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金メダリストには金メダリストの生き方がある。

きょう、フィギュアスケートを観ていた。 NHK杯である。 男子フィギュアスケートでは、以前から応援していた羽生結弦選手を、今年も応援していたのだが、入賞を逃して4位となった。 私は、羽生選手が、先月、中国の大会で怪我をしたことを知っていた。 それから、今回のフリーのプログラム、「オペラ座の怪人」は、誰のどんなスケートよりも、素晴らしかった。 だから、4位という結果がとても悔しく思った。 でも、「男の子っていいな」って、思った。 日本の男子スケート界には、あとからあとから、すごい選手が沸き立つように生まれてくる。 昨年のソチ五輪の選考のときに、調子がよくなかったという、村上選手も、無良選手も、どんどん、どんどん、自由に演技をしていった。 日本人でも、若くても、できる、と羽生選手が教えてくれた。 羽生結弦さんが、ソチオリンピックで金メダリストになったことで、「わたしにもできる」「自分でもやればできる」という自信が、たくさんの人たちに、金色の贈りものになった、舞い降りてきた。 羽生選手は今、以前とはちがう、という何かちがうもっとこれまでとはちがう、苦悩があるのではないかと思う。 それは、金メダリストとして生きる、という苦しみなのではないか、と思う。 それは、苦しみかもしれないし、役割かもしれない。 試練かもしれないし、使命かもしれない。 金メダリストと同じ、NHK杯で、同じスケートリンクに立つことができた、ということそれだけでも、他の選手にとっては、大きな喜びになることだろう。 羽生選手に、追いつけ、追い越せで、熱烈で執拗なライバル心を持っていることだろう。 そのライバル心は、向上心でもあり、自信でもある。 国際大会となり、世界が舞台となれば、政治も絡んでくることだって、あるかもしれない。 羽生選手は、自分が最高の演技をしたのに、時には認められなかったり、時には他の選手にチャンスが与えられたり、時には、嫉妬や憎しみや闘争心の的にならなければならない、そういう状況になった。 それが、金メダリストの立ち位置なのだ、と思う。 金メダリストが築いた、日本の男子スケート界のレベル、というものは、確固としてこれからも存在するのに、金メダリストが築いた基盤の上で、後輩たちが、熱気のもとで、競い合ってスケーティングをするのである。

NHK「マッサン」第9週「虎穴に入らずんば虎児を得ず」感想。

マッサン、鴨居の大将と一緒にウイスキー造りをする! なかなか動きの起こらない「マッサン」であった。 今回の朝ドラの、重要だと思われる視聴者に、お酒好きな男性陣がいる。 彼らは、朝ドラは「女子どもの観るもの」と知ってはいるのだけれども、その世界に飛び込む理由として、「酒好き」を看板にしている。 いつも楽しんでいるウイスキーが、どのように作られているのか。 日本で初めて作られたウイスキーにはのはどんな歴史があったのか。 サントリーとニッカの関係はいかに。 どっちのウイスキーをこれから愛好して行こうかどうか。 いかにお酒のうんちくを語ろうか。 …というところである。 しかし、物語は、政春とエリーの夫婦ものとなり、嫁と姑のドタバタ劇になったり、揺れているようである。 特に今週は、私は、男のサクセスストーリーとして、政春がどんなふうに、無職・夢職から、頭一つ抜けていくのか、というポイントを興味深く観ていた。 そして、「なるほど、そうなのね!」と本当に心から合点がいった、というかんじである。 それというのも、楽しい金曜ロードショーがあり、先日亡くなった高倉健さんを偲んで、「幸福の黄色いハンカチ」が放送され、私も手にハンカチを握りしめて、観ていたからである。 「幸福の黄色いハンカチ」は、子どものころ、北海道の地元映画として、観た。 その後、名作となり、何度もテレビで放送されていて、そのたびに観ている。 映画というのは不思議なもので、年齢や経験を重ねると、また視点がちがって見えたりする。 今回、見終えたあとに夜も眠れずに考えたのは、「3人の関係」というところであった。 ロードムービーであり、一台の車に何名かが乗り合わせて、その旅がストーリーになっている。 3人の出会いがあり、言葉があり、昼があって夜があって、心が少しずつ変化していく。 健さんの心が次第に開いていき、人生を語り始め、黄色いハンカチのいきさつを話して協力してもらうまでに、あるいは、健さんが夕張に行こうか行くまいか、この心の葛藤を乗り越えるために、とても重要だったのは、なにか。 男性2名、女性1名、というメンバー構成の「女性1名」というところではなかったか、と思った。 桃井かおりが演じる「朱美」という若い女性が、健さん演じる、刑務所帰りの無骨な男と、武田鉄矢演じる東

NHK「マッサン」成功への道筋。大事な課題。

マッサン、成功への道筋。大事な課題。 NHKの朝ドラ「マッサン」を見ていて、これから描かれる場面で、とても注目している箇所がある。 それは、どのようにして、マッサンが、成功への第一歩を踏み出したのか、ということである。 夢はあるけれど、叶わない、実現できない、という人はおおぜいいる。 夢を優先させるために、好きなことをして生きていきたいがために、いわゆる「貧乏暮し」を余儀なくされる人も多いだろう。 しかし、そういった人たちは、ある意味で「その他おおぜい」である。 政春は、「その他おおぜい」から、一歩抜きんでるための、何か、をしたはずである。 あるいは、「その他おおぜい」では、おさまらなかった、何らかの特別な性格を、生まれつき持っていたのかもしれない。 「貧乏暮し」を楽しむことや、そうした生活を描ける人はたくさんいるかもしれないが、果たして今回のドラマでは、サクセスする人だけが持っている「何か」が、描けるのだろうか? たとえば、これから、鴨居商店に頭を下げて、一緒にウイスキーを造らせてください、と言わなければならない場面である。 しかし、鴨居氏の、「やり方」というものが、政春には不満のことこの上ない。 商売のために、売れればいいのか、という疑問である。 作家や芸術家も、「売れればいいのか?」という疑問に突き当たることがある。 そして、自分の納得するもの、純粋な理想のものだけを作りたい、と思うこともある。 しかし、商売というのは、お客さんあってのもの、買ってくれる人あってのもの、という鴨居氏の理論も、大いにうなづけるところがある。 スコットランドでは当たり前の、「本物の」ウイスキーは、日本人の口には合わないのではないか、と鴨居氏は思う。 そして、まずは、日本人に向けて、初歩の初歩から、飲み口に柔らかい、炭酸で薄めたウイスキーを紹介しようとする。 これはこれで、日本人や日本のお客さんに向けて、とても親切な手法である。 しかし、政春は、純粋理論のほうに固執してしまうようだ。 頑固といってしまえばそれはそれで、どこか褒め言葉のようでもあるが、実はそれは、「素直さが足りない」「謙虚さが足りない」という意味でもある。 まだ、若くて、仕事も駆け出しである。 自論はともかくとして、先輩に学ぶ素直さ、というものは必要ではないだろうか。

NHK「マッサン」第8週「絵に描いた餅」感想。

今週の「マッサン」は、住吉酒造を退職した政春が、次の就職先を見つけられず、ウイスキー造りの夢に一歩も近づけず、足踏みしている状況の続きである。 「夢を追う」「夢を実現する」というのは、こんなにも困難が多いのだろうか。 夢が大きければ大きいほど、困難も大きく牙をむいてくるようにも感じる。 政春のところに、広島の実家から、「チチキトク」という電報が入るが、これは、母・早苗のお芝居であった。 母・早苗は、どうしても政春を実家に呼び寄せて、酒造りの跡を継がせたいようである。 また、エリーとの結婚も、いまだ反対でいて、半年もすれば熱が冷めるだろう、と期待しているくちである。 それにしても、今週のストーリー展開は、広島へと舞台が飛んで、「嫁姑問題」となり、ドラマを盛り上げるための、一週間だったように思える。 それでも、やはり、政春の目標の実現、「男のサクセスストーリー」に関しては、考えさせられる問題が、とてもたくさん描かれていたと思う。 嫁と姑の問題は、平安時代にも、清少納言が「めずらしきもの、姑に好かれる嫁」と断言していたくらいで、とてもむずかしい問題のようである。 私自身は、実体験がないので、想像してみるしかないのだが、実体験のある人にとっては、とても反響の多いシーンであるようだ。 母親の気持ちになってみれば、おなかを痛めて産んだ子どもであり、手塩にかけて育てた息子である。 その息子が、自立した証拠であるにはちがいないが、自分の力で、唐突に、「お嫁さん」を連れてくる。 これは、母にとっては、ひとつの大きな裏切りに近いものがあるのかもしれない。 また、なぜかはわからないが、母親にとっては、長男よりも、次男のほうが、すごくかわいいようである。 ずっと昔の日本やアジアの風習では、年老いた両親は、父親の面倒は長男が見る、母親の面倒は次男が見る、と決まっていたらしい。 母にとっては、父親である夫と、長男、長女、次男、次女、と、それで長い間、家庭を築いて維持してきたものが、そこへ突然、他人のお嫁さんが「家族です」として入ってくるのだから、困惑もたいへんなものだろう、と思う。 女性同志にも、小さい社会であっても、リーダー格の女性もいれば、サブリーダーとなる女性もいる。 また、現在、とても問題になっているとおり、「ママ友カースト」という人間関係の

NHK「マッサン」第7週「触らぬ神に祟りなし」感想。

大好きな、朝の連続テレビ小説「マッサン」も、放送が11月になった。 後期の朝ドラは、秋から冬そして春までの長い期間になる。 見ているほうとしては、あわただしい年末、寒い冬の支度、お正月、年明け、年度末、子どもたちの卒業シーズンと、人生の動きが忙しい季節である。 「マッサン」が始まったころはまだ、紅葉も始まったばかりだったのに、今は寒風が吹き始めている。 「巣ごもり」のリビングに、楽しいドラマ、これもまた、冬の風物詩のようだ。 今週の「マッサン」は、政春の仕事はどうなったのやら、エリーも仕事を見つけるはずがどうなったのやら、よその家のことに、まさに首をつっこんでの、大騒動である。 政春とエリーは、家賃が払えず、やむなく家主のところに行って直接話をすることになる。 その家主は、野々村さん、という資産家風の大きな家であった。 ここの子どもたち、幼い娘ふたりに、英語を教えてあげれば、家賃は待ってもらえる、という話がまとまる。 エリーは、英語教師という職に就くことになった、という状況である。 お給料は、家賃と差引、ということで、時給いくらなのか、はっきりとは決めないようだ。 政春のほうは、「こひのぼり」という居酒屋、一杯飲み屋で、皿洗いのアルバイトをしている。 この皿洗いのほうは、一応は安定しているようである。 それでも政春は、ウイスキーの夢はあきらめていない。 なんとか、自分で資金を作って、ウイスキーづくりをしよう、と基礎の基礎から始めるようだ。 皿洗いのアルバイトが安定したところで、次の「一攫千金」になる仕事を模索し始める。 それが、パンを焼いて売る、という仕事である。 庭に、パン焼き釜を、レンガを積み立てるところから、始めている。 どうも政春には、こうして自分の手で何かを作って、それも口に入れるものを作って売る、という職業に目が向くようである。 パンは発酵食品であるから、ウイスキーとも作り方が共通するところがあるのだろう。 こうして、酒造会社を辞めてから、ある程度、家賃も食費も安定したところで、次の段階に取り掛かっている状況であるが、男のサクセスストーリーを考えると、まだまだ始まったばかり、というところである。 ところで、今週の、エリーと政春には、英語会話教師の仕事がらみで、小さな子どもたちがご夫婦の間に、いろいろな形

動物愛護の風潮について思う。

ここ数年、というべきだろうか、動物愛護の風潮が、とても大きくなった、と思う。 主に、インターネットで、感じることである。 ツイッターで、「迷い犬」「捨て猫」などが、多くの人にいわゆる「拡散」をされて、「誰か飼ってくれる人はいませんか」と、情報として多く共有されている。 また、自宅のペットの猫や時には小鳥やちょっと変わった動物などを、写真や動画でインターネット上にアップしている人もいる。 全体的に「かわいい」と好評である。 そして、迷い犬や捨て猫などが、保健所で殺処分になることが、とても大きく取り合上げられている。 「かわいそう」ということなのだろうか。 私は、子どものときから、子どもなりの自然な気持ちで、雨の日に鳴いている子猫などを、拾ってくるような子どもだった。 そして、大人になって、農業や生物を専門とする大学に進んだ。 けれども、「現実」というものは、「かわいそう」だけでは、済まされないものだ。 保健所に務めることになった、友達の獣医師がいるが、その人の仕事は、野良犬や捨て犬などで、保健所に集まってきた犬や猫を、検査して、殺処分することだという。 もともと、保健所が、飼い主のいない、犬や猫を集めるようになったのは、大きな理由がある。 かつての日本は、昭和初期や大戦のころなどは、たくさんの野良犬がいた。 東京の街にも、野良犬が群れを成して走り回ったり、人に危害を加えていたそうである。 また、野良犬や野良猫は、ごみをあさったり、どぶ川を泳いだりする。 不衛生なことはこの上ない。 さまざまな病原菌の媒体となっている。 私は、ツイッター上で、小鳥を食事の皿に載せているような写真を見ても、危険だと思うのだが、動物はたとえ、ペットとして飼育されていても、たくさんの病原菌を持っているものである。 だから、街の治安と衛生を守るために、野良犬や野良猫、ほかの野生の動物たちに関する対策は、どうしても必要なのである。 私たちが大学で教えられたのは、「人間のための動物である」ということである。 人間の生活を侵害してまで、動物を大切に生かす、ということは、あってはいけないと厳しく教えられた。 だから、現在の獣医師も、病気になった動物を、「治す」「生かす」という方向で医療も研究もしていない。 できるだけ早く、「人間に伝染する」病原

「政治的である」ということ。

たとえば、社交的である人が、妬まれたりする。 礼儀に厚い人が、憎まれたりする。 そっけないほど「虚礼廃止主義」の人が、結局のところ、どんな味方も付けられなかったりもする。 世の中は、人間関係がすべてである、といっても過言ではないかもしれない。 たとえば、サッカーの試合がある。 たとえば、プロ野球の試合がある。 厳正なルールに則った上で、戦う。 戦う以上は、なんらかの戦略がある。 監督がいて、選手がいる。 サッカーであれば、フォーメーションであったり、選抜選手であったり、選手交代であったりもする。 右の脇から、小さなパスをつないでいく、というのも戦略であるし、大きなボールを遠くまで飛ばして、そこに決まった選手が立っている、というのも、戦略である。 この戦略が上手いか、そうでないかで、サッカー監督の腕が決まる。 上手い監督もいるし、なかなか勝てない監督もいる。 野球であれば、ランナーを一人、一塁に出しておいてから、次の選手はバントを決める、という戦略もある。 これは、野球の戦略としては、比較的、基本の戦略である。 ふたりめの選手はバントでアウトになるが、一塁に出ていたランナーは二塁まで進むことができる。 チームの利益になるのだから、うらみっこなしである。 ここには、ひとりひとりの個人プレーではなく、団体であったり、チームであったりするところの、大きな規模のプレーがある。 ひとり以上の人が集まって、何かを成し遂げようとするときに、必要なものは、ルールと戦略である。 とかく人はイメージから、「戦略」や「策略」という言葉自体を嫌ってしまう。 しかし、策士というのは、子どもたちのゲームを見ていてわかるとおり、誰もが提督になりたいし、誰もが高名な策士になりたがるものだ。 人が集まる集合体には、なくてはならない存在なのだ。 戦略を練って練って勝ち進んだのは、織田信長であっただろうか。 信長をテーマにしたゲームも、とても人気である。 人が集まって何かをする以上は、戦略はあってしかるべきだ。 戦略もなければ策士もない、だから、烏合の衆になってしまう。 結局は個人プレーであったり、個人の名誉だけが浮いてしまうものである。 選挙は、ルールに則って、たくさんの人が、「勝ち」を目指して戦うものである。 だから、「選挙戦」

地球環境問題・緑が好きな人たち。

世の中には、環境問題で、深刻に頭を悩ませている人がいる。 自分の人生もままならないのに、なぜ、地球規模の環境問題をそんなに気にしているのか、はたから見ると全然わからないところがある。 人間が息をするときにさえ、二酸化炭素は排出されている。 人口を減らしたら地球環境を守れるだろうか。 原子力発電をしない、というのなら、火力発電に頼るほかないだろうが、火力発電は、多量の二酸化炭素・温室効果ガスを、大気中に排出する。 地球規模の環境問題に頭を悩ます人は、まるで、迷路のなかに、進んで入ろうとしているかのようである。 自分で自分の頭をこんがらかすことに一生懸命であるかのようだ。 自己否定、人間の存在の否定ともなりかねない。 こうした人は、自宅にあっても、洗濯洗剤にエコを使い、ごみを少なくしたり分別したりすることに、時間と命を削っている。 それで本当に、活き活きと生きていられるのだろうか。 20数年前であるが、環境問題が起こった時に、環境活動家たちは、大人に教えても全然実行に移さないので、子どもたちに教えることにしたそうである。 未来ある子どもたちに、ずいぶんな負荷をかけてしまったようだ。 その当時の子どもたちが、今、大人になっていて、自分が使うお箸ひとつにしても、森林資源のことに心を痛めながら生きているのだろう、と思うと、人間のための自然なのか、自然のための人間なのか、わからなくなってくる。 よく、「お金に使われるな」という。 あるいは、「モノに使われるな」という。 「お金を使っても使われるな、モノを使っても使われるな」という意味である。 そういう言い回しから考えると、「環境問題をテーマにしても、環境問題に振り回されるな」と言いたい。 人が人として生きていくためには、現実に立ち向かわなければならない。 環境問題で活動している人たちは、人間よりも植物が大事、動物が大事、空気が大事、と言いたいようである。 まず自分自身が人間ではないか。 実際に、実行力のある、温室効果ガス削減のための、試みは、すでにたくさんの人たちが行っている。 環境白書、京都議定書、という会議もあった。 しかし、京都議定書では、中国もアメリカも署名をしなかった。 本当に、温室効果ガスを削減したいのなら、APECの会議や、日中首脳会談に注目すべきである。

日中首脳会談について思うこと。

昨日11月10日、日中首脳会談が行われた。 APECが行われている北京で、午後の時間、25分ほどのことだったという報道である。 このときの、「握手写真」が、話題になっている。 冷え込んでいると言われる日中の関係を、そのまま表すような、習近平氏の、苦虫をかみつぶしたような表情を見ていると、誰もが会談の内容や、日中のこれからを、想像してはなんだか、不穏な気持ちになってくる。 日本の側からは、安倍総理大臣は、それなりの礼儀を笑顔を以て、言葉もかけていたが、習近平氏は無言で憮然とした表情であった。 たとえ、人間関係や国際関係があったとしても、こんなふうに、「顔に出す」ことは、なんだか大人げないような気がする。 一方で、韓国の朴大統領とは、うって変った笑顔であるから、こんなに態度がちがってよいものか?と不思議に思う。 韓国側とは、午前中に会談をして、FTAを締結させた、ということであった。 私は思った、今回のAPECは、経済の会議である。 中国と日本との関係も、主に経済の件が、話題となっていたのは、まちがいないだろう。 その経済の話で、日本の総理大臣と、中国の国家主席との一対一の対決が行われたのだと思う。 それは、公式の会談の前には、激しいやりとりのなかで、すでに決定していたのだろう。 だから、日本の安倍総理の表情は、疲れは見えていたとはいえ「勝った」という手ごたえが、感じられた。 他方、中国の習近平氏には、「負けました」「悔しい」「もういいから早く帰ってくれ」という表情が見えたように思う。 経済で言えば、日本はアメリカやオーストラリア、ASEANの東南アジア各国を結んで、TPPの協議が進んでいる。 「今後、TPPが締結される予定である」というだけで、経済の動きはすでに、中国と韓国を取り残して、アメリカ、オーストラリア、東南アジア、日本、そして、遠く太平洋の向こうでは、コロンビアやメキシコ、といった国々まで広がっている。 TPPの協議で、すでに水をあけられてしまった中国は、特に経済に関して「置いてけぼり」を食わされた状態になっている。 近年の、中国経済の翳りは、日本と東南アジア諸国の連携の緊密さと、TPP協議によるもの、と考えて差し支えないだろう。 それでも、今回の、日中首脳会談では、中国側から、なんらかの経済的な譲歩を、強く

APECに期待する。

中国・北京で、APECが始まった。 APECというのは、日本語に訳せば、「アジア太平洋経済協力会議」となる。 アジア・太平洋、というと、実際にはどの国が属することになるのだろう? とても広い範囲になりそうである。 今回のAPECの首脳会議には、アメリカからもロシアからも、そして開催地中国からも、トップが集まっている。 「経済協力」なので、主に経済の話をするようである。 経済的に協力するのか、それとも競争するのか、実際のところはどうなのだろう? APECの開催期間中には、せっかく集まったのだから、「ついでに」ということだろうか、公式の首脳会談も行われる。 会場で顔を合わせて、ひとこと挨拶を交わしただけでは、公式な会談とはならないようだ。 あくまで、「公式に、首脳同志が、一対一で話し合った」ということが、会談と名がつくものらしい。 それにしても、今回の顔ぶれは、サミットといっても差し支えないほどの重責クラスである。 実際には、会談といっても、話し合いといっても、公式の会議だけではなく、夜通し、お酒でも酌み交わし、チェスでも行いながら、くつろいで話をするものなのではないだろうか。 そう、まるで映画のシーンのように、権力を持ったトップが、一対一の駆け引き勝負に出るのでは…? などと、想像をふくらませてしまう。 世界のトップが集まったとき、その一番の関心事、というのは、なんなのだろう? 私は思う、オリンピックなどで、世界レベルの選手たちが集まった時、というのも、「世界レベルだからこそ」わかる、悩みや話題が、あるのではないか、と。 「あなたの国では、こういうこと、どうしてる?」 などと尋ねてみるのではないだろうか。 また、最近、国際的に話題となり課題となっているテーマに関しては、エボラ出血熱に関しても、イスラム国に関しても、さまざまな問題を、経済だけに関わらず、語り合うのではないだろうか。 今回のAPECは、世界中でさまざまな問題が起こっている、この世界情勢のまっただなかで行われる。 ぜひとも、協力して、グローバルガバナンスを実現してほしいものだ、と思う。 ここ数年の、世界情勢も、それに伴う、世界のトップの集まりの回数も、いずれ近いうちに、グローバルガバナンスが実現するための、大切な会であるように思う。 APECの開

「戦争と女性」について考える。

ものの見方や考え方をめぐって、女性ならでは、男性的な、という考え方が、確かにあるような気がしてくるときがある。 たとえば、朝のドラマを見ていても、女性は女性同志で意見が合うときがあるし、男性は男性ならではの意見を、男性たちだけで、闊達に交換しているときがあって、そこに女性が入り込もうとしても、なんだかうまくいかないときがある。 それは、話題によるかもしれない。 たとえば、アメリカの選挙などで、「私は民主党」「私は共和党」というようなときには、女性であるとか、男性であるとか、そういったちがいによる意見の相違は、そう簡単には見られない。 しかし、「戦争をするかしないか」という点では、特に現代の日本においては、「戦争に対して絶対に反対」という意見は、女性がとても多いように思う。 また、戦争に対して、無条件で、「するべき」「いざとなったらする」という対応が、すぐに発言できるのは、男性のほうが、多いように思う。 こうした、事実を踏まえて、男女の相違による、意見の相違を、明らかにしていくことが、今後の学問研究によって、必要なことだろう。 そうした前提の上で、このところ、女性たちが女性同志で集まって、政治や経済について語り合うのを、とても興味深く思っている。 深夜のテレビ番組でも、「女性の活躍」をめぐって、いわゆる、キャリアウーマンの代表と呼んで差支えないような、社会的活動範囲の大きい女性たちが、集まって討論をしていた。 また、各地で、女性の識者が集まって、ディスカッションを開いているのも、とてもよいことだと思う。 こうした、女性たちの少人数の集まりが、やがて大規模な人数に集まっていくことが、一番望ましいと思う。 そうしたときに、たくさんの女性たちが、それは人数が多ければ多いほど当たり前ではあるが、個々の意見を持つことになる。 しかし、それだけでなく、時にはある目的に向って、ひとつの具体的な目標に向かって、集結することが、重要なことであると思う。 選挙も、年内か年明けすぐ、という状況までせまっている。 意見を集約して、ひとつのまとまった見解を持つことは、女性たちにとって、早急に求められる課題である。 ひとつの大きなポイントは、女性たちが平和への意見を持つときに、それが、戦争を抑止するという「防波堤」になるのかどうか、という点である。

年末年始とクリスマス。

いよいよ11月。 「年末年始」が、始まった。 「終わりの始まり」という表現があるが、「年末年始の始まり」も、それに似た感覚がある。 一年をよりよく「終える」ために、するべき行事がたくさんある。 クリスマスケーキの予約受付はまだだろうか? 年賀状は、すでに販売開始されている。 来年の手帳、スケジュール帳、カレンダーは? 早いところでは、すでに企業や商店のカレンダーサービスが始まっている。 女性や子どもが楽しみにしているのは、クリスマスである。 12月にはいると、街中が一気にクリスマスムードになる。 鈴の音、イルミネーション、色とりどりのクリスマスツリー。 私は、11月の20日ごろには、クリスマスツリーを玄関に飾ってしまうことにしている。 できるだけ早くクリスマスの準備を自宅ですることで、年末商戦に巻きこまれず、余計な買い物をしない、という戦略だ。 そのぶん、長く、ツリーのイルミネーションを楽しめる。 本当に、11月・12月は、忙しい。 年が明けてしまえば、あのお正月1月の、「まったりしたかんじ」というのは、なんなのだろう? それでいて「1月は行く、2月は逃げる、3月は去る」となる。 春まではあっと言う間だ。 時の流れは、「待った」を許してはくれない。 しかし、政治の流れはときには、「待った」もあるものだ。 いくさの準備は万端だろうか? 年末にはボーナス商戦も始まる。 常にいつもどこかで、「いくさ」というものは、続いているのだなぁ、と思う。

食の安全について。

ここで、女性たちのかねてからの願い「食の安全」について、考えてみようと思う。 「食の安全」について、私個人の考えを、ここで述べようと思う。 というのは、私がこうしてブログを書いて、政治的意見を書き述べてきたなかで、「食の安全」や、「環境問題」について、あまり関心がなかったように思えるご同輩が多かったのではないか、と思えるからだ。 私が「食の安全」「環境問題」に関して、あまり関心がなかったのは、生物や医療、農業を学んできたからである。 また、食品工学や食品衛生学についても、学んできた。 農業の見地から言うと、農薬や食品添加物は、適度に使ったほうがよいものである。 というのは、まったくの無農薬の農業をすると、むしろ、悪い害虫がついたり、植物が悪いウイルスに感染したりするからである。 ウイルスに感染したままの植物を、食物として摂るほうが、身体によくない。 それで、「適度の農薬は使ったほうがむしろ良い」と、学校の授業で教わっているのである。 また、食品衛生に関しても、高温、高圧、高塩分、高糖分、は、食品保存のためにとても良いことである、と学んでいる。 缶詰やレトルト保存などは、食品化学的には、理想の食品管理法であって、理論的には、缶詰というのは、100年間、品質が変わらないものとなっている。 また、食品添加物に関していえば、たとえば「グルタミン酸ナトリウム」があるが、これは、昆布を煮出した汁の結晶を取ったときの、主たる成分である。 塩を「塩化ナトリウム」と言うのと同じことである。 「グルタミン酸」や「ナトリウム」といった、化学表示があるので、不安になってはいないか、と思うのである。 実際には、昆布も塩も、とても安全なので、そこから取ったものは、やはり安全であると考えるので充分であると思う。 また、環境に関しても、人は、人類始まって以来、環境にたくさんの影響を与えて、環境を変化させて生きてきたと考えている。 「里山の自然」というが、里山というのは、人の手が、たくさん入ってできたものである。 林の下草を伐採し、柿やみかんなど、人に利益がある木を植えている。 また、地方の農村に行くと、自然を感じるかもしれないが、広い土地を耕作することも、自然への人為的な加工であるし、そこで、稲なら稲ばかり、大量に育てているのも、「大自然」と比べると

反原発女性連合の勝利を願って。

衆議院解散総選挙が、近づいている。 反原発を主張する女性たちにとって、これは、千載一遇のチャンスである。 ぜひとも、このチャンスに、「力いっぱい選挙戦、戦いました!」と言える、結果を掴んでほしいと思う。 精一杯戦った結果なら、誰も文句を言えないだろうし、また、それくらい本気で取り組んだところに、これまで通用しなかった理由も欠点も見えてくる、という意味である。 私は、互角の勝負こそ、選挙の醍醐味である、と思っている。 今のところ、政府であり与党である自民党に対して、反原発派の勝算はまったくない状況である。 女性たちも負けずに、選挙をしてほしい、と思って、いろいろなことを考えているつもりである。 ひとつ、重要なことは、「政治をする」ということである。 意見や主張がどんなに正論であっても、それが通るとは限らないのが、現実社会である。 木の葉のような、「ひとりひとりの意見」を積み重ねても、塵が積もって山となることはない。 政治を動かすということは、山を作ることではなくて、今ある山を動かすことなのである。 政治というのは、交渉であり、駆け引きであり、勝負である。 たとえ少人数であっても、強い勢力を作れば、自民党に勝つことはできるかもしれない。 「私は正しい」ということで、満足してしまってはいけない。 現実に、実際に、選挙で、自民党よりも多数の議席を獲得しなければ、政治を動かすことはできないのである。 「私は正しい」に満足してしまうと、力を合わせるということが、できなくなってしまう。 候補を立て、その候補に、当選できるほどたくさんの票を集めることが、必要である。 目標の議席数を立てて、どの人が候補に立ってくれるか約束をして、候補に立ってくれればたくさんの票を集める、という約束も必要である。 また、政党政治の日本政治であるので、政党を作ることも大事である。 超党派の女性連盟でもいいだろう。 これは、「反戦」とも関わりがあるのだが、男性をひとりでもトップグループに入れると、いつか「やっぱり戦争をする」と言う可能性がある。 女性は、本能的に、本質的に、戦争を嫌うものであるから、女性がトップ政治家であれば信頼できる。 また、女性が戦争をしたい、と積極的に言い出すことは、絶対にあり得ないから、超党派で、女性たちが手を結ぶことは、反戦・

原発再稼働・川内原発に地元が同意。

東日本大震災以降、止まっていた原発が、再稼働へと動き始めた。 昨日、九州、鹿児島県の伊藤知事が、再稼働を承認した。 地元の承認と同意があって、再稼働が始まる。 これから、日本の各地で、止まっていた原発が、再稼働を始めることになるだろう。 こうした再稼働の動きにとても敏感で、すぐにも反対の運動を起こすのが、原発反対派である。 しかし、その反対派の一番強力な人たちが、埼玉県の人、神奈川県の人、東京都の人、というのは、理解できないところである。 一番、電気を使っている地域の人たちではないか。 福島県の人も、反原発に立ちあがってデモを起こすことはない。 しょせん、反原発というのは、都会のインテリの趣味なのではないだろうか。 あるいは、遠くからでも汚染物質が届くのが、こわいのだろうか。 汚染された風や水、食べ物が、東京に届く、と想像している。 被害者意識もまんべんなく強い。 原子力発電というのは、高度な技術の結晶である。 何に関しても、100パーセントの確率など、ないものである。 地元の知識層にしっかりと説明したら、「理解した」ということである。 埼玉の一市民、東京の一市民に対しては、そこまで説明しようとは思わなかったのかもしれない。 あるいは、埼玉の一市民は、あまり真剣に考えていなかったのかもしれない。 フィーリングやニュアンスや感性で、「原発はこわい」と思ってしまったのかもしれない。 地元のほうが、よっぽど、真剣に正面から考えて取り組んでいる。 電気の必要性は、地元の人が一番よく知っている。 大きな鉄塔と高架線を通して、地方の発電所から、都会に電気が運ばれてくる。 その電気で暮らしている人が、なにをかいわんや、である。

NHK「マッサン」第6週「情けは人のためならず」感想。

失業者マッサン。 楽しみにしているNHKの朝ドラ「マッサン」。 主人公の政春が、やがて夢を実現して、国産初のウイスキー造りに成功する、サクセスストーリーである。 サクセスストーリーといっても、まだ途中である。 今週は、政春にとって、一番つらい時期ともいえる、失業・職探し・家賃払えず、という状態となった。 日本中で、世界中で、このような状況にある男性、そして妻も多いことだろうと思う。 ドラマの政春に考えさせられ、共鳴し、一緒にこのつらい時期を乗り越えていきたいものだ、と思ってしまう。 それにしても、仕事のない男、というのは、カッコ悪いものである。 今週の政春は、これでもか、というほど、「ダメ男ぶり」を発揮していた。 仕事はしたい、でもない。あってもなかなか続かない。 やりたいことも夢はある、でも、心が荒れてすさんでしまって、掛け声と理想ばかり大きくなるが、給料をもらえるような仕事に身が入らず、いわゆる「職を転々とし」という状況に陥ってしまう。 ウイスキーを売る酒屋に就職したりもするが、それも「こんな酒は偽物だ」とまで言ってしまうし、行きつけの居酒屋では、店員をするけれども、お芋も満足に剥くことができない。 家にいるしかないが、妻の作ったマーマレードまで食べつくしてしまう。 職がなくてもおなかはすく、いや、職がないからこそ、おなかがすくのだろうか。 「こういう人、いるいる」というかんじがしてくる。 仕事のない男は、本当に荒れてすさんで、情けないものである。 お酒を飲んで、大声を出したりもする。 世界中で、男性たちが荒れてすさんでいる地域は、どこも失業率が高い。 アメリカでも、裏町通りでは、職のない男性が、昼間から、ただ何をするのかわからないが、階段に座っていたりする。 その目つきは、うつろというよりも、こわいくらいに憎しみがあるように思う。 こういった状況は、長く続くことではないはずである。 夫が次の職に就くまでの、数か月か、長くても数年であるはずである。 こうしたときに、妻はなにをすればいいのか。 ドラマのなかでも、エリーは「わたし、どうすればいい?」と悩んでしまう。 経済的なことでは、妻が仕事を見つけて働いて給金を持ってくるのが一番、手っ取り早いように思う。 エリーも職探しをする。 しかし、夫の政春は「俺が働

反戦女性連合の勝利を願って。

いよいよ、年末選挙へと、世論が走り始めた。 今回の選挙の争点は、ズバリ、集団的自衛権、となりそうである。 今年7月1日に、集団的自衛権の閣議決定がなされた。 その後、ある意味で「そのあとになってから?」反戦派が騒ぎ始めた。 反戦派が活動を開始するのは、ずいぶんと立ち遅れたように思われる。 ここで、衆議院解散総選挙をするとすれば、自民党のほうには、勝算がある、ということになる。 いつか近日中に、まるで突然のように「解散」を宣言して、野党や国民があわてるときには、すでに選挙の準備がすっかり整っている、ということだ。 何に関しても、「いくさ」というものは、先手必勝である。 国会は、少しずつ、確実に崩れ始めた。 世論は、相次ぐ増税案で、騒がしくなってきている。 ところで、小笠原沖、つまり太平洋上に、太平洋側から、というべきか、日本を取り囲むようにして、中国の漁船が表れた。 密漁の漁船である。 漁船の下には潜水艦があり、漁船のあとには、巡視艇が続くのだろうか。 不穏な雰囲気である。 こうしたことを今、発表するのも、集団的自衛権を、国民に了承させるための、ひとつの戦略なのだろう。 政権与党はかねてから、南シナ海、東シナ海だけではなく、太平洋上からも、中国の漁船が近づいていることを、知っていたのだろう。 そして、ここへ来て、発表したのだと思う。 こうなると、集団的自衛権を決定しておいて、よかった、ということになる。 これから、「戦争か否か」という論議を、世論で活発にさせていくのだろう。 そのあと、「戦争か集団的自衛権か」という点で、争点を絞り込むのだろうか。 自民党の世論作りは、とても巧みで、だんだんわかってくると、とても興味深い。 今回の選挙の争点は、集団的自衛権であり、戦争と反戦である、とすれば、反戦派にとっては、チャンスとなる。 しかし、与党・自民党の対立政党となる、野党・民主党が、この状況では、選挙戦を互角に持ち込むことさえ困難である。 反原発、反戦、食の安全を願う女性たちは、こんなチャンスにも、共同して力を合わせるということは、しないのだろうか? このままでは、大切な女性たちが負けてしまうのではないか、と思って気がかりである。 ともかく、議席を、自民党より多く、過半数にしなければならない。 そのた

アメリカ中間選挙・これまでとこれから。

昨日、2014年11月4日、アメリカで中間選挙が行われた。 結果は、共和党の勝利である。 上院でも下院でも、共和党が、過半数を獲得した。 オバマ大統領の民主党は、敗北した。 アメリカでは、2年に一度、大規模な国政選挙がある。 4年に一度は、大統領選挙である。 大統領選挙から2年たつと、中間選挙である。 中間選挙の「中間」というのは、大統領の任期4年のちょうど中間にあたっているからである。 この、2年目の中間選挙で、大統領はこれまでの2年間の「成績表」を、与えられるわけである。 2年間の大統領としての政治に、アメリカ国民は、どんな評価を下したのだろうか。 それが、民主党の敗北、という結果であり、結果が評価のすべてだ、ということだろう。 オバマ大統領は、当初はどうだったのかはわからないが、とても民主的で人道的な政治を行おう、としていたように思える。 山積するアメリカ国内の課題を乗り越え、世界的課題にも挑戦しようとした。 特に、核廃絶に関しての演説は衝撃的でさえあった。 あの核廃絶宣言で、ノーベル平和賞を受賞したのであるから、いかに鮮烈な平和宣言だったのかがわかる。 また、健康保険、いわゆる「オバマ・ケア」も、人道的で福祉的でとてもよい政策であったと私は思う。 しかし、アメリカ国民が望んでいたのは、経済の回復と、台頭する中国・アジアに対する課題だった。 アジアに対する課題、というと何のことか、と思うけれども、アメリカ国民は「強いアメリカ」という名誉を望んでいたのであり、GDPや国際的な勢力などで、台頭して勢力を伸ばしつつある中国に対して、「中国に打ち克つアメリカ」を望んでいたのだと思う。 3年前、2011年のクリスマスに、オバマ大統領は、アフガンから全軍を撤退させた。 アメリカ軍にとっては、素晴らしいクリスマスの贈りものであるように思えた。 しかし、同時に、オバマ大統領は、オーストラリア、太平洋に、軍を配備し始めていた。 2011年の年末に、北朝鮮で、金正日氏が亡くなった。 このときに、アジア情勢は、大きく揺らいだ。 北朝鮮での訃報と、アメリカ軍の太平洋配置は、偶然だったのだろうか? 私にはそうは思えない。 しかし、年末の危機は回避された。 翌年、2012年の8月に、私たちが呼んでいる、いわゆる「アジア危

尊厳死についてあれこれ思う。

先日、アメリカで29歳の女性が亡くなった。 この一女性が広げている波紋は、この亡くなりかたが「尊厳死」というものだったことである。 ブリタニー・メイナードさんは、脳腫瘍を患って余命わずか、と宣告されていた。 尊厳死を選び、尊厳死が法律で認められているオレゴン州に移住した。 私たちが驚くのは、アメリカではこうして、州ごとに法律が異なっていることや、それが生命や生き方にとって、とても重要な法律であることである。 メイナードさんが、なぜ、どのようにして、「尊厳死」という選択をしたのか、詳細は明らかではない。 しかし、メイナードさんが、世界各地を旅して歩き、ネパールで学校の生徒を教えていたいきさつから、もしかすると、アジアの死生観、輪廻転生、というものを、学んだり触れたりしていたことも、考えられると思う。 それでも、尊厳死というのは、薬物を投与されての死であり、結局は自殺ではないのか、家族や医師もそれを手伝ったのではないか、という思いも払拭できない。 もしも自分だったら、重い病気で余命わずかと宣告されたら、どのように選択をするだろう。 あるいは、それが家族のことだったらどうだろう? もし私だったら、やはり、与えられた命は精一杯生きたいように思う。 あるいは、家族であったら、最後の最後まで、家族として一生懸命、手を尽くしたい、一日でも長く、一緒に生きていたい、と願うと思う。 でも、そのときになってみないと、わからない、とも思う。 先日、ある小冊子をいただいてきた。 公民館や病院で、啓発のために行っているパンフレットの配布で、記入式になっている。 「私の意思表示ノート」というものである。 「自分らしく生きるために健康な時から考えましょう」と表紙に書いてある。 ☆----☆ あなたの思いを大切にします・・・ 「自分らしく生きる」とは、どのような生き方でしょうか? 誰にでも自分の望む生き方や、大切にしたいことがあると思います。 もし、あなたが、病気や事故などで判断ができなくなったとき、どのような治療を望みますか? あらかじめ意思を示しておくことで、自分の望む生き方を家族や周囲の人に知ってもらうことができます。 また、自分の意に反して不必要な治療を受けなくてもよくなります。 あなたの思いを大切にしたいと考えています。

月と宇宙船。

先日、宇宙船が墜落してしまった。 とても残念なことである。 宇宙開発は、アメリカとロシアが中心になって、時には手を取り合って進めてきた、人類的な仕事である。 国を挙げての事業、つまり国策だったわけだが、ある程度まで実用化できた段階で、民間での商業利用へと方向転換をした。 「民間」というと、コストダウン、利益の向上、というイメージがあるが、その通りで、なんらかのコストダウンを図った結果、安全性が低下してしまったのではないかと思うと、本当に残念である。 宇宙事業は、国策であり、人類の願いでもあった。 たとえば、「月に行ってみたい」というのは、単純な願いだったと言えなくもない。 「空を飛びたい」というのも、とても単純な、人類的夢想であった。 「空を飛びたい」のほうも、たくさんの研究があり、探究があり、残念な事故も起こっている。 そうした事故から教訓を学び、反省点を見つけて、また取り組むものである。 思えば人類は、あらゆる「乗り物」を開発してきた。 牛車もそうであるし、馬車もそうだろう。 自転車もそうであるし、あるいは、ラクダ、という手もある。 時には振り落とされながら、馬の背に乗ったこともあるだろう。 車もそうである。 今でも、新型車は、乗ってみなければわからないような、何らかの問題点があったりもする。 あるいは、機械というのはそういうもので、私の友達は、新型のオーディオプレイヤーを早々に購入したが、初期不良があったとかで、修理もむずかしいようだ。 パーソナルコンピューターもそうで、Vistaを改良したものが、Windows7である、と言われれば、それまでVistaでさんざん手こずったユーザーは、その「手こずり」を臨床実験結果として、マイクロソフトに提供した、ということになる。 私は、機械をはじめとして、さまざまなものを、新製品を試すのは好きなのだが、こと安全性に関するもの、となると、二の足を踏むところがある。 たくさんの人が使って、ある意味「失敗」して、改良を積み重ねてからのほうが安心である。 今回の宇宙船事故も、「私が月に行きたくなったら、もっと1万人くらいは利用して安全だった、という結果が出てからにしよう」と固く心に決めている。 それにしても、あんなにお金もかけて、人類の努力を重ねた結晶でもある宇宙事業は、結局

沖縄県知事選の予想について。

今月、11月16日には、沖縄県の知事選の投開票が行われる。 地方の一知事の選挙とはいえ、国政のために、とても大事な選挙である。 特に、沖縄県は、九州の南から、東シナ海、南シナ海、と、南北に長い地域である。 所属する海域もとても広い。 また、近年とても課題となっている、中国との関係で、尖閣諸島を「含んでいる」ともいえる。 この沖縄県の地方自治を、どんな政党が担うかは、国政にとってとても大事なことである。 また、沖縄県には、アメリカ軍の基地がある。 アメリカとの関係において、沖縄県にアメリカ基地を置くのかどうかは、とても重要な問題である。 年末には、アメリカと、ガイドラインの改定を交わす予定なので、現政府としては、沖縄県に基地を存続させておけることが、大事なことになるだろう。 沖縄県知事選挙には、4人の人が立候補している。 現職の仲井真知事は、基地容認派である。 ほかに、自民党公認候補、民主党公認候補、無所属候補がいるが、沖縄の県民にとっては、政党支持とはあまり関係のないところが多くて、なかなか乱戦もようである。 私が、「これは」と興味を惹かれるのは、喜納昌吉氏である。 喜納氏は、沖縄県のミュージシャンである。 以前、「沖縄ブーム」という時代があり、そのときに、沖縄県の文化や音楽は、全国的に、とても広がって楽しまれた。 私たちも、音楽を聞けば思い出すが、「ハイサイおじさん」という歌曲がある。 この夏も、甲子園では、沖縄県出身の選手がバッターボックスに立つと、アルプスの応援団では、「ハイサイおじさん」を演奏した。 ♪ハイサイおじさん ハイサイおじさん ゆうびのさんごびんはのことんが のことんがわんにわけらんが ありありわらわーえいわらわー♪ こういう歌である。 これは、沖縄県の方言で歌われている。 標準語で書けば、 ♪こんにちは、おじさん こんにちは、おじさん 昨夜の三号瓶(のお酒は)残っていますか? 残っていたら私に分けてくれませんか? あれあれ、童、おい童♪」 こういう歌である。 沖縄県独特の、三線という沖縄三味線を使って、とても賑やかに皆で歌って踊れるような楽曲である。 喜納昌吉氏は、ほかにも、たくさんの人から愛されている曲を作っている。 「花」という歌は、ご存知ではないだろうか?

11月3日・文化の日。

きょうは11月3日。文化の日である。 11月といえば、たいていの日本に暮らす人々にとって、空の青い秋なのだろう、と思う。 でも、私にとっての11月は、もう雪の降る、真冬である。 北海道で暮らす人々にとっては、すでに10月の28日に初雪が降っている。 なぜかいつも28日で、27日ではない。 その前に、雪虫が白く飛び始めている。 「そろそろ雪かな」と思わせる雪虫のふわふわした姿を見ていると、なぜなのか少しときめきながら、じゃがいもや石炭や薪を、備えなくては、と思う。 そして、厚ぼったいセーターを出して、ストーブの支度をする。 支度といっても、年中出してあって、夏でも片づけていないものを、煤払いするのである。 11月は七五三もあるのだが、北海道では10月に済ませてしまう。 子どもたちの晴れ着姿は、雪の振る前がいい。 そうして、雪の降る前に、降る前に、と手際よく着々と準備を整えたところで、「ああ」とばかりに初雪が降るのである。 11月3日の文化の日、というと、照れることなく文化人らしくして、集ったものである。 北海道だけでなく、津軽海峡を渡って遠くから、一年に一度くらいは、文学サークルの仲間で集まろう、と約束してあった。 文化の日は祝日なので、集まりやすい。 一年に一度であっても、文学仲間は時間を感じさせることなく、「先日送ってくださった歌集、読ませていただきました」から始まって「あの本、読みました?」とあふれるように言葉が湧いてくる。 北海道の11月は、雪雲が空に厚く暗くたれこめて、セーターとマフラーと、分厚いコートの月である。 そして、寒く閉ざされた部屋のなかで、ストーブの燃える火を手掛かりに、ぎゅっと集まった仲間にこそ、冬と文学が燃え上がるのである。 巣ごもりの本と林檎と友達と背の高い木々冬は真しろに   聡子 マキリ彫るほのほの中に浮かんでは笑う横顔君と背中と   聡子

イスラム国について考える。--キリスト教について

「イスラム国」について、特に宗教という観点から、いろいろなことを考えている。 エルサレムは、三つの宗教の聖地であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教が、それぞれに主張して、トラブルが絶えない。 きょうは、キリスト教について、仏教とのちがい、という点で考えてみようと思う。 宗教を考えるときの着眼点は、いくつかあるが、それぞれの宗教の「ちがい」を見てみようとするときに、着眼点のひとつとなるのが、「死をどう捉えるか」である。 たとえば、仏教では、人は死んだあとも生まれ変わる、と考えている。 これは、チベットや東南アジアの仏教を考えても、生まれ変わり、輪廻転生を前提として、死を捉えているところがあり、したがって、生きている間も、「来世」のことを考えて、よく生きよう、とするところがある。 しかし、キリスト教においては、人の生は一回限りであり、生まれ変わるということはない、と捉えている。 キリスト教文化圏において、人の生は一回限り、ということは、文化圏として「当たり前」となっているようだ。 それは、生まれ変わる、ということに関して証拠がないからかもしれない。 それなので、たとえば、欧米の精神医学の診療では、「生まれ変わりを信じている」というと、精神的に病気である、という症状と捉えられるようである。 しかし、80年そこそこの人生が一回限りだとすると、そこに、「何をしても無駄」「死によってすべてが消滅する」という発想になり、無気力や絶望に陥るのだそうだ。 考えてみれば、アジアの人々は、日本人としても、自分としてもそうであるが、親しい人が亡くなっても、「あの世から見守っている」「お盆のときには来てくれる」「お位牌のなかに魂が宿っている」という考え方をするので、もしかしたらあまり寂しさがないかもしれない。 また、自分の人生としても、死んだあとは「あの世に行く」と考え、あの世で自分の人生が続くように考えている。 また、生まれ変わったら今度は、男性になりたい、とか、あんな場所に生まれたい、などということも、文化環境のなかで、ごく当たり前に、発想しているように思う。 私も、子どものときなどは、友達と集まった時に、「生まれ変わったら今度は」という話をしたと思う。 芸能人でも「今度生まれ変わった時にはまた会いたい」というようなことを言う人もいる。 仏教圏

NHK「マッサン」第5週「内助の功」感想。

今週も月曜日から土曜日まで、「マッサン」を観た。 始まってからもう一か月となる。 とても好調で、たくさんの人に親しまれているドラマであるようだ。 私も、友達と「今朝のマッサン、観た?」とお話しするのが、楽しみになってきた。 話にも登場人物にも、どんどん感情移入してきて、朝、「おはよう」を言うのが楽しみになってくる。 主題歌「麦の唄」もすっかり覚えて、携帯電話のアラームには、「麦の唄」が鳴るように仕掛けてある。 今週のテーマは「内助の功」ということで、とても注目していた。 政春が、ウイスキー造りを許してもらえるように、つまり資金提供をしてもらえるように、株主たちに頭を下げ、プレゼンテーションをする。 最初は「こんなに煙のにおいがするお酒ですか?」と懐疑的な反応だった。 そのときに、妻のエリーが、スコットランドの郷土料理を作って運んできて、「ウイスキーにとても合います」と、株主たちに振る舞う。 株主たちも、思わず拍手して、「夢は素晴らしい」と言ってくれる。 こうした、女性なりのふだんの家事やものの見方から、手助けをすることが、「内助の功」というのだろう。 だがしかし、「夢だけではうまく行きません」と却下である。 そして、政春も、辞職を迫られる。 ウイスキー造りの夢はきっぱりあきらめて、住吉酒造で働くか、もしも、これからもウイスキー造りを続けるなら、資金提供と優子さんのお見合いの話をお断りさせていただきます、ということなのである。 私は「男のサクセスストーリー」を、観てみたいと思っていたのだが、やはりその道は険しいようである。 何にしても、「先立つものはお金」ということである。 夢のために、資金を得ることは本当に厳しい。 政春のウイスキー造りには、大きな銅製の機械「ポットスチル」を特注で作ってもらうことが必要なのだが、その資金がどこからも出ない、ということなのである。 「金は天下の回りもの」というが、回ってこないところには回ってこない。 こんなに大きな夢があって、勉強も研究もしてきて、ヤル気も実力もあるのに、お金がない。 こうした若者に、チャンスということで、「お金」を、提供してくれはしないものだろうか。 世の中はそんなに甘くない、ということなのだ。 現代の世の中では、専門のインターネットサイトがあって、若者が夢を

エボラ出血熱について。

エボラ出血熱が広がりを見せている。 数年前に、西アフリカで発生して、その後、しだいに広がっていった。 グローバル社会を反映して、世界各国に急速に広がっている。 致死率が高く、治療法が確立されていないことから、人々の間に不安が高まっている。 日本にも、入ってくるのではないか、と予測されて、すでに対策がとられている。 すでに、各国で治療法を追求して、研究・予防に入っているが、まだまだ時間が足りない。 なぜ時間が足りないのか、理由はある。 ひとつは、このウイルスの性質がよくわからないからである。 わからないのは、たとえば、ひとつのウイルスの性質を知るには、たくさんの実験とその結果の積み重ねが必要だからである。 ウイルスが発生してから治療が完結するまでに、半年から一年の月日がかかる。 これを何年分も研究結果を積み重ねていかなければ、ウイルスの性質がすべてわかったとは言い切れない。 また、血清療法は、抗原抗体反応といって、人の身体のなかで、いったん感染して、発症して、それから治った状態の人の血液から、作るものである。 まず、人が感染しなければならない。 そして、完治しなければならない。 一度ウイルスが入って、増殖して、その後、治療ができたときには、人の身体のなかに、抗体ができている。 この抗体を取り出して、すでに病気が発症した人の身体に注射すると、抵抗力が高まって、治療することができる。 いったんは、誰かが病気になってそして治らなければ、血清療法は行えないが、血清療法が一番確実な治療法であると思われる。 そういったことは、すでに国際的な医療機関が一生懸命研究しているので、私が何かをいう立場ではない。 私なりの個人的な推測をいくつか書いてみようと思う。 その1、アフリカ大陸にもともとあったウイルスではないのではないか。 アフリカの人たちは、アフリカ大陸にもともと存在したウイルスには抵抗力があるはずである。 もしかしたら、欧米から、など、外から持ち込んだウイルスなのかもしれない。 それで、アフリカの人たちには免疫がなく、感染が広がったのかもしれない。 その2、もしも「その1」の通りだとすると、欧米やアジアの人には、すでに免疫があるウイルスなのかもしれない。 だから、感染しても、発熱程度でおさまるのかもしれない。