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フランス紙襲撃事件と「言論の自由」。

2015年は、世界中が震撼するような事件で幕を開けた、と言っても過言ではないと思う。
1月9日に起こった、フランス・パリにおける、新聞社襲撃事件は、市民とメディア人が震えあがるのに充分すぎるほど、大きな事件だった。
「震える」という意味は、恐怖で震えるのと、怒りで身が震えるのと、ふたつの意味を考えてほしいと思う。

特に新聞社襲撃という点では、言論の自由が何度も何度も、考えさせられるところであった。
言論の自由とは、なんであろうか。
何に対して、どんな「不自由」に対して「自由」を言うのだろうか。

それは、権力からの自由である。
言論の自由が言われ始めたのは、グーテンベルグが活版印刷を発明してからである。
同時に、独裁主義国が台頭したのも、グーテンベルグ以降だと言われる。
たくさんの文書を同時に配布することができる、活版印刷は、社会にも歴史にも政治にも、大きな影響と変化を及ぼした。

特に、「言論弾圧」と呼ばれるのは、ヒトラーの言論弾圧と、第二次世界大戦中における、日本の軍事政府の言論統制である。
これら、権力や法律による言論の取り締まりを「言論の不自由」と呼ぶ。
「絶対に権力が言論を統制することがあってはならない」というのが、「言論の自由」である。

だから、すでに日本で成立している、児童ポルノ規制法や、東京都の青少年条例などが、権力による言論弾圧にあたるのである。
法案を成立させたのは、たとえば「親心」のようなものかもしれない。
しかし、一家のなかで一家の主が子どもの読む本を規制することはあっても、国家権力がそれをすると、言論弾圧となって、おそろしい人権侵害となるのだ。

言論は、本来は自由であるべきだ。
そして、たとえば、人権を守るとか、相手の思想や信条を守る、ということは、書く人ひとりひとりの、良心という規制によって行われることが、最大一番に望ましい。

今回の、フランス紙襲撃事件では、あまりにも人の宗教心に立ち入りすぎた面があるように思うが、それは、言論の自由の濫用であるように思う。
人々が、守りあいながら、尊重しあいながら、活版印刷の発展を、人類にとって、本当に価値ある方向へ使っていけるように、高め合いたい。


欲しがりません勝つまでは。

今年にはいってから、もう一か月が過ぎようとしている。
「一月は行く。二月は逃げる。三月は去る。」と言われるとおりである。
年が明けると、月日の過ぎ去るのは、本当に早いものである。
いったい何をしていたのやら、一月の新しかったカレンダーは、もう二月にめくれようとしている。

この一か月のことを考えてみると、社会の状況というのは、昨年よりも悪くなった、と感じざるを得ない。
人間というのは不思議なもので、新しい年が明けると、何かこう、前の年よりいいことが起こりそうだ、とか、前の年より佳い年になりそうだ、とか思うものである。
しかし、世の中は、昨年よりもっと、悪くなっているかんじがする。

これは、単なる社会不安というより、戦争が起こっている、という状態であるだろうと思う。
どこの国とどこの国、というわけでもない。
日本が戦争中である、とはっきり言えるわけでもない。
しかし、世界の状況を見ていて、これはなんらかの形の戦争であるように思えてしかたない。

私たち、戦後生まれの、「戦争を知らない子どもたち」は、第二次世界大戦に関していろいろなことを教えられてきた。
戦争の記録を忘れない運動、子どもたちに伝える運動、というのもさかんだった。
だから、戦時中の暮らしについて、いろいろと考えてしまう。

やはり、「富国強兵」なのだろうか。
そして、私が思うのは、「欲しがりません。勝つまでは」という標語である。
インフレーションも少しずつ進んでいるようである。
ぜいたくは慎んで、質素な生活に、ライフスタイルを見直そうと思っている。

ところで、人質事件が長引いている。
これまで、誘拐事件の身代金に関してはとても「甘かった」日本であるが、今回は、日本のイメージを払拭しようと、壁を乗り越えようとしているようである。
テロには断じて屈しない、ということを、はっきりと態度に表している。

しかし、親日国ヨルダンを巻きこんでしまった。

今回の人質事件では、日本政府は、さっさとこの民間人をあきらめてしまって、このふたりを見捨ててから、「イスラム国ってひどいじゃないか」と世論を沸き立たせ、その機に乗じて、自衛隊を集団的自衛権で派遣しようとしていたように思う。
パリで新聞社の襲撃事件が起こってから、イスラム国への、欧米プラス日本の、軍を作っての攻撃は、計画されていたように思う。

しかし、ここで日本人人質事件が長…

平凡な一市民。

私は、平凡な一市民である。
役職も無ければ、肩書きもない。
原稿料も無ければ、報酬もない。
将来の年金も無い。

しかし、おかげで、責任もない。
自由である。

世間では今、人質事件や国際問題で、とても大変な思いをしている人たちがいる。
責任ある人々は、大変だろう、と思う。
それこそ、将来の年金がかかっている。
地位も名声もかかっている。

今、日本国民はおびえている。
おびえながらもこうして、名もなき一市民であることに、ほっとして胸をなでおろしている人は、たくさんいることだろう、と思う。

国際情勢と人命がかかった、こんな大変なときに、原稿料をもらって書いているんでなくて、本当によかった。
老後の年金のために、信念を曲げてまで、文章を書くことにならなくて、本当によかった、と胸がせいせいしているブロガーたちが、たくさんいるだろう、と思う。

縁の下の力持ち、という言葉がある。
自分の暮らす縁の下に、「誰か」力持ちさんがいてくれたら、それはきっと、「当たり前」だと思ってしまうくらい、居心地がいいことだろう。
そして、その人を、ずっと永遠に、縁の下に閉じ込めておくのだろうと思う。

私は、縁の下に閉じ込められているような気がしていたが、ここで、もっと素晴らしいことに気が付いた。
それは、自由である、ということである。

雇用契約も結んでいないし、お給料ももらっていない状況で、なんの因縁があるものか。

日本が危ういこのときには、地位も名誉も責任もある人たちにすべてまかせて、私は今の、平凡な一市民の生活を、楽しもうと思う。


あるレトリック。

人間には、領土拡大欲求というものが、あるものである。
それを人道的に正当化することはとてもむずかしい。
本能のままに振る舞った、というのでは、国際社会では通用しない。
こうした見解については、先進国や国際的に優位に立っている国に見習うのが一番である。
たとえば、イギリスやフランスが、アフリカの植民地支配について、どのような言葉遣いで見解を述べているか、という点で、「学ぶべき点」はいくらでもある。
私も、彼らヨーロッパの人々が、どのような理屈で今も自分たち民族のアイデンティティを正当化しているのかは、わからない。

オランダのかつての女王は、過去の東南アジアの植民地支配について、このような見解を述べているそうである。
「私たちは彼らを、近代化し、民主化し、教育いたしました。どうですか?そのとおりでしょう?」

今でも、イギリスやフランスは、アフリカを近代化し、人間に教育をした、と言い張っているにちがいない。




NHK「マッサン」第15週「会うは別れの始め」感想。

大好きな朝の連続テレビ小説「マッサン」も、一番寒い季節の放送となっている。
こうして、現実社会にどんなことがあっても、プライベートにどんなことがあっても、毎日15分ずつ、ドラマが進んでいくのは、実に淡々としていて、一日の日常性を保つのに、とても効果的である、と私は思っている。
思い返してみれば、昨年一年どんなふうだったっけ?などと振り返るときも、とにかくどんな日にも、朝ドラだけは欠かさず見ていた、と思うのである。

さて、第15週の「マッサン」は、前の週の「渡る世間に鬼はない」からの続きである。
政春は、鴨居商店で造っていたウイスキーが全く売れず、セールス担当となる。
そして、実家の母が亡くなり、国際結婚のエリーはその時初めて、鬼のようだった姑に認められる、という話である。
この姑、政春にとっては実の母親であるが、この母の最期の一言が「おまえの造ったウイスキーはまずい」という言葉だった。

世の中にはいろいろな人がいて、いろいろな母親がいるものだ、と思う。
可愛い息子さんが一生懸命作っているウイスキーである。
せめて最期にほめてあげるか、おいしいウイスキーを造れるように励ますか、どちらかにしたらよかったのに…と思う。
エリーはこの言葉を善意に解釈して、「おいしいウイスキーを造りなさいっていう励ましよ」というのだけれど、政春にとっては、やはりショックだったのではないだろうか。

そして、セールスで全国を巡回し、特に北海道に行ってきたときのことを忘れられずにいる。
「北海道に行きたい、でもやめようか」
「売れるウイスキーを造りたい、でもやめようか」
「自分の理想のウイスキーを作りたい、でもやめようか」
その葛藤、板挟み状態が、この「会うは別れの始め」というタイトルに表されている。
「会う」は、北海道と、そこに暮らす人々との出会いだろうか。
そして、新しい出会いに向かっていくには、大阪や広島の人たちとは別れなければならない、ということだろうか。

政春は、とてもおとなしくなり、鴨居商店での仕事にも打ち込むようになる。
そして、家には直帰でまっすぐ帰り、幼い娘エマに絵本を読んで聞かせたりして、よい父親、よい夫となっているのである。
あまりにもおとなしすぎて、妻のエリーが胸騒ぎを抱くほどである。

男のサクセスストーリーを考えるとき、この一週間の「惑い」「おとなしさ」は、とても大切で…

成人の日・新成人に向けて。

きょうは1月の第一月曜日。
成人の日である。
全国各地で成人式が行われただろうと思う。

二十歳というと、可能性でいっぱいなのだろう、と思う。
以前、後輩の女子学生に、「いいね、これからなんでもできるね」と言ったら、「何を言ってるんですかお姉さん、もうぎゅうぎゅうです!」と言い返された。
考えてみれば、子どものときは親に守られているが、二十歳となれば、すべて自分の責任である。
そして、大人の社会の大海原に放り出されてみれば、たくさんのルールがあり、先輩がいて、むしろ大人社会の「現実」というものに直面して、限界を知る、というところかもしれない。

以前から私は、大人になる、ということは、社会の構成員の一員になることだ、と思ってきた。
社会の屋根に守られる立場ではなく、自分自身が社会の屋根となり、車輪となって、社会を動かす立場になる。
それはきっと、楽しいことだろうと思う。
まさに、大人になったから与えられた権利である。

新成人は、新しい世界に船出をする旅人のようなものだ。
その旅行鞄には、何を詰め込んでいるのだろう。
新しい靴下や、どこの国にでも渡れるパスポートのようなものだろうか。
長旅に耐える、簡素な革の手帳と、銀色の万年筆だろうか。
どこでも眠れる薄手の毛布一枚もあればいいのだろうか。
あるいは、座右の銘となる一書だろうか。

新成人にはぜひとも、「できる」という可能性の鍵束を、持って旅立ってほしい。
新しい時代には、新しい人がのびのびと活躍できる、爽やかな草原が待っている。


NHK「マッサン」第14週「渡る世間に鬼はない」感想。

新年、あけましておめでとうございます!とばかりに、「マッサン」の放送が始まった。
年末年始からは一週間のお休みだったから、日常性に立ち返るには、効果抜群な朝の連ドラである。

今週は、まず、広島の実家で、政春の実の母が亡くなる、という重要なテーマがある。
それは、TBSかどこかのドラマ「渡る世間は鬼ばかり」とリンクしてくる問題でもある。
嫁姑が情熱的に描かれた橋田寿賀子ドラマの、主要登場人物が、この「マッサン」にも出てくるので、ここは面白いひっかけである。
そのあたりは、泉ピン子さんの、熱烈な演技にまかせるとして、私は、政春が北海道に初上陸したあたりをとても感動的だったので、書いてみたい。

ともかく、新年に入ってからは、主題歌「麦の唄」も、二番を歌うようになり、「空よ風よ聞かせてよ」のフレーズが耳から離れない道産子である。
考えてみれば、北海道は空が広かった。
そして、いつも青空と会話していたものである。
6月の風も素晴らしかった。
迷いや悩みがあると、草原にたたずみ、「空よ、風よ」と問いかけたものである。
この、二番の歌詞については、また改めて触れてみたい。

そうして、政春は、せせこましい大阪、せせこましい広島から出て、北海道の情熱大陸に渡る。
ともかく広い。
宿屋のロケ地は、北海道開拓の村であるように思われる。
札幌駅からは地下鉄東西線の終点「新さっぽろ」まで行き、そのバスターミナルから「開拓の村行き」というバスが出ているので、参考にされたい。
札幌周辺の子どもたちは、小学生の時代に、遠足やマラソンで体験しているおなじみの村である。
バスターミナルからはバスで20分くらいである。
北海道開拓時代、明治時代の札幌の洋館が立ち並んでいて、とても素敵である。

そして、今週のマッサンで、歴史的快挙なのは、ニシン番屋の映像を撮った、ということである!
北海道開拓記念館でも、小樽でも小平でも、ニシン御殿、ニシン番屋の建物は残っているが、その当時のにぎわい、というのが伝わってこない。
ともかく、とてもにぎわっていたそうで、それは小学生のときから、「北海道の歴史」として教えられている。
しかし「あれからニシンは何処へ行ったやら~♪」である。
ニシン漁がはやっていたのは一時のことで、その後、昭和の時代になると、潮流が変わって、ニシンが日本海に来なくなってしまったのだそうである。

アジアのなかの日本という誇りについて。

アジアのなかの日本。
私はこのところ、いやここ数年、とても考えていることがある。
それは、二年半前のアジア危機と、そこから続く世界情勢のことである。
この状況と、今、日本が向かおうとしている方向がわからないと、本当に世の中が真っ暗闇になってしまう。

しかし、このところ、世界情勢が少しずつ見え始めている。

私がひとつ、自分自身の心を見つめて思うのは、まず「心の傷」を癒さなければならない、ということである。
二年半前のアジア危機において、自分自身が何を感じたか、ということが、とても長い間、自分でもわからなかった。
でも、時間をかけたら、わかってきた。
それは、深い悲しみであり、ショックであり、恐怖でもある。

あのとき、日本は東日本大震災に見舞われていた。
お見舞いに来てくれる世界中の国々の友情にとても感謝したものだ。
しかし、世界情勢はそんなに甘いところではなかった。
一年と少ししか経っていないのに、世界は、日本を中心としたアジアを侵略しようとしてきた。
人間、というものに、多少でも信頼感があるのなら、こんなに意地悪な考えを持つ人々がいまだ存在する、ということが、たいへんなショックである。

また、世界、というものを痛感させられた。
学校で習った地図くらいしか頭になかった。
知識でしかなかった「世界」というもの、そして「世界のなかのアジア」「アジアのなかの日本」として、国を守らなければならなくなった。
それは、知識だけで、とっさに守ったことであるが、あとあとになって、心に大きなダメージを与えたように思う。

それは、「日本である」「日本人である」という誇りが、自尊心が、とても深く傷つけられた、ということである。
誇りが破壊された、といっても過言ではない。

これまで、親に可愛がってもらった自分。
自分の家や、部屋、大切にしている食器までが、とてもつまらないものに見えてきた。
誰かに常に「いじめられている」という気持ちがした。
これは、アジア人である、日本人である、黄色人種である、ということを、痛感して、日本人の世界での立ち位置を、改めて確認してしまった、その痛みである。

常日頃、自分が日本人であることに、疑いを抱いていなかったし、誇りも持っていた。
日本は先進国であるし、また勉強もたくさんしている。
倫理道徳もきちんとしている。
自然も豊かで人情も厚い。
そうした日本人であ…

現在の世界情勢についての仮説。

2015年も明けて、10日が経とうとしている。
現在の世界情勢は相変わらず、「よくわからない」というかんじである。
戦争が起こっているのだろうか?
戦争が起こっているとすると、誰が起こしているのか。
どこの国とどこの国が、戦っているのか?
なんだかまるでさっぱりわからない状況である。
それでいて「何かは起こっている」と、誰の感覚にも明らかである。

世界情勢について、いろいろな視点から考えてみた。
いくつかの仮説があるのだが、そのうちのひとつが、自分にとって、とても有力であるように思うので、ここに書き記してみたい。

二年半前、2012年の8月に、「アジア危機」が起こった。
あれから二年半で、今日まで引き続いて、世界の勢力分布図の変化が起こっているように思われる。
その勢力分布図の変化は、ここのところ、また格別に激しくなっているように感じられる。

どんな変化が起こったのか、考えてみた。

私は、北海道に在住していたことがある。
そこで起こったことが、とても今の世界情勢に似ているように思うので、それについて書いてみたい。
それは、プロ野球界の勢力分布図の変化である。

以前は、北海道といえば、田舎扱いであった。
特に野球は、道産子は野球が大好きなのだが、地元にプロ野球のチームはなく、高校野球も、「のびのび野球」と呼ばれ、一回戦で敗退して、故郷に帰ってきた。
それでも、「よくやった」「参加することに意義がある」と北海道の住民はとても満足だった。

いつのことだったろうか、ある夏に、高校野球で、一回戦を突破できたことがあった。
そして、二回戦も、準々決勝も、準決勝も突破できた。
あの有名校、この強豪、ひとつひとつ、くだすことができたのである。
西日本の有数校にも、勝つことができた。

そして、まさか、の決勝戦である。
私たちは、もうドキドキして、応援をした。
そして、決勝戦でも勝つことができた。
北海道に、津軽海峡を越えて、真紅の大優勝旗が渡ってきた。

北海道民は、「こんなに夏が長いのは初めて」「こんなに野球を応援したのは初めて」と、応援疲れしてしまうくらいだった。

それでも、一年目は偶然だ、と思ってしまった。
しかし、二年目の夏も、決勝戦まで進むことができた。
これが今もプロで活躍している選手の、高校野球の歴史に残る、名試合となった。

私たち北海道民は、「北海道だって、やればでき…

NHK大河ドラマ「花燃ゆ」第一回「人むすぶ妹」感想。

2015年も新年が始まった。
新年というと、楽しみなのが、NHK大河ドラマである。
今年は、女性が主人公の「花燃ゆ」である。
今夜は第一回の放送があった。

明治維新の時代を描いたドラマである。
人の名前や人間関係が、子役もまざっていて、わかりずらいところはある。
しかし、物語はまだ始まったばかりである。

とてもよいドラマだと思った。
特に印象的だったのは、明倫館で学ぶ言葉である。
ドラマの中に繰り返し繰り返し出てきた。
論語であろうか、孔子であろうか。

最初はよく意味がわからなかった。
しかし、ドラマの筋書きがわかればいい、と思っていた。
でも、ドラマを見続けていくと、この言葉の意味が、だんだんとわかってきた。
主人公のひとりである、吉田寅次郎が、学びに学んで、逃げ出して、夜空を見上げて、その言葉の意味がわかってきたシーンが印象的であった。

また、「教育」ということに関して、「何のために学ぶのか」という問いかけと答が、明確に主人公たちの言葉となって、耳から伝わってきたことが、とてもよかったと思う。
とても感動した。
教育の大切さや、自分自身が学び続けること、自分の力で考えること、行動すること、など、とても決心させられる、第一回放送となった。

これからも、一年間の大河ドラマの放送、とても楽しみにしている。