9月3日に、新しい内閣が発足した。
すぐに、つぎつぎに、新しい内閣の仕事が始まっているようで、本当にわくわくする。
地方創生は、きょう、看板を掲げた。
地方の活躍は本当にうれしいものである。
また、新設された「女性活躍」も、とても楽しみなことである。
これからどんなふうに、女性の活躍に具体的な法が出されるのか、誰もが期待している。
今、女性の問題は、とても多くのテーマを抱えている。
これは、時代がどんどん新しくなり、進んで行って、また国際化、欧米化がすすめられていっている、という意味でもある。
そういった意味で、日本はまだまだ、女性の社会参加、女性の人権問題に関しては、後進国である、という認識を、まず新たにしなければならない。
これは、アジア全体の問題である。
もともと、アジアには女性と男性のそれぞれの認識や文化があり、その伝統文化と思想を背景とした女性の立ち位置があった。
それらを、アジアとして尊重することが、大切なのではないか、と私も考えたことがある。
一概に、欧米化することだけを、「好し」とするのでなく、日本は日本なりの、アジアはアジアなりの、男性と女性の在り方が、あるのではないか、とも思ったものである。
しかし、「人間として」つまり、人権として考えてみると、やはり日本とアジアの女性の人権と社会的地位は、尊厳が守られているとはいいにくい。
こうした前提にたって、まずは欧米を見習う気持ちで、女性の人権、立場、社会的存在価値を、希求していくことが大切であると、私は考える。
これは、安倍内閣がしきりと訴えている「積極的平和主義」に通じるものであり、決して、経済政策というわけではない。
「平和」と一言に口にするが、実際には、「平和学」という学問があり、学問には派閥もあれば、高い学問、そうでもない学問もある。
今、国連で、つまり世界の最高峰で展開されている「平和学」は、「積極的平和主義」である。
積極的平和とは、ただ単に国家間の戦乱や地域紛争がない状況ではなく、社会における貧困や差別がない状況を指している。
だから、日本で今行われている、経済政策は、貧困対策と通じているといえる。
そして、女性活躍の政策は、男女差別の是正という、積極的平和の建設なのである。
確かに、女性が社会に出て、ある意味、会社に出て働くほうが、国全体としてみて、経済効果は上がるだろう。
生産能力の向上である。
それは、日本という国にまだまだ眠っている労働力の発掘である。
他国と比較してみると、家庭に眠らないで会社に出て働いている女性が99パーセントであるフランスと比べれば、その「眠れる資源」は、とても大きいものだろう。
そうしたことは、特に男性の目から見ても明らかなのだろう。
時に、一家の主婦が専業主婦であり、子育ても終わって、友達とランチやショッピングで一日の大半を過ごすような場合、夫から「うちの不良債権」と、あだ名をつけられてしまう。
女性の在り方は、本当にこれでよいのだろうか?というのは、男性の目から見ても、率直な疑問なのではないだろうか。
また、女性の立場に立ってものを考えると、私自身もこうして社会に目を向けて政治や経済、社会問題に視点を持ち、ひとつの仕事を持っていて痛感するのは、仕事を持つことは幸せだ、ということである。
同じ年ごろの女性の友達、同級生たちを見ていると、働く女性たちにとっては、これは明らかなことである。
仕事を持たないで専業主婦になった女性たちは、20代においては、ウエディングドレスのイメージそのままに、とても幸せそうである。
しかし、30代には、子育てに追われ、40代には子どもたちが巣立ち、年齢をひしひしと感じる年ごろになって、自分の人生が、からっぽ、なのである。
そして、ここから一念発起して、働きたい、小さなお店を始めたい、と言ってみても、重ねてきた仕事経験を比べると、本当になにもない、むなしい状態なのである。
そう考えると、20代、大学を卒業してからずっと仕事を続け、キャリアを積み、40代、50代を迎えることが、「人間として」幸せな人生だとはっきりと言えるのである。
こうした、幸せで充実した人生を生きるために、政策を行う、というのが、女性活躍政策の、根本であると私は思う。
しかし、女性たちというのはこういうものなのか、とため息をついてしまうのだが、「ああ言えばこう言う」という具合で、「わざわざ政策を作られて働かされるなんて」と文句を言っているのが、当の本人の女性たちなのである。
女性が、旧習から解放されて、社会の中で生き生きと活動し、自力の経済力を持ち、その能力と才能を充分に発揮して、人として生きることの充実を味わうことができる社会、これが、女性活躍の社会であると、私は思う。
文句ばっかり言わないで、女性後進国である日本の女性が、まず自分ががんばることが、大切であると私は思う。
次に、夫婦別性論議について思うことである。
日本では、伝統的に、結婚すると女性は、男性(夫)の姓に変わる。
これは、戸籍の問題でもあるが、結婚を「家にはいる」と捉える文化が背景にある。
ずっと昔から、女性と子どもとお年寄りは、いや誰もが、ひとつの集団である「家」に属する決まりがあった。
これは、生計を立てることや防犯上、社会秩序の維持といった目的があったと考えられる。
それで、結婚を当人同士のふたりだけのこととは考えず、ひとりの女性が、「家から家に移動する」「所属する家を替える」といった見方をしたのではないかと思われる。
それで、所属する家の姓を名乗ることが、社会秩序上、必要だったのだと思う。
さて、ここで、女性が社会参加、特に仕事、ここではビジネスという言葉が適しているが、ビジネス上で、一生の間に、姓が変わることは、どんな影響があるかということである。
たとえば、ある女性が医師となり、医院を開業したとしよう。
この女性の独身時代の姓が「木村」であったなら、「木村医院」となるだろうか。
しかし、この女性医師が結婚して姓が変わって、中居という苗字になったなら、病院の看板まるごと「中居医院」に替えなければならなくなる。
これは、仕事の上で、ハンディともいえる状況ではないだろうか。
人生の途中は仕事の途中である。
政治家、議員であっても、名前の浸透はとても重要なことなので、せっかく浸透した名前を途中で替えるのは、とても不利である。
ある女性が、娘時代には、正岡、一度目の結婚で中原、再婚して二度目の結婚で泉と姓が変化したとしよう。
この女性は、職場で電話を受け取るときに、最初は「正岡さんお願いします」と言われ、そのあと「中原さん」そのあと離婚したときには、「ごめんなさいね、私、離婚いたしましたので正岡にもどりました」とプライベートな説明をし、そのあと再婚の際にはもうなんだったか名前がわからなくなっている。
これが、男性だと、プライベートを取引先に打ち明ける必要はないし、一生名前もはんこも、実印も変わらない。
姓名というのは、とても大切なものである。
そして、ビジネスでは、またもっとたくさんの価値を持つものである。
それなので、やはり女性が活躍できる社会では、夫婦は別性にしたほうが、よいのではないだろうか。もちろん、選択式ということであるが…。
それでも、結婚したときに、息子のヨメが、苗字は別にしたい、と言ったら、お姑さんもおしゅうとさんも、たいそう怒ることだろう。