の結婚は、駆け落ち、という社会的には短絡的なものであった。
恋愛と結婚、男性と女性の仲は、ただただ、一緒になればいい、というものなのだろうか。
また、このいきさつの物語の作り方がいかにも不自然になり、実家のご両親も、実家のご近隣も、誰も蓮子さんを客観的に見る人がいなくなり、誰もが応援隊になっている。
不自然さのきわまった、「腹心の友たち」であった。
半年間の物語は、この季節にクライマックスを迎える。
すなわち、子どもたちの一学期が終わり、夏休みにはいるころ、梅雨が終わり、真夏の日差しが照りつけるころである。
先の週で、話題の「白蓮事件」を精一杯描き切ったNHKスタッフは、ようやく続きをつなげているかのように、ほどけたピースをひとつひとつ合わせていくように、「腹心の友ふたたび」の週を乗り切った。
白蓮事件は、蓮子さんの出奔だけで、とても大きな話題となるものであるが、「花子とアン」のテーマは、女性の友情だそうである。
だから、白蓮を心の底から、心身共に助けた仲間、友達の在り方が、とても重要になってくる。
このあたりで、「花子とアン」は、ダブルヒロインの物語だったのか、とも話題になった。
もしかすると、本当のヒロインの花子がかすんでしまうくらいの、大胆な蓮子の恋情であった。
蓮子はすぐにおなかに子どもができる。
でも、追われる身でもある。
そうしたときに、助けたのが、「腹心の友」である、花子である。
花子はまず自宅にかくまった。
この自宅は、すでに結婚して子どもも生まれていた、村岡英治との新居である。
その後、花子の実家である、甲府の家にも、蓮子を連れて行ってかくまっている。
蓮子の新しい夫となった宮本龍一は、社会主義者としても、白蓮事件としても追われる身であるから、ここで、「身柄」という点で、応援するのは、本当に「困った時の友こそ真の友」といえる状況だろう。
しかし、ここで、いま一度よくよく考えてみなければならないのは、本物の友情とはなにか、という意義である。
友達のためなら、一切合財すべてを肯定して、味方になってあげるのが、友情なのだろうか。
「あなた、それは本当はまちがっているんじゃないの?」と、筋を教えてあげるのも、友情の大切な核心ではないだろうか。
「かわいそう」これは同情であって、友情ではない。
このときの花子の行動が、はたして本当に「友情」と呼べるものだったのかどうかは、賛否両論ではないだろうか。
蓮子の結婚は、駆け落ち、という社会的には短絡的なものであった。
恋愛と結婚、男性と女性の仲は、ただただ、一緒になればいい、というものなのだろうか。
また、このいきさつの物語の作り方がいかにも不自然になり、実家のご両親も、実家のご近隣も、誰も蓮子さんを客観的に見る人がいなくなり、誰もが応援隊になっている。
不自然さのきわまった、「腹心の友たち」であった。
2014年7月25日金曜日
NHK「花子とアン」第16週「あなたがいる限り」感想。
2014年を代表する傑作となりつつある、NHK朝のテレビ小説「花子とアン」。
大みそかの紅白歌合戦の出し物も気になってきた。
先週第15週「最高のクリスマス」に続いて、第16週は「あなたがいる限り」である。
「最高のクリスマス」では、土曜日に、朝ドラ最大のポイント「プロポーズ」が敢行された。
そして、日曜日をはさんで、月曜日には、甲府のご両親へ、花子と英治の、ご挨拶、火曜日に結婚式、水曜日におめでた、木曜日にご出産、と本当に大忙しの花子さんであった。
大変にお祝いもうしあげたい。本当におめでたい。
考えてみれば、クリスマス関連でのプロポーズは、朝ドラの注目としては、今回は誠に質素倹約であった。
夫となる村岡英治が、花子の、妹と同居している女性ふたりの下宿先に上がりこんで、テーブルをはさんで、畳の上で、正座して行うものである。
考えてみれば、プロポーズと言えば、あの歴史的な、「ちゅらさん」の、南の島の、「あの樹の下で」の、ロマンチックかつ誓いのたった、プロポーズがあった。
しかし、花子の場合は、自宅居間である。
さすがに不倫のプロポーズは、簡単に行うものである。
しかしまた、このときの英治のセリフにも、驚愕させられる。
「自分の本当の心と向き合うことにした」というのである。
ということは、これまでは、本当ではなくて、嘘の心を態度にしていたわけだ。
もしも英治が、このとき、自分の本当の心に向き合ったら、どれだけたくさんの「本当」が出てきたのだろう。
それでも、これまでの「逃げ」の姿勢を改めて、前向きになったのは、とてもよいことである。
中園ミホさんの脚本から学ぶところはとても多いのだが、ここでは、実際には恋愛もし、お子さんも出産された中園さんは、ご結婚だけはされていないのだが、もしも中園さんにとって、「こうあったら結婚にいたった」というワンポイントレッスンがあるとすれば、「男性が反省すればいい」ということになる。
また、その後の、月火水の流れを観ても、不倫シングルマザーにとっては、男性の反省に基づくプロポーズさえあれば、すべて片が付く、という素晴らしく単純明快な図式を見せてもらうことができた。
つまり、中園さんには、恋人からのプロポーズの言葉がなかった、ということなんだろう、と思う。
実際の結婚では、プロポーズから、お付き合い、両親へのご挨拶、結婚式の準備、これらのさまざまな行動が、ふたりがふたりで行う初めての共同作業となり、家庭を持つための、たくさんの社会的プロセスが踏まれるわけである。
そのあたりが、ドラマとしてとても描きごたえがあるエピソード満載なのに、すっとばした中園さんは、やはり自分の体験だけに基づいてこの脚本を書いているので、「体験がないことは手を抜きました」ということだろう。
お付き合いから結婚式まで、そして結婚してから子どもを授かるまで、このとても短い期間が、夫婦が夫婦として成立していくための、大切な二人の絆プロセスである。
言い合いもあり、葛藤もあり、ときには「別れようかな」「やっぱりだめかも」と迷ったりする。
ほんのささいな、生活上の習慣で、ぶつかって成長して、他人様と一緒の「暮らし」を営んでいくことも、平凡な主婦の誰もが通る、大切な過程である。
エンゲージブルー、マリッジブルーというのも実は、「娘」が「妻」になるための、そして、「妻」が「母」になるための、大切な期間である。
蝶に例えれば、変態、というほど、幼虫からさなぎ、蝶々にいたるまでの、劇的な変遷プロセスなのである。
そのあたりを綿密に、回を重ねて描くと、視聴者にとっても、経過が見て取れる、ぱっとみただけで夫婦と見える、素晴らしい映像が見られるはずなのだが、それがなかったのが残念だ。
花子夫婦に、生活感や夫婦らしさを見出すことができず、先週からの続きで、香澄さんを裏切って訪問した浮気亭主が、愛人と一軒家で密会しているようにしか見えない。
なんとも残念である。
そして、この週は、白蓮事件が取り上げられる。
誰もが「神回」と絶賛して振り切れた、三輪明宏さんの絶唱であった。
これから、つじつまが合わない場面が生じた際には、「愛の賛歌」を大合唱することにした。
大みそかの紅白歌合戦の出し物も気になってきた。
先週第15週「最高のクリスマス」に続いて、第16週は「あなたがいる限り」である。
「最高のクリスマス」では、土曜日に、朝ドラ最大のポイント「プロポーズ」が敢行された。
そして、日曜日をはさんで、月曜日には、甲府のご両親へ、花子と英治の、ご挨拶、火曜日に結婚式、水曜日におめでた、木曜日にご出産、と本当に大忙しの花子さんであった。
大変にお祝いもうしあげたい。本当におめでたい。
考えてみれば、クリスマス関連でのプロポーズは、朝ドラの注目としては、今回は誠に質素倹約であった。
夫となる村岡英治が、花子の、妹と同居している女性ふたりの下宿先に上がりこんで、テーブルをはさんで、畳の上で、正座して行うものである。
考えてみれば、プロポーズと言えば、あの歴史的な、「ちゅらさん」の、南の島の、「あの樹の下で」の、ロマンチックかつ誓いのたった、プロポーズがあった。
しかし、花子の場合は、自宅居間である。
さすがに不倫のプロポーズは、簡単に行うものである。
しかしまた、このときの英治のセリフにも、驚愕させられる。
「自分の本当の心と向き合うことにした」というのである。
ということは、これまでは、本当ではなくて、嘘の心を態度にしていたわけだ。
もしも英治が、このとき、自分の本当の心に向き合ったら、どれだけたくさんの「本当」が出てきたのだろう。
それでも、これまでの「逃げ」の姿勢を改めて、前向きになったのは、とてもよいことである。
中園ミホさんの脚本から学ぶところはとても多いのだが、ここでは、実際には恋愛もし、お子さんも出産された中園さんは、ご結婚だけはされていないのだが、もしも中園さんにとって、「こうあったら結婚にいたった」というワンポイントレッスンがあるとすれば、「男性が反省すればいい」ということになる。
また、その後の、月火水の流れを観ても、不倫シングルマザーにとっては、男性の反省に基づくプロポーズさえあれば、すべて片が付く、という素晴らしく単純明快な図式を見せてもらうことができた。
つまり、中園さんには、恋人からのプロポーズの言葉がなかった、ということなんだろう、と思う。
実際の結婚では、プロポーズから、お付き合い、両親へのご挨拶、結婚式の準備、これらのさまざまな行動が、ふたりがふたりで行う初めての共同作業となり、家庭を持つための、たくさんの社会的プロセスが踏まれるわけである。
そのあたりが、ドラマとしてとても描きごたえがあるエピソード満載なのに、すっとばした中園さんは、やはり自分の体験だけに基づいてこの脚本を書いているので、「体験がないことは手を抜きました」ということだろう。
お付き合いから結婚式まで、そして結婚してから子どもを授かるまで、このとても短い期間が、夫婦が夫婦として成立していくための、大切な二人の絆プロセスである。
言い合いもあり、葛藤もあり、ときには「別れようかな」「やっぱりだめかも」と迷ったりする。
ほんのささいな、生活上の習慣で、ぶつかって成長して、他人様と一緒の「暮らし」を営んでいくことも、平凡な主婦の誰もが通る、大切な過程である。
エンゲージブルー、マリッジブルーというのも実は、「娘」が「妻」になるための、そして、「妻」が「母」になるための、大切な期間である。
蝶に例えれば、変態、というほど、幼虫からさなぎ、蝶々にいたるまでの、劇的な変遷プロセスなのである。
そのあたりを綿密に、回を重ねて描くと、視聴者にとっても、経過が見て取れる、ぱっとみただけで夫婦と見える、素晴らしい映像が見られるはずなのだが、それがなかったのが残念だ。
花子夫婦に、生活感や夫婦らしさを見出すことができず、先週からの続きで、香澄さんを裏切って訪問した浮気亭主が、愛人と一軒家で密会しているようにしか見えない。
なんとも残念である。
そして、この週は、白蓮事件が取り上げられる。
誰もが「神回」と絶賛して振り切れた、三輪明宏さんの絶唱であった。
これから、つじつまが合わない場面が生じた際には、「愛の賛歌」を大合唱することにした。
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