2014年12月20日土曜日

NHK「マッサン」第12週「冬来たりなば春遠からじ」感想。

今週は、本当に寒い一週間であった。
クリスマスも近く、冬至も近く、寒波がやってきていた。
その週の朝ドラの題名が「冬来たりなば春遠からじ」とは、本当に励まされる日本の名言である。

今週の「マッサン」は、先週から引き続き、エリーの不妊問題と、鴨居商店の長男英一郎が、話題の中心であった。
鴨居商店の「大将」ことカモキンは、やり手の商売上手であるが、そこの息子・英一郎は、ひねくれ度この上ない、頑固な青年である。
大将と英一郎は、父親とその息子の、絵に描いたような典型を表していて、「お母さん」をめぐって反発しあっている。

息子・英一郎は、やり手の父親が、家庭を犠牲にしたこと、特に病弱な母親を「見捨てた」ことが、どうしても許せなくて、怨念の塊になっている。
それでも、大商売人である父親に頭が上がらないという、屈折したところも持っている。
その英一郎を、政春・エリー夫妻に住み込みで預けて、なんとかこの曲がった根性を叩き直してやりたい、というのが、カモキンの願いである。

政春は、職場においては、国産初のウイスキー造りに取り組んでいるが、ここで英一郎という若い部下を育てることになる。
そして、自宅・プライベートにおいては、やはりこの若い部下を、ファミリーとして育てることになる。
自宅で育てるところで、妻のエリーも面倒をみることで、関わっている。

昔の会社ではこういうことがあったのだろうか、自宅に住み込みで、仕事とプライベートの面倒をみる、ということであるが、家庭教師の逆バージョンということになるかもしれない。
まだまだ若い青年を、住み込みで面倒を見る、それも上司からの命令であるから、たいへんなことである。
珍しいことであるともいえるかもしれない。

最高の良妻であるエリーは、この困難な仕事を引き受けることになる。
これは、夫の会社関係から頼まれたことであるから、夫の会社での仕事にも関わる、大事な職務であるにちがいない。

しかし、エリーの自然な態度は、まるで英一郎の母親のようになるらしい。
英一郎は、エリーが台所に立つ姿に、実の母親を投影する。
そして、親子関係の「やりなおし」をはかるようである。

ところで、私はここまで「マッサン」の感想を書いてきて、政春の人生から、「男のサクセスストーリー」を見出したい、と念願してきた。
でも、政春の仕事は遅々として進まず、先週から今週にかけて、ウイスキー造りが始まったところであるが、それでもやはり、政春が悩みそして、真摯に取り組んでいるのは、「家庭」なのである。
それに比べると、鴨井欣二郎の姿の方が、「サクセスストーリー」を体現しているように見えてならない。
成功した男の「悩み」というのは、家庭において、反発をくらう、息子がぐれる、ということらしいのだ。

もともと、家庭、家族というのは、それ独特のペースを持っているものだ。
妻であり女性であるひとりの人間の生きるペースが、すでに家庭というペースである。
それから、家庭というのはプライベートであるから、衣食住や睡眠、健康、ご近所や親戚の人間関係、というとても生物学的なところを含んでいる。

それに比べて、仕事のペースというのは、社会の決まりごとで動いている。
約束した期日には、仕事は間に合わせなければならない。
「この日に集まってください」と言ったことを、撤回することは、信用を失うことになる。
もともと、仕事のペースと家庭のペースとは、ずれてずれてずれまくっているところなのである。
その調整をすることは、とても困難であるだろう。

もちろん、仕事のペースと家庭のペースを、上手に棲み分けして、両立させられる人もいるだろう。
しかし、仕事メインで動くとなると、仕事は成功するかもしれないが、家庭は壊れてしまうかもしれない。
その、「仕事メインで家庭は壊れました」の姿が、鴨居欣二郎である。

ここで、エリーという、「家庭の女神」が現れる。
家庭の女神は、自分自身の家庭だけではなく、他者の家庭に対しても、そのご威光を発揮するようである。
「ご威光」というと、なんだかわからなくなってしまうが、ドラマのなかでは、「ラブ」という言葉が使われていた。

英一郎もまだ大学生の青年であり、鴨居欣二郎の息子であり、大人と子どもの、ちょうど端境期にいる存在である。
子どもは子どもとして、とても愛情を必要としている。
そして、まだ経験が少なくて、夫婦というものを、体験して理解することは、できていない。
家庭にもっともっとラブがほしかった、ラブが足りなくて、ひねくれてしまった、大人になりきれない、という状況だったのではないかと思う。

私は以前から思っていたけれども、子どもが大人になるときには、女性の存在が必要なのではないかということである。
それは、実の母親でなくとも構わない。
お姉さんや近所のおばちゃんであってもよいのかもしれない。
ともかく、女性だけが持っている愛情、というのが、子どもの成長の栄養素として、エネルギーとして、必要なのではないかということである。

今回、エリーが示したのは、心遣いであり、配慮であり、言葉でもあった。
でも、それ以上に、存在そのものであり、愛情深く包み込む、ということでもあったかもしれない。
もちろん、愛には、言葉や行動にすることが、必要である、ということも含めて、女性が女性であること、その存在意義を思うのである。

それにしても、このにぎやかなドラマは、たくさんの人々が現れる。
なんだか必要以上に演技力があるのに、なんだか無名で見たことも聞いたこともない女優さんが、たくさん現れるような気がする。
それも、劇団関係者の面白さなのだろうか。

これからも、にぎやかでしたたかな、このドラマに、期待していきたいと思う。
寒い。寒い。冬来たりなば、春遠からじ、である。