2015年11月28日土曜日

浅田真央さん。NHK杯・2015.

真冬の楽しみといえば、やはりNHK杯のフィギュアスケートである。
毎日、スケート三昧をして楽しんでいる人も、たくさんいるようだ。
昨夜は、女子ショートプログラムだった。
私もずっと以前から応援している浅田真央選手。
ジャズのナンバー「素敵なあなた」を、見事に演じていた。
ジャズの「魂」というのは、こういうところにあるのかもしれない。
何よりも、「恋」の素敵さが、伝わってきた。

浅田選手、今季絶好調である。
とても調子がいい。
だから、ちょっと曲よりも、動きが早くなって、勢いが余ってしまったようである。
これまで、努力と訓練で演技してきたスケートだけれども、一年の休暇ののち、とても楽しめるようになった、という。
きっとフリーの演技も、とても自信があるのだろう、と思う。
その勢いがあまって、ジャンプの着氷がうまくいかなかったのではないか、と思う。

これまでには、あまりしなかったことかもしれないが、少し勢いを抑え気味にする、という技が、求められるのかもしれない。
蝶々夫人、とても楽しみである。

2015年11月26日木曜日

フィギュアスケート・NHK杯2015。

明日11月27日と、あさって28日、そして29日と、
フィギュアスケートのNHK杯が開かれる。
明日27日金曜日は、女子と男子のショートプログラムが行われる。
あさって28日土曜日は、女子と男子のフリースケーティングが行われる。
とても楽しみである。

特に今年は、日本でもテレビとインターネットの同時放送を始めるための、今回は、試験放送ということで、パソコンのインターネットでも、タブレットでもスマートフォンでも、リアルタイムに競技の放送を楽しめる、というわけである。
私もさっそく、NHKのサイトから、スマートフォンの視聴ができるように、アプリをダウンロードしておいた。
準備万端である。

今年のNHK杯の見どころは、いろいろあるが、各種スポーツ新聞、スポーツサイトなどでたくさん書かれている。
私もそういった、詳しい競技の記述を読むのが大好きである。

男子のショートプログラムでは、金メダリストの羽生結弦選手はもちろんとして、そのライバルである、無良崇人選手の演技も、とても楽しみである。
先月のアメリカでの演技を、動画で観たのだが、ショートプログラムの「黒い瞳」は、とても素晴らしかった。
ロシア民謡は、フィギュアスケートの定番であるが、無良選手は、どんな女性の「黒い瞳」を思っていたのだろうか、奥さんであろうか、まだ幼い娘さんであろうか、地に足の着いた、しっかりとした、男の愛情を感じさせるものであった。
指から、エッジから、あふれるような、「真冬の男の愛情」が、感じられた。
明日もとても楽しみである。

無良選手の、フリーの曲は、シルク・ド・ソレイユの「O」である。
「O」は、「オー」であり、フランス語の「水」を意味するそうだ。
シルクドソレイユといえば、現代の前衛の大道芸で、世界的にとても有名で人気がある。
前衛というのは、カウンターカルチャーとも呼ばれる類の芸術である。
その本質というのはなんなのか。
なんなのかわからないところが、前衛的、というところだろうか。
カウンターカルチャーと言えば、「今あるものに対抗する」「今まであったもの、既成概念に抵抗する」というような意義がある。
そして、シルクドソレイユの舞台もそうであるが、ボーダレス、つまり、国境のない文化芸術を表現している。
「国境のない」という言い方も、さまざまな解釈があるだろうが、私の感じるところでは、たとえば、西洋的であるとか、東洋的であるとか、あるいは、民族的であるとか、時には政治的であるとか、そういったことのすべてを超越したところに、新しい芸術を求めたものである、と思える。
しかし、無良選手の「O」にも見て取れるように、「西洋でも東洋でもない」というよりは、「西洋であり、東洋でもある」というふうに、たくさんの複雑な要素を取り入れたもの、といえそうだ。
このあたりを、無良選手がどのように表現するのか、とても興味深い。

ところで、町田樹選手はどうしたのだろう?
昨年、シーズンの途中で引退表明をして、それっきりである。
とても惜しい選手である。
しかし、町田選手の昨年の選曲には、少し無理があった。
というのは、ベートーベンの第九合唱付きを選んだからである。
合唱というのは、たくさんの人数が集まって表現するものである。
それを、ひとり氷上で表現するには、かなりの技術が必要とされた。
町田選手はそこに挑んだわけであるが、惜しくも引退である。

実は今年の無良選手にも、同じようなことが言える。
無良選手のフリー曲「O」は、たくさんの劇団員が集まって表現するものなのである。
舞台というのは、友情の集まりである。
実は、前衛的である人たちというのは、話をしてみると、人懐っこく、和気あいあいとしているチームである場合が多い。
同じ感性を持ち、同じ舞台をやり遂げようとする、目的意識や連帯感があるかもしれない。
「前衛」それ自体は、とてもシュールで時には「なんかこわい」ものであるのに対して、それを演じる人たちは、むしろ明るくて陽気で、底抜けに楽しいのである。

考えてみれば、ボーダレスというのも、「みんなで仲良くやろうよ」という意味かもしれない。
それくらい、今の世界は、ボーダレスな気心で満ちている、とも言える。

明日のNHK杯は、夕方4時にはスタートである。
各種情報をかき集めて、冬の夕暮れの寂しい時間帯には、鍋でも囲みながら、アイススケートを楽しみたいものである。
私も、そんなふうに、冬の夕べを迎えることにしようと思っている。


フィギュアスケートNHK杯公式サイト →

http://www.nhk-trophy2015.jp/


NHK杯 ネットで観るには →

http://www.nhk.or.jp/figure/

2015年11月21日土曜日

羽生結弦選手、「オペラ座の怪人」素敵でした!

きょうも、とても寒い。
本格的な冬のシーズンが始まろうとしている。
冬には冬の楽しさがある。
それが、私も大好きな、フィギュアスケートである。

男子選手で、その演技を楽しみにしているのは、
ソチ五輪で金メダルをとった、羽生結弦選手である。
圧倒的な強さで、昨シーズンも絶好調であった。
昨シーズンは、フリーの曲は、「オペラ座の怪人」であった。
「怪人」の恋する悲しみとその切ない思いが、
美しく表現された、素晴らしい演技だった、と思う。
私も、テレビ画面の前で、拍手をおしまなかった。
感動をたくさんもらえて、
本当に、フィギュアの選手の素晴らしさを思った。

今年もシーズンが始まり、
羽生選手の演技を見ていると、
本当に、すがすがしい冬の凛とした北風を思わされる。

ソチで金メダルをとったころよりは、
体格が、よくなったと思う。
これは、きっと誰からも言われることだろうと思う。
年齢的に、身体がどんどんできていくときなのだろうと思う。
今の羽生選手は、男らしい力強い演技ができる。
そういう体つきになっていると思う。
これも日ごろの訓練のたまものである。

ショートプログラムのショパンのバラード。
ショパンは、鍵盤の詩人、とか、ピアノの詩人、
とか呼ばれてたくさんの人から愛されている。
たとえば、浅田選手もソチのショートプログラムで使った
「ノクターン9番」などは、
繊細なピアノのメロディと、和音が奏でられる。

しかしショパンは、繊細さと同時に、
男らしさ、力強さのある、作曲家である。
たとえば、祖国ポーランドで革命がおこったときに、
エチュード「革命」を、作成している。
この、激しさと情熱は、
繊細さの裏側にある、ショパンの「底力」とも呼べるものである。

フリーの曲では、映画「陰陽師」から、SEIMEIを選ばれている。
これは、映画「陰陽師」の主人公「安倍清明」のテーマである。
日本的で、アジア的な、また横笛を使ったオリエンタルな、
そういったところに、今年の羽生選手は、挑戦している。

「陰陽師」「陰陽道」というと、
現代の日本人には、ちょっとなかなか、理解しずらいところもある。
「日本的な」ということで、歌舞伎や狂言でも、現代ものとして、
新作でトライされているのであるが、
日本の思想というと、仏教や神道が、主として思われるところであるので、
私たちの日常には、陰陽道が息づいているとは言い難い。
しかし、平安時代には、陰陽道が実際にあったわけである。
古代の日本人の「思い」を表現するには、
とてもよいテーマ曲であると思う。

平安時代というと、現代では考えられないことであるが、
まずは、電気がなかった時代である。
また、発達した医学や科学もなかった時代である。

だから、たとえばある日突然に、日食が起こったりすると、
それはそれは、恐怖であった。
明るかった昼間が、みるみる薄暗くなり、
太陽に影がさすのである。

また、今年も冬が来てインフルエンザが流行り始めるが、
こうした、目に見えないウイルスというのが、
まだわからなかった時代であるから、
いつの間にか罹患する病、はやり病というのは、
悪夢との戦いだった。

そして、何よりも恐ろしかったのが、
闇、である。
現代では、24時間、真夜中でも、
道路には街路灯が照らされ、
コンビニエンスストアの明かりが遠くからもまぶしい。
しかし、平安の時代には、夜となると、
小さな揺れるろうそくの光以外は、
すべて「闇」なのである。

古代の人々は、この「闇」と闘っていた。
闇のなかにうごめく、さまざまな目に見えない敵と、
力いっぱい戦っていた。
それは、おのれの心の中の、恐怖心と戦っていた、
ということかもしれない。

陰陽師は、そうした怖れに打ち勝つための、
まじない師である。
誰もが彼に頼り、そして、闇と病に打ち勝つことができた。
平安の都の、医師でもあり、祈祷師でもあり、
誰よりも頼れる、正義の味方であったのだろう、と思う。

古代の人々は、真冬を乗り越えるのもこわかった、
と言われている。
今度こそ本当に、もう二度と春は来ないのではないか、
このまま冬が続くのではないか、とこわくなったそうである。

フィギュアスケートは、氷のなかに咲く、春である。
冷たい北風の季節、心を熱くさせて、
今年も、私は、じっと、スケートリンクを、見つめている。



2015年11月20日金曜日

ニューヨークの皇太子さま。

先日、11月17日に、皇太子さまが、ニューヨークに出発された。
ニューヨークの国連本部で、18日に、
「水と災害に関する特別会合」の開会式が行われた。
そこで基調講演をされた。
「水と衛生に関する諮問委員会」の最終会合にも
出席される予定であるという。
日本へは、いつお戻りになるのだろうか。
もう、帰途につかれただろうか。

13日の金曜日には、フランス・パリで、同時多発テロがあり、
その後、ISからは、アメリカへの攻撃の予告も行われた。
もちろん、ワシントンもニューヨークも、
テロのターゲットである。

なにかよからぬ予感がしたニュースであったが、
その後、ソルトレークシティーなどで、
アメリカの航空機が臨時着陸をしている。

もしも、日本の皇太子殿下が、ニューヨーク滞在中に、
テロに遭遇したりすれば、
日本に対するテロ攻撃とみなすこともできて、
日本も非常事態宣言が発令されるような事態となる。
とうとう日本も巻き込まれる、ということなのだ。

しかしこれは、日本としてもアメリカとしても、
戦略的なことで、
初めから予定されていたことなのではないか、と、
私は思う。

皇太子さまのニュース動画→
http://www.news24.jp/articles/2015/11/17/07315094.html

宮内庁の案内→
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/02/gaikoku/h27america/cpv-h27-america.html

2015年11月19日木曜日

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月19日。

どんな夜にも、朝が来る。
「あさが来た」の題名の意味の深さを、なにか感じさせる、きょうこのごろである。
ヒロインあさは、ようやく炭鉱を運転させることができた。
その名も「加野炭鉱」である。
立派な看板も作ってもらって、机もひとつもらって、
本当に「働く女性」になってきた。
看板も机も、働く女性として仕事が認められたという証で、
あさにとっては、本当にうれしかっただろうと思う。
仕事の一番の報酬は「次の仕事がもらえること」だと、
どこかで聞いたことがある。
まさにこれが、あさにとっての、働く女性としての、入り口となるだろう。

物語は序盤のクライマックスを終え、次の山に入ろうとしている。
ここで、さまざまな伏線が混みあってきて、面白くなってきた。

ひとつは、姉はつとの対比である。
姉のはつは、同じく両替屋に嫁いだのに、その店は倒産してしまう。
そして、今は、小さいながら農業を営んでいる。
子どもがひとりいて、きょう、おなかの中にまたひとり増えた状況である。
一方でヒロインの妹あさは、働く女性であり、子どもはまだいない、という状況である。

女性が仕事をする、という大きなテーマに、真正面から体当たり、という構図である。

NHK朝の連続テレビ小説は、今年2015年前期は「まれ」であった。
「まれ」でも、仕事と家庭を両立させる女性を描いたのだったが、
「まれ」がなんとも素通りしてしまって、あっさりと、家庭と仕事、育児と夢、
両方を実現してしまったのに比べて、
今回の「あさが来た」では、「まれ」がいとも簡単にはしょってしまった、そのもやもやした部分に、堂々と切り込んでいるのである。

姉のはつが、「子育てをする専業主婦」、
対立するあさは、「仕事をするキャリアウーマン」である。

私が、「よく描けている」と思うのは、
専業主婦には専業主婦の悩みや葛藤がある、という点である。
つまり、はつに「私には、子どもを産むことしかできないのかしら?」という、
女性として、人間としての、根本的な疑問を、抱かせているのである。

また、キャリアを持って働く女性である、あさには、
子どもがいない、夫と一緒に仲良く暮らすことができない、
「なんだかすっきりしない」「充足感がない」という気持ちを、言わせているのである。
それが、貧しくても子を持ち、母親になった姉のはつに対しての、
「お姉ちゃんにはかなわない」というセリフである。

片方は、「子どもを産み育てる専業主婦になってもなんだか人生が充実しない」
もう片方は、「仕事をして成功しても、やっぱり人生が充実しない」
その葛藤を、ふたりの姉妹の対照を通して、見事に描いている、と思う。

現代の女性たちが思う、仕事と家庭の葛藤が、
はつとあさの、「子どもか自分か」「家庭か仕事か」
という悩み苦しみに、描かれている。

また、現代でも、「男性のがわの意識変革が必要」と強く言われているが、
今の状況では、あさの夫・新次郎の態度を見ていると、
まさに意識変革を、望んでしまうところである。
あさがこの問題をどのように乗り越えていくのか、
はつがこの悩みをどのように超えていくのか、
とても見どころになってきた、と思うのは、私だけではないと思った。

ところで、このところ、次のクライマックスに向けての、
とても面白い伏線が明らかになってきた。
それは、五代ディーン・フジオカの登場である。
五代氏は、あさの幼少時から、縁のあった男性であった。
この男性が、こともあろうに、すでに結婚している、あさに、
「らぶ」という言葉を使って!言い寄ってきているのである。

朝の連続テレビ小説で、こうして、ヒロインをめぐる、
ふたりの男性が描かれることは、そんなに珍しくはないかもしれない。
しかし、大森美香女史の描き方は、
この、ヒロインをめぐる男二人の対立と、
そのときに揺れるヒロインの心の描き方が、断然ちがうのである。

これは、「不機嫌なジーン」でも、
主要なテーマとして描かれていた。
思えば、向田邦子女史も、こうして、
ヒロインをめぐる、ふたりの男性、
あるいは、三人の関係、というものを、
絶妙で微妙な表現で、描き切っていたと思う。

このあたりも、これから特別に、見どころとなってきた。

時代は移り変わっても、季節は移り変わっても、
また、あさは来る。
明日もあさっても、「あさ」を楽しみに、
きょうもがんばろう!

2015年11月16日月曜日

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月16日。

きょうも、「あさが来た」で始まる「あさが来た」! というかんじである。
昨日は、あさの女性経営者としての仕事ぶりに学んだところであった。
きょうは、あさの姉、はつについて、考えてみたいと思う。
あさとはつの姉妹は、ダブルヒロインということで、対照的な女性の姿、生き方を描いているそうだ。
昨今は、このようなダブルヒロインや、姉妹ものが、とてももてはやされているそうである。
流行である、ということは、それだけ女性たちから、興味や関心が持たれている、ということなので、このあたりも学んでいきたいと思う。

私がこのふたりの姉妹について思うのは、さまざまな対照であるが、なかでも、同じように両替屋に嫁いだのに、妹のあさは、時代の変化のなかで、両替屋としてまた商売を営む家として、生き残った、ということである。
そしてもう片方の姉のはつの家は、両替屋はとっくに潰れてしまった。
時代の変化の波に飲み込まれて、生き残れなかった、ということである。

私たち現代人も、今、時代の変化の波のなかにいる。
ふたりの女性の生き方から、「生き残れる女性」「生き残れない女性」という対照を、見ていきたいと思うのである。

生き残った加野屋のあさ、妹であり主役であるが、こちらのほうは、両替の仕事が「あぶないのではないか」ということを、とても早くに察知した。
加野屋としては、大旦那も若旦那もまだまだ、時代の変化に気づくことができず、また、蔵のなかの金貨を数えることも、大福帳を計算しなおすことも、していなかった。
それを行ったのが、嫁に入ったあさである。
あさが大福帳の計算をしていなかったら、時代の先読みをしていなかったら、まちがいなく加野屋も、倒産の憂き目にあっていただろう。
それが生き残ったのだから、嫁であるあさの才覚によるものである。

一方、はつの嫁いだ山王寺屋ではどうであったか。
これは、姑の菊や、その夫であり大旦那である辰巳卓郎、このあたりにすでに、伏線があるようだ。
というのは、婿養子で、菊がこの山王寺屋を仕切っていた、という事情があり、婿養子も息子も、この菊に頭が上がらない状況だった、ということである。
なので、時代の変化のときに、見栄や外聞が先にたって、打つべき手を打てなかった、という点が大きい。
そこへ嫁入りしたのが、当時の女性としての身だしなみを身に着けた、はつであった。
お琴にお花、お裁縫である。
この、はつは、山王寺屋の商売、仕事にまったく口出しをしなかった。
あさとは対照的である。
もしも、山王寺屋に入ったのが、あさであったなら、山王寺屋は生き残った可能性が高い。
女性の才覚、仕事に関する「口出し」というよりは、女性らしい時代への敏感な感性、そういったものが、はつにはないのである。
また、はつは、当時の女性の生き方振舞い方として教えられていたとおりであるだろうが、外の世界に出ようとしなかった。
外の世界や、あるいは社会のなかで何が起こっているのか、まったく興味を持たないのである。
社会のなかに生きていながら、社会の動静にまったく興味を持たない女性が、現代の世の中にも多数存在するが、はつはそのような女性であった。

また、夜逃げをして、夫が失踪して、その後、夫の惣兵衛が戻ってくるのであるが、「よい仕事人でなくてもいいから、よいお父さんになってください」と言う。
これは、男性陣から見たら、問題発言である。

女性は、良い家庭を築きたいと願う。
そうした意味から、夫にはよい夫、よい父親であってほしいと願うものである。
だから、女性の目から見たら、これはごくごく自然な発言で、こうした発言をする女性は、よくいる。
しかし、男性は、仕事で成功したいものではないだろうか。
家庭を守れるだけの稼ぎがあればいい、というのは、妻が夫に言うにしては、残酷な言葉でもある。
男性は、なかなか父親にはなりきれないものだ、という。
これは心理的なものであるだろう。
しかし、父親である以前に、「男として」生きたいのではないだろうか。
「男として」妻から褒められたいのではないだろうか。

はつの妻のしての言動は、夫の可能性を封じ込めるものであり、夫の男らしさを認めていないものなのである。
こうした妻をもって、惣兵衛が男として成功できるかというと、これはむずかしい。
妻のはつも、母親の菊も、まったく同じ、うちに内にと閉じこもるタイプで、男性を抑圧するタイプなのである。

しかし、こうした惣兵衛の姿に、自分自身を重ねるのだろうか、惣兵衛ファンがとても多い、ということである。
女性たちは怖れをもって、この「惣兵衛ファン」の増加を見守るしかない。

2015年11月15日日曜日

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月15日。

11月もなかばとなり、秋から始まった朝の連続テレビ小説「あさが来た」は、快走を続けている。
私は、このドラマから、さまざまな視点で、女性の生き方や、時代背景を学びたい、と思っている。
そのなかでも、大きなテーマとして、働く女性の悩みとその解決を、見つけたい、と思っている。
今週は、女性経営者にとって、女性管理職にとって、まったく頭の痛い問題である、「男性の部下をどのようにして働いてもらうか」「指示を聞いてもらうか」というテーマで、興味津々であった。
また、ヒロインとしても、炭鉱夫を相手に啖呵をきって、女性経営者として、しっかりと責任を果たした話題の場面であるから、とても楽しみにしていた。

一週間、見終わった。
ドラマのストーリーとしては、あれだけ反抗していた炭鉱夫たちが、おとなしくなって、あさは信頼を勝ち得ることができて、そして仕事を始めたのであるから、これは成功である。
しかし、やはりどこか見ていて、つじつまが合わないというか、「本当にこれで、彼ら炭鉱夫たちが納得したのか?」「あさのどのあたりの言動に、炭鉱夫たちが信頼をしたのか?」という点では、はてなマークがいくつも付くところであった。

とにかく、あさは、なんでもした、と思う。
女性経営者として、「私のほうが立場が上です」という尊大な態度もとってみた。
あるいは、丁寧に「石炭を掘る」という意味を、蒸気機関の働きまで説明して、誇りをもってもらった。
あるいは、頭を下げた。
あるいは、大阪から夫に来てもらった。
あるいは、相撲を取って勝った。
あるいは、仕事の内容を深く理解したいと思って、実際に炭鉱に入ってもみた。
ドラマのなかで、決め手として取り扱われていたのは、ピストルの暴発であるように思う。

それらのたくさん工夫したうちの、「どれかひとつ」が、きっと、炭鉱夫の心をつかんだのだろう、と思う。
でももしかすると、これだけたくさんいろいろなことをしたから、ようやく働いてもらえた、ということなのかもしれない。
どうなのだろう?

印象的な言葉、これは、夫の新次郎からも言われたし、祖父の林与一からも言われていることであるが、「女性のやわらかい力」は、いったいどこにあったのだろうか。

やはり、史実としても、ドラマとしても、炭鉱夫を動かした決め手は、ピストルという武器のようである。
それが、「おなごのやわらかい力」なのだろうか?

おりしも、フランスでは、武器の力には、武器の力で対抗する、というテロリズムが行われているところである。
私は、今週のドラマには、少なくとも「女性らしい柔らかい力」は、意味不明のまま未消化に終わったと思った。
これは、これからの課題として、残されていると思う。

私が、女性管理職として、男性の部下に働いてもらうために、これが大事だ、と思うことをここでまとめてみようと思う。
あさが工夫したさまざまな事柄のなかに、たくさんのヒントが隠されている。
たとえば、実力は男性並みか、それ以上であること。
これは、働く女性が管理職で仕事をしていく上で、もっとも大事なことである。
男性にひけをとらないくらい、男性であろうと女性であろうと、仕事の実力は同等かそれ以上であることである。

次に、彼ら命をかけて働く男たちに、命をかけるほどの「価値」「意味」「大義」を伝えることである。
男の人たちは、何か大きなことのために、命を張りたいものだと思うのだ。

あさは、明治の時代を開く大きな意味を、この石炭事業に見出した。
炭鉱で働く男たちには、蒸気機関車や、開けていく東京の様子などは目に見えない。
時代の変化も、時代が朝を迎えていることも、まだわからない。
しかし、「わたしたちが、あなたがたが、新しい日本の国づくりをしていくのです」と言ったときに、男たちの胸に火が灯ったのではないだろうか。
大事なのは、仕事に誇りを持つことである。

命をかける価値のある仕事を見出した時、男性たちは、力いっぱい、自分たちの自主的な自発能動で、動き始めたように思う。
私は、こうした男性たちの、意欲を引き出す力が、あさにはあった、と思ったのである。

これからも、働く女性にはがんばってほしい。
私も、「あさが来た」から学んで、一生懸命、自分の道を生きていきたいと思う。


2015年11月13日金曜日

これから先、10年後の日本を考える。

ここ数年、特に震災後、日本国内も、国際情勢も、
変化、変化の毎日である。
今起こっていること、これから起こるであろうこと、
その変化の激しさに、不安や恐怖を感じている人々も、
たくさんいると思う。
私自身もその一人である。

それで、これからの「人生対策」「生活対策」として、
10年後の日本、というテーマでいろいろと、
個人的に考えている。
10年後に残っているもの、変わっていないものは、
いったいどれくらいだろうか?
どんなものが生き残っているだろうか?

10年後に変わっているもの、なくなっているものは、
どんなもので、どんなふうに変わっているだろうか?

10年後に、確実に絶対に変わっている、とは言い切れないけれども、
変わっている可能性のあるもの、というと、
どんなものだろうか?

私なりに、思いつくままにメモをしてみたので、
そのリストを、ここにアップしてみようと思う。

☆ 10年後に変わっている可能性のあるもの

政府
学校制度 (教育制度)
病院 (先進医療 TPP)
通貨 (仮想通貨)
新聞 (デジタル化)
雑誌 書籍 (電子化)
寺院 (宗教 数)
お店 (なくなっている?)
パソコン (インターネット)
スマホ (もっと進化する)
宇宙旅行 (可能になる?)
交通 (リニアモーターカー、新幹線)
自動運転車
海外旅行
国際情勢 (勢力分布図)
TPP (食品やあらゆる文化)
農業
テレビ (なくなっている?)
結婚制度
苗字制度
東京駅
渋谷駅
山手線
税制

ざっとこんなところである。
そうすると、「変わらないもの」というと、
衣食住、といった、人間の基本的な生活に関することぐらい、
と思えてくる。
家族や愛情、といったものは変わらないかというと、
やはり変化がやむを得ないというところだ。

これらの変化は、震災後、ここ数年で出来た法律と、
深く関わっている。
率直に言って、現政権の安倍総理大臣になってから、
次々に作られた法律に基づいて、これらの変化が起こっている、
ということになるだろう。
新しい法律を施行するために、2~3年から十数年かけて、
現実化していくものもある。
すでに決まってしまった法律の現実化である。

10年後の日本は、とても変わった国になっている。
これは、誰が予測して、誰が予定した国なのか。
それは、安倍総理大臣である。
私たちは、10年後には、安倍総理大臣が理想と掲げた、
「美しい国」に暮らしていることになる。
そして、これから10年間は、
安倍総理大臣の理想の実現のために、
毎日毎日、一生懸命働いていくことになる。

私は思う。
みんなが理想として掲げた国づくりなら、問題ない。
しかし、一個人が理想にした「美しい国」というのは、どうなのか。
いつの間にか、総理一個人の理想を、一国全体で実現する羽目になってしまった。
私は、自分自身の理想を実現するために、生きて働いていきたいと思う。
本当にみんなは、こうして安倍総理大臣の掲げた理想のために、
これから働いていく気持ちがあるだろうか?
私は、NO!と言いたい。

2015年11月11日水曜日

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月11日。

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」が、好調である。
視聴率もグングンアップしている、と毎日、インターネットニュースで、
話題になっている。
誰が見ても、無条件で楽しい、というテレビドラマは、
毎日の生活に、朝の光を照らしてくれるみたいで、
本当に元気がでる。

「あさが来た」は、今、物語序盤のクライマックスに入っている。
それは、前評判でも有名なシーンが近づいている、ということである。
きょうの放送でもすでに、あさが、炭鉱の男たちを前に、
啖呵を切るシーンがあった。
本当にかっこよかった。

炭鉱と言えば、私も北海道にいたので、
夕張の炭鉱のことを思い出す。
夕張の炭鉱はすでに閉山してしまったが、
「石炭の歴史村」は行ったことがあって、
炭鉱の模型があったりして、当時の状況を知ったりすることができた。

また、映画「幸福の黄色いハンカチ」でも、
主人公の高倉健が、炭鉱夫で、とても男らしくてかっこよかった。
きょうのテレビドラマでも、炭鉱に入るときには、
ガス探知のための、小鳥のかごを持って入っていて、
とてもリアリティがある。
炭鉱の仕事は、まさに命がけである。

あさの加野屋が、新しくこの山を買い取ったのに、
肝心の炭鉱夫たちが、まったく仕事をしないで、
困っているのが、現状である。
いったい、あさは女性経営者として、
どのように「部下」に働いてもらうのだろう。
ここが今週の見どころであるように思う。

これから女性管理職もたくさん増えてくるだろう。
そうしたときに、男の人たちというのは、
多かれ少なかれ、炭鉱夫のような性分を持っているわけであるから、
どうしたら、「真面目に」「きちんと」「自主的に」
働いてもらえるのかどうか、
ここは、しっかりとテレビドラマから学びたいところである。

今週はこのあたりをしっかりと描いてほしいところである。
私なりに思うところがあるけれども、それは、テレビドラマで、
ストーリーが進んでから、私なりの感想を書いてみたい、と思う。

あさのもとで、彼らゴロツキが、
どんなにおとなしくなるものなのか、ここは見どころである。
(本当に、おとなしくなる、ということなのだろうか?)

ところで、あさの姉「はつ」である。
今、「姉妹」というのは、とても話題性のあるテーマになっている。
昨年のディズニーアニメ「アナと雪の女王」あたりから、
流行があるのだろうか。
女性たちにとっては、ふたつの異なる個性、
その対立と融和というのは、大きなテーマである。

「あさが来た」でも、姉のはつと、妹のあさの、
ふたりの性格と人生が、対照的に描かれていて、
とても興味深い。

「はつ」は、姉妹の長女という役割である。
そのためか、「しっかりもので、芯の強い」と描きたいようだ。
しかしこのごろの、はつ、には、
女の弱さ、というものがありありと見てとれるように思う。
というのは、はつは、ひとりでなんでも頑張るタイプで、
周囲からの手助けに対して、非常に拒絶的であるからである。

世の中にこういう女性は「いるいる」というかんじである。
何に関しても、人の手助けを受けることが嫌いな強情ッパリで、
外面はよいが、内面は弱々しくてボロボロである。

それに比べると、姑や舅、夫や番頭さんの手助けを、
快く受け取る妹のあさは、
周りから見ていて、何かと安心である。

周りの人を心配させない、というのは、
女性としてのたしなみであり、礼儀であり、常識である、
と私は思う。
そういう点で、皆に心配をかけながら、
本当は誰が見ても全然大丈夫じゃないのに、
大丈夫、大丈夫、と虚勢を張る、はつは、
周りから見て、迷惑を広げる存在であるかもしれない。

これからも、はつ、とあさ、のふたりの対照を、
女性の生き方や振舞い方の手本として、反面教師として、
一生懸命、学んでいきたい、と思っている。

「あさが来た」毎朝、楽しみに観ています!!!


2015年11月7日土曜日

浅田真央さん。「素敵なあなた」


冬が始まった。
フィギュアスケートのシーズンである。
私は、フィギュアスケートが大好きで、
だから冬のシーズンが大好き、といってもいいくらいである。
今年の冬は、「あの」浅田真央さんが、
一年間の休養ののちに、姿を現した。
きのうのショートプログラムでは、ジャズの名曲「素敵なあなた」を、
熱演された。
本当に素晴らしかった。
一年間の休養が、浅田さんにとてもよい「豊かさ」と「余裕」を与えてくれたように思った。

今夜は、グランプリシリーズ中国杯で、フリーの演技が披露される。
とても楽しみである。
フリーの曲目は「蝶々夫人」である。

「蝶々夫人」は、日本人女性の純粋な愛情を描いた物語である。
作曲家のプッチーニは、こうしたアジアティックな名オペラを、
数多く残した作家である。
その代表作がこの「蝶々夫人」である。

私たち現代の日本人女性が、この物語に触れるとき、
それは、とても悲しく、時には「悔しく」思える愛の形を見る。

それは、戦後間もないころである。
舞台は、日本の長崎である。

たくさんのアメリカ海軍兵士がやってきて、
日本という「現地」で恋愛をし、
「かりそめの」愛を誓って、結婚式を挙げた。

そして、日本での海軍の任期が終わると、
恋愛もそこで終わらせて、
さっさとアメリカに帰ってしまうのである。
そして、日本での愛も妻もなかったことのようにして、
アメリカで新しい、アメリカ人の妻をめとり、
人生を送っていく。

蝶々夫人は、そうした、戦争のあとに起こった、
「現地妻」の、状況を描いたものである。
決して帰ってこないつもりで、いつわりの愛を誓う夫、
その結婚を心配する日本の人々、
しかしここでとても大事なのは、
信じる気持ちと、純粋な愛情を持つ、蝶々夫人の、
希望を持つ愛情なのである。

プッチーニが描きたかったのは、
若い女性の持つ、純粋な愛情である。
アメリカへ行ってしまう、(本当は帰ってしまうのだが)夫が、
「きっと必ず私のところに帰ってきてくれる」
「そして迎えに来てくれる」と、信じて、
再会のときを夢に見るのが、この曲、「ある晴れた日に」
である。

私たち、日本の女性が、このオペラを思うと、
本当は悲しい。
本当はつらい。

でも、プッチーニが日本女性のなかに見たのは、
悲しみのなかで、生き生きと夢見る、
純粋な乙女の恋心なのである。

今夜も、必ず見ています。
浅田さん、フリーがんばってくださいね。
応援しています!



2015年11月5日木曜日

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月5日。


朝の連続テレビ小説「あさが来た」の視聴率が、
とても上がっているそうである。
朝ドラ初の時代劇に、AKB48の爽やかな歌声、
こうしたところで、新しい視聴者層をつかんだのかもしれない。

ところで、今週に入ってから気になっていた、
「愛と仕事の両立」である。
働く現代女性にも通じるこの「家庭と仕事の両立」
というテーマを、大森美香女史が、どのように描いてくれるのか、
私たち働く女性に、どのようなメッセージとアドバイスをくれるのか、
とても楽しみにしていた。

しかし、たくさんの女性視聴者にとってそうであるように、
「これはどうなのかな?」と、考えさせられる、
問題提起、という形になっていると、私は思う。

私が疑問に思ったのは、
ひとつは、「あさ」の悩み方である。
夫からの愛情を得たい、という気持ちが、
そのまま子どもがほしい、という気持ち、
女性として見られたい、という悩みに直結してしまっている。
でも、男性にとって、「愛」とか、
「女性を愛する」とかいうことは、
性的な欲求を抱くこととイコールなのだろうか?

女性は、男性からの「愛」を、
性的な行動とカンチガイしやすいのではないか、と思う。

あさの夫・新次郎は、お家のこと、仕事のこと、
特に新しい仕事のことでとても悩んでいるけれども、
その状態で、あさに対しては、やはり内心、
感謝の気持ちでいると思う。
そうした、「お家とりつぶし」も近いかもしれない状況のときに、
性的な気持ちになれないのは、
まっとうな男性として当たり前で理性的だともいえるかもしれない。
人間として、しっかりしているのではないか、と思う。


ところで、大森美香女史の、対照的な女性、
このドラマでは、姉妹であるが、
この描き方には、まだまだ不足があるように思う。
というのは、お家取りつぶしになった山王寺家が、
ああいった状況で暮らすことになって、
その家や、家族の、心の状態を、
しっかりと描いていないからである。
お家がなくなって、生活の質が極端に落ちたところに、
笑顔があるはずがない。

こうした状態の描き方には、
現代のリストラ家族や、倒産家族にも共通するところがあるので、
しっかりした人間観察がほしいところである。
荒んだ心や、荒んだ表情、荒んだ言葉のやりとり、
こうしたものが、まったく描けていない。
また、貧困家庭で、妊娠という事象が起こると、
「やだ、できちゃったわ」というのが、本音ではないだろうか。
少子化問題に何か問題提起したいのかもしれないが、
子どもが生まれてくるということは、
母親にとっても家族にとっても、
「おめでたい」では済まないものが、たくさんあるはずだ。
そうした複雑な心情や状況が、まったく描けていないと思う。

また、当時は、貧しい家では、子どもの「間引き」が、
当然のように行われていた。
「あさ」と、「はつ」の家の事情の描き方に、
ドラマ作りをする人たちの、
もう一歩、人間観察、社会観察を、
期待したいと思う。



2015年11月2日月曜日

NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月2日。


NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」は、
朝ドラ初の時代劇にトライ、ということで、
たくさんの視聴者から、とても好評のようである。
私も、毎朝とても楽しみに観ている。

「あさが来た」は、ヒロインが女性実業家、
ということで、女性が働くということ、
女性が活躍する、ということが、
大きなテーマとなっているように思う。

時代背景もあり、明治維新のころ、
夫とともに、お家とともに、
時代を駆け抜けた女性、ということになるだろうか。

私はここで、もうひとつのテーマを追いかけてみたい、と思った。
それは、女性脚本家の持つ、固有のテーマである。
「あさが来た」の脚本家である大森美香女史のテーマはなんだろう?

私は、向田邦子賞も受賞した、フジテレビのドラマ「不機嫌なジーン」
にも共通するテーマを観た気がした。
それは、「男性の浮気」である。

「不機嫌なジーン」でも、
ヒロインが、研究や仕事に夢中になっていると、
パートナーであり恋人でもある男性が、
浮気をしてしまうのである。
「不機嫌なジーン」では、男性が浮気をすることを、
遺伝子のせいにしていて、
「男は浮気をする生き物である」
というようなことを、表現していた。

明るくて闊達で、仕事に夢中になっている女の子が、
恋人に浮気をされるのは、とても痛いことである。
それが、ヒロインのちょっとした劣等感になっていて、
「色っぽい女性にはかなわない」
「私には色気がない」と、意気消沈してしまうのである。

今回の、「あさが来た」でも、
元気で仕事の能力のあるヒロインの、夫が、
どうにも「色っぽい」女性と、浮気をしそうなところである。
また、姉の「はつ」も、しんみりとした色気があり、
そちらのほうが「しあわせ?」と問いかけたいような、
ストーリー展開になってきた。

しかし、NHKの朝の連続テレビ小説で、
朝から国民の皆さまの前で、
「男は浮気をする生き物である」と、
テーマを打ち出すのは、どうなのだろう?

NHKの朝ドラとして、ヒロインが、
「男性の浮気」というテーマを、
どのように風に乗り、ふわりと乗り越えるのか、
ここからが見どころである。

また、働く女性にとって、
家庭と仕事の両立とは、
愛と仕事の両立であり、
仕事に打ち込めばダンナの愛が逃げていく、
という大テーマになってきたので、
ここはNHKから、大いに学びたいところである。