LGBTについて、思うこと。
明日は大みそか。
2018年も暮れようとしている。
楽しみなのは、NHKの紅白歌合戦である。
誰もが知っていることであるが、紅白歌合戦は、男女の歌手が、それぞれ、紅組と白組に分かれて、歌の対戦をする。
紅組が女性、白組が男性、というわけである。
最近では、LGBTという課題が巷をにぎわせている。
紅組と白組のほかに、「桃組」を作る案もあるという。
本当だろうか…?
LGBTは、レズLesbian、ゲイGay、バイセクシャルBisexual、トランスジェンダーTransgenderの、それぞれの頭文字をとったもので、性的少数者を表す言葉である。
世界的に、LGBTの人権保障が、課題となってきた。
時代がとても速く変化しているように感じる。
私の個人的な見解というか、感想をここに書き記してみようと思う。
私は、生物を専門に勉強したので、やはり思うのは、「生物学的にどうなのか?」ということである。
生物学的には、DNAの観点から、やはり、ホモサピエンスには、男性と女性しか存在しない。
男女の中間ということは、事実としてあり得ない。
では、性同一性障害はどうか。
これは、医療関係者から聞いた話であるが、性同一性障害の治療では、社会運動を積極的に行うように指導するそうである。
社会の中で、社会規範の中で、というべきか、たくさんの人の集まる社会と世論のなかで、性同一性障害の「自分たち」を認めてもらうために、社会運動をする。
その経過でぶつかる、社会秩序という壁、好奇の目、「嫌われる」という体験から、性同一性障害の病気が、「やはり普通の人とはちがう」と認識し、治療に向かって、体と心の同一化をはかっていくのが、大切な治療法だそうである。
現状では、性同一性障害の人たちの声が高まって、社会規範という枠のほうが、揺らいできてしまっている状況かもしれない。
でも、社会規範や社会秩序は、心の病気を治すための、大切な環境であり、頑丈に立っているべきものなのである。
同性愛、という心の状況は、小さな子どもが、大人へと成長する過程において、大切な一時期に体験するものである。
心が成長するにしたがって、自分と同質のもの、つまり同性への思慕が、次第に、自分とは異質な、異性への理解へと、成長していく。
人間は、人種であっても、性別であっても、病気や障害であっても、「自分とは異なるものを受け入れていく」という、成熟した心の状態が、求められている。
いつか大人になって、異性を理解し、受け入れていくことが、ホモサピエンスとして、目指すべき目標であると思う。
次に、差別であるが、私は、人種であっても、性別であっても、障害であっても、いろいろな差別は、人間からは、なくならないし、なくしてはいけないと思っている。
「なくしてはいけない」というと語弊があるかもしれないが、私は、人が人に対して感じる「違和感」という感性を、大切にするべきだ、と思っている。
たとえば、私は、腕時計を右手にはめる癖があったのだが、大人になってから、ある友人から、やめるように言われた。
仕事や交渉の場で、初めて会う人に対して、「なんで左手にしないで、右手にしているのだろう?」と警戒心を抱かせ、誤解を招く怖れがあるからだという。
理由を聞いて私は、腕時計を、みんなと同じように、左手にはめるようにした。
こうしたことは、人間対人間のコミュニケーションにおいて、必要なことだと思った。
また、別の例では、たとえば、とても空いている電車の車内で、なぜか隣に近づいて座ってくる、コートの破れた男性がいたとする。
この男性は、ただ、座る場所を選んだのかもしれないが、空いている車内で、近づいてくるのは、どこか変である。
「なんか変だな」「どこか変だな」という違和感が、痴漢やスリを防ぐと思う。
人間は、動物的で本能的な「勘」を持っている。
肌の色がちがう、歩く速さがちがう、話す言葉がちがう、着ている衣服の状態が「なんか変」「違和感がある」
こうした、人間の持つ「違和感」は、その人を、危険から遠ざけてくれる。
危機を回避するために必要な感性が、「違和感」である。
レズやゲイ、バイセクシャルといった、「みんなとちがう人」に対して、「なんか変」「違和感がある」というのは、人として大事な感性であり、LGBTに対して違和感を持つのは、人としての権利である、とも言えると、私は思う。
これから、立憲民主党やリベラルの人たち、インターネット上で討論を交わす人たちが、LGBTに対して、たくさんの意見を交換していくだろう。
そうして、多様性を目指しながら、違和感と社会秩序も大切にして、これからの新しい時代の世論を、作っていきたいものだ、と私は思う。
私の意見の大切なところは、LGBTの人たちに、生きている権利がないとまで言っているのではなく、それを「ちがう」と思う権利や論理もある、ということを、知ってほしいと思う、そういうことである。