赤瀬川原平さんとトマソン。

先日、赤瀬川原平さんが亡くなった。
作家で芸術家、と言われてもピンと来ないが、「トマソンの」と言われると「あぁ」と思う。
私は芸術とか美術にはそんなに詳しいほうではないのかもしれない。
イタリア・ルネッサンスの絵画なら、好きな絵はいくらでもあるのだが、現代芸術、それも前衛芸術というと、さっぱりわからない。
名前と作品が一致しないのは、やはりあまり好まないからかもしれない。
特に「前衛」と呼ばれるものは、文学であっても、あまり好みではない。

それでも、シュールレアリズムというのには、いっとき興味があって、いろいろ見聞したものだが、友人もうなずいていたのだが、シュールレアリズムが好きな時期、というのは、はしかのようなものであって、いっときは熱に浮かされたようになるが、その後、パタリと止んでしまうような「好き」なのだそうである。

「トマソン」は、その友人が「トマソン写真集」を持っていたので、見せてもらった憶えがある。
トマソンというのは、誰かプロ野球選手の印象からとった、いわば「あだ名」のようなものであるが、「無用の用」に近いような意味だったと思う。

階段があって、その階段を昇った先に、ドアがない。
二階建ての白壁に、ぴったりと階段がくっついているだけであって、昇ったとしても、二階の部屋に入れないのである。

こうした建物は、前衛美術として造形したものではなく、一般家屋に存在する。
なぜこうした建物ができるか、というと、古い建物を改築したり、増築やリフォームをしたりする際に、二階の壁はふさいだのだが、階段を取り外すのは、費用がかかるからやめにした、そのままにしておいた、というような理由であるらしい。

こうした、何か不自然な建物が、日本だけではなく世界中の都市や町々に点在していて、それを見つけては写真を撮って、芸術としているのだそうだ。
旅行先で「トマソン」を見つけるのが趣味、という人もいるのだそうである。

「トマソン写真集」を見たとき、とても面白かったので、笑ってしまった。
芸術を味わう態度ではないのかもしれないが、とても面白かった感覚が残っている。

「お笑い文化」が、日本でも盛んである。
「面白い」と感じるのは、常識を逸脱した何かを感じるからだ。
常識をはずれたときの「はずれ具合」の面白さは、常識を知っているからこそ、得られる楽しみである。
もともと常識を知らない人にとって、これが常識からはずれているかどうか、は認識できないだろうと思う。

「トマソン」の面白さは、あってしかるべきところにドアがない、あってしかるべき入口がそこにない、という「しかるべき」の常識を、超えたところにある。

笑いを楽しめない人が増えているのは、「しかるべき」という乗り越えるべき常識を、最初から知らない人が、増えているということなのだろう。


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