2015年2月19日木曜日

NHK「マッサン」第19週「万事休す」感想。

いろいろな意味で、悲観的な題名である。
実際には、第19週は、政春がようやく、北海道余市の自分の工場で、理想のウイスキーを造って出荷できたお話である。
ところが、この理想のウイスキーが、やっぱりまた売れなかった、という方向へ持って行かれるわけである。

私が、この朝ドラ「マッサン」が始まってから、ずっと追いかけてきたのは、「男のサクセスストーリー」である。
ここいらへんで、「ようやく成功しました!」と決着がついてほしい気持ちである。

しかし、やはり気分のよいものである。
5年、6年ごしで醸造したウイスキーの原酒がブレンドされ、「よし。この味で行こう」と決まる。
商品名やラベルのデザインも決める。

特に、商品名を決める場面が印象的でうれし涙が出た。
社員が昼食を摂る食堂にもなり、大会議室にもなり、大広間にもなる「ニシン御殿」で、政春とエリーの夫婦、娘のエマ、俊夫とハナの夫婦、クマさんと息子の一馬が集まって、品名を話し合う。

若いエマ、一馬の意見が取り入れられるのもいいし、政春が少し黙って話を聞いていたけれども、やはり自分の意見を言って、それが決まるのもいい。
「ドウカウイスキー」である。

実際の話では、大日本果汁として、リンゴジュースの販売から始まった会社が社名を略して「ニッカ」となったわけである。
こうしたところで、面白いフィクション仕立てがあるな、と思う。

サントリーの鳥井氏は、「鴨居」になっていた。
サントリーの「角瓶」は、「丸瓶」になっている。
そうそう、この当時から、サントリーは、「おまけ」に、グラスをつけていたようだ。
今でも、このグラス目当てに品物を買ってしまうこともあるから、これは楽しい発想であるように思われた。

ともかく、政春の理想のウイスキーが、完成した。
赤い屋根の余市工場が印象的で美しい。
このとき、政春は46歳である。

三十にして立つとか、四十にして惑わず、とか、そういった人生の節目というのは、あるものなのかもしれない。
ひとりの人間の完成時期というのは、やはり四十代も、それも後半なのかもしれない。
スコットランドにウイスキー製造の留学に行って帰ってきてから20年経っている。
もはや、ウイスキー製造という仕事から、ある意味、逃げ出すことはできない。

二十代で職を失ったときには、夢まで失っていたが、選択肢は大いにたくさんあった。
パン屋になろうとしたり、小説家になろうとしたときもあった。
そういう意味で、二十代はまだまだ可能性と選択肢が残っている時期だともいえると思う。

四十代を過ぎて、社長になると、今現在もこれから先も、どんどん選択肢は狭くなり、道は細くなる。
これから先は、ウイスキー工場の社長として、仕事をしていかなければならない。
そして、責任はますます大きくなる。

考えてみれば、政春も、口ひげをはやして、ずいぶんと貫禄が出てきた。
二十代のころの、少年のようにズボンをはいていて、坊っちゃん刈りにしていた政春とは、別人のようである。

大人になる、ということは、いいことだと思う。

ところで、やっぱり、というか、この理想のウイスキーが売れず、ここで初めて政春は、経営者としての能力を、鴨居氏に指摘された、その言葉を思い出す。
何事も、経験してみて言葉の重みがわかるものである。
経営者になって、成功したからこそ、悩みの内容がちがってくるのである。
若いときは若いなりに、成功したら成功したなりに、悩みはある。

このウイスキー、売れなくて、出資者から、人員削減を要求される。
経営とは本当に厳しいものである。
泣く泣く人員削減を決めたその日、海軍から人がやってくる。
海軍さまさまで、全在庫をお買い上げ、となる。

私もビジネスのシーンで仕事をしていたから、「万事休す」の状況はよくわかる。
といっても、お茶汲みである。
大切なお客様に、最高においしいお茶を淹れて差し上げる、これも女子社員の最高の仕事である、と心得て、急須を持った。
そして!落とした。
係長が言った。「万事急須…」

仕事、というのは、案外面白いものである。


2015年2月18日水曜日

トマ・ピケティについて。

今、トマ・ピケティ著の経済学書「21世紀の資本」が、とても話題になっている。
とても分厚い専門書だということで、私は、おくらばせながら、インターネットや雑誌に書いてある、おおまかな説明を読ませていただいた。
簡潔に言うと、資本のあるところに、お金が集まる、という理論を、データで実証した本である。
そして、もともと資本を持っている人は、時間軸とともに、ますますお金持ちになっていき、雇用されている労働者の賃金は、資本家の資産に追いつくことはない、という理論である。

つまり、もともとお金持ちな人は、経済の性質上、どんどんお金持ちになって、上り坂を登っていく。
しかし、雇用される側、サラリーを貰って働く側の、いわゆる貧困層は、ますます貧困になり、富裕層と貧困層の格差は、しだいに広がっていく、という理論である。

理論といっても、経済学は、社会科学の女王と呼ばれている学問であり、科学である。
この科学に、膨大なデータの裏付けがされた、ということは、普遍的真実である、という意味だと思って差し支えないと、私は思う。

この本を読んで、自分自身の行く末を案じた人がたくさんいる、ということで、話題になっているのだが、私は、ちょっと別なことも考えた。

それは、このピケティの経済学理論が、共産主義の論破になっているのではないか、ということである。

アメリカでベストセラーになった本だそうである。
資本主義・民主主義の筆頭たるアメリカは、とうとう共産主義の理論的まちがいを、指摘するところまで、行き着いたのではないだろうか。

そして、この本の理論とデータこそが、第三次世界大戦・西と東の決戦の、「大義」である、というところではないだろうか。

戦争には「私は正しい」という正義と、それを遂行するための「大義」が必要であると思う。
共産主義の、理論的根拠にまちがいを指摘することができれば、西と東の対立は、なくなるはずである。
そして、世界中が、資本主義、民主主義、アメリカ主義として、ひとつになれるはずである。

ピケティの理論の「大ブーム」の火付け役は、いったい誰なのか。
これも、戦争の戦略のひとつなのではないか、と私は思うのである。


2015年2月15日日曜日

吉田松陰の門下として。

きょうは日曜日。
日曜日の夜というと、NHK大河ドラマである。
今回の大河ドラマ「花燃ゆ」は、山口県が舞台となっている。
総理大臣の安倍氏の、「肝入り」とも呼ばれている。
本当に、安倍総理大臣が、NHK大河に口出しをしたのかどうかは、定かではないが、私たちの国のトップが、どのようなことを考えているのか、どのような人物なのか、そうしたことを推測するには、とても参考になるドラマだと思う。

どんな人も、我が郷里の偉人を尊敬し、誇りに思うものだ。
郷里の学校では、その偉人の教えを学ぶこともできるだろう。
だから、安倍総理大臣も、山口県出身の政治家も、やはり人として、郷里の偉人を尊敬して、模範としていることは、考えられると思う。

特に、吉田松陰は、私たちが学校の歴史の教科書で学ぶ偉人である。
私の推測であるが、安倍総理大臣は、吉田松陰の教えに、とても詳しいのではないか、と思う。
吉田松陰の書いた本や、長州藩の歴史を、深く学んで心に刻んでいるのではないだろうか。

そう考えながら「花燃ゆ」を見ていて、ある大事なことに気が付いた。
それは、吉田松陰が、もともと、兵学家の家に養子に入って学んでいるということである。
兵法の天才なのである。
これは、確か山鹿流と呼ばれていたと思う。

だとすると、安倍総理大臣は、山鹿流の兵法にとても詳しいのではないだろうか。

これから、戦争が始まるかもしれない。
そうしたときに、私たちがとても不安になるのは、ある日突然、砲弾の投げ合いになるのではないか、ということで、人々が混乱しながら撃ち合うような状態である。

しかし、日本のトップである総理大臣が兵法を修めているとなると、これは話がちがってくる。
戦争についてとてもよく学んでいて、詳しくて、それを順番に兵法の通りに実行している、ということである。

戦争とは無秩序であり、崩壊である、と漠然と考えている人も多いかもしれない。
戦後70年を、戦争なしで生きてきた私たちにとっては、「戦争のやりかた」というのは、どこからも聞いたこともないし、学校でも習わなかった。

しかし、「戦争のやりかた」というのは、あるのである。

たとえば、私たちも小説やコミック、映画でもよく知っている「三国志」というお話がある。
中国の昔々の戦乱の世の中の話である。

ここでは、戦乱の世の中を治めようと、劉備玄徳や関羽や張飛が、立ち上がる。
しかし、志とヤル気の劉備玄徳や、力と刀の関羽だけでは、戦乱の世を、どのように治め、どのように戦争をしたらよいのか、わからない。

それで、三人は、策士を雇うことにする。
雇うといっても、お願いである。
三顧の礼は有名なエピソードであるが、ここで才知に長けた諸葛孔明に戦争のやりかたを教えてもらうことで、戦争が成り立ち、勝って行けるのである。

たとえば、私は映画の「レッドクリフ」で観たけれども、「赤壁の戦い」という有名な戦いがある。
これは、諸葛孔明の策士の腕の見せ所である。

まず、地形である。
高い壁、せまい入り組んだ海。
そうした地形と風土と気候を利用すると、たとえば、「敵」が、万単位の兵を持っていたとしても、こちらが数千の兵力で、勝つことも可能なのである。

これが、策であり、戦略である。

こうした戦争のさまざまな方法、勝ち方が、兵法であり、兵術である。
吉田松陰はこの兵法の勉強をしていた、ということなのである。


それなので、日本の総理大臣も、兵法をわきまえたうえで、戦争に臨んでいるのではないか、と思うのである。
そうすると、明治維新において、長州藩の動きを考えてみれば、京都では、鳥羽伏見の戦いがあり、そのあとには戊辰戦争があった。
そして、長州藩は倒幕・開国派となり、見事、江戸幕府を倒して、新政府を築き、開国を成し遂げている。

安倍総理大臣は、長州藩のこの倒幕、開国のやり方で、戦争を計画して実行しているのではないか、と想像できるのである。

長州藩は、京都や江戸に、兵を出して、どんどん東へと勢力を伸ばして行った。
そのとき、最前線の火花を散らす戦場というのは、必ずしも、山口県ではなかった。
もしも、山口県で火花が散っていたとしたら、それは負けが込んできた、という状況だったろう。
城攻め、ということになる。
実際に城攻めを行ったのは、長州藩(倒幕派)が、福島県、会津の鶴ヶ城攻めである。
そして、会津は負けて、戊辰戦争は終わった。
(会津は、松平家、徳川派であった)


このような、長州藩の明治維新の戦い方で、今の平成の世でも、戦略を仕掛けているのではないか、と私は思うのである。

これは、なんの計画性もなくやみくもに実弾を飛ばしあうのとは、わけがちがう。
そういった意味で、計画性のある戦争は、勝てる見込みもあるのではないか、と私は推測するのである。
また、日本の国土で砲弾が飛び交うようなことは、今のところはまずないのではないか、と推測するのである。

しかし、日本流、山鹿流の兵法は、そんなに強いものだろうか。
世界に通用するものだろうか。

世界には世界レベルの兵法、戦法がある、と私は思う。
たとえば、ヨーロッパでは、ナポレオンである。
考えてみれば、ナポレオンは、ヨーロッパのあちこちに進軍しては、密談、密約、条約を結んでいた。

今も、ウクライナをめぐって、ベラルーシで、四か国の首脳が頭をそろえて、密談をして条約を結んでいる。
これは、まったくナポレオン式の戦法であるように、私には見えるのである。

では、アメリカはどうだろう。
アメリカでは、軍隊、ペンタゴンが、世界中、古今東西の戦法、兵法を、分析し、研究を日々重ねているはずである。
やはり今、一番強い兵法を持っているのは、アメリカではないだろうか。

しかし、日本でも、吉田松陰の山鹿流に限定せず、防衛大学校では、兵法の研究は進んでいるはずなのである。

こう考えると、各国の兵法のぶつかりあいが、よく見えてくるような気がする。
どちらにしても、どんな兵法でも、まずはお金、国を豊かにすることが肝要だろう。
それから、武器調達が必要だろう。
それから、民主的な世の中であるから、法整備も必要だろう。

そうしたことを、この2年間ですべてやっているのが、今の日本国のように思えるのである。

2015年2月11日水曜日

NHK「マッサン」第18週「遠くて近きは男女の仲」感想。

毎週、日本のことわざが、章の題名になっている。
どのことわざも、日本人なら一度は耳にしたことのあるものばかりだ。
あらためて、ことわざの意味を勉強しなおすにも、格好の教材になりそうなNHKの連ドラである。
しかし私は、今回のことわざ「遠くて近きは男女の仲」というのを、「近くて遠きは男女の仲」かと、思い違いをしていたようである。
たずねてみれば、私の友達も、口で覚えているのはやはり、「近くて遠きは」だという。
男女の間には、深くて暗い河がある、とも言われているので、そう思い込んでいたのかもしれない。

ところで、今週は、主役の政春は、結婚してから初めての仲人をすることになる。
エリーも、いかにも主婦らしく、独身男女の仲を取りもつことになる。

こうして、独身男女の仲を取り持つのは、年増の奥さんの大切なお仕事である、といっても過言ではない。
特に、夫君は、男子のほう、細君は女子のほうに、話をつけて、ふたりをくっつける、というわけである。

それでも、やはり主役は、恋する二人である。

男性のほうは、政春の広島時代からの仕事仲間、俊兄である。
女性のほうは、政春が北海道・余市に来たときに知り合って、そのままそのニシン番屋を引き継ぐことになった、ニシン漁の親方クマさん、その娘さん・ハナである。

思えば、ハナに連れられて、余市の丘に登り、余市川と、川のそばの泥炭を知ったのであった。
ハナは、ニシンの漬物の漬け方や、塩辛の作り方も、エリーに教えてくれる。

ハナの父親クマさんは、会津から北海道に渡ってきた開拓一世であるが、ハナは、北海道で生まれた、北海道の娘さんである。
よくできているドラマで、北海道の方言やイントネーションを、上手に表現していて、そして、演じる女優の小池栄子さんも、物おじせず、はきはきしていて、本当に北海道の女性らしく、なんだかたくましい。

俊夫とハナは、ともかくケンカ友達、というかんじである。
俊夫は、猪突猛進型、というか、何事においてもまっしぐらで、融通が利かないところもある。
こうしたケンカ友達が、実際に「くっつく」ことは、本当はむずかしいことなのかもしれない。
本当は好きなのに、会えばケンカばかりなのである。
だからこそ、大人の仲人が必要なのだろう。

考えてみれば、よくある恋愛の歌のように、「恋しくて恋しくて」「会いたくて会いたくて」というように、自分で恋心を自覚することもむずかしい、それが本当の恋なのかもしれない。
主題歌「麦の唄」二番の歌詞にあるとおり、「惑う」というのが、恋なのではないか。
私はいつも思う、「あなたといると自然のままでいられる」というのは、実は相手に興味がない証拠なんじゃないだろうか。
切なくて命がけで、というのは、ロマンス小説の読みすぎの幻想なのではないか。

本当に一生、親友同士としてもパートナーになっていける男女というのは、こうして友達であったり、ケンカをしたり、命令されるのが気に入らなかったり、近づいたり遠のいたりして、適度な距離があるものなのかもしれない。

それは、ロマンチックな「恋」からは、程遠いようであるが、本当に夫婦となれる人間関係は、ここにあるのではないか、と思うのだ。

とかなんとか理屈を言っているよりも、本当に見ていて楽しくてアツアツで、うれしい一週間だった。
ハナの花嫁姿もとてもきれいで、美しかった。

付けたしのようになるけれども、エリーと政春の夫妻も、こうして大人として社会のなかで役割を果たしていくのである。
会社の経営もうまく行って、リンゴのワインはニッカのシードルとなり、甘くて女性にも飲みやすいおいしいお酒であるが、これは俊兄が研究開発したもので、恋している男性が作るには、甘すぎるほど甘いお酒で、それから…。

あれこれ評論するよりも、ともかくまずおめでとうございます。
今週の主役は、やっぱり恋する二人である。


第三次世界大戦とか。

いよいよ今年、2015年は、第三次世界大戦の年となりそうである。
イスラム国、ISILをめぐる動きが激しい。
アメリカは、早ければ4月に、全軍体制で地上戦を始められる、と宣戦布告をしている。
「早ければ4月」という時期は、「すぐにでも」とはやる気持ちを考えると、なぜそんなに遅くなるのか、という気もする。
だが、アメリカ軍が戦略を立て、兵隊を集め、空母をアメリカからインド洋、サウジアラビア沖まで移動させるには、やはり二カ月はかかりそうだと思う。

こうした動きに連動して、すでに昨年7月に、集団的自衛権を閣議決定している日本が、自衛隊の発動に動き出さないはずがない。
…と思っていたら、早速に、ODAの改定を閣議決定した。
素早いものである。
まるで、前々から計画済みだったかのようである。

何事においても、段取り八分、ということなので、すでに段取りは整っていた、ということなのではないか、と私は思う。
今年が明けてすぐに、パリにおいて、新聞社襲撃事件が起こった時に、この事件を誘発させたのかもしれないし、ISILからの攻撃を待っていたのかもしれないが、ともかく年明けすぐに、この計画は実行されたわけである。

こう書いてみると、すべてが推測なのだが、推測以外にどうしようもない。
すでに秘密情報保護法は、昨年12月から施行されている。
本当に準備万端である。

ODAに則って、アメリカ軍と共に、日本からも、自衛隊が出動することになるだろう。
憲法をめぐる国内論議は起こるだろうけれども、これまでにすでにしてきたこと、つまり、アメリカ軍の後方支援はするだろうと思う。
食料を補給したり、インド洋沖にガソリンスタンドを設置したり、PKOのような活動をしたり、である。

自衛隊はすでに、昨年の夏には、アメリカの砂漠地帯で訓練をしている、というから、日本の自衛隊が、アラブの砂漠を走り回るのは、今年の夏あたり、ということになるだろうか。
まったくこれから、春夏にかけて、戦争、戦争、なのである。

この戦争は、ISIL相手のものではない、と私は思う。
秘密情報保護法があるので、推測しかできないが、ISILの背景には、ロシアがついていると思う。
だから、国連の常任理事国であるロシアが、国連軍を作ることに賛成するはずないので、国連軍は出ないだろう。

主としてロシア、主としてアメリカ、この二手に分かれて、東VS西、ロシア対アメリカの、戦争が始まるわけである。
日本はどちらの組に着くのか。
アメリカ組である。
もちろん、世界的には、ロシアに着く組もあるだろう。
こうして、世界大戦が始まるのである。

考えてみれば、平和というのは、戦争と戦争の間の、暫定安定期間に過ぎなかったのかもしれない。
日本は、明治維新のころから、黒船がやってきたころから、日米和親条約や日露和親条約などの、不利な条約を結ばされてきた。
この不利な力関係をひっくり返すには、こうした世界大戦で、順位逆転するのが、一番のチャンスかもしれない。

考えてみれば、テニスでもサッカーでも、ワールドランキングというのがあり、世界大会というのがある。
そうして常に、ワールドランキングが更新されて、世界一は誰か、ということになっているのである。

今度の大戦も、ワールドランキングで、日本ができるだけ上位につけるように、精一杯戦う、ということになるだろう。

第一次世界大戦から、第二次、第三次、と、世界の戦国時代だったのかもしれない。
大きな長い歴史で見れば、そういう見方もできると思う。
大航海時代からこのかた「世界」の時代になって、群雄割拠しているのではないか。

今度こそ、世界統一を、どこかの武将が成し遂げて、天下泰平の徳川将軍を作ってほしい。

この大戦の時代を、なんとかがんばって生きてければ、そのあとには、世界政府、グローバルガバナンスの時代が開ける、と信じていたい。

ところで、この大戦は、何年くらいかかる予定なのだろうか?
そのあたりを、秘密情報をかいくぐって、教えてほしいものである。
そうでないと、味噌の買い置きに、困るのである。


2015年2月6日金曜日

NHK「マッサン」主題歌「麦の唄」2番・感想。

NHKの朝ドラが、大好きである。
毎朝15分間の、小さなドラマが好きである。
それと同じように、この15分間のドラマに流れる、1分少々の短い主題歌が、大好きである。
短時間のドラマでありながら、主題歌がきちんと流れるのは、とても気分のいいことだ。
耳になじみができた歌声と曲と背景が、「ああ、きょうも朝が来た」と教えてくれる。
そして、特別に練習する気持ちがなくても、一日のあちこちで、たとえばお茶碗を洗いながら、たとえば新聞を取りに階段をおりるときに、ついふと、口づさんでいるものである。
半年間の放送終了までには、伴奏やイントロの音色まで覚えてしまう。

今回の「マッサン」では、前半の三か月では、主題歌「麦の唄」の一番を演奏して放送していた。
そして、年が明けて「あらら」と思ったら、1月からは二番を放送している。

一番の歌詞をいろいろ考えてこうしてブログに書いたので、二番の歌詞もいろいろまた考えてみたいと思う。


麦の唄 二番 / 作詞 中島みゆき

♪ 大好きな人々
大好きな明け暮れ
新しい「大好き」を
あなたと探したい

私たちは出会い
私たちは惑い
いつか信じる日を経て
1本の麦になる

空よ風よ聞かせてよ
私は誰に似てるだろう
生まれた国 育つ国
愛する人の国

麦は泣き麦は咲き
明日へ育ってゆく♪


ドラマのなかで、エリーは国際結婚である。
その国際結婚を、一番と同じく、心持ちを歌った歌であると思う。

一番では「懐かしい人々」と故国スコットランドを表現していたのに対比して、二番では、「大好きな人々」と故国を言い換えている。
このあたりは、歌詞の作り方として、韻を踏んでいるところが、なんとも心地よい。

また、「新しい『大好き』をあなたと探したい」も、なかなかいい得て妙、というところである。
「大好きなもの」「好き」ということは、自分自身の発見につながる、大切な感覚であるという。
私の知っているある女性詩人は、新聞や雑誌で、気に入った記事や写真を見つけると、切り取って、きれいなお菓子の空き缶にしまうのだそうである。
そして、夜眠る前や、仕事を始めるときなど、あるいは、とても悲しくて自分で自分を見失いそうになるときなどに、その缶を出してきて、ふたを開けて、自分の「大好き」をひとつひとつ、眺めるのだそうである。

故国をあとにして、「新しい『大好き』を探す」という意味は、新天地で、新しい自分自身を見つめ、見つけ、探し出していく、ということだろう。
それも、「あなたと一緒に」だから、恋人との素敵な人生の扉を開ける、という意味にもつながると思う。
とっても素敵である。

「私たちは出会い 私たちは惑い」
国際結婚のふたりが、出会って恋をした、という意味だろう。
しかしそこで「惑い」というところが、なんともチャーミングな言い回しである。
好きな人に出会ったら、とっても迷い惑い、戸惑うものかもしれない。
それもやはり、自己発見であるだろうと思う。
自分の心が惑う、そのことでまた惑いが大きくなる。

そして、その人を信じていいのかどうかまた迷い惑い、やがて信じる日がくる。

ふたりが「1本の麦になる」は、ちょっと意味深なかんじもする。
麦の穂、麦の実、というのは、花が咲いて実になるものであるから、女性と男性をとても感じさせる。
しかしそこに、恋の結実がある、ということだろうか。
また、ふたりで1本、ふたりでひとつ、とても素敵なことである。
夫婦になる、ということは、なにもかも、ふたりでひとつ、ということなのだろうか。

「空よ風よ聞かせてよ」
私は、このフレーズが大好きである。
私自身も北海道にいたときには、迷いや悩みがあると、大きな青い空を見上げて、「空よ風よ」と問いかけた。
作者の中島みゆきさんも、北海道の出身なので、ご自身の体験からこうした行動を歌にしたのかな、と思えたしまた、北海道の人はみんなこうしているものなのか、とも思った。
そして、これは北海道の歌だな、となんだかむしょうに懐かしく、涙が出た。

この世に、神も仏もあるものか、と思うことがある。
どんな宗教を信じているわけでもない。
でも、「空よ風よ聞かせてよ」と問いかけるときには、その大きな青空に問いかけることこそ、神様への問いかけに近い「何か」を思うのである。

エリーがこの歌のなかで、大空に教えてほしい、と思うのは、「私は誰に似ていますか?」ということだから、やはり自己発見、という意味がとても大きいようである。
「国」というのは、最近は、国家主義とか国粋主義とかあるいは、右がどうのこうの、と言われているこのごろであるが、ここの場合は、エリーが国際結婚である、そして、生まれ故郷のスコットランドから出て、人生の後半を日本で生きることになった、という意味で大丈夫だろう。

その結果、「愛する人の国」というのは、「あなたの色に染まります」という白無垢の意味にも、通じてくるように思う。

エリーの人生、生きる国、「わたしは誰に似ていますか」「大好きを探したい」どれも、アイデンティティの追求である、というふうに感じられる。
そして、「私は誰なんだろう?」と問いかけながら、一生懸命生きていく麦に、生きることを託しているように思える。

毎朝、二番の「麦の唄」を聞きながら、「私は誰に似てるだろう?」と、自分探しの旅に出る。
そして、いつか1本の麦になる日を、夢見るのである。

2015年2月5日木曜日

NHK「マッサン」第17週「負うた子に教えられる」感想。

二月も立春となった。
先週の「マッサン」では、可愛らしい子役が一週間の主人公となった。
政春とエリーの養女・エマである。
エマちゃんは、小学校の三年生になっている。
政春とエリーが、エマちゃんと家族三人で北海道の生活を始めてから、一年が経っている。
新しい家に、新しい工場、工場に出入りする人々、と大家族のような状況である。

しかし、政春の仕事、この工場で作っているものは何か、というと、リンゴジュースである。
リンゴジュースの販売で事業を回転させて、資金繰りをして、それから、ウイスキー造りに入ってもいい、というのが、出資者に説明した事業計画であるし、また出資者との約束でもある。
ウイスキー造りには、醸造期間に5年かかるので、資本金をとりもどすのに時間がかかる、というわけであり、その間に、リンゴジュースで、経営を盛り立てよう、ということなのだ。

しかし、リンゴジュースはなかなか売れない。
まったく困ったことに、政春の事業はいつも夢を追うばかりで、実際の販売となると、現実は厳しいものである。
私も、夜眠る前などに、「いったいどうしたら、リンゴジュースが売れるかしら?」と考え込んでしまった。

そして、政春は、リンゴジュースの売れ行きなどの説明に、出資者から大阪への呼び出しをくらってしまう。
出張・大阪行き、である。

まさにそのときに、小学校三年生のエマちゃんが、あるとても重大なことで、悩みを持ってしまうのである。
それは、エマちゃんが、実の子ではない、養女である、ということである。

もともと、エリーと政春は国際結婚なので、エリーの髪の毛は金髪である。
もしも、エリーと政春の実の子であったなら、髪の毛の色だけでなく、どこか似たところがあるはずだ、と子どもながらに悩み始めるのである。
そして、学校の同級生からもからかわれてしまう。

エリーと政春とエマ、三人家族にとっての大ピンチのときである。

家族というのは、こうして、ときどき、ピンチを迎えるものかもしれない。
ただ一緒に暮らしていれば家族である、とはいかないものなのかもしれない。
家族という絆や目に見えない人間関係を築き、維持するためには、毎日毎日、一生懸命やる、そういうことがとても大事なのではないか、と思う。

家族の一大事、というまさにこのときに、政春は仕事で家を留守にしなければならない。
男のサクセスストーリーを考えるときに、まったくこれは、事実としてあることだ、と思わされる。
仕事が一番大変な時、これは、年齢的にも言えることかもしれないが、一番大変なときに、家族も一番大変な時を迎えているのである。

子どもが中学受験だ、とか、学校でいじめられた、とか、髪の毛を黄色に染めてきたとか、学校帰りにコロッケを買ってきた、とかいうことである。
ちょうどその時に、父親は、課長になりました、部下から突き上げをくらっています、上司にわがままを言われて今夜も残業です、という状況なのである。

政春、まさにこの状況である。
また、エリーも父親不在の状況で、小さな子どもの悩みを解決してあげなければならない。

そういったときに、私は本当にこのドラマ「マッサン」は素晴らしいと思う。
会社にも工場にも、友達がいる。
同じ敷地に工場が建っているので、エマにとっては、お兄さん、お姉さんにあたる人がいっぱいいる。

クマおじさんなどは、紙に芋虫の絵を描いて「エマちゃんも、芋虫が蝶になるように、大人になったらお母さんのようにきれいな金髪になる」などと、余計なことを教えてくれる。

こうしたときに大事なのは、母親が孤立しない、ということだと思う。
若いお母さんと、小さな娘さん、このふたりを取り巻く、小さな社会があって、おじさんもおばさんも、お兄さんもお姉さんもいて、学校があって、学校の先生も、学校の友達も、友達の両親もいる。
小さいながらも、「ムラ」的な社会のなかで、幼いエマちゃんは、悩みをぶつけたり、かまってもらったり、つまりは、あたたかく包まれているのである。

エリーお母さんも、相談する人がたくさんいる。
ご近所の床屋さんは、エマちゃんのお友達のご両親が経営しているし、エマちゃんが学校で友達にけがをさせたときに、子どもの親が来ても、たくさんの味方に守ってもらえる。

こうした環境のなかで、エマちゃんは、養女であることを受け入れ、血のつながりがどうであろうと、政春が父であり、エリーが母である、と素直に認めて、家族の絆を改めて深く太くするのである。
それは、エマちゃんが、もう一歩、大人に近づいた、ということである。

養女である、と本当のことを告げられて、知恵熱を出してしまったエマちゃん。
この子が、熱があるときに「おいしい」と言って飲んだのが、工場で売れ残ってしまった、政春お父さんのリンゴジュースである。
やはり、病気をしたときや身体が弱ってしまったときなどに、リンゴジュースはとてもよいようだ。
そここそが、リンゴの実と、リンゴジュースの歴然としたちがいであり、商品価値と値段の元となるものだろう。

エマちゃんが回復して、政春も、もう一歩、仕事で成功に近づく。
リンゴジュースを、たくさんの病院に置いてもらうことにしたのである。
これが、大成功となって、販路開拓となり、リンゴジュースは売れ始める。

仕事を持っていると、家族がやっかいに思えるときがあるかもしれない。
「どうしてこんなときに限って」と思うこともあるかもしれない。
でも、仕事が大変だからこそ、家族の温かさが、一番の滋養のもとに、なるのではないか、と思う。

男のサクセスストーリーも、仕事だけを成功させるなら、いとも簡単なようであるが、やはり家族もあって、複雑な人生を描いていくときに、熟成されていくもの、とじっくり思わせてくれる一週間だった。

可愛いエマちゃんの笑顔を、抜群の演技力にも感動した。
一週間、本当にありがとう、エマちゃん。


2015年2月2日月曜日

イスラム国人質事件に思う。

このごろ、思うことがある。
このごろ、思ってみてほしい。
このごろ、インターネットをしていると、こんなふうな広告が目に入らないだろうか。
ほこりだらけの小さな男の子が、涙を流している。
そして、その横に「この子はもう、家族と二度と会えることはありません」と書いてある。
こんな言葉もある。
「この子たちはみな、家族を誰かに殺された経験を持っています」

中東、シリアを取り巻く難民への援助の広告である。
私は思った。
こうして、難民となった子どもたちが、大きくなって、イスラム国の兵士になるのではないか、と。
ひとりひとりを見てみれば、皆が飢えた孤児なのである。
彼らに一番必要なのは、給食と学校である。

「憎しみの連鎖」という言葉をよく耳にする。
憎しみは、新たな次の世代の憎しみを生み出して、肥大していく。
彼らに必要なのは、温かい母親のかいなと、温かい食べ物と、真実を学ぶ校舎なのである。

その道を導くためには、今は、掃討作戦をするべきではない。
空爆をするべきではない。
ひとりひとりを、確実に預かって、裁判をして、教育をほどこすことである。

自爆テロというのは、自らの命を犠牲にしても、それで疑うことがないのであるから、教育というのは、恐ろしいものだ。
イスラム過激派では、アメリカや異端者を殺戮するためなら、それを聖戦と呼び、そこで命を使えば、天国に、神のもとに召されると、教育されているのである。
そうした、あやまった教育を、たださなければならない、と思う。

「十字軍」というのは、とても昔の出来事である。
中世ヨーロッパのことであったろうか、もう900年も前に始まった、ヨーロッパのキリスト教徒による、エルサレム聖地奪還である。
しかしこれは、ヨーロッパによる、中東アジアへの侵略にほかならない。

ナポレオンもエジプト遠征を行って、この地から、たくさんの宝物を、フランスに持ち帰った。
それらのほとんどが、今もパリのルーブル美術館にある。

こうして、何千年も、中東アジア、アラビアは、ヨーロッパに侵略され、搾取されてきたのである。
こうした歴史を踏まえて、彼らイスラムの人々の、心の痛みや屈辱を、理解しなければならない、と思う。

今こそが、歴史をきれいに洗い流して、新しい出発に向かうべき、歴史の転換点であると、私は思う。
ヨーロッパも、エゴや驕りを捨てなければならない。
中東アジアの自立のために、世界中が、力を合わせるべきときであると、私は思う。


メディアとピュリッツァー賞。

正直言って、この話は、考え込んでしまうところがある。
実際にどうなのか。
私は思う。
なぜ、あんなに危ないところへ行ったのか。
もしも、こんな人質事件とかに遭いたくなかったら、行かなければよいではないか。
メディアジャーナリズムを問う。
ピュリッツァー賞がそんなに欲しいのか。


NHK大河ドラマ「花燃ゆ」第5回「志の果て」感想。

毎年、年の初めの楽しみといえば、NHK大河ドラマである。
今年はいったい、どんなふうに一年を楽しませてくれるのか、始まりはドキドキする。
今年の大河ドラマは、明治維新が歴史の舞台である。
日本の歴史を描いてくれる大河ドラマなので、どの時代が舞台となるかは、重要である。
ある人は、戦国時代が好きで、得意だというだろう。
私は、明治維新の時代が好きで、ずいぶん得意になってきた。

しかし、今回のドラマ「花燃ゆ」は、ちょっとわかりずらいところがある。
第5週まで観て、ようやく状況がわかってきたしだいである。

物語の時代背景は、江戸時代の終わりごろで、ペリーの黒船が来航する少し前から描かれる。
物語の主軸となっているのは、吉田松陰とその親友である、小田村伊之助である。
そこに、ヒロインの文(ふみ)が関わってくる。
文は、吉田松陰の実の妹であり、のちに、小田村伊之助の再婚相手となる女性である。

吉田松陰と小田村伊之助は、固い友情で結ばれていて、そこに、幕末男子たちが、また固い友情で結ばれていく。
その地理的舞台が、山口県萩の、松下村塾である。

第5週のこれまでの展開だと、吉田松陰は、ペリーの黒船に乗り込んでアメリカに渡ろうとして、失敗して、牢獄に捕らえられている状況である。
これから、牢から出て、松下村塾を開く、というところである。
塾が開かれてどんなふうに吉田松陰が、塾生を集め、教えていくのか、ともに学び、日本の未来を語っていくのか、とても楽しみである。

ところで、今のドラマの状況であるが、ほぼ、吉田松陰の実家の人間関係しか描かれていない。
登場人物のほとんどが、松陰の実家の人々である。
ところが、この人たちの「名前」が、それぞれにちがうので、わかりずらいようだ。

もともと、吉田松陰の生まれた家の苗字は「杉」というようだ。
それで、長男の杉梅太郎がいて、そのお嫁さんの亀がいる。
吉田松陰は、元の名前は、寅次郎で、今の状況ではドラマのなかで、「寅」「寅次郎」「寅兄さん」と呼ばれている。
これでは、誰が松陰なのか、わからない。
そして、両親は杉百合の助、杉滝、である。
このあたりの人名と人間関係は、公式ホームページをあてにするしかないかもしれない。
次男が寅次郎で、この寅次郎が幼いときからとても才能があったので、叔父のところに養子に入る。
それでひとりだけ「吉田」と苗字がちがうわけである。

杉文の姉は、杉寿(ひさ)であるが、この姉は、吉田松陰の口添えで、小田村伊之助の初代の妻になる。
のちに、再婚して、妹の文が、伊之助の妻になるので、このあたりもややこやしいのだが、すでに第一回の放送で、文と伊之助の、運命の出会いがあった。
いずれ一緒になるべき夫婦である、という段取りである。
そして、初代妻の寿(ひさ)が、非常に気の強い、あまりよい気立てではない奥さんなので、のちのちの、文と伊之助の運命の恋が、濃く印象付けられる気がする。

それも、松下村塾、幕末明治維新、という若者たちが集まったある場所での、人間関係でありそれこそドラマであるので、とても、いいかんじのするものである。

若者の友情と、将来の夢と希望、こうしたものが、「花燃ゆ」のテーマであるように思われる。
このテーマは、主題歌にも表現されている。
私は、この主題歌が大好きになった。

♪ 愚かなる吾れのことをも 友とめづ人は わがとも友と
吾れをも 友とめづ人は わがとも友と めでよ人々
吾れをも 友とめづ人は わがとも友と めでよ人々 燃ゆ ♪

この歌曲は、吉田松陰の和歌から作成したものだそうである。
もとの和歌は、
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
である。
公式ホームページより、である。

これからも、今年一年、この「わがともどもと~♪」を口づさみながら、ドラマを楽しんでいきたいと、期待している。
 

2015年2月1日日曜日

NHK「マッサン」第16週「人間到る処青山有り」感想。

朝の連続テレビ小説「マッサン」。
昨年2014年10月から放送が開始されて、三か月を過ぎた。
政春の人生も、転換期を迎えて、北海道編が始まっている。
出資金を集めることができて、妻のエリー、娘のエマと共に家族三人で北海道に渡った政春の、最初の最初が描かれた一週間である。

まずは、以前、余市でお世話になった森野熊虎さんにご挨拶である。
ウイスキー造りにとても適している気候・地形の、ここ余市で、地域一番の実力者である森野熊虎、愛称クマさんに力になってもらえば、ウイスキー工場の設立に向けて、大船に乗った気分、だと思われた。

しかし、出会ってから数年で、北海道の日本海側には、ニシンの群れはもう来なくなってしまっている。

私も、北海道の地域の歴史で習ったとおりである。
本当に、ニシンの群れはなぜ、日本海に来なくなってしまったのだろう?
海流が変化したのだ、という説もあるし、ニシン漁のしすぎで、ニシンが減ってしまったという説もある。
どちらにしても、盛大にニシン漁をしていた時期と比べると、クマさんの生活は激変していた。
借金があって、家、それも大きなニシン番屋を売らなければならないような状況である。

そして、ここで、ドラマでは何度でも繰り返される、父と息子の葛藤が描かれる。
クマさんと、息子の一馬が、折り合わないのである。
一馬は、「お母さんに苦労をかけた」と言って、父親であるクマさんに反抗する。

父親と息子とヒロイン、これは、朝ドラの定番であるようだ。
こうした難題を解決して、確執ある父子を仲直りさせるのが、朝ドラヒロインの伝説的な女性の能力である。
考えてみれば、親子なのだから仲良くしてほしい、という気持ちが、女性にはいつもある。
しかし、父と息子がなんらかの確執を抱えているのも、定番中の定番である。

ドラマのなかに限らず、実社会でも、女性の能力として、父子を仲良くさせられるかどうかは、女性力、女子力、というわけなのだろう。

エリーはここで、その実力を発揮してみせる。

ところで、男のサクセスストーリーのほうを、追っていくことにしよう。
政春は、あてにしていたクマさんの評判が悪いので、かえってよそ者として、話がうまくいかなくなってしまう。
最初のうちはリンゴジュースで工場の資金を回転させるため、リンゴ組合から、リンゴの実を譲ってもらわなければならないのだが、「あげない」と言われてしまう。
また、土地の買収も頭の痛い問題である。

政春は悩み、余市川のほとりに立って、この川の水、将来はおいしいウイスキーになるであろう、きれいな川の水を眺めている。
妻のエリーもやってくる。

このシーンは印象的である。
立つふたりを、カメラが下から上に見上げるように構える。
そうすると、北海道の空がとても広く青く、映るのである。
エリーはつぶやく。
「この空は、どこまでも広がっている。スコットランドにも、大阪にも、広島にも」と。

政春は、リンゴ組合から、「本当にこの厳しい北海道でやっていく気があるのか、弱気なら帰れ」とまで言われている。
北海道開拓の歴史も話を聞いている。
そして、ここで、一生、北海道で生きていく覚悟を定める。

男のサクセスストーリーには、「ここで一生、がんばる」と決心することが必要なのかもしれない。
それだけの覚悟がなければ、地域に根を張り、自分の会社を設立し、経営していくこともできないのかもしれない。

ふるさとを出て、新しい大地で、新しい一歩を踏み出す。

結局、クマさんのニシン番屋をそのまま譲ってもらえることになり、人間関係も円滑に恵まれた。
新しい人生の旅立ちに、にぎやかで明るい北国の青空が、よく似合う。