今年2014年7月1日、集団的自衛権に関する拡大解釈について、閣議決定が行われた。
あれから、三か月近くになろうとしている。
秋の臨時国会では、女性の活躍と地方創生が、討議の中心となる予定である。
私が、7月1日の閣議決定の際に思った、本当の気持ちとして、やはり政権はなにかうまくいかないことをした、しまった、というかんじがした。
それは、この集団的自衛権の解釈が、とても思想的であり、哲学的であり、とても深い人間観に即しているからである。
人間観とは、性善説か性悪説か、あるいはそれらの融合したものなのか、という点である。
今回の日本の、集団的自衛権の解釈は、「自衛権の解釈で軍を持つ」という考え方としては、フランスにもスイスにもオーストラリアにも、未だない考えで、とても高いレベルの考え方だそうである。
こうした考え方、哲学を理解するためには、基礎的な学力の上に、専門的な思索と、専門的な学問が必要である。
この基礎的、専門的な学問と理解とその習熟を、全国民が成し遂げるまでには、100年もかかるかもしれない。
それは、人間とか日本人をばかにしているのではなく、今回の集団的自衛権の解釈が、とても高度で、人類的進歩の高みにあるからである。
私は、国連における、人類的進歩である、人間に関する考え方、自衛や平和の考え方を、少しだけ学ぶ機会があった。
やはり、とても高度な基礎知識を身に着けたうえで、その上に成立する概念であるようだ。
こうした、高度な学問に基づいて、おそらくは日本政府は国連や国際的な学問の手ほどきを受けながら、集団的自衛権の解釈を進めて行ったのだろうと思う。
亡くなられた小松一郎氏も、そうした意味で国際的な活動をしていたかたであった。
とてもむずかしい概念ではあるが、将来的には、国民のためになるから、よいことであるから、理解をしてもらう時間をとらないで、どんどん決めてしまおう、としたのが、現政権だといえるかもしれない。
そして、この閣議決定に基づいて、その後、3か月、日本は国際社会において、どんどん活動を広げている。
もうあともどりはできない。
この閣議決定に関して、とても強い不満と恨みを抱く人たちがいる。
この理由のひとつは、集団的自衛権の解釈の内容が、申し訳ない言い方ではあるが、理解ができないのであろうと思う。
しかし、個人の力であっても、図書館などに通うという努力で、理解への道を克服することはできる。
「私は反対意見だ」ということは、意味をなさない。
まず理解してから、賛成か反対かを決めるべきであって、「私の意見」は、理解のための努力以前には、無効である。
もうひとつは、集団的自衛権の概念を、きちんと国民全員が理解し納得するまで、政府が時間をかければよかったところを、そうした民主的な手続きを取られなかった、ということで、この政府の手法が、独善的で、支配的であるように感じる、ということだろう。
確かに、それが国民のために良いことであったとしても、民主的ではない、一方的である、独断である、と感じさせる手法は、国民を混乱させ、意見を二分させることにもなるだろう。
よく勉強することが、この問題を克服するための、ただひとつの道である。