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2014年3月28日金曜日

袴田事件に思うこと。

先日、無実の罪で捕らえられていた、袴田巌さんの、再審が決定した。
袴田さんは、釈放された。
何十年も前の事件とはいえ、こうした「冤罪」という言葉には、何か独特な、重い重い、運命的な響きを感じさせるものだ。
いったい、どうしてこんなことになったのだろう。

北朝鮮に拉致された、横田めぐみさんのご両親も、また、このような重い運命を、感じていらっしゃるのではないだろうか。
事件がなぜ起こったのか、そして、それに対する、警察や検事、政府の対応はどうであったのか。
それにしても、なぜ、自分が、こうした、理不尽な冤罪に巻き込まれなければならなかったのか。

袴田さんの釈放の写真を、メディアで見ることができた。
袴田さんを、とても長い間、無実を信じて支えてきたのは、お姉さんである、という。
姉として、弟を思う気持ち、強い強い、深い愛情と信頼、このお姉さんの弟を思う気持ちが、実を結んだ結果なのだろう、と思う。

横田めぐみさんのことでも、ご両親の、娘さんを思う愛の強さに、心動かされずにはいられない。
家族への愛情と絆は、こんなにまで、深いものなのか。

いつの時代にも、姉が弟を思う気持ちは、どんなふうに年齢を重ねても、まったく、一点も変わりがないものだ。
文学作品でも、しばしば登場するテーマである。

冤罪、という理不尽な運命に立ち向かって、見事に再審の扉を開いた、姉の、弟を思う、強い強い愛に、今あらためて、心に呼応して、温めたい愛がある。


2014年3月27日木曜日

アリとキリギリス。

先日、晴れた日に、自転車を漕いでちょっと遠くのショッピングモールまで出かけてみた。
平日の午後で、明るい陽射しが降り注いでいる。
お客さんはそんなに多くなかった。
たいていが女性で、大きな黒いバッグを提げている。
あるいは男性客は、これはご年配のかたで、カフェの店内で、隣の書店で購入したものであろうか、本を読んでいる。
大きな厚い単行本である。

喫煙室は別になっていて、授乳室なども完備されているが、そちらのほうへ歩いて行くと、隅にうずくまっている老婦人の姿をみかけた。
小さな椅子でも置いてあるのかもしれないが、そこに腰かけて下を向いて、何か小さな本に一生懸命書き込みをしている。
わきに、大きなビニールバッグに入れた荷物を、ふたつも置いている。
身なりから、ホームレスさんではないことはわかる。
一度行き過ぎてから、もう一度ひきかえしてみた。
いったい、何を一生懸命こんなところで書き込みをしているのか、興味を持ったからである。
わきを通り過ぎながら、じっと見ると、その書き込みは、数独パズルであることがわかった。
ナンバープレイスとも呼ばれている人気のパズルで、たてに9個、横に9個の、マス目があり、そこに、1から9までの数字を入れていく。
たて、よこ、それぞれに、同じ数字が重ならないように入れていくものである。

「こんなところで数独パズル?」と思いながら、そのショッピングモールの100円ショップに入ると、まさに100円で、その数独パズルが販売されているのであった。

自宅に帰る途中で、友達の家に寄ったので、その話をしてみた。
友達も私と同じ世代で、こういった話にとても興味を持って、お茶をいれて、話をした。
いったい、この老婦人は、ショッピングモールで何をしていたのだろう。
友達の推理は、このようなものである、すなわち、
「この老婦人は、家に居場所がないんだろう」ということである。
「家はあっても、お嫁さんがいて、そのお嫁さんはとても意地悪で、家にいても針のむしろなんでしょう。それで、昼間からいる場所を探して、ショッピングモールに来ているんでしょう。パズルをしていたのは、認知症の予防のためで、大きなバッグには、老齢年金の通帳なんかも入っているんだと思う」
それは本当に、かわいそうな話、と思い、今の時代、今の世相を映した状況だと思って、また一口、お茶をいただく。
友達の話はまだまだ続いている。
「でもね、聡子ちゃん。そのおばあちゃんだって、若いころにはそのお嫁さんをうんといじめて、うんといびったんじゃないかしらねぇ。」
「えっ?」と思って聞き返す。
「そうだと思う。息子さんをかわいがって、お嫁さんをいじめた。お孫さんをかわいがって、うんとおもちゃなんかを買ってあげたんじゃないのかな。でも、年を取って、力もなくなってきたら、お嫁さんが実権を握って、息子さんには、そろそろいいんじゃないの?なんて毎日言われて、高校生になったお孫さんからも邪魔者扱いされて、それで居場所がなくなったんじゃないの?」
私は、なにか絶句してしまった。
「人間、してきたように、されるんじゃないのかしら」
「それってどういうこと?」
「人間、生きてきたようにしか、老いていけないものじゃないかしら」

特別養護老人ホームへの入居希望者で、待機している状態の人が、日本全国で75万人いるそうである。
老人ホームの待機、というのは、いったい何を待っているのだろうか。
「要介護」の度数というのは、つまり、認知症の進み具合の度合いである。
他の病気で、介護を必要とする場合は、年齢に関係なく、医療の看護が必要なので、高齢者だけに使われる「要介護」は、「認知症の度合い」を指すのである。

こうした状況であっても、老人ホームへの入居というのは、決まった順番で入れる人は入れるものなのだ。
つまり、まずは、入居料を払える人である。
これは、若いころから積み立てた貯金、財産があり、それを老人ホームの入居料に使える人である。
それから、子どもや親族がいて、入居する本人の、保証人となれるときである。
これは、入居中もその後も、きちんと手続きを行える、身元を引き受ける、見元保障人となる。
この親族が、「その後」も、きちんと入居料を支払うのである。

それから、この本人が、以前から、あるいはときには、若いころ、子どものころから、かかりつけの病院・医院・医師がいた、ということである。
これは、本人との人間関係、信頼関係である。
この病医院ですぐに引き受けることができなくても、人間関係があれば、別の「信頼できる」医院に、紹介をすることができる。

こうした、年齢のいった本人が、生きてきた間にしてきたこと、子どもとそのお嫁さんや孫たちとの信頼関係、医師や病院、地域での人間関係、そして、財産、こうしたものが、老後という、たいへんに「他人の手」を借りざるを得ない状況のなかで、モノを言うのである。
それはまさに、人間、生きてきたようにしか、老後が訪れないのだ、ということである。
老いは、誰にでも訪れるものであり、人間として避けられないものである。
身体も心も、老化を止められない。
認知症の予防策はあるだろう、しかし、その対策を、あたかもメタボ予防のように、がんばってきたかどうか、である。

今、3月年度末になって、あわてて増税前の買い置きをする人たちがいる。
あるいは、今このときになって、あわてて「増税反対」のデモ行進をする人がいる。
「遅すぎる」とは、思わないのだろうか。

人間が年を取ることは、誰もがわかっている。
4月から増税することは、誰もがわかっていたはずだ。
それなのに、手を打つのが、遅すぎはしなかっただろうか。

老後に対する手の打ち方も、早めに予測して、あらゆる対策を立てている人が、ちゃんといる。
その一方で、75歳も過ぎて、蓄えもなく、若いころには海外旅行で思い出作りをしてきた人が、高齢施設がないことに、不満を言っている。

ある、訪問看護をしている看護師さんに聞いた話だが、いまどき、介護をしているお嫁さんなんて、どこにもいないそうである。
訪問看護に行くと、応対をしてくれるのは、「実の息子」さんなのだそうだ。
それはそうだろう、と思う。
それにしても、介護が必要になる前に、もっともっと、お嫁さんに親切にしておかなかったものなのだろうか。

ケアマネージャーさんは、ピンからキリまでいるそうである。
どんなケアマネージャーさんがつくかで、介護サービスの受け方も、介護保険の使い方も、ちがってくるそうである。
優秀で公認のケアマネージャーさんを養成することが、必要だ、とその看護師さんは一生懸命、言っている。

あちこちで、いろいろな話を聞いて、いろいろな姿を目にしながら、私は思う、どうやって、どうすれば、この高齢化時代を、生き生きと、生きていけるのだろう。
先輩の高齢者にも、学べる人がたくさんいる。
そういった人は例外なく、後輩に親切である。

明日は我が身、のこの世である。
一寸先は闇、とも言われるこの世である。
30代の若い世代ほど、貯金にいそしみ、老後のためのマンションを購入検討するそうである。
アリのように一生懸命働いて、老後を温かく暮らすのも、キリギリスのように歌って人生の夏を過ごすのも、その人その人の、自由な選択かもしれない。
どの問題をとっても、どこかに、人生の哲学の必要性を、感じさせるものなのである。


2014年3月24日月曜日

桜前線。

3月もお彼岸すぎ、となった。
東京でも桜の開花が近づいている。
毎年、3月のおわりぐらいには、桜の開花がトップニュースに入ってくる。
「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」
と詠ったのは、平安時代の歌人だっただろうか。
私たちの心は、その時代から、どうにもまったく変わらないようだ、と思う。

毎日、天気予報では、きょうは桜前線がここまで来ました、というイラスト入りの情報が入ってくる。
それも、きれいな桜色で、濃い桜色、淡い桜色、と、薄絹を重ねたようだ。
花の色、というのは、どんなに重ねても、くどくなりすぎない、不思議な色合わせだと思う。

私は、北海道に住んでいたので、桜というと、ゴールデンウィークが、見ごろだった。
年によってちがうのだが、やはり、5月の3日から5日くらいが、満開となって、円山公園でも旭山公園でも、ドライブがてら、出かけたものである。
そういう話をすると、本州の友達は、けっこう驚くものだ。

台風も同じく、桜前線も、東京を通り過ぎたあとも、北上して仕事を続けている、というわけだ。
北海道では、桜も梅も、同じ時期に咲くので、桜と梅の花の区別がつかない人もいる。
梅の立ち位置がどうにも薄くなるところもある。

北国の春はいっせいで、水仙もれんぎょうも勿忘草もムスカリもユリも、いっせいに5月に咲く。
本州では、もう1月から、蝋梅や黄梅が咲き始め、少しずつクロッカスが芽を出し始めるから、春は春、といっても、ずいぶんと幕の上がり方がちがうものだ。

これから、春四月の転勤で、北上する人は、東京の桜と北国の桜と、花を二度見ることになるだろうか。
桜前線とともに北上してきた、東京からの旅人を、心から歓迎していたあの、五月のお花見シーズンの風の爽やかさを、思う。



2014年3月22日土曜日

「幸福度」のはかりかた。

「しあわせってなんだろう?」この問いかけは、多分に思想的、哲学的な側面を持っている。
哲学的幸福論として有名なのは、アランの「幸福論」であろうか。
ちょっとものの考え方を変える、というようなことで、幸福のありかたは、心のありかたである、と言えるのかもしれない。
また、「しあわせを探す人が一番しあわせな人」というような歌の歌詞があったり、あるいは、「日々感謝できる人がしあわせな人」というような本がベストセラーになったりもする。

国際的な指標としては、「幸福度」というのは、もっと現実的で、事実をもとに測定した事柄となっているようだ。
さる国際機関が、この「幸福度」を、世界中の主な国で、計測して比べたものが、あるようだ。
とても残念な話であるが、この「幸福度比較」において、日本という国は、お世辞にも金メダルとはいかなかったようである。

それで、文明先進国、というか、他の問題は乗り越えてきた国としては、次なる目標、幸福の追求、という課題を、追い求める状況なのではないか、と私も思う。

この国際機関における、幸福度の測定基準は、本当にまさに、と、うなずけるほど、理にかなった基準である。
また、個人個人の目標としても、これを掲げるのは、とてもよいことではないか、と思われる。
幸福は果たして、ただ「心の持ちよう」の問題だけなのだろうか、もしもこれらの条件が満たされていない状況で、本当に「幸福」と言えるのかどうか、ひとつひとつ考えてみたいものだ。
その条件、基準、とは、このようなものである。

1、住宅
2、収入
3、仕事
4、コミュニティ
5、教育
6、環境
7、市民参加
8、健康
9、生活上の満足
10、安全
11、ライフ・ワーク・バランス

「幸福度」の尺度、みなさまは、どうご覧になるだろうか。

2014年3月21日金曜日

ライフ・ワーク・バランス。

日本人は、勤勉な国民性を、誇りとしている。
今はそうでもないかもしれないが、ずっと以前には、日本に来る外国人がとても驚くことは、日本人がとても勤勉で、熱心に精密に、よく働く、ということである。
そうした働きぶりのせいなのか、日本は、戦後に高度経済成長を遂げることができた。それも、急速に、である。
その姿が、ときには「エコノミック・アニマル」「働きバチ」と、揶揄されることになってしまった。
これが、もし、健康被害や、遅刻、仕事に関する事故などに直結することがなければ、日本人の特質として、そのまま、何を言われても、誇りにしていればよかったと思う。
しかし、これが、人々にとって、さまざまな悪影響を出している、ということがあれば、これは、問題にするべきであると思う。
育児休暇や有給休暇を取ることも、なんとなく罪悪感があって、それを取れないような、環境というか、人々の価値観、雰囲気というものがある。
昼休みさえ、12時にいったん仕事を終えて、社外に出る、1時間は個人的な時間を持つ、こうした雰囲気も、ない状況である。

これらが、健康被害や仕事の能率低下を引き起こすことを、たくさんの人が理解をして、積極的に休暇を取れるように、努力や工夫をしてもよいのではないか、と思う。

私の場合は、自分個人で、とても好きな趣味を、いくつか持っている。
たとえば、編み物である。
これは、電車のなかでも、銀行の待ち時間でも、ちょっとした座る場所があれば、バッグのなかから取り出して、編むことができる。
手指を動かすことで、何か気分がリフレッシュするようだ。

それから、ピアノがある。
熱心にピアノに向かっていると、音楽の世界に没頭できる。
練習もいいが、自由きままに、好きな曲を弾いて音を出すのがいい。

それから、春になると、ガーデニングのシーズンである。
春の空気は温かく、風も南風で、あわい緑色の草が、いい香りである。

私は案外、多趣味であるが、仕事の合間に、そのときそのときで、時には編み物にしたり、時には、これは季節に応じて、であるが、自然のなかでガーデニングをする。

しかし、である、私の仕事ぶりと生活を見たある、ほとんど医療関係に近い専門家などが、「あまりにもいろいろな仕事をしすぎる」「少し休んだほうがいい」と言うことがあるのだ。
「では、休む、とはどういう状態でしょうか?」と問い返すと、「何もしないで、横になる」というのである。
いったい、どうなっているのだろうか。
日本においては、「休む」という概念は、医療の面からも、何か堅苦しいものがあるようなのだ。

海外においては、ライフ・ワーク・バランス、という考え方が、すっかり定着しているようだ。
しっかり睡眠をとり、しっかりと有給休暇をとってバカンスをする、こうしたことが、むしろビジネスマンの、身体的、精神的な健康管理法として、重要なのだという。
むしろ、自分の身体を酷使して、「どれだけ寝ていないか」を自慢するようでは、ビジネスマンとしての能力は、疑われる、ということなのだそうだ。

有意義な仕事とその成果、そこに至るまでの、健康管理と、休暇の必要性、これが、ライフ・ワーク・バランス、ということになる。
これから私たちが、課題としていくべき、ライフスタイルの変容なのかもしれない。



2014年3月19日水曜日

マレーシア機のハイジャックについて。

マレーシア機が、行方不明になって、もう10日もたつ。
3月8日の日本時間の未明にクアラルンプールを出立し、その後2時間ほどで連絡を絶った。
到着するべき北京に、時間になっても到着していない、ということで、初めて騒ぎになった状況で、いったい何がどうなったのか、と思う。
私たちは当初、墜落、という最悪の事態を想像して、何かとても不安な気持ちになったが、その「墜落」の証拠さえ、出てこない状態である。
もしも、海の真っただ中に落ちてしまったのなら、確かに、機体の一部も、漂流物も、何も見つからない、ということかもしれない。

しかし、もしもハイジャックだとして、まだ、乗員乗客も安全だとすると、これは、まだ、ハイジャックとの交渉が続いている、ということになる。
そして、ハイジャックされた飛行機は、あちらこちら、と空港をさまよいながら、燃料を補給しては、飛んでいる、ということになるだろうか。

このハイジャック犯と、交渉をまとめて、なんとか無事に着陸してもらうには、どうしたらいいのだろうか。

それにしても、不明なのは、中国当局の態度である。
乗客のなかに、中国国籍の人たちが、100名はいる、という情報であった。
それなのに、中国としては、なんの声明も出していない、というのは、どういうことなのだろう?
捜索に対する態度も、積極的ではないように感じられる。
また、中国国民の態度も不明である。
もしも、家族がこの航空機に乗っているとしたら、国民としても黙っていないはずではないだろうか。
また、中国のツイッターでも、大騒ぎになっていて当然であるが、それがないのも、不自然である。


すでに、中国の国内にどこかで着陸しているのではないだろうか。
あるいは、中国のどこかに、墜落しているのではないだろうか。
そして、中国当局がそれを隠しているのではないか、とも思われてくる。

中国は、国内の治安に関して、このところ、連続しているテロに、とても警戒している。
中国の治安に関しては、近隣諸国から手をさしのべてもいいですよ、ということで、事故の内容や、乗客の安否は、確認させてもらえないだろうか。
それとも、日本とは、外交上のやりとりがあるから、情報を明らかにできない、ということだろうか。
どちらにしても、共産主義国家の、悲しい現実を突きつけられる状況である。
人命第一と考えて、極秘でも構わないから、他国に助力を要請してほしい、と願うものである。




クリミア半島のロシア編入について。

ロシア、クリミア半島で、緊張した状態が続いている。
クリミアではすでに、ロシアに編入を希望する住民投票が行われており、これに反対しているのは、欧米諸国である。
クリミアは、歴史をさかのぼっても、地理的な位置関係から、ヨーロッパとロシアの国境にあり、さまざまな利害関係もある場所である。
しかし、ウクライナの状況がうまく行っていないことを考えても、今のクリミアが、大きな力を持つ、ロシアに、編入を申し入れても、不自然なことは何もない、と思う。

アジアで考えてみると、韓国と北朝鮮が、歴史的に見て、「韓」と総称されるような、ひとつの国であったことを考えると、韓国と北朝鮮の人々が、統一を心底願っているのは、よくわかることだ。
それと同じように、クリミアでも、この地域一帯の安全と、平和の保証を、願っているのだと考えることができる。

ヨーロッパやアメリカとしては、ロシアの勢力が強まるとか、ロシアが領土を拡大しようとしている、と捉えて、東西冷戦の時代を思い出して、不服なのかもしれないが、まず第一に、クリミア半島に暮らす人々の、心情を思ってほしい、と思う。
そして、平和の方向へ、平和の方向へと、考えて進めて行ってほしい問題だと思う。




2014年3月17日月曜日

マレーシア航空機の謎。

3月17日。週明けの月曜日である。
昨夜も、輝く丸い月が、空のてっぺんを飾った。
今夜は満月になる。

きょうからは、いろいろな、国際情勢の変化がありそうだ。
というのは、昨日16日に、ロシアのソチ、冬季パラリンピックが、無事に終了したからである。
ソチの閉会式を待つまでは、何かそわそわと、ソチの無事を祈り、落ち着かない日々であった。

週明けには、アメリカが、クリミア半島情勢に対して、ロシアの態度に、軍事介入する、という。
これは、ソチのパラリンピックの終了を待ったものだと思われる。

そして、今月8日、先々週の金曜日であるが、この日に連絡を絶ったまま消息不明のマレーシア航空機、この消息が、いくらなんでも、はっきりしてくる、と思う。

なんらかの、「結果発表」が行われるのではないだろうか。
私は、さまざまな情報を耳にして、これはもしかするとハイジャックではないだろうか、と考えていた。
ハイジャックだとすると、国際的なテロ、ということも考えられる。

予想の上に予想を組み立てると、ハイジャック、飛行機テロ、というと、中東とアメリカの対立や、9・11の同時多発テロを思い起こすところである。

もしかすると、クリミア半島の情勢と、今回のマレーシア航空機のハイジャックテロとは、関連があるのかもしれない。
関連がなかったとしても、同一犯人グループではなかったとしても、私たちにとっては、世界のあちこちで、テロや国際問題が起こっていることには、変わりがない。

ハイジャック機が無事に発見されて、乗客乗員が全員無事であることを、祈っている。
もうすでに、どこかマレー半島とは別の場所で、着陸して、対応が進んでいるのではないか、と私には思われる。
そうしたことは、もちろん、国際的な協力のもとで、当人や乗客やその家族を安全に導くために、極秘で行われてきたことだろう。

もしかすると、もう発見されて、乗客の状況も、発表できる状態ではないのだろうか。
犯人が捕らえられたとしても、そうでなかったとしても、これは、ハイジャックが起こったというだけで、国際問題に影響してなんらかの火種となることは、まちがいなさそうである。

週明けになるまで、平和の祭典・パラリンピックが終わるまで、テロリストたちに対する強い対応や発表を、待った、とも言えるのではないだろうか。

北朝鮮に関する情勢では、かねてより問題のあった、拉致の問題に関して、新しい展開が見えてきている。
娘さんを拉致されてしまった、横田夫妻が、お孫さんにあたるヘギョンさんに、これはモンゴルという地で、再会する機会があったと、報道があった。
これは、事後の報道である。
もちろん、安全を考えると、そうなるだろう。
しかし、場所がモンゴル、というのは、どういう意味なのだろう?

それと同時に、北朝鮮では、連日のように、ミサイルの発射を行っている。
これはいったい、世界各地で、平和の天使と、戦争の鬼が、戦っているようなふうにも見えてくる。
なんだか、ざわざわしている。

今週は、日本国内では、春の甲子園大会と、日曜日には大阪市長選挙の投開票がある。
社会は、増税前であったり、卒業、入学、春休み、そして引っ越しシーズンでもあり、あわただしい。
この、社会のざわざわした状態を、乗り越えていくためには、心強く持たなければならない、と本当に思う。

何かありそうな、何か不穏な、週明けの月曜日である。






2014年3月16日日曜日

スプリングセール。


毎日のお楽しみ、というといろいろなものがあるけれど、私の、このごろの楽しみは、毎朝のチラシを見ることである。
一枚一枚、丁寧に隅から隅まで見ることがある。
そんなに毎日、チラシに釣られて、買い物に出かけることはないけれど、きれいな赤や青のラインとか、レトロっぽいデザインとか、どんなものがいくらで販売されているとか、あるいは、期間限定のお得なクーポンがついていたりして、これがなかなか楽しい。
今年の春、3月に入ってからは「増税前の」という言葉が必ず大きく入ってくる。
8パーセントはよくよく計算してみると、そんなにお得ではないのでは?という、消費者センター的な専門家の話もあるし、4月になったら、むしろ本体価格が値下がりするのでは、という話もある。
それでも、びっくりマークと数字の踊ったチラシは楽しいものだ。

今、みんな、どんなものに興味があるんだろう?と思う。
小学生や中学生には、塾のチラシが毎日、毎日である。
いろいろな塾があるものだ。
大手の全国展開の塾もあれば、一対一の個人レッスンが効果的、とうたうところもある。

春のフォーマルも、あの店とこの店とでは、お値段がゼロひとつ分くらいちがったりして、どこがどんなふうにちがうものなのか?朝から考え込んでしまう。

スーパーマーケットのチラシは、季節と旬を伝えてくれる。
ひな祭りからお彼岸、卒業や入学のお祝い膳まで、スケジュール管理にアラートを鳴らしてくれる。

時には、お墓や墓石、葬祭場のチラシまで入ってきて、このごろの墓石は、デザインも豊富、「旅立ち」「悠舞」などと、名前もつけられている。

割引クーポン券は、何か特別な切符のように見えてくる。
20パーセント引き、これは計算機が必要だ。
なかには、ミシン目まで丁寧に入っているものもあって、手できれいに一枚一枚切り取って、ポケットに入れておけるようになっているのだ。

小さなお財布の、小さなコインで、どこでどんなものを手に入れましょうか。
小さなコインは、小さな自由でもある。
気晴らしにちょっとお金を使う、というのも楽しい。
色鮮やかなチラシたちは、私たちに、「あなたのコインの使い道」について、やさしいアドバイスを配ってくれている。
私は急ぎの用事の道すがら、春の色のショーウィンドウを見てみては、小さなコインをてのひらで、また裏返しては表に返す。



2014年3月14日金曜日

小松一郎法制局長官。

国政の場で今、小松一郎法制局長官の動向が、話題となっている。
国会ではなく、委員会の場において、不適切な言動があった、ということらしい。
その態度を見咎められて、民主党議員から、更迭を要求する声が上がっている。
これは、発言の内容そのもの、というよりも、態度が問題なのではないか、と私には思われる。
かなり、声を荒げて、怒鳴るように、顔と顔を突き合わせるようにして言い合いをしたようだ。
その内容も、「小松さんは頭の体操をしている」「それなら頭の体操のリストを出してさしあげましょう」というような、売り言葉に買い言葉、的な言い合いであって、とても大人の論争とは言えない状態だったようだ。

国会では、先日も、アントニオ猪木氏が、大きな声を出して、注意を受けている。
どうも国会も国政も、おだやかではないらしい。
私は思うけれども、それは、論議がとても白熱している、ということで、白熱するほどの国会というのは、むしろ好ましいものではないだろうか。
以前は、牛の歩みのような、国民がちょっとなんだか思うような場面だってあったのだ。

小松一郎氏が昨年8月に任命された、法制局長官、という仕事の内容は、私たち国民がどんなふうに政治を勉強しても、なかなか理解しずらい役である。
もともと、国会というのは、今ある法律の是非を審議したり、これから新しい法律を制定したりするために、審議して決議を行うところである。
この国会の審議に提出するための法案を、提出する前に、一度、目を通しておいて、「こういう法律なら問題ありませんよ」と認定するのが、法制局の仕事だそうだ。

この法制局が制定されたのが、明治の初めであるから、新しい法律を制定するために、まずは法案として国会に出せる内容なのかどうかを、あらかじめ「誰か」が、認定する必要があったのだろうと推測される。
なにしろ、明治時代というのは、民主化が始まったばかりのころなので、まだ法律というのがよくわからなかった国会議員が、とてつもない法案を、提出しようとしたのかもしれない。
あるいは、「だれか」にとって都合の悪い法案が、国会に提出されることが、あったのかもしれない、と推測される。
いずれにしても、かなり古い時代の制度である。

この法制局の長官に、小松一郎氏が抜擢されたのは、昨年の8月である。
小松氏は、国際法が専門であるようだ。
当時の日本の状況は、「すわ、戦争か」という時期であった。
アメリカやヨーロッパとの対応に、国際法に詳しい人材を、副大臣クラスの、総理大臣の相談役として、置く必要があったのではないか、と思われる。
そして、その役にふさわしい履歴が、小松氏にはある。
国際法の専門家として、スイス、リヒテンシュタイン、フランスで駐在して、外務の仕事を歴任している。
スイス、リヒテンシュタイン、と言えば、言わずと知れた、永世中立国である。
この永世中立国は、永世中立であるために、軍を持っている。

今の世界情勢のなかで、軍を持たないで中立を保つのは、現実的ではない、というこのものの考え方が、私は好んで考えていることである。

こうした、永世中立と軍隊を持つことの意義を、日本の社会のなかで、人に説明するのは、本当に、とてもむずかしい。
しかしこの社会状況のなかで、誰もセキュリティもしないで平和を維持できるのだろうか。

憲法において、「自衛」は保障されているが、どこからどこまでが「自衛」に当たるのか、それは、外からの働きかけによるものではないかと、私は思う。

私は、スイスやリヒテンシュタインの法律には詳しくないが、もしかすると、スイスの永世中立の基礎となる概念に、軍隊を持つことは「自国の自衛のためである」という考えが、あるのかもしれない。
それで、小松氏の考えとしては、日本が軍隊を持つ際に、憲法を改正する必要はなく、「自衛」の概念を変えていくことで、軍隊を持つことができる、ということなのではないだろうか。
わざわざ「国家安全保障基本法」を作る必要はない、ということではないだろうか。


集団的自衛権の解釈が話題となっている。
小松氏は、その「自衛」が、国際法的に見て合法であることを、日本社会で解説することに、とても苦心しているのかもしれない。

「自衛」の概念は、むずかしい。
無防備に、自転車の前カゴに、大金の入ったハンドバッグを入れておいて、その状態で街を歩いて、カゴからバッグを取られない社会が理想である、と夢見るのはたやすい。
しかし、現実的には、自転車のカゴのバッグは、ひったくりに会うのである。
ひったくりから「自衛」するのが、カゴにネットをかけておくことだろう。
そのくらいは自分でしておかないと、お巡りさんに訴えても取り合ってもらえない。

集団的自衛権の解釈は、「世の中の状態がどのくらいで、どの程度自衛しなければならないか」の現実直視である。
この世界情勢のなかで、軍隊を持つことは、集団的自衛権の範囲なのではないだろうか、と私は思う。

小松氏は、高い国際意識が、国会議員に伝わらなくて、ちょっとイライラしただけなんだろう、と思う。
共産党や民主党に、どんなふうに嫌がらせ発言をされても、がんばって高い国際意識を、貫いてほしいものだと思う。

2014年3月13日木曜日

移民と人種・民族問題について。

お花見の季節となった。
花の便りを聞けば、毎年、どの公園でどんな人たちとお花見をしようか、楽しみに計画を始めるものである。
今年、上野公園では、いわゆる「ゆるきゃら」が登場して、お花見のお客さんに、マナーを守るように呼びかけるそうだ。
お花見というのは、日本の伝統的なしきたりや、親や先祖から受け継いだ、身体に自然に染みついた、マナーがある。
それらを守れない人たちがいると、花の美しさを楽しめない。
どこにあっても、どんな場所で何を楽しむにしても、そこの場所には、言わずと知れたマナーがある。

「郷に入れば郷に従え」とは、よく言ったものである。
知らない、では済まされない。
有名な温泉地に行って、「郷に入った」にも関わらず、「郷」における、文化や習慣を知らないばかりか、教えられても守らない、あるいは、初めから知ろうとしないで、
出身国の文化や「やり方」で通そうとする外国人がいる。
こうした人たちに対して、「マナーを守ってください」と、まず伝えるべきだ。
それでもマナーを守らないので、「出て行ってください」と言われるわけだ。
こうした、マナーを守らない一部の人たちに、私たちの楽しみや文化を簡単に奪われて、許しておくべき理由は、
何一つない。どこにも見当たらない。

異文化への危機感、というのは、実は本能的なものである、と私は思う。
自分とちがう振る舞いや言葉、服装や表情を見て、違和感を感じる。
それは、自らの命と生活を守ろうとする、生物としての、基本的な生体維持の本能である。
私たち人間は、人間らしい生活を送るために、この違和感を、慎重に検討してから、
「この人物は自分の生命と生活にとって、危険はない」と判断する。
そして、ようやく、気心が知れて、胸襟を開いて、話し合うこともできるのではないか。
そうした、感性、感受性というものを、無視してはいけないと、私は思う。
自らの感じる「違和感」というものに、時には率直に向き合うことが大切だ。

韓国や中国に対する、自然に感じる違和感は、誰もが持っているものだ。
それを、どう自分のなかで考えていくかは、個人の自由であり、判断であるかもしれない。
しかし、その「違和感を感じる感性」までも否定することはできない。

これから、日米韓の対談が行われようとしているときに、なにもヘイトスピーチまですることはない。
韓国や韓国人、韓国文化に対する違和感は、心のうちに、そっとしまっておけばいい。
あるいは、ツイッターでつぶやいてみるのも、ひとつの、感情対処の方法ではないだろうか。
確かに「やりすぎ」の行動はあるだろう。
しかし本音であることは、本人にとって、確かなのだろう。

グローバル化にともなって、日本にも、たくさんの外国人がやってくる。
そして、日本にとっても、移民を受け入れるか否かは、目の前の現実として、せまってきていると私は思う。
それは、東日本大震災からの復興や、東京オリンピックの準備のための、労働力に表される。
これは、いわゆるブルーカラーであり、肉体労働、ということになる。
日本人はすでに、お母さまから「大学まで出したのに」と言われて、ブルーカラーを徹底的に嫌い、ホワイトカラーであることを夢見る状況になった。

しかし、男性はもともと、スポーツのような感覚で、日払い・日雇いの肉体労働は、好きなんじゃないだろうか、と思うこともしばしばである。
若いうちはそのありあまる身体エネルギーを、肉体労働、建設労働に注いでも、よいのではないだろうか。
学生アルバイトとしても、よいのではないか、と思うのだ。

こうした、肉体労働、いわゆる3Kと呼ばれる職業に関して、外国から、特にアジアの新興国、中東からもイスラムを信仰する人たちが、すでに職と住処を求めて、日本に入ってきている。
彼らは、労働ビザで来日して、住居を定めているのであるが、この人たちを、日本人として、正式に移民政策で受け入れるかどうか、世界中から、日本の移民政策は遅れている、と言われているのだ。

ここで、「異文化に対する、感受性としての危機感」を思い出したい。
私も、そして、日本の世の中のほぼすべての「お父さん」たちが、イスラムの顔立ちに対しては、我が子を守る本能から、我が町には一歩も踏み込ませたくない、と強く強く思っている。
断固として思っている。

そこに、平和主義や平等主義の理想が、建前となって立ちふさがって、にっちもさっちもいかなくなっているのだ。

ヨーロッパでは、国境が地続きになっていることがあり、民族間の対立が、歴史的にどうしても避けられなかった。
ここは、四方を海に囲まれた単一民族である日本と、欧米諸国とのちがいである。
日本においては、ヨーロッパよりも、民族間の問題は、もっともっと、問題提起されるテーマとなるだろう。

ヨーロッパでは、キリスト教圏において、「もっとよい場所を求めて、住処を変える」「どこか別のところに住み替える」ということが、当たり前になっているような感がある。
キリスト教の聖書でも、「出エジプト記」があり、「ここがだめなら、もっと住みよい国へ」という発想があるようだ。
しかし、日本に来る外国人は、「もっとよい場所」というよりは「もっとよい政府へ」と言っているのだと思う。
自分たちで国や政府を作る気持ち、国民として政府を維持する気持ちが、ないのである。

そして、こうして、国から国へと渡り歩く人たちは、国を維持して故郷に住んでいたいと思う人たちと比べて、ごく一部の、ヒッピー的思想を持った人たちなのである。
流れ流れるヒッピーに、手厚い福祉政策を与えることが、果たして理想通りのことなのだろうか。

ヨーロッパでは、人種間の平等に、むしろ固執するあまり、中東から、イスラム系の人たちがたくさん移住してきたものを、積極的に受け入れた。
しかし彼らは、「郷に入れば郷に従え」という発想はまるでなく、ヨーロッパの街並みのなかに、モスクを建設して、朝からコーランのお経を、大きな声で唱えるのである。
これは、人間としての権利かもしれない。
しかし、自国の文化を守るのも、人間としての権利ではないだろうか。

日本に来る海外からの観光客は、日本の日本らしい文化を、見て体験するために訪れる。
それは、京都、奈良、浅草など、建物や街並みでもあるが、日本らしい質素な生活態度や、絆、や江戸しぐさ、といったところではないだろうか。
ここに、何かとてつもなく無防備に、移民という平等思想を持ち込むと、京都の街中で、由緒ある寺院の横に、モスクの金色の建物が立つ、ということに、なってはしまわないだろうか。
どこに行っても同じような、文化も伝統もまざった状態になることが、グローバル化、と呼べるものなのだろうか。

京都ではすでに、文化伝統を守るための、条例がある。
そうした条例を、それぞれの自治体が町ごとに、定める権利は、あると私は思う。

今後の日本の、移民政策に対する課題は、日本の伝統や文化を踏まえて、慎重に行われるべきである、と私は思う。




2014年3月10日月曜日

3・11-ーあれから3年。

今年も、3月11日がやってくる。
季節はめぐり、時は流れていくもの、と頭ではわかっていたかもしれないが、
こうして、3・11からの3年が流れていくと、
それは、人生で初めての体験であるかのように、
「時は流れていくもの」と思わされるのだ。

あの春も、寒かった。
揺れが来たとき、どこにいて何をしていたか、
もう誰も語らなくなっている。
でも、心のうちでは、あのとき、
どこにいて何をしていたか、よく覚えている。
ガラスが扉を開く音も。

今年も、3・11が近づいてきて、
年明けからはめっきり、「あれからどんなふうに人生を…」と、
語ることが多くなっている。
不思議なことだけれど、3年より前のこと、
震災前の自分とか、震災前の人生とかいうのが、
はっきりと思い出せなくなっている。

そして、震災の年の2月になにをしていたか、とか、
3月にどんなふうだったか、とか、
5月、6月、そして、夏にどんなふうだったか、
その季節の記憶だけが鮮明すぎるほど鮮明だ。

日本では、ちょうどツイッターのブームが来ていた。
2011年の1月に、エジプトでツイッターで集ったメンバーの、
デモがあったのを覚えている。
ハッシュタグは1月25日を表すものだったろうか。

日本でも、そういったインターネットを使ったデモが起こるんじゃないか、
と思われていたころだった。
それで、私もツイッターのアカウントをとった。

日本では、ツイッターブーム、デモの動きは、
震災と共に起こった。
私も、何か言わなければならない、という気持ちになって、
ツイッターやブログ、そのあとにフェイスブックのブームがきた、
夢中で何かを、言葉を、発し続けたように思う。

誰にとっても、震災は大きな、大きな、ことだった。
あのとき、あの東北の状況を見て、
人生を変えた人、ライフスタイルを変えた人は、たくさんいると思う。
私もそのひとりだ。
できるだけ早く、命を燃やし尽くして、書き始め、書き続けよう、
どんな形でもいいから、言葉を発してから、命をつなげよう、と、
本気で思ったのだった。

3月が近づくたびに、あちこちで、特集が組まれる。
これから日本においては、永久に、3月の特集が組まれていくのだろう。

福島の人々は、「まだ私たち被災地が復興していないのに、
東京でオリンピックを開くなんてどういうこと?」と怒りもあるようだ。
でも、あの震災でつらかったのは、被災地のその当地の人たちだけじゃないんだ。
それをわかってほしい、と思う。
私たちは、みんな一様にとてもつらかった。
それで、未来に向けて、日本の国が、前を向いて歩いていくための、
何か明るい希望が、すごく必要なんだということを、
被災地の人々にも、わかってほしい、と思う。

私は、誕生日が3月である。
あの年、私には、誕生日のプレゼントもお祝いの膳もなかった。
これから毎年、誕生日には、生きる変節となったこの3月を思いながら、
年を重ねることになる。

陽射しがどんどん強くなり、
毎日が新しく生まれ変わるこの3月に、
また今年も、もう一歩、
前に前にと、しがみつくようにであっても、
進んでいきたい、と思うのだ。




2014年3月8日土曜日

四月からのNHK講座。

今年も、3月となった。
年度末である。
4月からは年度初め、ということで、新入生がたくさん、
学校に入学する。

私たち社会人も、こうした「新入学」の体験をすることができる。
それは、NHK教育テレビ・Eテレの、学習番組を見ることである。
私も、私の両親も、3月のこの時期になると、
4月から始まる新講座の選択に、余念がない。
テレビでもラジオでも、語学講座が始まる。
4月から始まるので、この第一回の放送は見逃せない。

語学だけではなく、お料理、園芸、デザイン、近ごろではスマートフォンの使い方やゴルフの上達レッスン、歌唱のレッスンもある。
どれも、楽しく見て、勉強になる講座である。

私は、裁縫に興味があるので、裁縫の基礎から、しっかりと学べる講座を、
放送してほしいと思っている。

これまでの裁縫のレッスン講座は、「すてきにハンドメイド」という題で、
木曜日の午後9時30分から放送されてきた。
少しでも手芸に興味のある人なら、見てわかると思うのだが、
初心者にとってはむずかしすぎて、
熟練者にとっては、簡単すぎる、
あるいは、材料も道具も手に入りにくい、
という番組内容である。

オールマイティに、エンターテイメントの番組として、
「見て楽しければいい」という趣旨で作られているのではないか、と思う。
「きょうの料理」も、どうしても、ある程度、料理の基礎ができる人が、
見て楽しい、という番組作りになっている。
つまり、初心者にはむずかしすぎて、
熟練者にとっては、物足りない状況なのだ。

せめて四月は、学生たちも、単身赴任のお父さんも、
料理や裁縫を基礎から自分でしてみたい、という視聴者も多いと思うので、
じっくりと、道具のひとつひとつから、
NHKのテレビだけ見ていてできました、という番組作りをしてほしいものだ。

私の母も、料理の基礎は、NHK「きょうの料理」を、
毎日そのまま、夕食メニューとして作って練習したのだ、という。

私は、まず若い女性たちが、今、流行の、
手作り手芸や、洋服のリメイク、サイズ直しや、バッグ作り、
手縫いもミシン縫いも編み物も、基礎の基礎が本当にできるようになるまで、
じっくりとレッスンしてほしいものだ、と思う。
若い女性たちにとって、社会勉強にもなり、とても充実した教育番組になると思う。


2014年3月7日金曜日

宿命のライバル。


仕事で知り合った、ある男性の友達に、
「あなたには宿命のライバルはいるか?」と尋ねてみたら、
「いる」と答えた。
実は、私にもそうした、宿命のライバルがいる。

それは、小学校のときから、同じクラスだった女の子だったり、
中学校は中学校でライバルがいたし、
文学の世界には文学でのライバルがいた。
そして、そのライバル関係が、学校卒業と同時に自然に消えてしまうこともあるけれど、なんとなく、一生のライバルになっている場合もある。
人生を生きてくると、その人生が長くなった分だけ、
ライバルとの数々の戦いの日々が、長くなってくる。

ついこの間であるが、冬季オリンピックで、
日本の女子フィギュアスケートの浅田選手と、
韓国のスケート選手のキム・ヨナさんが、
これも宿命のライバル、と評されていて、
私は、「真央ちゃん、負けるな!」という気持ちで応援していた。

ところが、やはりこの対決に関して、
「なんで真央ちゃんばかり応援するの?」
「ちがう国だからといって、別に敵でもないし、
けんかする必要なんてないんじゃないの?」
「みんな仲良くすればいいじゃないの」
という声が、相変わらず聞こえるのである。

私は、最近、女性からはともかく、男性からも言われているのだが、
「どうしてそんなにけんか好きなのか?」
「どうしてそんなにけんかが強いのか?」
そして、「世の中ではいじめ問題が深刻化しているが、
もしかするとあなたは、いじめる側なんじゃないのか?」
とまで、
と言われてしまうのである。

そういえば、アメリカともけんかしたし、
中国ともロシアとも韓国とも、かなりけんかしたような気がする。

しかし、私の考えというか、感覚のなかでは、
ライバルというのは、あくまで好敵手、である。
ライバルがいるから、向上も成長もある。
このごろの運動会では、一等賞もびりっけつもなく、
みんなが一等賞だというが、解せない話である。
そんな横並びの精神が、いったいどこから出てきたのだろうか。

私が思うには、横並びの精神というのは、
女性の特質だという話である。
なんでも、最新の脳科学によると、女性の脳と、男性の脳は、
構造がちがうのだそうである。
それで、女性は生まれつき、横ならびの女性社会を組み立てるのだそうだ。
逆に、男性は、縦並びの社会を構成する傾向があるそうである。

男性の縦並びの社会というのは、いわゆる、上下関係のある、
ピラミッド社会であるが、
これは、差別でもなんでもなくて、
社会を構成する、組織体の問題である。
おおぜいの人が群になって同じ行動をするときに、
指揮系統というものは、やはり必要なのではないだろうか。

そのときに、上にたって指示する役になるか、
それとも、下にたって、指示を受ける役になるか、
これが、組織体である。
上になるか下になるか、どちらかであって、
横並び、ということはないわけだ。

それでも、人間としての尊厳は同じ価値であることには、
変わりはないと思う。

この上下関係、組織体が、男性社会である。
男性たちは、自然に、生まれついたままに、
この上下関係を作って、どちらが上かどちらが下か、
ほんの30分もふたりで一緒にいれば、
すぐに決まるのだそうである。

こうした男性社会の仕組みが、世の中全体を動かしているわけであるが、
その男性社会のなかで、女性たちがどのように、仕事をしていけるのか、
これは、大切な問題である。
すでに出来上がってしまっている、上下関係とピラミッド状態である男性社会のなかで、この社会を、横並びの女性社会に、変革してしまおう、という試みは、成功したという話をいまだかつて、聞いたことがない。
やはり、出来上がっている男性社会のなかで、自分が、上下という立場のなかを、生きていくしかない、と思うのである。

そのときに、大事になるのが、「どちらが上でどちらが下か」という問題である。
それを決定するための儀式的決闘は、別に、けんかでもなければいじめでもない。
正当な人間関係である。
上にならなければ、下になってしまう。
上下があるのなら、下よりも上のほうがいいに決まっている。

横並びの社会は、女性同士でしていればいいことだと思う。
それに、やはり、「好敵手」であるライバルがいて、
必死で戦うことは、とても楽しい。
生きていて一番楽しいことは、自分が向上していくときの、
息を切らすようなギリギリの苦しい呼吸であるかもしれない。
そして、成長するための苦しみというのは、
人生の充実の喜びとイコールである。

私は、楽な人生は、生きたくない。
気楽で仲良しというのもよいのだけれど、
走って走って、息が苦しくて、見上げれば空が青くて、
風が通っていく、そういう人生を生きていきたい。

宿命のライバルは、そうした人生をいやおうなくせまってくる。
大事な人生を、けんか腰と言われてもいいから、
元気よく生きていきたいのである。




2014年3月6日木曜日

ドラクロワ「聖母子像」。


美術館には、よく足を運ぶ。
このごろの近代では、印刷技術がとても発達してきて、
きれいに印刷された絵でも、絵画を楽しむことは、できるのだが、
どうしても、画家が描いた「本物」でしか、
体験できない印象というのがある。
これは、本当に不思議なことだ。

文筆をしている人にとっては、活字は、活字のままである。
印刷されても、「言葉」の持つエネルギーが、
変化したり、伝わらなくなったりは、しないものである。
時には、翻訳されても、ストーリーの意味は伝わるし、
そこに描かれた人物や人生や、ものの考え方も、
伝わるものである。

しかし、絵画、ときには、音楽も、
その場に居合わせないと味わえない芸術体験というのが、あるものだ。

私は、イタリア、ローマ、フィレンツェの、ルネッサンスの時期の絵画が、
けっこう好きである。
不思議なもので、一時期はモダンアートやシュールレアリズムに傾倒した時期もあったのだが、やはり、ルネッサンスに心が戻ってしまう。
たとえば、ボッティチェリの春であるとか、ヴィーナス誕生とか、である。
また、レオナルド・ダ・ヴィンチの人気も、今も昔も、あきるということがない。
そこには、中世という暗黒の時代から抜け出そうとする、人間の、人間らしい息吹が感じられるのである。

キリスト教文化圏においては、その思想や精神世界が、絵画のモチーフとして描かれることが多いように思う。
静物画や人物画もいつの時代も興味深いけれども、
私はこの、宗教芸術というのが、好きである。
というのは、それがキリスト教であれ、ギリシャ神話であれ、
一度、活字で読んだ物語や概念が、絵画として表現されていて、
それぞれの芸術家が同じモチーフで、さまざまな描き方をするからである。
「さまざまな描き方」というのは、表現や解釈の問題でもあるし、
その芸術家が持っている才能や努力の表れでもある。

たとえば、先日は、オリンピックのフィギュアスケートで、
「オペラ座の怪人」や「ロミオとジュリエット」が演じられた。
これは、ずっと以前から使われてきたモチーフで、
それを、この選手本人が、どのように解釈して演じるか、
そこは、「だれだれさんのロミオ」「だれだれさんのジュリエット」となるところである。
私の好きな大文豪の作品も、何度も映画化されている。
そうすると、「だれだれさんのナターシャ」「だれだれさんのコゼット」というように、表現がさまざまに開花して、監督や俳優の、個性と才能を、味わうことができる。

絵画でいうと、中国では敦煌の仏教芸術も、宗教絵画のひとつである。
日本ではシルクロードをテーマに、日本画を極めた芸術家もいる。
古来から、仏教画は、わかりやすく宗教の概念を教えるために描かれたものであるが、それよりも私は、やはり、目に見えない宗教の世界は、画家にとって、とても魅力的なテーマであったのだろう、と思う。

私が、好んで観ているのは、キリスト教圏の、「聖母子像」である。
これは、幼子キリストと、その母マリアを描いたもので、
母が幼い子どもを抱き上げたポーズが、ほぼお決まりとなっている。
この、「母」をどのように描くか、ここに、芸術家の才能の極致があると、
私は思う。

私が実際に観て、感じて、「これは本当にすばらしい」と、
しばらく絵の前から動けなくなったのは、
ドラクロワの聖母子像である。
地方であろうか、麦畑の収穫の背景に、
素朴な姿の母と、ふくよかな幼子が描かれている。
その母子像の、輝くような徳というのは、どのように言い表せばよいのだろう。

この美術展では、ほかの絵画も何枚も展示されていたのだが、
ドラクロワだけ、光り輝いて、観覧者の足を、止めていた。
あの、絵画が持つ力は、なんなのだろう?

帰りの雪道を、感動を身にまとったまま、サクサクと歩き続けると、
歩道の背後から、なにか高ぶったような少年たちの話し声がした。
「やっぱり、表現力かな?」
「そうだよ、表現力だよ」
近くの美大の学生たちである。
「そうかな」
私は心の中で思う。
「それはやっぱり、ドラクロワという人の、魂や生き様なんじゃないかな」

そんな声も問いかけも、しないままできないままで、
私のドラクロワ、私の大事な母子像は、胸の中で光り続ける。

それにしても、聖母子像は、言ってみればシングルマザーである。
今でも、マリア伝説を信じている人もいるというし、
クリスチャンの前ではこの話は、してはいけないことになっているようだ。
それでも、「母」への思い、マリアへの思いは、
いつの時代にも、変わらないように思える。
マリアと幼子、聖母子像は、私たち人間にとって、
永遠の期待である。




2014年3月5日水曜日

ライフスタイルを提案する雑誌たち。


春に向けて、新しく創刊する雑誌がいくつかある。
このところ、雑誌離れが言われて久しいように思う。
中には、廃刊する雑誌もあり、ひとつの時代を築いてきた雑誌が去っていくのは、友達が卒業していくように、さびしいものである。
でも、それと同時に、創刊する新しい雑誌があり、とても楽しみにしている。
どれも、ライフスタイルを提案するものであり、
時代の変化、流行の節目を感じさせるものである。
新しい雑誌には、本文や写真やファッションだけではなく、
紙の質や、本の厚さ、活字の大きさまで、
何かしら、心に訴えてくる「新しい時代の息吹」がある。

購読スタイルも、新しくなってきているように思う。
以前は、ご近所の書店に、毎月、発売日になると、買いに行ったものだった。
次の号も必ず買う、というと、その書店に予約を入れる。
そうして、毎月毎月、買うか買わないか、判断もしていたと思う。

このごろの購読スタイルは、年間予約である。
一年間、自宅に配達されてくる。
これはメール便などで、カタログ小包のような扱いであろうか。
そして、一年分の購読料を、前払いするのである。

ペットを飼っている読者に向けての、ワンちゃん雑誌、猫ちゃん雑誌もある。
それから、このところ特に感じるのは、高齢者を読者層に持つ、雑誌である。
「いきいき」「毎日が発見」などである。
書店で手に取れるならまだしも、年間予約購読、ということで、
これは、めったに立ち入ってはいけない領域、という雰囲気がする。

執筆陣が豪華であるだけに、どうしても読んでみたい、手に取ってみたい、という気持ちにもなる。
それにしても、なんにつけても、作家の皆様の人生や執筆のスタイルを、感じさせられる。
何歳になっても、というべきであろうか、
何歳になっても、その世代、その時代の、ライフスタイルの提唱者である、ということである。
これから私も作家として、我が世代の、ライフスタイル提唱者として、何年もずっと、長く書いていくことができるだろうか。
もし私だったら、高齢になったときに、やはり実体験や、あるいは、「こうあるべき」という考えから、年齢相応の文章を書いていくことになるのだ、と思う。
そうなったときに、やはりいつまでもみずみずしい文章を、書き続けていきたいものだ、と心から尊敬する。


フライパンの使い方がポイント♪おいしくてきれいな形のオムライスの作り方♪
ポイントその1.まず、ごはんを炊いておく。
ポイントその2。盛り付けのための皿を準備しておく。

ごはんは冷蔵庫に残っていたごはんでも充分です。
玉ねぎのみじん切りと、ひき肉を、フライパンで炒めます。
ひき肉は、鶏肉がおいしいですね。
ケチャップライスを玉子焼きにくるむ、ということになりますから、
先にケチャップライスを作って、お皿に取り分けておくわけです。

フライパンのなかの、玉ねぎとひき肉、ここに塩コショウ、そしてケチャップを入れて、炒めます。
ここで、ごはんが先か、ケチャップが先か、という問題なのですが、
ごはんが先だと、ケチャップがちょっと汁っぽくなります。
それに、ごはんにきれいにケチャップがまわらなくなりますね。
先に、玉ねぎ、ひき肉、ここに味付けして、ケチャップを水分を飛ばすように、炒めて味つけしましょう。
そこに、ごはんを入れて、ていねいに炒め、混ぜ合わせます。

このごろは、さっくり混ぜるという混ぜ方も流行っているようですが、
おいしさのためには、しっかりと混ぜ混ぜしたいですね。

ここでできたケチャップライス、鶏肉で作るとチキンライスですが、
これをフライパンから出して、皿にとっておきます。

フライパンをさっと洗います。
たいていの家で、フライパンはひとつだけなので、
ひとつのフライパンで、玉子も焼きます。
フライパンを洗うときには、まずキッチンペーパーで、ひととおり、
汚れを落としましょう。
それから、熱湯でさっと油を流しましょう。
肉の油は冷めると白い油脂になって、とても取りづらくなるので、
熱湯をかけるのが一番です。

きれいになったフライパンを、火にかけて、アツアツにします。
その間に、ボウルに玉子をふたつ、わって溶きます。
一般的には、オムライスひとつに、玉子はふたつですね。

玉子をボウルに溶いたら、カラザと呼ばれる白いところ、これは食べても別に害はないものですが、きれいに仕上げるために、取り除きます。
箸を使うと取りやすいです。
菜箸で、白味を切るように、なんどもすくいながら、玉子をときほぐしていきます。
そして、やはり軽く塩を入れましょう。
ないほうが好きとか、塩分をひかえている、というかたは、
なしでもいいですね。
スパイスを加えるなら、カルダモンがよいかもしれないですが、
玉子本来のおいしさを楽しみたい、とも思いますね。

この間に、フライパンがアツアツになっていますので、
サラダ油を大匙いっぱいぶんくらい置いて、
溶いておいた玉子を、さっと流しいれます。
そして、素早く菜箸で、軽くですね、空気を入れてふくらませるように、
かきまぜます。

ここからはちょっと急ぎます、タイミングなので。
玉子はすぐに火が通ってきますから、表面が半熟のうちに、
皿に取っておいた、チキンライスを、玉子の満月の半分のところに、
スプーンですくって入れます。
そして、チキンライスが載っていないもう半分のほうを、
菜箸でかくすようにします。

それから、皿です、これは、盛り付けをする皿です、
あらかじめ準備しておきましょう。
その皿の上に、フライパンごと持って行って、
フライ返しでもって、くるっとひっくり返します。
見事、玉子の着地です。

ケチャップをかけて、おいしくいただきましょう。


ビットコイン・仮想通貨に思うこと。


ビットコインのことが、話題になっている。
ネット上の仮想通貨、ということで、
銀行の通帳の残高表みたいに、数字が並んでいるものらしい。
専用サイトにアクセスできなくなると、もう「終わり」ということなのだそうだ。
考えてみれば、給与も銀行振り込みになり、
クレジットカードの支払いも銀行引き落としになり、
私たちは現金、紙幣、コインというものから、
数字というものへと、お金の価値を変えつつあるようだ。
それでも、元をただせば、紙幣やコインでさえ、
ひとつの社会のルールである。

ルールであるコインひとつを、じっと眺めてみる。

ところで、このところ、電子マネーが主流となってはきたが、
「仮想通貨」は、いろいろな場所で増えてきているようには思えないだろうか。
それは、身近なところでは、各ショップでの、「ポイント」というものである。
買い物をすると、その金額に応じて「ポイント」がつく。
このポイントを貯めると、何か非売品の特別商品と引き換えにできるシステムになっている。
しかし、一番大きいのは、このポイントが、商品の支払いに使える、というところだろうと思う。
航空会社のマイレージもそうである。
マイレージを貯めるために、まるで振り回されてあちこちの店に顔を出す人も、増えているようだ。
顔を出すというより、お金を出しているのである。

また、パチンコも、最終的な引き換えとしては、現金に引き換えるのが非公式な常識であるから、このパチンコの玉も、仮想通貨のひとつだと言えるだろう。

私は、この商店でのポイントで、本当に痛い目にあった。
会員カードを持っていったらポイントが200円もつくのに、
カードを持っていくのを忘れたのである。
しかし、このカードを持って歩くと、お財布はものすごく大きなものになる。
いつから買い物が、こんなに複雑になり、こんなにストレスになり、こんなに障害が多いものになったのだろう。
私たちの心は、カードとポイントに振り回されて、消費も買い物も、億劫になってしまった。

以前は、現金と品物の引き換えだけでよかった。
ポイントもカードもない買い物は、小さながま口に、お金を入れて、小さなバッグにそれを入れて、行けばよかったのだ。

むかしむかし、お母さんの買い物かごには、小さながま口がひとつ入っていたのを思い出す。
それは魔法のがま口だった。
お金の持つ魔法の力が、仮想通貨によって、拡散してしまっているようだ。



ビットコインの作り方 → https://www.weusecoins.com/ja/getting-started

憲法改正の論議を行うべきである。


憲法改正の議論が始まっている。
憲法の改正に関しては、特に9条、言われるところの「平和憲法」へのこだわりが、特に強いように思う。
私は、憲法そのもの、全体を見渡して、必要なところを改正することが、必要なのではないか、と考えている。
というのは、憲法がすでに、時代に合わなくなってしまった、時代遅れの古い憲法になってしまったからではないか、と思うからである。

なぜ、憲法が古くなったのか、というと、現行の憲法が成立したいきさつにある。
第二次世界大戦で、日本は、申し訳ない言い方になるが、負けてしまった。
連合国、特にアメリカに負けたのである。
しかし、戦争中の軍事政府が、行き過ぎてしまった、という感は、戦後の日本人のみなが感じるところである。

戦争が終わって、アメリカからGHQが来て、マッカーサーの司令のもとに、憲法が作られた。
アメリカに作ってもらった憲法、ということになる。
アメリカは、自由主義、民主主義のもとに、特にそれまでの軍部政府のしてきたこと、これが軍部政府の持っていた権力であるが、この権力のしてきたことを、ひとつひとつ、禁じる憲法を作った。
これが、現行の日本国憲法である。

現行の日本国憲法を、よく読んでみると、当時の軍事政府のしてきたことが、本当によくわかる。

特に第3章、国民の権利及び義務、というところでは、憲法の第10条から第40条まで、非常に興味深いこまごまとした点において、国民の権利を規定している。
たとえば、第14条「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴わない」
華族制度の廃止に付け加えた事項であるが、これは、国民の平等をうたったものである。「四民平等」というところになるだろうか。
憲法以前には、華族制度があり、国民は平等ではなく、また、天皇陛下から授与される勲章には、特権がついていたのである。
現代社会では、天皇陛下から秋の叙勲があったとしても、それに、男爵とかあるいは公爵とかいう特権は与えられない。
当時の社会では、わざわざ憲法に「叙勲に特権はありませんよ」と明記しなければならなかったのだろう、と推測される。

また、第36条では「公務員による拷問および残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」とある。
ここで、第15条で、「公務員」の選定の仕方を見ると、公務員とは、政治を行う者、国会議員である。
「はあ」と思ってしまう。
憲法の成立以前には、政治家が、その権力をもとに、拷問や残虐な刑罰を行っていた、ということなのである。

これは、第二次世界大戦中の日本で、権力を持つものが、拷問や刑罰を行っていた、という確たる証拠ともなる。
おそらくは、戦争に反対する思想犯やデモ行為を行うものに対して、こうした刑罰を行っていたのだろう、と推測される。
また、第二次世界大戦中の日本だけに限らずに、江戸時代でも、戦国時代でも、鎌倉時代でも、権力を持つ者は、自分の言うことを聞く人にだけ、特権を与え、言うことを聞かない人に対しては、裁判なしの刑罰を行っていたのかもしれない。
権力というのは、それを一度手にしたら、その人の判断力を狂わせる何か、があるような気がしてくる。
これらは、つまり、「権力の持つ危険性」「権力が行うことがらの可能性」として、よく吟味するべきかもしれない。
そして、権力を、これまで通りの文面で、規制して拘束することは、必要になるのかもしれない、と思う。

それにしても、たとえ一家のなかであっても、権力を握ったお父ちゃんが、「お兄ちゃんはお父ちゃんの言うことをよく聞くから、ごはんはおかわりしてもいい」というような、特権令を出しそうなものである。
そして、言うことを聞かない妹ちゃんに対しては、「罰として、ゲームしないでお母さんのお手伝いをして、ごはんを作りなさい」とか、言いそうである。

権力というのは、案外身近なところに存在して、力をふるっているものではないだろうか。
四民平等のために、人間の尊厳のために、権力の規制して、その力の使い方をよく指導することは、大切なことである、と私は思う。

日本国憲法全文 → http://www.jicl.jp/kenpou_all/kenpou.html


2014年3月3日月曜日

ロシア・クリミア半島・G6。


ロシアの情勢は、どうだろうか。
これから、世界中の最高の選手たちが集まって、パラリンピックが行われる場所であり、6月には、世界の最高峰の首脳たちが集まって、サミットが開かれる予定の、このソチという土地は、黒海に面していて、ヨーロッパとロシア、アジアが集まる、主要な土地となっている。
それにしても、こうして民間のスポーツ選手や、オリンピック大会の報道に集まるメディア人たちが集まる場所では、いろいろな人が、この事情により、通行可能になるというのは、面白い話である。
以前、歌には人種や民族の垣根がない、という話を、聞いたことがある。
歌の力というのは、国と国の境を越えて、平和や友好をもたらすようだ。
その友好の姿を借りて、諜報活動をするような人もいるのだろう。
たとえば、マレーネ・ディートリッヒは、素晴らしく歌のうまい歌い手であったのだが、その時代と、その歌の持つ平和性でもって、どこでも通行可能にさせてしまう、優先権を持つことができた。
特権である。
これは、噂であり実際にどうだったのかはわからないが、ディートリッヒは、スパイの仕事をしていた、という話があった。
それで、それ以降も、アメリカに亡命せざるを得なくなったという話である。

歌い手としては、時代や国の情勢に左右される、運命に翻弄された姿でもあるだろう。
しかし、本当の姿、本当の思想は、どうなのだろう?

もしかしたら、彼女の手作りのお弁当は、ドクロ十字のお弁当包みの、青い小さな丸い箱だったのかもしれない。

2014年3月2日日曜日

ロシア・ウクライナ・クリミア半島情勢について。


ウクライナの状況が、緊迫している、という話である。
新たな世界秩序、つまり、新たな東西冷戦の構図が作られた、との見方もある。
しかし、状況はそれほど深刻ではないようである。
ウクライナとロシアの国境、そして黒海をはさんだ場所に、
クリミア半島が位置している。
ウクライナ情勢はここのところ、不穏な状況のようであるが、
このクリミア半島は、先日オリンピックが開かれた、ソチのあるあたりである。
黒海のほとり、ロシアの領土にソチがあるのだが、
同じく黒海にクリミア半島があるのだ。

ロシアとしては、オリンピックのテロ対策で、
どうしてもここで、テロや争いを起こしたくなかったのだろうと思う。
それで、国を挙げて、テロ対策をしたのだろう。
ウクライナ側から、テロが入り込むような状況も想定したのだろうと思う。
オリンピックがあったので、国際社会的にも、ここにたくさんの選手や選手団、報道陣が入ってくることも、考えに入れて、強力な力をつぎ込んだのではないか、と思われる。
それらの緊張状態が、もたらした、今のウクライナ情勢なのではないかと思う。

心配なのは、パラリンピックが、これから開かれることである。
3月7日から16日まで10日間の日程なのだが、
本当に、安全な大会を開いて完了させることが、できるのだろうか。
ロシアとしては、ここで大会をやめる、とも言えないので、
軍事力をもってしても、大会を始まらせて成功させなければならないだろうが、
周辺国としても、状況を鑑みて、延期などの友好的な支援手段を、
手を差し伸べてもよいと、私は思う。



パラリンピックサイト→ http://www.jsad.or.jp/paralympic/sochi/about.html



                    わたしのおひなさま。