2014年6月30日月曜日

英語とわたし。

私は、英語にはまったく自信がない。
正直、英語を自分がペラペラしゃべれるとか話せるとか思ったことはない。
それなので、英語をどうやって習得するか、習得したか、という話は、あまり話す気持ちにはなれないが、自分の体験を書いてみたいと思う。

私たちの子どものころには、まだまだ小学校で英語教育をする、ということはなかった。
英語は、中学に入ってからのものだった。
初めて接する英語に、ときめきながら、学校の授業を一生懸命勉強した。
そして、成績は、10段階で10、5段階では5の成績を取ることができた。
それなので、高校を卒業するころには、英語の読み書きは、習った分は一通りできた。
単語も、学校で習った分は一通り覚えてあった。
文法も書き換えも得意なほうで、テストは割合に点数が良かった。
明日は英語のテスト、というときに、困ったということはなかった。

大学では教養の二年間に英語が必修だったが、なにかのペーパーバックの小説を、読んでは訳す、というような授業で、単語テストもなく、文法テストもなく、長文読解くらいだったので、割合に楽に単位を取ることができた。

私たちの時代というか世代では、学校の英語はできても、ヒアリングができないとか、発音がうまくない、ということが、みんな一様にコンプレックスになっていた。
それで、20代になると、あれこれと、語学教材や語学教室が気になってきた。
友達とふたりで、ある英語のCDの教材を買って、12か月間聞いて勉強したこともある。
その後、ラジオが好きになったが、これは、北海道で、FM NORTH WAVEを聴いていた。
ノースでは、ラジオ局の傾向として、ほぼ100パーセント、洋楽を流していた。
そして、ラジオDJは、すべての人が、バイリンガルかトライリンガルだった。
なので、番組は、ほとんど、英語だった。

英語の曲を聴いても、歌詞の内容のすべてがわかるわけではなかったが、日本語の歌詞だとむしろ、あれこれ考えすぎてしまうので、英語の、意味のわからない歌詞を、音として楽しんでいた。
そのころには、英語を覚えようという気持ちがまったくなく、一日に3時間から5時間くらい、家事や、時には小説を書きながら、ラジオを聴いていた。

そのうちに、英語の歌詞の意味がわかるようになってきたのかもしれないが、自分ではあまり自覚がなく、ラジオに合わせて適当に歌っていた。
しかし、「アナと雪の女王」くらいなら、日本語の訳詞がなくても、英語の字幕だけでわかるでしょ、と言うと、そんなことはない、と友達から言われるのである。

ツイッターや、グーグルプラスなどで、外国の人とコミュニケーションを取りたくて、本当にワールドワイドウェブというのは、いいものだ、と思う。

発音は、耳で聞こえた音を、喉を使ってそのまま音を出そうとしているようだ。
なので、「花子とアン」のオープニング曲「にじいろ」は、とてもむずかしく、絢香と同じ声を出そうとしてしまう。あの歌が「音」に聞こえているのかもしれない。日本語の意味が伝わってこないときもある。

☆追記☆
FM NORTH WAVEの放送は、とても残念なことであるが、東京で聴くことができない。
東京でノースを聴く方法は、有線放送に契約するか、auのLISMOで携帯電話の回線で聴くか、である。
インターネットでは、聴くことができない。
これは、日本の電波法によるもので、まだまだ地方のラジオ局の電波が、日本中、世界中で聴ける状態ではないのである。
ノースの電波は、全北海道じゅう、くらいが範囲で、それ以外には電波を飛ばすことができないそうである。
今は海外のラジオ局のほとんどは、インターネットラジオで聴くことができるのに、日本の電波法はとても残念である。

「平和を守るために、悪魔を倒す」

集団的自衛権の解釈変更が、大詰めを迎えているきょう、6月30日、安倍総理は「悪魔を倒す」と発言した。
正義の味方である。
この場合の「悪魔」とは、経済政策におけるなんらかの障害のことを指したのだと思う。
この安倍総理の考え方は、集団的自衛権に関しても言えることのようなので、ここでこの「悪魔を倒す」という言葉を引用させていただいた。

集団的自衛権の解釈が、そのまま「戦争」に直結する、と思い込んでいる人がとても多いようである。
そしてその人たちは、「戦争」に反対し、平和を望んでいる。
その人たちにとっての「戦争」の概念、「平和」の概念が、安倍総理と日本版NSCのメンバーの思うところとは、ずいぶんちがうようなので、改めてここで、まとめの意味で書き記してみようと思う。

シリアやイラクでは、今も、平和に暮らしてきた一般市民、女性もお年寄りも子どもたちも含む一般市民が、反政府軍というテロ組織によって、住むところを追われ、銃によって脅され、市街地や自宅を破壊され、難民となってとても困っている。
シリアではこの難民の数は、300万人にもなるという。
平和だったシリア、この国の社会と暮らしを破壊したのは、まさに「悪魔」とも呼べるテロ組織の人たちである。
彼らは、強力な武器を持っている。
彼らテロ組織に対して、この、「一般市民の平和な社会への破壊行為」をやめさせるには、武力をもって、これを制するしかないだろう。

それが、「正しい」かどうかは、わからない。
それに、「悪魔のような人たち」が、果たして存在するのかどうかもわからない。
もしかすると人間はすべて平等で、話せばわかるのかもしれないし、何らかの教訓によって救われるのかもしれない。人間として生まれてきた者を「悪魔」と呼んではいけないのかもしれない。
また、これらのテロと平和社会の破壊に対して、根本的解決策がほかにあるのかもしれない。
でも私たち人類はいまだ、その根本的解決法を知らない。

今の時点で、最善を尽くすというと、これらのテロ組織に対して、武力をもって制圧して、平和な社会と、一般に暮らす人々を守る、ことである。
今、日本は世界の「親」の立場になろうとしている。
日本の国じたいは、自立した強い国となった。
これからは、世界的な問題に、対応していける、開かれた国になろうとしている。
それで、特に国際問題である、シリアやイラクの問題に対して、具体的で実行力のある、武力行使をしようとしている。
これは、国連軍とも位置付けられる。
国際的な警察組織とも呼べるだろう。

この国連軍、国際武力軍が活動を始めたからといって、今すぐ、第二次世界大戦の日本の状況のようにはならない。
ここが、大切なところである。
集団的自衛権の解釈を、すぐに戦争に直結させる人たちがいる。
その人たちにとって、戦争は「イメージ」である。
あるいは、年齢の高い人たちにとっては、過去の体験である。
すなわち、日本の本土が戦場となり、一般市民(軍人ではない人たち)に、戦火が及ぶことである。
市街地に爆弾が落ちて逃げ惑ったり、食料不足になったり、家を焼かれたり追われたり、あるいは、それまでどんな職業に就いていた人たちも、すべて兵隊として雇われるという状況である。
農家の仕事をしていた人、魚屋の仕事をしていた人、鍛冶屋さん、あるいはときには、学徒まで、兵隊として、戦地に送られた。
このような状況を、体験的に「戦争」と呼んでいるのである。

しかし、繰り返しになるが、今、日本が集団的自衛権に基づいて活動を始めたとしても、それは、遠くシリアやイラクに派遣される、特別な専門訓練を受けた職業軍人の人たちが行うことなのである。
第二次世界大戦の、市民が巻き込まれた戦争とは、ちがう形のものなのだ。
むしろ、そうして、かつての日本のように、平和に暮らしていた一般の市民、市街地を、戦争好きなテロたちから守るために、送り出される軍隊なのである。

そして、この軍隊では、繰り返しになるが、特別に訓練した兵士がこれに対応する。
もちろん、目的を認識したうえで、覚悟を持って職業に就く。
そして、現代の戦争に必要な知識と技術と体力を、訓練によって身に着ける。
身を守るための特別な技術も訓練して身に着ける。

「職業軍人」という概念は、日本で今、仕事を持って暮らしている市民が、ある日突然に徴兵されたりしない、という意味で、強調するべきだと思う。

集団的自衛権の解釈変更が、国防軍の作成につながり、それが「戦争」「武力行使」となるときに、第二次世界大戦での、日本の古い記憶に基づいて、先入観によるイメージで、ショックを受けたり、やみくもに反対するのは、あまりよいことだとは思えない。
また、政府のほうでも、じっくりと説明をすることが必要であると思う。
今、武力や武器、軍事をめぐる状況は変化しており、100年前とはまったくちがう状況なのだ、ということを、理解するべきである。

そして、日本は、いつも守ってもらう側の、子どものような立場でいるべきではない。
国際社会のなかで、国際貢献できる、もう一歩大人の立場に立たなければならない。
よそからやってくる戦争におびえるのではなく、戦争を起こす、「悪い人たち」に、積極的に対抗していける、力と覚悟を身に着けることが、とても大切であると、私は思う。


サッカーワールドカップ・大規模賭博に関する疑惑。

サッカー・ワールドカップ。ブラジル大会もいよいよ決勝トーナメントが始まった。
今朝は、日本時間早朝5時から、コスタリカ対ギリシャの試合が始まっている。
もしも日本チームが、グループリーグを勝ち抜いていたとすると、ここでコスタリカと対戦するのは、ギリシャではなく、日本だったかもしれない。
そう思うと、この時間、このカードは、何かすっきりしない試合だと、気持ちが騒ぐ。
しかし、私は思う。これは、ひとつの疑念に過ぎないかもしれないが、このサッカーワールドカップ大会では、大規模なサッカー賭博が行われているのではないか、ということなのである。
それも、おそらくは国際的マフィアの資金源となるものだと思う。

今回のブラジル大会では、「大波乱」「混戦模様」と伝えられている。
それは、誰もが感じるところであるが、だからこそ、盛り上がる、予想外の展開に興奮や期待が高まる、というところだろう。
しかしそれは、信じられないような、八百長試合によるものなのではないか。
それは、審判や、もしかすると、監督や選手や、テレビ中継まで巻き込んだ、お芝居なのではないか、と思うのである。

先日の、日本対コロンビアの試合を見ていて、何か不自然さを感じた人も多いのではないだろうか。
日本がコロンビアに対してファウルを取れる場面で、審判が笛を鳴らさないのである。
もしもファウルを取れていれば、試合の流れが変わるような場面である。
また、コロンビアにPKが許可されたのも、一瞬のことであった。
サッカーの競技において、審判の権利は絶大である。
ちょっとでも逆らえば、すぐにイエローカードが出され、レッドカードとなると即退場である。
そうした状況を利用して、試合の結果を思い通りに作ってそれを賭博にしている人たちがいるのではないだろうか。

そして、日本チームの、コロンビア戦は、そうした虚偽を見抜くための、試合だったのではないか、と思われるのである。
これはあくまで推測であるが、日本の選手たちに、「この試合は、4対1でコロンビアが勝つように、賭博のほうで仕組まれている可能性がある」と知らせておく。
そして、日本の選手たちに、思い切りフェアプレイで競技するように、伝えておく。
そうした結果、もしも、選手たちにあらかじめ知らされていたような結果になったとしたら、それも点差まで「予想通り」になったとしたら、これは、本当に驚くようなことである。
日本選手たちは、この賭博を見抜き証明するために、コロンビア戦に挑んだのではないだろうか。

そして、結論として、これは、仕組まれた八百長試合だった、ということなのだと、思うのである。
もしかすると、テレビ中継を担当した松木安太郎さんもあらかじめ知らされていたのかもしれないし、ザッケローニ監督が、賭博に関与して不正をしていた可能性さえあるような気がしてくるのである。

大規模な賭博、世界の中枢で起こっている中東やタリバン、シリアの戦争、この資金源はどこなのか、何なのか。
この資金源が、ワールドカップサッカーなのではないか、と疑念を強く持つのである。
これからの、決勝トーナメントの試合運びを、注意深く見守りたいと思う。


2014年6月29日日曜日

在日コリアンとヘイトスピーチについて。

日韓関係には、本当に困ったものだ、と思う。
お隣の国であるから、貿易や人の交流もある、そして、政治と歴史の問題もある。
頭を抱える問題が多いのは、それだけ近い国だからかもしれない。
アメリカやヨーロッパに対しては感じない、考えない問題が、お隣の国だと湧き上がってくるものだから、不思議なものだ。

ほんの20年前までは、韓国はとても遠い国だった。
お互いに閉ざされていて、そこにどんな人が暮らしているのか、日本でも一般の国民が、韓国の国民の暮らしを知ることはなかった。
また、歴史についてもほとんどが知らされておらず、在日コリアンの存在も知らないという人が多数だった。
朝鮮学校やコリアンタウンの由来も知らない、という人が多かった。
私は北海道にいたので、朝鮮学校もコリアンタウンもなかった。
また、いわゆる「教科書問題」があり、事実も真実も、学校では教授されることはなかったと思う。

その後、社会活動家の人たちが中心になって、これらの問題を取り上げるようになった。
私が初めて、在日コリアンの存在を知ったのは、映画が好きでインディーズや自主制作の映画を観ていたころだったが「潤の街」という映画の題名だったと思う。
これは、「ユンのまち」と読む。
在日コリアンの「潤」という少女の名前は、韓国語で「ユン」と読むのだそうだ。

その後、日本の政府も、日韓関係に関しては、積極的になったと思う。
2002年ごろ、日本の、特に女性たちの間でとても話題になったのが、韓国ドラマの「冬のソナタ」というドラマである。
これは、韓国の現代に生きる若い男女の、群像劇である。
日本においては、NHKが、日韓関係の友好的な、文化的な交流を目的に放送を始めたものである。
当時、日本でも韓国でも、歴史や政治の問題はさておいて、まずは文化交流から、ということで、お互いがお互いに、同じ人間同士であるという視点から、友好関係をはかっていったのだと思う。

そうした状況のなかで、まずこうした、他国の文化を、柔軟な心でキャッチしたのが、日本の若い女性たちであったと思う。
韓国ドラマを見ていて感じるのは、「韓国の人も、私たちと同じ人間なんだ」という強い実感であり、先入観を見事に打ち破られる、という感覚である。
人として、親を愛し、愛する人を思う、携帯電話も使うし、病気になれば苦しむ、仕事に打ち込み、あるいは時には、「韓国でも電車が走っているんだ!」と驚いたりもする。
こうして、まず女性たちが、開かれた心で、隣国の文化を受け止めたのだと思う。
その後、海外旅行の行先としては、とても近くて2泊3日で友達同士で気軽に行ける、とか、エステ体験は、韓国の薬草や針灸の文化でとても貴重な体験ができるとか、民族料理でとても、おいしいものを口にすることができる、という理由で、楽しくでかけたものである。
また、サッカー選手の交流もあり、日本のJリーグにも、韓国から優秀なサッカー選手が来てプレーをしていた。

こうした、歴史も政治も「まずは抜きにして」という状況での、人的交流が、功を奏したのか、それとも裏目に出たのか、今はヘイトスピーチの状況である。
それでも、いずれ隣国と良い関係を結ぶための、通過点であるようにも思える。

ヘイトスピーチをするのは、主に男性であるらしい。
この気持ちというのは、日本女性がこうして、韓国ドラマなどに傾倒して、韓国の俳優にぞっこんほれ込むあたりから、「日本女性を韓国男性に盗られた」的な心情が生まれたようである。
これは、男性の心情と女性の心情とでは、ずいぶんと複雑な状況である。
女性が、ドラマや料理などから「みんな同じ人間じゃないの」と言うと、日本人男性はますます憤慨して、「他国の男に心を動かすのはいかん」「キャーキャーうれしがるな」というわけである。

こうしたことから、まずは日本女性が、多少はこの状況をわきまえて、ファンになったり、アイドルタレントとして好んだりするのは、あくまで日本人男性を対象とすべきである。
…というのも、なんだかどうなのかな、という話ではあるが…。

私は、思う、本当に20年、30年前までは、人的交流も少なく情報もまずほとんどないお隣の国だった。
それが、新しい関係を構築するための、通過点であるのだろう、と。

アジアには海があり日本は四方を海で囲まれている。
ヨーロッパでは、国と国とが地続きになっていて、国境がある。
ヨーロッパでは、とても近い隣国と、どのように関係を維持しているのだろうか。
私は、今の日本におけるヘイトスピーチの、あるいは韓国側からの強いヘイトアピールは、互いに独立したい、という要望の表れであるように思うのだ。
ヨーロッパでは、フランス人といえば、遠いアジアの日本からも「フランスのイメージ」が定着している。
フランスと国境を接するドイツに対して言えば、これもまた、ドイツはドイツなりのイメージが定着している。
それぞれに、それほど面積の大きい国ではなく、文化としても、源流は同じところから出ているのだと思う。
それでも、何かこう「フランス人としてのアイデンティティ」は、しっかりと確立されているようなのである。

日本と韓国も、それぞれの、自分で思うイメージでもいいし、外国から思われるイメージでもいいから、それぞれが「とてもちがった独立性を持っている」と感じ取れるような、アイデンティティ、イメージ的なアイデンティティを持っていくようにしてはどうだろうか。

それは、フランスにおいては、フランス革命やファッション、料理、フランス語、に代表されるものであり、ドイツにおいては、ビール、歴史、気質、に代表されるものかもしれない。
言語というのはとても大事なのだろうと思う。
また、どんな偉人、ヒーローを輩出したか、どんな文学・思想があるか、という点でもあるかもしれない。
それぞれがそれぞれの「いいところ」「長所」を大きく広げることで、それぞれの国民が、自国のアイデンティティをしだいにつかめていくのではないだろうか。

今、起こっているヘイトスピーチの心の叫びとその意味を、よく捉えて、よい方向へ引っ張ってあげることで、このエネルギーが形として、新しい日韓関係の構築へと、向かっていくのかもしれない。


2014年6月28日土曜日

「サリン」について。

このところ、「サリン」という化学物質が、再び注目されている。
日本人にとっては、さまざまな有毒物質のなかでも「サリン」は、忘れがたい薬品名である。
今、このサリンが、中東やシリアで、作られ、使われている。
サリンはもともと、一番最初は、世界大戦中にナチスドイツによって作成された。
もともと、さまざまな物質に化学反応を起こさせて、有毒物質を作ろうとしてさまざまな実験をしていたようである。
もちろん、そのなかには、ナチスのある意味の「理想」から、人類とその生活にとって有益なものを生み出そうとするものもあった。
しかし、サリンは、化学兵器として、有毒な化学物質を作ろうという試みから生まれたものである。
ただ、別の物質を作ろうとして、その途中経過で生まれたものであるようだ。

サリンの、主な成分に、「リン」がある。
「リン」は、たとえば、農業や園芸で植物を育てるための有益な肥料として、「窒素、リン酸、カリ」と言われるように、植物や動物にとって、なくてはならない物質であるし、また、身近に存在する物質でもある。
このリンが、独特の化学反応を起こさせると、サリンになる、というわけである。
この「独特の反応」は、自然界では起こらず、人が、特に化学を修めた人が、人為的に作ろうと思わなければ、作成できない、ということである。

サリンは、たとえば、日本の高校理科の実験室程度の化学反応の設備があると思って差し支えないかもしれない。
そこに、サリンを合成するための薬剤が、購入するなどして、手に入るかどうか、である。
また、化学反応には、「コツ」「修練」が必要になるので、たとえば、火加減とか、あるいは、微妙な温度や湿度、圧力である。
そうした化学的な環境と技術と材料があれば、比較的、易く作ることが可能である。
これは、大規模な工場設備が必要だ、とか、大規模な機械による圧力が必要だ、という意味ではない、ということだ。
量の多少にもよるが、少量であれば、自宅を改造した実験室で、細かな器具を集めて行うことも可能だろう。
しかし、サリンは、少量でもとても効果の高い薬品であるので、目的によっては、小規模な化学設備で作成することもできるだろうと思う。

また、サリンは、とても不安定な化学物質であり、たとえば、作ったサリンの液体をガラス瓶に入れて保存しておくとか、作ったサリンを錠剤にして保存して持ち歩く、ということは、化学的にできない物質である。
たとえば、「不安定な化学反応」として、身近なところでは、私たちもテレビコマーシャルなどで見ることができる、美容を目的とした染髪罪に見ることができる。
この市販されている薬剤は、常に二種類の薬液が備わっており、「染め」を行う直前に混ぜて使用する。
これは、美容用のパーマ液でも同じであるが、二種類の薬剤をそれぞれに保存しておいて、使う時だけ、目的の状態にしたいときだけ、混ぜて化学反応を起こさせ、化学反応が起こっている間だけ、使える状態になる。

こうした、不安定な化学反応を期待するためには、サリンにとっても、二種類の薬剤をそれぞれに持って、そして、「使用」するときに、混ぜる、ということになる。


2014年6月27日金曜日

NHK「花子とアン」第13週「その恋、忘れられますか?」感想。

きょうは、金曜日。
大好きなNHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」は、今週のテーマ「その恋、忘れられますか?」を放送中である。
朝ドラは、いつもそうであるが、一週間で一章となっている。
だから、一章分を観終わってから、感想を書いていたのであるが、どうにも「花子」の雲行きがあやしくなってきた。
だいたい、NHKの朝ドラは、「安心してみていられる」ことが、第一条件で、ご家庭で朝の出勤前、学校へ行く前、幼稚園の送り迎えをする前に、家族で観ている番組である。
高校生の娘が、「お父さん、こういう場合、花子はどうしたらいいのかしら?」なんて、朝から問いかけられたら、まったくお父さんも、NHKに「教育上好ましくないからよしてくれ」とクレームをつけたくなってしまう。
そういう展開になってきた。
というのは、ヒロイン花子がようやく、生涯の伴侶となる男性・村岡英治に出会い、気持ちを確認しあうのだが、この恋、大々的にはっきり言って、不倫なのである!

確かに、英治のほうにも、いろいろな理由があるだろう。
妻の香澄は、もう3年も、結核で、療養所に入っているのだそうである。
香澄のご両親も、英治に対して「うちの娘はもう治る見込みがないから、英治さんも健康な女性と新しい人生を踏み出しては」と申し出ている。
そして、英治の父親も、「そろそろ、香澄さんとは離婚して、新しい女性と結婚しては」と勧めている。

しかし、ご家庭でこのテレビ番組を見ているご婦人たち、いやご夫人たちは、もうこんなことは、よしてほしい、というところである。
「じゃあもしも、花子の健康状態があまりよくなかったら、花子を好きにはならなかったんですか?」
「これから先、もし花子と結婚して、それから花子が不治の病にかかったら、もう花子とは離縁して、別の女性との人生を始めるのですか」
「英治さん、あなたにとって、熱い抱擁とかなんとかいうが、結局は健康な女性と抱擁するのが、恋とか愛とかいうものなんですか」
というあたりである。
花子は今のところ、英治が結婚しているのを知らないが、ひとりの男性を好きになったら、年頃の男性であれば、「結婚しているのかしら?」「彼女いるのかしら?」くらいのことは、気を使って、どんな手段を使っても調べるべきである。
また、私は今後、少子高齢化社会への対策として、既婚男性には、左手の薬指には結婚指輪をはめることを、法律で義務付けたいと真剣に考えている一人である。
というのは、一瞥して既婚か未婚か判別できる社会状況ならば、花子のようなまちがった気持ちにはならないからである。
実際、未婚女性が多く、生涯未婚率が高いのも、こうした「不倫文化華盛り」のせいである。
「不倫は文化である」と発言した芸能人がいたと思うが、まさに20年前、トレンディドラマ最盛期の時代には、不倫は流行であった。
好きであれば、相手の男性に家庭があろうと、妻があろうと、子どもがいようと、構わない、という価値観が、流行り病のように広がった時期があったのである。
その時期に、トレンディドラマを見て、「私もそうしよう」と決めて、結婚をしなかった女性たちが、40代、50代になって、生涯未婚となっている。
こうしたことは、単なる流行であって、一過性のものである。
なので、明治という時代やあるいは、平成という時代に、不倫を描きたいというのは、やめてほしいと思うのである。


メモ、その1、あきらめろ。
その2、ばかばかしい。
その3、いいかげんにしろ。

どうしても、NHKでこのエピソードを続けたいと思うなら。
その1、あっと言う間に結婚させる。
その2、早く妻を死ぬようにする。
その3、妻が死ぬまで一度も会うな。
その4、妻が死んでから付き合え。
その5、妻が死んでから数年たってから再会して改めて、決心した村岡英治は、猛アピールの末、大恋愛をして結婚する。
その6、あの色っぽい蓮子をなんとかしろ。出るのは昼メロだけにしておけ。



2014年6月26日木曜日

集団的自衛権・解釈変更の目指すところ。

集団的自衛権の解釈をめぐって、世論が行き来している。
かねてより続いていた与党内での協議は、いわゆる「落としどころ」を見つけて、自民党と公明党の間で妥結されたようである。
この、集団的自衛権の妥結のニュースを聞いて、「すぐに戦争が始まる」「日本が戦争になる」と早合点した人も多く、危機感を募らせる人も多いようである。
私もこの、集団的自衛権の解釈変更、言ってみれば、拡大解釈、という点について、その目的と意図を、考えに考えてみた。
また、戦争が「すぐ、すぐ」始まるのか、「すぐ、すぐ」始まるという危機的状況にあるのか、それが「今」なのか、とてもよく考えてみた。
実際に、昨年、一昨年の状況を思い返してみても、アジアの危機はまだ去ってはいないのかもしれない。
中国や韓国との関係も、あまりよくない状況である。
でもそれは「すぐ、すぐ」なのだろうか。

私は、これは、そんなに「すぐ」「今」という問題ではない、と考えている。
理由はいくつかあるのだが、そのひとつとして、安倍政権の目指す「国造り」という点である。
私は、この集団的自衛権の拡大解釈にともなって、確かに戦争は「すぐに始まる」のではないか、と考えている。
しかしそれは、アメリカ的な戦争だ、と思う。
アメリカ的に、戦争をする国になるのだ、ということだ。

アメリカ的な戦争と私が思うのは、こういう状態である。
つまり、「アメリカは今、戦争中ですか?」という考えである。
アメリカ大陸、アメリカ本国のなかにおいて、爆弾が落ちたり、いわゆる戦場となっているところは、一か所もない。
アメリカは経済的にも繁栄している国であり、平和な状態であるといえるだろう。
また、民主的な状態でもある。
しかし、アメリカは軍隊を持っている。
これは、職業軍人である。
アメリカは軍隊を、アメリカ本土以外の国や地域に派遣して、治安維持活動を行っている。
治安維持活動のなかには、武力行使も含まれている。
シリアやイラン、イラク、中東や南スーダンに軍隊を派遣することもある。
だから、「アメリカは今、戦争中ですか?」という問いかけに対しては、「はい、戦争中です」という言い方もできるかもしれない。

こうして、日本の人々が、「日本は戦争状態になるのではないか」と恐れている、その戦争状態ではなくて、私は、今回の集団的自衛権解釈では、アメリカのような「戦争中」になるのではないか、と思うのである。
日本の人たちは、私も含めてであるが、第二次世界大戦のような、日本の国土に爆弾が落ちて、物資不足になり、国民皆兵状態になることを、「戦争」であると認識しているようである。
だが、アメリカ的戦争中も、国の存続状態として、あると思うのだ。

また、この状態は、フランスも、イギリスも、ドイツも、そうである。
つまり、職業軍人を持ち軍隊を持って、世界各地に軍を派遣して、武力を使った治安維持の活動をしている状態である。

私は、日本が、世界情勢のなかで、世界的にトップレベルの国として、他国特に欧米諸国と対等の立場に立つために、イギリスやフランスと同じ、軍隊の持ち方をする、という目的があって、そこを目指しているのではないか、と思う。

これは、国造りであり、国の「あり方」である。
安倍政権としては、多少の説明不足はあったと思うのだが、集団的自衛権とはなにか、という点も、首相みずからテレビ番組で、一時間にわたる説明を行った。

また、日本という国と国民を守るために、アメリカやほかの国と同盟を結ぶだろうし、その同盟関係の維持のために、アメリカを守ることもあるだろう。
同盟国を「他国」と考えずに、「自国を守るために必要な味方国」と捉えたのだと思う。

先日亡くなった小松一郎法制局長官は、こうしたことを言っていたのではないか、と思う。
また、イギリスやフランス、アメリカでも、自衛権つまり、自国を守る権利として、集団的自衛まで広げて解釈をしているのではないか、と思う。

私が思うのは、こうした解釈の変更によって、「すぐ、すぐ」に変わるのは、たとえば南スーダンにすでに出ている自衛隊の「戦い方」であって、日本がどこか他国から攻撃される、ということではないと思う。
そういった意味で、今、日本国民が生活や仕事などで、不安になる必要はないと思う。

また、今後は、国連軍への参加、ということも視野に入っているようである。
国連は、世界の平和の警察隊のようなものだ。
シリアへの国連軍の派遣の当時は、国連軍がとてもかなわないということで引き返してきてとても残念だったのを、覚えている。
国連が武力による鎮圧を認めているのなら、それは世界的スタンダードだ、ということになる。
ただし、こうなってくると、これは憲法の解釈だけではなく、変更が必要になってくるだろう。
今、イラクでは、シリアから流入してきた、本当にどうにも対応のしようがないグループが、悪いことをしている。
こうした状況をなくすには、どうするべきなのか、現実的な視点から考えてみるべきだ。

ともかく、私は、今回の集団的自衛権の解釈妥結には、安堵している。
日本の国造り、世界スタンダードへの道は、また一歩大きく前へ進んだ、と言えると思う。
たくさんの国民が参加しながら、これからも論議を進めていくことが、望ましいと思う。
本当の平和を造るために、何が必要なのか、もっともっと考えてそして進めていきたいと思う。

2014年6月25日水曜日

みんな大好き・コンビニエンスストア。

駅前のロータリー広場には、噴水があって、待ち合わせの銀の鐘がある。
そして、大好きなコンビニエンスストアがある。
今はもう、当たり前になってしまった。
コンビニが24時間営業で、その店は冷房が効いていて、まず何があるかというと、夏ならアイスクリームと冷たいジュースである。
真冬なら、揚げたてのチキンとほかほか肉まんアンマンがある。

小さな店でありながら、切手が販売されていたり、宅配便が出せるようになっていたり、コピー機もあるし、銀行のATMも設置されている。
映画やコンサートのチケットも販売されているし、ウエブマネーも買える。
iPodの音楽プリペイドカードもある。
もちろん、大人の人には、煙草もお酒もある。
なんといっても、コンビニで一番大事なのは、おにぎりとお弁当だと思う。

この広さもいい。あるいは狭さというのだろうか。
行きつけの店なら、店の隅々の棚まで、どこに何があるか、もうすべて手に取るように知っている。
そして、レジもそんなに並ぶこともない。
このごろは、電子マネーをチャージしておけば、小銭を数えなくても、チャリーン!と、決済ができる。


「街のほっとステーション」というようなキャッチフレーズもあったと思う。
ずっと昔から、ご町内には、煙草屋さんがあって、お米もお酒も切手も販売していたが、こうした店は、人々の暮らしにとって、大事なものなのだろう、と思う。

真夏になって、道を歩いていても、コンビニの看板を見るとほっとする。
この夏も、コンビニで、冷たいジュースとアイスクリームをいただきながら、楽しくにぎやかに、すごしていこう。


☆追記☆

コンビニエンスストアの人気の由来。
日本において、一番最初のコンビニエンスストアは、セブンーイレブンであったと思う。
もともと、アメリカで始まったものだったと思う。
セブンーイレブンの店名の由来は、「朝7時から夜11時まで」という意味である。
つまり、早朝から開いていて、深夜まで開いていて、早朝でも深夜でもお買い物ができる、という意味である。
逆をいえば、一般のお店は、百貨店もスーパーマーケットも、開店時間が午前10時、閉店時間が夕方のせいぜい7時くらいまで、と決まり切っていた。
このところ最近は、大手スーパーマーケットは午前9時くらいに開店するところもあり、夜も10時くらいまで営業しているが、それでも、朝遅く、夜早いことに変わりはない。

そうした早朝や深夜のニーズというのは、一番は、緊急性の高い、お葬式である。
今でも必ず販売されているものは、香典袋に黒いボールペン、女性の葬儀用の黒いストッキングや、化粧品である。
また、早朝や深夜に、シャンプーやせっけんが急用となる人もいるのだろう、そうしたもののミニボトルも必ずある。
つまり、一般の店が営業していない時間帯に、必要を感じる人は必要なのである。

そうした、時間とニーズが合わさったところで「コンビニエンス」つまり、あなたの需要にぴったりマッチします、という意味で生まれたのが、早朝から深夜までの営業時間をモットーとした、コンビニなのである。

いつのころからか、コンビニは24時間営業となり、深夜や早朝、未明のニーズに応えられるようになった。
銀行や薬局、郵便局は、午前9時から午後3時までしか「売ってくれない」のだが、コンビニであれば、急な発熱、急な要望に応えてくれる。
本当にありがたいのは、コンビニの、「急に応える」営業時間である。


2014年6月24日火曜日

男女平等の社会を目指して。

このところの日本社会の目指すべきテーマとして、「今あらためて」ということだろうか、男女平等の社会、がある。
男性と女性は、人間として本来対等で、平等であるはずなのだが、どういうわけか、女性のほうが、「下」に見られている、という現状があるので、男女が平等であるように、と目的がある。
どうにもまわりくどい書き方をしたのだが、私個人は、この社会のなかで、それほど一方的に、女性のほうだけが、「下」に見られているとか、あるいは、立場が低いと感じたことは、あまりない。
それなので、この「男女平等」というテーマだけは、いろいろな女性たちの幸せや教育を思ってきた私にも、どうにも雲を掴むような話なのである。
その理由まで、さかのぼって考えなければならなかったのだが、自分自身を振り返って、ひとつは、北海道という地域性があり、北海道は男女平等であった、ということである。
北海道で暮らしていて、私が女性だからという理由で、ある意味「不当な」扱いを受けた、という経験はない。
調べてみたところ、北海道は、明治以降の開拓文化であり、その際に欧米の価値観が持ち込まれたために、男女平等の思想と雰囲気が根付いているのだそうである。
また、北海道は自然環境がとても厳しいために、男性も女性も、ともに働かなければならなかった。
たとえば、真冬の厳しい寒さから身を守るのも、「女性だから」という理由で、雪と氷に立ち向かわなくても済むということは、なかったのである。
また、原生林の開拓のためには、男女問わず、同じ労働と責任を受け持ったのである。
女性も働いていて収入もあり自分で自分のことができる、という状況のなかで、男女の平等が成立したのではないかと思われる。
これは、男性が「女性も立派に自立して働いている」と認め、尊敬した結果であると、私は思う。

今回、問題提起されている、ある女性議員が、議会つまり職場において、「女性だから」という理由で、不当な言論を受けた、という件であるが、私はなにかといろいろなことを思う。
ひとつは、こうした男性議員の言論は、本州の男性に独特の価値観から発生するものであり、北海道にいたときに、こうした発言をする男性は見かけなかった、ということである。
私自身は、本州に来てからは、こうした価値観を持つ男性に遭遇することはある。
内心は思っているのだろうが、言葉にしない、というタイプの男性もいるが、たいていの場合、そうした発言、つまり、仕事に関係のない、プライベートな発言が出るときには、女性が、とても良い仕事ぶりを発揮したとき、とても才覚や知識のある仕事をしたときである。
男性のほうは、こうした才気煥発な女性の仕事ぶりを見ると、つい、プライベートな面をつつきたくなる傾向があるようだ。
こうした男性なりの「性格」をよく知って、対応していくこともまた大切であるように思う。

今、女性たちに脚光が当たろうとしている。
女性の社会進出、活躍、生き生きとしたライフスタイルが、求められているし、男性たちもまたそれを支えようとしている。
そのときに、仕事を持ち、男性社会に羽ばたいていく女性本人も、強く気持ちを持たなければならない、と思う。
対等に見られたかったら、対等な仕事をして、がんばろう、と思う。
風当たりの強さは、承知の上ではないか。
ユーモアでかわすくらいの、潔さも持ちたい。
これからの男女平等社会に向けて、まず女性たちが、誇りをもって、がんばっていきたいものだと思う。






2014年6月23日月曜日

五木寛之「親鸞」完結編・いよいよ大団円。

この一年間、2013年の7月からずっと、東京新聞紙上で連載されてきた小説「親鸞」が、いよいよ大団円、という状況である。
はっきりとしたお知らせはないものの、丸一年というのは、連載小説としては、ちょうど、完結する節目ではないだろうか。
作家の五木寛之氏が、数年にわたって、小説・「親鸞」を書き続けてきて、その主人公の親鸞が、物語のなかですでに80歳を過ぎている。
親鸞の人生の終焉が、この小説の完結であると考えても、読者の捉え方、受け止め方としては、正しいものであるだろう。

新聞小説の連載というのは、不思議なものである。
毎日、一段の小説を、日々読んでいく。
そして、主人公の親鸞と共に、2013年から2014年を、一緒に生きていくようなものである。
思い起こしてみれば、まずこの「完結編」は、覚蓮坊という一人の僧と、商人の常吉が暗夜に密会をする場面から始まった。
覚蓮坊が何を企んでいるのか、常吉の出自がどうなのか、まったくわからない状態で、読者としても、暗夜に船を漕ぎだすように、読み進めて行ったのである。
その後、覚蓮坊が、法然上人の弟子であり、親鸞もまた法然の弟子であったことから、お念仏に関して、それぞれの分派ともいうべき、信仰上のちがいが決定的であったことが判明してくる。
つまり、親鸞が専修念仏を説いたのに比べて、覚蓮坊は、どちらかというと、権力や格差社会のなかの上層部に取り入るような念仏を説いたのである。
また、親鸞が、格差社会のなかの、どちらかというと下層部、あるいは、河原で暮らす人々や、重い病気で苦しむ人たちの救いを説いたのに対して、覚蓮坊は、そうした格差の下層部の人たちをさげすみ、憎んだのである。

法然の念仏が広がったころ、親鸞や弟子たちがまだ若い僧であるころに、こうした信仰上の対立が起こり、そのときに、宗教的弾圧が起こる。
若い僧たちが、斬首刑に遭うのである。
竜夫人という女性が関わっていた事件であった。
竜夫人はその後、さまざまな流転を経て、宋に渡り、大商売人として、日本国に帰ってくる。
斬首刑の際の若い僧のことを、復讐とまでは呼ばないだろうが、この世に残すためである。

「親鸞」完結編では、信仰上の対立と、宗教への弾圧と、それに関わる女性たちや下層階級の人たち、その人たちの心の悲しみと人生と、救いが描かれてきた。

また、親鸞というひとりの人間が、家族を持って、その家族との心の交流も、深く慈しみをもって描かれてきたように思う。
特に、実の息子である善鸞が、立派な僧である父親のもとで、自己の確立のために葛藤するさまは、本当によく伝わってきた。
誰もが、親からの自立のときに、このような思いをするものではないだろうか。
その善鸞を支える妻・涼の気性が、女性のさがとして描かれていたことも、とても印象的である。

結果として、信仰上のちがいから、善鸞は親鸞から断絶されることになる。
そして親鸞は、京の都で、晩年を迎えている。
それは、静かな晩年である。
心から信頼できる弟子・唯円が、身の回りの世話をしている。
親鸞の毎日は、穏やかに写経をして過ぎていく。
竜夫人とその当時のこと、竜夫人が建てた寺のことも、また小説の当初に登場した商人の常吉、対立した覚蓮坊も、世を去った。

静かな晩年の暮らしに寄り添うのは、実の娘の覚信である。
この覚信は、妻である恵信との間に生まれた実の娘である。
妻の恵信は、かつて流罪された新潟の地に残してきた。
恵信と娘の覚信は、母娘らしく、便りを出して、それを親鸞に結んでいる存在である。

物語の終結まであとほんの一週間くらいであろうか。
年老いて人生を終えようとする親鸞と、そこに寄り添う娘との、暮らしと、娘の眼から見たひとりの父親、ひとりの人間像が、深く心にしみてくるこのごろの連載である。


2014年6月22日日曜日

最初で最後の課題として。

いつだったか、ずいぶん前の学生喫茶で、それは文学喫茶でもあったのだが、女流作家の卵である友人と、ずいぶん長い話をしたものである。
それは、学生らしく、あるいは文学を目指す者らしく、戦争と平和、という課題であり、そして、男と女という課題でもあった。
私と彼女の合意点は、とどのつまり、戦争が起こるのは、男と女の対立に根本原因があるのではないか、というところである。
今の日本は、平和である。
地震もないし、津波もない。
あるのはただ、男と女の対立のみである。
「男らしさ」とは何か。
倦まず弛まず、戦い続けることかもしれない。
闘争的であり、勝ちあがることかもしれない。
「女らしさ」とは何か。
常に生産的であり、傷を癒し、慰めと安らぎを醸し出すことかもしれない。
では、平和とはどんな状況なのか。

私は、男は男の人らしく、持って生まれた性分を活かしきれることが、男の幸せではないか、と思ってきた。
そして、その「男の幸せ」を支えるために、闘争的であることをむしろ奨励してきた。
それはたとえば、スポーツの世界であったり、経済的な闘争であり、「好き」ライバルであったりする。
そうしたなかで、勝つことが、男の幸せなのではないかと思ってきた。
どうせ仕事をするなら、成功したいと思うのが自然ではないか、素直で率直な気持ちではないか、と思う。
仕事をするにも関わらず、成功してもしなくてもいい、というのは、いささかひねくれていると思うのだ。

あるとき、ある国の大統領が戦争を始めた。
私と、その友人は、その大統領の妻や娘たちの行動が報道されていたこともあって、おそらくその大統領は、家のなかで、「男らしさ」が示せないのだろう、という話になった。
妻や娘が、この夫であり父親である大統領を、男らしいと認めないのかもしれない。
それで、この大統領は、ちょっと戦争でもして、それで男らしさを認められたいと思ったのではないか。
家のなかで、夫が父親が男らしいと認められているかどうか、ということは、一国が戦争を始めるかどうか、という大きな問題にリンクしていくものなんじゃないだろうか、と話したものだ。

世の中は、平和である。
家が波に流されてしまった人の命に切迫した問題は今はない。
そのかわり、男と女の問題が、これでもか、これでもか、と私たちにせまってくる。
最近の研究のテーマでは、男性と女性のちがいが、分かれてきている。
以前は、医学の領域においても、男女のちがいを明確にすることは避けていたようだ。
今は、心理学から脳の作用、教育方法まで、男女のちがい、という点に目を向けているようである。

男性と女性は、もともと持って生まれた性質が、こんなにちがうものなのか、と思う。
男性と女性が、それぞれの性質を理解しあって、尊重しあっていけたらいい、と思う。

あの文学喫茶での、私たちのちょっとした結論はこんなところにあった、つまり、男女の仲というのが、世界が平和になるための、最終課題となる。
それは、最初で最後の課題となる。
これを乗り越えられたら、きっと本当の、男も女も幸せになれる社会を、造ることができる。


2014年6月21日土曜日

NHK「花子とアン」第12週「銀座のカフェーで会いましょう」感想。

女学校を卒業してから、10年が経った。
山梨で教員生活をしてから10年、ということである。
花子は次の曲がり角を曲がり、東京へ上京して、花のOL生活、職業婦人のライフシーンに移ることになった。
初めて見る、というわけではなかったはずだが、職業婦人となってからの「大人の」東京は、またもっと、楽しみが増えたようである。
それが、「銀座のカフェー」というわけである。
この時代の職業を転々としている妹のカヨが、この銀座のカフェー・ドミンゴで、序給さんをしている。
花子の職業婦人ライフも、この銀座のカフェー・ドミンゴと会社と自宅を行ったり来たりしながら、進んでいくようである。
考えてみれば、職業をテーマとしたドラマでは、必ず「カフェー」という飲み物や食べ物が出てくる店があって、そこでのプライベートな語らいが、物語のストーリーを豊かにふくらませてくれるようである。
「あまちゃん」では、喫茶リアスがあったし、今度7月から始まる月9の「HERO」でも、仕事が終わってから行く店が、とても重要な役割を果たす。
「花子とアン」では、カフェー・ドミンゴが重要な舞台となるようだ。

考えてみれば、誰もがそうだと思うが、学生時代や職業時代もずっと、カフェーでの待ち合わせ、カフェーでの語らいは、とても大きな友情や恋愛の舞台であったと思う。
私も、行きつけだったカフェーを思い出した。
そうしたところで待ち合わせをするのは、楽しかったと思う。
それは必ず、コーヒーと軽食のおいしい店だった。
私の思い出では、クラブサンドイッチがとてもおいしい店で、人気があったと思う。

誰にとっても、仕事も友情もはずせない大切な場所、それがカフェーである。
これは、明治時代に始まった文化なのだろうか?
それとも、江戸時代から茶店くらいはあったような気もする。

文学喫茶というのも、とても懐かしい。
「そうそう、あんなかんじ!」と手を打って喜んでしまった。
必ずああいった、独自の文学論をぶつ書生風の男子がいて、舌を巻いたものである。
シェイクスピア、チェーホフ、舞台のことや、社会風刺もあった。
なかなか魅力的な文学喫茶である。

花子はここで、将来の夫、村岡英治と交流をあたためることになる。
また、腹心の友である、蓮子との再会もこの場所である。
村岡英治との、結婚にいたる経緯つまり、恋愛の進み具合であるが、NHKの朝ドラとしては、ここが一番のクライマックスなのだから、しっかり進めてほしいところであるが、正直、「告り」のシーンでは、本当にがっかりした。
こんなありきたりな「告り」じゃあ、残念至極である。
ラブストーリーの本当のポイントというのは、ヒロインが初めて告る場面であり、ふたりが気持ちを確かめ合う場面である。
ここにどんな素晴らしい詩的な要素を組み入れることができるか、ここがフィクションの腕の見せ所ではないか。

それが、雨の夜…(ありきたり)
偶然ふたりきりになり…(あちがち)
風が飛んで…(どっかでみたことある)
偶然ふたりの肩がぶつかって…(どこだってそうなる)

そして、肝心の「告り」が、言葉で「好きです」だなんて、本当にそれが、作家なんだろうか、翻訳家なんだろうか……。

韓国ドラマだって、こんなことは絶対にない。
もちろん韓国ドラマの人気は「告り」のシーンのポエムにあるわけだ。
伊藤左千夫の「野菊の墓」だって、日本情緒あふれる美しい言葉のやりとりがあった。
日本文化の恋歌、相聞だって、万葉集だって、景色にたとえ、季節にたとえ、恋の気持ちを表現したものである。
それが、雨の夜に傘を落として「ガバッ」ってのは、がさつにもほどがある…。

というわけで、半年間の長きにわたってNHK朝ドラを見るための、一番の見どころで、がっかり、というわけだ。
あ~あ。

それにしても、ヒロイン花子の酒癖の悪さというのは、働く女性としてどうなのかと思う。
仕事を持てば、酒の席はあるだろうし、大人として一杯くらいは飲めないといけない。
それでも酒癖で周りに迷惑をかけるのは、女性としてはしたない。
私は、もともとアルコールは強い方ではないので、これは、家庭で父親と一緒に飲んでみたり、学生時代に女子学生同士で、どこまで飲めるか確かめてみたりして自分の酒量や酒のタイプを確認したからであるが、やっぱり外でいい大人の女性が、自分を見失うほどお酒を飲むのは、みっともないからやめたほうがいいと思う。

現代の日本でも、女性がお酒を飲むのは、当たり前になってきているが、それでもやはり、自宅で、家族やうちとけた友達と飲むにとどめたほうがよいのではないだろうか。
そして、会社の宴席では、雰囲気と付き合いのために、最初の乾杯はするけれど、ひとくち、ふたくちでやめておいて、あとはウーロン茶やオレンジジュースにしておくのが、女性としてのたしなみではないか、と思う。

2014年6月18日水曜日

ワルいことはすべて、お父さんから教わった。

カジノ法案が提案されている。
おりしも、サッカーのワールドカップ世界大会が開催中であり、明日どのチームが勝つか、誰もが興味がいっぱいあり、勝つチームはどこか、ということで、個人的に賭けをしている人だってたくさんいるだろう。
私も、おやつやビール一杯くらいは、賭けている状況である。
カジノ法案には、反対の意見もたくさんあるだろう。
治安、という面で不安な気持ちを持つ人もたくさんいると思う。
でも、カジノ、賭け、というのは、人間の持って生まれた、才能であり楽しみである、と私は思う。
ちょっとした遊びとして、楽しめるほうがよいのかもしれない。

私は小さい子どものとき、よく父に連れられて、家族でパチンコに行った。
ひとり500円、と手のひらにコインを握りしめ、一時間以内、ということで、それぞれのパチンコ台に解散する。
コインをパチンコ玉に替えたら、一玉、一玉、ポツン、と打っては別の台にまた移ったりする。
そのうち、なぜか大フィーバーになって、じゃらじゃらと出始める。
お隣のご婦人が「あらまあ、大きな箱を持ってらっしゃいよ!もったいないじゃない!」などと、声をかける。

そうして、一時間ののちに、父は煙草ふた箱、母は空手、妹も空手、私はチョコレート10箱、の戦利品を手にして、意気揚々と家に帰る。
家に帰ったら、妹と私で、チョコレート三昧である。
楽しい。実に楽しい。

このごろのパチンコ店は残念ながら「パチプロ」と呼ばれる人であふれてしまって、
一回に使うお金も万単位だという。
子どもや女性が、あるいはファミリーが入れる雰囲気ではなくなってしまった。
残念である。
こうしたこともふまえて、公的なカジノが、観光地に作られることは、とても楽しい試みではないかと思い始めた。
このところ、小中学生の子どもたちでも、ゲーセンという、つまりゲームセンターが大好きで、100円のワンコインで、いろいろなゲームを楽しみ、おまけというか戦果も持ち帰って集めたりしている。
また、ファミリーで出かけるようなアミューズが人気を集めているが、遊園地やショッピングセンターだけではなく、ワンコインで賭け事ができるのも、また楽しいと思う。

映画などでよく見かけるカジノは、アメリカのラスベガスである。
ここでは、華やかなショービジネスもあって、とても豪華なホテルやサービスもあってとても楽しめる。
私が観て「ベガス」ということで素敵だった映画は、トム・クルーズの「レインマン」である。
ベガスのシーンが効果的にストーリーに織り交ぜられていたと思う。

私の尊敬するフランスの女流哲学者ドミニック・ローホーさんも、とてもシンプルな生活スタイルをしているのだが、ときおり、コインを賭けに使うのだそうである。
それは、50セントを、スロットマシーンに使う、というような賭け方であるらしい。
人生には賭けが必要だ、という哲学なのだそうである。

カジノには、日本のいろいろな地域が、すでにピックアップされているようである。
私は、熱海あたりに、カジノ施設ができたらいいのにな、と思う。
すでに温泉施設としては老朽化していて、敬老施設が軒を連ねている状況である。
温泉も海もあって暖かくて立地条件もよいし、東海道新幹線でつっと行くことができる。
横浜もいいかもしれない。
港に繋げた豪華客船の中でルーレットをしたら、気分も最高である。

もちろん、治安の面も大切だ。
女性も子どもたちも、ファミリーで安心していけるカジノ都市を、繁栄させてほしいものだ、と思う。


2014年6月16日月曜日

小鳥たちの歌声。

夏至が近い。
朝が早くなっている。
まだ3時ごろなのにすでに明るくなってきて、小鳥たちがさえずり始める。
いつも思っていた、小鳥たちはどうして、なにがうれしくて、あんなに楽しそうに啼いているのだろう?
私は今、小鳥を飼っている。
ベランダのサンのところまで来て、定位置でチュンチュンさえずっている。
「チュン太」と名前をつけた。
フリー契約である。

小鳥たちもなにか、言葉を交わしあっているのだと思う。
どんな会話をしているのだろう?
「ああ、朝だ、うれしいなあっ!」
「きょうも空が青くて、晴れ晴れするなあっ!」
「ちょっとあの枝まで飛んでみようっと、さあ、翼を広げて」

小鳥たちは、この世界を満喫している。
この世界に生まれてきたことを、体中で楽しんでいる。
限られた短い命かもしれないが、この世界に身体を持って生まれてきたおかげで、目が開いて空の青さや花の赤さを感じることができる。
波の音や、風の音、友達の歌う声を聴くことができる。

羽つくろいをすれば、翼を広げれば、この世界を感じることができるし、おいしいごちそうも味わうことができる。
何しろこの世界はとても広くて、いろいろなものがたくさんある。
新しい場所も、まだ知らない場所もたくさんあるし、大きな海や、大きな山や、透明な湖や、真っ白な冬の山もある。

世界を五感で満喫するために、小鳥たちはこの世界に生まれてきて、そして「楽しい、楽しい」と歌っているのだろう、と思うのだ。

人間だって、本当は命ある生き物だから、そうして小鳥のように、楽しい楽しい、と生きていけるはずだ。
でも人間は、心を持って生まれてきてしまった。
エゴも自尊心もある。
友達と仲良くしたい、できるだけ好かれたい、という気持ちもある。
だから、なかなか、世界を楽しめないのかもしれない。

でも、人間だけが生まれ持ってきた「心」と「自尊心」は、人間にしかできない何かを、生み出したり作り出したり、することができるかもしれない。
知性や頭脳だってそうである。
なまじ頭が良いばかりに、知識がたくさんあるばかりに、なかなか世界を楽しめないのかもしれない。
でも、人間にしかない知性と頭脳で、たくさんのことができるのではないだろうか。
そしてそれが、人間にしかできない、地球の楽しみ方かもしれない。

心や知性、自尊心を、上手にコントロールして、そして、人間にしか生み出せないコミュニティや社会や政治や文化というものを、たくさん作っていくことができたら、もっと世界を楽しめるのではないだろうか。
ただただ克服して抑えるのではなく、人間として生まれてきたこと、心と頭脳と自尊心と、コミュニティを作りたい気持ちを、いっぱいに生かしたときに、人間として生まれてきたことを、心から充実して楽しめるのではないか、と思う。

人間が、小鳥のように世界を楽しむために、古今東西、たくさんの知恵があり、それが示されている。
生まれたての子どものように、世界を遊ぶためには、たくさんの努力と知恵が必要だけれども、それができたときには、地球というフィールドで、遊びたわむれることが、きっとできるのだと思う。



2014年6月15日日曜日

憲法20条の解釈・思想信条の自由・集会結社の自由・政教分離の原則。

今年2014年の国会会期末まで、あと一週間である。
大詰めになっているのは、憲法9条、集団的自衛権の解釈の問題である。
ここで、折衝が続き難航しているのは、連立政権である公明党が、この解釈をめぐって、「平和の党」として、自民党とぎりぎりの攻防を続けているからだろうと思う。
公明党支持者だけではなく、日本中の平和を望む国民の期待を背負って、公明党が今、自民党とせめぎあいをしている。
考えてみれば、野党筆頭である民主党との党首討論もなんとなくもやもやと終わってしまったものだった。
民主主義の政治が、このままでよいわけがない。

そして、折衝の論点となってきたのが、公明党をめぐるさまざまな問題提起である。
たとえば、公明党という政党が、日本では珍しく、宗教団体を支持母体としている政党である、という点である。
日本では珍しいと書いたのは、海外では、宗教を思想基盤とした政党は、決して珍しくなく、むしろ常識的なことであるからである。

ともかくこの、公明党の支持母体が創価学会という宗教団体であることで、例の「政教一致」という批判が飛び出してきた。
公明党の政治に関して、必ず飛び交うのが、この「政教一致」「政教分離」という言葉である。
そして、憲法20条の、政教分離の原則の照らして、この公明党の存在が、憲法に反するのではないか、と批判するのである。

このあたりでそろそろ、憲法20条の政教分離の原則について、正しい認識をみなが共通で持つようにしてはどうか、と思う。
「政教一致」といって思い出されるのは、たいていの人たちが、学校の義務教育でならった、歴史のなかの、政教一致の政治を行った政治家のことである。
道鏡というあやしげな宗教者のいうことを、全面的に聞き入れた政治家がいた。
そうすると、僧が権力を握ることになる。
それで、宗教で政治判断をすることが、政教分離なのではないか、と思い込んでしまった感がある。

実際には、現行の憲法における政教分離の原則の、発生するところは、別の政治事象によるものである。
すなわち、現行の憲法が作られた、第二次世界大戦後の状況である。
日本の第二次世界大戦は、国家神道、つまり神道が国家権力から、国民に対して、押し付けられた形になった。
神道の国教化である。
また、天皇への信仰も、同じく、権力から国民に強要されたものである。
こうして、思想・信条を厳しく取り締まって、国内の集結をはかったのが、当時の軍部政府である。

大戦当時、治安維持法があり、この法律に触れたのは、平和を説くすべての人々、すべての団体であった。
だから、国家神道とはちがう、日本古来のお寺、仏教なども、弾圧されたのである。
そして、「神風が吹く」というような、日本国民挙げての、あやうい精神状態に持ち込まれたのである。

憲法は、権力を縛るもの、権力が行き過ぎるのを抑制するものとして、制定されている。
現行の憲法を見ると、権力が、権力を持った人が、どんな発想でどんなことをするのかが、よくわかって、ちょっと興味深いところもある。
第二次世界大戦においては、権力は人々の「心の自由」を拘束し、縛り上げたのである。
そして、宗教と思想をコントロールすることで、人々の発言を奪ったのである。

そういった意味で、集会・結社の自由、言論の自由が、同憲法20条で保障されることとなった。
第二次世界大戦中には、戦争反対を説く、共産主義者、社会主義者、お寺のお坊さん、平和を訴えたパンフレット、平和と平等を訴える街頭演説まで、すべて処罰されたのである。

民主的な政治をして、民主的な世の中にするためには、宗教・思想・言論の自由が保障されなければならない、これが、国家権力によって国民に宗教を押し付けてはいけない、という、政教分離の原則である。

こうしたいきさつを考えると、現在の公明党には、それはあてはまらない。
公明党が政治的な力を使って、国民に宗教への帰依をせまった、という話は聞いたことがない。
現在問題となっているのは、宗教を持った人たちが政治を行うのはどうなのか、という個人的な批判であるように思われる。

こうした、憲法20条の原則をあてはめると、たとえば、総理大臣が個人的な思想信条の自由をもって、靖国参拝をすることは、憲法に抵触する行為ではない。
しかし、総理大臣が自分が靖国神社への信仰を信じているからという理由で、日本国民に神道への帰依を求めるとしたら、これが政教一致である。

しかしもともとは、第二次世界大戦中の国家神道の総本山は、靖国神社であったわけである。
だから、その靖国に今も参拝する、このことのほうが、戦争中の国家神道への逆戻りを意味するのではないか、と国内外から慎重論が持ち上がっている次第である。

思想・信条の自由のなかには、「布教活動の自由」が含まれることも、忘れてはならない。

憲法20条の論議は、これからたくさんの人々が、自由に信仰を持ち、心の自由を保障されるように、活発に行われることが期待される。


2014年6月14日土曜日

NHK「花子とアン」第11週「グッバイ!はな先生」感想。

今週の「花子とアン」は、花子の人生の転機となる場面だったようだ。
特に、家族、というところに、ポイントが置かれていたように思う。
今週の「グッバイ!はな先生」のストーリーは、女学校を卒業してから、故郷の山梨に戻って就職した花子が、次の夢を目指して東京に上京するまでの経緯を、描いたようである。
ターニングポイントとなる今週は、花子の周囲でいろいろなことが起こる。
考えてみれば、一教師として一生を故郷で生きるつもりだった一人の女性が、一念発起して上京するというのは、大変なモチベーションを必要とするものだ。
私自身も、北海道から東京に出る、とか、群馬県から東京に出る、というのは、大変な人生のテーマであった。
特に北海道にいたころには、大学を選択するとき、就職先を選択するときには、「東京に出るかどうか」というのはとても大変なことで、友達がいち早く上京を決めると、寂しさや人生の道行きというのを考えて、自分の将来を、眺めては立ち尽くすような気がする。

上京を決める花子の周囲で起こることは、特に、家族関係の変化である。
変化というよりは、ゴタゴタであるかもしれないが、ここで花子の人生と教育に大きな影響を及ぼした祖父・周造が、その生涯を閉じるのである。
花子の初めての小説を見届け、孫である一家の長男の出征も、孫娘たちの就職も北海道へお嫁にいった「もも」もいた。
また、行商で家を空けることの多かった婿殿・吉平も、戻ってくる。
こうした、家族ひとりひとりの、人生のターニングポイント、節目、ライフイベントが、同時に重なるときなのである。

祖父は、年齢を重ねてきた分、こうした、娘や娘婿、孫たちの人生を、遠く、まるで家の奥から、静かに見守ってきたような気がする。
これまで正直言ってあまり存在感がなかったような気もするのだが、その老父たる存在はやはり確かなものであった、と実感させられるのである。

そして、花子を女学校に送り出した時と同じ言葉をいう。
私もこの言葉はとても印象的に覚えていたので、この人生訓が、花子の人生選択に大きな影響を与え、その後も、彼女の仕事に対するスタンスになったと思うので、とても大切だと思う。
それは、「その手でしかできない仕事をして、みんなに見せてください」というものだった。
女学校へと送り出すときには、花子の手を握って「この手はもう、農家の仕事をする手ではないんだよ」と言ったのである。

その人には、その人にしかできない、人生の「仕事」というものがあるのではないか、と思いたい。

そして、花子は、東京の出版社から申し出を受けていたことを、承諾して、挑戦する気持ちで東京に出てみることにする。

ライフイベントは、家族のそれぞれが、増えたり減ったり、あるいは、「これからも家族として絆を続けていきますか?」という大きな問いかけにぶつかるときかもしれない。
そうした時期は、まるで、時代の空気や、人生の雰囲気が、とても大きく変わるような気がするのだろう。

花子のお得意の空想では、「はな」だった名前が「花子」と呼んでみるだけで、呼吸をすることも、空の色も、変わって見えるのだという。
このところ、時代の空気というのが、とても変化してみえる。
家族や友達や、時代というのが、とても大きく変化している、ライフイベントのときかもしれない。
その大きな曲がり角を曲がった先には、きっといいものがあるのだ、と思う。
花子は、人生の次のステージに、立ち向かっていく。


2014年6月12日木曜日

サッカートトカルチョ。

今年もまた、眠れない夏がやってくる。
今年2014年は、2月に眠れない冬があった。
冬季オリンピックである。
時差というのは不思議なものだ。
地球の大きさを実感させてくれる。
というわけで、今年は4年に一度のサッカーの祭典、FIFA ワールドカップサッカーが始まる。
今年はブラジルでの開催である。
6月12日から、ということでカレンダーに丸印をつけてあったのだが、時差の関係で、開会式はこれから13日の未明、3時過ぎとなり、第一試合のブラジル対クロアチアの試合は、日本時間の早朝5時にキックオフである。
私は、クロアチアが勝つと思う。
というわけで、身近なお友達と、すでに賭けをした。
楽しい楽しいサッカートトカルチョである。

こうした賭け事は、特にスポーツに関するものでは、一応法律的に禁止、となっている。
しかし私たちは、賭けが禁止だと知る以前から、賭け事をしてはいなかっただろうか。
たとえば、私はそれがトトカルチョだとは知らずに、高校野球の試合をテレビで見ながら、弟と賭けをしたものだ。
「おねえちゃんは、こっちの高校が勝つと思う」
「ぼくは、あっちの高校が勝つと思う」
「じゃあ、勝ったほうが、夕方のお茶碗洗いをする」
というような具合である。
また、妹とは、たいていの場合、おやつの分け合いで、ケーキを半分に切ったのを、大きい方を取る、というようなことを賭けた。
というわけで、個人で楽しむ場合においては、トトカルチョは許されるものではないか、と判断している。

今年の優勝国の予想もすでにすでに始まっている。
私の友達は「もちろんサムライブルーだ」という。
いるんだよね、そういう人…。

しかし、日本は、一次リーグでグループを勝ち抜いたとしても、一位であっても二位であっても、決勝トーナメントでD組と対戦しなければならない。
D組の一位と二位は、おそらくはイタリアとイングランドであることが予想される。
とすると、日本は、イタリアでもイングランドでも、勝てる状態にもっていかなければならない。
…。…。…。

そういうわけで、私は、優勝候補はやはり、日本、ということにしておく。
トトカルチョでは、ポテトチップス一袋を提案した。



2014年6月11日水曜日

ビッグデータと会合について。

このところ、社会全体の話題となり、政策や「雰囲気」となっているのが、女性の社会参加であり、教育であり、また、組織的な系統を持つことや発言力の高さである。
そこで私も、ある近所の友達が、女性団体に所属している、ということで、昨日いろいろお話をうかがってきた。
この団体の会合には、私も何度か参加したことがあり、そのときの体験をもとに、書いてみたいと思う。

この団体は、所属人数も膨大であり、組織的な活動を行っていて、東京に本部があり、各地方に支部がある。
その支部にまた、たくさんの小さな組織が所属している、という形態となっている。
もちろん、ここから集められる情報も、膨大なものである。
実際のところはどうなのかわからないが、周知の事実として、このたくさんの情報は、ビッグデータとして、大きなコンピューターにかけられ、分析されて、毎日の団体運営のために、活用されている。
もちろん、選挙の際には、非常に有効な基礎データとして、活用されている。

この団体は、教育団体でもある。
すでに大学教育を卒業して、一家の主婦となったり社会人となったりした女性たちが、生涯教育を受ける場ともなっている。
この団体の機関紙は、毎日発行される新聞であったり、子どもの教育を専門にした月刊誌であったりするが、これが教育のテキストとなっている。
会合では、これらのテキストを持って集まり、読み合わせをし、講師が解釈を教える、あるいは、それぞれの個人が、感想や意見を出し合い、意見交換を行う、質問会が行われ、講師が質問に答える、ということが行われる。
大きな会合では、演壇に講師が登って話をする講演会式であるが、少人数の会合では、ワークショップのような、個別の意見交換が行われている。
この会合に何回か参加したが、女性だけの会合とあって、なぜかこの集まりでは、いい匂いがする。
その香りが、お化粧によるものなのか、香水によるものなのか、会場に常に飾ってある花のせいなのかは、よくわからない。
壁はクリーム色で、絨毯は桜色である。
大きな掛け時計があって、きれいな陶器の人形が飾ってあったりする。
また少人数の会合や、長時間人が集まる打ち合わせでは、おっかさまのような婦人が、いなりずしや唐揚げを大きな入れ物に入れて持ってきてくれる。
こうした、おいしそうなおかずの匂いもまた、とてもいい匂いである。


教育という意味では、テキストのない、人と人との集まりである場を使って、年配の婦人から後輩の若い婦人への教育や相談も行われている。
たとえば、子育てに関する悩みなどは、年配の経験豊かな婦人が、若い母親に、知恵袋として教えてあげたり、するようである。
また、主婦としての経験の浅い若い奥さんに、お料理の仕方や家事の仕方を教えてあげたり、主婦業としての情報交換も盛んに行われている。
こうして、女性ならではの、ネットワークが、人間関係というとても有機的なものを媒体として、分厚く形成されている。
それはあたかも、現代社会が失いかけている、年長者と年少者の関わり、「ムラ」のようなものである。
また、母子家庭や小さな子どもを持つ母親が、孤立しないための、人間関係が育まれている。
孤立しないということは大事なことで、ある母子家庭の家で、小さな会合が開かれて婦人たちが集まるということになれば、地域社会でも大切にされる、ということでもある。

ビッグデータということも、最先端の機械を使って、最善のことをする、という意味で大切であるが、基本的に、人と人との関わりのほうを重要視しているところがある。
地方と東京の連携に際しては、地方のトップ幹部が、月に一度は上京して、対面式での指導伝達や相談会を行っているようである。



2014年6月10日火曜日

集団的自衛権をめぐる、与党内の状況について。

集団的自衛権の解釈に関しての討議が、白熱しているようである。
今年も1月から始まった通常国会は、今月6月、梅雨の真っただ中で、会期末を迎える。
あと10日ほどである。
この10日のなかで、現在の議題となっているテーマに決着をつけることが必要で、もし決着がつかないと、国会は会期延長となる。
会期延長は、むしろ国会議員にとって、あまり好ましくない事態ではないだろうか。
もう半年も、国政にたずさわっているのである。
永田町に缶づめ状態になっている議員もいるだろう。
これから梅雨から真夏にかけて、夏休みを取りたい議員もいるだろう。
だから、順調に「終わらせたい」というのが、本音かもしれない。

しかしここまで長引いて、集団的自衛権の解釈変更は、難題にさしかかってしまった。
連立与党である、自民党と公明党の、対立である。
公明党で話題になっているといえば、あちこちの報道やニュース解説で見かけるところであるが、支持母体である創価学会のそれも、女性会員たちの動向である。
聞いた話であるが、創価学会のトップであろうと、公明党の国会議員であろうと、このたくさんのご婦人たちの連携や組織力、いわゆる「女性力」には、かなわない、という話である。
ご婦人たちだけで大きな会派を持っていて、その婦人部の発言力には一家言あり、創価学会の本部や理事会でも、大きな位置を占めているという話である。
創価学会では率先して女性の幹部登用を行っていて、「女性グループのトップ」というのが、すでに存在して活動しているらしいのだ。

また、これは、海外からも注目されて、見学や交流会を持つテーマであるが、創価学会の女性の組織力は、世界でも類を見ないほど、卓越しているのだそうである。
女性はもともと、「組織」という形態になじまない性質を持っているようだ。
それを、組織として体系づけて、現在も活動をしているのは、とても珍しいことであるようだ。
たとえば、日本のさまざまな団体を見ても、「婦人部」「女性部」というのは、きっちりとした組織体を維持活動させることはできないようである。

与党自民党としても、今後の女性の活躍登用は、社会の基盤造りのために、重要な柱となってくる。
創価学会のご婦人たちの、意見、意志、思想が、日本の女性たちの世論を動かしている状況は、今後の集団的自衛権や憲法改正、戦争を行うか否かの決定に大いに関与してくるのではないかと予想されても不思議ではないような気がする。

2014年6月9日月曜日

連載・78 フレーバーティー

お料理エッセー・そら豆のひとりごと。

6月も梅雨の季節となった。
これから、6月、7月と、初夏から真夏の季節にかけて、楽しみなのは、ハーブの栽培である。
ハーブは、ヨーロッパの薬草・香草である。
「香草」というだけあって、「草」なので、やはり春から初夏にかけて、さかんに茂って成長していくのが、うれしい。
秋や冬には、この葉を、乾燥させて保存して使うのであるが、初夏から夏は、フレッシュで楽しむことができる。
このフレッシュの楽しみ方を、意外と知らない人も多いかもしれない。
収穫して乾燥させて使うだけでなく、夏には夏の楽しみ方をしてみたい。

今年は、「フレーバーウォーター」というのが、ちょっと人気があるそうだ。
確かに真夏には、水分補給が必要なこともあって、たくさん冷たい水を飲む。
この水に、ジュースとは言わないまでも、ほんのりと香りをつけて、冷やして楽しむのだそうだ。
ガラス瓶のなかに、フルーツ類を刻んで入れて、それからその上にたっぷりと水を注いで、冷蔵庫で冷やすのだそうだ。
これは、真夏になったら試してみたいと、ご近所の奥様もおっしゃっていた。

ハーブのフレーバーティーの楽しみ方も、これと似ている。
ハーブの、薬草としての効能を期待するなら、しっかりと煮出したり、アルコールで浸出させたりするほうがよいかもしれないが、香りを楽しむならもっと手軽である。

このところ、どこのお宅のベランダにも、ラベンダーの鉢のひとつは、置いていないだろうか。
そのラベンダーの花が、紫色のつぼみを、つけ始めてはいないだろうか。

フレーバーティーは、基本的に紅茶である。
ストレートの紅茶で、セイロンやダージリンくらいの、もともとのフレーバーが主張の少ない穏やかな飲み口のものがいい。
それをいれるときに、ベランダの鉢から、ラベンダーの花を、花は集まって咲いているので、この集まりを、指先でちょんと摘むといい。

それは、ひとつでいいので、ティーポットに紅茶とラベンダーを入れて、熱いお湯を注ぐ。
香り、ラベンダーの香り。

初夏の季節に生まれた人は、初夏が一番、気分がいいのだという。
これから夏を迎えるときに、まさにあつあつの気持ちと爽やかな風と、緑いろを濃くする季節に、生まれた人は、どんな運命とどんな風を、持っているのだろう。

きっと、ワールドカップサッカーの、あの選手たちが駆け抜ける、グリーンのグランドのような風なのだろう。

風にグリーンやラベンダーの香りがつきはじめるこのごろ、一杯のフレーバーティーが、さまざまな記憶を、呼び覚ましてくれる。


2014年6月8日日曜日

憲法改正までの道のり。


憲法改正への議論が、高まっている。
もはや、解釈の変更だけでは、社会の変化と国民のニーズには、対応しきれない、というところだろうか。
私も、憲法改正には、とても期待している。

とはいっても、日本国の根本となる憲法なので、熟慮の末の結論であるべきだろう。
また、国民総意の結論として、憲法の改正があることが、望ましいだろう。
それは、国民投票によって決定されるのが、一番望ましいということだろう。
もともと、憲法の改正には、国民投票による、と決められているところであるし、こうしたきちんとした手続きにのっとって、手順通りに決められたなら、その結果に対して、誰も文句のひとつも言う権利がない、というわけである。
国民世論を二分する論であるだけに、ここは、しっかりと民主的に、投票によって決定を行いたいものだ。

それにしても、である。
私も生まれてこのかた、国民投票というのを、体験したことがない。
それなので、どういうものなのか、よくわからない点がいくつもある。
たとえば、まず「国民投票をいたしましょう」ということは、国会で決めるということはわかったが、その後、衆議院選挙のように、「40日以内に」というような日程の取り決めはあるのだろうか。
選挙管理委員会は、国政選挙と同じ仕組みで作られるのだろうか。
街角にポスターが貼られるのだろうか。
街頭演説がなされるのだろうか。
街頭演説がなされるとしたら、それは、政党が行うのだろうか。
「候補者」は、いない…?

インターネットで選挙運動をしてもいいのだろうか。

また、投票用紙は、○×式となるのだろうか。
もしかしたら、最高裁判所の投票用紙のように、いくつか候補が並んでいて、そこに○をつけたり、×をつけたりするのかもしれない。

となると、憲法の改正案が、選択肢として5つくらいは並んで、そのうちのひとつを選んで、○をつけることになるのだろうか。

それとも、改正案はひとつで、賛成か反対か、それだけを記入することになるのだろうか。
それとも、賛成の人だけ投票に行って、反対の人は投票に行かなければ×ということになるのだろうか…?

具体的なところがまったくわからない状況である。
やはり日曜日に行われるとは思うのだが…。

これから、6月の国会会期末までに、国会で提案されたら、7月、8月で選挙運動をして、9月の風が爽やかになってきたころに、皆で国の将来を、決めていきたいものだ。
秋には、新しい日本の国で、出発したいものだ。


ランドセル事件について。


2005年に、当時7歳だった女の子が、行方不明になった。
今、その事件にスポットがあたっている。
小さな子どものいたましい事件に関しては、本当に心が痛む。
なぜ、こうした事件を防ぐことができなかったのか、どうすればこの小さな命を守ってあげることができたのか、みなで力を合わせて、よくよく考えていきたいと思う。

私が思うことを、いくつかまとめて書いてみたいと思う。
ひとつは、こうした変質者が、ターゲットにする女の子には、それなりの理由がある、ということである。
犯人の側から見ても、ターゲットにしやすい子どもと、そうではない子どもとがいるようだ。
そうして、こうした悪意を持った犯人は、ターゲットを日ごろから観察して、選んでいるのである。

こうしたときにターゲットになりやすい子どもというのは、たとえば、他人から道端で声をかけられたり、叩かれたりつねられたりしても、大声を上げない子ども、という性格があるようだ。
また、外で起こったことを、家で両親に言わない、という性格もあるようだ。
こうした子どもの性格には、家庭の状況、両親の状況が大きく影響していることが多いと思う。

犯罪防止の理論に「割れ窓理論」がある。
この理論は、小さな子どもの心にもあてはまる。
子どもの心が「割れている」状態だと、そういう状態を見た犯人が、ますます悪いことをしかけるようになって、もっともっと破壊してしまうのである。
「心の割れ窓理論」は、いじめのターゲットになりやすい子どもにも、あてはまる理論である。

ではなぜ、この子どもの心が割れていたのか、その理由は、すでに家庭内において、心が割られていた、つまり、この家庭に、子どもへの虐待があった、と推測することができる。
こうした、両親との信頼関係がない子どもは、学校や家の外で困ったことがあっても、自宅に戻ってから、親にそれを伝えられない。
助けを求めることができない。
誰にも助けを求めることができない環境と人間関係、親子関係が、あるのである。

実際に、こうしたときに、ご両親が、社会運動や社会活動を始めることも、ご両親の性格を如実に反映しているとは言えないだろうか。

小さな子どもは、社会のなかで自然に守られる存在である。
大人であっても、子どもであっても、男性であっても女性であっても、もちろん私でも、電車のなかで、子どもだけがひとりで座っているようなことがあれば、目に留めたり声をかけたりするものだ。
そうしたときに、「守ってもらえない子ども」がいるとしたら、その子ども自身に、何か「へんな雰囲気」があったり、あるいは両親の仕事や性格がわかるなら、「関わりたくない」と思ったりする「何か」があるのではないだろうか。

社会の中で守られない子どもは、家庭のなかでも守られてはいないのではないだろうか。
子どもたちを、一生懸命、みんなで守っていきたいものだ。



NHK「花子とアン」第10週「乙女よ、大志を抱け!」感想。


6月2日~6月7日
この週に描かれるのは、「切ない恋愛模様」というところである。
まだまだ若い女の子、男の子、あるいは夫婦愛、というところもある。
まずは、花子の「腹心の友」蓮子の状況である。
九州にお嫁に行った蓮子の姿は、山梨の花子の姿と同時進行で描かれている。

蓮子は、お見合い結婚の相手と、どうにも合わないようだ。
最初から政略結婚であり、あまり期待はしていなかったかもしれないが、夫が女学校の設立を手掛けていることが、唯一の希望だった。
その夢を打ち砕かれて、自宅でたいそうぜいたくなサロンを開くようになる。
また、好きな短歌の歌集を、大金持ちだけが取り柄な夫のお金で出版させてもらうことになる。という筋書きである。
しかし、この蓮子と伝助の夫婦も見ていていろいろと、思うところもある。
一代で財産を築き上げた伝助にも、男性として成功者として、とても素晴らしいところがある。
字が読めない、教育を受けていない、これが伝助の劣等感だとあるが、それでも社会の中で男として立派に仕事を成し遂げている。
蓮子にはこうした、男として、社会の中で立派に仕事をしているという姿が、見えないようである。
そして、文学好きで芸術好きの蓮子にとっては、夫の伝助も、義理の娘も、「私が教育をしなおして差し上げます」という対象にしか見えないのである。
これでは、夫も家族も、見下げられていてかわいそうである。

自宅にクラシック音楽の演奏家を招いて音楽会を開いたときに、音楽にうっとりしている蓮子の横で、大きな音を立ててせんべいをかじりはじめた夫、この夫は、自分の存在を主張しようとしたのではないだろうか。
大切な夫よりも、目の前の音楽にうっとりしている妻であっては、どうにも妻らしいとはいいかねる。
これでは、伝助も立場がない。
どんな出会いであっても、夫婦として絆を育んでいこうと思えばできることではないだろうか、と私は思ってしまうのだ。

それでも、口げんかをするようなシーンでは、感情的になる蓮子と、頑固な伝助は、確かに似た者同士の夫婦にしか見えないところが、なんとも不思議である。
こうして、蓮子は、とうとう歌集を出版して、山梨の花子に送ることになる。

蓮子にとって花子との別れ、結婚をする際に、ちょっとやけになっていた蓮子は、花子に冷たくあたってしまったので、どうにも何か言い出しずらいところはあったのだろうが、歌集を贈るときには、ずいぶんとまた、挑戦的なお手紙をつけてきたものである。
「あなたはいつ、安東花子の名前で出版をなさいますの?」という口調である。
これもまた蓮子らしいところであるが、「腹心の友」は、ライバルでもある、ということだろうか。
こうして、蓮子は、何かつじつまの合わない家庭生活の中で、歌人という自分の道を苦しみながら見出していくようである。
炭鉱で事故が起こってここでは、夫の剛三の看病をしているので、蓮子の話はまだまだ先がありそうだ。

次に、舞台は山梨で、花子の末の妹、「もも」ちゃんの初恋と縁談である。
花子に背負われて小学校に「通った」ももちゃんも、もうそんな年ごろとなった。
ここへ、父親がまた、行商から帰ってきて、ずいぶんなお土産を持ってきた。
ももちゃんの縁談である。
相手は北海道で開拓をしている森田くんである。
これは、非常によい縁談である、と見ていた私は本当にうれしくなった。
さすが、行商をして全国を、広い世界を見てきた父親である。
これからは北海道の時代である、と演説をまくしたて、ももちゃんに北海道に行くことを勧めるのだ。

ところが、なんとしたことか、ももちゃんは、北海道に行きたくない、というのである。
どうしてだろう?
私なら絶対に飛んでいくと思うのだが…。

なんと、ももちゃんには好きな男の子がいたのである。
その男の子とは、花子の幼なじみである、朝市くんなのである。
その朝市くんは、花子のことを好きなのだが、花子にとっては、朝市くんは、幼なじみ、同級生、友達、ボーイフレンドにすぎない。
「異性」としては全然見ていないのである。
そして、花子は、ももちゃんの気持ちに気づいて、朝市くんとなんとか仲良くさせようというのだから、本当に困ったものである。
でも、中学校のときも、高校の時も、クラスメイト同志のなかで、こんな人間関係があったように思う。

そういうわけで、ももちゃんの初恋は成就せず、それでも、きちんと言葉で気持ちを伝えてから、北海道へと旅立つことになる。
私は本当によかった、と思った。
初恋くらいは、幼い時に誰もが体験するものだ。
それが近所のお兄さんだったりして、その初恋は、女の子の人生にとって、いわば小学校の初恋授業のようなものだ。
本当の、大人の女性としての恋愛、夫婦愛というのは、まだまだ先の話である。
北海道に行けば、きっといいことがある。
何しろ大陸気質で土地は広いし、雪は真っ白できれいだし、開拓は自由の気風があって男女平等だし、食べ物はおいしいし、第一、北海道に開拓に行こう、という男の人には、勇気と決断力と男らしいタフな根性がすわっている。
ぜったいにいい男性に決まっているからだ。

ももちゃんを送り出すときの、山梨の家族のようすは、本当に心あたたまる、素敵なシーンだったと思う。
そしてヒロイン花子にとっても、この週は、大切なことがたくさんある。
ひとつは、九州の蓮子から、先を越されて、歌集が送られてきたこと。
もうひとつは、遠く北海道へ渡る妹のももちゃんから「おねえやんの書いた物語が読みたい」と言われたことである。
先週では、学校の生徒から「花子先生の物語が読みたい」と言われている。
こうしたたくさんの人たちからの触発と、「あなたの物語が読みたい」という読者の声が、花子を突き動かすことになる。
またここで、一方は九州、一方は北海道、また生徒は住所知れず、というところも、大切な要素かもしれない。
というのは、言葉で話しては通らないほど遠くだが、活字になれば、花子の言葉が伝わる場所だからである。
活字になる、本にする、という意味を、強く思った花子なのである。

Girls be Ambitious !
私もこの、「ガールズビーアンビシャス!」でこれまでの人生をずっと生きてきた。
開拓精神、フロンティアスピリットで、人生に挑戦していきましょう!


NHK「花子とアン」第9週「はな、お見合いをする」感想。


山梨で小学校の教師となった花子は、子どもたちに囲まれるように、教員生活を始める。
しかし、ふってわいたように、縁談がはいる。
この週は、このドラマ「花子とアン」のテーマとなる恋愛と結婚の問題が、重点的に描かれる週であったと思う。
花子にとって、そして女性たちにとって、とても大切な、恋愛と結婚。
そこで、どんなことを思い、どんなことを考え、どんな決断をするのか。

私が面白いと思ったのは、花子らしい、「パルピテーション」の思い方である。
得意の空想を活かして、「もしも朝市なら…?」「もしも望月さんなら…?」「もしも、村岡印刷さんなら…?」と、いろいろな周りの男の人たちと、お話をするシーンを空想するのである。
空想するのは、そのときの「自分の気持ち」であるかもしれない。
「この人と一緒に暮らしたら、どんな気持ちになるかしら?」という気持ち確認作業である。
これは、実はどこのどんな女の子でも、行っている、日常茶飯事の空想ごっこである。
「もしもあこがれのあの王子様と、結婚することになったら、毎朝の朝ごはんには、目玉焼きとカフェオレ…白いテーブルには、小さな花瓶…、カーテンの色は白いレースで…」というような空想ごっこである。
これは、そんなにあなどれることではない。
たとえば、幼なじみの子どものころからの遊び友達と、だったら、朝ごはんは「あなた、自分でごはん炊いて」となるかもしれない。
「ボク、はなちゃんのために、魚も焼いてあげたし、漬物作りも趣味なんだ」というような男子もいるかもしれない。
相手によって、「ふたり」の生活も、そのときの気持ちも、こんなにちがうものなのである。
なので、花子のこの空想シュミレーションは、けっこう大事だ。

その空想シュミレーションをしてみて、花子にとっては、このお見合い相手である望月さんに対しては、胸の鼓動、ドキドキ感、パルピテーションを感じない、ということなのである。
これが、この縁談を断る、最大の理由となる。

また、この時期に、四年も留守をしていた父親が帰ってきたことも、とても大事だと思う。
父親には、娘にとって一番幸せになれるダンナの相手が、わかるのだという。
男を見る目は、やはり男だ、ということなのだろうか。
それで、この父親は、花子のお見合いには、猛反対するのである。

それにしても、とてもお金持ちで、誠実なお人柄で、花子や花子の家族の面倒まで見てくれて、お嫁さんに入ったら、家事をする人を雇い、花子には、好きな本を読んでいてもいい、そうそう、実家の借金も肩代わりしてくれる、という、こんないい話はあるだろうか?

私はここに、脚本家の中園ミホさんの、ひとつのポリシーを見るような気がする。
中園ミホさんのドラマで、私が見たものというと「やまとなでしこ」であるが、ここでも、ヒロインの女性が、結婚するときの男性選びがテーマになっているのである。
そのテーマの重要なポイントは、「条件よりも愛」というところだろうか。
まあそれは、女性にとっては永遠のテーマでありながら、思う人には思われず、思わぬ人に思われて、周囲の祝福がある結婚には愛を感じられず、周囲の反対を押し切る結婚のほうに、愛がたっぷりある、とかいう状況なのである。

実際に、結婚において、「条件」を重視する女性も多いのかもしれないが…。

ともかく花子は、これだけ周囲の人からも、「こんな最高の人いないじゃん」と勧められながらも、「胸の鼓動を感じられない」つまり「好きじゃない」と言ってしまう。
そして、縁談相手の望月さんに「なかったことにしましょう」と言わせることになる。
これが、花子の決断なのである。

すべての女性たちにとってこれが本当にあてはまるかどうか、私にはうまく言えないところがある。
しかし、周囲に祝福されることも、経済的に余裕があることも、女性のこれから先の人生にとって、とても大切なことではないだろうか。
一目惚れのようなときめきは感じなくても、一緒に暮らして行けば、夫婦として、温かくて堅実な愛情は、生まれて育まれていくものではないだろうか…。

花子のいう「パルピテーション」とは、「運命の人」という意味でもあるかもしれない。
いつの時代も女性たちは、「運命の人」を夢見るものなのかもしれない。


NHK「花子とアン」第8週「想像のツバサ?」感想。


花子は、山梨に帰って、小学校の教員になった。
ここで、NHKらしく描かれるのは、当時、若い女性が働く女性となったときに、職場で上司にどんなことを言われるか、どんな扱いを受けるのか、ということである。
当時の時代背景や女性を取り巻く環境があったことはまちがいないので、そこは、学ぶ気持ちで受け止めようと思う。
花子は、初めて生徒たちを受け持って、教師という仕事のむずかしさを知る。
そのときに思い出すのが、修和女学校での、何人もの女性教員の姿である。
こうして、先輩となる女性がいることは、とても心強く励みになるものだ。
また、教師の気持ちがわかり、生徒の気持ちもわかる、という状況になってくる。

そして花子は、自分が小学校の生徒だったときの状況と、とてもよく似た女の子に出会う。
タエちゃんである。
タエちゃんは、幼い弟を背中におんぶして学校にやってくる。
そして、男の子たちにからかわれる。
貧しいところも、同じである。

花子は、タエちゃんに「想像する」「空想する」という概念を教える。
花子自身が小さい生徒だったときに、おなかがすいたときにも空を見上げたときにも、想像の翼を広げて、苦しさや悲しみを乗り越えてきたのである。

聞いた話であるが、どんな個性を持った人も、教師に向いていない、ということはないのだそうである。
というのは、その個性の教師には、その個性にしかわかってあげられない生徒がいるから、ということなのである。
聡子が教師になったとしたら、聡子みたいな人生や感性を持った生徒を、教えたり導いたり育てたりしてあげられる、ということなのである。
花子はそうして、花子にしか導いてあげられない、生徒に出会う。
この生徒の「かけがえのなさ」は、教師である花子にも、何かを教えたり、インスピレーションを与えたりすることである。
まさに教師と生徒はこのようにして、教えたり教えられたりするものなのだろう。

タエさんの要望にこたえて、花子は、ものがたりを作る。
それを話して聞かせる。
その話を、同僚であり幼なじみである朝市くんが「応募してみたら」と勧めてくれる。
花子の個性が全開となっている「みみずの女王」。
タイトルだけでも、本当に花子らしいかんじがする。

見事、当選して、児童雑誌に掲載され、東京で、授賞式が行われる。
花子の、作家としての第一歩が、生徒からの触発であるところは、とても花子らしいところである。
就職活動のときに、地元に戻ることが、遠回りであったように思えたが、本当に花子らしい、作家としてのモチベーションを得るために、生徒たちとのふれあいは、とても大切だったのではないだろうか。

幼い生徒タエちゃんも、遠くから見守ってくれている。
花子の社会人としての第一歩は、本当にたくさんの人たちに見守られながらの、つまづきと試行錯誤の連続で、始まっていくのである。


2014年6月6日金曜日

残業代ゼロの働き方とライフワークバランス。


今、働き方が変わろうとしている。
以前は「働き蜂」とまで呼ばれた、勤勉な日本人であるが、このところは、ライフワークバランスという言葉が浸透してきた。
そして、「残業代をだしません」という徹底した、仕事の能率化が迫られている。
この「残業代ゼロ」に関しては、労働者の権利や健康状態が守られない、仕事の仕方が守られないという言い分で、問題視の声もあるようだ。
しかし、実際には、「9時から5時まで」が徹底することで、5時に帰りたいワーキングマザーが、仕事がしやすく、また帰りやすくなるというメリットがある。
また、実情として、「5時で終わって自宅に帰っても、テレビでも見てぶらぶらしている時間だから」ということで、会社に残って、時間をつぶすことで、残業代を稼ぎ出そうという社員がいることも、まちがいないだろう。
こういった社員は、9時から5時までの定時の間には、ぶらぶらしてろくに仕事に集中していない場合が多い。
雇用する側としては、こうした社員は困ったもので、多大なコストとなる。
人件費がコストとみなされて、機械を導入した方が「よく働いてくれる」ということでは、人が働く意味がますます薄くなるではないか。

こうした、「時間稼ぎ社員」に、なんとか意識啓発したいというのが、ライフワークバランスであり、残業代ゼロの働き方である。
なんとしても、作業効率を上げて、時間内に仕事を終わらせるような、充実した働き方をさせたいのだろう。

私は、以前、9時から5時までの仕事について、働いていたことがある。
こうしたときには、まず、課長、係長の長の付く立場の人が、率先して帰る準備をすることが必要である。
課長が帰らないのに、一社員が帰れない。
また、一社員が帰らないのでは、課長も帰れない、というわけである。

また、5時が近づくと、4時半には、女子社員は、お茶碗洗いを始めた。
係長もきょうの書類の点検と机の上の整理整頓にかかっている。
そして、4時45分には、だいたい仕事を片付け終わって、カーディガンを羽織ったり、まだロッカールームには行けないが、いよいよパソコンの電源を落としたりしている。

考えてみれば、時間で働く人は、それはそれでいるものだ。
それは、窓口とか電話番であるかもしれないが、こうした仕事には、終業時間が、窓口が閉まるのと同時に訪れるものだ。

効率的な働き方は、5時以降の、休息や、充電、運動や勉強、家事、家庭サポート、睡眠などなど、とても充実したライフスタイルに充てられることだろう。
そうした時間に、映画や子育て、ディナーのおでかけに、丸いものを使うことになれば、経済効果も抜群である。
どちらにしても、この「残業代ゼロの働き方」は、雇用する側、経団連あたりから出たようなアイディアのようにも思う。
雇われる側にもメリットのある、この働き方を、日本人のワーキングスタイルとして、整えていくのも一案である。