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2022年5月20日金曜日

源氏物語 メモ

 


光源氏は 出世する。

クライマックスでは、兄と弟で、平安時代の権力を握って、

華々しい。

 

印象に残るシーン

雨の日の話

雨の日に、男の子たちが集まって、

「どんな女の子が好みか」という話をする。

やはり、髪の毛を耳にかけた女の子は、

どうもよくない、という話をするので、

平安時代も、女の子には、髪を耳にかけてほしくないんだな、と思って、

面白い。

 

源氏物語が、長く連載された理由に関して、考えてみる。

いろいろなタイプの女性が登場して、

その容貌から性格から、描いている。

そして、一話完結なっている。

それで、長編小説して、成り立っている。

 

当時のたくさんの女性が、書写して、読んで、保存した。

人気のある、魅力的な物語だった。

当時は、コピーも印刷もない。

ほんとうにとても、魅力のある小説だったのだろうと思う。

 

彰子のサロンで、評価が高かったのだろう。

 

定子のサロンでは、少納言が「枕草子」を書いていた。

中宮、朝廷の皇后のところに集まるサロン。

文学サロン。

男性も出入りた。

 

光源氏の出世物語。

さまざまな女性たちとの交流が描かれているが、

その間に、光源氏は、どんどん成長して、

出世している。

光源氏の仕事は、もともと帝の二番目の息子で、

側室の子。

帝に仕えている。

毎朝、出仕しているが、

ときどき、朝、眠くて出仕するが面倒だ、というようなシーンもある。

 

仕事で失敗したり、陰謀に巻き込まれたりして、

京都の街から、遠くの海の街に、とばされて、

何年か不遇のときを過ごすこともある。

 

その海沿いの街でも、

女の人

恋愛関係になり、その女性に養ってもらう。

 

光源氏は、結婚するたびに、

通い婚。

その相手の女性の身分や

その女性の父親の身分と地位が高いので、

ほぼ政略結婚ということで、

女の人と関係を持つたびに

出世する。

 

友情も描かれている。

頭中将とは、幼なじみで、

一緒に成長して、

一緒に出世していく。

 

お互いが、それぞれ結婚したあかつきには、

自分たちの娘と息子を、結婚させようと約束していて、

結婚させて、そこでも、強力な権力を作る。

 

 

 

 

 

 

 

 

2017年1月16日月曜日

NHK大河ドラマ「おんな城主・直虎」感想。

NHK大河ドラマ「おんな城主・直虎」感想。

2017年も、新しく年があけた。
NHKの日曜夜の大河ドラマは、毎年、歴史ものを扱っていて、昨年は「真田丸」で、とても素晴らしい高い評価があった。
昨年のドラマは本当に楽しかった。

さて、今年、年頭から始まった、新しい大河ドラマ「おんな城主・直虎」である。
まだ、2回の放送であるが、これは…ちょっと…。
誰もが見ていて思うことだと思うのだが、昨年の「真田丸」の盛り上がりに比べると、落胆してしまうかもしれない。

ドラマの問題点のひとつは、「テンポ」である。
ストーリー展開がのろのろしていて、テンポの良さが感じられない。
テレビを見ながら、ついつい時計を見てしまうような、遅い展開で、脚本の腕を、もっともっと磨いてほしいところである。
視聴者を飽きさせない、素早い展開や、スリリングなエピソードをもっといれる工夫は、してもよい、と思う。

次に思うのは、ヒロイン・直虎の性格の問題点である。
「おてんばで、やんちゃで、勇気のある少女」というあたりで、キャラクター設定をしているのかもしれないが、これはただの「ダメな女の子」である。

親の言うことをきかない。
親が「これは危ないから気をつけなさい」と言ったら、そこで、危険を察するのが、ごく当たり前の女性の感性である。
しかし、このヒロインには、その大事な、女性としての感性が抜け落ちている。
そして、深夜の深い森に入ることに、恐怖を感じない。
これは、人間として、当たり前の感受性が、ない、麻痺している、ということなのである。

「やんちゃ」「おてんば」とはちがって、メンタルに少し問題のある、無防備な少女として、ヒロインの性格を描いたところは、ドラマとしてもストーリーとしても、これからの展開が、まったく期待できないところである。
つまり、ヒロインに魅力がないのである。

こうしたドラマ展開、少女時代のエピソードとしては、NHK連続テレビ小説「べっぴんさん」の第一週目でも、見られた。
親の言いつけに背いて、街に出かけた女の子が、変質者と思われる男性から目をつけられるのである。

今の世の中に対して、社会派と呼ばれる作家たちは、警告を発しているのだろうか。
問題提起しているのだろうか。
私はそうは思わない。
解決策を示さない問題提起など、なんの価値もないのである。

世の中が、女の子がひとりで歩いてもなんの事件も起こらないほど平和であるべきだ、とこれらの作家たちは、思い込んでいて、離れられないのである。

そして、「答はいくつもある」という考え方に縛られているのである。

実際には、幸せの形は、ひとつしかない。
幸せになるためには、幸せを守るためには、親の言うことをよく聞き、社会の仕組みをよく知り、厳しい社会のなかで、生き抜いていくための、必要な知識を手に入れて、慎重に生活するべきなのである。
身を慎み、よく勉強して、厳しい社会に対処していくべきなのである。

しかし、これらの「極左」ともいうべき作家陣は、世の中が、どんなわがままをしても許されるほど、甘ったるい場所である「べきだ」と言って、譲らないのである。

そうした、わがまま、エゴが、これらの人たちを、苦しみという柱に縛り付けているのである。

今後のドラマの展開に、期待ができるかどうか、可能性がないわけではないだろうが、何かと問題の多い脚本家陣が、我も我もとエゴをむきだしにして取り組み始めたところを見ると、今後の視聴者離れは、逃れられないようにも思う。

自分自身の、思想や考え方を、今一度、見直してみるべきである。
世の中は、厳しいところである。
感性の麻痺した女の子が、事件や事故に遭遇するのは、自業自得の出来事なのである。

私は、きちんとした女性が、きちんと人生を生きていくために、さまざまな知恵を書き記してきた。
しかし、わがままやエゴのひどい女性たち、作家たちが、どう生きていくかまでは、責任はもたない。
自分の人生は、自分が、責任と義務を背負って、生きていくものだ、と思う。
結果はすべての人に、それなりにきちんと、表れているのである。




2016年5月5日木曜日

NHKドラマ10「コントレール~罪と恋」感想。

ゴールデンウイーク、いかがお過ごしでしょうか。
今年のゴールデンウイークは、テレビやオンデマンドで、ドラマ三昧、というかたも多いかと思います。
テレビドラマは、手軽で無料の楽しみです。
私は、テレビドラマが大好きです。
もともと、映画が大好きなのですが、テレビドラマを好きになった一番の理由は、北海道にいたからかもしれないです。
というのは、真冬の猛吹雪の日が三日も続くと、テレビが一番のお友達になるからです。
テレビは本当に、楽しい友達です。

きょうは、「コントレール」というドラマの再放送を見ました。
昼の「とと姉ちゃん」のあと、ニュースを5分間見て、そのあと放送がすぐ始まったので、なんとなく見てしまいました。

脚本家の、大石静女史は、「セカンドバージン」で、社会現象を起こした、たいそう実力のあるかたです。
今回も、女性たちのリアルなニーズに応えて、このドラマを書きおろしているそうです。

このドラマの設定は、非日常的で、小説にするなら、純文学というより、サスペンスになるかと思います。
日常的に体験できることではないので、そのぶん、エンタテイメント性が強く、本当に実力派だ、と感じさせるほど、うまくできている、と思いました。

でも、このヒロイン、文、の「男性とのお付き合い」は、恋ではなくて、癒しを求めているのではないか、と思います。
夫を事故で亡くしているのだから、心が深く傷ついていて当たり前です。
そういう状態のときに、成長や幸せを求める、発展的な恋ができるか、というと、何か精彩に欠ける状態に溺れていくようです。

こうした、退廃的なドラマを、NHK、という受信料を払っている公共放送で放映するのだから、良家の奥様たちが、内密な情熱を持っている奥様たちが、他の局の昼メロなら見ないけれど、「NHKでいってるんだから、いいんでしょう」ということで、夜の放送ながら、録画をしかけておいて、昼間、ダンナも子どももいないところで、こっそり見るんじゃないか、と思います。
NHKも、立場や責任を、もっとわきまえるべきじゃないか、と思います。

しかし、脚本としてのレベルは、とても高いと思います。
大石静女史は、次には、日テレで、結婚したばかりの北川景子さんを主役にして、新しいドラマを企画しているそうですから、これが期待されます。

それにしても、45歳で、訳ありの「恋」。
これは、「コントレール~罪と恋」ではなくて、「コントレール~罪と更年期」以外のなにものでもない、と思いました。

しかし、子どもがホモ、っていうことが、この世の中にはあるんですね。
お母さんがたの苦労って、本当にいろいろあるんだなぁ、と思います。
これは、切実ですね。


☆追記
それにしても、薄幸な女性って、本当に、「男を見る目」がないですよね。
私だったら、あの男らしい刑事さんと結婚して、再出発しますけどね。



2016年5月2日月曜日

フジテレビ新しい月9「好きな人がいること」の制作発表を見て。

昨夜5月1日、インターネットで、フジテレビのドラマの制作発表が行われた。
「行われた」といっても、バラエティ番組のトークのような、うちとけたかんじだった。
7月からの夏ドラマ、そして、フジの恋愛ドラマ、ということで、すごく楽しみに見た。
「こんなふうに、ドラマって出来上がっていくんだ~!」と、とても楽しいかんじがした。
どうもまず、俳優と女優さんが決まって、それから、「海ロケ」が決まったようなかんじだ。
夏のドラマで、海や海辺のロケ、それから、海辺のレストランのロケ、と、大枠が決まった、という段階であるようだ。

こうして、綺麗で素敵で、まだまだ若くてはつらつとしている女優さんと、まだまだできあがっていない、というかんじの若手の男性俳優さんとを並べて、そこからドラマが始まるらしい。

ドラマ制作って、本当に楽しそうだ、と思う。
才能でいっぱいの彼らを自由に動かして、夏のドラマを作る、ということなのだろう。
私もやってみたい!と思ったぐらい、素敵だ。

海辺のレストランが舞台となるようである。
このレストランを経営しているのが、三人兄弟の長男である。
今の時代に、海辺の一等地にレストランを持っている、ということは、親からもらった財産で起業したか、あるいは、親の代からあるレストランを受け継いだか、というところだろう。
それで、まずは採算の取れる経営を、ということで「お金」にはこだわる長男なのではないだろうか。

次男は、天才シェフ、ということである。
味にはとことんこだわる、食材選びにはお金に糸目をつけない、というこだわり派なのではないだろうか。
これは、長男の経営論とは、対立しそうである。

三男は、お調子者でモテモテ男子だそうである。
お気楽な性格からも、人間関係が広そうで、そのぶん、レストランの経営に関しては、「サービス」といった点で、「もっとサービスでお客さんに奉仕しようよ」というようなことを主張しそうである。
これも、長男や次男と対立しそうである。

こうした三人兄弟のなかに、主演のヒロイン桐谷美玲が飛び込んでいく。
ヒロインは、パティシエをめざしていて、いつか自分のお店を持ちたい、と夢見ている。
この三人兄弟から、何かしら学ぶところがあるのかもしれないし、この三人に、「夢」を思い出させる役割というのも、あるのかもしれない。

そして、夏の海である。
「みんな重い見えない荷物 肩の上に 抱えてたわ」
だからこそ精いっぱい輝いているから青春時代なのかな、と思う。

きらめく夏の海、お祭り、花火、恋、仕事、将来、夢と希望と挫折、
たくさんの宝物が「好きな人」という言葉に、込められているような気がする。




2016年4月25日月曜日

フジテレビ月9ドラマ「ラヴソング」感想。

月曜日の夜9時、といえば、フジテレビの月9ドラマ、と定番になっている。
これは、若い女性たちのライフスタイルにしっかりと根付いた、日課である。
月9といえば、「東京ラブストーリー」に始まって、「ロングバケーション」「HERO」と、日本のテレビドラマ史に残る名作を残してきた。

そのフジテレビのドラマが、このところ、視聴率の元気がない、という話である。
私もこのところは、仕事が多忙だったこともあって、撮り貯めしたテレビ番組を見られないときがあって、なんだか月9から遠ざかってしまっていた。

しかし、今回は、昨年、とうとう結婚して全国の女性たちに「ましゃロス」を引き起こした、福山雅治氏が、主演である。
試しに一回だけでも、と見てみた。

そして、落胆した。
あの、ドラマ全盛期、「ドラマのフジ」と呼ばれた看板が、泣くというものである。

まったく、ドラマとして、出来上がっていない、と正直思った。

最初のシーンは、おなじみの、最新流行のインテリアである。
私は、フジの現代ドラマで、最新のインテリアや小物を見るのが大好きなのだが、そのあたりは、期待に応える形である。

しかし、いかにも視聴者が、「ましゃにはこんな制服を着てほしい」「ましゃにこんなセリフを言われてみたい」というシーンのてんこ盛り、というところで、女性視聴者の理想を体現した、主人公の姿なのだろうが、結局は、視聴者を甘く見ている、というものである。
視聴者をばかにしているんじゃないか、と思えるストーリー展開もあった。
もう弾かないギター、「追悼」のチラシ、これから、この「訳アリ」で音楽をやめた主人公が、少女との出会いをきっかけに、過去の恋人(きっとたぶん、亡くなった、訳あり)あたりの心の傷をほどいていく、というストーリーだと思う。

そういえば、駆け出しの若い女性シンガーを、ドラマに使ったことも、かつて、そういうドラマあったと思う。

柳の下のどじょうを狙って、「あのときはやったもの」「あのときヒットしたもの」を、追いすぎて、中古ドラマの二番煎じを、何度も繰り返しているのだろうか。

福山雅治氏を起用するなら、もっと新しい、次の福山氏の、可能性を引っ張り出すこともできたのではないだろうか。
女性たちは今、恋をするのも仕事をするのも真剣である。
これまでのラブストーリーにしても、現実に真摯に恋に打ち込み、そして悩む女性たちのバイブルとなってきたから、感情移入できたのである。

「ラヴソング」の主人公像、どの姿をとっても、女性視聴者に、仮想恋愛を誘発しようとする手口が見え見えである。
なにかもっと素直な、純粋なラブストーリーが、かつてのフジドラマにはあった、そう思うと、残念でしかたない。



2015年2月2日月曜日

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」第5回「志の果て」感想。

毎年、年の初めの楽しみといえば、NHK大河ドラマである。
今年はいったい、どんなふうに一年を楽しませてくれるのか、始まりはドキドキする。
今年の大河ドラマは、明治維新が歴史の舞台である。
日本の歴史を描いてくれる大河ドラマなので、どの時代が舞台となるかは、重要である。
ある人は、戦国時代が好きで、得意だというだろう。
私は、明治維新の時代が好きで、ずいぶん得意になってきた。

しかし、今回のドラマ「花燃ゆ」は、ちょっとわかりずらいところがある。
第5週まで観て、ようやく状況がわかってきたしだいである。

物語の時代背景は、江戸時代の終わりごろで、ペリーの黒船が来航する少し前から描かれる。
物語の主軸となっているのは、吉田松陰とその親友である、小田村伊之助である。
そこに、ヒロインの文(ふみ)が関わってくる。
文は、吉田松陰の実の妹であり、のちに、小田村伊之助の再婚相手となる女性である。

吉田松陰と小田村伊之助は、固い友情で結ばれていて、そこに、幕末男子たちが、また固い友情で結ばれていく。
その地理的舞台が、山口県萩の、松下村塾である。

第5週のこれまでの展開だと、吉田松陰は、ペリーの黒船に乗り込んでアメリカに渡ろうとして、失敗して、牢獄に捕らえられている状況である。
これから、牢から出て、松下村塾を開く、というところである。
塾が開かれてどんなふうに吉田松陰が、塾生を集め、教えていくのか、ともに学び、日本の未来を語っていくのか、とても楽しみである。

ところで、今のドラマの状況であるが、ほぼ、吉田松陰の実家の人間関係しか描かれていない。
登場人物のほとんどが、松陰の実家の人々である。
ところが、この人たちの「名前」が、それぞれにちがうので、わかりずらいようだ。

もともと、吉田松陰の生まれた家の苗字は「杉」というようだ。
それで、長男の杉梅太郎がいて、そのお嫁さんの亀がいる。
吉田松陰は、元の名前は、寅次郎で、今の状況ではドラマのなかで、「寅」「寅次郎」「寅兄さん」と呼ばれている。
これでは、誰が松陰なのか、わからない。
そして、両親は杉百合の助、杉滝、である。
このあたりの人名と人間関係は、公式ホームページをあてにするしかないかもしれない。
次男が寅次郎で、この寅次郎が幼いときからとても才能があったので、叔父のところに養子に入る。
それでひとりだけ「吉田」と苗字がちがうわけである。

杉文の姉は、杉寿(ひさ)であるが、この姉は、吉田松陰の口添えで、小田村伊之助の初代の妻になる。
のちに、再婚して、妹の文が、伊之助の妻になるので、このあたりもややこやしいのだが、すでに第一回の放送で、文と伊之助の、運命の出会いがあった。
いずれ一緒になるべき夫婦である、という段取りである。
そして、初代妻の寿(ひさ)が、非常に気の強い、あまりよい気立てではない奥さんなので、のちのちの、文と伊之助の運命の恋が、濃く印象付けられる気がする。

それも、松下村塾、幕末明治維新、という若者たちが集まったある場所での、人間関係でありそれこそドラマであるので、とても、いいかんじのするものである。

若者の友情と、将来の夢と希望、こうしたものが、「花燃ゆ」のテーマであるように思われる。
このテーマは、主題歌にも表現されている。
私は、この主題歌が大好きになった。

♪ 愚かなる吾れのことをも 友とめづ人は わがとも友と
吾れをも 友とめづ人は わがとも友と めでよ人々
吾れをも 友とめづ人は わがとも友と めでよ人々 燃ゆ ♪

この歌曲は、吉田松陰の和歌から作成したものだそうである。
もとの和歌は、
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
である。
公式ホームページより、である。

これからも、今年一年、この「わがともどもと~♪」を口づさみながら、ドラマを楽しんでいきたいと、期待している。
 

2015年1月4日日曜日

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」第一回「人むすぶ妹」感想。

2015年も新年が始まった。
新年というと、楽しみなのが、NHK大河ドラマである。
今年は、女性が主人公の「花燃ゆ」である。
今夜は第一回の放送があった。

明治維新の時代を描いたドラマである。
人の名前や人間関係が、子役もまざっていて、わかりずらいところはある。
しかし、物語はまだ始まったばかりである。

とてもよいドラマだと思った。
特に印象的だったのは、明倫館で学ぶ言葉である。
ドラマの中に繰り返し繰り返し出てきた。
論語であろうか、孔子であろうか。

最初はよく意味がわからなかった。
しかし、ドラマの筋書きがわかればいい、と思っていた。
でも、ドラマを見続けていくと、この言葉の意味が、だんだんとわかってきた。
主人公のひとりである、吉田寅次郎が、学びに学んで、逃げ出して、夜空を見上げて、その言葉の意味がわかってきたシーンが印象的であった。

また、「教育」ということに関して、「何のために学ぶのか」という問いかけと答が、明確に主人公たちの言葉となって、耳から伝わってきたことが、とてもよかったと思う。
とても感動した。
教育の大切さや、自分自身が学び続けること、自分の力で考えること、行動すること、など、とても決心させられる、第一回放送となった。

これからも、一年間の大河ドラマの放送、とても楽しみにしている。


2014年7月12日土曜日

映画「八日目の蝉」おすすめポイント。

今夜7月12日(土)夜8時30分から、BSプレミアムで、映画「八日目の蝉」が放送される。
「蝉」といえば、あの宇田川満代先生、ではなくて、角田光代女史の、最高傑作とも評される文学作品の映画化である。
この「蝉」には、井上真央さんが出演される。
井上真央さんといえば、来年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」で、主演を務められる女優さんである。
今、新進気鋭で評価の高い女優さんというと、やはり井上真央さんなのではないか、と思う。
井上さんは、ドラマ「花より男子」のヒロイン・つくし役で、一躍有名になった。
あの可愛らしくて元気な「つくし」のイメージがとても似合っていて、印象的だった。
「八日目の蝉」は、ミステリーとかサスペンスとかいう評価もあるようだが、満たされぬ恋愛と、強い本能的な母性愛とを描いているように思える。
映画の冒頭部分では、泥沼の状態に陥った、不倫の恋愛が描かれる。
そして、非情といえば非情であるが、正妻のおなかに宿った命は生かされ、不倫の愛人の子どもは、堕胎される。
そこから、愛人・希和子の流浪の旅が始まる。
正妻の子どもを、盗んでしまったのである。
ある女性のもとから、夫を盗み、子どもを盗んだ、希和子の業が、これでもか、これでもか、と綿密に描かれている。

そして、その希和子が盗み育てた子どもが、これは女の子であるが、この女の子が大きくなった娘さんの姿を演じるのが井上真央さんであるが、役名・恵理菜は、これまた、育ての母と同じく、不倫の恋と、なさぬ仲の子どもの妊娠、となるわけなのである。
本当に、業を持った女性の人生というのは、こういうものなのか、とため息が出てしまう。
この義理の娘は、不倫のなれの果てである育ての母・希和子を許すとも愛すとも理解するともつかない状況でのらりくらりと生きているのだが、自分自身が希和子と同じ状態を経験することで、希和子を許す、という変なストーリーである。

印象的な場面は、小さな島で、子どもを誘拐した「母」と、盗まれたことを知らない「娘」が、会話をかわすところである。
この娘さんは、人目を忍ぶためであろうか、男の子のような服装をさせられている。
そして、「お母さん大好き」「誰よりもお母さんだけが好き」と言う。

このところ、シングルマザーが増えているという。
私には、こうした「子どもがあれば生きていける」という母親の気持ちが、こんなふうに見える、つまり、誰からも愛されなかった女性が、子どもからは愛される、愛の渇望である。
愛されることに餓えていた女性が、子どもからのひたむきな愛情を受け取って、ようやく生きていける状態である。
しかし、小さな子どもが、親を愛さない、欲さない、ということが、あるだろうか。
小さな子どもは、自分が生きていくためにも、親を必要としているのである。
「愛されたい」「必要とされたい」という女性の切実な渇望が、子どもによって満たされるとしたら、これは、母親のひとりよがり以外、なにものでもない気がする。
そうしたエピソードが、島の美しい情景とともに映像化されると、見事に美化されるものなのだ、と感心する。

また、このシーンも印象的であった。
娘が大きくなって、誘拐事件もそれなりの解決をして、娘は一人暮らしをしている。
その時、この娘の父親、不倫の中心にいた男性であるが、この父親が、娘に会いに来る。
「大学だけは出席して卒業したほうがいい」
「金は足りているか、ほら、な」
財布からお札を取り出して渡そうとする父親を、この娘は軽蔑したように見下すのである。
「あなたっていう父親は、いつもお金ばっかり」と。

私は、この母娘(育ての)に、何か根源的なまちがいを感じる。
父親からの、最大の愛情表現は、教育を受けさせることである。
そして、血と汗と涙の結晶である、金銭を渡すことである。
ときには、保証人となり、後見人となり、後ろ盾にもなる。

世の中の不満ある妻と娘たちは、なんらかの誤解をしているのではないだろうか。
夫そして父親の、経済という屋根があって初めて、母子は安心して暮らして、生きて、成長していけるのである。
夫は、父親は、社会の屋根と、経済的基盤を支えるために、一生懸命働いて稼ぎをもってきているのだ。
それは、夫の愛、父親の愛の最大の表現である。
これを、軽蔑して、一笑に付して「あんたっていつもそれだけ?」と言ってみる女性は、男性からいったい、何がほしいというのだろうか。

私は正直言って、この希和子という女性に、母親らしいところは、どこにもない、と思った。
食べるものも、友達も家も環境も何も準備してあげなかった。
ただただ、自己中心的な本能に従っているだけだった。

子どもを産みたい、育てたい、というのは、人間が生物として生まれ持った、種の保存の欲求である。
欲求に溺れて生き、そして育てた子どもにも、同じく、欲望にまみれた生き方を教え、「それしか」残せなかった親を、はたして母親と呼ぶことができるだろうか。

小さな子どもに、幸せになるために、ありとあらゆる手だてを、たくさんの人たちが、大きな社会のなかで、してあげたいものだ、と心から思う。



☆それにしても、かわいそうな女性である。
平安時代には、2号さんでも3号さんでも、子どもを産み、その子が認知されて、跡を継ぐこともできた。
今後、2号さんや3号さんの、人権や社会的立場の保証、扶養手当や厚生年金、老齢年金まで、すべて対応できる社会にしていったほうがいいのか、ちょっと悩んでしまう。

2014年2月21日金曜日

NHKドラマ「ごちそうさん」感想。

NHK朝の連続テレビ小説「ごちそうさん」は、とても人気があるようだ。
その前の「あまちゃん」の人気から始まって、ツイッター上でも、共通の話題になるような、インターネット世代の、テレビとツイッターの連動が、うまく行っているのかもしれない。
テレビドラマの感想を、ツイッターで交わせるような、そういう時代の先駆けなのかもしれない。
私自身は、以前は毎朝必ず、テレビ小説を観ていた時期もあったが、ライフスタイルの変化で、見ない時期もある。
朝の連続テレビ小説は一日一回15分という「短さ」と、月曜日から土曜日までという放送スタイルとで、国民のライフスタイルを担う、大事なテレビドラマだと言えるだろう。
私も一時期は、朝起きるとNHKをつけて、時計代わりに、朝の支度のひとときを、送っていたものである。

「ごちそうさん」の人気は知っていて、人気になってから数回、実際に見てみて、それで、やっぱりストーリーはよくわからない部分もあったけれども、「ごちそうさん」という題名の由来を聞いて、なるほど、と思うところもあった。
戦争中で食料も乏しく、また人の心が苦しみ荒んでいるようなときに、おいしい料理を作ってふるまう、それで「ごちそうさん」という呼び名がついたのだという。
「ごちそうさまでした」というときに「ごちそうさん」と言うのが東京の人なので、そのあたりは、大阪の感覚なのかもしれない。

私は昨夜、ずいぶん回復してきた大雪の流通にほっとしながら、それでも生協さんには欠品や遅れがあって、自宅で保管してきた食品を計算して分けて使う状況になっていた。
それでも、「こういうときだから」ということで、とっておいたお味噌を、新しくふたを開けた。
そして、豚汁を作った。
「こういうときだから」と、ちょっとしょっぱめに作ってみた。
「少ししょっぱめのほうが、元気が出る」と思ったのだ。

それを家族の椀に取り分けて「さあ、できたわよ」という瞬間に、
「ああ、これが「ごちそうさん」っていうのかも」と、思ったのである。

そのときの気持ち、というと、「さすが、こういうときに、備蓄のコメや味噌を取ってある」とほめられたことや、家族が、とてもおなかを空かせていて、自宅付近を見て回っても、予想以上の被害に、なんだか元気がなかった状況、そういう状況のなかで、もしかしたら隣家の冷蔵庫は空っぽという状況のなかで、自分だけは、食料を備蓄してあったこと、そしておいしくてあったかい料理をふるまえること、そこに、何かの喜びと誇りを、発見したのである。
料理はいつも作っているが、こうした状況のなかでの、料理、そして、それをふるまって喜んでもらえることは、何かとても貴重な体験であった。

こうして、お料理上手さん、ご家庭上手さんが、いざというときに、家族だけではなく、近隣の人々にまで、心も元気が出る料理をふるまえることが、「ごちそうさん」の才能であったり、努力であったり、料理上手の極意なのかもしれない、そして、これが、ドラマのテーマなのだろう、と思うのだ。

グルメブームで、このドラマに出てくる料理が、とてもおいしそうだとか、レシピを再現してみたいとか、そういうことも、テレビドラマの楽しみ方だと思う。

それにしても、この「ごちそうさん」は、「食べさせたい」という女性の願望を、あますところなく追求しているドラマではないだろうか、と思う。
女性の願望そのまま、という点では、このドラマには、まざまざと見せつけられる点が、たくさんある。
ひとつは、最近の朝ドラには、よくあるパターンであるが、結婚を申し込むのが、女性ヒロイン側である、ということである。
男女同権の時代であるが、これは、とても興味深い話である。
つまり、女性の側が、自分の好きになった人と結婚したい、という根強い願望である。
これは、朝ドラの視聴者の大半が、高齢のかたであることを考えると、自由に結婚相手を選べなかった時代を反映しているものか、と思われる節もある。

次に、結婚相手であるが、背の高い、帝国大学の学生である。
もともと、ヒロインの親が下宿屋さんをしていて、そこに下宿住まいをするようになった学生を、下宿屋さんの娘さんが見初めて、声をかけたのだから、恐れ入る。

また、自分の作った料理を食べさせたい、というのは、女性の本能的な愛情表現である。
それを喜んで食べてもらえることは、女性にとって、愛情を受け入れてもらった、という証拠となる。

現代の女性たち、妻たち、主婦の皆様たちは、せっかく作った料理を、夫や子どもたちはてはペットにまで、「食べてもらえない」という苦悩を抱えている。
ペットのエサのコマーシャルに「食べてくれる」「食べてもらえる」と繰り返し出てくるのは、いかにペットに「食べてもらえないか」ということを、飼い主が本当に苦しんでいるからである。

小さな子どもの離乳食でも、幼稚園のお弁当作りでも、「食べてもらえる」ことは、重要なテーマとなっている。
そのくらい、みな、誰も、食べてくれないのである。

女性にとって、自分が作った料理は、自分からの愛情そのものである。
それを食べてもらって、おいしいと言ってもらって、初めてこの愛情は、一方通行ではなく、通じ合ったものとなる。
しかしそれは、女性の側からの一方的な愛情表現を、ただ受け取ってもらいたい、という本能的な欲求なのではないか、と思う。

それでも、受け取ってもらうために、おいしいと言ってもらうために、味付けや食材の買い方、レシピの研究、小姑とはりあいながら、人間関係に心をすり減らしながら、家庭料理に時間を費やしている。

女性の生き方、本当にこれでよいのだろうか。
家族のため、それはただ数名分のためである。
しかし根本は、料理は、自分の愛情欲求である。

料理は、一日三食で、本当に時間がかかるものだ。
一日に3時間、5時間とかける主婦もいることだろう。
そうした時間を、ただ自分の愛情表現だけでなく、もっと広く、社会のために使えないものなのだろうか。
時間と労力を、ただ愛を受け取ってもらって自分が満たされる目的のためだけでなく、広く社会のために、使えないものなのだろうか。

毎日、時間をかけて、そのことにばかり、時間を費やす、そういうのってくだらない。
もう少し、何か社会のためになることをしたらいいと思う。

2014年1月25日土曜日

日本テレビ「明日、ママがいない」第二回放送を見て・感想。

何かと話題になっている、テレビドラマ「明日、ママがいない」の第二回放送を見た。
モデルとされた病院や福祉団体からは、放送中止の申し出が出されているが、テレビ局側では、放送は続ける、という話である。

第二回の放送を見てみて、これはなるほど、11回なら11回、と放送回数が決まっているとすると、続けられるものだ、と思った。
というのは、このドラマの舞台である児童保護施設に在籍する、子どもたちの数とそれから、その施設長の大人、この登場人物のことを、一回の放送で、ひとりずつ取り上げて行けば、物語が続くのである。
それなので、たとえスポンサーが降りたとしても、テレビ局側では、話題性があるということなら、続けるのだろう、と思う。

脚本家は、新人の松田沙也さん、となっているが、脚本と監督をしているのは、野島伸司さんである。
私は、以前から、野島氏のドラマが、一定の話題性があるということで、見ることがあったが、とても問題を感じるのである。
それは、とても悲観的である、ということと、その世界観がどこか、歪んでいるように感じるからである。

特に、今回の「明日、ママがいない」では、女性、それも「母親」に対する、痛烈は批判が繰り広げられているように思える。
児童保護施設に預けられた子どもたちのいきさつを、毎回毎回語ることで、世の中の母親への、批判をしているようだ。
それは、期待との裏返しでもある。
野島さんのお母さんというかたは、どういうかたなのだろう?

そして、主人公の少女のなかに、「本当の愛」を見出す、これが、野島氏の、変わらないテーマである。
時に少女は、大人よりも博愛と慈愛を発揮するものである。
こうした「本当の愛とはこれだ」のテーマが、訴えるに値するものかどうか、そこが、視聴者への問いかけになっていると、私は思う。



2014年1月24日金曜日

NHKドラマ「紙の月」第三回「清らかな罪」感想。

新春から始まった、NHKドラマ「紙の月」も、第三回の放送が終わった。
5回の放送であるから、物語もなかばを過ぎたわけである。
今週のテーマは、どうにも「お金と女性」であるように思えた。
「お金と夫婦仲」のようにも思えるし、「お金と愛」のようにも、感じられる。
人間にとって、「お金」とは、なんだろうか?
私は、これは、考えれば考えるほど、わからなくなる。

世間には、経済学なる学問がある。
私にとっては、政治も歴史にも、それなりの法則を見出してきたわけであるが、経済学だけは、どうにもわからないところがある。
経済学の専門に聞いても、それぞれ、理論や学派もあるようで、どれが正しいというわけでもなさそうだ。
日本では、一昨年の暮れから、新しい経済政策が始まっていて、世の中の経済が回転している、というかんじがする。

今回は、40代の女性友達、三人の、それぞれの金銭事情が描かれれているように思う。
これらは、現代の女性たちが、抱える金銭事情、家庭事情を、3人の人物に象徴して描いたようにも思える。

主人公の梨花は、裕福な家で育ち、その実家の会社経営がうまくいかなくなった、という経歴を持つ。
また、高校時代には、ご両親からもらったおこずかいから、ボランティア募金をしていた。
そして、結婚してからは、仕事は忙しいが収入が高い夫のもとで、主婦として暮らしているが、何か物足りないものを感じて、銀行のパートを始める。
そして、銀行のお金を横領してしまう。

友人のひとりである、木綿子は、何か役名の通りの、「木綿の」イメージのある主婦である。
夫と、小学生の娘の三人で暮らしている。
この木綿子は、いわゆる「節約主婦」である。
今、とても「節約」がはやっているようである。
これは、デフレと呼ばれた時代のものでもあるが、やはり一家の家計を預かる主婦としては、収入が一定なので、支出をできるだけ抑えれば貯金ができる、というシンプルな理論から、節約を心掛けている。
ただ、木綿子は、「お金があればそれがイコール幸せだとは思わない」という信念を持っている。

もうひとりの友人である亜紀は、離婚ののちに、ファッション雑誌の編集の仕事を続けながら、ひとりで暮らしている。
恋人がいるがうまくいかない。
元夫ともうまくいかない。
元夫のもとに引き取られた娘とも、会ってはみるけれど、うまくいかない。
この亜紀の悩みは、買い物依存症である。
買い物依存で使いすぎたのか、元夫からは「もう自分では物足りなくなったのだろう」と言われて、縁を切られた、というわけだ。
そして、離婚してから数年たってからも、買い物依存から抜け出せない自分を、自分で情けなくなっているようだ。

ここで、私は、四人目のお友達になってあげて、彼女たちといろいろ、お話をしてみたい、と思う。
まず、ヒロインの梨花は、すでに横領が見つかって、外国を放浪している状態なので、まずは日本に帰ってきてもらうことが先決かな、と思う。
そのうえで、やっぱり、学生時代に「困った人がいたら、何かしてあげたい」という気持ちがあったのなら、学生時代にでも、結婚してからでも、ボランティア活動をしたり、NPO活動をしてみたらどう?と話すと思う。
自宅にいても、ちょっとした手芸品を作って、近所の小学校のバザーをすることができるし、地域の子ども会の役員をすることもできる。
ちょっと前には、「緑のおばさん」という横断歩道を渡してくれるボランティアがいたものだ。
そうしたところから、海外活動への取り組みなどを、勉強してみたらよかったのではないかと思う。
また、お金のことに関していえば、実家のご両親が、会社経営でうまくいかなくなったことを話している。
大人になってからでいいので、会社の経営とはどういうものなのか、そして、商業とはどういうものなのか、学んでみたらよかったのに、と思う。
お金、特に、会社の経営をするとか銀行で扱う金額というと、なかなかカンがつかめないものだ。
私自身も、もちろん、1億円といっても、まさに、「500円のランチを一日三食たべて、何年間生きられる」という計算をしてみないと、よくわからないところがある。
ただ、この計算を、してみなさい、と言ってくれた上司がいて、OL時代には、計算機を持って、「この金額を係長のカレーライスで計算してみなさい」と言ってくれたものだ。
また、三億円の宝くじを買ったらどうするか、これを考えてみたことがある。
というのは、三億円の年末ジャンボなら、一枚で300円なのだが、この一枚だけを買ったわけである。
宝くじは夢を買う、というわけなので、この一枚で、できるだけ多くの夢を見てみよう、と思った。
それを、近所のおばさんにちょっと話すと「あなたね、若いんだから、それだけお金があったら、海外留学をしてきなさいよ」というのである。
それで、さっそく、海外留学の手続きと費用を調べた。
ところが、2年間の海外留学、オーストラリアあたりに行ってきても、3000万円くらいしか、「かからない」のである。
それで、ほしかったCDをリストアップして、すべて買う、とか、ほしかった本をすべて買う、と計算してみた。
しかし、である、CD100枚も買ったとしても、たかだか30万円なのである。
それでさらに、マンションも買ってみることにした。
毎日、新聞の折り込みに入ってくるチラシを見て、マンションを選んでみる。
これだって、3000万円もあれば、手に入るのである。
それで、三億円を使うのは、本当に大変なものだ、とだんだん、身に染みてわかってきた。
それで、宝くじのテレビコマーシャルで「宝くじが当たったので、遊園地をお取り寄せしたの」という話では、これはまったくでたらめだ、ということがすぐにわかった。
遊園地は、三億円では、建てることはおろか、経営だって成り立たないのである。

そんなふうにして、梨花さんには、お金の感覚、それも、大金の感覚を、シュミレーションでいいから、覚えてほしかったように思う。
ある意味、一億円くらいは、たいしたことないのである。

次に、木綿子さんとお話をしてみよう、と思う。
木綿子さんの気持ちになってみると、収入が決まっていて、奥さんがパートには出ないことが決まっている状態なので、支出を少なくする、そして、お金をためておいて、「好きなこと」を「自由にする」のを目的としている。
そして願いは、家族の幸せである。
それから、やはり学生時代のことが描かれているが、実家がそれほど裕福ではなかったことから、お金のありがたみ、ということを痛切に感じていて、そして、その上に「お金があることだけが幸せではない」というひとつの思想を、信じ込もうとしているところがあるように思う。
今のところ、木綿子さんの家庭では、借金などに困ることはないので、これはとても庶民的な、いわゆる「普通の」考えだと思う。
ただ、やっぱり、「貧しさに負けた」「いいえ、世間に負けた」という歌があるように、お金がないところに、愛は生息できない。

木綿子さんがしている節約生活は、貯金通帳のなかにどんなに数字を積んだとしても、貧しい生活である。
年ごろの娘さんには、従姉妹のおさがりのワンピースを継あてをして、着させる。
娘の友達が見ていても、スーパーの特売セールに走る。
冷蔵庫の開け閉めにはうるさいし、夫のシャワー水道水使用タイムまで決定しているのである。
これは、節約生活ではなくて、貧しいかたがたの生活そのものである。
ここのご主人は、いっしょうけんめい働いてきたのに、自宅でくつろぐ、ということができない。
外で働いて、この家を維持する賃金を働いてきたのは、いったい何のためなのだろうか。
自分が家でくつろぐこと、そして、愛する奥さんと子どもに、楽しい暮らしをさせるためではないだろうか。
ここの木綿子さんは、そこのところを、完全にピントをはずしてしまっている。

おうちに帰ってきたら、ご主人にたくさんお湯を使わせてあげて、幸せそうなのどかな表情で、くつろがせてあげたらいいのに、と思う。
そして「あなた、お仕事、いつもありがとう」「あなたの働いたお金で、ちょっとぜいたくさせてもらっちゃった、いいかな、きょうはケーキよ」なんて、言ってみたらいいのに、と思う。
ご主人の前で「あなたのおかげでこんなに幸せです」と表現してみたらいい。
そうしたら、ご主人も、幸せそうな笑顔を見に、ほかの女性にワインをおごることもなくなるだろう。

次に、亜紀さんである。
このかたは、仕事を持つ女性である。
買い物依存症というのは、現代病のひとつのテーマとしてとても大切なことなのだろうと思う。
ここでとても大切になるのは、ファッションとお金、という問題である。
亜紀さんがライフワークにしているファッションというのは、ひとつの重要な芸術である。
そして、世界的には、パリコレに代表されるように、フランス、パリのあたりが中心となって、世界の最先端、最高峰が、構築され、進んでいるのである。

このときに、元夫は、亜紀さんのファッションを、「派手である」と評価したようである。
そして、亜紀さんと別れたあとは、娘さんに、ちょっと見てそれとわかるほどの、質素な服装をさせている。
これは、ファッションというものを、まったく理解していなかった、そして亜紀さんの仕事をまったく理解していなかった、ということなのだ。
しかし、仕事上の上司である、この編集長は、ファッションの仕事、最高峰を目指すということ、そして、20万円の服を日本で買うのでは、全然足りないのだ、ということを、しっかりと理解していたのである。
仕事で、ファッションで、世界の最高峰を目指している、この仕事の醍醐味と、そこでのストレスと、そして充足感、こうした、仕事を持つ女性の生き生きとした姿を、愛することが、認めることが、できるかどうか、ということである。




2014年1月19日日曜日

日本テレビ「明日、ママがいない」第一回・感想。

116日に第一回の放送があった、日本テレビの「明日、ママがいない」が、とても話題を集めているようだ。
実在する病院や、医療、教育のシステム、それらの団体が、抗議を申し入れた、という話である。
私は、この木曜日夜10時のドラマは、いわゆる「社会派」という枠であるということで、今回はどんなドラマ作りになるのか、興味があった。
都合で、当日には視聴することはできなかったのだが、翌日、翌々日と、インターネットサイトで無料放映されていて、視聴することができた。
いろいろなことを、たくさん思った。
この問題、いわゆる、親のない子どもたちが、施設で育てられる、というテーマに関しては、とてもデリケートな心で、対応しなければならないものだ、と思う。
なので、私自身の真意が誤解なく伝わるように、という気持ちで、長くなるかもしれないが、買いてみたいと思う。

まずひとつは、ドラマ全体に対する、一視聴者としての、第一印象である。
それは、興味をかきたて、フィクションの世界にのめりこませる、視聴率を上げる、という目標において、とても「ドラマティック」である、ということである。
音楽や映像、エピソードの数々にしても、とてもドラマ的、つまり、フィクション的であって、小説でいえば、「読み物としては面白いが、真実味に欠ける」というところである。
エンターテイメントとして、うまく出来上がっている、というところだと思う。

次に思ったことは、ドラマの出来具合としても関係してくるところだが、テーマが散っている、ということである。
さまざまな理由で、実の両親のもとで暮らすことのできない子どもたち、この子たちが集まった施設、ここでのストーリーである。
社会派として訴えたいのは、ポイントとして、どこになるのだろうか。
「親子、家庭、愛情」という点では、実の親子でも、実際にはうまくいかないことがあったり、理想どおりではなかったり、たくさんの問題があると思う。
それから、この子たちが、この施設に預けられた理由である。
赤ちゃんポストは赤ちゃんポストで、とても大きな社会的なテーマを提起している。
また、一時代には、コインロッカーベイビーということも、実際の社会問題となった。
これらの、「施設に来た理由」には、掘り下げられるべきたくさんの点がある。
それから、実際に施設というのは、どういうところなのか、実際に、親切に子どもたちが育てられているのか、という問題である。
これは、施設のあり方や、現状を変えるべきかどうか、というテーマを含んでいる。
次に、里子・里親問題である。
これは、理由によっては、ほかの理由でも、里子・里親になるケースがあり、そこでの問題も起こっている。

それから、「母親」という女性の生き方の問題である。
このドラマでは、ここに描かれる母親に対しては、批判的であるような印象があった。
恋愛をし、子どもを産み育てる母親、このひとりの人間の生き方も含まれている。

そして、もうひとつ、人間にとって「おかあさん」とな何か、アイデンティティ的な、心理的な意味、出自、「生きること」「なぜ生まれてきたの」という、思想に似た問いかけも含んでいる。

こうして、ドラマとしては、たくさんの社会問題を幅広く扱っているようでありながら、どこか散乱してしまったイメージがある。
ここから先の展開では、どこかひとつにきっちり絞っていったほうがよいのではないか、と思う。

次に、私が思ったことは、このドラマが、最近、とても話題になっている、女の子の子役たちを集めたドラマである、ということである。
この子役の子どもたちに対しての配慮、芸能界というところについて、本当に考えさせられた。
たとえば、人気の女性歌手グループがあるが、ここも、まだ10代前半の少女たちを集めて、人前で歌ったり踊ったりする。
問題は、それらが映像として残る時代である、ということである。
それから、これらの子どもたちが、まだ自分自身の意思で、「テレビに出たい」と決定できる以前に、いわゆるステージママという人が、わが子をテレビに出させたい、という気持ちのもとに、小さな子どもに仕事をさせているところである。

芸能界では、子役時代にとても人気のあった女優さんが、親がステージママであったことや、芸能界のしきたりから、仕事の内容を選ぶことができず、大人になって、芸能界というものがわかってから、人生の苦痛を味わった、ということである。
こうした、ドラマ作り、映画作り、というところで、小さな子どもを子役として演技をさせることに、なんらかの人権的な配慮は、できないものだろうか、と思う。
子どものときに演じた役が、一生ついてまわって、その負荷に耐えられない、という人がいるのではないか、と思えるふしがある。

また、こうして、ドラマ作りをするときに、監督、脚本、テレビ局のほうでは、ひとつの作品としてのドラマを作るときに、子役だけではなく、女優さんをも、自分たちの作品を作るための、素材として扱っているところがあるのではないか、と思う。
私は、時に「もしかしたら悪意なのかしら?」とも思えるのは、いわゆる清純派として、仕事を選んできた女優さんに、「汚れ役」をさせる傾向が、このところ目立つように思えるところである。
女優としての、イメージ作りや仕事上のスタンスは、大切にされるべきで、その上でもっと大切なのは、ひとりの人間として、どう扱われるか、ということだと思う。
日本には、伝統的に、歌舞伎や狂言などの芸能があり、そうしたからみから、子役や女優の扱いに対して、まだまだ非人間的なところが、あるように思う。
文化を追求するなら、社会派を思うなら、まず監督・脚本、自らが、本当に人権に配慮した作品作りをしているのか、自らをよく問いなおすべきであると、私は思う。

そうした、作品としてのドラマ、を、全面的には肯定できない、ということを前提にして、ここからもう少し書き進めたいと思う。
ひとつは、赤ちゃんポストの必要性の問題、それから、こうした児童施設の必要性の問題である。
まず、児童施設の問題である。

私は、事情がどうであっても、さまざまな状況で、実の親元で暮らすことがむずかしい子どもたちに関しては、積極的な支援を、もっと行うべきではないか、と思う。
たとえば、高齢者の施設に関しては、必要性もあり、需要もあり、すでに年金のシステムも整っていて、次々に整備されていく状況である。
それと同じように、社会的に、弱者という言い方はあまり好まないが、ひとりで生計を立てていけない状況の子どもを、社会全体で、守り、育てる仕組みは、大切なのではないかと、私は思う。

ドラマのなかでは、「本当のお母さん」ということが、とても大切になっていたが、実際は子どもたちは、「母親的な存在」のもとで、健やかに育つことができる。
それは、親戚のおばさんであったり、近所のおばさんであったり、お姉さんであったり、幼稚園の先生、保育士さん、そうした、あたたかい母性というものである。
小さな子どもにとっても、大人にとっても、「お母さん」という存在はとても大切なものである。
心理学的にもアイデンティティに関わる問題でもある。
また、愛され恵まれ望まれてこの世に生まれて来た、という確信が、人には必要なのだと思う。
そのときに、小さな子どもたちに、そばにいる人たちが、ありったけの愛情を注いであげることは、できると思う。

また、ドラマを見ていた視聴者の皆様が、「本当は実際はどうなのか?」と、このような児童施設の実態を知らない、ということがあるようである。
実は私は、まだ高校生のときに、学校のボランティア活動の一環で、こうした児童施設を、訪れたことがある。
それは、施設のクリスマス会であった。
こうした施設では、クリスマス会に、この施設の卒業生や、学校の友達、友達の親などを、積極的に呼ぶようにしている。
そして、施設の小さな体育館で、コーラスや、演劇を披露する。
全体的に、そこにいる子どもたちが、そんなに悲しそうであったり卑屈であったりする印象はなかった。
一番記憶に残っているのは、施設の少年たちと卒業生たち、これは男の子たちであるが、彼らがバンドを組んで、ロックというのを演奏したときのことである。
中学で卒業しなければならない施設を出て、いろいろな職業に就いているのであろう。
元気いっぱいに「クールズ」という、ちょっとかなり不良っぽいバンドの曲を、ドラムを打ち鳴らし、シンバルを打ち鳴らして、がなり立てていた。
がんがん歌ったあとに一言「てめえら、クールズなめんなよ!」とボーカルの少年が叫んだ。
そのとき、私の後ろに座ってみていた、年配のおばちゃんが、「キヨシく~ん!!」といって、立ち上がって大きな拍手をしたのである。
「キヨシく~ん、大きくなったわね~!」
その席は、職員の人が集まる席だったので、おそらくは、このキヨシくんを、小さなときから面倒みてきた保育士さんだったのだろう、と思う。
キヨシくんは、ふくれっつらをして、照れていた。
その場にいた全員が、笑って、拍手をした。

施設の実際の様子、それから、職員の人たち、教師や保育士さんが、どんなに真心をこめて、どんな気持ちで、この子どもたちを育てているのか、本当のことを、ドラマからではなく、知るべきであると、私は思う。
できる限り、精一杯のことを、してあげている、と私は思う。
そうした意味で、今回のドラマは、「キテレツな」エピソードが多く、賛成できない点がとても多い。
そして、また、こうした子どもたちに、もっと興味や関心を持って、必要とされる子どもたちに、充分な環境が授けられるように、と願うものである。

次に、赤ちゃんポストの必要性について、である。
これについては、実際にこれを行っている病院施設があり、そちらにたくさんの考えがあるようなので、意見はゆずりたいと思う。

メモ

アンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピットは、アメリカハリウッドを代表する大物俳優と女優の夫婦である。
アンジェリーナさんは、先日、手術を受けた。
国連UNHCR親善大使である。
ここの夫婦は、現在は正式な結婚をしているが、以前は、事実婚であった。
そして、里子を数名もらって、育てている。
最近になって、この子どもたちからの希望があって、正式な夫婦となった。
それなので、このドラマでは、あこがれの里子先として、描かれている。

次、「ドキュン」とはDQNとも表記される。
ずっと以前、十数年前であるが、「目撃ドキュン」という番組があった。
そこで扱っていたのは、実録で視聴者参加型で、中学校卒業程度で、配管工をしているようないわゆる不良と呼ばれる人たちの、更生の物語を扱っている。
「ヨロシク」を「夜露死苦」と、当て字して、地下道の壁などに、スプレーで書いたような状況である。
この「当て字」の様子と、最近のキラキラネームの様子を合わせて、当て字を使った一般的ではない名前を、「ドキュンネーム」と呼ぶ。
これは、学歴や育った環境などを、差別した言葉である。

次、女流文学において、たとえば、ジェーンエア、たとえば、「赤毛のアン」などでも、孤児であったり、孤児院の様子が描かれたりしている。
そこにおいて、女の子たちの友情は、とても重要なテーマとなっている。

次、ずっと以前、子役の安達祐美さんが有名になった「家なき子」では、「同情するなら金をくれ」というせりふが有名になった。
このシチュエーションでは、父親がなく、母親が、大変に重い病気で、入院していて、手術のために、大金が必要である。
このお金を稼ぐために、小さな女の子が、お金を稼いでくる、という物語であった。
このときにも、経済が苦しい状況というなら、なぜ、そんなに立派なきれいなパジャマを着ているのか、と視聴者から、問い合わせがあったようだ。
このときに、母親役を演じていたのは、今は亡き、スーちゃんこと、キャンディーズの田中好子さんである。
やさしい、あたたかい、お母さん役であった。

安達祐美さんは、その後、子役という仕事に関して、さまざまな発言をしている。
その、主たる主張は、母親がステージママであり、小さな子どものときから、自分の意思に関係なく、さまざまな役をさせられたことである。

★ーーー★


赤ちゃんポストについて。
赤ちゃんポストの是非が、「今になって」とさえ思える状況で、とても論議となっている。
赤ちゃんポストは、九州の産婦人科病院が、設置を決めたもので、母親は匿名のままで、さまざまな理由で育てることができない、赤ちゃんを、あずける場所である。

この設置に関しては、賛否両論あったなかで、この病院が、設置を決めた。
私が思うのは、産科・婦人科の医師たちが、実際に現場で婦人科の診療にたずさわっているときに、この設置を決心せざるを得ない、たくさんの状況があったのではないか、ということを思うのである。
病院、医療、という職業がら、個人の秘密を守ることが、求められている。
そうした状況のなかで、医師としての個人的道徳から、決心したのではないか、と思う。

私がもうひとつ思うのは、この赤ちゃんポストを設置した病院が、キリスト教の病院だ、ということである。
今、アメリカでは、「超保守派」と呼ばれる人たちが、キリスト教の信仰、マリア様の信仰と結びつけて、人工妊娠中絶に、絶対反対を唱えている。

「赤ちゃん」「信仰」「妊娠」と出産について、この病院では、宗教や思想信条上の、信念があるのではないか、と思われる。
「赤ちゃん」「生命」という点で、生命倫理の思想が、関連しているように思われる。