イスラム国について考える。--イスラムの女性たち。

今年に入ってから、中東地域に、イスラム原理主義を政治的信念とする、イスラム国が作られた。
このイスラム国はまだ国際社会に承認されたものではないし、国境線も未だ曖昧で、政府も曖昧な状況である。
この国の政治的信条がとても危険であると考えられることから、イスラム国について、考えてみたい。

きょうは、イスラムの女性たちと、女性たちを取り巻く状況について、考えてみたいと思う。
イスラム女性たちの服装、頭から被っている布は、「ブルカ」「ヒジャブ」など、いくつかの名前があるようである。
ここではひとまとめにして「ブルカ」という名称で書いてみたいと思う。
形もさまざまで、名称もさまざまあるとはいえ、イスラム女性たちがこうした布を被っていることは、とても印象的である。
ひとつは、欧米やアジアとちがって、手首や足首、顔の大部分と髪を隠していることである。
もうひとつは、この布の色が、いろいろと場合によってもちがうようであるが、黒一色であることである。
こうした、黒一色の大きな布に身体のすべてと顔の半分を隠して、目だけ見えている状態は、私たち中東以外の人たちから見て、何か異様というか、奇異な印象もするものだ。
しかし、「奇怪さ」「違和感」というのは、文化・伝統のちがいだと認識することにも、私たちは慣れてきている。
世界にはさまざまな風習・風俗があるものだ。

この衣裳・ブルカ文化は、イスラム教の、女性への抑圧の象徴と捉えられている。
説明するまでもなく、誰が見ても、女性の姿を他者に見せないようにするため、と思われるが、女性の身体の活発な動きを封じ込めているようにも見える。
また、髪や肌を「大切だから」守っているというよりは、それらを、時には忌み嫌うように認識しているのではないか?と感じさせる。
少なくとも「開放的だ」という言い方とは、逆の印象である。

閉鎖的ではないか、男女不平等ではないか、と言われている、アジアや日本においても、髪や顔まで隠さない。

ところで、あの黒いブルカの下で、女性たちはどのような姿形をしているのだろうか?
興味を持ってはいけないほど、何か黒々とした壁を感じるが、私は、日本のあるテレビ番組で、その姿のいったんを、知る事ができた。
「潜入取材」的な番組であったが、日本の若い女性タレントが同伴していたので、その女性タレントだけが、ある建物に入ることができた。
イスラムの女性たちが集まる、大きな三階建てのショッピング娯楽施設である。
もちろん女性だけしか入れないし、カメラも持ち込んではいけない。

その日本の女性タレントも、ブルカを被って、カメラなしで、この建物に入って見学してきた。
そして、建物から出た後、「イラスト」を描いてくれたのである。
イラストの専門家ではなかったのだが、描かれたイラストは、一瞬「えっ?」と思うものだった。
あれだけ女性たちへの抑圧が強いところであるから、黒いブルカの下も、質素な服装をしているのか、と思った。
実際は逆である。
それどころか、日本や欧米でも、一般の女性たち、ショッピングセンターに行く女性たちが、「していない恰好」をしていた。
キラキラとたくさんの光る飾りをつけて、そう、まるで、南の島の観光地で、男性だけが集まるバーで、踊り子たちがショーを行うが、そういった格好をしていたのである。

その建物のなかでしていることも、「爪をきれいに塗る」とか、マッサージをする、とかいうことである。
また、販売されているものも、色とりどりのそういった、「踊り子さん用の」衣裳である。

もしも黒いブルカの下が、夜のショーパブ並の「きれいな格好」だとしたら、これは確かに、街中や人前では隠さなければならない姿だろう、と思う。
また、妻や娘がこうした格好をしているとしたら、やはり人前では、真っ黒な布でも被って隠しなさい、ということだろう。
いや、妻たちに、家ではそうした格好をさせて、もしかすると、踊りを踊らせているのだろうか?
それはどんな踊りなのだろうか?

イスラムの男性たちの女性観は、そうしたものだ、と考えるなら、それはそうなのかもしれない、と思わされる。

イスラムの男性たちの女性観が、とても歪んでいることを、よく考えることが大切であると思う。

女性の蔑視は、女性をよく知らないところから始まるだろう。
子どものときから、女性たちや女の子たち、母親からも隔離されて、男は男同志で育ってしまうと、女性とはどんなものなのか、女性との付き合い方、話し方をどうしたらいいのか、わからないまま大人になってしまうのではないだろうか。
そして、人から聞いた情報や、テレビやインターネットで聞いた情報だけで、「女性像」を作ってしまうのではないだろうか。

日本でも、男子高校出身で運動部だった男性などは、思春期の年ごろに、女性と接する機会が少なかったため、女性とうまく話せない男性が、いる、という話を聞く。

また、家で「お母さん」と接することも、とても大切なことだろうと思う。

女性が教育を受けることを、頑強に拒むのは、欧米化を畏れているということなのだが、イスラム圏の男性が知っている「欧米の女性」というのは、どんな姿なのだろう?
あまり一般的ではない映画やポスターを、「欧米の女性」と思ってしまっているのではないだろうか?

また、女性に教育を受けさせたくない理由のもうひとつとして、男性も、教育を受けたい、という意味もあるのではないか。
世界各地から、さまざまなボランティア団体が、「子どもにも教育を受けさせるべき」「女の子にも教育を受けさせるべき」と活動をするために入っているが、子どもでもなく女性でもない、十代から大人にかけての男性が、教育を受けられる環境が、とても少ないのではないか。
十代から大人にかけて、というと、中学校、高校、大学、である。

ノーベル平和賞を今年受賞した、マララ・ユフスザイさんは、今、イギリスで高校教育を受けている。
環境や経済的事情から、高校教育を受けられない男性たちが、中東イスラム圏にはたくさんいることだろう。
こうした男性たちが、「なぜ女性にばかりスポットライトが当たるのだろう?」という、むしろ男性への不平等の叫びであるかもしれない。

まず、男性たちに、教育を受けられるようにすることも、必要なのではないだろうか。
男性たちが、必要な教育を受ければ、女性への対応の仕方も、大きく変化していくだろうと思われる。
また、近代化や社会に対する態度も、変化していくのではないか、と思われる。

女性観は、今の日本でも、とても大きな課題である。
イスラム国の女性観を考えることは、日本のこと、自分のことを考えることでもある。

イスラム国の問題に関して、これからも、また折に触れて、ひとつひとつ考えて書いていきたいと思う。