2014年11月14日金曜日

動物愛護の風潮について思う。

ここ数年、というべきだろうか、動物愛護の風潮が、とても大きくなった、と思う。
主に、インターネットで、感じることである。
ツイッターで、「迷い犬」「捨て猫」などが、多くの人にいわゆる「拡散」をされて、「誰か飼ってくれる人はいませんか」と、情報として多く共有されている。
また、自宅のペットの猫や時には小鳥やちょっと変わった動物などを、写真や動画でインターネット上にアップしている人もいる。
全体的に「かわいい」と好評である。

そして、迷い犬や捨て猫などが、保健所で殺処分になることが、とても大きく取り合上げられている。
「かわいそう」ということなのだろうか。

私は、子どものときから、子どもなりの自然な気持ちで、雨の日に鳴いている子猫などを、拾ってくるような子どもだった。
そして、大人になって、農業や生物を専門とする大学に進んだ。

けれども、「現実」というものは、「かわいそう」だけでは、済まされないものだ。

保健所に務めることになった、友達の獣医師がいるが、その人の仕事は、野良犬や捨て犬などで、保健所に集まってきた犬や猫を、検査して、殺処分することだという。

もともと、保健所が、飼い主のいない、犬や猫を集めるようになったのは、大きな理由がある。
かつての日本は、昭和初期や大戦のころなどは、たくさんの野良犬がいた。
東京の街にも、野良犬が群れを成して走り回ったり、人に危害を加えていたそうである。
また、野良犬や野良猫は、ごみをあさったり、どぶ川を泳いだりする。
不衛生なことはこの上ない。
さまざまな病原菌の媒体となっている。

私は、ツイッター上で、小鳥を食事の皿に載せているような写真を見ても、危険だと思うのだが、動物はたとえ、ペットとして飼育されていても、たくさんの病原菌を持っているものである。

だから、街の治安と衛生を守るために、野良犬や野良猫、ほかの野生の動物たちに関する対策は、どうしても必要なのである。

私たちが大学で教えられたのは、「人間のための動物である」ということである。
人間の生活を侵害してまで、動物を大切に生かす、ということは、あってはいけないと厳しく教えられた。
だから、現在の獣医師も、病気になった動物を、「治す」「生かす」という方向で医療も研究もしていない。
できるだけ早く、「人間に伝染する」病原菌を見つけて、感染が広がるまえに、察処分することが、獣医師の仕事である。

動物や植物を、どのように、人間の生活を向上させるために、使っていけるか、ということが、農業、生物、獣医学の、基本理念なのである。

その上で、生命への愛情と態度を見に着けていくのが、私たち学生の四年間であった。

「かわいそう」だけでは済まされない現実がある。
猫も犬も、ほうっておけばどんどん増えてしまう。
猫や犬に、あるいは馬に、どれだけお金を使えるか?
公的な税金を使うことができるか?

このところ、子どもたちの純粋な心が、インターネットを通じて、世間中に伝播して、人々が博愛主義になってしまっているような気がする。
人の生活もままならないような世の中で、どうやって猫の健康を守るのか。
課題にもなりえない話題であった。


それにしても、このごろの人間は、動物に対して、「かわいい」と思うようになったのだろうか?と思うと、そのあたりも不思議な気がする。
私の祖母は、田舎の大きな農家の家に暮らしていたのだが、窓も戸もなにしろ農家、という状況で、猫だって、どこから、誰が飼い主ともわからない状況の猫たちが入ってきたものだった。
そういう台所で魚を焼くと、あっと言う間に猫がさらって行ってしまうので、祖母にとって、猫は「にっくき存在」であった。
かの「サザエさん」にだって、「お魚くわえたドラ猫」と歌われている。

もっと時代が昔だったころは、家には、猫もいて、犬もいて、にわとりもいて、つばめの巣があって、牛も飼っていた。
そういう時代には、猫は「かわいいペット」ではなかったと思う。
私が何軒か訪れた農家でも、猫の扱いは、「いつの間にか住み着いている」「にっくき」「しかたない」「同居人」「まだいた」「油断大敵」という相手だった。

動物に対する態度や気持ち、一緒にいるときの、「暮らし方」が、変化しているのかもしれない。