移民と人種・民族問題について。

お花見の季節となった。
花の便りを聞けば、毎年、どの公園でどんな人たちとお花見をしようか、楽しみに計画を始めるものである。
今年、上野公園では、いわゆる「ゆるきゃら」が登場して、お花見のお客さんに、マナーを守るように呼びかけるそうだ。
お花見というのは、日本の伝統的なしきたりや、親や先祖から受け継いだ、身体に自然に染みついた、マナーがある。
それらを守れない人たちがいると、花の美しさを楽しめない。
どこにあっても、どんな場所で何を楽しむにしても、そこの場所には、言わずと知れたマナーがある。

「郷に入れば郷に従え」とは、よく言ったものである。
知らない、では済まされない。
有名な温泉地に行って、「郷に入った」にも関わらず、「郷」における、文化や習慣を知らないばかりか、教えられても守らない、あるいは、初めから知ろうとしないで、
出身国の文化や「やり方」で通そうとする外国人がいる。
こうした人たちに対して、「マナーを守ってください」と、まず伝えるべきだ。
それでもマナーを守らないので、「出て行ってください」と言われるわけだ。
こうした、マナーを守らない一部の人たちに、私たちの楽しみや文化を簡単に奪われて、許しておくべき理由は、
何一つない。どこにも見当たらない。

異文化への危機感、というのは、実は本能的なものである、と私は思う。
自分とちがう振る舞いや言葉、服装や表情を見て、違和感を感じる。
それは、自らの命と生活を守ろうとする、生物としての、基本的な生体維持の本能である。
私たち人間は、人間らしい生活を送るために、この違和感を、慎重に検討してから、
「この人物は自分の生命と生活にとって、危険はない」と判断する。
そして、ようやく、気心が知れて、胸襟を開いて、話し合うこともできるのではないか。
そうした、感性、感受性というものを、無視してはいけないと、私は思う。
自らの感じる「違和感」というものに、時には率直に向き合うことが大切だ。

韓国や中国に対する、自然に感じる違和感は、誰もが持っているものだ。
それを、どう自分のなかで考えていくかは、個人の自由であり、判断であるかもしれない。
しかし、その「違和感を感じる感性」までも否定することはできない。

これから、日米韓の対談が行われようとしているときに、なにもヘイトスピーチまですることはない。
韓国や韓国人、韓国文化に対する違和感は、心のうちに、そっとしまっておけばいい。
あるいは、ツイッターでつぶやいてみるのも、ひとつの、感情対処の方法ではないだろうか。
確かに「やりすぎ」の行動はあるだろう。
しかし本音であることは、本人にとって、確かなのだろう。

グローバル化にともなって、日本にも、たくさんの外国人がやってくる。
そして、日本にとっても、移民を受け入れるか否かは、目の前の現実として、せまってきていると私は思う。
それは、東日本大震災からの復興や、東京オリンピックの準備のための、労働力に表される。
これは、いわゆるブルーカラーであり、肉体労働、ということになる。
日本人はすでに、お母さまから「大学まで出したのに」と言われて、ブルーカラーを徹底的に嫌い、ホワイトカラーであることを夢見る状況になった。

しかし、男性はもともと、スポーツのような感覚で、日払い・日雇いの肉体労働は、好きなんじゃないだろうか、と思うこともしばしばである。
若いうちはそのありあまる身体エネルギーを、肉体労働、建設労働に注いでも、よいのではないだろうか。
学生アルバイトとしても、よいのではないか、と思うのだ。

こうした、肉体労働、いわゆる3Kと呼ばれる職業に関して、外国から、特にアジアの新興国、中東からもイスラムを信仰する人たちが、すでに職と住処を求めて、日本に入ってきている。
彼らは、労働ビザで来日して、住居を定めているのであるが、この人たちを、日本人として、正式に移民政策で受け入れるかどうか、世界中から、日本の移民政策は遅れている、と言われているのだ。

ここで、「異文化に対する、感受性としての危機感」を思い出したい。
私も、そして、日本の世の中のほぼすべての「お父さん」たちが、イスラムの顔立ちに対しては、我が子を守る本能から、我が町には一歩も踏み込ませたくない、と強く強く思っている。
断固として思っている。

そこに、平和主義や平等主義の理想が、建前となって立ちふさがって、にっちもさっちもいかなくなっているのだ。

ヨーロッパでは、国境が地続きになっていることがあり、民族間の対立が、歴史的にどうしても避けられなかった。
ここは、四方を海に囲まれた単一民族である日本と、欧米諸国とのちがいである。
日本においては、ヨーロッパよりも、民族間の問題は、もっともっと、問題提起されるテーマとなるだろう。

ヨーロッパでは、キリスト教圏において、「もっとよい場所を求めて、住処を変える」「どこか別のところに住み替える」ということが、当たり前になっているような感がある。
キリスト教の聖書でも、「出エジプト記」があり、「ここがだめなら、もっと住みよい国へ」という発想があるようだ。
しかし、日本に来る外国人は、「もっとよい場所」というよりは「もっとよい政府へ」と言っているのだと思う。
自分たちで国や政府を作る気持ち、国民として政府を維持する気持ちが、ないのである。

そして、こうして、国から国へと渡り歩く人たちは、国を維持して故郷に住んでいたいと思う人たちと比べて、ごく一部の、ヒッピー的思想を持った人たちなのである。
流れ流れるヒッピーに、手厚い福祉政策を与えることが、果たして理想通りのことなのだろうか。

ヨーロッパでは、人種間の平等に、むしろ固執するあまり、中東から、イスラム系の人たちがたくさん移住してきたものを、積極的に受け入れた。
しかし彼らは、「郷に入れば郷に従え」という発想はまるでなく、ヨーロッパの街並みのなかに、モスクを建設して、朝からコーランのお経を、大きな声で唱えるのである。
これは、人間としての権利かもしれない。
しかし、自国の文化を守るのも、人間としての権利ではないだろうか。

日本に来る海外からの観光客は、日本の日本らしい文化を、見て体験するために訪れる。
それは、京都、奈良、浅草など、建物や街並みでもあるが、日本らしい質素な生活態度や、絆、や江戸しぐさ、といったところではないだろうか。
ここに、何かとてつもなく無防備に、移民という平等思想を持ち込むと、京都の街中で、由緒ある寺院の横に、モスクの金色の建物が立つ、ということに、なってはしまわないだろうか。
どこに行っても同じような、文化も伝統もまざった状態になることが、グローバル化、と呼べるものなのだろうか。

京都ではすでに、文化伝統を守るための、条例がある。
そうした条例を、それぞれの自治体が町ごとに、定める権利は、あると私は思う。

今後の日本の、移民政策に対する課題は、日本の伝統や文化を踏まえて、慎重に行われるべきである、と私は思う。




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