昨日、10月20日、女性閣僚のふたりが辞任をした。
いずれも、9月の内閣改造で就任した、新内閣人事のポイントと呼べるほどの、大事な閣僚であった。
そのふたりが、ふたりとも女性であったことは、今回の「閣僚おろし」「閣僚たたき」の方向性が、女性へ女性へと向いていたことを意味していて、本当にいろいろな意味で、考えさせられる。
ひとつは、「女性が活躍できる時代に」ということで、秋の臨時国会でのテーマも地方創生と並んでとても大きな問題提起となっていたことである。
これは、日本全国の女性たちにとって、チャンスであったはずである。
これまで、いまだかつて、「女性」にスポットライトが当たって、彼女たちの活躍を支援する体制が、国会の討議で行われることはなかった。
このチャンスのときに、政府としては、女性閣僚を起用して、この討議にあたろうとしたのに、これを活かせなかったことは、とても残念である。
これは、とても政治という男性社会の厳しさを意味するのかもしれない。
しかし、日本の男性陣に、女性に親切に、女性に対して寛容に、という態度がなかったことはとても象徴的なことである。
日本にはまだまだ、女性の社会活動を支援するための、男性側の意識という基盤が造られていないのだ、と実感する。
一方で、たとえば、松島元法相のいわゆる「うちわ問題」を鋭く追及したのが、野党、ということだが、議員で、というと、同じ女性である、蓮舫議員である、ということが、気にかかっている。
というのは、せっかくの国会であり、せっかくの「女性の活躍」をテーマとした討論会であったのに、なぜ蓮舫さんは、女性の政策について、闊達な意見交換をしなかったのか、ということなのである。
政治資金の使い道は確かに、男性議員にとっても、追及したり、失墜させたりするための手法であるにはちがいない。
しかし国会で、女性同士が女性のテーマをめぐって討論すべき場所で、「うちわ」を問題にしたのは、残念というよりも、何か滑稽でさえあった。
女性というのは、結局は、ふたを開けてみれば、「こんなこと」しかできないものなのだろうか?
これでは、国会議員からではなくても、全国の男性陣から、笑いものである。
国会の女性議員の皆さまは、日本女性の模範というか、代表として、国会の討論の場で、堂々と討論をしてほしかった。
同じ日本人女性として、とてもはずかしい結果となってしまった。
はずかしかったのは、国会で女性問題を討論できなかった、「女の敵は女」であることを証明してしまった女性議員たちに、である。
これからも、閣僚人事を入れ替えて、法相はやはり女性閣僚であるし、今度こそは、2014年の本領発揮である、女性の活躍に関して、法案をひとつでも結実させてほしいものだ、と思う。
ともかく、男性優位の社会を切り拓き、女性が活き活きと能動的に生きていける社会を作るためには、厳しい現況のなかを、女性たちが力を合わせなければ、為しえない大事なことなのだから、力を合わせよう。
力を結集しよう。
これからは、おとしめあうことではなく、互いに助け合うことを、女性たちは学んでいかなければいけないと思う。
それにしても、日本の女性は、いろいろな問題はあると言われているが、家庭から一歩外に出してみれば、「本性」というのは、依存しあったり攻撃しあったりするような、それが日本女性のサガということだったのだろうか。
かえすがえすも残念である。