サブリーダー論。
「リーダー論」なるものは、たくさんの本が出されている。
私は、ここで、「サブリーダー論」を語ってみたいと思う。
「サブリーダー論」を考え始めたきっかけは、
「女性の生き方について」
「女性と男性の協力体制の在り方について」を真剣に考えたときである。
とても身近なところでは、うちの父と母の、チームワークから学んだと言える。
「男性がリーダーで、女性がサブリーダー」という決定方法には、
さまざまな論議があるだろう。
とりあえず、我が家の両親は、父親がリーダー、母親がサブリーダー、
家族はひとつのチームだった。
たとえば、朝起きたら、どしゃぶりの雨。
絵の具セットとピアニカを携えた小学生の娘は、
レインコートをきて歩いて学校へ行くべきか、
それとも父親が車で送っていくのか。
母親は、娘の足が濡れるのを心配して、「お父さんに車で送ってあげてほしい」と思う。
しかし、朝の出勤タイムである。嵐のような忙しさだ。
父親(リーダー)と母親(サブリーダー)が、
リベラルで公平な意見討論を重ねて最良の結果を出す、などという時間は、ないのである。
それで、父親(リーダー)は、娘に、「濡れてもがんばって学校へ行きなさい。
弟とは絵の具セットを持ってあげなさい」と、指示をくだす。
一瞬の決定である。
そして、みながそれに従う。
天災や突発事故に際して、政府が、国民の意見を幅広く聴くことなく、
瞬間的に対応を行った。
それはリーダーの仕事である。
サブリーダーは、黙ってしたがう。
それで「家庭」がうまく運営される。
政府のリーダーシップに対して、
「リーダーの足りないところは国民が補って」という意見も聴く。
しかし、私の母親は、サブリーダーとして、なによりも、
リーダーのプライドを大切にした。
そして、信頼をした。
「足りない部分を補う」という考え方は、サブリーダーがリーダーを見下した考えである。
これでは、リーダーの力が発揮できない。
リーダーの力を存分に発揮させ、チームを円滑におさめる。
これがサブリーダーの実力となる。
女性の生き方、というと、さまざまな女性論が湧きおこってしまいそうだ。
私は、私の母という、ひとりの女性の生き方を通して、
「サブリーダーという重要な仕事」を、していきたい。
もちろん、国民としても。