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8月, 2014の投稿を表示しています

NHK「花子とアン」第22週「新しい家族」感想。

今年の春から始まったドラマ「花子とアン」。
NHKの朝の連続テレビ小説では、ひとりの女性にスポットを当てて、その半生を描くものだ。
両親の出会いから、幼い子ども時代、学校に上がる時代、就職活動、恋愛と結婚、仕事と友情、これらを描いて、物語は人生の後半戦に入っていく。
今週の「新しい家族」では、年代が「あれから5年」というふうに飛びながらも、花子の人生の後半が、進んでいくようである。
花子は40代に入り、だいたい45歳ごろであろうか。

女性の人生の、本当の充実期は40歳からである、という話をどこかで聞いたことがある。
何かの歴史小説や西洋の格言にも、やはり女性の人生は40代からが本番である、と書かれていたことを思い出す。
それは、特に女性は、10代、20代で、若い時代のときのほうが、華やかで美しいからではないか、と思う。
ただ「若い」というだけで、本当に輝かしいものだと思う。
それはそれで、若い時代を大切にするべきだと思う。
しかし、人間としての本当の深みと、10代、20代で何をしてきたか、というその結果は、やはり40代になって表れるのではないか、と思える。

物語のヒロイン・花子も、10代、20代では、紆余曲折と悩みと葛藤の連続であった。
女学校に入って学んだものの、自分の生き方が定まらず、家族との間で、それでもそのときそのときで、最善の選択をしてきたと思う。
特に、女学校を卒業した後に、郷里に戻って教員をしたことが、その後の職業を考えると回り道になっており、そうした遠回りを、ひとつひとつ自分の人生の蓄えにしてきたことが、花子の40代につながっているように思える。

そこには、小学校の教員だったころの、「子どもたちにお話を聞かせたい」という気持ちが一筋、芯が通っている。
また、一筋芯が通っているのとはまた別に、住む場所も変わり、人間関係も変わり、結婚して妻となり、母となっている。
そして、仕事も、翻訳と、「ラジオのおばさん」となっている。
変わらない目的と、次々に変わる職種とが、彼女の葛藤を物語っているようだ。
そしてそれらすべてを財産にして、その財産とは、社会的な地位であったり、職業であったり、すでに出版した本であったりするが、そこで、40代が花開くのである。

すでに、「ラジオのおばさん」の仕事は、毎日夕方の「コドモの時間」として安定しており、両親や妹たちには、自分…

内閣改造の予想をしてみる。

8月も終わろうとしている。夏の終わりである。
子どもたちの夏休みが終わり二学期が始まる。
政治日程でも長かった夏休みが終わり、秋の政局が始まる。

一番最初に、すでに始まっているのは、内閣改造の話題である。
現政権はとても安定した政権であり、内閣人事はこの2年間まったくなかった。
一昨年の12月に衆議院選挙で、自民党が大勝し、たくさんの議席を獲得したことが記憶に新しい。
そして翌年、つまり昨年2013年の夏であるが、参院選で「ねじれ」を完全に克服した。
自民党政権は、国民が待ち望んだ安定政権である。
私たち国民の側からすれば、いつの間にか、自国の総理大臣の顔と名前も一致しないうちに、交代してしまうような不安定な政権より、安定して仕事をしてもらったほうが、とても安心である。
私たち庶民の仕事や役、ポストでさえ、ほんの半年や一年でそうそう変わるものではない。
じっくりと腰をすえて、仕事に取り組む態勢は、とても必要であるし、誠実に思える。

しかし、今回の内閣改造は、そうした「安定」に異議を唱える政治家が多い、という不満噴出が元である、ということで、国民としては政治不信への道を一直線にたどるべき報道の数々である。
もともと、閣僚ポストは、「仕事をするための」役であって、昇進したからそこがゴール、という意義ではないはずだ。

そういった本来の閣僚の意義を踏まえたうえで、少し大人になって、社会構造というものを見直してみたい。

今回の内閣改造には、論功行賞はあってはならないはずである。
これまで2年間、現内閣は大きな躍進を遂げてきた。
これは、計画的なものであり、その計画は、じっくりと進んでいる。
けっして、「ゆっくりと」とは言わないが、政治の計画には、100年の大計が必要だと言われているから、2年では完了しえない政治問題がたくさんあるのである。
そのほとんどが、「まだ手を付けたばかりです」という状態だと思う。
6年後の東京オリンピックもそうであるし、北陸新幹線、リニアモーターカーの開業、南海トラフ地震、首都直下地震への懸念、東北の震災の復興、経済政策、女性のための政策、少子高齢化政策、消費税増税などなど、「この2年で始まりました」という政策が山ほどある。
それらを、実行力を決意を持って、行動力と熱意をもって、実現するリーダーが、必要である。

なので、すでに始まっていて、これからも…

NHK「花子とアン」主題歌「にじいろ」感想。

表現と日本語の間。
夏休みも終盤となった。
学生の皆さまには、夏休みの宿題がまっさかり、というところである。
受験生や浪人生の皆さまには、「夏が受験の天王山」ということで、充実した学力づくりに取り組めたのではないか、と思う。
私は、自分自身が、こうして文章を書くことでさまざまな活動をしているので、教育問題は、とても大切なことだと常々思っている。
いろいろと考えたが、やはり私は、自分が文章を書くから、という理由だけではなしに、やはり日本語、語学力、ネイティブな母国語の語学力が一番大切だ、ということが、学力と教育に一番に訴えたいことである。
私は、何よりも「正確な日本語」の習得が、一番大切なことである、と考えている。
正確な日本語は、5W1Hのかなった日本語であるが、これは、事実を正確に伝えるメディアやニュース番組などの、文章が一番であるように思う。

ここで、正確な日本語と、文学的表現について、具体例を示してよく考えてみたい。
NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」は、クランクアップを迎えたようであるが、放送はまだまだ続いている。
みなが毎朝、目にして耳にする、テーマソングの歌詞を例にとってみると、正確な日本語と、文学的表現のちがいがわかりやすいので、書き分けてみたいと思う。

♪ これから始まるあなたの物語
これは、「これから始まる○○の物語」となることが、正確な日本語である。
たとえば、「これから始まるウサギの物語」
「これから始まるミッキーマウスの物語」
などというように、○○には、名詞が入るべきである。
「だれの」あるいは「どんな」物語なのか、という修飾語になるはずだ。
しかし「あなたの」は、二人称である。
名詞にすれば、正確な日本語表現であるが、ここで二人称にしたのは、「ひとひねりした」日本語の修飾となる。
このあたりで、文学的表現となるが、これは、「伝える」日本語としては、とてもわかりずらい。

♪ ずっと長く道は続くよ
一行目に、「これからあなたの物語が始まりますよ」と呼びかけているにも関わらず、今度は、「道」が主語になっている。
これは、考えようによっては、一行目に「あなた」に呼びかけたので、「これから始まる道は長いですよ」と道について説明したようになっている。
しかし、一行目では道は出てこないので、「物語イコール道」と考えたほうがよいだろう。

♪ 虹色…

広島土砂災害について。

広島市で起きた土砂災害は、8月25日現在で死者50人、不明者38人を出す被害となった。
市街地とも呼べる地域で起こった災害であり、地元の人々をはじめ、日本中の人々の、心理的なショックは、とても大きいところである。
報道を読むと、もともとこの地域は、山肌の地盤が弱く、以前にも同じ土砂災害を起こしていた地域であるという。
そういった地盤に、再び住宅地を建てて人が住んでいたことは、人災に当たるといわれてもしかたのないところがある。
私がテレビ映像で見ていても、あるいは、ときおりその地域を旅してみても、「どうしてあんな、山の災害のありそうなところに、住宅地を建てるのかな?」と不思議に思うときがあった。
北海道では平原、平地が広かったから、平地に家を建てるのは当たり前のことであったけれども、日本の特に海沿いでは、平野部がとても狭くて、山に向かって、段々畑よろしく、段々住宅地を建てるのが、当たり前になってきているという。
それにしても、近年でずいぶんと無理な開発をしたものだと思う。
都市部への人口集中はこうした危険を持っている。
これから、地方の創生といった政策も始まるという。
昔から人が暮らしていた、地盤の安定した場所で、人々が暮らしを営めるような、そうした政策が今後、功を奏していくだろうと思われる。

政治という仕事は、とても昔の、守護、地頭、豪族、荘園主、地元の有力者、といったころから、一番の仕事は、「治水」であったといわれる。
また、政治を司る人が、「天帝」と呼ばれ、天と地をつなぐもの、と呼ばれたのも、人々がずっと以前から、人として暮らしを営むために、天すなわち自然とのつながり、付き合い方を、とても必要としていたからだろう。
その、「天と地をつなぐ」大役を果たしていたのが、政治家である。

利根川の治水もそうであるし、小さな農村の段々畑の水の割り当ても、そこから人間のコミュニティと、文化が始まった、と呼べるものであった。
川には、護岸工事が施され、川に沿って、お寺が建てられた。
このお寺は、水をめぐる人々の争いを治める役所であり、水害で亡くなったかたを弔う役割もあった。
水と人、自然と人との付き合いは、とても昔から始まっていて、その付き合いは今もまだ、終わるということがない。

今回の、広島土砂災害も、天と地をつなぐ政治の役割は、政治家としての手腕を発揮すべき、大きなテーマ…

NHK「花子とアン」第21週「ラジオのおばさん誕生」感想。

絶賛放送中の「花子とアン」。
夏休みの子どもたちも巻き込んで、昭和の時代や、女性たちの生き方、ときには女性たちのファッション、あるいはときには、ヒロインとその友達の「夫」「彼氏」「恋愛」をめぐって、華やかに話題が起こっている。
私はこうした、誰もが見ているようなテレビドラマを題材にして、会社や学校で話題にしたり、あるいはツイッターやブログで、ミニ討論をしてみるのは、とてもよいことだと思っている。
今週「ラジオのおばさん誕生」では、特に、働く女性である花子を支える、夫の働きが際立った週であったと思う。
もともと作家であり翻訳家である花子に、ラジオの仕事が舞い込んできたのは、「腹心の友」である、蓮子のつながりである。
蓮子が以前の結婚で九州にいたときに、確か「福岡日報」とかいうような新聞社で、記者をしていた黒沢という男性が、東京に来て、ラジオの仕事をしていたのである。
そして、ラジオで、子ども向けに、「女性の声で放送をしたい」という要望が発生したときに、花子に白羽の矢が立てられたのである。
翻訳家である花子になぜ、ラジオの仕事が来たのだろうか。
今では、作家がラジオ番組を担当することはめずらしくはないが、花子の仕事はどちらかといえば、女性アナウンサーのような記事の読み上げである。
当時も今も、教育を受けた女性、賢い女性、西洋風の思想を身に着けた女性、そして、臆することなく積極的に前に出てくる女性は、とても重宝されたように思う。
その重宝ぶりは、ただ、「賢い女性が少ないから」という理由であるようだ。
それにしても、ラジオの仕事とは、たいしたものである。
当時としてはとても珍しく、先駆けであり、誰もがうらやむ仕事だったのではないだろうか。
仕事の話を持ってきたのは、何よりも腹心の友、友はコネクションも呼んでくれる。

この仕事を、「引き受けてみたら」と優しく微笑んでくれたのが、夫の英治である。
また、ラジオ局に挨拶に行くときに、保護者のように連れて行って、男性同士の社会の引き継ぎをしてくれたのが、夫の英治である。
また、放送の仕事で緊張するから、と、子どもの写真を持たせてくれたのも、夫の英治である。
女性が社会で仕事をするときに、保護となり盾となり、仕事の仕方を教え、社会の仕組みを教え、ときには、緊張のほぐしかたや休み方まで教えてくれる、それが、夫の役割であった。
女性が、…

これからの暮らしのこと。

8月もお盆を過ぎ、子どもたちの夏休みも終盤である。
9月からは2学期、そして秋となる。
2年前の8月そして9月には、アジア危機があった。
あのとき、日本と、日本の国に暮らす、愛する家族を守るために、とにかく必死で夢中だったことを思い出す。
ラジオで語学講座を、4月から五か月も続けてきたのに、あと一か月で修了という9月の一か月を、アメリカとのやりとりと、戦争が始まるかもしれない強い不安と、その戦争に負けるかもしれないという畏れとで、いっぱいになって、語学に集中できなかった。
あの夏から、もう2年も、世界情勢が続いているようである。
それは、外交と呼ぶべきなのか、それとも、絶え間ない戦争なのか、あるいは絶え間ない、上位争い、下剋上の争いなのだろうか。
日本は、その争いを、せざるをえない状況になったのだろうと思う。

私はあのとき、ともかく、アメリカの、アジアに対する戦略をやめさせればよい、と思っていた。
でも、その続きは、必然的に流れがあったということだろう。
それだけでは、終わらなかったのだろうと思う。

そのあと2年間、私は、アメリカを含めた世界情勢が、勢力分布図を変化させていくための、大きな変革の時代にはいっていたことはわかっていた。
しかし、絶え間ない、日本への攻撃や、あるいは日本からの反撃があるとは、思ってもみなかった。
戦争には、いろいろある。
交通戦争も「戦争」と名がつくものであるし、また各国間の経済戦争もまた、「戦争」である。
それらを含めた戦争が、もうすでに2年も続いていたとは、知る由もなかった。
それでも、続いてきたことに、まちがいはないのだろう。
私がただ、「今の世の中どうなっているのか、よくわからない」と、世界に心を閉ざしていたのかもしれない。

今も、あのアジア危機のときのように、なんらかの状況分析や、あるいは、戦略を述べたりが、できたらよかったのかもしれない。
しかし、今の私には、情報が少なすぎることもあって、何がなんだか、さっぱりわからない。
それに、やはり、戦争は男性の領域であると私は思う。
日本に暮らす愛する人たちの命を守るために、という意義では、女性らしい、命を守る気持ちが強く働いたのかもしれないが、今、外に打って出るような積極的な行動には、どうにも気持ちが向かない。
どうしても、できない。
女性には女性の領域があり、守るべき立場や、居る…

7月1日からこれまでのこと。

2014年7月1日。日本において、集団的自衛権の解釈が、閣議決定された。
その日から、もう一か月と22日が過ぎようとしている。
私は、この4月から、ずっと集団的自衛権については、悩んできた。
昨年末の、秘密情報保護法案から、ずっと悩んできた。
私は、今の政権を支持してきた。
私は、決して右翼だったわけではなく、東日本大震災のあとの日本に、求心力の強い政権が必要だと思ったからであり、国民であるかぎり、政権というリーダーのもとに、力を合わせるべきだ、と信じたからである。
それが、国をよくしていくただひとつの道であるし、大震災という天災を乗り切るための、たったひとつのよい方法であると信じてきた。
現在の政権は、衆議院、参議院の数を考えても、絶対的多数であり、安定政権であり、ともすると、「独裁政権」とも呼ばれかねない政権である。
独裁は、危険なことである。
しかし私は、「よい王様」の「よい政治」という可能性を考えて支持してきた。

今年の6月は、集団的自衛権を考えて、どうしても納得できなかったし、支持しかねるところがあった。
権利として持っていることを大事に考えているのか、それとも、すぐにでも戦争を始めたいのか、私には判別できなかった。
そして、まさか戦争はしないだろう、と政権を信じることにした。
そして、自分の頭の中で論理をひっくりかえしてはつじつま合わせをするかのように、集団的自衛権と正当防衛について考えて、書いてきた。
それでも、戦争を始めるだろうとは思わなかった。
露ひとつ、疑わなかった。

しかし、7月1日に集団的自衛権の閣議決定がなされると、すぐに、戦争は始まった。
ウクライナ上空でマレーシア航空機が爆撃されたときに、私にはすぐにわかった。
たくさんの日本国民にも、すぐわかった。
そして、次々に世界中で、飛行機が撃墜され、大規模な事故が起こっていった。
これらが、集団的自衛権の解釈変更を得たばかりの日本国が、日本政府が行った戦争であることは、誰の目から見ても、明らかだった。

戦争は、サッカーゲームとはちがう。
そこには、人の命がかかっている。
マレーシア機でも、たくさんの子どもたちの命が失われた。
悲しみと心の痛みで、私は、寝込んでしまった。
それ以来、一か月と22日、私は自室から、起き上がれない毎日を送っている。
昼もカーテンをひいて、エアコンをかけて、ただただ…

NHK「花子とアン」職業婦人・醍醐亜矢子女史。

4月から、毎週の「花子とアン」の感想を綴っている。
週ごとにストーリーを追いかけている書き方であるが、ここで、登場人物のひとり、醍醐亜矢子女史に、スポットを当てて書いてみたいと思う。
醍醐さんは修和女学校時代からの、花子の学友である。
花子が女学校に入学したのはまだ、「小さい人たち」と呼ばれる10歳ごろであるが、その当時、先に入学していて「はなさん。お友達になりましょう」と言ってくれた友達が、醍醐亜矢子さんである。
「はなさん。髪におリボンはつけないの? 髪におリボンをつけないのは、お着物に帯を締めないのと同じなんですって。よろしかったら、私のおリボンをさしあげるわ」と言って、自分のリボン箱のなかから、花子に、大きな花のようなリボンをプレゼントしてくれた友達である。
この醍醐さんは、成長して、職業婦人になるのだが、大正時代、昭和の時代、と日本の最先端の時代を東京・銀座で生きるのであるから、さすがに素晴らしいファッションセンスである。
まさに、「歩く文明開化」と呼びたいほどである。

醍醐さんは華族出身であるようだが、まさに明治から大正、昭和と、このドラマを文明で彩ってくれている。
花子の「腹心の友」は、蓮子さんであるようだが、醍醐さんもまた親友のひとりと言えるだろう。
この醍醐さんは、女学校の卒業当時は、婚活にうちこんでいた。
永久就職を求めるタイプだったのである。
どちらかというと、清純でおとなしめ、芯の強い醍醐さんには、いい家に嫁ぐのが一番向いているようにも見える。
しかし、決まりかけていたお医者様との縁談をやめて、職業婦人になることにした。

出版社で、花子の同僚を務め、花子のサポートもしてくれる。
そして、白蓮事件のあとでは、白蓮のことを、フリージャーナリストとして取材して、連載、そして、一冊の本にまとめるのである。
これは本当に、当時の最先端の職業であっただろうと思う。
蓮子と醍醐さんも女学校で同級生であったわけだから、ここで、花子、蓮子、醍醐亜矢子が、女流文筆家として仲良くそろうわけだ。
女学校時代の卒業生がこうして、社会で活躍する職業婦人になることは、本当にすがすがしい女性の生き方である。

しかし、醍醐亜矢子にも、「結婚」「恋愛」は、なぜかとてもむずかしいハードルであるようだ。
平成の現代でも、仕事を持つ女性は、いつの間にか年齢が上がってしまっていて、よ…

NHK「花子とアン」第20週「海にかかる虹」感想。

NHK朝ドラ「花子とアン」は、白蓮事件も一難去って、蓮子さんは何事もなかったかのように、一般庶民に落ち着いている。
伝助との別れと許しは、とても印象的な場面だった。
そして、花子は、本来の職業だった、あるいは視聴者も待ちに待ってまちくたびれて、もうすっかり忘れてしまっていたのだったが、翻訳業に本腰を入れ始める。
小学校の教員をしていたときには、文筆の道に進むための、なんらかのきっかけが必要だった。
そして、文筆業が翻訳業へ、そして児童文学へ、と方向性を持つためには、やはり大きなきっかけが必要だったということだろう。
考えてみれば、「文筆」あるいは童話作家というはずだった花子に、「英語の翻訳」という道を示したのが、夫である村岡英治である。
花子の人生と職業選択は、そのときそのときの出会いや、環境にとても左右されているようだ。
しかしこれも、明治、大正、昭和、という、女性の職業の先駆けであった時代であるから、いたしかたない、ともいえる。

夫となる男性、あるいは職場の男性から、職業や社会人としての「作法」を教わることは、女性にとってはよくあることで、どんな社会人たる男性と知り合えるかは、女性の職業に対する姿勢や取り組み方、具体的な仕事の仕方にとても影響してくるようである。
そうした意味で、村岡英治は、ドラマのなかでこそ影薄いイクメンであるが、陰に日なたに、社会人として、職業を、妻の花子に叩き込んだ張本人でもあるかもしれない。
また、花子が夫・英治に対する思いというのも、「仕事をさせてくれた」「仕事を応援してくれた」あるいは、「自身の才能というものを、開花させてくれた」という意味で、とても大きいのかもしれない。
自宅に印刷所まで作ってくれるのだから、すばらしいことである。
当初は、家内制手工業、とも思い、印刷の仕事がたくさんほしいから妻に働かせたのか、ともかんぐったものだが、花子の、当時としては貴重な、英語と翻訳という才能を、だれよりも評価していたのは、夫の英治だったかもしれない。

このあたりで、「夫連」が描かれるのだが、蓮子の夫、シュギシャたる宮本龍一はすでに、姑にやっつけられ、子煩悩なふつうのオジサンになってきている。
なんとも情けない話で、蓮子が駆け落ちしたその理由、男性的な魅力というのが見えてこない。
もしかしたら、宮本龍一というのは、駆け落ち前から、マイホームパ…

NHK「花子とアン」第19週「春の贈りもの」感想。

NHK連続テレビ小説「花子とアン」。花子の人生も、関東大震災を迎えた。
季節は春、となっている。
この春は、どういう春なのか。
関東大震災が9月1日に起こり、翌年の春、ということである。
春は復活の季節、再生の季節であり、表題の「春の贈りもの」は、関東大震災からの再生をさすものだろう。
何事であっても、半年あればすぐに復活の、村岡夫妻である。
村岡夫妻は、消失してしまった村岡印刷と、やはり銀座にあって焼失した、花子の出版社であった聡文堂、に関して、さまざまな思いがあったようである。
もちろん、再建である。
しかし、この再建の道のりは、たいへんになにか不愉快というか、またも不自然さを感じさせるものであった。
ここのご夫婦は、何につけても、「夫唱婦随」ならぬ、「婦唱夫随」なのである。
「印刷所兼出版社を作りましょうよ!」と高らかに宣言したのは、妻である花子である。
そこに、「そうしよう」と賛同したのが、夫の英治である。
この夫、これが本当に「敷かれた亭主」というのだろうか、妻のいうことを次々に実現するために、一生懸命がんばる夫君で、自ら何かを提案して、始める、というところがまったくない。
実際には、男性は、妻が提唱したことに、賛成することはないし、がんばって仕事をすることは、絶対にない。
…と私は思う。
そういう意味で、ここの村岡英治氏は、いるはずのない男性であり、ある意味、女性作家が作り出した、空想上の男性像である。

こうして、空想上の男性と、あまりにも意気盛んな妻とで、あっと言う間に新しい会社が設立される。
会社の設立資金も、妻が、女学校時代の学友、(正確に言えば、学友の夫君の財産)から、集めた資金なのである。
奥さんがいたれりつくせり、の村岡夫婦であるが、村岡英治氏の自立性はどこにあるのだろうか。
なにかふわふわした、得体のしれない優しい夫として描かれているようで、心もとない。

ともかく、こうして、亡き義弟のための(このあたりもどことなく不自然な)最初の一冊を、印刷・出版することになる。
花子が、初めて翻訳して連載した「王子と乞食」である。
現代では、「乞食」は、使ってはいけない語句となっているのだが、これがこんなに頻発されるNHKドラマもなかなかである。
こうして、関東大震災というとてもつらい状況を、花子がひとりで本を印刷して、ひとりで春を作って、みんなにばら…

NHK「花子とアン」第18週「涙はいつか笑顔になる」感想。

日本中をにぎわせた「白蓮事件」のエピソードも幕を閉じて、物語は次々に進んでいく。
ここまで来ると、放送もあと2か月となり、ラストスパートに向けて、花子の人生を、着々と進めていかなければならない状況のようだ。
これまでも、NHKの朝ドラを見ていて、こうした、何か「人生早送り」の場面も慣れてきて、あら、と思ったらナレーションと字幕が出てきて「大正12年」と、数年も飛んでいたりする。
これも朝ドラの見どころである。
朝ドラは、ひとりの女性の一生または半生を描くものであるが、やはり人の人生というのは、「飛ばせる時期」と、「刻銘に描きこむべき時期」とが、あるのではないかと思う。
結婚をして、子どもが生まれて、白蓮事件があって、その次としては、関東大震災は欠かせない。
これまでも、明治から大正、昭和を描いたドラマや小説があるが、必ずその時期に、関東大震災は入ってくる。
時代背景として欠かせないものである。

これから先、平成という時代を舞台にしてドラマや小説を描くとき、あるいはひとりの人の人生を描くとき、東日本大震災は、やはり欠かせない時代背景になるのだろう。
「そのとき、ヒロインはどうしていましたか?」という問であり、「私はどうしていました」の答でもある。
また、作家の腕が問われる場面でもあるだろう。
今回の朝ドラでは、関東大震災を一週間で扱うことにしてしまった。
これは、ドラマの筋書きを進める上での、必要悪か、やりたくない宿題のように扱われるような状況でもある。
ただ、時間の関係で、簡素に描くしかなかったのかもしれない。

関東大震災では、花子の夫・英治、その弟である郁弥が、震災の犠牲になる。
花子の妹かよの、恋人でもあった、郁弥であった。
ここでは、花子が震災で受けたショックが描き切れず、ただ、「どんなつらい境遇でも、涙のあとには笑顔になる」という、テーマが強調されたように思う。
また、子育てでは、大正時代としては、「これ本当?」というくらい、育児に熱心な父親が描かれた。
平成の時代では、お母さんだけが子育てをしているようなシーンは、視聴者からお叱りを受けてしまうのだろうか。
花子・かよの姉妹の対比が、あまりにも単純で、そこに、姉妹らしい女性らしい、感情の葛藤が見えてこないところもある。
ただ、ここで花子は、とてもつらいときに、子どもたちにお話をする、という経験をする。
花…

NHK「花子とアン」第17週「腹心の友ふたたび」感想。

NHKの朝の連続テレビ小説「花子とアン」も、真夏の放送となった。
半年間の物語は、この季節にクライマックスを迎える。
すなわち、子どもたちの一学期が終わり、夏休みにはいるころ、梅雨が終わり、真夏の日差しが照りつけるころである。
先の週で、話題の「白蓮事件」を精一杯描き切ったNHKスタッフは、ようやく続きをつなげているかのように、ほどけたピースをひとつひとつ合わせていくように、「腹心の友ふたたび」の週を乗り切った。
白蓮事件は、蓮子さんの出奔だけで、とても大きな話題となるものであるが、「花子とアン」のテーマは、女性の友情だそうである。
だから、白蓮を心の底から、心身共に助けた仲間、友達の在り方が、とても重要になってくる。
このあたりで、「花子とアン」は、ダブルヒロインの物語だったのか、とも話題になった。
もしかすると、本当のヒロインの花子がかすんでしまうくらいの、大胆な蓮子の恋情であった。

蓮子はすぐにおなかに子どもができる。
でも、追われる身でもある。
そうしたときに、助けたのが、「腹心の友」である、花子である。
花子はまず自宅にかくまった。
この自宅は、すでに結婚して子どもも生まれていた、村岡英治との新居である。
その後、花子の実家である、甲府の家にも、蓮子を連れて行ってかくまっている。
蓮子の新しい夫となった宮本龍一は、社会主義者としても、白蓮事件としても追われる身であるから、ここで、「身柄」という点で、応援するのは、本当に「困った時の友こそ真の友」といえる状況だろう。

しかし、ここで、いま一度よくよく考えてみなければならないのは、本物の友情とはなにか、という意義である。
友達のためなら、一切合財すべてを肯定して、味方になってあげるのが、友情なのだろうか。
「あなた、それは本当はまちがっているんじゃないの?」と、筋を教えてあげるのも、友情の大切な核心ではないだろうか。
「かわいそう」これは同情であって、友情ではない。
このときの花子の行動が、はたして本当に「友情」と呼べるものだったのかどうかは、賛否両論ではないだろうか。

蓮子の結婚は、駆け落ち、という社会的には短絡的なものであった。
恋愛と結婚、男性と女性の仲は、ただただ、一緒になればいい、というものなのだろうか。
また、このいきさつの物語の作り方がいかにも不自然になり、実家のご両親も、実家のご近隣も、誰も蓮…

「不思議」な時代。

よく眠っていた夜中に、ふと何か重苦しい気配がして、目が覚める。
暗闇のなかで電灯をひとつ灯すと、まるで、誰かにじっと見つめられているような、不思議な気配がする。
物音はひとつもなく、シーンとしていて、普段なら遠くのバイパスを車が通る音くらいはするのだが、なんの音もない。
映画の無音場面のように、とても静かだ。
お茶でもいれようかと思うが、あまりの重苦しさに、そんな気持ちになれない。
冷蔵庫に何か冷たい飲み物でもあったかな、と思うが、食欲もない。
こんな夜に、ほかのみんなはどうしているのだろう?と思う。
ツイッターのタイムラインをのぞいて、みなが、テレビを観ていたり、ゲームをしていたり、高校野球の結果をつぶやいているのを見て、少しほっとする。
それでも、なにかこの時間に、どこかで誰かが、何かとても思い悩んでいるのではないか、と心配になる。

「死」という文字がこのところ、たくさんのところで目につくようになったような気がする。
「死」の時代、「殺」の時代なのだろうか、と不思議に思う。
これまで、それ相応に長く生きてきて、こんな世相はなかった。
つい先月には、世界各地で飛行機の墜落事故が次々に起きた。
大きな事故、小さな事故、社会事件、せっかくの夏祭りも台風や事故で、楽しめる状況からは程遠くなっている。
いったい、何が起こっているのだろう?いったい何がどうなっているのだろう?
いろいろな仮説を考えてみる。
実はどこかでひそかに、戦争が起こっているのだろうか。
ウクライナでの飛行機墜落事故は、本当は第三次世界大戦の始まりで、どこかの国が戦略的に墜落させたのではないだろうか?
次々と起きる飛行機事故も、本当は、どこかの国の作戦なのではないだろうか?

世の中を社会不安に陥れるような、誰かの策謀があるのだろうか?
もしそうだとしたら、誰が何のために、そういったことを行うのだろう?

あるいはもしかしたら、キリスト教で言われていたように、最後の審判のときが来たのだろうか。
ハルマゲドン、ということなのだろうか。
キリスト教では、ハルマゲドン、最後の審判のあとに、復活があり、地上の王国が築かれるのだという。
だけど、そこで生き残らないとならない。
宗教的な話であり、これまでは意に介さない説話であったが、その予言が、当たってきたのかもしれない、とさえ思ってしまう。

いったい、この時代の…