2014年3月5日水曜日

憲法改正の論議を行うべきである。


憲法改正の議論が始まっている。
憲法の改正に関しては、特に9条、言われるところの「平和憲法」へのこだわりが、特に強いように思う。
私は、憲法そのもの、全体を見渡して、必要なところを改正することが、必要なのではないか、と考えている。
というのは、憲法がすでに、時代に合わなくなってしまった、時代遅れの古い憲法になってしまったからではないか、と思うからである。

なぜ、憲法が古くなったのか、というと、現行の憲法が成立したいきさつにある。
第二次世界大戦で、日本は、申し訳ない言い方になるが、負けてしまった。
連合国、特にアメリカに負けたのである。
しかし、戦争中の軍事政府が、行き過ぎてしまった、という感は、戦後の日本人のみなが感じるところである。

戦争が終わって、アメリカからGHQが来て、マッカーサーの司令のもとに、憲法が作られた。
アメリカに作ってもらった憲法、ということになる。
アメリカは、自由主義、民主主義のもとに、特にそれまでの軍部政府のしてきたこと、これが軍部政府の持っていた権力であるが、この権力のしてきたことを、ひとつひとつ、禁じる憲法を作った。
これが、現行の日本国憲法である。

現行の日本国憲法を、よく読んでみると、当時の軍事政府のしてきたことが、本当によくわかる。

特に第3章、国民の権利及び義務、というところでは、憲法の第10条から第40条まで、非常に興味深いこまごまとした点において、国民の権利を規定している。
たとえば、第14条「栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴わない」
華族制度の廃止に付け加えた事項であるが、これは、国民の平等をうたったものである。「四民平等」というところになるだろうか。
憲法以前には、華族制度があり、国民は平等ではなく、また、天皇陛下から授与される勲章には、特権がついていたのである。
現代社会では、天皇陛下から秋の叙勲があったとしても、それに、男爵とかあるいは公爵とかいう特権は与えられない。
当時の社会では、わざわざ憲法に「叙勲に特権はありませんよ」と明記しなければならなかったのだろう、と推測される。

また、第36条では「公務員による拷問および残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」とある。
ここで、第15条で、「公務員」の選定の仕方を見ると、公務員とは、政治を行う者、国会議員である。
「はあ」と思ってしまう。
憲法の成立以前には、政治家が、その権力をもとに、拷問や残虐な刑罰を行っていた、ということなのである。

これは、第二次世界大戦中の日本で、権力を持つものが、拷問や刑罰を行っていた、という確たる証拠ともなる。
おそらくは、戦争に反対する思想犯やデモ行為を行うものに対して、こうした刑罰を行っていたのだろう、と推測される。
また、第二次世界大戦中の日本だけに限らずに、江戸時代でも、戦国時代でも、鎌倉時代でも、権力を持つ者は、自分の言うことを聞く人にだけ、特権を与え、言うことを聞かない人に対しては、裁判なしの刑罰を行っていたのかもしれない。
権力というのは、それを一度手にしたら、その人の判断力を狂わせる何か、があるような気がしてくる。
これらは、つまり、「権力の持つ危険性」「権力が行うことがらの可能性」として、よく吟味するべきかもしれない。
そして、権力を、これまで通りの文面で、規制して拘束することは、必要になるのかもしれない、と思う。

それにしても、たとえ一家のなかであっても、権力を握ったお父ちゃんが、「お兄ちゃんはお父ちゃんの言うことをよく聞くから、ごはんはおかわりしてもいい」というような、特権令を出しそうなものである。
そして、言うことを聞かない妹ちゃんに対しては、「罰として、ゲームしないでお母さんのお手伝いをして、ごはんを作りなさい」とか、言いそうである。

権力というのは、案外身近なところに存在して、力をふるっているものではないだろうか。
四民平等のために、人間の尊厳のために、権力の規制して、その力の使い方をよく指導することは、大切なことである、と私は思う。

日本国憲法全文 → http://www.jicl.jp/kenpou_all/kenpou.html