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イスラム国について考える。--キリスト教について

「イスラム国」について、特に宗教という観点から、いろいろなことを考えている。
エルサレムは、三つの宗教の聖地であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が、それぞれに主張して、トラブルが絶えない。

きょうは、キリスト教について、仏教とのちがい、という点で考えてみようと思う。

宗教を考えるときの着眼点は、いくつかあるが、それぞれの宗教の「ちがい」を見てみようとするときに、着眼点のひとつとなるのが、「死をどう捉えるか」である。
たとえば、仏教では、人は死んだあとも生まれ変わる、と考えている。
これは、チベットや東南アジアの仏教を考えても、生まれ変わり、輪廻転生を前提として、死を捉えているところがあり、したがって、生きている間も、「来世」のことを考えて、よく生きよう、とするところがある。

しかし、キリスト教においては、人の生は一回限りであり、生まれ変わるということはない、と捉えている。
キリスト教文化圏において、人の生は一回限り、ということは、文化圏として「当たり前」となっているようだ。
それは、生まれ変わる、ということに関して証拠がないからかもしれない。
それなので、たとえば、欧米の精神医学の診療では、「生まれ変わりを信じている」というと、精神的に病気である、という症状と捉えられるようである。

しかし、80年そこそこの人生が一回限りだとすると、そこに、「何をしても無駄」「死によってすべてが消滅する」という発想になり、無気力や絶望に陥るのだそうだ。
考えてみれば、アジアの人々は、日本人としても、自分としてもそうであるが、親しい人が亡くなっても、「あの世から見守っている」「お盆のときには来てくれる」「お位牌のなかに魂が宿っている」という考え方をするので、もしかしたらあまり寂しさがないかもしれない。
また、自分の人生としても、死んだあとは「あの世に行く」と考え、あの世で自分の人生が続くように考えている。
また、生まれ変わったら今度は、男性になりたい、とか、あんな場所に生まれたい、などということも、文化環境のなかで、ごく当たり前に、発想しているように思う。

私も、子どものときなどは、友達と集まった時に、「生まれ変わったら今度は」という話をしたと思う。
芸能人でも「今度生まれ変わった時にはまた会いたい」というようなことを言う人もいる。
仏教圏のアジア人にとっては、「生まれ変わり」はごく当たり前のことで、人生は、死んだあとも続いていくものなのだ。

それが、キリスト教圏には、まったくない、ということである。
また、イスラム教においても、「人は死んだら光になる」ということになっている。
これも、人としては、存続しない、ということになるし、生きている間に、いいことを積み重ねても無意味だ、ということになり、無気力や自暴自棄になりかねない、と思う。
あるいは、生きている間に、なんでも好きなことをしてしまおう、と思うかもしれないし、死んでから確実に、神様の元に行くために、聖戦・ジハードをして、命をまっとうしよう、と考えることもあるだろう。

キリスト教、イスラム教においては、「死」は、人間として、個人として、すべての終わりを意味する。

そして、キリスト教では、死んだ者が、ある時期、未来に復活して審判を受ける、という考えもある。
死んだ人は、長い間、ずっとお墓のなかにいるのであるが、ある時期、遠い未来に、審判が行われる、という宗教的な教えである。

「世界の終り」というときがくる。
終末思想である。
その終末のときに、神様が表れて、お墓のなかの人たちも、そこから出てきて、生きてきた間にしたことを、採点され、審判される。
悪いことをした人は、地獄に堕ちるが、いいことをしてきた人は、天国に行ける。
この天国は、地上の天国、という意味もあるようだ。

世界の終末のあとに、地上の天国を、神様が作ってくれる。
地上の楽園ともいえる。
この楽園で永久不滅に生きていける人は、生前にいいことをして、審判で「よし」と認められて選ばれた人たちである。

この審判の門をくぐるのがとてもむずかしいので「狭き門」と表現される。
(狭き門、には、ほかにもいろいろな解釈がある)

こうしたことで、キリスト教圏では、社会的に大きな問題が起こると、「終末である」「最後の審判が起こる」と考える人も多い。
今のこの時代に、そう考えるキリスト教信仰者も多いのではないか、と思われる。

一方で、仏教圏には、そうした終末思想はないので、この世の終わりというのは、漠然としているようであるし、最後の審判もないのである。


次に、女性観である。
キリスト教では、男女差別が著しいように思う。
いくつかの点があるので、書いてみたい。
1、女性は男性の「あばら骨」から生まれた。
アダムとイブの物語である。
2、キリストは、お母さんのマリアが、処女懐胎したことになっている。
3、キリストは、生涯独身であった。

これと比較するために、仏教を考えてみる。
釈迦は、結婚していて、奥さんと子どもがいた。
それだけでも充分かと思われる。
一般にお寺というのは、割合にオープンなところがあるが、仏教においては、性というのは、忌み嫌うものではなく、結婚に関しても、開かれた面があると思う。

キリスト教では、たとえば、「最後の審判」という、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵で、「実はキリストの横に、妻であるマリアの像が描かれていた」という噂がまことしやかに囁かれている。
キリストは、女性を愛することもあったし、妻を持つこともあった、ということである。
これが、キリスト教信仰者の間では、とても禁じられている話題である。
ルネサンスの時代や、近代になってから、キリストも妻帯していた、キリストは女性にも信仰を許していた、という話になったが、これは、秘密結社が「キリストは本来は男女平等であった」という思想を、秘密で保っていた、という話である。

ヨーロッパでは、修道院も多い。
修道僧などは、生涯独身である。
徹底的に男女のちがいを明らかにして、性を否定している面も見受けられる。

そういう点で、アジアの仏教のオープンさや気楽さは、欧米の人々から、人気があるようである。