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衆議院解散総選挙をしてみたい。

この秋冬、衆議院解散総選挙をしてみたい。 選挙、というチャンスを、与えてほしいものだと思う。 時にはうんざりするほど潔癖な、正論と生真面目さで、断固として融通の効かない女性たちであるが、一度動き始めたら、粘り強く行動を起こすのが、また女性たちの性質でもある。 女性たちは、火がつくのがゆっくりなのかもしれない。 2年前の衆議院選挙のときも、争点は原発と憲法であった。 そのときに、安倍氏が代表を務める自民党は、すでに反原発を打ち出していたし、憲法改正を訴えていた。 当時、何の手ごたえもなく、何の反応もなかった女性たちが、今になってようやく声を上げはじめているようである。 衆議院選でも参議院選でも、「みどりの風」「みどりの党」などが、女性代表を候補に押し上げて、反原発、食の安全を打ち出していた。 あの当時、黙していた女性たちは、今、何をどう思っているのか。 生真面目で潔癖な女性党首をいただいた党は、選挙で全滅してしまった。 もう一度、チャンスがほしいというなら、潔癖で、「よい政治家」である候補をいただいて、政党を作るところからがんばってみてはどうなのか。 それとも、自分では政治はしなけれども、誰か男性政治家が、「やってくれる」まで待っているのだろうか。 不平と不満を抱きながら、言いやすい相手に八つ当たりして、その場しのぎで気晴らしをしているだけが、日本女性の性質なのだろうか。 安倍総理大臣に、申し込んでみたらいい。 もう一度、チャンスをください、と。 もう一度、衆議院の選挙というチャンスをください、と。 そうしたら、たくさんの国民を説得して、勢力を広げて、コツコツと地道な世論作りをして、公平で民主的な選挙で、勝ちを決めてみせます、と言ってみたらいいと思う。

2014年秋・衆議院解散総選挙の可能性について。

このところ、安定政権と呼ばれた政権が、少し揺れているように思える。 「大揺れに揺れている」とは、いえないほどである。 9月に内閣改造があった。 一昨年の12月に衆議院の選挙があったので、今の政権は2年続いているといえる。 ここへ来て、「年内解散ではないか」「総選挙ではないか」という、ささやきが聞こえてくるような状況である。 解散総選挙をするべきなのか、そうでないのかは、一般市民がどうこう言える問題ではないが、実際のところ、どうなのだろう? 現在の日本の社会状況を見ていると、とても騒がしく、不安感が増大しているように思える。 これ以上、解散総選挙などで、騒がしくなると、社会不安がもっと増えて、困る人がたくさんでるように思う。 また、年末で、「師走」とあるとおり、ただでさえ、あわただしくなる時期である。 また、エボラ出血熱に関しては、予断が許されない。 国内外協力してことにあたる場面である。 国際情勢で言えば、イスラム国や中国、韓国との問題も、続いている。 できるだけ安定政権で続けてほしいところだ。 秋の臨時国会の議題も、これからの日本の国造りにあたって、とても重要な課題である。 一方で、「なんとなく」今の政権が、まったりしてきた、と言えなくもない。 先週には福島県知事の選挙があり、来月には沖縄県知事の選挙もある。 各地方の知事選に遠慮しての、政権の戦略ではないか、と思えるふしもある。 なんとなく、「反原発派」「反戦原理主義派」に対して、少しずつ、少しずつ、有利に傾いてきたように、「見せている」のではないか、と思えるのだ。 これが与党自民党の圧倒的な政治力なのではないか、と思えてくる。 また、別の考えとしては、その与党自民党が、政治に飽きてきた、倦んできたようにも感じられるのだ。 安倍総理大臣は、自分が総理である間にしたかったことを、もうすべてやり遂げてしまったのではないだろうか? 総理大臣の座を退いても、「元総理」というポストがある。 また、これから解散総選挙をしても、野党民主党への支持率は、政権交代をできるほど高くない。 ということは、結果は目に見えていて、次の与党も自民党だ、ということである。 自民党は自民党でも、いったん選挙をすれば、総理大臣も内閣閣僚も、議員も一新できることにはちがいない。 ここは

NHK「マッサン」第5週・感想・優子さんとお見合い結婚。

きょう、木曜日の「マッサン」は、本当に楽しかった。 夫・政春の大株主を前にしてのプレゼンテーションで、妻のエリーが、見事な手助けをする。 お料理を作って運んできて、このお料理が、ウイスキーにとても合う、というのである。 大株主たちも「これはいけますな」と大喜びで拍手をする。 ウイスキーを造らせてもらえるかどうかは、まだこれから段階を踏まなければならないが、ともかくは大成功である。 エリーの「内助の功」は、とても素晴らしい、と思った。 ところで、このエリーのアイディアは、住吉醸造の一人娘・優子さんのお料理を見ていて思いついたものであった。 政春がスコットランドから帰ってきたら、結婚する予定であったと、これはなんらかの誤解なども混ざっていたようなのだが、その予定だった優子さんである。 この優子さんは、最初はエリーに意地悪をしたりもしたけれど、お父さんやお母さん、お祖父さんの考えもあって、お見合いをすることになった。 お見合いの相手は、浪華銀行の預金課課長代理で、29歳。 住吉酒造の株主である海運会社社長の 藤岡正太郎の次男・藤岡次郎さんである。 紆余曲折はあったけれど、次郎さんと会ってみて、とてもよい人で、「私はほっとしたわ」と優子さんは言っている。 お見合い結婚、親の決めた結婚、これは、なぜか「幸せにはなれないもの」と決めつけがないだろうか?と私は考えてしまう。 なぜなら、私はずっと以前に、いろいろな高齢者のかたから、結婚や人生について話を聞いたことがあったからである。 ちょっと前まで、第二次世界大戦のころまでは、お見合い結婚が主流だったようである。 たいていの高齢の婦人が「うちはお見合い結婚よ」と言ったときもあった。 そして、その結婚が幸せだった、という女性もたくさんいた。 「結婚してから恋愛したのよ」 「会ってみたら、とてもいい人で、やさしい人でね」 「結婚してから、子どもができて、趣味の話をしたり、仕事の話や家族の話をゆっくりしたりして、主人のことを大好きになったのよ」 こういうお話が多かった。 そのときは意外な気がしたけれども、生活環境がよく似たところに育って、両親からも祝福されて、仕事も人柄も「大丈夫」という男性とお見合いをして、それから、小さいながらも結婚式を挙げて…そういうお見合い結婚にも、幸せな夫婦

手漉和紙技術がユネスコ無形文化遺産に。

日本の、手漉き和紙の技術が、ユネスコの無形文化遺産に登録される見通しとなった。 このところ、数年続けて、時には一年に二回でも、ユネスコの遺産登録が行われるような気がする。 文化遺産、とか、無形遺産、とか、いろいろな遺産登録があるのだろう。 そして、日本のものが、登録されることも多くなったようで、うれしく思う。 日本ならではの文化を見直す、きっかけともなる。 改めて、「和紙」のことを考えてみる。 紙といえば、このところよく使っている紙は、いわゆるPPC用紙、と呼ばれるもので、つまり、コピー用紙だ。 ファクシミリにも、パソコンからの印刷にも使える、手軽な紙である。 紙といえば、本を選んだり、手帳を選んだりするときに、紙の色や手触りを気にするときがある。 小説の表紙の「ジャケ買い」のように、手触りのよいクリーム色の紙を使った本を手に取ることがある。 手帳の場合はもっと複雑で、万年筆で書いても裏に文字が透けない紙が、基準になったりする。 折り紙や千代紙の場合は、これは和紙の手触りが一番いい。 このごろでは、千代紙と名がついていても、日本製ではないものもあってなんだか物悲しいときもある。 和紙の生活からは、少し離れた現代生活を送っている。 一番身近な和紙というと、障子紙やお習字の半紙ではないかと思う。 それから、最近では、女性たちに人気の「かわいい」で、マスキングテープというのがある。 セロファンテープのような丸い形のもので、テープになっているのだが、これは手でちぎることができる。 和紙で出来ている。 若い女性からも、この和紙の感覚、紙ならではのニュアンスに惹かれて、とても人気があるのだという。 私も、セロファンテープを使っていたところを、すっかりこのマスキングテープに替えてしまった。 紙なので、いろいろな色や模様や、ときには言葉も書き込まれていて、とても楽しめる。 「紙」と言っただけで、こんなにいろいろな話題が出てくるし、こだわりやうんちくまで、たくさん語れそうだ。 今回、その技術が文化遺産登録となった「手漉き」がどういうものか、ちょっとだけ垣間見ることが、自宅でもできる。 なるほど、紙って、そうなっているの?と思うような、ちょっとした遊びである。 牛乳パックで作る葉書である。 牛乳パックを、きれいに洗って、水

イスラム国について考える。--イスラムの女性たち。

今年に入ってから、中東地域に、イスラム原理主義を政治的信念とする、イスラム国が作られた。 このイスラム国はまだ国際社会に承認されたものではないし、国境線も未だ曖昧で、政府も曖昧な状況である。 この国の政治的信条がとても危険であると考えられることから、イスラム国について、考えてみたい。 きょうは、イスラムの女性たちと、女性たちを取り巻く状況について、考えてみたいと思う。 イスラム女性たちの服装、頭から被っている布は、「ブルカ」「ヒジャブ」など、いくつかの名前があるようである。 ここではひとまとめにして「ブルカ」という名称で書いてみたいと思う。 形もさまざまで、名称もさまざまあるとはいえ、イスラム女性たちがこうした布を被っていることは、とても印象的である。 ひとつは、欧米やアジアとちがって、手首や足首、顔の大部分と髪を隠していることである。 もうひとつは、この布の色が、いろいろと場合によってもちがうようであるが、黒一色であることである。 こうした、黒一色の大きな布に身体のすべてと顔の半分を隠して、目だけ見えている状態は、私たち中東以外の人たちから見て、何か異様というか、奇異な印象もするものだ。 しかし、「奇怪さ」「違和感」というのは、文化・伝統のちがいだと認識することにも、私たちは慣れてきている。 世界にはさまざまな風習・風俗があるものだ。 この衣裳・ブルカ文化は、イスラム教の、女性への抑圧の象徴と捉えられている。 説明するまでもなく、誰が見ても、女性の姿を他者に見せないようにするため、と思われるが、女性の身体の活発な動きを封じ込めているようにも見える。 また、髪や肌を「大切だから」守っているというよりは、それらを、時には忌み嫌うように認識しているのではないか?と感じさせる。 少なくとも「開放的だ」という言い方とは、逆の印象である。 閉鎖的ではないか、男女不平等ではないか、と言われている、アジアや日本においても、髪や顔まで隠さない。 ところで、あの黒いブルカの下で、女性たちはどのような姿形をしているのだろうか? 興味を持ってはいけないほど、何か黒々とした壁を感じるが、私は、日本のあるテレビ番組で、その姿のいったんを、知る事ができた。 「潜入取材」的な番組であったが、日本の若い女性タレントが同伴していたので、その女性タレントだ

「ペコロスの母」と介護について。

介護をテーマとしたマンガ「ペコロスの母に会いに行く」が、話題になっている。 作者は岡野雄一さんで、作者自身が、実の母親が認知症になり、その介護をした体験をもとに、マンガを描いた。 介護は、社会のなかでとても大きな比重を占める問題となっている。 それは、個人においても、とても大きな比重を占めているだろう。 実の親の介護でもあるし、自分もいつか、介護を受ける側になる、という問題でもある。 また、認知症という病気に対する、畏れや不安もある。 自分が認知症になったらどうしよう、親が認知症になったらどうしよう?という不安である。 何しろ「わからない病気」「わからなくなる病気」なので、不安の増大感は半端ではない。 そうした、「わからなさ」からくる不安を、払いのけてくれるのが、マンガ化することではないか、と思われる。 最近では、うつ病をマンガ化したり、映画化したりすることもあって、知識と理解をさわりだけでも、知る事が出来る。 また体験した人の話をこうして知る事も、とても重要なことである。 「ペコロスの母に会いに行く」という題名は、ちょっと変わっている。 「ペコロス」というのは、玉ねぎの一種だそうである。 外国産の玉ねぎで、日本地元のものより、少し小さくて丸くまとまっているようだ。 老いて認知症になった母の姿は、まるで小さな玉ねぎのようだ、と愛情を込めてつけたあだ名である。 私も全編通してではないが、4コママンガなのであちこちで目にすることもあり、介護パンフレットなどにも載っているので、読んだことがある。 介護をする息子さんの葛藤や、お母さまの様子などが、あたたかい視点で描かれている。 介護ってこういうものなのかな、とほっとすることもある。 これは、やはり介護をする著者本人が、「お母さんの介護を、マンガのネタにしてしまおう」と思ったところで、客観視が出来ているのではないかと思う。 客観視してマンガ化して、たくさんの読者を持つことで、自分自身の葛藤を昇華しているのではないか、と思う。 実際に介護の現場にいる人々にとっては、この「客観視」と、「共通の思いを持つ読者がいる」状態こそが、必要なのではないだろうか。 そういった点で、著者の岡野さんは、「ペコロス」を描くことで、自分自身の課題を乗り越えることができた、幸運な人のひとりかもしれない

イスラム国について考える。--イスラム教。

このところ、世界情勢がとても緊張しているように思われる。 世界情勢が抱える課題はいくつかあり、緊急性を要するものもあれば、さまざまな角度から、長期的に解決をはかっていくべき問題もある。 私は、今回は、イスラム国について、考えてみたいと思う。 中東を取り巻く問題は、石油や歴史、地理的条件など、いくつかの要素から成り立っている。 そして、その大きな要素のひとつが、宗教である。 エルサレムは、三つの宗教の聖地となっている。 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教である。 これらの三つの宗教は、もともとの文化的な基礎が同じである、と私は思っている。 もっとも現地の人たち、それぞれの宗教を信仰する人たちにとっては、死活問題となるほどの、おおきなちがいなのだろう。 その「ちがい」ゆえに争っているようだ。 しかし、遠くアジアの仏教国から見てみれば、あるいは日本を何の宗教と見るかは見地の分かれるところであるにしても、少なくとも、キリスト教やイスラム教を文化的基礎としていないアジアから見ると、エルサレムを聖地とする宗教は、互いによく似通っている。 そうであるにも関わらず、互いの小さな差を見つけては攻撃しあう姿は、哀しくもあるし、理解できない、と首を振ってしまう状態である。 最近、そう今年になってから、急激な動きをもとに出来てきた国「イスラム国」は、イスラム原理主義の国である。 原理主義というのは、教祖の教えに帰ろう、という運動ではないかと思う。 キリストもモハメッドも、仏陀も、生存していたときから数千年の時が流れてしまった。 彼ら人類の教師の教えは、文字となって残っている場合もあれば、人づてに残っている場合もある。 どちらにしても、「誰か別の人の手」に渡っているにはちがいない。 キリスト教も、キリストが生きた時代には、教会も牧師もなかったはずである。 ただ、教祖キリストに教えを願うだけであった。 キリストが亡くなったあとに、教会が出来て、儀式ができた。 そして、現代になって、近代化が起こった時に、キリストのもともとの教えを、近代的に解釈しよう、という試みがなされた。 この解釈に、不服を申し立てる人たちが、「もう一度、始祖の教えに帰ろう」「本来の教えに戻ろう」としているのが、原理主義ではないかと思われる。 キリストの教えも、モハメッドの教

NHK「マッサン」第5週「内助の功」・「マッサン」に学ぶ夫婦仲。その2.

今週の「マッサン」は、テーマがその名も「内助の功」。 夫婦仲、というものに興味津々な私は、ドラマ「マッサン」から、ぜひとも仲良し夫婦の極意を学びたいと、真剣に見ては考えている。 きょう火曜日の「マッサン」は、やはり夫・政春の仕事が、壁にぶつかっている状況である。 住吉酒造の社内にも「敵」がいるし、大株主もまた、ウイスキー造りには反対の「敵」である。 これらの人物を説き伏せて、なんとか了承を得なければならない。 了承、といっても、お金の問題なので、これは本当にむずかしい。 人にものを頼むときというのは、男にとっても、女性にとっても、本当につらいことである。 時には頭を下げて、時には要求を呑んで、負けを認めて、そして頼みごとをする。 政春は、ウイスキー造りのための、資金集めからしなければならない状況である。 頭を下げている。 大株主、小株主、あちこちに土下座までしている。 土下座というと、昨年、話題になったTBSドラマで「半沢直樹」というのがあった。 本当に男の人は、土下座をするものなのだろうか? そこまでするのだろうか? それとも、これが最終手段なのだろうか? 一般の会社でこうしたことが行われているのだろうか? それで本当に、相手は頼みごとを受け入れてくれるのだろうか? このあたり、「男のサクセスストーリー」として、ちょっと疑問に思うところである。 「頼みごと」というのは、営業でもあるし、プレゼンテーションでもあるだろう。 ある意味で、頭を下げれば了承してもらえるならば、そんな楽なことはないんじゃないか、とも思う。 相手に、納得してもらうこと、あるいは相手にも同じ気持ちになってもらうこと、「自分もウイスキー造りに参加したい」「それは面白そうだ」「やってみたい」「成功してもしなくても、挑戦し甲斐がある」と思わせることも、男の仕事の手腕であるように思われる。 手土産やもてなしもそうであろうし、私はなによりも、仕事の内容やお金の使い道を、よく説明することが、大事であるように思う。 ウイスキーを「おいしい」と思ってもらうことも、とても大切だと思う。 政春はどうするのだろう? 次にエリーである。 エリーは、目の前で夫の土下座を見て、どうだったのかなぁ?と思う。 もし私だったら、夫がそこまで人に頭を下げているのを見たら、

赤瀬川原平さんとトマソン。

先日、赤瀬川原平さんが亡くなった。 作家で芸術家、と言われてもピンと来ないが、「トマソンの」と言われると「あぁ」と思う。 私は芸術とか美術にはそんなに詳しいほうではないのかもしれない。 イタリア・ルネッサンスの絵画なら、好きな絵はいくらでもあるのだが、現代芸術、それも前衛芸術というと、さっぱりわからない。 名前と作品が一致しないのは、やはりあまり好まないからかもしれない。 特に「前衛」と呼ばれるものは、文学であっても、あまり好みではない。 それでも、シュールレアリズムというのには、いっとき興味があって、いろいろ見聞したものだが、友人もうなずいていたのだが、シュールレアリズムが好きな時期、というのは、はしかのようなものであって、いっときは熱に浮かされたようになるが、その後、パタリと止んでしまうような「好き」なのだそうである。 「トマソン」は、その友人が「トマソン写真集」を持っていたので、見せてもらった憶えがある。 トマソンというのは、誰かプロ野球選手の印象からとった、いわば「あだ名」のようなものであるが、「無用の用」に近いような意味だったと思う。 階段があって、その階段を昇った先に、ドアがない。 二階建ての白壁に、ぴったりと階段がくっついているだけであって、昇ったとしても、二階の部屋に入れないのである。 こうした建物は、前衛美術として造形したものではなく、一般家屋に存在する。 なぜこうした建物ができるか、というと、古い建物を改築したり、増築やリフォームをしたりする際に、二階の壁はふさいだのだが、階段を取り外すのは、費用がかかるからやめにした、そのままにしておいた、というような理由であるらしい。 こうした、何か不自然な建物が、日本だけではなく世界中の都市や町々に点在していて、それを見つけては写真を撮って、芸術としているのだそうだ。 旅行先で「トマソン」を見つけるのが趣味、という人もいるのだそうである。 「トマソン写真集」を見たとき、とても面白かったので、笑ってしまった。 芸術を味わう態度ではないのかもしれないが、とても面白かった感覚が残っている。 「お笑い文化」が、日本でも盛んである。 「面白い」と感じるのは、常識を逸脱した何かを感じるからだ。 常識をはずれたときの「はずれ具合」の面白さは、常識を知っているからこそ、得

読書週間始まる。

今年も読書週間が始まった。 10月27日から11月9日までだそうで、毎年11月3日の文化の日を中心とした二週間を、読書週間に充てているのだそうである。 今年の標語は「めくる めぐる 本の世界」となっている。 このキャンペーンの発足のきっかけやキャンペーンの内容を、ホームページで見ていると、読書週間には、新しい時代の、何か新しい目的観や手法が必要なような気持ちがする。 というのは、読書週間の始まりは、終戦後間もない昭和22年で、本、出版物への、要望や必要性がとても高かったころだ、ということだからである。 その時期に、出版社や公共図書館などが集まって、「読書の力によって、平和な文化国家を作ろう」と運動が始まったのだそうである。 昭和20年代には、戦後間もない、ということもあって、本というよりも、情報への希求が強かったのではないだろうか。 それも、海外の文化や、外国の情報、外からの情報である。 本や活字が定着してから、写真、映像(動画)、テレビや映画の情報が、媒体として普及し始める。 写真や映像以前というと、活字への要望というより、「欲求」に近いものが、強く強く存在したのではないか、と思われる。 それは、活字媒体への欲求であって、よくよく突き詰めてみれば、情報への欲求だったのではないだろうか。 現代社会では、インターネットが加速度的に普及している。 ファクシミリの普及でもそうだったのだが、文字や活字だけではなく、絵や写真が、とても手軽に送れるようになった。 ツイッターやフェイスブックでもわかるとおり、デジタルカメラはとても発展して、手軽に使えるようになった。 フェイスブックの記事では、文字の数はとても少なくても、写真が主だった伝達手段として使われることが多いようである。 また、ツイッターを見ていてもわかるとおり、イラストやマンガを描ける人が、とても多くなったように思う。 サインペンやボールペンで、手帳に「アイコン」的なイラストを記入している人も多いようだ。 また、手帳の余白に、絵画的なアイディアを書き留める人も多いようである。 私自身は、自分で自信を持って言えるほど、「活字派」である。 デジタルカメラも持っているし、簡単なイラストならがんばれば描くこともできるが、「言葉か?絵画か?」と問われれば、即答で「言葉です」と答えると

最近のファッション業界について思う。

ファッション業界では、秋冬物も本番となった。 北風が冷たくなるより前に、ショーウインドウが、冬景色になる。 海外では、ハロウィーンセールより前に、すでに秋から、クリスマスムード一色であるようだ。 ワールドワイドウエブの時代になってから、私もときどき、海外のショッピングサイトをのぞいてみることがある。 クレジットカードで購入することができるのだが、なかなか海外サイトでドルで買う、というのも勇気がいるので、まだ試したことはない。 日本のファッションでは、以前にも増して、「長く大切に着られる服」が流行しているように思う。 「長く大切に着られる」というのは、コンセプトであるから、そういったコンセプトが流行している、ということであって、最新流行のものを常に追い求めよう、といったことではない。 「長く大切に着る」ために、たとえば、繕い物をしよう、とか、あるいは、リサイクルで中古品を購入しておしゃれに着よう、という動きもある。 また、リメイクも流行していて、古着で購入したものに、アップリケや刺繍をしたり、ビーズを付けたりして、自分なりにデザインを変化させる。 こうしたことも、ファッションとしては楽しめる。 今、とても勢いがあって、インターネットでも話題になっているのが、ファーストリテイングのユニクロである。 ユニクロ、といえば、誰もが一度は手にしたことがあるのではないだろうか。 また、クロゼットに一枚はTシャツが入っているのではないかと思う。 ユニクロの服は、とても安価である。 しかし、「安かろう悪かろう」ではないところが、ユニクロファンの心をとらえて離さないところではないだろうか。 布地の手触りもとてもいいし、縫製も丁寧である。 お店に行けば、サービスもとてもいいし、店内の様子も、色とりどりで、とてもきれいでわかりやすい。 店内がわかりやすい、というのは、清潔感、というところにも通じてくる。 私もときどき、週末金曜日には必ず折り込みチラシが入るので、チェックして、ちょっと見にでかけてくる。 私がこのごろ、あるサイトで見かけた、ユニクロの、「衣服」に関する「思い」というのは、とても気になるところであって、今でもユニクロの店内に入るとそれを思い出す。 それは、衣服、特に夏のTシャツなどは、たくさん着て、ワンシーズンで着終えるものだ、

NHK「マッサン」第5週「内助の功」・「マッサン」に学ぶ夫婦仲。

楽しみな朝ドラ「マッサン」。 「マッサン」の政春とエリーの姿から、夫婦仲を学んでみたいと思っている。 今週は「内助の功」という題名である。 夫婦仲を学ぶにあたって、とても楽しみなのはやはり「内助の功とはなにか」という難題である。 「内助の功」という言葉は聞いたことはあるが、その内容というと、いまだに誰も解説できないのではないだろうか。 きょう、月曜日の放送でも、エリーは「自分にできること」「自分にしかできないこと」に関して、とても悩んで考えていた。 エリーはどんな「内助の功」を見つけ出すのだろうか。 これからの放送が楽しみである。 もしも、「内助の功」に明確な定義が定まるなら、そしてその定義が、外で働く一人前のお給料に匹敵するのなら、それは主婦業の仕事として、社会の中で認められることになる。 とても残念なことに、今の社会では、欧米でも日本でも、「内助の功」はあって当たり前のものであって、一人前の働きとはみなされない。 そのために、さまざまな女性に関わる問題が起こっているように思われる。 たとえば、家事や育児に関わる仕事がとても大変である、という主婦の声は、経済的な見地からは認められない。 家事も育児も外での仕事も、やって当たり前、となる。 こうしたところから、女性への偏見や男女平等とは言いかねる状況も生まれているのかもしれない。 ところで、エリーの内助の功、というと、一番先に思いつくのは、やはり、政春が仕事で疲れて家に帰った時に、「好きな女性がいる」ということである。 好きで一緒になった仲なので、家に帰ったら、世界で一番大好きな女性が、政春に買ってもらった可愛らしいお洋服を着て、髪もきれいに整えて、笑顔で「おかえりなさい」と言ってもらったら、それだけで、いっぺんに疲れも吹き飛ぶ。 女性や妻の役割が「癒し」だけだとすると、そんなことを言ったら叱られてしまいそうだ。 しかし、家に帰ったら、「鬼」が待っているとすると、こんな恐ろしいことはない。 夫が、仕事ががんばれるように下支えをするのが、妻の仕事だとするなら、やはり自宅では、笑顔で可愛らしく迎えるのが、仕事の一番の支えになるように思う。 また、エリーはすでに始めているが、女性は女性同志のコミュニティを作ることは、とても大事だと思う。 女性が集まって井戸端会議、お茶のみ話

NHK「マッサン」第4週「破れ鍋に綴じ蓋」・「マッサン」に学ぶ夫婦仲。

NHKで10月から始まった、朝の連続テレビ小説「マッサン」も、早や4週となった。 今回のドラマ「マッサン」で、一大テーマとなっているのは、夫婦仲である。 国際結婚という、大恋愛あっての結婚であることは一目瞭然の仲であるし、主題歌「麦の唄」も、夫婦仲を唄っている。 「夫婦仲」というよりも、「夫婦大恋愛」というようなかんじである。 前回のドラマ「花子とアン」では、教育を受けた女性の一生を思った。 また、「花子とアン」スピンオフドラマでは、「好き合った者同志でも、うまくいかないことがある」という大問題について、「本当にそうなのか?」と疑問に思った。 それで、なかなか手をつけられずにいた、というか、なかなかそうはうまく行かないんじゃないか、と思われた「夫婦仲」について、ドラマを見て学ぶ、という形で、少し書いてみようと思う。 第4週「破れ鍋に綴じ蓋」では、いよいよ政春とエリーの新婚生活が始まっている。 これは、もしかしたら結婚生活の経験がある人には、「あるある」「よくある」ということかもしれないが、政春とエリーの、「すれちがい」について、よく描かれているように思う。 夫の政春は、外で仕事をしてきて、仕事の内容によっては、落ち込んで帰ってくるときもあるし、考え事をしているときもある。 何か自宅に忘れ物をして帰ってきたり、必要な本を取りに戻ってきたりもする。 あるいは、仕事でとてもエキサイティングなことがあって、少し興奮気味で帰ってきたりもする。 一方で、家で待つ妻のエリーとしては、妻には妻の生活があり、人間関係があって、夫が家に帰ってきたら、一番で話したい、相談したいことがある。 また、結婚の目的というと、一緒にいること、一緒に話すこと、ではないかとエリーは思うので、「もっと話しましょうよ」「何かあったら相談して決めましょうよ」という態度である。 これは、国際結婚であろうと、日本人同志の結婚であろうと、妻の気持ちはあまり変わらないのかもしれない。 妻の気持ちであり、結婚に対する態度であり、結婚に対する期待でもある。 毎日、会って顔を合わせて、お話をしましょうよ、ということである。 でも、夫のほうはそうではないように思えてくる。 外で仕事をして、家では、ご飯を食べて、くつろぐ、ということであるようだ。 そして、妻に求めるものは、く

竹取物語・かぐや姫の伝説。

日本にも、古来からの童話がある。 「日本にも」というと、なんだか妙なかんじではあるが、現代の世の中は、ディズニーランドにしても、人々の衣裳にしても、西洋風になってきて、「お姫様」というと、白雪姫であるとか、眠り姫、なかには「雪の女王」というのもある。 また、童話というと、やはり西洋の童話が読まれているようで、グリム童話、アンデルセンの童話が人気であるばかりか、子どもたちからも支持率が高いようである。 日本の童話にも、「かぐや姫」という美しい伝説のお姫様がいる。 そのかぐや姫がなかなか、子どもたちの間で広がらないのは、そのわかりずらさにあるのかな、と思う。 また、古来から、童話や伝説には、さまざまな意味、解釈、注釈がつけられていて、海外から入ってきたものよりも、地元・日本のものであるほうが、なんとなくリアリティがあったり、深読みしてしまったりする。 意味・解釈を知ってしまうと、そのファンタジーに浸りずらい。 また、着物や建物、動植物が、身近に知っているものだと、これもファンタジックな幻想をさまたげてしまうようである。 たとえば、「竹林」である。 あるいは、黒い長い髪を結う、とか、あるいは日本の帝、というのも、京都あたりでおしろいに黒ポチの眉を描いていそうで、なんだかどうもロマンチックではない。 注釈としては、かぐや姫が、最後に月に昇っていったあたりなどは、育ててくれたおじいさん、おばあさんに対して何の恩返しもない、という声もあるし、またたくさんの求婚者に、この世にありもしないようなプレゼントを要求したのも、とてもわがままである、という感想もある。 なぜ、かぐや姫は、たくさんの男性たちの求婚に応じなかったのだろう? なぜ、あれほどまで人の心を集めた美しさを持ちながら、もっともっと、この世のよいものを得ようとしなかったのだろう? なぜ、最終的には誰とも結婚しないで、月へ帰ってしまったのだろう? 非常に謎が深い。 シンデレラ姫は、お城に昇って王子様と結婚してハッピーエンドである。 白雪姫も、意地悪な継母からいじめられはするが、王子様に助けられて結婚してハッピーエンドである。 眠り姫も、魔法使いに呪いにかけられてしまうが、やはり王子様が助けに来てくれて、結婚してハッピーエンドとなる。 それなのに、それなのに、日本のかぐや姫は、誰と

NHK「花子とアン」スピンオフ・番外編「朝市の嫁さん」感想。

先日18日、NHKBS3で、「花子とアン」のスピンオフスペシャルが放送された。 内容は、朝市のお嫁さんになった、ちづ江さんの物語である。 朝市は、花子の幼なじみである。 ずっと花子のことが好きだったが、結婚はできなかった。 なぜか。 その「なぜ」が、このスピンオフスペシャルドラマで描かれている。 まず第一に、朝市は、花子に告白ができなかった。 勇気がなかったのではなくて、結婚する気がなかったのである。 次に、ライバルが現れた。 村岡印刷の村岡英治である。 花子は英治に心ひかれた。 心ひかれた理由は、英治が花子に、英語の辞書を贈ったことにある。 女の子はプレゼントに弱い。 朝市は、花子に何のプレゼントもしていない。 ただただ、やさしく見守っていただけである。 それは、「好き」という気持ちを、行動に表していない、ということなのである。 次に、ちづ江は、朝市に好意を持つが、この好意は、出会ってから、ちづ江のほうから、おにぎりを持ってきた、ということなのである。 朝市のほうが好きになって、アプローチしたわけではない。 朝市はそれほど、恋愛に対して臆病なのである。 しかし、朝市にもよいところはないわけではない。 それは、花子の気持ちに敏感だ、という点である。 花子が本当は誰を好きなのか、すぐにわかってしまった。 つまり、花子が自分に好意がないことを知っていたから、告らなかったのである。 それに、私は思う、このスピンオフスペシャルドラマは、「花子とアン」の総まとめのようなものであったり、後日談であったりするが、それほど盛り上がった筋書きはなかった。 平凡な造りであったと思う。 しかし、宇田川満代が、喫茶店で、くだを巻いたシーンは圧巻であった。 女流作家はこうあるべき、という原点を見たような気がする。 他人の恋愛にくちばしをはさんで、かき回していた。 もうすぐ結婚が近い、ちづ江の心を翻弄して楽しんでいた宇田川満代は、面白かった。 特に、頭につけた鶴の飾りが、ずり落ちていたので、大笑いしてしまった。 その宇田川満代も、恋に落ちた。 恋愛をして、結婚をして、それから離婚をした。 離婚したダンナ、元亭主が出てきて、追いかけっこをしていた。 そのダンナは、満代を愛していた、と言っていた。 そのセリフ回しが印象的だ

国産旅客機MRJについて。

日本でも、国産旅客機の製造・販売が本格化するという。 というと、ちょっと驚くような感もある。 「じゃあ、これまで航空機は日本製じゃなかったの?」と、反響が届きそうだ。 私もあまりよく考えたことはなかったが、これまで、日本の航空会社はあっても、そこで使用している旅客機それ自体は、日本製ではなかったようである。 たまに聞く名前であるが「ボーイング社」という社名がある。 日本航空とか全日空とか、そういった航空会社は、アメリカのボーイング社から、飛行機の機体を購入していたのである。 そう言われてみれば、「ボーイング767」とか、「ボーイング787」とか、機体の名前には「ボーイング」の名前が着いていた。 この旅客機、一機でいくらくらいするのだろう? たぶん、おそらくは、億単位である。 その旅客機をアメリカの会社から何百機も購入していたのだから、飛行機だけで輸入総額が、かなりの額に達していたのだと思われる。 もちろん、開発にも製造にも、工場を始め、機械の専門家など、たくさんのコストがかかるだろう。 それなので、これまで日本では手を付けていなかった分野なのかもしれない。 しかし日本は、自動車の製造・販売では、トップレベルである。 特に、日本人らしい器用さと繊細さ、機械に対して精密な態度は、とてもよい車を製造できる基盤として、胸を張ることができるものだと思われる。 「ものづくり」という、日本人特有の性質が、最大限に活かされる産業であると思う。 一機の飛行機には、300万個もの部品が使われている、という話である。 これらの受注に、日本中の工場や作業所も稼働することだろう。 何よりも、航空機輸入国から、航空機輸出国になれるのは、とてもいいことだと思う。 これまでの受注予約だと、アジア各国が多いようである。 アジア諸国に貢献できる、という見方もあるだろう。 公開された三菱のMRJという飛行機を見ると、割合に小型で小回りが利くタイプのようである。 これからの、アジアの交通航空に、たくさんの使命を果たすだろうと思われる。 三菱は重工分野で、ロケットやさまざまな種類の飛行機を作っているようなので、宇宙航空分野にも発展が期待できそうである。 空を飛ぶ夢は、たくさん見たほうがいい。 大きな海を越えるのは、大きな空の夢なのである。

道徳教育の教科格上げについて。

先日、文部科学省の中央教育審議会で、小中学校の「道徳」の科目の、教科格上げが答申された。 答申、ということなので、まだ法案として提出もされていないし、可決されてもいないようだ。 決まっていないことに賛成も反対もないものだが、文部科学省で、子どもたちの教育について、検討が始まった項目ということで、注目したいものだと思う。 意見があるなら、今からでも、パブリックコメントなど自由に参加できる範囲にあると思う。 「道徳」は、学校で習った、道徳の時間というのは確かにあった、と記憶に残る人も多いと思う。 私もその一人である。 しかし今回の「教科に格上げ」というのはどういうことか。 これまでは、国語、算数、理科、社会、というようなレベルで教えていたものではなく、これからは、同じレベルで力を入れて教える、という意味かと思う。 また、「道徳」に成績表はなかったものが、これからは成績をつける、という意味かと思う。 つまりは、学校でもっと力を入れて教育したい、という意味ではないかと思う。 日本社会のいわゆる、倫理道徳の「乱れ」というのは、とても問題になってきている。 学校ではいじめが起こり、社会では、目を覆いたくなるような事件や事故が起こっている。 日常生活でも、ちょっとした道路でも電車のなかでも、道徳とまではいかないとしても、礼儀作法、エチケットの混乱ははなはだしいように思う。 割合に小さいところでは、道路への煙草がらのポイ捨て、割合に大きいところでは、親孝行や犯罪防止、こういったところで、義務教育でなんとか教えられないか、という要望は大きいのではないかと思う。 また、道徳教育というと、とても範囲が広くて、人としてのあるべき姿とか、性格や性質の教育、という意味も含まれるように思う。 つまり、学科の勉強を知識として覚えるだけではなく、人として成長する、大人の人格へと育てる、という意味もありそうだ。 それは、「詰め込み」「ゆとり」等々と、知識に偏った教育から、なんらかの脱皮をはかったもの、と思われる。 こうした意味で、とても幅の広い目的があるように思う。 ただ、目的がはっきりしているので、これに関してのアプローチ方法を模索している段階ではないだろうか。 次に、道徳を、学校教育の教科として格上げすることに関しての、問題点であるが、これは、どん

忘れられる権利・インターネット削除命令について。

このところ、「忘れられる権利」が、話題になっている。 「忘れられる権利」とは、ネーミングが面白い。 人間としては、全体に、「覚えてほしい」「忘れてほしくない」という願望を持つものである。 自分の名前や存在価値を、覚えていてほしい、忘れないでほしい、と願うものである。 それが、「忘れられる権利」とは、どういうことだろう? よく調べてみれば、これはインターネットの中のことである。 インターネットは人間の頭や記憶力とはちがい、機械を駆使しているからか、情報がいつまでも鮮明に残っている。 この、残っている情報を、人間の頭のようにしだいに薄れて消えていくようにしてほしい、という願いなのである。 私は常々思っている。 インターネットの世界は、匿名性が高いとはいえ、やはり人間が作り出した社会である。 人間関係調整力というのは、現実の世界においても、インターネットの世界においても、大差なく働くものであるらしい。 現実の世界でうまくやっていけない人は、インターネットの世界でも、やはりうまくやっていけないようだ。 好かれる、信頼される、友情が生まれる、一緒に仕事をしたいと思う、一緒にいたいと思う、話し合いや意見の交換をしたいと思う、こういう人はインターネットの世界にもいて、そこに生まれる「情」というのは、現実の世界と、変わりはないように思える。 一方で、嫌われる、不信感を持たれる、疎外される、できれば一緒に仕事をしたくない、一緒にいたくない、コメント交換をしたくない、こういう思いを抱かせる人もいる。 それは、リアルの世界でも、インターネットの世界でも同じであるように、私は思う。 以前の「ムラ社会」では、地域で何十年も構成員の入れ替わりがなかった。 ムラのおじいさん、おばあさんがいて、何代も前からの話まで語り部として、伝わっていたものだ。 そして、おしゃべりな情報通のおばさまがいて、そのかたが、「あの人は以前、やんちゃ仲間とバイクに乗っていた」というような話を、何年たってもするのである。 つまり、ムラ社会において、「忘れられる権利」は、全然ないといっていい。 これは、過去を忘れてほしい、どんなやんちゃな時代があったとしても、どんな妙な噂がたったとしても、その噂を消して、一から人生をやりなおしたい、と思う人にとっては、とても過酷な事態である。

NHK「マッサン」第4週「破れ鍋に綴じ蓋」感想。

マッサン、ヘッドハンティングに遭う。 今週も、「マッサン」には、朝からたくさん笑顔をもらった。 とても楽しい一週間だった。 とはいっても、政春本人にとっては、仕事上の一大事件が起こる。 出始めていたワインの瓶が割れる、という事件が起こるのである。 ワインの瓶が割れるのは、たとえばコーラの瓶を振ったときに、炭酸が膨張してバンとなるのと、理屈は同じである。 ワインのなかで発酵が起こって、夏の暑さで、炭酸ガスが膨張したのだと思われる。 当時としては、瓶の製造も始まったばかりである。 政春は、この原因を突き止め、自分が勤務する住吉酒造で作ったワインは、残留発行物がないことを立証する。 つまり、住吉酒造のワインは、爆発はしていないのである。 しかし、商売の世界は厳しいもので、どこの会社のものであれ、ワインの消費は低迷してしまう。 イメージが悪くなってしまったのだ。 それで、住吉酒造は、経営難に陥る。 たくさんのワインの箱が、返品されてくるシーンは、物悲しいものだ。 経営難で取る手段はいろいろあるが、女性たちにとっては、住吉酒造の社長の一人娘が、銀行関連にお嫁に行って、たくさんの融資を受けることである。 社長は、金策に走り回っている。 政春は、自社のワインの安全性の立証を実験で証明して、取引先の鴨居商店の鴨居社長と、袢纏を着て、頭を下げて走り回る。 夫がこうした状況にあるときの、家で待っている主婦であるエリー。 夫が帰宅したときの表情もさまざまであるが、家で待っているエリーとの会話の「合わないようで合っている」は、まさに今週のテーマ「破れ鍋に綴じ蓋」である。 破れているのは、政春の仕事であろうか、破天荒な鴨居社長であろうか。 綴じているのは、エリーの家事専念であろうか、優子の日本女性の生き方であろうか。 こうした状況のなかで、政春は、サントリーの鴨居社長の「やりかた」に魅せられていくようだ。 確かに、カモキンさんは、奇想天外な、いろいろ面白いことをしている。 それに、何よりもボスとして、魅力的である。 あんなボスのもとで働いてみたい、と仕事に情熱を燃やす男なら、誰もが熱望するのではないだろうか。 しかも状況として、今いる住吉酒造は、経営難である。 鴨居商店なら羽振りがいい。 そうしたタイミングでの、ヘッドハンティン

マタニティー・ハラスメント裁判の判決について。

一昨日23日に、いわゆる「マタニティー・ハラスメント裁判」の最高裁判決が出された。 妊娠や出産を理由にした職場での降格は「違法」とした。 つまり、世間にはマタニティー・ハラスメントというものが存在し、妊婦の権利が認められるということである。 妊婦が勝った、ということである。 この最高裁判決は、これからの、女性が社会にもっともっと進出することにあたって、とても大きな意義を持つものとなりそうだ。 私も、女性として、妊娠・出産は病気ではない、ということを子どものころからよく教えられてきた。 そして、男女平等であるかぎり、男女はどんな仕事も同じ条件で働ける、という権利があることを教えられてきた。 それは、男性も女性も、同じ条件のなかで、しっかり責任を持って仕事をするべき、という力強い意味合いにもなる。 同時に、女性には女性の特有のライフイベントがあることを男女ともに、互いに理解しあって、主に仕事にあたって、ライフイベントや身体の仕組みのちがいが、ハンディとならないようにするべきなのだろう。 少なくとも、単一な平等ではなく、「ちがいを認め合う」文化が生まれつつある、ということだろうか。 これは、大事なことである。 私も、女性には、妊娠・出産があっても、仕事でそれがハンディとならないような配慮が、社会にあったほうがよい、とかねてから思ってきた。 しかし、マタニティー・ハラスメントに対する、周囲の考え、感想の本音というものを、妊婦さんにも知っていてほしい、と思うので、あえてその本音を書いてみたい。 職場の上司からしたら、同僚から見ても、ある一女性社員から「妊娠しました」と告げられるのは、「この忙しいのに、君は男とイチャイチャしていたのかよ!」という、気持ちである。 そして、「妊娠を理由に、仕事を軽い部署に替えてほしい」と言われたら「みんな大変なのに、君だけ楽をする気かよ!」と思う。 「みんな寝ないで仕事していて、生活だって楽じゃないんだ!」と叫びだしたくなる。 そして、同僚みんなでシフトを組みなおして、彼女のフォローをし、これまで通りの業務に支障が出ないように調整しなおす。 彼女に関しては、軽い部署に着けてもらった以上は、一人前の仕事はこなせない、ということなのだから、これまで主任の責任を引き受けてもらっていたけれども、一社員に降格してもら

日本のメディアの未来について。

アメリカのメディア人で、世界でも名だたる名編集主幹、ベン・ブラッドリー氏が亡くなった。 アメリカのメディアの一時代を築き、ワシントン・ポストの基盤を築いた人である。 一地方紙であったワシントン・ポストを、全国有数の新聞へと拓いた人であるが、その新聞が、世界のメディアの中心となっているのだから、やはり本当に素晴らしいことだ。 ひるがえって、今の日本のメディアはどうだろう? 日本で一、二、を争う新聞メディアはあるが、そのメディアが、世界で一、二、を争うとは、一度も聞いたことがない。 世界情勢を聞くなら、海外であってもアジアであっても、あの新聞社に聞け、あの新聞を読め、というような新聞は、アメリカのものであったとしても、日本のものではない。 今、政府は、経済を初めとして、起業や大学教育、鉄道や航空機、女性の進化度合いに至るまで、世界レベルに押し上げようと、さまざまな苦肉の策を弄している。 苦肉の策ではあるとしても、世論が盛り上がり、女性たちが声を上げはじめていることにはまちがいないのだから、政策というのはたいしたものだ。 しかし、日本のメディアを、グローバルにする、という政策は聞いたことがない。 日本のメディア人がピュリッツアー賞を取れるほど、すごい業績を残したということも聞いたことがない。 日本政府としては、せめて黒い政策でも作って、メディア人が世界を揺るがすような、すごいスクープを取れるようにしてあげる、ということぐらいだろうか。 時代は、女性記者と若手記者のせめぎ合いのようである。 さまざまな力ある文章が出てきて素晴らしい。 特に、女性記者が「女性ならではの観点」を持とうとすると、このところようやくわかってきたが、ママさん記者さんたちの要望は、「食の安全」ということらしい。 女性たちが、その内心の不安感を取り巻く社会に投影して、得体のしれない不安感に押し包まれているのが、環境問題への不安として表れているようだ。 しかし、女性たちの環境問題への不安、食の安全への要望が、現実的でないこと、話題にはならないことは、男性陣は誰もが知っている。 要するに、現実的ではないのである。 優先順位一位なのは、人間である。 いまだ、戦火のなかにいる「人間」、未だ食べるものも住む場所もない「人間」が目の前にいるのに、どこかの海が汚れているとか食品添

エボラ出血熱をめぐる国際連携について。

西アフリカで、エボラ出血熱の感染が止まらない状況である。 そして、グローバル化した現代社会を証明すべく、この感染が、世界中に広がっている。 3か月前には、800人だった罹患者が、この10月ではすでに4500人に上っている。 以前から予測されていた危機が、高まっている状況である。 世界には今、「世界的な課題」が山積している。 以前から山積していたものであるかもしれないが、今という今に、今年という今年に、集約して、世界中の良心ある人々の心と頭を悩ませている。 イスラム国の問題もそうであるし、世界経済の問題もそうである。 香港ではデモが高まっているし、ウクライナの問題もある。 ウクライナの問題も、イスラム国の問題も、国際協力なしでは解決しえない、大きな課題である。 人類は今、世界的課題に直面している、と言ってもいいと思う。 過日、さまざまな調べ物をしていたら、こうした課題の専門家の言を目にすることができた。 それは、「グローバルなガバナンスの必要性」ということである。 ガバナンスとは、政治、という意味だと解釈していいだろうと思う。 ガバメントすなわち、国際政府、とまではいかないとしても、国際政治、国際政治力、ということが必要だ、という意味である。 本当にそう思った。 今、世界中の首脳陣が、かつてないほどに、あちこちに集まっている。 今週もAPECが開かれているし、来月には、北京でやはりAPECが開かれ、各国首脳の会談も予定されている。 TPPをめぐる協議も、次々に連携して行われている。 こうした動きは、国際的ガバナンスになって集まっていくように、私には感じられる。 また、エボラ出血熱に関しては、アメリカが治療施設の建設のために、数千人規模の軍隊をアフリカに派遣する、という話が出ている。 そして、日本からもこのアメリカ軍に連携して、自衛隊が出動する、という話も聞いた。 まだ決定ではないのかもしれないが、とても重要なことである。 それも、防疫のための出動であるならば、集団的自衛権の行使うんぬんは関係ない。 人道的活動のために、自衛隊を派遣できるならば、とてもよいことだと思う。 念を押して考えておきたいのは、派遣されるのは専門の訓練を受けた人たちである、ということである。 また、現地ではどうしても、人数が足りないという

女性閣僚のダブル辞任について。

昨日、10月20日、女性閣僚のふたりが辞任をした。 いずれも、9月の内閣改造で就任した、新内閣人事のポイントと呼べるほどの、大事な閣僚であった。 そのふたりが、ふたりとも女性であったことは、今回の「閣僚おろし」「閣僚たたき」の方向性が、女性へ女性へと向いていたことを意味していて、本当にいろいろな意味で、考えさせられる。 ひとつは、「女性が活躍できる時代に」ということで、秋の臨時国会でのテーマも地方創生と並んでとても大きな問題提起となっていたことである。 これは、日本全国の女性たちにとって、チャンスであったはずである。 これまで、いまだかつて、「女性」にスポットライトが当たって、彼女たちの活躍を支援する体制が、国会の討議で行われることはなかった。 このチャンスのときに、政府としては、女性閣僚を起用して、この討議にあたろうとしたのに、これを活かせなかったことは、とても残念である。 これは、とても政治という男性社会の厳しさを意味するのかもしれない。 しかし、日本の男性陣に、女性に親切に、女性に対して寛容に、という態度がなかったことはとても象徴的なことである。 日本にはまだまだ、女性の社会活動を支援するための、男性側の意識という基盤が造られていないのだ、と実感する。 一方で、たとえば、松島元法相のいわゆる「うちわ問題」を鋭く追及したのが、野党、ということだが、議員で、というと、同じ女性である、蓮舫議員である、ということが、気にかかっている。 というのは、せっかくの国会であり、せっかくの「女性の活躍」をテーマとした討論会であったのに、なぜ蓮舫さんは、女性の政策について、闊達な意見交換をしなかったのか、ということなのである。 政治資金の使い道は確かに、男性議員にとっても、追及したり、失墜させたりするための手法であるにはちがいない。 しかし国会で、女性同士が女性のテーマをめぐって討論すべき場所で、「うちわ」を問題にしたのは、残念というよりも、何か滑稽でさえあった。 女性というのは、結局は、ふたを開けてみれば、「こんなこと」しかできないものなのだろうか? これでは、国会議員からではなくても、全国の男性陣から、笑いものである。 国会の女性議員の皆さまは、日本女性の模範というか、代表として、国会の討論の場で、堂々と討論をしてほしかった。 同じ

NHK「マッサン」感想。マッサン・男前の魅力。

NHKの朝ドラ「マッサン」が、大人気である。 放送も4週目にはいった。 私にも、この「マッサン」という「男」の、大全開な魅力が見えてきたので、とても楽しくなってきた。 マッサンこと亀山政春は、とても反骨精神の強い男なのである。 私は、「酒造り」という仕事が最初よくわからなかった。 でも、だんだんわかってきた。 それは、農業とはちがう。 農作物ができあがったところから、次の生産加工物を作る。 でも工業ともちがう。 酵母を使って醸造させるから、生きている産物である。 それを時間をかけて、何十年もときには何百年もかけて、熟成して育て上げる仕事である。 政春の実家はもともと、日本酒の造り酒屋である。 これは、代々続く、何百年もの旧家なのだろう、と思われる。 その家も仕事も、長男が跡継ぎをすることに決まっているのだろう。 エリーがいたら「どうして?」と問われそうであるが、日本の後継ぎというのは、長男が総領と決まっているのである。 それなので、次男に生まれた政春には、生まれたときから、長男にはどうしてもかなわない、という強い劣等感と、うちひしがれたかんじ、があるかもしれない。 それで、大阪の住吉酒造で働くことになる。 このあたりは、ドラマのなかでも描かれているが、婿養子に入るような話であった、ということである。 酒造りの家の次男が、酒会社の婿養子なので、自然と言えば自然の成り行きである。 そこで逆らったのが、政春の反骨精神であるように思われる。 留学先のスコットランドから、国際結婚のお嫁さんを連れてきたのだ。 もともと、この留学も、「次男だから」という理由が大きいように思われる。 「花子とアン」でも、村岡印刷のご長男が日本で父親と一緒に大きな会社を運営しているときに、次男はロンドンに新しい印刷技術を学びに留学に行っている。 この時代には、こうして、外国から新しい技術を学び取り入れることがさかんだったのかもしれない。 そうしたときに、長男と次男の役割が分かれるのは、あちらでもこちらでも同じ形態だったようだ。 そうして、スコットランドに留学に行かされた次男・政春は、そこで現地の女性エリーと恋に落ちて、もう日本には帰らなくてもいい、とまで思う。 そこを、エリーは「あなたの夢は日本でウイスキーを作ることでしょう」と言って、「私

新聞少年アンド…。

新聞週間が始まった、という。 今、全国的に、新聞の問題、メディアの問題が話題となっているときだけに、タイムリーなことである。 新聞というと、ずっと以前は、確かに少年が、肩から数十部もの重い新聞の束をさげて、一部一部、走りながら配達していたものだったように思う。 このごろでは、走って、という新聞配達はあまり見かけないように思う。 地域によってそれぞれに形態があるのだろうが、自転車やバイクに積んで、という形が多いのではないだろうか。 北海道では、橇、というのがあった。 小さな、家庭用のプラスチックのボブスレーや、木でできた橇に、たくさん新聞を積んだおばちゃんが、配達してくれたものだ。 このごろは、雨の日はどういうものか、機械なのか手作業なのか、丁寧にビニールに包んである場合もある。 配達の人のまごころには本当に頭が下がる。 新聞奨学生という制度が、今は私の周囲には見かけないが、以前は確かにあって、私の学生時代の同級生でも、そうした奨学生がいて、夜は10時には店舗に帰らなければならない、ということで、コンパなどは出られなかった。 店舗というのは、住み込み型の新聞販売店である。 そして、朝2時には起きて、配達店の奥さんの手作り朝ごはんをいただく。 それから配達に出て、配達から帰ってきてから、学校に行く。 新聞記者さんや編集部というところは、深夜に締め切りを迎え、その後、印刷所がそのあとの深夜に、回転する。 それから、トラックなどで配達店に運ばれ、そして、配達員の手で一部一部、一軒一軒、配達されることになる。 こうした、一種のチームプレーが、私は大好きである。 しかし、こうした感想も、たくさん聞く。 それは、新聞配達店の、勧誘員の態度の悪さである。 窓から米10キロを入れてしまう、とか、宅配便の印鑑のふりをして、新聞の契約を12か月分させてしまう、とか。 あるいは、埼玉から勧誘専門の人を雇って、この専門員は、「お宅、どこ新聞ですか?」と問いかける。 「読売」と答えれば「朝日はどうでしょうかね」 「朝日」と答えれば「読売はどうでしょうかね」 というあんばいである。 また、この勧誘員は、一軒一軒が描かれた詳細な地図を持っていて、どのお宅がどの新聞を取っているか、情報交換しあっている。 そして、新聞をとっていない家というのは、

子どものゲーム好き問題について。

子どもを育てる上で、特に現代社会のなかで、大人たち、親たち、教師たちをとても悩ませているのが、ゲーム問題である。 聞いた話であるが、ポケットモンスターを作っている会社では、「子どもたちが親も勉強も投げ出して夢中になれるゲーム」を目標としているそうである。 そういう社長もスタッフもゲーム大好きで、ゲームで育ってきた人たちであるが、社会というものをよくわかっていて、起業をして立派に仕事をしているのだから、仕事人としては、きちんとしている、と言えるのだろう。 子どもたちには、いかにも目に悪そうな小さな液晶画面を長時間見つめているよりも、学校の宿題や参考書を見ていてほしいし、もっともっと戸外で身体を動かしてほしい、と思う。 そうすることで、人間関係も学べる。 かといって、ゲーム機を与えないと、お友達ができないとか、お友達から仲間はずれにされる、といった問題も起こる。 これは、スナック菓子についても同様のことが言えて、うちの子だけスナック菓子を与えない、という主義を持っていると、子どもが仲間外れにされてしまう無限の可能性を秘めている、というわけである。 ゲームに関して言うと、たくさんの人たちが忠告しているように、時間を決めて行う、という方法が、一番よいようである。 これは、一昔前のテレビと同じ状況かもしれない。 また、こうした際に、子どもの気持ちを思いやるために、テレビであれば、一緒に見てあげる、どんなテレビに夢中になっているのか、見てみる、ということも必要である。 それから、絵本や活字の本がすべて大丈夫かというと、今の時代はそうではないので注意である。 というのは、子ども向けのひらがなで書かれた絵本や童話は、あまり文章が卓越したかたでない執筆者が、趣味で書いていたりして、粗悪なストーリーが多いからである。 子ども向けの本は、大人向けの本が書けるくらいしっかりした人が書いてほしいものだ。 また、絵本の「絵」に関しても、本当によいもの、本物に触れさせてあげたいものだと思う。 子ども向けの、劇団四季のミュージカルに、子どもを連れて行ったある親御さんは、子どもがもう、ゲームやテレビアニメには興味を示さなくなったという。 こうした逆療法みたいなことも必要かもしれない。 話は戻るが、ゲームを親が一緒に行ってみることは、とても面白いことなので、一

子どもたちの遊び場問題について。

現代の社会において、子どもたちの「遊び場」が、問題となっている。 考えてみれば、昭和の時代には、わざわざ「遊び場」を選ぶ必要はなかった。 公式な公園でなくても、河原や藪、空き地や、塀の隙間、小さな家と家との間の敷地など、遊ぶ場所はいくらでもあって、子どもたちは自然に、ちょこまかと遊んでいたものである。 実際には、「遊び場問題」というのは、都会の問題ではないか、と思うことがある。 というのは、私が暮らしていた北海道などの地方では、一部、都市・市街地を除いては、とても自然な空間が広くて、子どもたちが自由に走り回ったり、ボール投げをしたりすることができた。 心配なのは、自然現象でできた「落とし穴」や、側溝にはまったり、草かぶれを起こしたりすることだった。 あるいは、北海道では、吹雪の吹き溜まりにはまることもあったので、天候に注意は必要だった。 雪は子どもたちの格好の遊び相手で、子どもたちがうらやましくなることもあるが、大人になるとスキー場まで雪遊びにでかける。 都会では、小さな公園さえ、子どもも大人も、安心して遊べないのだという。 私も東京に来てからいろいろな人からアドバイスされたのだが、公園のベンチに座ってお弁当など食べてはいけないのだそうである。 いろいろな都会の事情があったものだ。 遊び場問題は、都会の問題の片鱗であると私は思う。 どうしても都会で、子どもに、身体機能を伸ばすための運動をさせたいのなら、運動ジムや子どもダンスクラブなど、室内で、指導者がついている状態の教室に通わせるのがよいだろう。 都会に暮らす大人の「便利さ」「快適さ」と、その人の子どもが「自然が足りない状態」は、一緒についてくるものである。 子どもたちに万全な環境を保全したいのなら、大人が自分自身の生き方と、住む場所を、再考するのが一番良いのではないか、と思う。

スーパーグローバル大学構想について。

現在、文部科学省ではさまざまな教育改革や教育の構想があって、そのひとつに「スーパーグローバル大学構想」があるようだ。 全国でいくつかの大学を選定してそこに、多額の予算をかける。 学生も選抜するのか、その予算をどのようなことに使うのか、設備なのか、研究費用なのか、まだはっきりとはわからないようだ。 しかし、教育というのは実験や反証、実証、思索を必要とするものであるから、費用をかければかけるだけ、成果があがる、というのは、確かなことであるようだ。 日本では、先日、ノーベル物理学賞で三人の受賞者を挙げることができた。 日本人の日本としてのとても得意な分野での評価であるように思える。 また、物理学、科学、という分野は、世界的な状況のなかで、正確に比較して、優秀さを決定することができるので、「わかりやすい」とも言えるかもしれない。 一方で、ノーベル文学賞などは、科学の分野とはちがって、「わかりずらい」「評価決定しずらい」分野と言えるかもしれない。 理系の研究には、巨額の資金投資が必要である。 実験設備もそうであるし、実験の失敗の数を裾野として、その上に1パーセントの成功があるわけであるから、あとの99パーセントの資本金を支払うだけの度量が必要だともいえる。 今回、ノーベル物理学賞を受賞した中村修二博士も、アメリカのMITマサチューセッツ工科大学で研究をしていて、成果を上げることができている。 これは、悲しいかな、日本ではこうした研究ができない、とか、こうした研究者が羽を伸ばして研究できる環境が整っていない、ということを意味する。 マサチューセッツ工科大学では、日本では考えられないほどの敷地面積があり、スポーツに打ち込むこともできるし、教授には、家付きはもちろんのこと、家族も暮らせて、思索のための散歩ができる広さの庭まで準備されて、優秀な教授を迎えているのだという。 こうした環境のなかで、アインシュタインも、ファインマンも、研究成果を成し遂げることができた。 日本では、STAP細胞をめぐって、悲しい出来事も起こっている。 すべて、研究のための環境づくりが必要であることを物語っている。 それは、施設であったり、研究に対する世論であったりもするだろう。 大学には、ふたつの目的があるのではないか、と私は考える。 ひとつは、学生が学ぶことであ

NHK「マッサン」第3週「住めば都」感想。

抜群に楽しい朝ドラ「マッサン」も第三週に入った。 だんだん、どんなふうに見たらいいのか「見方」がわかってきたかんじがする。 相手によってこちらの態度をそれなりに変化させて、言葉遣いやうなづきかたも変えるように、ドラマによって、視聴者の態度もそれなりに、変えるほうがいいのかもしれない。 ともかく、「マッサン」は、面白い。楽しい。明るい。 これはコメディというものなのだろう。 何かすごく大きなテーマを持ってそれを訴えようとするドラマもあるのかもしれないが、笑いあり、涙ありで、感情や心に訴えて、朝から心に笑顔をくれるのも、ドラマの大切な役割なのかもしれない。 それに、関西弁がとても調子が良くて、笑ってしまう。 15分を観終わったあとは、家族と関西弁でおしゃべりしてしまうほどだ。 関西というのは、実際にこういうところなのだろうか? だとしたら、すごく楽しい。行ってみたい。 それに、女性が強い、というか女性たちが元気である。 しゃしゃり出てきてあつかましい。 言葉にはりがあるし、態度も大きい。 今週のマッサンは、エリーとふたりで新婚生活を暮らすための、貸家を決めた。 これが、「住めば都」の「住めば」に当たるのだろう。 そう考えてみると、今回のドラマの週間タイトルは、つぎつぎと日本のことわざというか、いろはガルタみたいな言葉が飛び出してきてこれが、日本人のハートにぴったりフィットする。 なんだか今週は、地方創生もあるしリニアもあるし、地方だって「住めば都」なのではないか、と考えてしまうのである。 外国から来たエリーにとっても、「住めば都」という日本のことわざは、一生の座右の銘ともなることばなんじゃないか、と思う。 それにしても、このダンナ・マッサンの、抜けているかんじ、というのはどうなっているんだろう? 部屋を決めるときも、見たこともない知り合いでもないキャサリンの言うことで決めてしまって、契約するときは、家主さんに親指をつかまれて拇印を押されてしまった。 引っ越し祝いに部屋におく大きな置物は、ライバル会社サントリーのカモキン社長からの贈りもの・虎である。 もうちょっとロマンチックな置物はないのだろうか? しかも、その虎というのは、カモキン社長の干支だというのだから、縁起もなにもあったもんじゃない。 この、サントリーは、

反戦原理主義の台頭に思う。

「反戦原理主義」の台頭に思う。 このところ、日本の社会がとても騒がしい。 騒がしいとひとことで片づけられない。 物騒である、危険なかんじがする、という雰囲気がある。 私はもともと、平和主義者である。 世界の平和を追い求めているし、これまでもそうしてきた。 しかし、このところ「平和」という概念をめぐって、変なふうな戦いが起こっているように感じられてならない。 私はもともと、集団的自衛権の解釈に関しては、そんなに積極的ではなかった。 しかし、集団的自衛権の解釈について、常に解説を試みてきたのは、それが主義一貫した論理だからである。 そして、「反戦」に関して、原理主義にもにた、過激派とも呼べる「平和主義活動家」がとても増えてきたことに、危惧を感じるからである。 「平和」は正しい。 その正しさを確信するあまりに、行動が「過激派」と呼ばれるほどに、過剰に暴力的になっていると感じるのだ。 あたかも、イスラムの原理に回帰しようとした人々が、「コーランに書いてあるから正しい」と確信犯的に確信して、過剰な行動に出るように、「反戦平和主義」の人々は、自身のもつ危険性に気づいていない。 日本の世の中は、過激派のコントロールするところにならないように、今後、慎重な対応が求められる。

小渕経済産業大臣の成功を期待する。

秋の臨時国会では、9月に発足した改造内閣が万全に出発をしている。 特に楽しみなのが、将来、日本で初めての女性の内閣総理大臣になるのでは、と期待されている、小渕経済産業相である。 このところも、将来の大物感を感じさせるさまざまな話題で盛り上がっている。 これも、若手育成のひとつなのだろう、と思わされる。 議員の女性の数の枠組みを決めておく、クォーター制も期待される。 経済産業省のこれからの成功を心から念願する。 経済といえば、先日13日、ノーベル経済学賞の発表があった。 経済学賞を受賞したのは、フランスの経済学者、ジャン・ティロール氏であった。 ティロール氏の研究内容を考えてみると、これは、経済学上にとても長い間、大きな問題となっていた課題の反証を実証したことになる。 これを考えると、今後の世界経済は大きく変化することが予想される。 それは、特に、業種間における規制のちがいを、しっかりさせることである。 品種・品目ごとに、規制をそれぞれに定めることが、どうしても必要であることを立証した。 これにより、一律の消費税のパーセンテージの設定や、一律の関税の設定・撤廃が不可能になる。 今後、これらのことが不可能になる可能性がある。 これからは、ユーロ圏が、このティロール博士の理論を使って、日本とアメリカのTPPの理論を攻撃してくる可能性が、とても大きいように思う。 早めの対策を、日本の成功のために、思うところである。

意見書リスト・その1.

これから、私の意見書を書こうと思う。 意見その1. TPPの交渉の妥結を遅らせるべきである。 日本の農業、酪農業をしっかりと守るべきだ。 牛乳、乳製品、米、牛肉を、しっかりと関税つきで、守るべき。 意見その2. TPPの件では、中小企業や零細工場をしっかり守るようにするべきである。 意見その3. 消費税10パーセントへの引き上げは、遅らせるべきだ。 少なくとも、来年には消費税を引き上げるべきではない。 国民は苦しんでいる。 それに、医療や社会保障がない。 意見その4. 軽減税率を実施するべきである。 品目ごとに、詳細な法律を作って、軽減税率で国民の生活を守るべきだ。 意見その5. 自宅在宅医療を手厚く守るべきだ。 特に、医師は往診制度を導入すべきだ。 そのために医師を増やすことも実現するべきだ。 意見その6. 自宅にいても、薬をWEBで注文できて、宅配便で配達できるようにするべきだ。 意見その7. 急激な円安をストップさせるべきだ。 商業は、年末のクリスマスセールに向けてとても苦しんでいる。 消費税アップのための、円安政策を、緩めて、こんな急な変化で商業を圧迫するべきではない。 意見その8. 考えや説明なしで、閣僚クラスの決定を絶対にしてはいけない。

台風19号がやってくる。

2014年は、日本という国にとって、「台風の当たり年」と言えるのではないだろうか。 今週もまた連休をめがけて、大型台風が南から近づいてくる。 秋の行楽シーズンに、さまざまな楽しい予定を立てていた人も、台風にはかなわない。 一年に一度の、秋の旅行が、日程変更を迫られた人も多いことだろう。 本当にそれだけで、「へこむ」ものだ。 2014年今年は、台風の当たり年、というだけでなく、2月には、大雪が二週間続いたこともあった。 あの大雪で、都知事選の方向性がぐっと変わったのではないか、とも言われているので、人の心も政治も、天候に大きく影響されることが、立証された、ともいえる。 「立証された」という言い方をしたのは、このところ、人は、天候や自然をあまりにも甘く見て、痛い目に遭っているのではないか、と思えるからである。 台風が予想されているのに、会社も学校も休みにならないで強風のなか会社員が出勤する姿は、何かとても違和感がある。 私の場合は、北海道だったので、台風がめったに来ないし、たまに来ても、すでに温帯低気圧になって、雨を降らせるくらいである。 それなので、本州で台風をとても畏れて気象情報が出る事態が、いまだにピンとこないところがある。 でも、北海道には、冬の雪があり、吹雪があり、吹雪の吹き溜まりがあった。 自然の厳しさを肌で感じていて、自然に対して畏怖の気持ちは魂の次元まで、と思えるほど染みついている。 2011年には、東日本大震災があって、日本人は、心がとても痛んでいるか、あるいは、天災に対してとても敏感になっているのかもしれない、と思う。 天災はずっと大昔からあった。 そして、人々はそれを、少しずつ、忍耐強く、一生懸命力を合わせて克服してきた。 たとえば、江戸時代の江戸のまちは、火事がとても多かったそうである。 人々は力を合わせて、火事の克服に取り組んだ。 近代化もあり、現代ではすでに火事の被害はゼロとも言われている。 そのようにして、天災のひとつひとつを、人智を尽くして、克服していく努力が必要である。 起こってしまった目の前の現実に、ただただ、悲嘆にくれているようではいけない。 特に、たくさんの人たちに影響を与えるメディアが、感情と悲観を紙上から世論へと広げていくようでは、人々の柱となりリーダーとなるメディアとして、

憲法9条と集団的自衛権の解釈について。

先日、10月10日、ノーベル平和賞が発表になった。 日本からも、署名運動、市民運動という形でノーベル賞にエントリーをしていた形になっていたので、この発表を息をのんで見つめていた人も多かったようだ。 日本である婦人が発端となって、憲法9条をノーベル賞に、という活動が始まっていた。 受賞者は、受賞した場合には、日本国民全員だという。 しかし、この活動は、国際的に認められることはなかった。 とても残念に思っている人も多いと思う。 しかし、この憲法9条にノーベル賞を、という動きは、いくつかの理由で受賞できなかった。 ひとつは、こうした賞を授与したとすると、国際社会が日本の内政に干渉したことになってしまうからである。 もうひとつの理由は、集団的自衛権の解釈が、国際社会的にとても広く認められた正当な権利だからである。 集団的自衛権の「自衛」とは、武器を持つことであるが、この武器は、懐刀(ふところがたな)の意味である。 たとえば、女性が花嫁姿になって、白無垢を着るときに、脇に小さな短刀を持つ。 これは、護身用である。 花嫁に、なんの護身も持たせない、これは「平和」だろうか? 女性に、護身をさせない、護身する権利を持たせないことが、平和なのだろうか? 世の中には、理解はできないが、悪いことをする人はたくさんいるものである。 悪いことをする人が、世の中の全員ではないだろう。 しかし、何パーセントかは、悪意を持って悪いことをする人がいるものである。 花嫁がどんなに慎重に身を慎んだとしても、護身用の懐刀が必要になる場合というのは、あり得るものだ。 そのときに、刀を持たないことが、この花嫁の主義主張だというなら、花婿や子どもたちやどのように、悪意を持った人に対応すればよいのだろう? 集団的自衛権の解釈が、武器を持つことを公認するために、その武器を、日本が悪意を持って、攻撃用に使うものだ、と思い込んでいる人がいる。 しかし、武器、刀というものの使い道は、それだけではないのだ。 私が、「人間観による」「主義主張による」と言っていたのは、本当は実際に世の中には100パーセント良い人ばかりなのか?という点で、そう信じるならば、性善説であろう、という哲学の問題になる、ということだ。 また、どんな悪意を持った人、残酷で武器を持って攻撃してくる人が

日本語と国語教育について。

先日、発表された、文化庁の世論調査によると、日本語のある言葉の意味を、まちがえて捉えている人の割合が増えている、という結果が表れた。 たとえば「世間ずれ」「煮詰まる」というような言葉遣いである。 しかし、この誤解のほうの解釈を聞いてみると、なるほど、と直感的であるというか、感性は豊かであるように感じられる。 「真逆」という言葉などは、「正反対」という意味であるが、直感的にはとてもよく伝わる言い回しである。 言葉というのは、使う人たちによって、少しずつ変化していくものだ、と私は思う。 そういった前提があるので、各種国語辞典も、時流を取り入れて、語彙を増やしたり解釈を付け加えたりするのだろう。 思えば、国語の時間には、「古文」「漢文」という難解な部門があって、同じ日本語であるはずなのに、さっぱりちんぶんかんぷんであった。 平安時代や鎌倉時代、江戸時代に使われていた言葉が、現代日本人にはさっぱり通じないのは、なぜなのだろうか。 それは、時代とともに、使われる人たちによって、少しずつ変化してきたからであって、何百年と経つうちに、同じ日本語とは思われないほど、変わってしまったからなのだと思う。 たとえば、「新しい」と「改めて」という言葉は、漢字の使い方はちがうが、どちらも「あたらし」という言葉から生まれて展開していったものだという。 そういえば、現代の私たちでも「あたらしい」と「あらたしい」を、言い間違えたりする。 そんなふうに、言葉は生きている。 言葉は使われる人々の心と感性と気持ちによって、生き生きと発達して、変化成長していくものなのだと思う。 それでも、世代間であまりにも会話が通じなくならないように、しっかりとした国語教育の枠組みや、言葉の定義は必要かもしれないが、こうした若い人たちの感性を、一言のもとに、「まちがい」と否定するようなことは、しないで行きたいものだ。 新しい時代の、新しい言葉が、今まさに、生まれようとしている。

2014年・ノーベル平和賞 マララ・ユフスザイさん受賞おめでとうございます。

先日、10月10日に、ノーベル平和賞の発表があった。 今年2014年の受賞は、パキスタンの少女・マララ・ユフスザイさんと、インドの平和活動家カイラシュ・サティヤルティさんであった。 特にマララさんは、以前から女性と子どもの教育について、勇気を出して声をあげていたので、私たちはとても期待していたので本当によかった、と思った。 何よりもよかったと思ったのは、賞を受賞することで、とてもたくさんの諸経費が受け取ることができて、身の安全を確保できることである。 それから、これからの活動が、費用も活動範囲も、とても広げることができる、ということである。 パキスタンは、イスラム教の国であり、その宗教文化という点から、女の子が教育を受けることがとても困難である。 また、パキスタンに限らず日本でも、女性の教育は、もっとまだこれから、というところである。 それは、社会全体の風潮であったり、長い間の歴史の遺物であったりする、男女の価値観というものが問題であるということだろう。 マララさんにとっては、まだまだ若くこれから困難な人生の道のりが予想されるところであるが、まだ若いということは、それだけたくさんの活動ができる、ということである。 また、マララさんの受賞の言葉のなかに見つけたとても大切な一節であるが、このような内容であった。 すなわち、彼女たちパキスタンの少女たちは、学んで殺害されるか、学ばないで不自由な人生を送るか、どちらかである、私は前者を選んだ、ということである。 それだけの不屈の勇気と決心があれば、きっとたくさんの人たちも応援してくれるから、きっと大丈夫だと思う。 私自身もこれまで、今年に入ってからは特に、女性の教育をテーマにいろいろな文章を書いてきたのだが、やはり世界的にも、現在は、女性と子どもの教育がテーマなのだ、と思うと、身の引き締まる思いがした。 そのために、今、どんなことができるか、いま一度よく、考えてみたいと思った。 マララさん、本当に受賞おめでとうございます。 私たちも、力を合わせて、立ち上がります。

駅のホームの現状について。

駅のホームから転落する人がとても増えているらしい。 それも近年になってからで、特に東京や都心の電車、山手線や京浜東北線、総武線、といった、駅と駅の間隔が狭く、たくさんの人が簡便に利用する駅で多いようだ。 この意味は、たとえば新幹線や長距離の在来線ではあまり起こっていない、ということである。 山手線や京浜東北線の駅では、ホームも駅もすでに、許容量がオーバーしている、と言える状態だと私は思う。 いわゆる、キャパシティ、という点で、電車の定員も、ダイヤも、これ以上は乗客を乗せられない、ということだ。 駅のホームは、身動きができないほどの人であふれかえり、時には立すいの余地もなくなる。 ホームに上がるエレベーターが上に着いても、人が上がる余地がないので、とても危険な状態になっている。 階段はひっきりなしに、ホームから出る人が先、ということで、駅員がアナウンスしている。 そう、ホームにも定員があるのだ。 ホームからの転落防止のために、壁を伴ったホームドアを設置する、という案があるが、どうかと思う。 予算がかかる割に、効果には首を傾げざるを得ないからだ。 すでにキャパシティオーバーしていて立すいの余地もないホームに壁を設置しても、ホームが満員電車のような状態になるだけではないだろうか。 また、ホームにある階段の脇などは、50センチもないのではないか、というほど狭くなっていて、とても危険な箇所がある。 危険な箇所だけ、通路を確保するだけでも効果はあるかもしれない。 ホームの数を増やすとか、ホームを広くして面積をとる、ホームを長くする、といったことも、多少は効果があるかもしれない。 いずれにしても、2020年の東京オリンピックの際の人出を考えると、とても不安な山手線である。 老朽化もはなはだしいので、なんとかならないだろうか。

NHK「マッサン」第2週「災い転じて福となす」感想。

大好評で始まった、朝の連続テレビ小説「マッサン」。 前評判から人気があり、私も見どころがたくさんある、と思って楽しみに見ていたのだが、早くも気持ちが失速してきてしまった。 というのは、主役のマッサンに、魅力がない、ということなのである。 国際結婚がテーマである。 あの時代に、はるばる外国から、家族も故郷も捨てて、「あなただけよ」と日本に嫁いできてくれたエリー、この、ひとりの女性が、すべて捨てるだけの価値、どうしても好きで好きでたまらないポイント、というものを、マッサンのなかに探したのだが、それが見当たらない。 この、マッサンという男は、ただの「情熱バカ」なのではないだろうか? 夢は大きい、仕事にも熱心である。 でも、人の心への機微というものに欠けている。 人間関係や、あるいは、日本に嫁いできたエリーがどんな苦労をするか、という点で、そうした苦労をどう乗り越えていくか、という点で、まったく頭を使っていない。 もしかしたら、「おつむが弱い」のかもしれない、と思わせるほど、頭を使っていない。 これがいわゆる、「ダメンズ」という性質なのでないか、と思う。 ダメンズにまいってしまったのだから、エリーもその程度の女性でしかなかった、見る目がなかった、ということなのだろうか。 男は仕事さえしていれば、それで女性たちがついてくる、と思っている「誰か」がいて、こうしたドラマを作っているのだろうか? 第一週の「鬼の目にも涙」もそうであったが、姑の嫁に対する、いわゆる「嫁いじめ」「嫁姑問題」は、笑いを取れるほど、簡単な問題ではない。 また、第二週目の今週もそうであったが、マッサンが留学渡航する前に、婚約をした女性がいたということも、ずいぶんとあやふやな約束ではあったようだが、こうした状況におかれた女性、(優子)の気持ちも、深刻である。 優子の気持ちをないがしろにしたまま、それでもエリーの味方をする、この問題に真摯に取り組もうとしない、マッサンや周囲の男性たちの対応は、とても残酷である。 ドラマとしては、話題性を持とうとしたのかもしれないが、朝からイジメを見てそれを見続けるほど、私たちは暇を持て余しているわけではない。 しかし、男性側の思い違いというのは、こうした、仕事の邪魔になる女性たちの人間関係や感情というものを、「女難」と捉えていて、時に

ノーベル賞ウイーク。

芸術の秋は、学問の秋でもある。 暑い夏を過ぎると、学問に励もうとばかりに、10月のノーベル賞ウイークがやってくる。 稔りの秋にもふさわしい、どの受賞者も、人生の秋の稔りを手にしているかのようである。 世界最高峰のこの賞が、いつどのように選考され、発表されているのか、なかなかうかがい知ることができなかったが、おととしくらいからだろうか、発表の瞬間は、 ノーベル賞のホームページ や、 ノーベル賞のYouTubeチャンネル で、ライブ中継で見ることができるようになった。 北欧スウェーデンの、アカデミックな建物の一室で、「その瞬間」を待つ人々のざわめきや、発表者の真剣でリスペクトにあふれた表情などを、リアルタイムで体験することができる。 今週に入ってから、月曜日には、医学生理学賞、火曜日には物理学賞、昨日水曜日には、化学賞の発表があった。 火曜日の物理学賞では、日本から受賞があり、とても驚いてとてもうれしかった。 スウェーデン語と英語をまじえながら、その話のなかに、日本人の名前が入るのがわかって、とても驚嘆した。 それに、受賞の理由の説明も、大きなスクリーンを使って行われて、よくよく見ていると、どういう研究なのか、よくわかる。 日本人受賞者が出た物理学賞の説明では、実際にアカデミーの室内にある電灯を、点滅させたり、赤色にしたり、青色にしたり、スマートフォンを出して、「こうしたものにも使われています」と光らせてみたりして、とてもわかりやすかった。 これから、この青色発光ダイオード、LEDというものが、世界中に普及していくのだ、と思うと、本当に誇らしい。 世界中には、もはや未踏の地、というのは地理的には存在しないだろう。 どこの地も、誰かがすでに到達して、旗を立てて開発してしまっている土地である。 でも、人間には、誰もがフロンティアスピリットがあって、何か新しいものを発見した最初のひとりになりたい、という願望があるように思う。 そうしたとき、人類の高み、物理や化学、医学の研究は、まだまだ未開の分野で会って、そこには、フロンティアスピリットを全開にする余地があるし、チャンレンジのしがいもある、というものである。 私は、研究者というのが、大好きである。 昨日の、ノーベル化学賞も、とても面白い説明であった。 これまでの顕微鏡で写したミトコンドリ

どんな秋ですか?

秋である。 北海道育ちの私は、本州の秋のすごしかたに、まだ少し慣れていない。 北海道では、10月はもう、冬であった。月末には初雪が降る。 本州の冬は、それとちがって、あたたかく、そして長い。 9月、10月、11月、と秋である。 秋の虫の声、秋の月、秋の夜長、秋の暮れのつるべ落とし、それらすべてを、本州にいると体験することができる。 秋の夜長はよいものだ。 暮れるのが早く、涼しく、友と語り合っておればいつの間にか、月は高くあがってくる。 この時間とこの気温を利用して、さまざまな秋をみなが楽しんでいるのは、本州ならではの風情である。 私は、なんといっても、芸術の秋である。 北海道では、大規模な展覧会が周回してくることはめったになかった。 東京では、大きな国際交流的な展覧会もあり、小さなギャラリーもあって、ちょっとした小道をはいると、カフェを兼ねた展示会も開かれている。 こうした展覧会を見かけると、ちょっと立ち寄りたくなる。 近ごろでは、若い人たちはとても絵が上手で、展覧会なども、積極的に開いているようだ。 遠い外国の漁港の景色。現代的モチーフとしての「和」。 「和」を取り入れた洋画もある。 そういった展覧会は、たぶん一期一会のものだろう。 室内をゆったりと歩いたら、出口の受付で、記念のポストカードを一枚、購入する。 カフェを兼ねた窓辺の席で、遠い友達に絵葉書をしたためる。 「どんな秋ですか?」 「2年前はたいへんでした」 「お互い、健闘しましたね」 「本当によくがんばりました」 「いつか必ず、お会いしましょう」 「あのときの友情とチームワークは一生忘れない」 どんな秋ですか? 世間の風はどんどん冷たくなっていきますが、私たちはこうして、温かい友情を、はぐくんでいきましょう。 手にしたポストカードでは、幼い少女が赤い風船を持って微笑んでいた。 そう、あの時代を越えてきたわたしたちは、今、おおらかに秋を楽しんでいます。

2012年夏のアジア危機について。

このところ、反政権の動きが活発なようである。 それは、以前には、反原発の動きであったが、最近、特にこの7月以降には、集団的自衛権の解釈をめぐる動きとして、反戦、反・憲法改正、という勢力になっているようである。 また、4月からの消費税増税や、経済政策にともなって、急激な円安と物価高が始まった。 この、経済をめぐる動きに関しては、損をする人と、得をする人とで、明暗がふたつに分かれているところである。 もともと、反原発も、反戦も、とても線引きがむずかしい、難題である。 それが、国民を二分する対立になってしまった。 そして、反政権の「気持ち」が強くなっている人々が多くなった。 生活に対する不満や、天災や社会事件に関する不安感が強くなり、それがそのまま政権への強い怒りとなって表れるようである。 これなら、以前の生活のほうがよかった、以前の暮らしを取り戻したい、という気持ちも強いかもしれない。 そして、何よりも「なぜ、戦争をするとかしないとかいう話になったのか」「戦争の話さえなければ、日本社会は平穏だった」という気持ちになるだろう。 憲法の改正や、解釈変更を言い出した現政権こそが、社会不安の根源だ、といわんばかりの勢いである。 いや、そういう論調なのであろうか。 しかし、そうして現政権をとても悪く思ったり、反抗したりする人たちは、この憲法改正や集団的自衛権の話の発端を、ただただ、知らない、というだけなのである。 この、話の発端を、まず現政権はしっかりと国民に説明するべきなのかもしれない。 しかし、国民の混乱やいわゆるパニック状態などを考えると、詳しい話は、説明をしないほうがよい、という考えなのかもしれない。 また、当時のメディア陣は、このときのいきさつを、詳しく知っているはずである。 2012年夏のアジア危機を知っている人たちは、そこからの流れとして、現在の集団的自衛権は、必要不可欠だと考えているだろう。 そして、現政権の方針に関して、賛成の態度をとっているし、また、現政権を支持して、これからも決心を変えないだろうと思う。 2012年の夏は、前年の2011年3月に、東日本大震災があったばかりの日本にとって、二度目の夏だった。 当時の政権は、民主党の野田内閣であった。 税・社会保障一体改革の法案は、6月の通常国会で衆議院で可決された

NHK「マッサン」第1週「鬼の目にも涙」感想。

朝の連続テレビ小説「マッサン」が始まった。 私も前々から楽しみにしていたので、一日、一日、いろいろな興味を持って、見ていた。 一週目は本当に、盛り沢山な内容で、意気込みが伝わってくる。 国際結婚のふたりが主人公とあって、英語の字幕が出たり、時には吹き替えになったり、日本の広島県が背景となるかと思えば、スコットランドに変わるときもある。 今週は、日本の実家に、外国人のお嫁さんを連れて帰ってきたところから始まって、回想をまじえながら、ふたりが出会ったいきさつや、結婚を決心するまでの心の流れ、日本に来るまでの心の葛藤や周囲の状況まで、描いていたと思う。 そして、新番組の紹介でもあったように、日本の文化を再発見する、という意図や、冒険の物語を描いてみたい、という意図も、とても盛ってあるかんじがした。 特に、日本文化の発見については、外国から来てくれたエリーの戸惑いを通して、日本人の私たちこそが、認識しなおせる、お楽しみも含まれているようで期待したいと思う。 「マッサン」を、これから半年間見ていくときに、どんなことをポイントにして自分なりに観察したり、発見したり、感動したりしたいかな、というときに、一週間見ていて私もあれこれ考えたけれども、ひとつとても気になることは、これは、男性が書いた脚本である、ということである。 男性には男性にしか見えない世界観があり、人間観があると、私は思う。 すでに、主人公の亀山政春は、ちょっと女性たちからは想像もできないような行動形態をとっていて、将来の夢も大きい。 ドラマのなかで、大声を張り上げるのも、とても意表を突かれるかんじがする。 それで、私はこのドラマを見るときに、「男のサクセスストーリー」という視点から、物語を眺めてみたいと思う。 考えてみれば、前回の「花子とアン」が、女性のサクセスストーリーであったので、そういった意味からも、比較検討もできて、面白い試みだと思うのだが、どうだろうか。 さて、政春の物語は、始まったばかりである。 まず、今週は26歳。 まだまだ若い。 将来への夢も希望も、とてもたくさん大きくある。 そのひとつひとつを実現させていくことが、政春の人生のストーリーだと言えるだろう。 今回のドラマは、子ども時代から時系列を追っていく、という構成ではないので、子ども時代のことはよくわから

新幹線の未来図。

このところ、新幹線が話題となっている。 開業から50年たって、新幹線に乗ったことのない人や、聞いたこともない、という人はもう日本人にはいなくなった。 50年の間に、整備新幹線も含めて、北へ南へとその進路を伸ばしてきた。 これらの高速特急網が、日本中にはりめぐらされることが、とても期待されている。 北陸新幹線は、来年2015年3月の開業予定である。 これは、東京駅から金沢駅までである。 北陸への交通が便利になり、北陸から首都圏へ仕事や旅行で来る人たちも大喜びだろうと思う。 では、金沢から先はどうなのか、というと、敦賀までのルートは在来線の通りで、だいたい決まっているそうである。 この計画が3年間前倒しされて、早めにつながる可能性が高いようだ。 「つながる」といえば、敦賀から大阪までのルートはまだ未決定のようである。 しかし、敦賀から大阪までつながれば、東京から大阪まで、北陸経由でつながるわけであるから、とても素敵な話である。 東京ー大阪間が、太平洋側からも、日本海側からもどちらからでも行けるということになれば、日本の動脈と呼ばれた東海道にも、日本目のルートができて、いろいろな使い分けもできることだろう。 たとえば、今、さかんに討論されていることであるが、新幹線を各駅停車にするか、直行にするか、ということである。 飛行機と比べると、東京ー大阪間が、停車駅なしで一本だとすると、とても快適な話である。 もし、北陸新幹線が大阪までつながれば、この北陸経由の大阪行きを、ノンストップにすることもできるだろう。 あるいは、中央高速は自動車の道路であるが、貨物輸送に関しても、そろそろ容量がたいへんになっているように思う。 新幹線で貨物輸送もしているらしい、と聞いたことがある。 人が座っている座席の下の部分が、貨物や郵便の輸送室になっているそうだ。 そうすると、東京から大阪までのルートが、それも超高速のルートができるとなると、とても素晴らしい話である。 敦賀からのルートは、ここで琵琶湖にぶつかるために、琵琶湖の右側を通るか、左側を通るか、という点で論点があるようだ。 ところが、琵琶湖のある滋賀県では、有名な滋賀県知事が「新幹線は要らない」と言っていて、滋賀県の世論としては、「不要論」や、あるいは「通したくない」論もあるようだ。 ぜひとも、

新幹線開業50年。

きょう、10月1日は、新幹線開業の日だという。 2014年の10月1日をもって、開業して50年となった。 1964年、東京オリンピックの年に、確か東京オリンピックの開会式の日がその後、体育の日となったのであるから、10月10日の開会式に合わせての開業だと思う。 あれから、半世紀というわけである。 今では新幹線のない日本など、考えられない。 私は北海道にいたので、当時北海道にいた人々は、(今でも)新幹線に一度も乗ったことのない人も多い。 私が初めて新幹線に乗ったのは、修学旅行で京都に行くときだったろうか。 あまりの速さに、北海道から来た修学旅行生たちは大はしゃぎだった。 何しろ、生まれて初めて見る富士山や、みかんが木になっている風景、車内販売に社内の大きな鏡、すべてが素晴らしかった。 群馬県に来てからは、上越新幹線の開業はとても楽しいことだった。 新幹線が通るたびに、「ほら!」と上を見上げる。 新幹線は在来線より上を通っていて、これを見ることができたら「きょうはラッキー」と言っていた。 上越新幹線の高崎駅から、東京駅までは、三駅である。 高崎、大宮、上野、東京、ここまで55分である。 高崎からは、新幹線通勤の圏内である。 新幹線定期券を作れば、一か月で5万円ほどで、新幹線で通勤できる。 朝、6時半ごろに出て、7時ごろの新幹線に乗れば、8時には東京駅に着く。 ここから山手線を使って、目的の会社まで行けば、9時の定時には出社できる。 在来線の高崎線を使っても、埼玉からの通勤では立ったまま2時間は当たり前であったから、新幹線通勤は、本当に快適であろうと思う。 また、高崎から東京の大学に通う学生も、東京で一人暮らしのアパートを借りるのと同じくらいの定期代で、通勤することができるので、片道1時間の新幹線通勤を利用している人も多い。 北陸新幹線は、高崎駅には停車しない、ということであるが、通勤に利用する乗客と、遠出をする乗客とを、一緒にしないほうがよいのかもしれない。 新幹線に乗れば、緑豊かな地方に、家族と一緒に暮らして、それでいて、東京都内に勤務できる。 まさに夢の超特急である。

NHK「マッサン」主題歌「麦の唄」感想。

NHK朝の連続テレビ小説「マッサン」が、新しく始まった。 何もかも、新しいかんじがして、とても新鮮である。 きょうは、主題歌をとりあげて、その感想を語ってみたい、という強い思いとなったので、書いてみたい。 麦の唄 なつかしい人々 なつかしい風景 その総てをはなれても あなたと歩きたい 嵐吹く大地も 嵐吹く時代も 陽射しを見上げるように あなたを見つめたい 麦に翼はなくても 歌に翼があるのなら 伝えておくれ故郷へ ここで生きてゆくと 麦は泣き 麦は咲き 明日へ育ってゆく 作詞・作曲は、中島みゆきさんである。 ここでは、北海道時代のファンという意味からあえて「みゆきさん」と「さん」付で呼んでみたい。 「さすが」という気持ちである。 誰もが「マッサン」のあらすじをすでに知っていたと思うので、この主題歌が流れたとたんに、涙、涙である。 遠いスコットランドから、海を渡って、国際結婚で日本に来た妻・エリー、その気持ちを歌ったものであることは、よくわかる。 ここで、前回と同じく、国語として、国語教育の意味で、この歌を考えてみたい。 「なつかしい人々 なつかしい風景」 これは、エリーの母国、スコットランドを表していると思われる。 しかし、このワンフレーズをよく聞いてみると、次に続くのは、 「その総てをはなれても」なので、スコットランドを離れることがわかる。 次に、「嵐吹く大地」「嵐吹く時代」 これは、地理的な状況と時間的状況、雰囲気を表していると思われる。 「どんな場所でも」「どんな状況でも」 という意味だと考えられる。 そして次に、「嵐」に対比させるように、「太陽」を表す「陽射し」という言葉が続く。 この「太陽」が、夫であるマッサンを意味するのであるから、非常に、人間関係と愛情と立場を、自然環境にあるもので表現していることがわかる。 こうして考えていくと、「麦」は、とても表現豊かなたとえであり、たとえばエリーが自分自身の平凡さや無力さを思うのかもしれない。 また、夫婦の愛情を、麦という素朴な主食である穀物に例えたともいえる。 また、マッサンが目指すものは、日本初の国産ウイスキーなので、その原料である「麦」を出している。 ふたりの愛情と、絆と夢を、「麦」にたとえたわけである。 「伝えて