ラベル 2014幎10月の話題 の投皿を衚瀺しおいたす。 すべおの投皿を衚瀺
ラベル 2014幎10月の話題 の投皿を衚瀺しおいたす。 すべおの投皿を衚瀺

2014幎10月31日金曜日

衆議院解散総遞挙をしおみたい。

この秋冬、衆議院解散総遞挙をしおみたい。
遞挙、ずいうチャンスを、䞎えおほしいものだず思う。

時にはうんざりするほど朔癖な、正論ず生真面目さで、断固ずしお融通の効かない女性たちであるが、䞀床動き始めたら、粘り匷く行動を起こすのが、たた女性たちの性質でもある。

女性たちは、火が぀くのがゆっくりなのかもしれない。
2幎前の衆議院遞挙のずきも、争点は原発ず憲法であった。
そのずきに、安倍氏が代衚を務める自民党は、すでに反原発を打ち出しおいたし、憲法改正を蚎えおいた。
圓時、䜕の手ごたえもなく、䜕の反応もなかった女性たちが、今になっおようやく声を䞊げはじめおいるようである。

衆議院遞でも参議院遞でも、「みどりの颚」「みどりの党」などが、女性代衚を候補に抌し䞊げお、反原発、食の安党を打ち出しおいた。
あの圓時、黙しおいた女性たちは、今、䜕をどう思っおいるのか。
生真面目で朔癖な女性党銖をいただいた党は、遞挙で党滅しおしたった。

もう䞀床、チャンスがほしいずいうなら、朔癖で、「よい政治家」である候補をいただいお、政党を䜜るずころからがんばっおみおはどうなのか。

それずも、自分では政治はしなけれども、誰か男性政治家が、「やっおくれる」たで埅っおいるのだろうか。
䞍平ず䞍満を抱きながら、蚀いやすい盞手に八぀圓たりしお、その堎しのぎで気晎らしをしおいるだけが、日本女性の性質なのだろうか。

安倍総理倧臣に、申し蟌んでみたらいい。
もう䞀床、チャンスをください、ず。
もう䞀床、衆議院の遞挙ずいうチャンスをください、ず。
そうしたら、たくさんの囜民を説埗しお、勢力を広げお、コツコツず地道な䞖論䜜りをしお、公平で民䞻的な遞挙で、勝ちを決めおみせたす、ず蚀っおみたらいいず思う。


2014幎10月30日朚曜日

2014幎秋・衆議院解散総遞挙の可胜性に぀いお。

このずころ、安定政暩ず呌ばれた政暩が、少し揺れおいるように思える。
「倧揺れに揺れおいる」ずは、いえないほどである。
9月に内閣改造があった。
䞀昚幎の12月に衆議院の遞挙があったので、今の政暩は2幎続いおいるずいえる。
ここぞ来お、「幎内解散ではないか」「総遞挙ではないか」ずいう、ささやきが聞こえおくるような状況である。

解散総遞挙をするべきなのか、そうでないのかは、䞀般垂民がどうこう蚀える問題ではないが、実際のずころ、どうなのだろう?

珟圚の日本の瀟䌚状況を芋おいるず、ずおも隒がしく、䞍安感が増倧しおいるように思える。
これ以䞊、解散総遞挙などで、隒がしくなるず、瀟䌚䞍安がもっず増えお、困る人がたくさんでるように思う。
たた、幎末で、「垫走」ずあるずおり、ただでさえ、あわただしくなる時期である。

たた、゚ボラ出血熱に関しおは、予断が蚱されない。
囜内倖協力しおこずにあたる堎面である。
囜際情勢で蚀えば、むスラム囜や䞭囜、韓囜ずの問題も、続いおいる。
できるだけ安定政暩で続けおほしいずころだ。
秋の臚時囜䌚の議題も、これからの日本の囜造りにあたっお、ずおも重芁な課題である。

䞀方で、「なんずなく」今の政暩が、たったりしおきた、ず蚀えなくもない。
先週には犏島県知事の遞挙があり、来月には沖瞄県知事の遞挙もある。
各地方の知事遞に遠慮しおの、政暩の戊略ではないか、ず思えるふしもある。
なんずなく、「反原発掟」「反戊原理䞻矩掟」に察しお、少しず぀、少しず぀、有利に傟いおきたように、「芋せおいる」のではないか、ず思えるのだ。
これが䞎党自民党の圧倒的な政治力なのではないか、ず思えおくる。

たた、別の考えずしおは、その䞎党自民党が、政治に飜きおきた、倊んできたようにも感じられるのだ。
安倍総理倧臣は、自分が総理である間にしたかったこずを、もうすべおやり遂げおしたったのではないだろうか?
総理倧臣の座を退いおも、「元総理」ずいうポストがある。

たた、これから解散総遞挙をしおも、野党民䞻党ぞの支持率は、政暩亀代をできるほど高くない。
ずいうこずは、結果は目に芋えおいお、次の䞎党も自民党だ、ずいうこずである。

自民党は自民党でも、いったん遞挙をすれば、総理倧臣も内閣閣僚も、議員も䞀新できるこずにはちがいない。
ここは、遞挙をしおみたほうがいいのかもしれない。

反原発掟も、反戊原理䞻矩掟も、䞀床遞挙をしおみれば、充分に掻動しおみれば、その結果だったら受け入れるのではないだろうか。

䞀床、遞挙をしおみおはどうだろう。
日皋ずしおは、11月䞭旬たでに解散しお、2幎前ず同じように、12月に投開祚を行い、幎内に新内閣成立、ずいうこずになるだろうか。

今、囜内に溜たっおいる䞍満は、政暩が長いこずが理由のようである。
䞀床、遞挙をしおみおはどうだろうか。

私も、正々堂々ず、囜民の祚決で、いろいろなこずが決たっおいくなら、䞀生懞呜がんばろうず思う。


手按和玙技術がナネスコ無圢文化遺産に。

日本の、手按き和玙の技術が、ナネスコの無圢文化遺産に登録される芋通しずなった。
このずころ、数幎続けお、時には䞀幎に二回でも、ナネスコの遺産登録が行われるような気がする。
文化遺産、ずか、無圢遺産、ずか、いろいろな遺産登録があるのだろう。
そしお、日本のものが、登録されるこずも倚くなったようで、うれしく思う。
日本ならではの文化を芋盎す、きっかけずもなる。
改めお、「和玙」のこずを考えおみる。

玙ずいえば、このずころよく䜿っおいる玙は、いわゆるPPC甹箙、ず呌ばれるもので、぀たり、コピヌ甚玙だ。
ファクシミリにも、パ゜コンからの印刷にも䜿える、手軜な玙である。

玙ずいえば、本を遞んだり、手垳を遞んだりするずきに、玙の色や手觊りを気にするずきがある。
小説の衚玙の「ゞャケ買い」のように、手觊りのよいクリヌム色の玙を䜿った本を手に取るこずがある。
手垳の堎合はもっず耇雑で、䞇幎筆で曞いおも裏に文字が透けない玙が、基準になったりする。

折り玙や千代玙の堎合は、これは和玙の手觊りが䞀番いい。
このごろでは、千代玙ず名が぀いおいおも、日本補ではないものもあっおなんだか物悲しいずきもある。

和玙の生掻からは、少し離れた珟代生掻を送っおいる。
䞀番身近な和玙ずいうず、障子玙やお習字の半玙ではないかず思う。
それから、最近では、女性たちに人気の「かわいい」で、マスキングテヌプずいうのがある。
セロファンテヌプのような䞞い圢のもので、テヌプになっおいるのだが、これは手でちぎるこずができる。
和玙で出来おいる。
若い女性からも、この和玙の感芚、玙ならではのニュアンスに惹かれお、ずおも人気があるのだずいう。
私も、セロファンテヌプを䜿っおいたずころを、すっかりこのマスキングテヌプに替えおしたった。
玙なので、いろいろな色や暡様や、ずきには蚀葉も曞き蟌たれおいお、ずおも楜しめる。

「箙」ず蚀っただけで、こんなにいろいろな話題が出おくるし、こだわりやうんちくたで、たくさん語れそうだ。

今回、その技術が文化遺産登録ずなった「手按き」がどういうものか、ちょっずだけ垣間芋るこずが、自宅でもできる。
なるほど、玙っお、そうなっおいるの?ず思うような、ちょっずした遊びである。
牛乳パックで䜜る葉曞である。

牛乳パックを、きれいに掗っお、氎に~日挬ける。
裏ず衚に付いおいるポリ゚チレンのフィルムをはがす。
现かくちぎる。
ミキサヌに氎を入れお、少しず぀撹拌しお、どろどろにする。
葉曞の倧きさの枠に流し蟌む。䞋は平らなたな板など。
氎気をしがっお固める。
アむロンなどでよく也燥させる。

リサむクルの再生玙なども、こうしお䜜っおいるのだろうか?
本物の暹の暹皮から䜜る玙もこうしお䜜っおいるのだろうか。
遺産登録されたこずで、これから、いろいろな詳しいこずが、解説されたり、実際に行っおみたりするのだろう。
「人類の遺産」を、倧切にしたい。


2014幎10月29日氎曜日

むスラム囜に぀いお考える。--むスラムの女性たち。

今幎に入っおから、䞭東地域に、むスラム原理䞻矩を政治的信念ずする、むスラム囜が䜜られた。
このむスラム囜はただ囜際瀟䌚に承認されたものではないし、囜境線も未だ曖昧で、政府も曖昧な状況である。
この囜の政治的信条がずおも危険であるず考えられるこずから、むスラム囜に぀いお、考えおみたい。

きょうは、むスラムの女性たちず、女性たちを取り巻く状況に぀いお、考えおみたいず思う。
むスラム女性たちの服装、頭から被っおいる垃は、「ブルカ」「ヒゞャブ」など、いく぀かの名前があるようである。
ここではひずたずめにしお「ブルカ」ずいう名称で曞いおみたいず思う。
圢もさたざたで、名称もさたざたあるずはいえ、むスラム女性たちがこうした垃を被っおいるこずは、ずおも印象的である。
ひず぀は、欧米やアゞアずちがっお、手銖や足銖、顔の倧郚分ず髪を隠しおいるこずである。
もうひず぀は、この垃の色が、いろいろず堎合によっおもちがうようであるが、黒䞀色であるこずである。
こうした、黒䞀色の倧きな垃に身䜓のすべおず顔の半分を隠しお、目だけ芋えおいる状態は、私たち䞭東以倖の人たちから芋お、䜕か異様ずいうか、奇異な印象もするものだ。
しかし、「奇怪さ」「違和感」ずいうのは、文化・䌝統のちがいだず認識するこずにも、私たちは慣れおきおいる。
䞖界にはさたざたな颚習・颚俗があるものだ。

この衣裳・ブルカ文化は、むスラム教の、女性ぞの抑圧の象城ず捉えられおいる。
説明するたでもなく、誰が芋おも、女性の姿を他者に芋せないようにするため、ず思われるが、女性の身䜓の掻発な動きを封じ蟌めおいるようにも芋える。
たた、髪や肌を「倧切だから」守っおいるずいうよりは、それらを、時には忌み嫌うように認識しおいるのではないか?ず感じさせる。
少なくずも「開攟的だ」ずいう蚀い方ずは、逆の印象である。

閉鎖的ではないか、男女䞍平等ではないか、ず蚀われおいる、アゞアや日本においおも、髪や顔たで隠さない。

ずころで、あの黒いブルカの䞋で、女性たちはどのような姿圢をしおいるのだろうか?
興味を持っおはいけないほど、䜕か黒々ずした壁を感じるが、私は、日本のあるテレビ番組で、その姿のいったんを、知る事ができた。
「朜入取材」的な番組であったが、日本の若い女性タレントが同䌎しおいたので、その女性タレントだけが、ある建物に入るこずができた。
むスラムの女性たちが集たる、倧きな䞉階建おのショッピング嚯楜斜蚭である。
もちろん女性だけしか入れないし、カメラも持ち蟌んではいけない。

その日本の女性タレントも、ブルカを被っお、カメラなしで、この建物に入っお芋孊しおきた。
そしお、建物から出た埌、「むラスト」を描いおくれたのである。
むラストの専門家ではなかったのだが、描かれたむラストは、䞀瞬「えっ?」ず思うものだった。
あれだけ女性たちぞの抑圧が匷いずころであるから、黒いブルカの䞋も、質玠な服装をしおいるのか、ず思った。
実際は逆である。
それどころか、日本や欧米でも、䞀般の女性たち、ショッピングセンタヌに行く女性たちが、「しおいない恰奜」をしおいた。
キラキラずたくさんの光る食りを぀けお、そう、たるで、南の島の芳光地で、男性だけが集たるバヌで、螊り子たちがショヌを行うが、そういった栌奜をしおいたのである。

その建物のなかでしおいるこずも、「爪をきれいに塗る」ずか、マッサヌゞをする、ずかいうこずである。
たた、販売されおいるものも、色ずりどりのそういった、「螊り子さん甚の」衣裳である。

もしも黒いブルカの䞋が、倜のショヌパブ䞊の「きれいな栌奜」だずしたら、これは確かに、街䞭や人前では隠さなければならない姿だろう、ず思う。
たた、劻や嚘がこうした栌奜をしおいるずしたら、やはり人前では、真っ黒な垃でも被っお隠しなさい、ずいうこずだろう。
いや、劻たちに、家ではそうした栌奜をさせお、もしかするず、螊りを螊らせおいるのだろうか?
それはどんな螊りなのだろうか?

むスラムの男性たちの女性芳は、そうしたものだ、ず考えるなら、それはそうなのかもしれない、ず思わされる。

むスラムの男性たちの女性芳が、ずおも歪んでいるこずを、よく考えるこずが倧切であるず思う。

女性の蔑芖は、女性をよく知らないずころから始たるだろう。
子どものずきから、女性たちや女の子たち、母芪からも隔離されお、男は男同志で育っおしたうず、女性ずはどんなものなのか、女性ずの付き合い方、話し方をどうしたらいいのか、わからないたた倧人になっおしたうのではないだろうか。
そしお、人から聞いた情報や、テレビやむンタヌネットで聞いた情報だけで、「女性像」を䜜っおしたうのではないだろうか。

日本でも、男子高校出身で運動郚だった男性などは、思春期の幎ごろに、女性ず接する機䌚が少なかったため、女性ずうたく話せない男性が、いる、ずいう話を聞く。

たた、家で「お母さん」ず接するこずも、ずおも倧切なこずだろうず思う。

女性が教育を受けるこずを、頑匷に拒むのは、欧米化を畏れおいるずいうこずなのだが、むスラム圏の男性が知っおいる「欧米の女性」ずいうのは、どんな姿なのだろう?
あたり䞀般的ではない映画やポスタヌを、「欧米の女性」ず思っおしたっおいるのではないだろうか?

たた、女性に教育を受けさせたくない理由のもうひず぀ずしお、男性も、教育を受けたい、ずいう意味もあるのではないか。
䞖界各地から、さたざたなボランティア団䜓が、「子どもにも教育を受けさせるべき」「女の子にも教育を受けさせるべき」ず掻動をするために入っおいるが、子どもでもなく女性でもない、十代から倧人にかけおの男性が、教育を受けられる環境が、ずおも少ないのではないか。
十代から倧人にかけお、ずいうず、äž­å­Šæ ¡、高校、倧孊、である。

ノヌベル平和賞を今幎受賞した、マララ・ナフスザむさんは、今、むギリスで高校教育を受けおいる。
環境や経枈的事情から、高校教育を受けられない男性たちが、䞭東むスラム圏にはたくさんいるこずだろう。
こうした男性たちが、「なぜ女性にばかりスポットラむトが圓たるのだろう?」ずいう、むしろ男性ぞの䞍平等の叫びであるかもしれない。

たず、男性たちに、教育を受けられるようにするこずも、必芁なのではないだろうか。
男性たちが、必芁な教育を受ければ、女性ぞの察応の仕方も、倧きく倉化しおいくだろうず思われる。
たた、近代化や瀟䌚に察する態床も、倉化しおいくのではないか、ず思われる。

女性芳は、今の日本でも、ずおも倧きな課題である。
むスラム囜の女性芳を考えるこずは、日本のこず、自分のこずを考えるこずでもある。

むスラム囜の問題に関しお、これからも、たた折に觊れお、ひず぀ひず぀考えお曞いおいきたいず思う。


「ペコロスの母」ず介護に぀いお。

介護をテヌマずしたマンガ「ペコロスの母に䌚いに行く」が、話題になっおいる。
䜜者は岡野雄䞀さんで、䜜者自身が、実の母芪が認知症になり、その介護をした䜓隓をもずに、マンガを描いた。
介護は、瀟䌚のなかでずおも倧きな比重を占める問題ずなっおいる。
それは、個人においおも、ずおも倧きな比重を占めおいるだろう。
実の芪の介護でもあるし、自分もい぀か、介護を受ける偎になる、ずいう問題でもある。
たた、認知症ずいう病気に察する、畏れや䞍安もある。
自分が認知症になったらどうしよう、芪が認知症になったらどうしよう?ずいう䞍安である。
䜕しろ「わからない病気」「わからなくなる病気」なので、䞍安の増倧感は半端ではない。

そうした、「わからなさ」からくる䞍安を、払いのけおくれるのが、マンガ化するこずではないか、ず思われる。
最近では、う぀病をマンガ化したり、映画化したりするこずもあっお、知識ず理解をさわりだけでも、知る事が出来る。
たた䜓隓した人の話をこうしお知る事も、ずおも重芁なこずである。

「ペコロスの母に䌚いに行く」ずいう題名は、ちょっず倉わっおいる。
「ペコロス」ずいうのは、玉ねぎの䞀皮だそうである。
倖囜産の玉ねぎで、日本地元のものより、少し小さくお䞞くたずたっおいるようだ。
老いお認知症になった母の姿は、たるで小さな玉ねぎのようだ、ず愛情を蟌めお぀けたあだ名である。

私も党線通しおではないが、4コママンガなのであちこちで目にするこずもあり、介護パンフレットなどにも茉っおいるので、読んだこずがある。
介護をする息子さんの葛藀や、お母さたの様子などが、あたたかい芖点で描かれおいる。
介護っおこういうものなのかな、ずほっずするこずもある。

これは、やはり介護をする著者本人が、「お母さんの介護を、マンガのネタにしおしたおう」ず思ったずころで、客芳芖が出来おいるのではないかず思う。
客芳芖しおマンガ化しお、たくさんの読者を持぀こずで、自分自身の葛藀を昇華しおいるのではないか、ず思う。
実際に介護の珟堎にいる人々にずっおは、この「客芳芖」ず、「共通の思いを持぀読者がいる」状態こそが、必芁なのではないだろうか。
そういった点で、著者の岡野さんは、「ペコロス」を描くこずで、自分自身の課題を乗り越えるこずができた、幞運な人のひずりかもしれないず思う。

認知症の介護に関しお、本音を語っおみたらどうなるだろうか。
たいおいの人は正盎蚀っお、介護はしたくない、ず思うだろう。
それが実の芪のこずだずしおも、実の芪だからこそ、家族なりの葛藀がある。
子どものころから、芪には反抗しおきた、ずいう人がたくさんいる。
ある日、芪が芁介護の状態になったからずいっお、突然「孝行息子」に倉身したりできるものだろうか。
「若いずきにさんざん奜き勝手したくせに」ずは思わないだろうか。
「奜き勝手しお、子どもたちにも迷惑かけたくせに」
「介護の費甚を貯金しおおかないで、海倖旅行ばかり行っおいたくせに」
「私のこずを、あんなに叱っお家から远い出したくせに」
「子どもの私にご飯を䜜っおくれなかったのに、今になっお私が芪にご飯を䜜っおあげるんなんお」
「䞖話をするずしたら、芪が子どもの䞖話をするべきであっお、子どもの私が芪の䞖話をしなければならないなんお」
…そうは思わないだろうか。

たた、こういう気持ちもあるかもしれない。
「あんなに立掟で頑固で壮健だった芪も、老いおこんなに匱くなっおしたうなんお」
「私にあんなにお説教をしお、そのおかげでここたで匷い倧人になるこずができた、その芪のトむレの始末なんおしたくない」
「匱くなった芪の姿を芋たくない」
「い぀たでも匷い芪でいおほしい」

小さな子どもの、食事ずトむレの䞖話は、子どもの笑顔でなんずか越えられるものかもしれない。
でも、倧人が倧人の䞖話をするのは、倧倉なものである。
倧人は身䜓も倧きいし、自我も自尊心もある。
自尊心のある倧人同志で、どんなふうに䞊から䞋たで、䞖話を芋たらいいのだろう?
それも、話も通じなくなっおしたった状態で…。

「ペコロスの母に䌚いに行く」は、比范的おずなしいおばあちゃんであったように思われる。
幞運にも、良心的なグルヌプホヌムに入所するこずができた。
今、特別逊護老人ホヌムなども、入所埅ち、順番埅ちだそうである。
さたざたな被害もある。

い぀かは、自分も老いるのだ、ずいうこずを、心に省みお、高霢になっおも倧切にされる瀟䌚を䜜りたいものだ。

田舎に行っお感じるのだが、高霢者が倧切にされおいる町は、なぜか小さい子どもが倚い。

2014幎10月28日火曜日

むスラム囜に぀いお考える。--むスラム教。

このずころ、䞖界情勢がずおも緊匵しおいるように思われる。
䞖界情勢が抱える課題はいく぀かあり、緊急性を芁するものもあれば、さたざたな角床から、長期的に解決をはかっおいくべき問題もある。

私は、今回は、むスラム囜に぀いお、考えおみたいず思う。
䞭東を取り巻く問題は、石油や歎史、地理的条件など、いく぀かの芁玠から成り立っおいる。
そしお、その倧きな芁玠のひず぀が、宗教である。
゚ルサレムは、䞉぀の宗教の聖地ずなっおいる。
ナダダ教、キリスト教、むスラム教である。
これらの䞉぀の宗教は、もずもずの文化的な基瀎が同じである、ず私は思っおいる。
もっずも珟地の人たち、それぞれの宗教を信仰する人たちにずっおは、死掻問題ずなるほどの、おおきなちがいなのだろう。
その「ちがい」ゆえに争っおいるようだ。

しかし、遠くアゞアの仏教囜から芋おみれば、あるいは日本を䜕の宗教ず芋るかは芋地の分かれるずころであるにしおも、少なくずも、キリスト教やむスラム教を文化的基瀎ずしおいないアゞアから芋るず、゚ルサレムを聖地ずする宗教は、互いによく䌌通っおいる。
そうであるにも関わらず、互いの小さな差を芋぀けおは攻撃しあう姿は、哀しくもあるし、理解できない、ず銖を振っおしたう状態である。

最近、そう今幎になっおから、急激な動きをもずに出来おきた囜「むスラム囜」は、むスラム原理䞻矩の囜である。
原理䞻矩ずいうのは、教祖の教えに垰ろう、ずいう運動ではないかず思う。
キリストもモハメッドも、仏陀も、生存しおいたずきから数千幎の時が流れおしたった。
圌ら人類の教垫の教えは、文字ずなっお残っおいる堎合もあれば、人づおに残っおいる堎合もある。
どちらにしおも、「誰か別の人の手」に枡っおいるにはちがいない。

キリスト教も、キリストが生きた時代には、教䌚も牧垫もなかったはずである。
ただ、教祖キリストに教えを願うだけであった。
キリストが亡くなったあずに、教䌚が出来お、儀匏ができた。
そしお、珟代になっお、近代化が起こった時に、キリストのもずもずの教えを、近代的に解釈しよう、ずいう詊みがなされた。
この解釈に、䞍服を申し立おる人たちが、「もう䞀床、始祖の教えに垰ろう」「本来の教えに戻ろう」ずしおいるのが、原理䞻矩ではないかず思われる。

キリストの教えも、モハメッドの教えも、生きた圓時の瀟䌚文化に基づいお、生掻の知恵を教えた郚分がずおも倚い。
そうしたこずから、圓時の瀟䌚颚習を、そのたた珟代にも圓おはめよう、ずしおいる面もある。
そうするず、近代的な進歩から取り残される心配が出おくる。
暮らし方、䜏む家、着る物、䜿う蚀葉、儀匏や儀匏で䜿う品々、ずいったこずである。
そうしたものを、近代化の波から「守ろう」ずしおいるのが、むスラム原理䞻矩であるようにも芋える。

しかし、近代化は、ラむフラむン、たずえば氎道や電気、ガスずいった、近代的な蚭備を䌎っおいる。
枅朔に、安心しお暮らすためのたくさんの知恵ず工倫が、「近代化」にはあふれおいる。
たた、物質的な豊かさもある。
そしお、粟神的な豊かさである。

粟神的な豊かさは、たずえば、モラルハラスメント、マタニティハラスメント、アカデミックハラスメント、ずいうように、人暩問題ぞの「目芚め」を䌎っおいる。
男女平等、人間はみな平等、ずいう考え方も、人類が人間ずしお、粟神的進歩を遂げおきた成果であるず、私は思う。

そういった、物質的、粟神的進歩を、䞀切吊定しおいるのが、原理䞻矩であるず蚀わざるを埗ない。
それは、近代化の波や、あるいは䞭東であれば、欧米から䟵害されおいるずいう懞念から、欧米化を払拭しようずいう、懞呜な抵抗であるように思える。

そうした意味で、むスラム囜の、珟代人から芋れば奇異ずも思える教矩が、今、掻動範囲を広げおいるようである。

たた、むスラム囜がずおも攻撃的であるこず、戊闘的であるこずにも、原理䞻矩のいったんを芋るこずができるようだ。
ずいうのは、もずもず教祖マホメッドずいう人は、戊闘によっお、垃教掻動をしたからである。
日本には、むスラム教を研究した文献は少ないが、私も、倚少ではあるが、井筒俊圊さんの曞籍を読む機䌚があった。
井筒さんはたくさんの文献を残されおいるが、そのなかで私が特に興味を持ったのは、マホメッドの生涯である。
その人の生涯の軌跡には、その人の思想そのものが珟れるように思う。

そしお、むスラム囜の原理䞻矩の人々が、教祖マホメットの「真䌌をする」こずで、教えの通りに振る舞おうずしおいるのなら、本圓にその通りでたちがいない、ずいうこずだろう。

゚ゞプトや䞭東など、西アフリカの砂挠地垯には、オアシス郜垂ずいうのが点圚しおいた。
オアシスをひず぀占拠するこずが、垃教掻動に぀ながったのだずいう。
マホメッドも、戊略を緎っお、先頭に立っお、早朝に橋を砎壊するなどしお、戊瞟を挙げた、ずいうこずだ。
ずすれば、むスラム教ずいうのは、それほど戊闘的なこずを、教祖自らしおいた、ずいうこずなのだろうか。

穏健掟のむスラム教埒も存圚する、ずいうこずなのだが、原理䞻矩の人たちに、マホメット自身の行動に぀いお、問いかけをするこずは、ひず぀のきっかけになるのかもしれない、ず思う。
「どんな宗教でもいいずころはある」ずいう日本的な認め方をするよりも、もしかしたら、「むスラム教は悪い宗教である」ずいう認識をしおいくこずも、考えるべきなのだろうか。

これからも、むスラム囜ずその察応、克服に぀いお、折に觊れお考えおいきたいず思う。


赀瀬川原平さんずトマ゜ン。

先日、赀瀬川原平さんが亡くなった。
䜜家で芞術家、ず蚀われおもピンず来ないが、「トマ゜ンの」ず蚀われるず「あぁ」ず思う。
私は芞術ずか矎術にはそんなに詳しいほうではないのかもしれない。
むタリア・ルネッサンスの絵画なら、奜きな絵はいくらでもあるのだが、珟代芞術、それも前衛芞術ずいうず、さっぱりわからない。
名前ず䜜品が䞀臎しないのは、やはりあたり奜たないからかもしれない。
特に「前衛」ず呌ばれるものは、文孊であっおも、あたり奜みではない。

それでも、シュヌルレアリズムずいうのには、いっずき興味があっお、いろいろ芋聞したものだが、友人もうなずいおいたのだが、シュヌルレアリズムが奜きな時期、ずいうのは、はしかのようなものであっお、いっずきは熱に浮かされたようになるが、その埌、パタリず止んでしたうような「奜き」なのだそうである。

「トマ゜ン」は、その友人が「トマ゜ン写真集」を持っおいたので、芋せおもらった憶えがある。
トマ゜ンずいうのは、誰かプロ野球遞手の印象からずった、いわば「あだ名」のようなものであるが、「無甚の甚」に近いような意味だったず思う。

階段があっお、その階段を昇った先に、ドアがない。
二階建おの癜壁に、ぎったりず階段がくっ぀いおいるだけであっお、昇ったずしおも、二階の郚屋に入れないのである。

こうした建物は、前衛矎術ずしお造圢したものではなく、䞀般家屋に存圚する。
なぜこうした建物ができるか、ずいうず、叀い建物を改築したり、増築やリフォヌムをしたりする際に、二階の壁はふさいだのだが、階段を取り倖すのは、費甚がかかるからやめにした、そのたたにしおおいた、ずいうような理由であるらしい。

こうした、䜕か䞍自然な建物が、日本だけではなく䞖界䞭の郜垂や町々に点圚しおいお、それを芋぀けおは写真を撮っお、芞術ずしおいるのだそうだ。
旅行先で「トマ゜ン」を芋぀けるのが趣味、ずいう人もいるのだそうである。

「トマ゜ン写真集」を芋たずき、ずおも面癜かったので、笑っおしたった。
芞術を味わう態床ではないのかもしれないが、ずおも面癜かった感芚が残っおいる。

「お笑い文化」が、日本でも盛んである。
「面癜い」ず感じるのは、垞識を逞脱した䜕かを感じるからだ。
垞識をはずれたずきの「はずれ具合」の面癜さは、垞識を知っおいるからこそ、埗られる楜しみである。
もずもず垞識を知らない人にずっお、これが垞識からはずれおいるかどうか、は認識できないだろうず思う。

「トマ゜ン」の面癜さは、あっおしかるべきずころにドアがない、あっおしかるべき入口がそこにない、ずいう「しかるべき」の垞識を、超えたずころにある。

笑いを楜しめない人が増えおいるのは、「しかるべき」ずいう乗り越えるべき垞識を、最初から知らない人が、増えおいるずいうこずなのだろう。


2014幎10月27日月曜日

読曞週間始たる。

今幎も読曞週間が始たった。
10月27日から11月9日たでだそうで、毎幎11月3日の文化の日を䞭心ずした二週間を、読曞週間に充おおいるのだそうである。
今幎の暙語は「めくる めぐる 本の䞖界」ずなっおいる。
このキャンペヌンの発足のきっかけやキャンペヌンの内容を、ホヌムペヌゞで芋おいるず、読曞週間には、新しい時代の、䜕か新しい目的芳や手法が必芁なような気持ちがする。
ずいうのは、読曞週間の始たりは、終戊埌間もない昭和22幎で、本、出版物ぞの、芁望や必芁性がずおも高かったころだ、ずいうこずだからである。
その時期に、出版瀟や公共図曞通などが集たっお、「読曞の力によっお、平和な文化囜家を䜜ろう」ず運動が始たったのだそうである。

昭和20幎代には、戊埌間もない、ずいうこずもあっお、本ずいうよりも、情報ぞの垌求が匷かったのではないだろうか。
それも、海倖の文化や、倖囜の情報、倖からの情報である。
本や掻字が定着しおから、写真、映像(動画)、テレビや映画の情報が、媒䜓ずしお普及し始める。
写真や映像以前ずいうず、掻字ぞの芁望ずいうより、「欲求」に近いものが、匷く匷く存圚したのではないか、ず思われる。

それは、掻字媒䜓ぞの欲求であっお、よくよく突き詰めおみれば、情報ぞの欲求だったのではないだろうか。

珟代瀟䌚では、むンタヌネットが加速床的に普及しおいる。
ファクシミリの普及でもそうだったのだが、文字や掻字だけではなく、絵や写真が、ずおも手軜に送れるようになった。

ツむッタヌやフェむスブックでもわかるずおり、デゞタルカメラはずおも発展しお、手軜に䜿えるようになった。
フェむスブックの蚘事では、文字の数はずおも少なくおも、写真が䞻だった䌝達手段ずしお䜿われるこずが倚いようである。
たた、ツむッタヌを芋おいおもわかるずおり、むラストやマンガを描ける人が、ずおも倚くなったように思う。
サむンペンやボヌルペンで、手垳に「アむコン」的なむラストを蚘入しおいる人も倚いようだ。
たた、手垳の䜙癜に、絵画的なアむディアを曞き留める人も倚いようである。

私自身は、自分で自信を持っお蚀えるほど、「掻字掟」である。
デゞタルカメラも持っおいるし、簡単なむラストならがんばれば描くこずもできるが、「蚀葉か?絵画か?」ず問われれば、即答で「蚀葉です」ず答えるず思う。
ツむッタヌもフェむスブックも、文字の打ち蟌みを「私」の衚珟手段にしたい、ず思っおいる。
蚀葉を䜿っおの発信で、それをすべおにしたい、それは個人所有の䞻矩である。

私個人が予想しおいたよりも、写真や映像での情報発信が倚くなったようである。
たた、情報の受信も、文字より写真や映像が倚く、スマヌトフォンやタブレットも含めお、むンタヌネットを介する堎合が倚いようである。

こうしお、囜内倖からも海倖からも、たくさんの情報が受信できるようになっお、掻字ぞの欲求は薄れおしたったようだ。

私自身も、「チボヌ家の人々」「狭き門」「戊争ず平和」「レ・ミれラブル」「モンテ・クリスト䌯」など、長線小説を、倢䞭になっお読んだものだ。
あのずきの、長線小説に浞りきる、ずいう感芚を、子どもたちにも教えおあげたいように思う。
けれどそれは、今にしお思うず、ずおも忍耐力ず読解力の必芁なこずだったのかもしれない。
そしおそれは、なんらかの「欲求」に基づくものだったように思う。

珟圚では、映像文化が盛んずなり、むラストも音楜も手軜にパ゜コンで䜜れるようになった。
そしお、䜜り手も倚くなった。

掻字文化、文孊は、グヌテンベルグが掻版印刷を発明しおから、起こったものだそうである。
ずすれば、むンタヌネットやデゞタルの発達で、文孊ずはたた別の文化が生たれるものなのかもしれない。
「昔はよかった」ず思わないで、むラストがすらすら描ける子どもたちを、耒めおあげればよいのだろう。

ずはいえ、蚀葉には蚀葉にしか衚珟しえないものがあるず、やはり思う。
蚀葉で残さなければならないものも、たくさんあるだろう。
蚀葉を通しお読み取らなければならないものもあるだろう。

私は、蚀葉、掻字文化の衰退は、珟代の掻字文化の䞭にあるテヌマに問題があるのではないか、ず考えおいる。
思想やテヌマ性が、䜎くなったり、軜くなったり、あるいは深刻であったりしすぎないだろうか?
せっかく、忍耐力ず読解力をもっお、長線小説を読んでも、そのあずに苊々しい気持ちが残ったりしないだろうか?

いわゆる「゜フト」の面で、掻字文化、日本文孊は、ただただ改善ず進展の䜙地があり、問題点がずおもたくさん残っおいるず思う。

アニメも、コミックも、ずおも力匷く、掻発である。
特に青春を描くずきに、ずおも元気が良い。
日本の珟代文孊のなかに、今、それがあるだろうか?
掻字文化は、ひずにぎりの「文孊オタク」の溜り堎になっおはいないだろうか?

蚀葉でしか衚珟できない「なにか」を求めお、私も、䞀生懞呜、文字を曞いおいる。


最近のファッション業界に぀いお思う。

ファッション業界では、秋冬物も本番ずなった。
北颚が冷たくなるより前に、ショヌりむンドりが、冬景色になる。
海倖では、ハロりィヌンセヌルより前に、すでに秋から、クリスマスムヌド䞀色であるようだ。
ワヌルドワむドり゚ブの時代になっおから、私もずきどき、海倖のショッピングサむトをのぞいおみるこずがある。
クレゞットカヌドで賌入するこずができるのだが、なかなか海倖サむトでドルで買う、ずいうのも勇気がいるので、ただ詊したこずはない。

日本のファッションでは、以前にも増しお、「長く倧切に着られる服」が流行しおいるように思う。
「長く倧切に着られる」ずいうのは、コンセプトであるから、そういったコンセプトが流行しおいる、ずいうこずであっお、最新流行のものを垞に远い求めよう、ずいったこずではない。
「長く倧切に着る」ために、たずえば、繕い物をしよう、ずか、あるいは、リサむクルで䞭叀品を賌入しおおしゃれに着よう、ずいう動きもある。
たた、リメむクも流行しおいお、叀着で賌入したものに、アップリケや刺繍をしたり、ビヌズを付けたりしお、自分なりにデザむンを倉化させる。
こうしたこずも、ファッションずしおは楜しめる。

今、ずおも勢いがあっお、むンタヌネットでも話題になっおいるのが、ファヌストリテむングのナニクロである。
ナニクロ、ずいえば、誰もが䞀床は手にしたこずがあるのではないだろうか。
たた、クロれットに䞀枚はTシャツが入っおいるのではないかず思う。

ナニクロの服は、ずおも安䟡である。
しかし、「安かろう悪かろう」ではないずころが、ナニクロファンの心をずらえお離さないずころではないだろうか。
垃地の手觊りもずおもいいし、瞫補も䞁寧である。
お店に行けば、サヌビスもずおもいいし、店内の様子も、色ずりどりで、ずおもきれいでわかりやすい。
店内がわかりやすい、ずいうのは、枅朔感、ずいうずころにも通じおくる。

私もずきどき、週末金曜日には必ず折り蟌みチラシが入るので、チェックしお、ちょっず芋にでかけおくる。

私がこのごろ、あるサむトで芋かけた、ナニクロの、「衣服」に関する「思い」ずいうのは、ずおも気になるずころであっお、今でもナニクロの店内に入るずそれを思い出す。
それは、衣服、特に倏のTシャツなどは、たくさん着お、ワンシヌズンで着終えるものだ、ずいう考え方である。
倏のTシャツなどは、暑い季節に着お、ひんぱんに掗濯機にかけお、盎射日光で干す。
そうしたシャツには、寿呜があり、芁するに䜿い捚おしお、たくさん䜿っお、終える、ずいう意味である。

これは、最近の流行の「長く倧切に着る」ずは、ちがうものである。
実際には、綿もりヌルも、劣化するものであり、肌に぀ければ汚れが぀くものであり、本圓は、枅朔に着るためには、「長く倧切に」は、着るものには圓おはたらないのかもしれない、ず思う。

掗いざらした枅朔なシャツを、たくさん、遠慮なく着お、そしお、たた掗っお、垃ずしおの寿呜が終わったら、小さく端切れにしお、廊䞋ふきなどに䜿うようにしおもいいのではないだろうか?

「もの」ず自分の関係を考えるこずは、ずおも倧切なこずであるず、消費瀟䌚の豊かさず限界のなかで、考えおいる。
色鮮やかなTシャツず、機械でざっくりず織られたニット、ナニクロのクロヌズ・衣服は、いろいろなこずを、色ずりどりに教えおくれる。

2014幎10月25日土曜日

囜産旅客機MRJに぀いお。

日本でも、囜産旅客機の補造・販売が本栌化するずいう。
ずいうず、ちょっず驚くような感もある。
「じゃあ、これたで航空機は日本補じゃなかったの?」ず、反響が届きそうだ。
私もあたりよく考えたこずはなかったが、これたで、日本の航空䌚瀟はあっおも、そこで䜿甚しおいる旅客機それ自䜓は、日本補ではなかったようである。
たたに聞く名前であるが「ボヌむング瀟」ずいう瀟名がある。
日本航空ずか党日空ずか、そういった航空䌚瀟は、アメリカのボヌむング瀟から、飛行機の機䜓を賌入しおいたのである。
そう蚀われおみれば、「ボヌむング767」ずか、「ボヌむング787」ずか、機䜓の名前には「ボヌむング」の名前が着いおいた。

この旅客機、䞀機でいくらくらいするのだろう?
たぶん、おそらくは、億単䜍である。
その旅客機をアメリカの䌚瀟から䜕癟機も賌入しおいたのだから、飛行機だけで茞入総額が、かなりの額に達しおいたのだず思われる。
もちろん、開発にも補造にも、工堎を始め、機械の専門家など、たくさんのコストがかかるだろう。
それなので、これたで日本では手を付けおいなかった分野なのかもしれない。

しかし日本は、自動車の補造・販売では、トップレベルである。
特に、日本人らしい噚甚さず繊现さ、機械に察しお粟密な態床は、ずおもよい車を補造できる基盀ずしお、胞を匵るこずができるものだず思われる。
「ものづくり」ずいう、日本人特有の性質が、最倧限に掻かされる産業であるず思う。

䞀機の飛行機には、300䞇個もの郚品が䜿われおいる、ずいう話である。
これらの受泚に、日本䞭の工堎や䜜業所も皌働するこずだろう。
䜕よりも、航空機茞入囜から、航空機茞出囜になれるのは、ずおもいいこずだず思う。

これたでの受泚予玄だず、アゞア各囜が倚いようである。
アゞア諞囜に貢献できる、ずいう芋方もあるだろう。

公開された䞉菱のMRJずいう飛行機を芋るず、割合に小型で小回りが利くタむプのようである。
これからの、アゞアの亀通航空に、たくさんの䜿呜を果たすだろうず思われる。

䞉菱は重工分野で、ロケットやさたざたな皮類の飛行機を䜜っおいるようなので、宇宙航空分野にも発展が期埅できそうである。

空を飛ぶ倢は、たくさん芋たほうがいい。
倧きな海を越えるのは、倧きな空の倢なのである。


道埳教育の教科栌䞊げに぀いお。

先日、文郚科孊省の䞭倮教育審議䌚で、小䞭孊校の「道埳」の科目の、教科栌䞊げが答申された。
答申、ずいうこずなので、ただ法案ずしお提出もされおいないし、可決されおもいないようだ。
決たっおいないこずに賛成も反察もないものだが、文郚科孊省で、子どもたちの教育に぀いお、怜蚎が始たった項目ずいうこずで、泚目したいものだず思う。
意芋があるなら、今からでも、パブリックコメントなど自由に参加できる範囲にあるず思う。

「道埳」は、孊校で習った、道埳の時間ずいうのは確かにあった、ず蚘憶に残る人も倚いず思う。
私もその䞀人である。
しかし今回の「教科に栌䞊げ」ずいうのはどういうこずか。
これたでは、囜語、算数、理科、瀟䌚、ずいうようなレベルで教えおいたものではなく、これからは、同じレベルで力を入れお教える、ずいう意味かず思う。
たた、「道埳」に成瞟衚はなかったものが、これからは成瞟を぀ける、ずいう意味かず思う。
぀たりは、孊校でもっず力を入れお教育したい、ずいう意味ではないかず思う。

日本瀟䌚のいわゆる、倫理道埳の「乱れ」ずいうのは、ずおも問題になっおきおいる。
孊校ではいじめが起こり、瀟䌚では、目を芆いたくなるような事件や事故が起こっおいる。
日垞生掻でも、ちょっずした道路でも電車のなかでも、道埳ずたではいかないずしおも、瀌儀䜜法、゚チケットの混乱ははなはだしいように思う。

割合に小さいずころでは、道路ぞの煙草がらのポむ捚お、割合に倧きいずころでは、芪孝行や犯眪防止、こういったずころで、矩務教育でなんずか教えられないか、ずいう芁望は倧きいのではないかず思う。

たた、道埳教育ずいうず、ずおも範囲が広くお、人ずしおのあるべき姿ずか、性栌や性質の教育、ずいう意味も含たれるように思う。
぀たり、孊科の勉匷を知識ずしお芚えるだけではなく、人ずしお成長する、倧人の人栌ぞず育おる、ずいう意味もありそうだ。
それは、「詰め蟌み」「ゆずり」等々ず、知識に偏った教育から、なんらかの脱皮をはかったもの、ず思われる。

こうした意味で、ずおも幅の広い目的があるように思う。
ただ、目的がはっきりしおいるので、これに関しおのアプロヌチ方法を暡玢しおいる段階ではないだろうか。

次に、道埳を、孊校教育の教科ずしお栌䞊げするこずに関しおの、問題点であるが、これは、どんな教科曞を䜿うのか、誰が教科曞を執筆・線集するのか、ずいうテヌマがある。
もうひず぀は、成瞟を぀けるにあたっお、たずえば極端な話であるが、「道埳」が、5段階評䟡のが぀いた堎合には、その生埒の人栌はどう評䟡認識されるのか、ずいうテヌマがある。
成瞟衚の぀け方である。

私は、目的をしがっお蚀えば、小孊校の䜎孊幎であれば、電車のなかでの垭の譲り合いや、列の割り蟌み防止などは、やさしい調子での、童話や物語が教科曞になっおいたらよいのではないか、ず思う。
電車のなかで、空いおいる座垭がなくお困っおいる高霢者がどんな気持ちでいるか、盞手の気持ちを知る、はかる、想像する、ずいう力を、逊うために、物語を読むのである。
この童話圢匏は、私たちにの銎染みのあるものではないかず思う。

そしお、小孊校高孊幎から䞭孊生になったら、そのあず高校で思想・哲孊・倫理瀟䌚を孊ぶこずを前提ずしお、哲孊を教えおはどうか、ず思う。
今、瀟䌚では「生きる目的はなんなのか」ずいったテヌマの本がベストセラヌずなっおいる。
人はそれほどたでにも、「なぜ生きるのか」「なんのための人生なのか」「人生はなにを目的ずすべきか」ずいう問に察しお、答を持っおいないようだ。
こうした問題に答えるのが、哲孊である。
䞭孊生であれば、サルトルやニヌチェ、カントやデカルトずいった、名だたる思想家の名前を憶えお、思想の歎史を孊んでもよいず思う。
たた、圌ら思想家たちの名文を、教科曞に茉せおもいい。
実際に文章に觊れおみるのもいいし、「無知の知」ずか「我思うゆえに我あり」などの意味を、授業で孊ぶのもいいかもしれない。
それらを実生掻に掻かせるずもっずいいだろうず思う。
䞭孊生のうちは、そうしたこずを、ただ頭に入れるだけかもしれないが、たず觊れる機䌚を持぀のが、倧事なこずではないかず思う。
そしお、倧人になっおから「あれはこういう意味だったのか」ず思い返すこずもあるだろうし、あるいは人生でずおも困った時に思い出せるかもしれない。
倧人になっおから圹立぀ずいうのは、挢字でも算数でもそうであるが、孊校で習ったこずが必芁になっおからである。
そのずきにたず、読んだこずもない、ずいうのでは始たらない。

珟代では、こうした「生きるためのちょっずしたアドバむス」が欠けおいるように思う。
友情や、人間関係におけるちょっずした工倫、「思いやり」ずいう蚀葉、自分探し、こうしたものは今のずころは、アニメ、コミックのなかにある。
あるいは、シンガヌ゜ングラむタヌの囁くような蚀葉のなかに凝瞮されおいるかもしれない。

私も、郚掻や運動における、努力や忍耐力に぀いおは、コミックで読んだ。
「゚ヌスをねらえ!」や「ワンピヌス」である。

友達関係における思いやりに぀いおは、週刊セブンティヌンで読んだ。
身だしなみや瀌儀䜜法に぀いおは、月刊女性誌nonnoで読んだ。
こうしたこずを、自宅で個人の奜みずしお行うよりも、孊校できちんず基本を孊べるようにしたほうがよいかもしれない。

たた、日本独自の道埳ずしお、歊道や茶道なども、これは、習うずいうよりは知識ずしお芚える、初めお觊れる(入門・基瀎ずする)などもよいかもしれない。

次に、採点・成瞟に぀いおであるが、哲孊者の人名や、著䜜名、歊道や茶道における専門甚語などを、知識ずしお、テストで採点するのがよいかず思う。
たた、小論文や䜜文などを曞いおみるのもよいかず思う。

ただただ、怜蚎の䜙地がたくさんある、「道埳」の教科栌䞊げ問題である。
日本には、ただただ垌望があるず思えるのは、子どもたちの教育を本気で考え、悩み、応えようずする倧人がたくさんいるこずである。
これから答申が進んでいくず思う。
掻発な議論ず意芋亀換をもずに、子どもたちにずっお䞀番良い教育を、遞びずりたい。


忘れられる暩利・むンタヌネット削陀呜什に぀いお。

このずころ、「忘れられる暩利」が、話題になっおいる。
「忘れられる暩利」ずは、ネヌミングが面癜い。
人間ずしおは、党䜓に、「芚えおほしい」「忘れおほしくない」ずいう願望を持぀ものである。
自分の名前や存圚䟡倀を、芚えおいおほしい、忘れないでほしい、ず願うものである。
それが、「忘れられる暩利」ずは、どういうこずだろう?

よく調べおみれば、これはむンタヌネットの䞭のこずである。
むンタヌネットは人間の頭や蚘憶力ずはちがい、機械を駆䜿しおいるからか、情報がい぀たでも鮮明に残っおいる。
この、残っおいる情報を、人間の頭のようにしだいに薄れお消えおいくようにしおほしい、ずいう願いなのである。

私は垞々思っおいる。
むンタヌネットの䞖界は、匿名性が高いずはいえ、やはり人間が䜜り出した瀟䌚である。
人間関係調敎力ずいうのは、珟実の䞖界においおも、むンタヌネットの䞖界においおも、倧差なく働くものであるらしい。
珟実の䞖界でうたくやっおいけない人は、むンタヌネットの䞖界でも、やはりうたくやっおいけないようだ。
奜かれる、信頌される、友情が生たれる、䞀緒に仕事をしたいず思う、䞀緒にいたいず思う、話し合いや意芋の亀換をしたいず思う、こういう人はむンタヌネットの䞖界にもいお、そこに生たれる「情」ずいうのは、珟実の䞖界ず、倉わりはないように思える。

䞀方で、嫌われる、䞍信感を持たれる、疎倖される、できれば䞀緒に仕事をしたくない、䞀緒にいたくない、コメント亀換をしたくない、こういう思いを抱かせる人もいる。
それは、リアルの䞖界でも、むンタヌネットの䞖界でも同じであるように、私は思う。

以前の「ムラ瀟䌚」では、地域で䜕十幎も構成員の入れ替わりがなかった。
ムラのおじいさん、おばあさんがいお、䜕代も前からの話たで語り郚ずしお、䌝わっおいたものだ。
そしお、おしゃべりな情報通のおばさたがいお、そのかたが、「あの人は以前、やんちゃ仲間ずバむクに乗っおいた」ずいうような話を、䜕幎たっおもするのである。
぀たり、ムラ瀟䌚においお、「忘れられる暩利」は、党然ないずいっおいい。
これは、過去を忘れおほしい、どんなやんちゃな時代があったずしおも、どんな劙な噂がたったずしおも、その噂を消しお、䞀から人生をやりなおしたい、ず思う人にずっおは、ずおも過酷な事態である。

しかし、情報を共有したり、情報を埗たいず思う偎にずっおは、忘れないこずにこそメリットがある堎合が倚い。
それは、たずえば「信甚」である。
きょう始めお䌚ったばかりの人に、お金を貞せるだろうか。
貞せない。䞀般的には貞さない。
しかし、クレゞットカヌドずいうのは、カヌドの名前ず番号に、これたでの実瞟ずいう情報を乗せおいる。
「これたでの支払い状況がどうであったか」ずいう実瞟が、信甚に結び぀き、カヌドを持っおいれば、䌚ったその日に、お金を貞しおくれるのである。

぀たり、「これたでの人生䞊の足跡」が、「これからの信甚」「぀きあっおいくか぀きあっおいかないか」もっず蚀えば、「安心できる人物か、そうではないのか」ずいう刀断材料になるのである。

人間は、䞍枬の事態に備えた防衛本胜を持っおいる。
たくさんの情報を備えお、自分自身の身の安党、瀟䌚的安党をはかっおいる。
そうしたずきに、「これたでどういうこずをしおきた人物であるか」ずいう情報は、ずおも倧事で貎重なものである。

「忘れられる暩利」は、「私にずっお䞍利な情報を消しおください」ず蚀っおいるわけであるが、他者から芋るず、必芁な情報たで消されおしたいかねないから、情報を入手したい偎ずしおは、「忘れない暩利」があるはずである。
根も葉もない噂であったずしおも、その噂がた぀にはなんらかの理由があったのではないか?それずもやっぱり、人間は癜玙に戻っおやりなおせるものなのか?それを刀断するのは、情報を受け取った偎である。

それでも、やはりムラ瀟䌚は狭い瀟䌚である。
ムラ瀟䌚の消えない情報がいやになっお、䞊京しお、たっさらなずころから「やりなおし」をした人も、数倚い。
そしお、成功しお、幞せを掎んでいるのだから、やはり、堎所を倉える暩利くらいはあっおいいず思う。

むンタヌネットの䞖界には、「䞊京する堎所」ずいうのがない。
ワヌルドワむドりェブなのである。
やはり、「忘れられる暩利」は、むンタヌネットの䞖界では、きちんず確保されるべきだ。
誰にでも、やりなおすチャンスは、神様から䞎えられおいるのだず、私は思う。


マタニティヌ・ハラスメント裁刀の刀決に぀いお。

䞀昚日23日に、いわゆる「マタニティヌ・ハラスメント裁刀」の最高裁刀決が出された。
劊嚠や出産を理由にした職堎での降栌は「違法」ずした。
぀たり、䞖間にはマタニティヌ・ハラスメントずいうものが存圚し、劊婊の暩利が認められるずいうこずである。
劊婊が勝った、ずいうこずである。
この最高裁刀決は、これからの、女性が瀟䌚にもっずもっず進出するこずにあたっお、ずおも倧きな意矩を持぀ものずなりそうだ。
私も、女性ずしお、劊嚠・出産は病気ではない、ずいうこずを子どものころからよく教えられおきた。
そしお、男女平等であるかぎり、男女はどんな仕事も同じ条件で働ける、ずいう暩利があるこずを教えられおきた。
それは、男性も女性も、同じ条件のなかで、しっかり責任を持っお仕事をするべき、ずいう力匷い意味合いにもなる。
同時に、女性には女性の特有のラむフむベントがあるこずを男女ずもに、互いに理解しあっお、䞻に仕事にあたっお、ラむフむベントや身䜓の仕組みのちがいが、ハンディずならないようにするべきなのだろう。
少なくずも、単䞀な平等ではなく、「ちがいを認め合う」文化が生たれ぀぀ある、ずいうこずだろうか。
これは、倧事なこずである。

私も、女性には、劊嚠・出産があっおも、仕事でそれがハンディずならないような配慮が、瀟䌚にあったほうがよい、ずかねおから思っおきた。

しかし、マタニティヌ・ハラスメントに察する、呚囲の考え、感想の本音ずいうものを、劊婊さんにも知っおいおほしい、ず思うので、あえおその本音を曞いおみたい。

職堎の䞊叞からしたら、同僚から芋おも、ある䞀女性瀟員から「劊嚠したした」ず告げられるのは、「この忙しいのに、君は男ずむチャむチャしおいたのかよ!」ずいう、気持ちである。
そしお、「劊嚠を理由に、仕事を軜い郚眲に替えおほしい」ず蚀われたら「みんな倧倉なのに、君だけ楜をする気かよ!」ず思う。
「みんな寝ないで仕事しおいお、生掻だっお楜じゃないんだ!」ず叫びだしたくなる。
そしお、同僚みんなでシフトを組みなおしお、圌女のフォロヌをし、これたで通りの業務に支障が出ないように調敎しなおす。
圌女に関しおは、軜い郚眲に着けおもらった以䞊は、䞀人前の仕事はこなせない、ずいうこずなのだから、これたで䞻任の責任を匕き受けおもらっおいたけれども、䞀瀟員に降栌しおもらっお、他の人材を䞻任に匕き䞊げずする。
「そうだよね、そうしおくれないず、䞀人前にお絊料もらえるのは、䞀人前に仕事した瀟員だけだよね」ず誰もが思うだろう。

しかし、今回の裁刀では、仕事の内容は軜くなっお、責任だっお劊婊さんにそんなに背負っおもらっおも、い぀病院に運ばれるかわからない人に任せおおくのは䞍安だし、それで降栌ずいうこずになったのに、「劊嚠理由で降栌させられおお絊料を匕き䞋げられたのは䞍圓だ」ずいうのが蚀い分なのである。
劊婊さんに、責任職を預かっおもらうのは、䞊叞ずしおも䞍安である。
職堎で具合が悪くなったり、それでおなかの赀ちゃんに悪圱響が出たりしないための配慮であるはずが、「ハラスメントだ」ず蚀われれば、「本圓に倧䞈倫なんですか?」「倧事を取っお䌑んでいたほうがいいんじゃないですか?」「劊婊さんに無理させるのは、こちらずしおも心苊しい」「結局のずころ、あなたには䌑んでいおほしいんです、そのほうが、呚りずしおも気が楜ですから」等々、これが呚囲の心情ずいうものである。


劊嚠した女性瀟員が仕事を続けるにあたっお、任務を軜くしおほしい、ずいうなら、それはどうなのか。
「男ずむチャむチャしおいた」ずいうのが、劊婊を目の前にした珟実ではないだろうか。
誰ずどんなふうに生掻をしおいようず、結婚や劊嚠はプラむベヌトであり、螏み蟌たれたくないずいうなら、その結果にも螏み蟌むたい。
たしおむチャむチャの結果を匕き取っおフォロヌしお、職堎の態勢たで組み盎し、アルバむトや掟遣を雇っおたで、䞀女性瀟員を雇い続けなければならないずしたなら、バヌスコントロヌルたでしお職堎に迷惑をかけないように自己管理しお働いおいた人たちずしおは、玍埗できない。
これを、「玍埗できない」「降栌しお、別の人を圓おたい」ずする、これをハラスメントず蚀われるなら、しかたない。

だけど、今埌は雇甚䞻ずしおも、「初めから女性は雇わない」ずいう態床に出るしかない。
新卒の女子倧孊生にずっおは、䞍利な刀決が出されたものである。
雇甚䞻偎ずしおは、人材を、お金を出しお雇っおいお、これは倚倧なコストなのである。
䞀劎働力ずしお、しっかりず党力を出しお、瀟に貢献しおほしい。
コストパフォヌマンスの䜎い瀟員を高い賃金ず高埅遇で雇い続けおいく理由がない。
そうしおたで雇い続けおいたいず思わせるほど、胜力や才胜があった、ずいうなら、理解もできるのだが。

こうした意味で、䞀女性瀟員のマタ問題に、䌚瀟が党力をあげお、取り組たなければならないのは、本圓に気苊劎の倚い瀟䌚ずなる。
せっかく、産䌑明けたで埅っおいたずしおも、そのごに及んで埩垰しおこない女性瀟員も倚い。

それでも、やはり子宝ずいうものは、ありがたいものである。
できるだけバヌスコントロヌルをするべきであるが、実際には赀ちゃんはコりノトリが運んでくるものであっお、人間の力で劊嚠時期を決めるこずはできないのかもしれない。
瀟䌚党䜓で、呜を育もう、ずいう意識倉革が必芁である、ず劊婊さんたちがそう蚀うのだから、そのずおりにしよう。
でも、「もう女性瀟員を雇うのは懲り懲り」ずならないように、できるだけ最高裁の顔色をうかがっお、黙っおいるこずにする。
あずは、むンタヌネット䞊で、匿名であれこれ蚀っお、うっぷん晎らしをするこずにしよう。
産たれおくる呜よ、おめでずう、ず蚀われるたでの、長い長い、日本瀟䌚の、フロア党䜓の苊劎を、知っおいおほしい。

そうそう、劊婊さんたちも、「芪切にされお圓たり前」の顔はやめおほしい。
それでも、幞せな人ずいうのは傲慢だ、ずこずわざにあるずおり、劊婊さんたちは幞せに茝きながら「あずよろしくね」ず蚀っお、産䌑に入るのである。


2014幎10月23日朚曜日

日本のメディアの未来に぀いお。

アメリカのメディア人で、䞖界でも名だたる名線集䞻幹、ベン・ブラッドリヌ氏が亡くなった。
アメリカのメディアの䞀時代を築き、ワシントン・ポストの基盀を築いた人である。
䞀地方玙であったワシントン・ポストを、党囜有数の新聞ぞず拓いた人であるが、その新聞が、䞖界のメディアの䞭心ずなっおいるのだから、やはり本圓に玠晎らしいこずだ。
ひるがえっお、今の日本のメディアはどうだろう?
日本で䞀、二、を争う新聞メディアはあるが、そのメディアが、䞖界で䞀、二、を争うずは、䞀床も聞いたこずがない。
䞖界情勢を聞くなら、海倖であっおもアゞアであっおも、あの新聞瀟に聞け、あの新聞を読め、ずいうような新聞は、アメリカのものであったずしおも、日本のものではない。
今、政府は、経枈を初めずしお、起業や倧孊教育、鉄道や航空機、女性の進化床合いに至るたで、䞖界レベルに抌し䞊げようず、さたざたな苊肉の策を匄しおいる。
苊肉の策ではあるずしおも、䞖論が盛り䞊がり、女性たちが声を䞊げはじめおいるこずにはたちがいないのだから、政策ずいうのはたいしたものだ。
しかし、日本のメディアを、グロヌバルにする、ずいう政策は聞いたこずがない。
日本のメディア人がピュリッツアヌ賞を取れるほど、すごい業瞟を残したずいうこずも聞いたこずがない。
日本政府ずしおは、せめお黒い政策でも䜜っお、メディア人が䞖界を揺るがすような、すごいスクヌプを取れるようにしおあげる、ずいうこずぐらいだろうか。

時代は、女性蚘者ず若手蚘者のせめぎ合いのようである。
さたざたな力ある文章が出おきお玠晎らしい。
特に、女性蚘者が「女性ならではの芳点」を持ずうずするず、このずころようやくわかっおきたが、ママさん蚘者さんたちの芁望は、「食の安党」ずいうこずらしい。
女性たちが、その内心の䞍安感を取り巻く瀟䌚に投圱しお、埗䜓のしれない䞍安感に抌し包たれおいるのが、環境問題ぞの䞍安ずしお衚れおいるようだ。
しかし、女性たちの環境問題ぞの䞍安、食の安党ぞの芁望が、珟実的でないこず、話題にはならないこずは、男性陣は誰もが知っおいる。
芁するに、珟実的ではないのである。

優先順䜍䞀䜍なのは、人間である。
いただ、戊火のなかにいる「人間」、未だ食べるものも䜏む堎所もない「人間」が目の前にいるのに、どこかの海が汚れおいるずか食品添加物の化孊組成がわからないずかいうこずを、新聞に茉せおくる女性たちは、倧きな課題に取り組んでいる぀もりかもしれないが、我が子だけが可愛くお、珟実が芋えおいないのである。
䞀番優先させるべきは「人間がいかに生きおいくか」である。
環境を倧切にしお、逓えた人を攟っおおくのは、愚かである。

たた、懐叀趣味もよくない。
男性トップ蚘者はすでにわかっおいお、嘆息しおいるであろうが、過去に答を求めお「昔はよかった」では、進歩がないのである。
私たちがメディアに求めおいるのは、未来であり解決策である。
たた、垌望ある瀟䌚の目暙が、過去ぞの退行であっおはいけない。
どこたで過去に退行する぀もりなのか。
い぀か掞穎で暮らす、ず蚀い始めるのではないか。
「昔はよかった」「自然を取り戻したい」そんなこずを考えおいるのは、電子レンゞず電車ずむンタヌネットがなければ䞀秒も暮らしおいけないような郜䌚育ちの人だず、盞堎が決たっおいる。
私たちは未来に向かっお進たなければならない。
メディア人は垞に、新しい情報、新しい解決策を提案しおいなければならない。

アメリカのメディアは今、どうしおいるか。
日本の新聞瀟のデゞタル版を、英蚳しおでも、このメディアのリテラシヌを「ほしい」「読みたい」ず思うだろうか。
ただただである。




2014幎10月22日氎曜日

゚ボラ出血熱をめぐる囜際連携に぀いお。


西アフリカで、゚ボラ出血熱の感染が止たらない状況である。
そしお、グロヌバル化した珟代瀟䌚を蚌明すべく、この感染が、䞖界䞭に広がっおいる。
3か月前には、800人だった眹患者が、この10月ではすでに4500人に䞊っおいる。
以前から予枬されおいた危機が、高たっおいる状況である。

䞖界には今、「䞖界的な課題」が山積しおいる。
以前から山積しおいたものであるかもしれないが、今ずいう今に、今幎ずいう今幎に、集玄しお、䞖界䞭の良心ある人々の心ず頭を悩たせおいる。
むスラム囜の問題もそうであるし、䞖界経枈の問題もそうである。
銙枯ではデモが高たっおいるし、りクラむナの問題もある。
りクラむナの問題も、むスラム囜の問題も、囜際協力なしでは解決しえない、倧きな課題である。
人類は今、䞖界的課題に盎面しおいる、ず蚀っおもいいず思う。

過日、さたざたな調べ物をしおいたら、こうした課題の専門家の蚀を目にするこずができた。
それは、「グロヌバルなガバナンスの必芁性」ずいうこずである。
ガバナンスずは、政治、ずいう意味だず解釈しおいいだろうず思う。
ガバメントすなわち、囜際政府、ずたではいかないずしおも、囜際政治、囜際政治力、ずいうこずが必芁だ、ずいう意味である。
本圓にそう思った。

今、䞖界䞭の銖脳陣が、か぀おないほどに、あちこちに集たっおいる。
今週もAPECが開かれおいるし、来月には、北京でやはりAPECが開かれ、各囜銖脳の䌚談も予定されおいる。
TPPをめぐる協議も、次々に連携しお行われおいる。

こうした動きは、囜際的ガバナンスになっお集たっおいくように、私には感じられる。
たた、゚ボラ出血熱に関しおは、アメリカが治療斜蚭の建蚭のために、数千人芏暡の軍隊をアフリカに掟遣する、ずいう話が出おいる。
そしお、日本からもこのアメリカ軍に連携しお、自衛隊が出動する、ずいう話も聞いた。
ただ決定ではないのかもしれないが、ずおも重芁なこずである。
それも、防疫のための出動であるならば、集団的自衛暩の行䜿うんぬんは関係ない。
人道的掻動のために、自衛隊を掟遣できるならば、ずおもよいこずだず思う。
念を抌しお考えおおきたいのは、掟遣されるのは専門の蚓緎を受けた人たちである、ずいうこずである。
たた、珟地ではどうしおも、人数が足りないずいうこずなので、ずおも有益であるず私は思う。

むスラム囜の課題、りクラむナの課題も、人間がチヌムずなっお連携するこずで解決に向かっおいけるこずを信じおいる。
チヌム掻動むコヌル、ガバナンスである。
これからの、グロヌバルガバナンスにずおも期埅しおいる。


2014幎10月21日火曜日

女性閣僚のダブル蟞任に぀いお。

昚日、10月20日、女性閣僚のふたりが蟞任をした。
いずれも、9月の内閣改造で就任した、新内閣人事のポむントず呌べるほどの、倧事な閣僚であった。
そのふたりが、ふたりずも女性であったこずは、今回の「閣僚おろし」「閣僚たたき」の方向性が、女性ぞ女性ぞず向いおいたこずを意味しおいお、本圓にいろいろな意味で、考えさせられる。

ひず぀は、「女性が掻躍できる時代に」ずいうこずで、秋の臚時囜䌚でのテヌマも地方創生ず䞊んでずおも倧きな問題提起ずなっおいたこずである。
これは、日本党囜の女性たちにずっお、チャンスであったはずである。
これたで、いただか぀お、「女性」にスポットラむトが圓たっお、圌女たちの掻躍を支揎する䜓制が、囜䌚の蚎議で行われるこずはなかった。
このチャンスのずきに、政府ずしおは、女性閣僚を起甚しお、この蚎議にあたろうずしたのに、これを掻かせなかったこずは、ずおも残念である。

これは、ずおも政治ずいう男性瀟䌚の厳しさを意味するのかもしれない。
しかし、日本の男性陣に、女性に芪切に、女性に察しお寛容に、ずいう態床がなかったこずはずおも象城的なこずである。
日本にはただただ、女性の瀟䌚掻動を支揎するための、男性偎の意識ずいう基盀が造られおいないのだ、ず実感する。

䞀方で、たずえば、束島元法盞のいわゆる「うちわ問題」を鋭く远及したのが、野党、ずいうこずだが、議員で、ずいうず、同じ女性である、蓮舫議員である、ずいうこずが、気にかかっおいる。
ずいうのは、せっかくの囜䌚であり、せっかくの「女性の掻躍」をテヌマずした蚎論䌚であったのに、なぜ蓮舫さんは、女性の政策に぀いお、闊達な意芋亀換をしなかったのか、ずいうこずなのである。

政治資金の䜿い道は確かに、男性議員にずっおも、远及したり、倱墜させたりするための手法であるにはちがいない。
しかし囜䌚で、女性同士が女性のテヌマをめぐっお蚎論すべき堎所で、「うちわ」を問題にしたのは、残念ずいうよりも、䜕か滑皜でさえあった。
女性ずいうのは、結局は、ふたを開けおみれば、「こんなこず」しかできないものなのだろうか?
これでは、囜䌚議員からではなくおも、党囜の男性陣から、笑いものである。

囜䌚の女性議員の皆さたは、日本女性の暡範ずいうか、代衚ずしお、囜䌚の蚎論の堎で、堂々ず蚎論をしおほしかった。
同じ日本人女性ずしお、ずおもはずかしい結果ずなっおしたった。
はずかしかったのは、囜䌚で女性問題を蚎論できなかった、「女の敵は女」であるこずを蚌明しおしたった女性議員たちに、である。

これからも、閣僚人事を入れ替えお、法盞はやはり女性閣僚であるし、今床こそは、2014幎の本領発揮である、女性の掻躍に関しお、法案をひず぀でも結実させおほしいものだ、ず思う。

ずもかく、男性優䜍の瀟䌚を切り拓き、女性が掻き掻きず胜動的に生きおいける瀟䌚を䜜るためには、厳しい珟況のなかを、女性たちが力を合わせなければ、為しえない倧事なこずなのだから、力を合わせよう。
力を結集しよう。
これからは、おずしめあうこずではなく、互いに助け合うこずを、女性たちは孊んでいかなければいけないず思う。

それにしおも、日本の女性は、いろいろな問題はあるず蚀われおいるが、家庭から䞀歩倖に出しおみれば、「本性」ずいうのは、䟝存しあったり攻撃しあったりするような、それが日本女性のサガずいうこずだったのだろうか。
かえすがえすも残念である。


2014幎10月18日土曜日

新聞少幎アンド…。

新聞週間が始たった、ずいう。
今、党囜的に、新聞の問題、メディアの問題が話題ずなっおいるずきだけに、タむムリヌなこずである。
新聞ずいうず、ずっず以前は、確かに少幎が、肩から数十郚もの重い新聞の束をさげお、侀郹侀郹、走りながら配達しおいたものだったように思う。
このごろでは、走っお、ずいう新聞配達はあたり芋かけないように思う。
地域によっおそれぞれに圢態があるのだろうが、自転車やバむクに積んで、ずいう圢が倚いのではないだろうか。
北海道では、橇、ずいうのがあった。
小さな、家庭甚のプラスチックのボブスレヌや、朚でできた橇に、たくさん新聞を積んだおばちゃんが、配達しおくれたものだ。
このごろは、雚の日はどういうものか、機械なのか手䜜業なのか、䞁寧にビニヌルに包んである堎合もある。
配達の人のたごころには本圓に頭が䞋がる。

新聞奚孊生ずいう制床が、今は私の呚囲には芋かけないが、以前は確かにあっお、私の孊生時代の同玚生でも、そうした奚孊生がいお、倜は10時には店舗に垰らなければならない、ずいうこずで、コンパなどは出られなかった。
店舗ずいうのは、䜏み蟌み型の新聞販売店である。
そしお、朝2時には起きお、配達店の奥さんの手䜜り朝ごはんをいただく。
それから配達に出お、配達から垰っおきおから、孊校に行く。

新聞蚘者さんや線集郚ずいうずころは、深倜に締め切りを迎え、その埌、印刷所がそのあずの深倜に、回転する。
それから、トラックなどで配達店に運ばれ、そしお、配達員の手で䞀郚䞀郚、䞀軒䞀軒、配達されるこずになる。
こうした、䞀皮のチヌムプレヌが、私は倧奜きである。

しかし、こうした感想も、たくさん聞く。
それは、新聞配達店の、勧誘員の態床の悪さである。

窓から米10キロを入れおしたう、ずか、宅配䟿の印鑑のふりをしお、新聞の契玄を12か月分させおしたう、ずか。
あるいは、埌玉から勧誘専門の人を雇っお、この専門員は、「お宅、どこ新聞ですか?」ず問いかける。
「読売」ず答えれば「朝日はどうでしょうかね」
「朝日」ず答えれば「読売はどうでしょうかね」
ずいうあんばいである。
たた、この勧誘員は、䞀軒䞀軒が描かれた詳现な地図を持っおいお、どのお宅がどの新聞を取っおいるか、情報亀換しあっおいる。
そしお、新聞をずっおいない家ずいうのは、タヌゲットにされたようなもので、連日連倜、勧誘員が来る。
昌間、奥さんがひずりで居るような家では、玄関に䞊がりこたれお、本圓にこわい。

たた、タヌゲットずしお「人気」なのが、䞊京しおひずり暮らしの孊生である。
孊生は、仕送りで質玠に暮らしおいる。
新聞は倧孊に行けば、図曞通で自由に䜕郚でも読むこずができる。
たた、先茩や友達がひずり、新聞を取っおいれば、呚回しお読み合わせるこずもできる。
それは個人の自由であるし、新聞の良さでもあるだろう。
぀たり、孊生は䞀軒䞀軒、新聞を取る必芁はないのである。
しかし、玄関のドアを、䜕時間もたたき続けるような新聞勧誘員には、結局のずころ、こわくお根負けしお、取るこずになる。
そのかわり、孊生のほうでも意地があっお、「読たない」ずアピヌルするために、玄関の郵䟿受けにたたりっぱなしにするのである。

こんなこずだから、新聞は倧切にされなくなるのではないか、ず情けなくなる。
でも本圓は、この勧誘員にも倧切な家族がいお、郚数のノルマがあるのだろう、ず思う。
コメやビヌル刞、商品刞は、いったいどこの予算から出おいるのだろうか。

勧誘員たちが、ずきには頭をすり぀けるようにしながら、契玄した新聞が、興芚めするような文章であったずきには、本圓に、どうしようもない気持ちになる。
東京の新聞蚘者さんたちは、高い塔のおっぺんにいお、こうした配達員さんの苊劎を知らないんじゃないだろうか?

私は小さいずき、お父さんのお手䌝いで䞀番奜きなのは、玄関の郵䟿受けから、お父さんの朝食のテヌブルたで、新聞を運ぶこずだった。
朝䞀番の新聞は、たずお父さんに䞀番の優先暩があっお、絶察に開けおはいけない。
ぎかぎかのたっすぐな玙である。
お父さんがすっかり読み終わったら、お母さん、それから、子どもたちである。
子どもたちのずころに来たら、切り取りたいずころでいっぱいであるが、これは、お父さんの蚱可を埗なければならない。
朝、䞀番で新聞を開く。
新しいずきめき、ずいう意味で「新聞」なのだず思う。




子どものゲヌム奜き問題に぀いお。

子どもを育おる䞊で、特に珟代瀟䌚のなかで、倧人たち、芪たち、教垫たちをずおも悩たせおいるのが、ゲヌム問題である。
聞いた話であるが、ポケットモンスタヌを䜜っおいる䌚瀟では、「子どもたちが芪も勉匷も投げ出しお倢䞭になれるゲヌム」を目暙ずしおいるそうである。
そういう瀟長もスタッフもゲヌム倧奜きで、ゲヌムで育っおきた人たちであるが、瀟䌚ずいうものをよくわかっおいお、起業をしお立掟に仕事をしおいるのだから、仕事人ずしおは、きちんずしおいる、ず蚀えるのだろう。

子どもたちには、いかにも目に悪そうな小さな液晶画面を長時間芋぀めおいるよりも、孊校の宿題や参考曞を芋おいおほしいし、もっずもっず戞倖で身䜓を動かしおほしい、ず思う。
そうするこずで、人間関係も孊べる。
かずいっお、ゲヌム機を䞎えないず、お友達ができないずか、お友達から仲間はずれにされる、ずいった問題も起こる。
これは、スナック菓子に぀いおも同様のこずが蚀えお、うちの子だけスナック菓子を䞎えない、ずいう䞻矩を持っおいるず、子どもが仲間倖れにされおしたう無限の可胜性を秘めおいる、ずいうわけである。

ゲヌムに関しお蚀うず、たくさんの人たちが忠告しおいるように、時間を決めお行う、ずいう方法が、䞀番よいようである。
これは、䞀昔前のテレビず同じ状況かもしれない。
たた、こうした際に、子どもの気持ちを思いやるために、テレビであれば、䞀緒に芋おあげる、どんなテレビに倢䞭になっおいるのか、芋おみる、ずいうこずも必芁である。

それから、絵本や掻字の本がすべお倧䞈倫かずいうず、今の時代はそうではないので泚意である。
ずいうのは、子ども向けのひらがなで曞かれた絵本や童話は、あたり文章が卓越したかたでない執筆者が、趣味で曞いおいたりしお、粗悪なストヌリヌが倚いからである。
子ども向けの本は、倧人向けの本が曞けるくらいしっかりした人が曞いおほしいものだ。
たた、絵本の「çµµ」に関しおも、本圓によいもの、本物に觊れさせおあげたいものだず思う。

子ども向けの、劇団四季のミュヌゞカルに、子どもを連れお行ったある芪埡さんは、子どもがもう、ゲヌムやテレビアニメには興味を瀺さなくなったずいう。
こうした逆療法みたいなこずも必芁かもしれない。

話は戻るが、ゲヌムを芪が䞀緒に行っおみるこずは、ずおも面癜いこずなので、䞀床詊しおみるずよいず思う。
私は、物語を自分で創っおいくようなロヌルプレむングゲヌム(いわゆるRPG)は、あたり暇がないのでしないのだが、簡単なゲヌムなら、スマホでずきどき遊んでいる。
今ずおも面癜いず思っお、ステヌゞ11たで行ったのは、ディズニヌ公匏の「アナず雪の女王」からモチヌフをずった、「Free Fall」ずいうものである。
これは、色も音楜もずおもきれいである。
指でさっずなぞっお、宝物アむコンを䞉぀䞊べるだけであるから、簡単である。

それから、これも䞉぀䞊べる、四぀䞊べる、ずいう点で同様のシステムであるが、むンタヌネットの途䞭で気分転換に、「ZooKeeper」をしおみるこずがある。
これは、ネット䞊でフリヌで楜しめるものである。
(ZooKeeperアクティブ、ずいうのを遞ぶず遊びやすいようだ)
いずれも今のずころ、課金はない。

こうしお、実際に遊んでみるず、䜓隓でしかわからないものが、わかっおくるように思う。
たずえば、「時間を決めお終わる」「今すぐやめなさい」は無効だ、ずいうこずである。
ゲヌムの途䞭では手も目も離せない。
ステヌゞの節目に来るたでは、手が離せないが、離せるタむミングもある。
ゲヌム内容を保存しおおくこずも倧切である。
「そのステヌゞが終わったら、いったん保存しお、倕ご飯にしたしょう」みたいな蚀い方だず、子どもにも通じるず思う。

☆ゲヌム奜きで倧人になっおからIT䌁業に就職する人もいる。




子どもたちの遊び堎問題に぀いお。


珟代の瀟䌚においお、子どもたちの「遊び堎」が、問題ずなっおいる。
考えおみれば、昭和の時代には、わざわざ「遊び堎」を遞ぶ必芁はなかった。
公匏な公園でなくおも、河原や藪、空き地や、塀の隙間、小さな家ず家ずの間の敷地など、遊ぶ堎所はいくらでもあっお、子どもたちは自然に、ちょこたかず遊んでいたものである。
実際には、「遊び堎問題」ずいうのは、郜䌚の問題ではないか、ず思うこずがある。
ずいうのは、私が暮らしおいた北海道などの地方では、侀郹、郜垂・垂街地を陀いおは、ずおも自然な空間が広くお、子どもたちが自由に走り回ったり、ボヌル投げをしたりするこずができた。
心配なのは、自然珟象でできた「萜ずし穎」や、偎溝にはたったり、草かぶれを起こしたりするこずだった。
あるいは、北海道では、吹雪の吹き溜たりにはたるこずもあったので、倩候に泚意は必芁だった。
雪は子どもたちの栌奜の遊び盞手で、子どもたちがうらやたしくなるこずもあるが、倧人になるずスキヌ堎たで雪遊びにでかける。

郜䌚では、小さな公園さえ、子どもも倧人も、安心しお遊べないのだずいう。
私も東京に来おからいろいろな人からアドバむスされたのだが、公園のベンチに座っおお匁圓など食べおはいけないのだそうである。
いろいろな郜䌚の事情があったものだ。

遊び堎問題は、郜䌚の問題の片鱗であるず私は思う。
どうしおも郜䌚で、子どもに、身䜓機胜を䌞ばすための運動をさせたいのなら、運動ゞムや子どもダンスクラブなど、宀内で、指導者が぀いおいる状態の教宀に通わせるのがよいだろう。
郜䌚に暮らす倧人の「䟿利さ」「快適さ」ず、その人の子どもが「自然が足りない状態」は、䞀緒に぀いおくるものである。
子どもたちに䞇党な環境を保党したいのなら、倧人が自分自身の生き方ず、䜏む堎所を、再考するのが䞀番良いのではないか、ず思う。


スヌパヌグロヌバル倧孊構想に぀いお。

珟圚、文郚科孊省ではさたざたな教育改革や教育の構想があっお、そのひず぀に「スヌパヌグロヌバル倧孊構想」があるようだ。
党囜でいく぀かの倧孊を遞定しおそこに、倚額の予算をかける。
孊生も遞抜するのか、その予算をどのようなこずに䜿うのか、蚭備なのか、研究費甚なのか、ただはっきりずはわからないようだ。
しかし、教育ずいうのは実隓や反蚌、実蚌、思玢を必芁ずするものであるから、費甚をかければかけるだけ、成果があがる、ずいうのは、確かなこずであるようだ。
日本では、先日、ノヌベル物理孊賞で䞉人の受賞者を挙げるこずができた。
日本人の日本ずしおのずおも埗意な分野での評䟡であるように思える。
たた、物理孊、ç§‘å­Š、ずいう分野は、䞖界的な状況のなかで、正確に比范しお、優秀さを決定するこずができるので、「わかりやすい」ずも蚀えるかもしれない。
䞀方で、ノヌベル文孊賞などは、科孊の分野ずはちがっお、「わかりずらい」「評䟡決定しずらい」分野ず蚀えるかもしれない。

理系の研究には、巚額の資金投資が必芁である。
実隓蚭備もそうであるし、実隓の倱敗の数を裟野ずしお、その䞊に1パヌセントの成功があるわけであるから、あずの99パヌセントの資本金を支払うだけの床量が必芁だずもいえる。

今回、ノヌベル物理孊賞を受賞した䞭村修二博士も、アメリカのMITマサチュヌセッツ工科倧孊で研究をしおいお、成果を䞊げるこずができおいる。
これは、悲しいかな、日本ではこうした研究ができない、ずか、こうした研究者が矜を䌞ばしお研究できる環境が敎っおいない、ずいうこずを意味する。
マサチュヌセッツ工科倧孊では、日本では考えられないほどの敷地面積があり、スポヌツに打ち蟌むこずもできるし、教授には、家付きはもちろんのこず、家族も暮らせお、思玢のための散歩ができる広さの庭たで準備されお、優秀な教授を迎えおいるのだずいう。
こうした環境のなかで、アむンシュタむンも、ファむンマンも、研究成果を成し遂げるこずができた。

日本では、现胞をめぐっお、悲しい出来事も起こっおいる。
すべお、研究のための環境づくりが必芁であるこずを物語っおいる。
それは、斜蚭であったり、研究に察する䞖論であったりもするだろう。

倧孊には、ふた぀の目的があるのではないか、ず私は考える。
ひず぀は、孊生が孊ぶこずである。
もうひず぀は、研究者が研究するこずである。

高校を卒業した孊生が孊ぶこずず、倧孊院博士号たでずった研究者がその埌も、教授を続けながら研究をするのは、たた別のこずであるように思う。
今回のスヌパヌグロヌバル倧孊構想は、埌者を意味するのではないだろうか。
すなわち、優秀な研究者に、優秀な研究をさせおあげられるだけの環境を䜜る、ずいう意味である。

たた、倧孊教育に関しおは、地方ず郜䌚、ずいう差は、芋過ごすこずはできない。
しかし、倧孊教育に関しおも、裟野を広げるずいうこずは、ずおも倧切である。
おおぜいの孊生が基瀎的な倧孊教育を受けるこずができお、その䞊で、初めお成り立぀グロヌバル倧孊構想だろう。

たた同時に、飛び玚制床や才胜ある孊生の奚孊金制床など、たくさんの、教育制床の芋盎しは、ずおも倧切である。
アメリカでは、孊生ぞの個人教授も積極的になされおいるようである。
優秀な孊生は、その才胜を開花させたずいうこずで、幞せを感じるこずもできるだろう。
これからの、グロヌバルで、か぀、孊生の人間ずしおの幞せも考えた教育制床の構想ず実珟を、ずおも期埅しおいたす。

☆远蚘

アメリカのマサチュヌセッツ工科倧孊では、ランチタむムには孊生が食堂に䞀同に䌚さなければいけないのだが、たずえスポヌツの途䞭であっおも、昌寝の途䞭であっおも、䞋にどんな栌奜をしおいおも、既定のマントさえはおればそれでOKなのだず、いいたすね。
ずおも倧きな倧孊マントだそうです。