憲法9条と集団的自衛権の解釈について。

先日、10月10日、ノーベル平和賞が発表になった。
日本からも、署名運動、市民運動という形でノーベル賞にエントリーをしていた形になっていたので、この発表を息をのんで見つめていた人も多かったようだ。
日本である婦人が発端となって、憲法9条をノーベル賞に、という活動が始まっていた。
受賞者は、受賞した場合には、日本国民全員だという。
しかし、この活動は、国際的に認められることはなかった。
とても残念に思っている人も多いと思う。
しかし、この憲法9条にノーベル賞を、という動きは、いくつかの理由で受賞できなかった。
ひとつは、こうした賞を授与したとすると、国際社会が日本の内政に干渉したことになってしまうからである。
もうひとつの理由は、集団的自衛権の解釈が、国際社会的にとても広く認められた正当な権利だからである。

集団的自衛権の「自衛」とは、武器を持つことであるが、この武器は、懐刀(ふところがたな)の意味である。
たとえば、女性が花嫁姿になって、白無垢を着るときに、脇に小さな短刀を持つ。
これは、護身用である。
花嫁に、なんの護身も持たせない、これは「平和」だろうか?

女性に、護身をさせない、護身する権利を持たせないことが、平和なのだろうか?
世の中には、理解はできないが、悪いことをする人はたくさんいるものである。
悪いことをする人が、世の中の全員ではないだろう。
しかし、何パーセントかは、悪意を持って悪いことをする人がいるものである。

花嫁がどんなに慎重に身を慎んだとしても、護身用の懐刀が必要になる場合というのは、あり得るものだ。
そのときに、刀を持たないことが、この花嫁の主義主張だというなら、花婿や子どもたちやどのように、悪意を持った人に対応すればよいのだろう?

集団的自衛権の解釈が、武器を持つことを公認するために、その武器を、日本が悪意を持って、攻撃用に使うものだ、と思い込んでいる人がいる。
しかし、武器、刀というものの使い道は、それだけではないのだ。

私が、「人間観による」「主義主張による」と言っていたのは、本当は実際に世の中には100パーセント良い人ばかりなのか?という点で、そう信じるならば、性善説であろう、という哲学の問題になる、ということだ。

また、どんな悪意を持った人、残酷で武器を持って攻撃してくる人が目の前にいても、無抵抗で命を捧げる、という人がいるなら、それはその人の主義主張だろう、ということである。

しかし、人間として、本当に命を大切に思うのなら、悪意と共に武器を持った人に対して、懐刀を用意する権利くらいは、あるのではないか、と私は信じるのである。

集団的自衛権の解釈は、花嫁が持つ懐刀の権利である、という意味を、いま一度、じっくりと、考えてください、と思うものである。


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