2014年10月25日土曜日

忘れられる権利・インターネット削除命令について。

このところ、「忘れられる権利」が、話題になっている。
「忘れられる権利」とは、ネーミングが面白い。
人間としては、全体に、「覚えてほしい」「忘れてほしくない」という願望を持つものである。
自分の名前や存在価値を、覚えていてほしい、忘れないでほしい、と願うものである。
それが、「忘れられる権利」とは、どういうことだろう?

よく調べてみれば、これはインターネットの中のことである。
インターネットは人間の頭や記憶力とはちがい、機械を駆使しているからか、情報がいつまでも鮮明に残っている。
この、残っている情報を、人間の頭のようにしだいに薄れて消えていくようにしてほしい、という願いなのである。

私は常々思っている。
インターネットの世界は、匿名性が高いとはいえ、やはり人間が作り出した社会である。
人間関係調整力というのは、現実の世界においても、インターネットの世界においても、大差なく働くものであるらしい。
現実の世界でうまくやっていけない人は、インターネットの世界でも、やはりうまくやっていけないようだ。
好かれる、信頼される、友情が生まれる、一緒に仕事をしたいと思う、一緒にいたいと思う、話し合いや意見の交換をしたいと思う、こういう人はインターネットの世界にもいて、そこに生まれる「情」というのは、現実の世界と、変わりはないように思える。

一方で、嫌われる、不信感を持たれる、疎外される、できれば一緒に仕事をしたくない、一緒にいたくない、コメント交換をしたくない、こういう思いを抱かせる人もいる。
それは、リアルの世界でも、インターネットの世界でも同じであるように、私は思う。

以前の「ムラ社会」では、地域で何十年も構成員の入れ替わりがなかった。
ムラのおじいさん、おばあさんがいて、何代も前からの話まで語り部として、伝わっていたものだ。
そして、おしゃべりな情報通のおばさまがいて、そのかたが、「あの人は以前、やんちゃ仲間とバイクに乗っていた」というような話を、何年たってもするのである。
つまり、ムラ社会において、「忘れられる権利」は、全然ないといっていい。
これは、過去を忘れてほしい、どんなやんちゃな時代があったとしても、どんな妙な噂がたったとしても、その噂を消して、一から人生をやりなおしたい、と思う人にとっては、とても過酷な事態である。

しかし、情報を共有したり、情報を得たいと思う側にとっては、忘れないことにこそメリットがある場合が多い。
それは、たとえば「信用」である。
きょう始めて会ったばかりの人に、お金を貸せるだろうか。
貸せない。一般的には貸さない。
しかし、クレジットカードというのは、カードの名前と番号に、これまでの実績という情報を乗せている。
「これまでの支払い状況がどうであったか」という実績が、信用に結びつき、カードを持っていれば、会ったその日に、お金を貸してくれるのである。

つまり、「これまでの人生上の足跡」が、「これからの信用」「つきあっていくかつきあっていかないか」もっと言えば、「安心できる人物か、そうではないのか」という判断材料になるのである。

人間は、不測の事態に備えた防衛本能を持っている。
たくさんの情報を備えて、自分自身の身の安全、社会的安全をはかっている。
そうしたときに、「これまでどういうことをしてきた人物であるか」という情報は、とても大事で貴重なものである。

「忘れられる権利」は、「私にとって不利な情報を消してください」と言っているわけであるが、他者から見ると、必要な情報まで消されてしまいかねないから、情報を入手したい側としては、「忘れない権利」があるはずである。
根も葉もない噂であったとしても、その噂がたつにはなんらかの理由があったのではないか?それともやっぱり、人間は白紙に戻ってやりなおせるものなのか?それを判断するのは、情報を受け取った側である。

それでも、やはりムラ社会は狭い社会である。
ムラ社会の消えない情報がいやになって、上京して、まっさらなところから「やりなおし」をした人も、数多い。
そして、成功して、幸せを掴んでいるのだから、やはり、場所を変える権利くらいはあっていいと思う。

インターネットの世界には、「上京する場所」というのがない。
ワールドワイドウェブなのである。
やはり、「忘れられる権利」は、インターネットの世界では、きちんと確保されるべきだ。
誰にでも、やりなおすチャンスは、神様から与えられているのだと、私は思う。