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2016年5月12日木曜日

恋愛論・結婚論~一般論として。

恋愛や結婚について、自分の体験そのもの、というよりは、一般論として、思うことを書いてみたいと思います。

恋愛っていうのは、キラキラしていて、ドキドキワクワクしていて、とても素敵なものだと思います。
恋愛ドラマを観ていると、胸がキュンとして、生き生きした気持ちになりますね。

恋愛と結婚って、どういう関係なのかな、ということを、今一度考えてみると、今は、恋愛結婚が当たり前になっているけれど、そうじゃない時代もあったと思うんです。
私がこのごろ思うのは、「結婚は好きな人と、好きになった結果としてするもの」というような大前提が、すごく強くなっている、と思うんです。

私たちの祖父母の時代には、お見合い結婚が一般的でした。
それはそれで、幸せになる人は、幸せになり、そうなれなかった人は、やっぱり、幸せではなかったようです。

どんな出会いだったとしても、どんな縁だったとしても、幸せな夫婦関係を築ける人は、築けた、ということなんじゃないかな、と思います。
こういう話は、私自身が、祖父母や、その年代の人たちに、お話を聞く機会があって、「お見合いだったけれど、幸せだった」という話には、ちょっと意表を突かれた気がしたものです。


人生は、年を取るにしたがって、だんだんと努力の結果、「楽になっていく」ものなんでしょうか。
私は、そうではない、と思います。
人生は、年を取るにしたがって、どんどんと重くなっていくもの、だと思います。
年齢を重ねて大人になれば、責任もありますし、自分で働いて自分で生計を立てなければならないです。
子どものころと比べると、守ってくれる親はいないわけです。
親は年をとって、そのうち介護が必要になりますし、自分自身も年をとります。
病気をしたり、トラブルにあったり、悩みが増えたりします。

仕事の責任も、若いときと比べてとても重くなってきます。
子どもを持てば、子どもを守って育ててあげなければならないですし、子どもの人生に関しても、責任があります。

そういう人生の山、とか、あるいは、嵐、に例えられるたくさんの困難を、一緒に乗り越えていくのが、夫婦というパートナーだと思うんです。

結婚、というのは、パートナーシップではないか、と私は思います。
夫は、男性としての、生まれ持った特質を、妻に提供するでしょう。
妻は、女性としての、生まれ持った特質を、夫に提供するでしょう。
そして、力を合わせれば、チームワークが生まれて、お互いの人生の困難に立ち向かって乗り越えられるようになります。

そうしたときに、必要なのは、人間としての「体力」といったものなのかな、と思います。
健康、という意味での体力もそうですし、知力、判断力、持久力、忍耐力、もしも商売などをしていれば、その商売を成功させる力、時代の変化というような荒波が押し寄せてきたときにも、乗り越えていける力、というものを、よりたくさん持っているパートナーがいると、夫婦として、一緒に、人生の荒波を乗り越えていける、と思います。

恋愛の時期は、この夫婦間のパートナーシップを、絆として、あるいは、お互いに力を合わせる方法として、築く時期なのかな、と思います。
これはやはり、ある程度好きじゃないと、パートナーシップは築けないんじゃないか、と思います。
結婚は、やっぱり相手を好きじゃないと、乗り越えられないような困難がたくさんあると思います。
好きでも乗り越えられないんじゃないか、と思える困難はたくさんあると思います。

たとえば、事故ですとか、重い病気、リストラ、子どものいじめ問題など、あまりにもつらすぎて、家族という人間関係を維持することさえ困難になるほど、たいへんなことが、人生には起こります。
あった愛もなくなるほど、つらいことだって、あるんじゃないか、と思います。

そういうときに、社会的に「結婚」という枠組みは、とてもよいもので、恋愛感情だけで維持される関係とちがって、「今は恋愛している場合じゃない」という状況のときにも、夫婦という関係は維持することができます。
たとえば、世の中が戦争になったとき、などは、恋愛感情で、キラキラと「好き好き」言ってられないんじゃないか、と思うんです。

人生はつらいことのほうが多いんじゃないか、と私は思います。
ただでさえつらい人生なのだから、夫婦とか家庭には、少しでも多くの笑顔があったほうがいいんじゃないか、と思います。

よくお笑い芸人のかたがモテる、と言いますが、一緒にいて楽しい人、こういう人も、人間としての人間力、「体力」のある人なのかもしれないです。

恋愛の出会いのキラキラした時期に、強く深い絆を、パートナーシップをしっかりと組めば、その後の人生の困難を、力を合わせて、乗り越えていくことができると、私は思います。

世の中には、選択の自由があって、「気楽だけど孤独な独身」を選ぶことも、人生の選択だと思います。

私自身は、「煩わしいけれども、にぎやかな、結婚」という選択を選びました。
自分で選択したことなので、パートナシップを維持するために、いろいろな努力をしています。

最近、ツイッターで見かけた言葉で、「結婚なんて、いずれ数年すれば、熱が冷めてしまうもの」ということに関して、興味深い意見がありました。
それは、「なんにもしてないのにパソコンが壊れた」と言っている人と同じことで、「何かし忘れてる」か、「何かしすぎている」か、どちらかなんだよね。
という言葉です。出所がわからなくてごめんなさい。
でも、結婚って、そういうことじゃないかな、と思います。

出発は恋愛のときめきや一目ぼれだったかもしれないし、あるいはお見合いや紹介、婚活、という人もいると思うのですが、その後の、「するべきこと」「してはいけないこと」を、努力して、維持しているか、メンテナンスしているか、っていうことは、とても大事なんじゃないかな、と思います。

どちらにしても、より幸せになるために、人生の選択をしていくのではないか、と思います。

ぼくより。
ぼくもそう思います。



2016年5月9日月曜日

2016夏の参院選の争点をどうするか、ということ。

ゴールデンウイークも、明けた。
いよいよ、夏の参院選に向かって、スパートである。
公示日は、6月22日、投開票日は7月10日である。
梅雨の期間の選挙となるが、毎回、参院選というと、梅雨と真夏に重なる、熱い熱いこの季節である。

今回の選挙では、いまだ争点が明確に定まらない、と言われている。
昨年から、反安倍政権に関して、たくさんの声があがっている。
安保法案の採決の際には、国会議事堂前に、たくさんのデモが押し寄せた。
国民的議論となっている。

私たちは、今回の参院選の争点について、長時間討論し、吟味した。
そして、考えたのが、以下のようなことである。

ひとつは、安保法案に関する「盛り上がり」が、下火となっていることである。
私の自宅近所でも、昨年から今年にかけて、玄関に「アベ政治を許さない」という例の書体のポスターが貼られていたが、4月にはいってから、撤収されている。
これはもう、「反安倍」の世論が、終わってしまったということを意味していると思う。

また、それに関して考えると、安保法案の是非についての討論は、議論が出尽くしている。
昨年も、安保法案の採決の直前では、野党側で、質問することが何もない状況だった。

今から、再び安保法案の討論をしても、同じ論議の繰り返しになる。
そうなると、政治や選挙に関して、「飽き」が生じてしまう。

選挙は、充分に討論を戦わせたのちに、国民からの審判を「待つ」ものではない。
選挙は、充分に勝てる作戦を立てて、勝つための闘いをするものだ、と私たちは思う。

勝つためには、女性票と浮動票の行方が、勝負を決するところとなる。
近年、投票率は年々下がっていて、有権者人口の半分にも満たない状況である。
また、今回の選挙からは、18歳選挙法が施行される。
そうしたときに、いかに国民を巻き込んで、政治の渦に入ってもらうか、そして、女性票をどのように動かしていくか、ここが、大事なポイントになってくると私は思う。

私たちは、民進党を応援している。
そして、政権交代をめざしている。
そうしたときに、人口の半分である女性票の動きが、すべてを決すると言っても過言ではない、と私は思う。

また、これは、朝倉聡子が、なんとかこうはできないか、と願っているところであるが、近ごろ、女性たちが、声をあげ始めている、と思う。
テレビニュースでも、女性アナウンサーが、たくさん出てきた。
これは、今年4月からの動きである。
インターネットのニュースでも、日曜日の早朝であったり、平日の昼間であったりするが、女性メディアジャーナリストが、声をあげ始めていて、その声を消すのがむずかしい状況である。

しかし、女性たちは本当に本気で、政治に参画する気持ちがあるのかどうか。
私は、「やれるもんならやってみろ」とは言わないが、一度やらせてみたい、と思ったのである。
これは、私個人の考えというか希望と期待である。

新聞各紙で、論説や社説で、識者からも、さんざんに叩かれながら、議論を深めていくということが、本当に女性たちにできるのだろうか。
政治に参加して、法案を作り、その法案を通すまでの道のりは、茨の道である。
その道を、がんばり通すことができるのかどうか。

女性たちが本当に、この茨の道を通ることができて、女性の意見を法律として成立させられるようになったら、本当に、この世の中は、変化していくと思う。

女性たちが声をあげ始めたのは、ただの不満なのか、それとも建設的に、政治を進めることができるのか。
政治的に目を開いてきた証拠なのか、私は、女性たちに「やらせてみたい」と思ったのである。
それで、主人にお願いして、こうした考えを聞いてもらったわけである。

まだもう少し、争点を決めるまでに日にちがあるようである。
よくやりとりして、メディアの世論形成の作戦と共に、一緒に戦っていきたい。



2016年5月4日水曜日

安倍昭恵さんへ。思うこと。

こんにちは。
初夏の候となりました。
いかがおすごしでしょうか。
いくつか、お伝えしようと思うことがあります。
まず最初に、私たちの子どもたちに関しましては、どこの著名人、芸能人のかたもそうでありますように、子どもには子どものプライバシーと将来がありますので、ここでは触れないことにいたします。

次に、フジテレビの月曜9時のドラマ、いわゆる「月9」というものに関して、お伝えいたします。
私はこれまでも、長く、フジテレビの月9ドラマを観てきましたが、こうして、児童養護施設出身の役があるとか、障害を持った役がある、ということは、ありませんでした。
これが、どうしてこういういきさつになったのか、不思議に思っておりました。

つい先ごろ、これがどうしてこういういきさつになったのか、だいたいのところ、わかってきました。
いろいろ考えましたけれども、こうしてまとめてみます。

戦争が、男性の性質の肥大化したもの、だとするなら、母子、というのは、女性の本能の肥大化したもの、といえるかもしれないです。
男性の性質も、女性の性質も、生まれながらに授かったものであり、自然なものですが、権力と一体化すると、なにか尋常ではない方向に向かうように思います。

今年2月には、戦争を強引に押し進めようとする、安倍総理大臣の動きを、止めることができました。
これは、たくさんの人々の力、民意であります。

そしてそのあと、非常に活発に、「女性の権利」ということが、メディアで報道されるようになりました。
これは、一般的な「女性の権利」ではなく、特に貧困の女性、貧困状態にある母子に限ったことのようです。

私と主人は、これまでこうした問題「にも」真剣に取り組んでまいりましたが、以前申し上げました通り、貧困というのは、人類の根源的な課題です。
また、もしも国家予算を使って、こうした「かわいそうな」母子に、お金を渡すのならば、正規に国会を通さなければなりません。

どんなふうに民衆運動をしても、どんなふうに市民運動をしても、国家予算をおろすには、国会を通さなければならないのです。
そうしたところで、昭恵さんの「やり方」は、筋が通っていないのです。
筋が通らないから、実現しないのです。

総理大臣の権限でどうかなるか、といえば、多少はどうかなるかもしれないですが、予算に関してだけは、国会の予算委員会で、多数決で決めなければなりません。

そうしたところを、よくご理解できていなかったので、総理夫人としての、「活動」が、うまくいかなかったのではないか、と思われます。

また、貧困ですとか、障害ですとか、そういった「目に見えてかわいそうな人」にだけ、あれこれと手当をするのは、センチメンタルな女学生にも似て、偏っています。
一国のトップとなれば、大局的な視野にたって、国民全員のことを考えなければなりません。
そうしたときに、「かわいそうな子どもたちにだけ」目をかける、ということ、そればかり考えている状況では、とても総理大臣の妻は務まらないでしょう。
要するに、政治がわかっていなかったのだと思います。

私は、先日、インターネットでたまたま、著作に関する対談を読みました。
安倍昭恵さんは、お子さんが授からなかったので、それに関してのひとつの代償として、「使命」をお持ちになった、ということです。
そして、首都圏の児童養護施設を訪問している、ということです。

それで、フジテレビの月9、たくさんの女性たちが、楽しみに観ているテレビドラマの時間帯に、女性から人気絶大の俳優をもってきて、障害者のドラマを作らせた、ということなのですね。

私も、以前、権力の中枢に着く以前は、テレビドラマの感想を書いていたことがありました。
今でも、書いています。
しかしそれは、皆様が楽しければ、という思いで、書いているものです。
みんなが楽しくて、話題になって、時には人生を考えたり語ったりできる、そんな場を、作ることができたら、という思いで書き始めました。

また、私のブログの読者の皆様には、男性のかたが多いので、男性に、女性の生活リズムを知ってほしい、という思いがありました。
国民の皆さん、女性の皆さんは、こうして朝の支度の時間に、15分間のドラマを楽しんでいるんですよ、一緒に観てみませんか、という気持ちでした。

しかし、安倍昭恵さんは、ご自身の「使命」と確信しているもののために、テレビドラマを使っているのですね。
つまり、子どもを授からなかった代償として、権力を使って、母性本能の肥大化したものを、触れ回っているんですね。
そうした目的で、テレビ制作に口を挟むのは、よくないことです。
立場というものがあります。
ほかの人が、感想を言ったり、要望を言ったりするのとは、わけがちがいます。
これからは、こうしたことは、やめましょう。

テレビドラマ制作の皆さんも、聞いてください。

私は、楽しいドラマ、質のよいドラマ作りのため、あるいは、ただ楽しんでもらえるなら、喜んでもらえるなら、ということで、ドラマの感想を書いてきたのです。
決して、強要はありませんし、まして権力として、介入する気持ちはまったくないです。
でも、私が何か書くと、ドラマも視聴者も盛り上がって面白い、というなら、それは、これからも、一緒に楽しみながら書いていきたいと思います。
どうでしょうか?

安倍昭恵さんはこれ以上、肥大化した本能を満たすために、「かわいそうな人」の援助を、行うべきではないと、私は思います。
政治家の妻として、しっかり務まらなかったことの責任をとって、きちんとした形で、身を引くことが大事なのではないか、と思います。

そうしたわけで、安倍昭恵さんをバックにして、私と主人と、私たちの仲間たちに対して、異常なまでのバッシングをしてきた人たちに、申し上げますが、やめましょう。

しかし、「真田丸」は、面白いですね。
実話を基にしているところがあるんでしょうか。
私たちの騒乱を、ドラマに仕立てるあたりが、製作者としても、芸術家としても、見事だと思います。

歴史的に見ても、政治に騒乱が起こるときに、芸術が発達しているようです。
リアリティがあるから、視聴者の人たちにとっても、本当に映像文化は、のめりこめるくらい、すごみを増してきましたね。

正直、私は、楽しんでいます。

そういうわけですので、これからも、私がドラマ感想を書いたほうがいいと思うなら、そのようにお申し付けください。
でも、きっと、もっと自由に、芸術をしていきたいのではないか、と思います。
そうだとしたなら、このあたりで、安倍昭恵さんも、私も、身を引くことにいたします。
どうぞ、考えてみてくださいね。

では、またね。
ゴールデンウイーク、いい季節ですね! 楽しみましょう!!!


参考 安倍昭恵さん対談 → http://www.bookbang.jp/review/article/509688

2016年5月2日月曜日

好きな人に好かれるために。

俺は、聡子ちゃんのことを見つけてから、一年間はプロポーズまで準備した。
俺はな、もっともっと、聡子ちゃんのことを知ってから、いろいろと近づこうとした。
しかし、聡子ちゃんは、俺のことに気が付かなかった。
俺は、遠くから見守っていた。
俺は思う。
高嶺の花になるべきだ。
彼女のことを、誰かほかの男に取られたら困る、と思って、俺は、焦った。
しかし、焦りは禁物、と思い、じっくりと近づいて、罠にはめよう、と思った。
できるだけ用心して、嫌われないように、そして、気づかれないように、そっと近づいていった。
男というものは、一度狙った獲物は、できるだけ離さないようにする。
せっかく俺の嫁さんになってくれたのだから、困らせないように、泣かせないように、できるだけ優しくする。
そして、嫁さんの好きなものは、なんでも手を出して、やってみる。
たとえば、ドラマが好きだといえば、ドラマを一緒に観る。
これは、嫁さんがひとりで楽しそうに観ているのが、気に入らないからだ。
それで、「おい、一緒に観よう」と言う。
しかし、嫁さんは、「わたし、ひとりで観る」と言ったりする。
そうすると、俺は困る。

俺は、嫁さんが、お料理をしているので、俺もお料理を覚えて、一緒にキッチンに立つようになった。
大事な嫁さんだから、女の子に、火を使わせるわけにいかない。
洗濯も、お食事の支度も、俺がやる。
奥さんは、きれいに着飾って、上品にお座りをしている。
まるで、猫ちゃんみたいだ。

しかし、ここは譲れない。
俺は、女性は社会参加すべきだ、と思う。
仕事を持つべきだ、と思う。
おうちでエプロンをつけて、おままごとをしているだけの人生では、彼女のためにかわいそうだ。
生きがいがある人生、ライフスタイルを送ってほしい。
彼女には才能がある。
その才能を、みんなの前に、堂々と出すべきだ。

俺と彼女は、戦った。
彼女は、おうちで専業主婦になりたかった。
内助の功を果たす、と言った。
教育理論も勉強して、家事も完璧にこなせる女の子だ。
ファッションセンスもいいし、お化粧もきれいにできる。
いつも身だしなみはきちんとしているし、お部屋もきれいに片付けることができる。
それは、うちの奥さんが、いい奥さんになりたいと思って、独身時代から、訓練してきたからだ。
うちの奥さんは思っていた。
「男と言うものは、結局は、奥さんに家にいてほしいものだと思う」そう言っていた。

俺も実は、奥さんが仕事で活躍するようになったら、ちょっとだけやきもちを妬いた。
しかし、俺は、乗り越えてきた。
それは、奥さんのことを、心底好きだったからだ。

何しろ、丸々一年もかけて、計画を練りに練って、公然とした仲になったわけだ。
そう簡単に手放すわけにいかない。
それなので、乗り越えることにした。

正直、奥さんが男のように仕事をするのは、耐え難いこともあった。
また、俺よりも、奥さんのほうが、えらくなって、俺はちぢこまった。
でも、それも乗り越えてきた。
なぜ、乗り越えられたか。
それは、奥さんの優しさと努力のたまものだ。

俺が困っているとき、奥さんはいつも、とても優しかった。
それに、すごくダメになっているときには、叱咤激励もしてくれた。
正直、ぶっとばされるくらい、叱咤激励された。
俺の奥さんは、優しくて、強い女性である。

男勝りというのではない。
男に負けないくらい、言い返せる、そういう度胸があるのである。

ぼくは、正直言って、男をものにしよう、とする方法をなんとか彼女から聞き出したい、と思う女性は、あまり好きじゃない。
なぜかというと、男をハンティングしようとしているからだ。
うちの奥さんは、俺をハンティングしようとはしなかった。
俺が、奥さんをハンティングしたのである。

おわり。