2018年12月31日月曜日

Sweet memories



少子化について・その3・婚活について。 2011年5月31日


少子化について・その3・婚活について。



子どもを産む前に、まず結婚である。婚活について考えたい。



女性の人生は、少女から大人になり、

仕事をし社会人となり、

次に結婚があり、妊娠があり、出産がある。



真面目に人生を考えている女性なら、

「まず結婚。

次に妊娠。

そして出産、育児」

という順番をはずすことはない。



なので、人生を次に進めようとすると、

「まず結婚」となる。



そして、ブームの「人生ゲーム」を一駒進めようとするように、

「結婚」にがんばりを入れる。



結婚だけは、「がんばり」でも「努力」でもないことを、

進言したい。



努力の結果、できるだけの高みを目指してきたのが、

ここまでの道だった。



できるだけいい男性と、いい結婚をしたい。

それで、あまりにも短絡的であるが、

男性のプロフィールを、書きださせて、

並ばせて、順番をつけてしまった。



「それならば、女性もスリーサイズを公開して、

順位付けしてもらったらどうか?」



収入や職業は、男性の男性たる価値を決定づける、

重要な視点である。

しかし、それをランク付けして、「異性」を選ぶのは、

女性が顔を見せてスリーサイズを明記して、

浜辺に並ぶのと同じことである。

これが人権侵害であることに気がつかなければならない。



男性の価値は、「今現在の」状況ではない。

人間の価値は、「今現在の」状況ではない。



結婚は、ふたりで歩み、互いに助け合って支え合って、

向上するものである。

妻の働きと支援で、夫は良くもなるし逆にもなる。

男性のがわも、女性に対して、

「一生の支援」を望んでいることを忘れてはならない。



また、女性がそうであるように、

男性も、結婚や、生涯の伴侶に対して、

愛も、夢も、ロマンも、運命も、燃える情熱も、

望んでいることを忘れてはいけない。



一生の覚悟を決める「プロポーズ」は、

男性にとって、重要な人生上の儀式である。

この権利を、女性の側が奪ってはいないだろうか。



「この人と付き合いたい」と告白する、ラブレター、交際の申し込み。

このときに振り絞る勇気こそが、「恋情」というものである。

女性たちは、男性からこの「恋情」につながる勇気を奪ってはいないか。



告白のとき、プロポーズのときの、勇気と決断と覚悟こそが、

男の「恋情」というものである。

恋情のない結婚は、エンジンのない車のようなものである。



特記すべきは、

男性にとって、女性からの「告白」「プロポーズ」は、

すなわち「私と夜明けのコーヒーを飲みましょう」と言われたのとイコールである。

そんな、迷惑メールの文面のようなことを、してはいけない。

だから、生涯の妻とはみなされないのだ。

はしたない女なのである。



最高の結婚に、アクセルを踏み込むためにも、

くれぐれも婚活だけは、やめようと、男性の心からの叫びである。


少子化問題について・その2・不妊治療について。  2011年5月30日


少子化問題について・その2・不妊治療について。



少子化問題の重要な一部として、不妊治療がある。これを考える。



少子化が叫ばれ、政府も母親支援、子どもに対する支援を始めている。

しかし依然として、子宝を望んでいるのに、授からない夫婦がいる。



これについて、率直な考えをのべたい。



ひとつは、世論である。

女性雑誌が特集を組むほど、

不妊に対する関心が高い。



そして、最新の医療技術が注目され、

その技術を施してくれる病院が紹介される。

遠く足を運んで、その病院に通う夫婦もいる。



私は、子宝を授かる方法を、ある女性からアドバイスされているので、

ここでそれを書きとどめたいと思う。

なぜなら、それは、「病院へ行って、不妊治療をしてはいけない」

「病院で施される不妊治療は逆効果である」という重要なことがらを、

言っているからである。



不妊専門外来で行うことのすべては、

夫婦の間でだけ知りえている情報である。

妻の体調や周期は、夫だけが知っている、夫婦間の大切な秘密である。

これを、医師だとはいえ、ほかの人に知らせるのはいけない。

夫の、「セクシャリティ」「自尊心」を傷つける。

男性は、自尊心を傷つけられると、男性としての行為を起こせなくなる。



妻が、不妊治療専門外来に通っていることを、

誰かに知られると、

夫は、自分の男性としての能力が否定された、あるいは落第点をつけられた、

と痛感する。

妻はこれをしてはいけない。



妻が、子どもをほしがる。

これは結婚して夫婦になっている間柄であれば普通のことのように思うだろう。

しかし、妻はこれを決して口に出してはいけない。

子どもを作るためのいわば「種馬」と見なされた夫は、

人間としての自尊心を傷つけられる。



ときに、妻と、妻の母親と、あるいは夫の母親まで口を出して、

「子どもがほしい」

「孫がほしい」

「はやく生産するように」と言う。



あるいは、子宝が授かるために良いと言われる健康食品を、

妻や、夫の母親が購入してきたりする。



これらのすべてが、男性の自尊心を傷つける。

男性にとっては、自尊心がすべてである。

こういったことをすると、

夫婦間に子宝が授からないばかりか、

最終的には夫婦仲を破壊して、

夫の仕事の成績の低下にまで影響する。



不妊治療外来ですることは、

夫の能力のテストもある。

「この日」と指定されることもある。

夫婦の日程のすべてをカルテに書きこまれる。



これらのことは、一種の人権侵害である。



女性は、「赤ちゃんがほしい」という強い気持ちを持っている。

それを行動に移すことにためらいがない。

また、問題がかわいい「赤ちゃん」なので、

なにをどんなふうにほしがっても、許されるかのように思っている。



男性に対して、「思いやり」「人権保護」「自尊心の保護」をしようではないか。



世論もいけない。

メディアも、不妊治療に協力するのがよい夫であるかのように書いている。

協力するのが当たり前のように、論調を強めている。

そして、協力しない夫を責め立てたり、

あるいは、妻はそれらの世論を読んで、

「なぜうちの夫は協力してくれないのだろう」と悩んだりする。



男性陣は、専門外来における不妊治療の「不効果」のほどを、

全員が知っている。

あとは、それを、女性が知るだけである。


少子化問題について。その1 2011年5月30日


少子化問題について。



少子高齢化社会が進んでいる。特に子どもが少ない。

これについて考えてみたい。





少子化問題について語る人たちが、

「子どもが少ない」という点について、頭を悩ませている理由は、

「跡継ぎがいない」という問題である。



あるいは、「国力が減退する」という理由である。



あるいは、税金や年金の財源となる若者(働ける年齢の人たち)が、

将来的に減ってしまう、という理由である。



少子化問題対策として、

特にあまりにもストレートな例は、

町村でお見合いパーティを開いたり、

都市部からの若者(若者だけ)を村に招いたりする作戦である。



もっとストレートに言えば、

若い女性に、まず結婚をしてください、

そして、産んでください!

というお願いコールのような気がする。



私自身は、女性として、「子どもを産む」ということを考えるとき、

さかんに少子化に危惧を唱える人たちに対して、

冷やかな笑みを送りたくなってしまう。



「子ども」はなんのためにいるのだろう。

国のための子どもなんだろうか。

のれんを継ぐための子どもなんだろうか。

有名大学を存続させるための子ども。

情のこもった村を存続させるための子ども。



戦時中の「産めよ。増やせよ」を思い出す。

「国のための子ども」なんか絶対に産まない。



ひとりの女性として、

この世にたったひとりの愛する男性とめぐりあい、

家庭を築き、

愛情で包んだ子どもを産み、育てたい。

幸せな子どもを育てたい。



ひとりの女性として、

「国家の存続のために、子どもを産もう!」と思う女性は、

どこにもいないと思う。



人口が減ったとしても、

子どもたちやその国に暮らす人たちが、

幸せで健康であれば、それでいい。



少子化になった原因はいろいろあると思うけれど、

まず、この「問題視」の理由、

「なんのための子どもなのか」という点を明確にしたい。



女性が、母親として、自分が産んだ子どもが、幸せに暮らせる、と察した時に、

自然に子どもたちが授かってくるように思う。



現代の世の中は、女性ひとりが生きていくにも、辛すぎる。厳しすぎる。

まず、女性ひとりひとりが、「この世に生まれてきてよかった」と感じること、

安心して暮らせること、それが大事だと思える。



おりしも今、女性たちは、特に「食品の安全」「環境問題」に興味を寄せている。

「自分の」子どもを育てるために、まず環境を整える準備をしているように思える。






子宝さずかりコウノトリ♪  2011年5月30日


子宝さずかりコウノトリ♪



昔、女たちは、

子宝を求めて、

夜ごと、地蔵尊に通った。



神さまに願いをかけて、

お掃除をした。



昔、女たちは、

赤ちゃんがほしくて、

御祈祷をお願いした。



赤い蝋燭を灯して、

そこに赤いリボンを結んだ。



昔、男たちは、

金銀を求めて、

冒険の船に飛び乗った。



神さまに願いをかけて、

夜空を見上げた。



冒険と闘争の中に、

安らぎの女神を見出した。



女たちよ、

赤子がほしいなら、

それを絶対に口にしてはならない。



なぜなら、男たちは、

「種馬」扱いされたとたんに、

愛もロマンも失くしてしまうから。



子どもなんかほしくない、

まだまだ母親にはなりたくない、

少女のままでいなさいな。



なぜなら、男たちは、

少女を母親にするために、

挑戦と冒険をしたいのだから。



女たちよ、

男に恋愛を授けたまえ。

情熱に身を焦がすような、

激しい恋心を抱かせたまえ。



なぜそんなに簡単に「落ちて」しまうのかね?

なぜそんなに平気で、

恋を口にするのかね。



女たちよ、口をつぐみたまえ。

恋を知らない少女のように振る舞っていなさい。



そうすると、あなたの前で、

悪い男になりたい彼らが、

あなたを口説き落とすために、

冒険の旅に出るから。



昔、女たちは、

子宝を授かるために、

夜ごと、地蔵尊に通った。



今、女たちは、

子宝を授かるために、

白い建物に通って、

すべてをあけすけに語る。

夫だけしか知らないはずの秘密を、

大々的に語って帰ってくる。



女たちよ。

男にロマンを与えたまえ。

ミステリアスでいてくれたまえ。



男に、プロポーズの言葉を考えさせる、

いとまを与えてくれたまえ。

女たちはなぜそんなに急いで、

男から、奪い取るのだ、人生最高の、

決め台詞を。



女たちよ、どうか、

男たちに与えてくれたまえ、

プレゼントを選ぶ悩みを。

彼女を驚かせるために、

悩み苦しむ夜を与えたまえ。



ああ、女たちよ、

夜も昼もなく闘争する男たちを、

一瞬でも立ち止まらせないでほしい。



女たちよ、

子宝がほしいなら、

決して口にしてはいけない。



恋人にそれを告げてはいけない。

己がどんなに素晴らしい母親になるか、

誇示しても顕示してもいけない。



御祈祷はひとりだけの秘密にしておきなさい。

白い建物は、男の挑戦心を打ち砕く。




2018年12月30日日曜日

LGBTについて、思うこと。


LGBTについて、思うこと。



明日は大みそか。

2018年も暮れようとしている。

楽しみなのは、NHKの紅白歌合戦である。

誰もが知っていることであるが、紅白歌合戦は、男女の歌手が、それぞれ、紅組と白組に分かれて、歌の対戦をする。

紅組が女性、白組が男性、というわけである。



最近では、LGBTという課題が巷をにぎわせている。

紅組と白組のほかに、「桃組」を作る案もあるという。

本当だろうか…?



LGBTは、レズLesbian、ゲイGay、バイセクシャルBisexual、トランスジェンダーTransgenderの、それぞれの頭文字をとったもので、性的少数者を表す言葉である。

世界的に、LGBTの人権保障が、課題となってきた。

時代がとても速く変化しているように感じる。



私の個人的な見解というか、感想をここに書き記してみようと思う。

私は、生物を専門に勉強したので、やはり思うのは、「生物学的にどうなのか?」ということである。

生物学的には、DNAの観点から、やはり、ホモサピエンスには、男性と女性しか存在しない。

男女の中間ということは、事実としてあり得ない。



では、性同一性障害はどうか。

これは、医療関係者から聞いた話であるが、性同一性障害の治療では、社会運動を積極的に行うように指導するそうである。



社会の中で、社会規範の中で、というべきか、たくさんの人の集まる社会と世論のなかで、性同一性障害の「自分たち」を認めてもらうために、社会運動をする。

その経過でぶつかる、社会秩序という壁、好奇の目、「嫌われる」という体験から、性同一性障害の病気が、「やはり普通の人とはちがう」と認識し、治療に向かって、体と心の同一化をはかっていくのが、大切な治療法だそうである。



現状では、性同一性障害の人たちの声が高まって、社会規範という枠のほうが、揺らいできてしまっている状況かもしれない。

でも、社会規範や社会秩序は、心の病気を治すための、大切な環境であり、頑丈に立っているべきものなのである。



同性愛、という心の状況は、小さな子どもが、大人へと成長する過程において、大切な一時期に体験するものである。

心が成長するにしたがって、自分と同質のもの、つまり同性への思慕が、次第に、自分とは異質な、異性への理解へと、成長していく。



人間は、人種であっても、性別であっても、病気や障害であっても、「自分とは異なるものを受け入れていく」という、成熟した心の状態が、求められている。

いつか大人になって、異性を理解し、受け入れていくことが、ホモサピエンスとして、目指すべき目標であると思う。



次に、差別であるが、私は、人種であっても、性別であっても、障害であっても、いろいろな差別は、人間からは、なくならないし、なくしてはいけないと思っている。



「なくしてはいけない」というと語弊があるかもしれないが、私は、人が人に対して感じる「違和感」という感性を、大切にするべきだ、と思っている。



たとえば、私は、腕時計を右手にはめる癖があったのだが、大人になってから、ある友人から、やめるように言われた。

仕事や交渉の場で、初めて会う人に対して、「なんで左手にしないで、右手にしているのだろう?」と警戒心を抱かせ、誤解を招く怖れがあるからだという。

理由を聞いて私は、腕時計を、みんなと同じように、左手にはめるようにした。

こうしたことは、人間対人間のコミュニケーションにおいて、必要なことだと思った。





また、別の例では、たとえば、とても空いている電車の車内で、なぜか隣に近づいて座ってくる、コートの破れた男性がいたとする。

この男性は、ただ、座る場所を選んだのかもしれないが、空いている車内で、近づいてくるのは、どこか変である。

「なんか変だな」「どこか変だな」という違和感が、痴漢やスリを防ぐと思う。





人間は、動物的で本能的な「勘」を持っている。

肌の色がちがう、歩く速さがちがう、話す言葉がちがう、着ている衣服の状態が「なんか変」「違和感がある」

こうした、人間の持つ「違和感」は、その人を、危険から遠ざけてくれる。

危機を回避するために必要な感性が、「違和感」である。



レズやゲイ、バイセクシャルといった、「みんなとちがう人」に対して、「なんか変」「違和感がある」というのは、人として大事な感性であり、LGBTに対して違和感を持つのは、人としての権利である、とも言えると、私は思う。



これから、立憲民主党やリベラルの人たち、インターネット上で討論を交わす人たちが、LGBTに対して、たくさんの意見を交換していくだろう。



そうして、多様性を目指しながら、違和感と社会秩序も大切にして、これからの新しい時代の世論を、作っていきたいものだ、と私は思う。



私の意見の大切なところは、LGBTの人たちに、生きている権利がないとまで言っているのではなく、それを「ちがう」と思う権利や論理もある、ということを、知ってほしいと思う、そういうことである。




登校拒否問題について。 2011年5月29日


登校拒否問題について。



増え続けているという登校拒否問題について、考えたい。



友人との語らいをしていて、

私自身は「登校拒否はね、学校に行きたくないなら、行かなくていいじゃない」

と言う、友人は驚いてしまう。



私自身、学校が苦手だった。

卒業してから友達に聞くと、「学校大好きだった」派もいれば、

「学校嫌い」派だった人もいる。



私は、学校に行きたくないなら、行かなくていいと思う。

義務教育で学ぶレベルの学習を、自宅なり、ほかの教育機関なりで、

身につけることができれば、

それでいいと思う。



実際に、子ども時代にとても内気で、パソコンにばかり向かっていた子が、

大人になって、ITの技術者として優秀な仕事を成し遂げたりもする。



子どもの性格もある。

社会の仕事の仕組みも変わってきている。

なにも無理して学校に行かなくても、大人になったときに立派で幸せであればいいと思う。



…以上が、わが子が登校拒否で悩むという母親に向かって、

さしのべたい言葉である。



わが子の登校拒否は、母親として、「育児能力の成績評価」のようにつらい。

母親業の否定と落第である。

登校拒否問題の解決のキーワードとして、

母親のこういった心理と敗北感(そして、勝利に向かう執念)を、

みなで考えに入れたいと思う。



生徒がなぜ、学校に行きたくないのか、

学校生活のどこに「行きたくない」と思わせる原因があるのか、

これを、生徒自身に語らせることは、むずかしいと思われる。

いまだ幼くて、自分で自分が何を感じているかもよくわからない、

ましてそれを上手に言葉で説明することもできない年齢だろう。



私自身が学校嫌い派だったので、大人になった今、

学校生活の何がいやだったか、言葉にすることができる。



ひとつは、身体が丈夫ではなかったので、体育の時間が苦手だった。

息が苦しくなったり、友達に押されてけがをしたりした。

体育のある日は、学校に行きたくない、と朝思った。



給食も苦手だった。

もともと少食だったのだが、

「食べ物を残してはいけません」という担任の指導のもと、

全部食べ終わるまで、昼休みもなかった。



成績は良かったが、内気な性格で、

学級長にされたときには、もう本当に、学校が嫌いで嫌いでしかたなかった。



掃除当番のとき、さぼる人はいつもさぼる。

真面目なメンバーだけがいつも掃除をしていた。

教師は掃除の時間に教室に現れることがなかった。

不公平な思いを抱いていた。



大人になってから、「掃除当番なんて、やったことなかったぜ!」

と公言する男性友人に出会い、

ひとしきり、小学校の時代の話をして、心が癒えた。



登校拒否問題を解決する、つまり、生徒たち全員に、学校に来てもらうには、

目的観が必要だと思う。

学校に行きたくない朝には、必ずこう思った。

「どうして学校になんか行かなければならないのだろう?」



勉強だけなら、自宅でも、塾でもできる。

義務教育の学校でしか学べないものは、集団生活、社会生活ではないかと思う。

それを、学校に通う目的と定めたい。

そして、学校では、集団生活を上手に行う方法を、教えるのである。

社会生活の在り方を、教えるのである。



具体的には、マナー、コミュニケーション、挨拶、冠婚葬祭などの文化的儀式、

選挙(クラス委員の選挙など)、税制(給食費の集金など)、

団結して行う作業(運動会、リレー、学校祭)

こういったところへ、どう参加していくか、どうすれば、社会生活を円滑に行えるか、

ひとつひとつ教えていくことだろう。



そのために、学校がある。

学校教育カリキュラムにぜひ加えたい。



☆追記☆



登校拒否の子どものなかには、身体的、精神的な不調を持った子どももいる、

という可能性を考えて対応をしたい。



登校再開するときに、学習レベルが遅れないように、

(授業についていける程度まで学習レベルが回復しているように)

心がけたい。


サブリーダー論・その3。 2011年5月23日


サブリーダー論・その3。



女性が男性にしてほしいことは、たくさんある。

子育てを手伝ってほしいときもあるし、

保険に入るときに相談に乗ってほしいときもある。

一般的に人は、自分が悩んでいることに関して相談にのってほしいし、

手伝ってほしいとも思う。



夫婦の間に子どもが生まれたときに、

女性は母親となり、子どもに食事や生活の補助を与えたりする。

そのとき、母親は、「子育て」に関わっているから、

「子育て」の悩みがある。

「子育て」が忙しい。

だから、男性に、「子育て」に関して、

相談にのってほしい、手伝ってほしいと思う。



一方で、男性(夫)は、

子どもを育てるために、資金が必要だと考える。

妻と子どもを養い育てるために、

外へ出て働いて、資金を得てくる。

得た資金で、妻の食事はもちろん、子どもの食事、

子どもの衣服、住居、教育、生活全般をまかなっていく。



子どもひとりを育てるのに、

「家にいて直接子どもを抱きかかえる」役目と、

「外に出て、育児資金を得てくる」役目がきちんと存在する。



私の母は、「お父さんに感謝しなさい」と言った。

「お父さんのおかげで、きょうの御飯も食べられる。

学校にも行ける」



本当に驚いてしまうことだけれど、

「お父さんが外に出て稼いでくる」という認識を持っている母親が、

ものすごく少ない。

そして、「育児の相談にのってくれない」

「育児を手伝ってくれない」と文句を言っている。



私の家では、父親がリーダーで、母親がサブリーダーである。

リーダーはリーダーの仕事を果たし、

サブリーダーはサブリーダーの仕事を果たす。

役割分担というのが、確かに存在しているのだ。

ふたりが、それぞれに責任を持って仕事をやりとげるから、

「家庭」というチームが成功する。



「役割分担」という、大きな価値を、思う。


サブリーダー論・その2.「優しさ」 2011年5月22日


サブリーダー論・その2.「優しさ」



男性に向かって「優しい人ね」というのは、

決してほめ言葉ではない。



けれども、女性は、「優しいね」を連発してしまう。

女性にしてみると、「優しい男性」は「男らしい男性」で、

最高の賛辞なのだ。



男性にしてみると、頭がいいとか、背が高い、仕事ができる、

体力がある、力強い、ということが、ほめ言葉になる。

「優しさ」は「ひ弱さ」に通じるところがあるらしい。



少女たちも、理想の男性像のなかに、

「優しさ」を思い描く。

あるいは、母親たちも、自分の息子が、

「思いやりのある心の優しい男の子に育ってほしい」

と願う。



女性たちの求める「優しさ」とは、「思いやり」と「配慮」だと思う。

熱があるときに「休んだほうがいいよ」と言ってくれること。

仕事をしたあとに、飲み物を持ってきてくれること。



…実はこれらは、女性が女性同士でしていることなのである。

女性は、男性に対して「優しさ」を求めるときに、

「女性的な配慮」を求めているのである。



男性には男性の特質があり、

雨の中、ずぶ濡れになって、サッカーボールを追いかけて走る。

ゴールに向かって、争いあい、ぶつかり合いながら、

ひとつの目標を追い求めて身体ごと突進する。



男性が「ほめてほしい」と思うのは、

女性的な「優しさ」ではなく、

サッカーボールを追い求める「強さ」「たくましさ」なのではないか。



女性が、男性に、「女性的な配慮」を求めて得られずに、地団駄を踏むのは、

もしかすると、ないものねだりかもしれない。



ただ女性は、自分自身が、思いやりと配慮のある態度で、

サブリーダーとしての役割をまっとうすればいいだけなのかもしれない。

サブリーダー論。 その1 2011年5月21日


サブリーダー論。



「リーダー論」なるものは、たくさんの本が出されている。

私は、ここで、「サブリーダー論」を語ってみたいと思う。



「サブリーダー論」を考え始めたきっかけは、

「女性の生き方について」

「女性と男性の協力体制の在り方について」を真剣に考えたときである。



とても身近なところでは、うちの父と母の、チームワークから学んだと言える。



「男性がリーダーで、女性がサブリーダー」という決定方法には、

さまざまな論議があるだろう。

とりあえず、我が家の両親は、父親がリーダー、母親がサブリーダー、

家族はひとつのチームだった。



たとえば、朝起きたら、どしゃぶりの雨。

絵の具セットとピアニカを携えた小学生の娘は、

レインコートをきて歩いて学校へ行くべきか、

それとも父親が車で送っていくのか。



母親は、娘の足が濡れるのを心配して、「お父さんに車で送ってあげてほしい」と思う。

しかし、朝の出勤タイムである。嵐のような忙しさだ。

父親(リーダー)と母親(サブリーダー)が、

リベラルで公平な意見討論を重ねて最良の結果を出す、などという時間は、ないのである。



それで、父親(リーダー)は、娘に、「濡れてもがんばって学校へ行きなさい。

弟とは絵の具セットを持ってあげなさい」と、指示をくだす。



一瞬の決定である。

そして、みながそれに従う。



天災や突発事故に際して、政府が、国民の意見を幅広く聴くことなく、

瞬間的に対応を行った。

それはリーダーの仕事である。

サブリーダーは、黙ってしたがう。

それで「家庭」がうまく運営される。



政府のリーダーシップに対して、

「リーダーの足りないところは国民が補って」という意見も聴く。

しかし、私の母親は、サブリーダーとして、なによりも、

リーダーのプライドを大切にした。

そして、信頼をした。

「足りない部分を補う」という考え方は、サブリーダーがリーダーを見下した考えである。

これでは、リーダーの力が発揮できない。



リーダーの力を存分に発揮させ、チームを円滑におさめる。

これがサブリーダーの実力となる。



女性の生き方、というと、さまざまな女性論が湧きおこってしまいそうだ。

私は、私の母という、ひとりの女性の生き方を通して、

「サブリーダーという重要な仕事」を、していきたい。

もちろん、国民としても。


リーダー論・その4・人材の育成 2011年6月7日


リーダー論・その4・人材の育成



リーダーの大事な仕事のひとつが人材育成である。これを考えたい。



リーダーが部下に仕事を教え、

自身の分身となって、ときにはとっさの判断もできるくらいに、

力をつけさせ、集団の仕組みを教え、権限も与える。

そのときに、「せっかく育成した人材である部下が、

集団を出て独立してしまう」という重要な問題がある。



リーダーは何よりもまず、次のリーダーにもなれる人材を、

実践で育てなければならないが、

その人材が、「わたしのもと」を離れていってしまう。

優秀であればあるほど、そうなる。



それくらいの独立心や判断力を持った人間でないと、

本当に才能がある人材とも言えないだろう。

リーダーの悩みは深刻である。



リーダーは、集団をひとつの学校と捉えて、

積極的に、誠意をこめて、人材を育てるべきだ。

学校であるからには、卒業もある。



リーダーの教育方針として、

「立派な人材に育ったら、卒業してもいい」

「わが集団を最高の人材を輩出する集団としたい」

という意欲をもって、人材を育てるとよい。



独立した部下たちは、いわば「親類」となって、

集団をもうひとまわり大きなコミュニティにしてくれるだろう。

また、「将来独立できるだけの力をつけてあげる」という気持ちで育成をしたときに、

人々は「ここまでしてくれるリーダーのところに残りたい」とも思うものである。



人間は、独立心こそが才能の出所であることを、忘れてはいけない。