2014年3月27日木曜日

アリとキリギリス。

先日、晴れた日に、自転車を漕いでちょっと遠くのショッピングモールまで出かけてみた。
平日の午後で、明るい陽射しが降り注いでいる。
お客さんはそんなに多くなかった。
たいていが女性で、大きな黒いバッグを提げている。
あるいは男性客は、これはご年配のかたで、カフェの店内で、隣の書店で購入したものであろうか、本を読んでいる。
大きな厚い単行本である。

喫煙室は別になっていて、授乳室なども完備されているが、そちらのほうへ歩いて行くと、隅にうずくまっている老婦人の姿をみかけた。
小さな椅子でも置いてあるのかもしれないが、そこに腰かけて下を向いて、何か小さな本に一生懸命書き込みをしている。
わきに、大きなビニールバッグに入れた荷物を、ふたつも置いている。
身なりから、ホームレスさんではないことはわかる。
一度行き過ぎてから、もう一度ひきかえしてみた。
いったい、何を一生懸命こんなところで書き込みをしているのか、興味を持ったからである。
わきを通り過ぎながら、じっと見ると、その書き込みは、数独パズルであることがわかった。
ナンバープレイスとも呼ばれている人気のパズルで、たてに9個、横に9個の、マス目があり、そこに、1から9までの数字を入れていく。
たて、よこ、それぞれに、同じ数字が重ならないように入れていくものである。

「こんなところで数独パズル?」と思いながら、そのショッピングモールの100円ショップに入ると、まさに100円で、その数独パズルが販売されているのであった。

自宅に帰る途中で、友達の家に寄ったので、その話をしてみた。
友達も私と同じ世代で、こういった話にとても興味を持って、お茶をいれて、話をした。
いったい、この老婦人は、ショッピングモールで何をしていたのだろう。
友達の推理は、このようなものである、すなわち、
「この老婦人は、家に居場所がないんだろう」ということである。
「家はあっても、お嫁さんがいて、そのお嫁さんはとても意地悪で、家にいても針のむしろなんでしょう。それで、昼間からいる場所を探して、ショッピングモールに来ているんでしょう。パズルをしていたのは、認知症の予防のためで、大きなバッグには、老齢年金の通帳なんかも入っているんだと思う」
それは本当に、かわいそうな話、と思い、今の時代、今の世相を映した状況だと思って、また一口、お茶をいただく。
友達の話はまだまだ続いている。
「でもね、聡子ちゃん。そのおばあちゃんだって、若いころにはそのお嫁さんをうんといじめて、うんといびったんじゃないかしらねぇ。」
「えっ?」と思って聞き返す。
「そうだと思う。息子さんをかわいがって、お嫁さんをいじめた。お孫さんをかわいがって、うんとおもちゃなんかを買ってあげたんじゃないのかな。でも、年を取って、力もなくなってきたら、お嫁さんが実権を握って、息子さんには、そろそろいいんじゃないの?なんて毎日言われて、高校生になったお孫さんからも邪魔者扱いされて、それで居場所がなくなったんじゃないの?」
私は、なにか絶句してしまった。
「人間、してきたように、されるんじゃないのかしら」
「それってどういうこと?」
「人間、生きてきたようにしか、老いていけないものじゃないかしら」

特別養護老人ホームへの入居希望者で、待機している状態の人が、日本全国で75万人いるそうである。
老人ホームの待機、というのは、いったい何を待っているのだろうか。
「要介護」の度数というのは、つまり、認知症の進み具合の度合いである。
他の病気で、介護を必要とする場合は、年齢に関係なく、医療の看護が必要なので、高齢者だけに使われる「要介護」は、「認知症の度合い」を指すのである。

こうした状況であっても、老人ホームへの入居というのは、決まった順番で入れる人は入れるものなのだ。
つまり、まずは、入居料を払える人である。
これは、若いころから積み立てた貯金、財産があり、それを老人ホームの入居料に使える人である。
それから、子どもや親族がいて、入居する本人の、保証人となれるときである。
これは、入居中もその後も、きちんと手続きを行える、身元を引き受ける、見元保障人となる。
この親族が、「その後」も、きちんと入居料を支払うのである。

それから、この本人が、以前から、あるいはときには、若いころ、子どものころから、かかりつけの病院・医院・医師がいた、ということである。
これは、本人との人間関係、信頼関係である。
この病医院ですぐに引き受けることができなくても、人間関係があれば、別の「信頼できる」医院に、紹介をすることができる。

こうした、年齢のいった本人が、生きてきた間にしてきたこと、子どもとそのお嫁さんや孫たちとの信頼関係、医師や病院、地域での人間関係、そして、財産、こうしたものが、老後という、たいへんに「他人の手」を借りざるを得ない状況のなかで、モノを言うのである。
それはまさに、人間、生きてきたようにしか、老後が訪れないのだ、ということである。
老いは、誰にでも訪れるものであり、人間として避けられないものである。
身体も心も、老化を止められない。
認知症の予防策はあるだろう、しかし、その対策を、あたかもメタボ予防のように、がんばってきたかどうか、である。

今、3月年度末になって、あわてて増税前の買い置きをする人たちがいる。
あるいは、今このときになって、あわてて「増税反対」のデモ行進をする人がいる。
「遅すぎる」とは、思わないのだろうか。

人間が年を取ることは、誰もがわかっている。
4月から増税することは、誰もがわかっていたはずだ。
それなのに、手を打つのが、遅すぎはしなかっただろうか。

老後に対する手の打ち方も、早めに予測して、あらゆる対策を立てている人が、ちゃんといる。
その一方で、75歳も過ぎて、蓄えもなく、若いころには海外旅行で思い出作りをしてきた人が、高齢施設がないことに、不満を言っている。

ある、訪問看護をしている看護師さんに聞いた話だが、いまどき、介護をしているお嫁さんなんて、どこにもいないそうである。
訪問看護に行くと、応対をしてくれるのは、「実の息子」さんなのだそうだ。
それはそうだろう、と思う。
それにしても、介護が必要になる前に、もっともっと、お嫁さんに親切にしておかなかったものなのだろうか。

ケアマネージャーさんは、ピンからキリまでいるそうである。
どんなケアマネージャーさんがつくかで、介護サービスの受け方も、介護保険の使い方も、ちがってくるそうである。
優秀で公認のケアマネージャーさんを養成することが、必要だ、とその看護師さんは一生懸命、言っている。

あちこちで、いろいろな話を聞いて、いろいろな姿を目にしながら、私は思う、どうやって、どうすれば、この高齢化時代を、生き生きと、生きていけるのだろう。
先輩の高齢者にも、学べる人がたくさんいる。
そういった人は例外なく、後輩に親切である。

明日は我が身、のこの世である。
一寸先は闇、とも言われるこの世である。
30代の若い世代ほど、貯金にいそしみ、老後のためのマンションを購入検討するそうである。
アリのように一生懸命働いて、老後を温かく暮らすのも、キリギリスのように歌って人生の夏を過ごすのも、その人その人の、自由な選択かもしれない。
どの問題をとっても、どこかに、人生の哲学の必要性を、感じさせるものなのである。