2014年3月6日木曜日

ドラクロワ「聖母子像」。


美術館には、よく足を運ぶ。
このごろの近代では、印刷技術がとても発達してきて、
きれいに印刷された絵でも、絵画を楽しむことは、できるのだが、
どうしても、画家が描いた「本物」でしか、
体験できない印象というのがある。
これは、本当に不思議なことだ。

文筆をしている人にとっては、活字は、活字のままである。
印刷されても、「言葉」の持つエネルギーが、
変化したり、伝わらなくなったりは、しないものである。
時には、翻訳されても、ストーリーの意味は伝わるし、
そこに描かれた人物や人生や、ものの考え方も、
伝わるものである。

しかし、絵画、ときには、音楽も、
その場に居合わせないと味わえない芸術体験というのが、あるものだ。

私は、イタリア、ローマ、フィレンツェの、ルネッサンスの時期の絵画が、
けっこう好きである。
不思議なもので、一時期はモダンアートやシュールレアリズムに傾倒した時期もあったのだが、やはり、ルネッサンスに心が戻ってしまう。
たとえば、ボッティチェリの春であるとか、ヴィーナス誕生とか、である。
また、レオナルド・ダ・ヴィンチの人気も、今も昔も、あきるということがない。
そこには、中世という暗黒の時代から抜け出そうとする、人間の、人間らしい息吹が感じられるのである。

キリスト教文化圏においては、その思想や精神世界が、絵画のモチーフとして描かれることが多いように思う。
静物画や人物画もいつの時代も興味深いけれども、
私はこの、宗教芸術というのが、好きである。
というのは、それがキリスト教であれ、ギリシャ神話であれ、
一度、活字で読んだ物語や概念が、絵画として表現されていて、
それぞれの芸術家が同じモチーフで、さまざまな描き方をするからである。
「さまざまな描き方」というのは、表現や解釈の問題でもあるし、
その芸術家が持っている才能や努力の表れでもある。

たとえば、先日は、オリンピックのフィギュアスケートで、
「オペラ座の怪人」や「ロミオとジュリエット」が演じられた。
これは、ずっと以前から使われてきたモチーフで、
それを、この選手本人が、どのように解釈して演じるか、
そこは、「だれだれさんのロミオ」「だれだれさんのジュリエット」となるところである。
私の好きな大文豪の作品も、何度も映画化されている。
そうすると、「だれだれさんのナターシャ」「だれだれさんのコゼット」というように、表現がさまざまに開花して、監督や俳優の、個性と才能を、味わうことができる。

絵画でいうと、中国では敦煌の仏教芸術も、宗教絵画のひとつである。
日本ではシルクロードをテーマに、日本画を極めた芸術家もいる。
古来から、仏教画は、わかりやすく宗教の概念を教えるために描かれたものであるが、それよりも私は、やはり、目に見えない宗教の世界は、画家にとって、とても魅力的なテーマであったのだろう、と思う。

私が、好んで観ているのは、キリスト教圏の、「聖母子像」である。
これは、幼子キリストと、その母マリアを描いたもので、
母が幼い子どもを抱き上げたポーズが、ほぼお決まりとなっている。
この、「母」をどのように描くか、ここに、芸術家の才能の極致があると、
私は思う。

私が実際に観て、感じて、「これは本当にすばらしい」と、
しばらく絵の前から動けなくなったのは、
ドラクロワの聖母子像である。
地方であろうか、麦畑の収穫の背景に、
素朴な姿の母と、ふくよかな幼子が描かれている。
その母子像の、輝くような徳というのは、どのように言い表せばよいのだろう。

この美術展では、ほかの絵画も何枚も展示されていたのだが、
ドラクロワだけ、光り輝いて、観覧者の足を、止めていた。
あの、絵画が持つ力は、なんなのだろう?

帰りの雪道を、感動を身にまとったまま、サクサクと歩き続けると、
歩道の背後から、なにか高ぶったような少年たちの話し声がした。
「やっぱり、表現力かな?」
「そうだよ、表現力だよ」
近くの美大の学生たちである。
「そうかな」
私は心の中で思う。
「それはやっぱり、ドラクロワという人の、魂や生き様なんじゃないかな」

そんな声も問いかけも、しないままできないままで、
私のドラクロワ、私の大事な母子像は、胸の中で光り続ける。

それにしても、聖母子像は、言ってみればシングルマザーである。
今でも、マリア伝説を信じている人もいるというし、
クリスチャンの前ではこの話は、してはいけないことになっているようだ。
それでも、「母」への思い、マリアへの思いは、
いつの時代にも、変わらないように思える。
マリアと幼子、聖母子像は、私たち人間にとって、
永遠の期待である。