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日本語と国語教育について。

先日、発表された、文化庁の世論調査によると、日本語のある言葉の意味を、まちがえて捉えている人の割合が増えている、という結果が表れた。
たとえば「世間ずれ」「煮詰まる」というような言葉遣いである。
しかし、この誤解のほうの解釈を聞いてみると、なるほど、と直感的であるというか、感性は豊かであるように感じられる。
「真逆」という言葉などは、「正反対」という意味であるが、直感的にはとてもよく伝わる言い回しである。

言葉というのは、使う人たちによって、少しずつ変化していくものだ、と私は思う。
そういった前提があるので、各種国語辞典も、時流を取り入れて、語彙を増やしたり解釈を付け加えたりするのだろう。

思えば、国語の時間には、「古文」「漢文」という難解な部門があって、同じ日本語であるはずなのに、さっぱりちんぶんかんぷんであった。
平安時代や鎌倉時代、江戸時代に使われていた言葉が、現代日本人にはさっぱり通じないのは、なぜなのだろうか。
それは、時代とともに、使われる人たちによって、少しずつ変化してきたからであって、何百年と経つうちに、同じ日本語とは思われないほど、変わってしまったからなのだと思う。

たとえば、「新しい」と「改めて」という言葉は、漢字の使い方はちがうが、どちらも「あたらし」という言葉から生まれて展開していったものだという。
そういえば、現代の私たちでも「あたらしい」と「あらたしい」を、言い間違えたりする。

そんなふうに、言葉は生きている。
言葉は使われる人々の心と感性と気持ちによって、生き生きと発達して、変化成長していくものなのだと思う。

それでも、世代間であまりにも会話が通じなくならないように、しっかりとした国語教育の枠組みや、言葉の定義は必要かもしれないが、こうした若い人たちの感性を、一言のもとに、「まちがい」と否定するようなことは、しないで行きたいものだ。

新しい時代の、新しい言葉が、今まさに、生まれようとしている。