週明けの月曜日となった。
年末年始に向けて、ラストスパートの一週間である。
今回の年末年始の休みは、
26日が土曜日なので、27、28、29、30、31、1、2、3、と、
9連休になる。
里帰りや旅行の予定を立てている人も多いだろうか。
今年の年末年始は、いろいろな点で、
毎年とは少しちがう、ということを、考えにいれてみたい。
楽しみもある。
年賀状も楽しみだし、年末ジャンボ宝くじも、今年は1等が10億円だ、ということである。
しかし、恐れや不安もある。
テロの不安である。
特に、イスラム教とキリスト教の対立、といった点から、25日のクリスマスはもしかしたら、何かあるのかも…?と推測する人もいる。
もし、クリスマスが無事に終わったとしても、今年から来年の冬にかけて、年末年始にかけて、対テロ対策では、いろいろなことが想定される。
そういうわけで、今週は、できることはしておこう。
まず、インフルエンザの予防接種である。
これは、来年の2月まで、長い期間に有効である。
真冬にテロが起こって、逃げたり隠れたりしなければならないときに、風邪やインフルではどうしようもない。
インフルエンザの予防接種を、今週中に受けておこう。
ご近所の内科が開いているのも、きょう月曜日と、火曜日、そして、水曜日は天皇誕生日で祝日だから、木曜日、金曜日だけ、となる。
土曜日の診療はないもの、と思って、病院の9連休に備えたい。
子どもたちのことも、対応しておきたい。
そういう意味で、風邪薬や頭痛薬などの常備薬も、今のうちに、ドラッグストアで備えたい。
それから、年末年始と冬の期間にかけて、歯医者にも行っておきたい。
痛いところがなければ、歯科検診でもいいし、今痛いと思うならば、すぐに治しておこう。
反戦派は、年末年始の活動を予定しているのだろうか。
私は思う。
私もそれなりに長い期間、世界情勢に関わってきて、今の情勢もよく考えて、理解しているつもりである。
今、日本で、憲法がどうであるとか、あるいは、主義主張で、平和・反戦運動を起こしても、対テロ戦争を止めることはできない。
男性から愛されている人も、愛されなくてつらかった人も、よくよくわかっていることであるが、男性というのは、一度言い出したら、女性の言うことなど、聞かないものだ。
男性には男性の思考があり、理屈があり、世界があり、社会があり、社会構造があり、価値観があり、そして、戦う理由がある。
そうしたときに、女性たちは、参加しないなら、ただ黙って、身の安全を第一に考えて、対テロ戦争が終わるまで、待つしかない。
静かに、おとなしく、家でじっとしているのがいい。
私たちの予想をはるかに超えたところで、世界、というレベルで、何かが起こっているのである。
戦争に参加しないなら、平和主義者のままで、戦争が終わるまで静かに待つこともできるだろう。
テロの脅威がすぐそこにあるときに、私たちは、態度を決めなければならないときに来ている。
流されても、選んでも、自分の意志だけではない、歴史や時代や世界が、物事を動かしているときに、静かに息をひそめていることもまた、ひとつの大切な選択であると、私は思う。
2015年12月21日月曜日
2015年12月20日日曜日
「喜びを表現する」ということ。
きょうは、日曜日。
師走となれば、いろいろと忙しい。
貴重な日曜日である。
私はきょうは、年賀状の住所録を打ち込みをしていた。
毎年、少しずつ引っ越しなどがあって、正確に住所を打ち込むのは、
根気のいる作業であるが、
お正月を思うと、それも師走の日曜日ならではの楽しみである。
昨日、土曜日には、「ミュージックフェア」を見た。
たくさんの、素敵な歌があった。
私の大好きな松田聖子さんの歌もあった。
「生きてるって素晴らしい」!
松田聖子さんにしか表現できないフレーズである。
人生には、山があって谷がある。
人にはいろいろな感情があって、喜怒哀楽がある。
表現者というのは、喜怒哀楽のすべての感情を、
表現できる技術力がなければならない。
それがすべてできないと、優秀な表現者とはとても言えない。
松田聖子さんは、特に「喜び」「楽しさ」を表現する力がある。
作詞家の松本隆さんも、松田さんのことを、「天才」と高く評価している。
作詞家としては、「恋をした喜び」「恋がかなったうれしさ」「恋人と一緒にいるときのときめき」を、歌手に表現してほしい、と願うものだ。
それを、頭のてっぺんから足のつま先まで、「うれしい」と表現できるのが、松田さんだ、ということである。
私も、松田聖子さんの歌からは、恋をする喜び、歌う喜びが伝わってくる。
そして、生きる元気が湧いてくる。
湧いてくるというよりは、元気をもらえるのだろうか。
表現者としては、視聴者や読者を、悲しい気持ちにさせたり、落胆させたり、暗く沈んだ気持ちにさせたりするほうが、技術的には、簡単なことである。
これは、映画でも言えることであるが、たとえば、コメディ映画などを、「お笑い」といって、ちょっと低く見る人もいるけれども、実際には、視聴者を泣かせるよりも、視聴者を笑わせるほうが、ずっと難易度が高いのである。
日本には伝統的に、話芸というものがある。
落語である。
この落語は、さまざまな種類はあるものの、お客さんを「笑わせる」ところに、高い技術が求められている。
人を泣かせることは簡単だが、笑わせることは、伝統芸能として弟子入りして習い、そして襲名するほどの、高い高い技術だ、ということである。
笑い、喜びというのは、ポジティブシンキングである。
ポジティブでいる、ということは、絶え間ない努力の結果である。
一方で、悲観的である、悲しんでいるということは、運命や人生に流されている、ということである。
人生は、自分の手で切り拓き、自分の手で建設するものである。
流されている人は人生を、「与えられるもの」という言い方をする。
私は、表現者としての松田聖子さんの特徴を、「愛される喜び」特に、「男性から愛され守られ、大切にされている女性の喜び」だと思う。
これは、特別な才能でもあるかもしれない。
フィギュアスケートの浅田真央さんも、この「愛される喜び」を表現できる才能を持っている。
そして、それを演じて、視聴者に、元気と勇気を与えることができる。
一方で、ひねくれて、ふてくされて、陰気で暗い表現者は、愛されないつらさ、愛されないみじめさしか、書けない。
というのは、体験が浅いからである。
人生体験が浅く、思索も浅薄である。
だから、「人生は喜怒哀楽」などと言いながら、実際には「人生は、怒と哀しかない」のである。
こうした表現者が、なにごとかを表現して、それを読んだり聞いたり見たりすると、結局のところ、不幸になる方法はわかるけれども、幸せになる方法はわからない。
これは作者自身が、幸せになる方法を知らないからである。
私は、幸せというのは、努力してその上に建設して、一生懸命がんばったところにある、と思う。
そういう女性が、たくさんの男性たちから、愛され、守れていると思う。
松田聖子さんの歌は、たくさんの男性たちから支持されている。
それは、聖子さんが、元気で、生きる喜びに満ち溢れているからである。
愛される喜びがある女性は、美しくて気品がある。
そして、絶賛されている。
これからも、私は、松田聖子さんを応援したいと思う。
天国のキッス →
https://www.youtube.com/watch?v=xZvqFEDguV0
師走となれば、いろいろと忙しい。
貴重な日曜日である。
私はきょうは、年賀状の住所録を打ち込みをしていた。
毎年、少しずつ引っ越しなどがあって、正確に住所を打ち込むのは、
根気のいる作業であるが、
お正月を思うと、それも師走の日曜日ならではの楽しみである。
昨日、土曜日には、「ミュージックフェア」を見た。
たくさんの、素敵な歌があった。
私の大好きな松田聖子さんの歌もあった。
「生きてるって素晴らしい」!
松田聖子さんにしか表現できないフレーズである。
人生には、山があって谷がある。
人にはいろいろな感情があって、喜怒哀楽がある。
表現者というのは、喜怒哀楽のすべての感情を、
表現できる技術力がなければならない。
それがすべてできないと、優秀な表現者とはとても言えない。
松田聖子さんは、特に「喜び」「楽しさ」を表現する力がある。
作詞家の松本隆さんも、松田さんのことを、「天才」と高く評価している。
作詞家としては、「恋をした喜び」「恋がかなったうれしさ」「恋人と一緒にいるときのときめき」を、歌手に表現してほしい、と願うものだ。
それを、頭のてっぺんから足のつま先まで、「うれしい」と表現できるのが、松田さんだ、ということである。
私も、松田聖子さんの歌からは、恋をする喜び、歌う喜びが伝わってくる。
そして、生きる元気が湧いてくる。
湧いてくるというよりは、元気をもらえるのだろうか。
表現者としては、視聴者や読者を、悲しい気持ちにさせたり、落胆させたり、暗く沈んだ気持ちにさせたりするほうが、技術的には、簡単なことである。
これは、映画でも言えることであるが、たとえば、コメディ映画などを、「お笑い」といって、ちょっと低く見る人もいるけれども、実際には、視聴者を泣かせるよりも、視聴者を笑わせるほうが、ずっと難易度が高いのである。
日本には伝統的に、話芸というものがある。
落語である。
この落語は、さまざまな種類はあるものの、お客さんを「笑わせる」ところに、高い技術が求められている。
人を泣かせることは簡単だが、笑わせることは、伝統芸能として弟子入りして習い、そして襲名するほどの、高い高い技術だ、ということである。
笑い、喜びというのは、ポジティブシンキングである。
ポジティブでいる、ということは、絶え間ない努力の結果である。
一方で、悲観的である、悲しんでいるということは、運命や人生に流されている、ということである。
人生は、自分の手で切り拓き、自分の手で建設するものである。
流されている人は人生を、「与えられるもの」という言い方をする。
私は、表現者としての松田聖子さんの特徴を、「愛される喜び」特に、「男性から愛され守られ、大切にされている女性の喜び」だと思う。
これは、特別な才能でもあるかもしれない。
フィギュアスケートの浅田真央さんも、この「愛される喜び」を表現できる才能を持っている。
そして、それを演じて、視聴者に、元気と勇気を与えることができる。
一方で、ひねくれて、ふてくされて、陰気で暗い表現者は、愛されないつらさ、愛されないみじめさしか、書けない。
というのは、体験が浅いからである。
人生体験が浅く、思索も浅薄である。
だから、「人生は喜怒哀楽」などと言いながら、実際には「人生は、怒と哀しかない」のである。
こうした表現者が、なにごとかを表現して、それを読んだり聞いたり見たりすると、結局のところ、不幸になる方法はわかるけれども、幸せになる方法はわからない。
これは作者自身が、幸せになる方法を知らないからである。
私は、幸せというのは、努力してその上に建設して、一生懸命がんばったところにある、と思う。
そういう女性が、たくさんの男性たちから、愛され、守れていると思う。
松田聖子さんの歌は、たくさんの男性たちから支持されている。
それは、聖子さんが、元気で、生きる喜びに満ち溢れているからである。
愛される喜びがある女性は、美しくて気品がある。
そして、絶賛されている。
これからも、私は、松田聖子さんを応援したいと思う。
天国のキッス →
https://www.youtube.com/watch?v=xZvqFEDguV0
2015年12月19日土曜日
今夜は、おうちで「ミュージックフェア」を見よう!
今年もあと…何日だろう?
「もういくつ寝るとお正月♪」という歌は、
カウントダウンの歌なのだ、と気づいた。
私はこの時期、卓上カレンダーに、
カウントダウンの数をつけている。
あともういくつ眠ると、2016年になるだろう?
年末ということもあり、
一年をしめくくるための、さまざまな催しがある。
「今年の漢字」というのも、面白い企画である。
ある雑誌では、タレントのみんなに、
それぞれに、「今年の漢字」を尋ねていた。
私もそろそろ、自分自身の「今年一年」を、
あれこれと考えている。
テレビでは、音楽番組で、
「今年一年の総集編」を放送することが多い。
きょうは土曜日。
土曜日の夕方6時というと、
フジテレビのミュージックフェアである。
新聞のテレビ欄には、Music Fair の頭文字をとって、
「MF」と記載されているようだ。
ミュージックフェアは、
静かなスタジオで収録した、質の高い音楽番組として、
長年親しまれている。
そして、毎年暮れには、「今年の総集編」
を放送する。
きょうが、その放送日である。
きょうの放送では、私の大好きな、松田聖子ちゃんが、
登場するようである。
聖子さんの歌声は、うれしさやよろこびが素直に表現されていて、
大好きだ。
今夜は、早く帰って、おうちでテレビを見よう。
「ミュージックフェア」を見よう、っと!!!
「もういくつ寝るとお正月♪」という歌は、
カウントダウンの歌なのだ、と気づいた。
私はこの時期、卓上カレンダーに、
カウントダウンの数をつけている。
あともういくつ眠ると、2016年になるだろう?
年末ということもあり、
一年をしめくくるための、さまざまな催しがある。
「今年の漢字」というのも、面白い企画である。
ある雑誌では、タレントのみんなに、
それぞれに、「今年の漢字」を尋ねていた。
私もそろそろ、自分自身の「今年一年」を、
あれこれと考えている。
テレビでは、音楽番組で、
「今年一年の総集編」を放送することが多い。
きょうは土曜日。
土曜日の夕方6時というと、
フジテレビのミュージックフェアである。
新聞のテレビ欄には、Music Fair の頭文字をとって、
「MF」と記載されているようだ。
ミュージックフェアは、
静かなスタジオで収録した、質の高い音楽番組として、
長年親しまれている。
そして、毎年暮れには、「今年の総集編」
を放送する。
きょうが、その放送日である。
きょうの放送では、私の大好きな、松田聖子ちゃんが、
登場するようである。
聖子さんの歌声は、うれしさやよろこびが素直に表現されていて、
大好きだ。
今夜は、早く帰って、おうちでテレビを見よう。
「ミュージックフェア」を見よう、っと!!!
2015年12月18日金曜日
「波の数だけ抱きしめて」
きょうは、晴れて気持ちのいい金曜日。
クリスマスの準備の手を止めて、
少し楽しんでみたい。
午後1時から、NHKのBSプレミアムで、
映画が始まる。
「波の数だけ抱きしめて」
中山美穂さんと、織田裕二さんが主演の、
湘南が舞台の映画である。
楽しみに、観ようと思って、
今、おひるごはんとポップコーンの準備をしている。
クリスマスの準備の手を止めて、
少し楽しんでみたい。
午後1時から、NHKのBSプレミアムで、
映画が始まる。
「波の数だけ抱きしめて」
中山美穂さんと、織田裕二さんが主演の、
湘南が舞台の映画である。
楽しみに、観ようと思って、
今、おひるごはんとポップコーンの準備をしている。
2015年12月6日日曜日
テロに注意!
一昨日、政府の「国際組織犯罪等・国際テロ対策推進本部」が、テロ対策の強化策を決定した。
パリの同時テロを受けた対応である。
こうして、日本でも「テロ対策推進本部」が出来て、そこが、こうして首相官邸に集約する情報一元化を打ち出した、ということは、日本でも、テロが起こる危険性がある、ということだと、私は思う。
まだ、政府から、たとえば「非常事態宣言」のようなものは出されていない。
もしも、政府から正式な宣言が出たら、もしかしたら、パニックが起こるかもしれない。
また、テロ組織にむしろ「チャンス」を与えてしまうかもしれない。
だから、気になる人から、まず自分から、テロ対策をしていってはどうか、と思う。
パリのテロ事件から学べることが、いくつかある。
パリで同時多発テロが起こったのは、夜の9時過ぎであった。
この、夜の9時過ぎに、どんな場所で起こったかというと、ひとつは、コンサートホール、つまりライブハウスである。
それから、レストラン、これはお酒も出す料理屋である。
それから、郊外のサッカースタジアムである。
ここに出かけていた人は、どんな用事で、この時間帯に家にいないで、外にいたのだろうか。
現代は、夜型社会である。
夜に、仕事が終わった後に、趣味や友達付き合いをするのは、もちろん自由である。
でも、仕事や家族でどうしても出かけなければならない用事だった、とは言い難い。
テロは許しがたい行為であるが、テロに遭った人たちが、どんな行動形態をしていたのか、そうしたところから、学べるものは学んでいこう。
必要な用事でなければ、夜は出歩かないようにしたい。
特にこれからの季節は、忘年会やクリスマス会、年末の用事など、出かける行事が増える季節である。
「本人の自粛」というところで、テロを未然に防ぎたいものだと思う。
また、非常事態宣言のあとのパリの様子を、インターネットなどでうかがい知ることができる。
できるようでできないかんじもある。
しかし、私たち日本人は、東日本大震災のころから、いざというときの備え、をする習慣ができている。
もしも夜や、真冬の寒い時期に、テロが起こったら、どういう状況になるかよく考えて、予備のたくわえを、できる人から、自主的にしていこう。
それから、こうしたときは、男女平等もなにもないものである。
男性は、女性を、家族を、しっかり守っていこう。
職場では、女性が、帰宅が遅くならないように、守っていこう。
子どもたちの登校下校の道も、保護者や地域の人たちで、よく守っていこう。
現代女性はこういうと、とても怒るかもしれないが、こうしたときには、男性の言うことを聞こう。
父親や夫、職場の男性や上司のいうことをよく聞いて、自分のことは自分でできるように、がんばろう。
これから寒さの季節にもなる。
栄養をつけて、あったかくして、よく睡眠をとって、不測の事態も、乗り越えていこう!!
パリの同時テロを受けた対応である。
こうして、日本でも「テロ対策推進本部」が出来て、そこが、こうして首相官邸に集約する情報一元化を打ち出した、ということは、日本でも、テロが起こる危険性がある、ということだと、私は思う。
まだ、政府から、たとえば「非常事態宣言」のようなものは出されていない。
もしも、政府から正式な宣言が出たら、もしかしたら、パニックが起こるかもしれない。
また、テロ組織にむしろ「チャンス」を与えてしまうかもしれない。
だから、気になる人から、まず自分から、テロ対策をしていってはどうか、と思う。
パリのテロ事件から学べることが、いくつかある。
パリで同時多発テロが起こったのは、夜の9時過ぎであった。
この、夜の9時過ぎに、どんな場所で起こったかというと、ひとつは、コンサートホール、つまりライブハウスである。
それから、レストラン、これはお酒も出す料理屋である。
それから、郊外のサッカースタジアムである。
ここに出かけていた人は、どんな用事で、この時間帯に家にいないで、外にいたのだろうか。
現代は、夜型社会である。
夜に、仕事が終わった後に、趣味や友達付き合いをするのは、もちろん自由である。
でも、仕事や家族でどうしても出かけなければならない用事だった、とは言い難い。
テロは許しがたい行為であるが、テロに遭った人たちが、どんな行動形態をしていたのか、そうしたところから、学べるものは学んでいこう。
必要な用事でなければ、夜は出歩かないようにしたい。
特にこれからの季節は、忘年会やクリスマス会、年末の用事など、出かける行事が増える季節である。
「本人の自粛」というところで、テロを未然に防ぎたいものだと思う。
また、非常事態宣言のあとのパリの様子を、インターネットなどでうかがい知ることができる。
できるようでできないかんじもある。
しかし、私たち日本人は、東日本大震災のころから、いざというときの備え、をする習慣ができている。
もしも夜や、真冬の寒い時期に、テロが起こったら、どういう状況になるかよく考えて、予備のたくわえを、できる人から、自主的にしていこう。
それから、こうしたときは、男女平等もなにもないものである。
男性は、女性を、家族を、しっかり守っていこう。
職場では、女性が、帰宅が遅くならないように、守っていこう。
子どもたちの登校下校の道も、保護者や地域の人たちで、よく守っていこう。
現代女性はこういうと、とても怒るかもしれないが、こうしたときには、男性の言うことを聞こう。
父親や夫、職場の男性や上司のいうことをよく聞いて、自分のことは自分でできるように、がんばろう。
これから寒さの季節にもなる。
栄養をつけて、あったかくして、よく睡眠をとって、不測の事態も、乗り越えていこう!!
2015年12月5日土曜日
フィギュアスケート・グランプリファイナル・2015
先週末は、フィギュアスケートのNHK杯で、
本当に熱い熱い三日間を生きることができた、と思う。
特にやっぱり、「歴史的瞬間に居合わせた」「異次元」と呼ばれた、
羽生結弦選手の演技は、素晴らしかったと思う。
ショートプログラムでは、ショパンを華麗に熱く演じてくれた。
私もあらためて、ショパンを「聴いた」気持ちでいる。
そして、フリースケーティングでは、いまだ成功したことがない、とかねがね言われていた「和」の演技を、見せてくれた。
ジャンプがすべて成功、という素晴らしい演技である。
日本の「和」が、胸に熱く伝わってきた。
そして、世界最高得点である。
「王者」と自分で言い切れる自信が、本当になんだか、うれしい、というかんじである。
フィギュアスケートの「シーズン」というのが、だんだん理解されてきたこのごろである。
いくつかのグランプリシリーズで演技して、それから、グランプリファイナルが行われる。
これから、12月10日(日本時間では12月11日の早朝)に、スタートする。
スペインのバルセロナで行われる、というから、選手たちはすでに現地入りしていることだろうか。
今、ヨーロッパでは、厳戒態勢が敷かれているところである。
そのなかで、競技を行うということは、「平和の勢力がめげない」ということだと思う。
男子選手はもちろんのこと、女子選手も、世界情勢がわかっていての、競技だと思うので、いろいろ心細いこともあるだろうけれども、がんばってほしい、と思う。
浅田真央選手の、NHK杯のフリースケーティング「蝶々夫人」は、とても素晴らしかった。
浅田選手の目指すところを、よく知らなくて、あの女性らしい演技を、高く評価しない人がいる。
けれども、浅田選手が目指しているのは、世界レベルなのだ、ということを、理解してほしいと思う。
まだ十代のうちは、「元気」「活発」「陽気」でよかった。
元気いっぱいのジャンプを飛べればよかった。
でも、世界は、特に欧米は、「女性らしいしなやかさ」「女性らしい豊かさ」があって当たり前の場所である。
浅田選手が立っている場所は、「世界」なのである。
アジア的な、アクロバットではなくて、女性的な演技を目指している。
そういう視点で、浅田選手の演技を、評価していきたいものだ、と思う。
ところで、浅田選手のショートプログラム「素敵なあなた」これからもっともっといろんなふうに伸びていく可能性のあるプログラムで、これからもとても楽しみである。
私はちょっとこんなふうに思った。
それは、フリースケーティングの「蝶々夫人」のストーリーが、始まっていて続いている、というかんじである。
蝶々夫人は、結婚してからがちょっと長いストーリーであるが、彼女が、夫となるその海軍士官に出会ったときには、どんな気持ちだったろう?と思うのだ。
そして、その背の高い、西洋の恋人から、プロポーズされたときの、喜びと、「有頂天な」気持ちである。
「あなたって本当に素敵ね!この私を選ぶなんて、いかしてるわ!」
そんな、ちょっと生意気な気持ちだろうか。
私もこのジャズの名曲を、日々の暮らしのなかで、口ずさんでいる。
大好きな歌である。
一緒に、この世界のなかで、がんばっていこうね!
本当に熱い熱い三日間を生きることができた、と思う。
特にやっぱり、「歴史的瞬間に居合わせた」「異次元」と呼ばれた、
羽生結弦選手の演技は、素晴らしかったと思う。
ショートプログラムでは、ショパンを華麗に熱く演じてくれた。
私もあらためて、ショパンを「聴いた」気持ちでいる。
そして、フリースケーティングでは、いまだ成功したことがない、とかねがね言われていた「和」の演技を、見せてくれた。
ジャンプがすべて成功、という素晴らしい演技である。
日本の「和」が、胸に熱く伝わってきた。
そして、世界最高得点である。
「王者」と自分で言い切れる自信が、本当になんだか、うれしい、というかんじである。
フィギュアスケートの「シーズン」というのが、だんだん理解されてきたこのごろである。
いくつかのグランプリシリーズで演技して、それから、グランプリファイナルが行われる。
これから、12月10日(日本時間では12月11日の早朝)に、スタートする。
スペインのバルセロナで行われる、というから、選手たちはすでに現地入りしていることだろうか。
今、ヨーロッパでは、厳戒態勢が敷かれているところである。
そのなかで、競技を行うということは、「平和の勢力がめげない」ということだと思う。
男子選手はもちろんのこと、女子選手も、世界情勢がわかっていての、競技だと思うので、いろいろ心細いこともあるだろうけれども、がんばってほしい、と思う。
浅田真央選手の、NHK杯のフリースケーティング「蝶々夫人」は、とても素晴らしかった。
浅田選手の目指すところを、よく知らなくて、あの女性らしい演技を、高く評価しない人がいる。
けれども、浅田選手が目指しているのは、世界レベルなのだ、ということを、理解してほしいと思う。
まだ十代のうちは、「元気」「活発」「陽気」でよかった。
元気いっぱいのジャンプを飛べればよかった。
でも、世界は、特に欧米は、「女性らしいしなやかさ」「女性らしい豊かさ」があって当たり前の場所である。
浅田選手が立っている場所は、「世界」なのである。
アジア的な、アクロバットではなくて、女性的な演技を目指している。
そういう視点で、浅田選手の演技を、評価していきたいものだ、と思う。
ところで、浅田選手のショートプログラム「素敵なあなた」これからもっともっといろんなふうに伸びていく可能性のあるプログラムで、これからもとても楽しみである。
私はちょっとこんなふうに思った。
それは、フリースケーティングの「蝶々夫人」のストーリーが、始まっていて続いている、というかんじである。
蝶々夫人は、結婚してからがちょっと長いストーリーであるが、彼女が、夫となるその海軍士官に出会ったときには、どんな気持ちだったろう?と思うのだ。
そして、その背の高い、西洋の恋人から、プロポーズされたときの、喜びと、「有頂天な」気持ちである。
「あなたって本当に素敵ね!この私を選ぶなんて、いかしてるわ!」
そんな、ちょっと生意気な気持ちだろうか。
私もこのジャズの名曲を、日々の暮らしのなかで、口ずさんでいる。
大好きな歌である。
一緒に、この世界のなかで、がんばっていこうね!
2015年12月4日金曜日
シングルマザーとその子どもたち。
子どもの貧困が今、わたしたちが抱える問題となっている。
子どもの貧困について、テレビでも新聞でも、インターネットでも、詳しくその内実が語られている。私もそれをよく読んでみる。
子どもの貧困には、いくつかの典型があるようだ。
ひとつは、以前は「母子家庭」と呼ばれた「ひとり親家庭」である。
母子家庭も父子家庭も、一様に子どもを育てるには、課題を持っている、という意味で、名称を「ひとり親」にしたのだろうが、やはり、ずっと以前からそうであったように、母子家庭つまり、「母ひとり子ひとり」という家庭において、貧困の度合いが、強いようである。
私が気になったのは、これらのニュース記事を読んでいて、その詳細が語られているにも関わらず、この家庭が、どうしてひとり親家庭になったのか、その理由については、ほとんど触れられていないことだ。
子どもが産まれた以上は、今は母子家庭であったとしても、必ず父親の存在があったはずである。
なぜ、結婚したにも関わらず離婚をしたのか。
あるいは、なぜ結婚をしなかったのか。
そのいきさつについては、ほとんど触れられていない。
しかし、新聞ニュースが触れても触れなくても、だいたいのところは想像がつく、というところだろう。
ひとり親家庭になった母は、結婚しても夫婦関係がうまくいかなかったので、離婚したのである。
夫婦関係がうまくいかなかったのはなぜなのか。
その理由は千差万別だろうと思う。
なかには、夫のDVを挙げている記事もあった。
あるいは、インターネット上で匿名の記事があって、夫の浮気が原因で離婚した、という例がある。
いずれの場合でも、夫つまり、男性の側に原因があって、離婚せざるを得なかった、ということである。
けれども、子どもには何の罪もない、夫は憎いが、子どもは可愛い、というのが、母親たちの気持ちである。
また、もうひとつの、ひとり親家庭の理由としては、もともと結婚しないで、子どもが産まれた、という状況である。
「シングルマザー」という言い方には、結婚してから子どもが産まれて、それから離婚した場合と、最初から結婚をしなかった場合と、両方が含まれている。
私が特に、いろいろと思いを至らせるのは、後者の、「結婚をしなかった」場合のほうである。
シングルマザーのなかには、結婚をして産まれた子どもも、結婚をしなかった場合も、どちらも同じように扱ってほしい、という願いがあるようだ。
それで、「シングルマザー」という言葉でひとくくりになっているが、子どもが産まれるまでの過程は、ずいぶんとちがうように思える。
私が、ここで、シングルマザーに至る「いきさつ」にこだわるのは、ひとつ大切な理由がある。
それは、母親となった女性が、それで本当に幸せだったのか、よい選択をしたのか、という大きな疑問があるからである。
やはり、子どもを持つほど、父親となった相手の男性を愛したのならば、結婚したかったのではないだろうか。
結婚したかったのに、できなかった、それは、女性として、幸せなことなのだろうか。
「いろいろ事情があって結婚はできなかったけれど」
という言葉で、自分が持つ複雑な恋愛状況を、正当化して、見えるものも見えなくしてしまってはいないだろうか。
「子どもをもつくらいに、私たちは愛し合っていた」
そういった理屈をつけて、結婚できなかったこと、結婚した夫婦や結婚後に産まれた子どもとの「ちがい」があることを、なんとか自分の気持ちに、整理をつけたいのではないだろうか。
同じことは、結婚したけれども離婚した母子家庭にも言える。
なぜ、他の夫婦はうまく関係が続いて、生涯にわたって伴侶でいられるのに、なぜ「うちの」家庭だけが、うまくいかなかったのか。
本当に、「男が悪い」「男性の責任」なのだろうか?
本当に、妻の側、女性の側に、なんの責任も原因もなかったのだろうか?
私は、こうした問いに対して、なかなか答が出てこないことを、残念に思う。
そして、彼女たちの、「いろいろ事情があって」「愛し合ってはいたのだけれど」という気持ちの整理のための理屈を、正当化して、「男性が悪かった」ことにすることを、よくないことだと思う。
このところの、特に女流文学のほうでは、こうした理屈を、正当化するような文学が多いと思った。
そして、そこに愛があったから、という理由で、何か自分を楽にしたい、あるいは、愛という言葉で、人生から逃避しようとしているような気持ちを、思った。
それは、「楽な方向に流されたい」という気持ちでもあるし、女性としての母性本能、つまり、「本能に流された生き方」とも言えるのではないか、と思った。
けれども私は、そうしたシングルマザーや、離婚に至った母親たちを、責めているわけではない。
まして、生きている価値がないとか、人権もない、とか、自由な発言もできない立場だ、と言っているわけではない。
私は、彼女たちが一様に抱えている「なぜ?」の問いに、答えようと思ったのである。
私は昨年、NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」の感想を書いていた。
脚本家の中園ミホさんは、結婚しなかったシングルマザーである。
中園さんが、「花子とアン」の放送が始まる前から、シングルマザーであることを宣言して、「大いにやらかそう」みたいなことを言っていたのを知って、私は、中園さんに、教えてあげたくなったのである。
「なぜ、ワタシの恋愛は、結婚に至らなかったのか?」
というその理由である。
「花子とアン」の放送を見ていて、ヒロインの花子の行動や言動をつぶさに見て、私はそこに、「結婚に至らない恋愛」のたくさんの兆しを見て取った。
それを、ひとつひとつ、ブログに書いて、アップしていったのである。
そうすると、ストーリーが、誰が見ても、つじつまが合わなくなってきたと、思わないだろうか?
シングルマザーになった理由を、「なぜ、私の両親の恋愛は結婚に至らなかったのか?」というテーマとして考えてみることもできる。
私はここがよく見える。
このあたりがわかると、自分自身の出自も、自分自身の存在価値も、よくわかってきて、すっきりするのではないだろうか?
もし、要望があれば、それを何回かに分けて、書き綴ることにしようと思う。
子どもの貧困について、テレビでも新聞でも、インターネットでも、詳しくその内実が語られている。私もそれをよく読んでみる。
子どもの貧困には、いくつかの典型があるようだ。
ひとつは、以前は「母子家庭」と呼ばれた「ひとり親家庭」である。
母子家庭も父子家庭も、一様に子どもを育てるには、課題を持っている、という意味で、名称を「ひとり親」にしたのだろうが、やはり、ずっと以前からそうであったように、母子家庭つまり、「母ひとり子ひとり」という家庭において、貧困の度合いが、強いようである。
私が気になったのは、これらのニュース記事を読んでいて、その詳細が語られているにも関わらず、この家庭が、どうしてひとり親家庭になったのか、その理由については、ほとんど触れられていないことだ。
子どもが産まれた以上は、今は母子家庭であったとしても、必ず父親の存在があったはずである。
なぜ、結婚したにも関わらず離婚をしたのか。
あるいは、なぜ結婚をしなかったのか。
そのいきさつについては、ほとんど触れられていない。
しかし、新聞ニュースが触れても触れなくても、だいたいのところは想像がつく、というところだろう。
ひとり親家庭になった母は、結婚しても夫婦関係がうまくいかなかったので、離婚したのである。
夫婦関係がうまくいかなかったのはなぜなのか。
その理由は千差万別だろうと思う。
なかには、夫のDVを挙げている記事もあった。
あるいは、インターネット上で匿名の記事があって、夫の浮気が原因で離婚した、という例がある。
いずれの場合でも、夫つまり、男性の側に原因があって、離婚せざるを得なかった、ということである。
けれども、子どもには何の罪もない、夫は憎いが、子どもは可愛い、というのが、母親たちの気持ちである。
また、もうひとつの、ひとり親家庭の理由としては、もともと結婚しないで、子どもが産まれた、という状況である。
「シングルマザー」という言い方には、結婚してから子どもが産まれて、それから離婚した場合と、最初から結婚をしなかった場合と、両方が含まれている。
私が特に、いろいろと思いを至らせるのは、後者の、「結婚をしなかった」場合のほうである。
シングルマザーのなかには、結婚をして産まれた子どもも、結婚をしなかった場合も、どちらも同じように扱ってほしい、という願いがあるようだ。
それで、「シングルマザー」という言葉でひとくくりになっているが、子どもが産まれるまでの過程は、ずいぶんとちがうように思える。
私が、ここで、シングルマザーに至る「いきさつ」にこだわるのは、ひとつ大切な理由がある。
それは、母親となった女性が、それで本当に幸せだったのか、よい選択をしたのか、という大きな疑問があるからである。
やはり、子どもを持つほど、父親となった相手の男性を愛したのならば、結婚したかったのではないだろうか。
結婚したかったのに、できなかった、それは、女性として、幸せなことなのだろうか。
「いろいろ事情があって結婚はできなかったけれど」
という言葉で、自分が持つ複雑な恋愛状況を、正当化して、見えるものも見えなくしてしまってはいないだろうか。
「子どもをもつくらいに、私たちは愛し合っていた」
そういった理屈をつけて、結婚できなかったこと、結婚した夫婦や結婚後に産まれた子どもとの「ちがい」があることを、なんとか自分の気持ちに、整理をつけたいのではないだろうか。
同じことは、結婚したけれども離婚した母子家庭にも言える。
なぜ、他の夫婦はうまく関係が続いて、生涯にわたって伴侶でいられるのに、なぜ「うちの」家庭だけが、うまくいかなかったのか。
本当に、「男が悪い」「男性の責任」なのだろうか?
本当に、妻の側、女性の側に、なんの責任も原因もなかったのだろうか?
私は、こうした問いに対して、なかなか答が出てこないことを、残念に思う。
そして、彼女たちの、「いろいろ事情があって」「愛し合ってはいたのだけれど」という気持ちの整理のための理屈を、正当化して、「男性が悪かった」ことにすることを、よくないことだと思う。
このところの、特に女流文学のほうでは、こうした理屈を、正当化するような文学が多いと思った。
そして、そこに愛があったから、という理由で、何か自分を楽にしたい、あるいは、愛という言葉で、人生から逃避しようとしているような気持ちを、思った。
それは、「楽な方向に流されたい」という気持ちでもあるし、女性としての母性本能、つまり、「本能に流された生き方」とも言えるのではないか、と思った。
けれども私は、そうしたシングルマザーや、離婚に至った母親たちを、責めているわけではない。
まして、生きている価値がないとか、人権もない、とか、自由な発言もできない立場だ、と言っているわけではない。
私は、彼女たちが一様に抱えている「なぜ?」の問いに、答えようと思ったのである。
私は昨年、NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」の感想を書いていた。
脚本家の中園ミホさんは、結婚しなかったシングルマザーである。
中園さんが、「花子とアン」の放送が始まる前から、シングルマザーであることを宣言して、「大いにやらかそう」みたいなことを言っていたのを知って、私は、中園さんに、教えてあげたくなったのである。
「なぜ、ワタシの恋愛は、結婚に至らなかったのか?」
というその理由である。
「花子とアン」の放送を見ていて、ヒロインの花子の行動や言動をつぶさに見て、私はそこに、「結婚に至らない恋愛」のたくさんの兆しを見て取った。
それを、ひとつひとつ、ブログに書いて、アップしていったのである。
そうすると、ストーリーが、誰が見ても、つじつまが合わなくなってきたと、思わないだろうか?
シングルマザーになった理由を、「なぜ、私の両親の恋愛は結婚に至らなかったのか?」というテーマとして考えてみることもできる。
私はここがよく見える。
このあたりがわかると、自分自身の出自も、自分自身の存在価値も、よくわかってきて、すっきりするのではないだろうか?
もし、要望があれば、それを何回かに分けて、書き綴ることにしようと思う。
2015年12月2日水曜日
今夜12月2日・FNS歌謡祭♪
12月、師走となった。
いろいろなことがあった一年である。
年末恒例の行事が、次々に行われている。
年賀状はもう書いただろうか?
私は、パソコンとプリンターを駆使して、
毎年、かわいらしい年賀状を印刷している。
今年の年末は、郵便事情が、遅れがちになっている、
という話がある。
もともと、お歳暮の季節でもある。
マイナンバーの配達が遅れていて、
気持ちが落ち着かないかもしれないが、
郵便局と自治体を信じて、待つことにしてみよう。
私は、マイナンバーは届いた。
郵便配達の人に、「お待ちしていました」
と言うと、笑顔で応対してくれた。
郵便局もがんばっているから、
私たちも、年賀状は、余裕をもって、
住所や郵便番号は、わかりやすい文字で、
書くことにしよう。
真冬のシーズンにさしかかり、
夜はすぐに暗くなる。
先週末は、夕暮れになると、
フィギュアスケートが放送されて、
本当に素晴らしかった。
私たちは、この冬、
風邪をひいたりしないように、
外出なども、必要ではない限りは控えて、
家で家族と一緒に、
手作りのお料理をいただきながら、
テレビで、楽しむことにしてはどうか、と思う。
今夜、12月2日は、フジテレビ系で、
FNS歌謡祭の放送が行われる。
これも、ライブ中継なので、
なにごとにおいてもライブ中継が好きな私は、
毎年、楽しみにしている。
FNS歌謡祭は、大晦日のNHK紅白歌合戦とは、
また、雰囲気がちがっている。
出場する歌手のメンバー構成が、
若手が多い。
紅白歌合戦だと、演歌の歌手も登場して、
老若男女向けの構成になっているが、
FNS歌謡祭は、まったく若者向けの構成になっているのではないかと思う。
さらに楽しみは、さまざまな歌手が、
コラボをするところである。
FNS歌謡祭ならではの、スペシャルコラボや、
ここでしか歌わない曲があったりする。
誰かのとてもいい歌が、
別の歌手でカバーされて歌われて、
とても新鮮な聞き心地になる。
また、東京のホテルの大広間に集まって、
それがライブ中継されるので、
観客は、参加する歌手のメンバーである。
有名な歌手の皆さんが、
テーブルに着席して、
ジュースを飲みながら拍手をしていたり、
歌っている人の応援をしていたりするのが、
みどころのひとつになっている。
演奏は、ひとつの楽団で行うわけだから、
特に私は、ピアノを弾いている人に注目している。
次から次に、曲が奏でられるわけだが、
そのほとんどすべてを、ピアノ演奏するので、
とても尊敬してしまう。
時には楽譜を宙に飛ばして、
熱演している。
夜7時に始まって、
11時過ぎまでの4時間の長丁場である。
夕食や夜食を準備して、
曲と曲の間にお風呂にもはいって、
じっくりと、ゆったりと、
音楽にひたる一夜となる。
私も今夜は、録画もしかけて、
テレビで音楽を楽しみたいと思っている。
FNS歌謡祭ホームページ →
http://www.fujitv.co.jp/FNS/2015/contents01.html
いろいろなことがあった一年である。
年末恒例の行事が、次々に行われている。
年賀状はもう書いただろうか?
私は、パソコンとプリンターを駆使して、
毎年、かわいらしい年賀状を印刷している。
今年の年末は、郵便事情が、遅れがちになっている、
という話がある。
もともと、お歳暮の季節でもある。
マイナンバーの配達が遅れていて、
気持ちが落ち着かないかもしれないが、
郵便局と自治体を信じて、待つことにしてみよう。
私は、マイナンバーは届いた。
郵便配達の人に、「お待ちしていました」
と言うと、笑顔で応対してくれた。
郵便局もがんばっているから、
私たちも、年賀状は、余裕をもって、
住所や郵便番号は、わかりやすい文字で、
書くことにしよう。
真冬のシーズンにさしかかり、
夜はすぐに暗くなる。
先週末は、夕暮れになると、
フィギュアスケートが放送されて、
本当に素晴らしかった。
私たちは、この冬、
風邪をひいたりしないように、
外出なども、必要ではない限りは控えて、
家で家族と一緒に、
手作りのお料理をいただきながら、
テレビで、楽しむことにしてはどうか、と思う。
今夜、12月2日は、フジテレビ系で、
FNS歌謡祭の放送が行われる。
これも、ライブ中継なので、
なにごとにおいてもライブ中継が好きな私は、
毎年、楽しみにしている。
FNS歌謡祭は、大晦日のNHK紅白歌合戦とは、
また、雰囲気がちがっている。
出場する歌手のメンバー構成が、
若手が多い。
紅白歌合戦だと、演歌の歌手も登場して、
老若男女向けの構成になっているが、
FNS歌謡祭は、まったく若者向けの構成になっているのではないかと思う。
さらに楽しみは、さまざまな歌手が、
コラボをするところである。
FNS歌謡祭ならではの、スペシャルコラボや、
ここでしか歌わない曲があったりする。
誰かのとてもいい歌が、
別の歌手でカバーされて歌われて、
とても新鮮な聞き心地になる。
また、東京のホテルの大広間に集まって、
それがライブ中継されるので、
観客は、参加する歌手のメンバーである。
有名な歌手の皆さんが、
テーブルに着席して、
ジュースを飲みながら拍手をしていたり、
歌っている人の応援をしていたりするのが、
みどころのひとつになっている。
演奏は、ひとつの楽団で行うわけだから、
特に私は、ピアノを弾いている人に注目している。
次から次に、曲が奏でられるわけだが、
そのほとんどすべてを、ピアノ演奏するので、
とても尊敬してしまう。
時には楽譜を宙に飛ばして、
熱演している。
夜7時に始まって、
11時過ぎまでの4時間の長丁場である。
夕食や夜食を準備して、
曲と曲の間にお風呂にもはいって、
じっくりと、ゆったりと、
音楽にひたる一夜となる。
私も今夜は、録画もしかけて、
テレビで音楽を楽しみたいと思っている。
FNS歌謡祭ホームページ →
http://www.fujitv.co.jp/FNS/2015/contents01.html
2015年11月28日土曜日
浅田真央さん。NHK杯・2015.
真冬の楽しみといえば、やはりNHK杯のフィギュアスケートである。
毎日、スケート三昧をして楽しんでいる人も、たくさんいるようだ。
昨夜は、女子ショートプログラムだった。
私もずっと以前から応援している浅田真央選手。
ジャズのナンバー「素敵なあなた」を、見事に演じていた。
ジャズの「魂」というのは、こういうところにあるのかもしれない。
何よりも、「恋」の素敵さが、伝わってきた。
浅田選手、今季絶好調である。
とても調子がいい。
だから、ちょっと曲よりも、動きが早くなって、勢いが余ってしまったようである。
これまで、努力と訓練で演技してきたスケートだけれども、一年の休暇ののち、とても楽しめるようになった、という。
きっとフリーの演技も、とても自信があるのだろう、と思う。
その勢いがあまって、ジャンプの着氷がうまくいかなかったのではないか、と思う。
これまでには、あまりしなかったことかもしれないが、少し勢いを抑え気味にする、という技が、求められるのかもしれない。
蝶々夫人、とても楽しみである。
毎日、スケート三昧をして楽しんでいる人も、たくさんいるようだ。
昨夜は、女子ショートプログラムだった。
私もずっと以前から応援している浅田真央選手。
ジャズのナンバー「素敵なあなた」を、見事に演じていた。
ジャズの「魂」というのは、こういうところにあるのかもしれない。
何よりも、「恋」の素敵さが、伝わってきた。
浅田選手、今季絶好調である。
とても調子がいい。
だから、ちょっと曲よりも、動きが早くなって、勢いが余ってしまったようである。
これまで、努力と訓練で演技してきたスケートだけれども、一年の休暇ののち、とても楽しめるようになった、という。
きっとフリーの演技も、とても自信があるのだろう、と思う。
その勢いがあまって、ジャンプの着氷がうまくいかなかったのではないか、と思う。
これまでには、あまりしなかったことかもしれないが、少し勢いを抑え気味にする、という技が、求められるのかもしれない。
蝶々夫人、とても楽しみである。
2015年11月26日木曜日
フィギュアスケート・NHK杯2015。
明日11月27日と、あさって28日、そして29日と、
フィギュアスケートのNHK杯が開かれる。
明日27日金曜日は、女子と男子のショートプログラムが行われる。
あさって28日土曜日は、女子と男子のフリースケーティングが行われる。
とても楽しみである。
特に今年は、日本でもテレビとインターネットの同時放送を始めるための、今回は、試験放送ということで、パソコンのインターネットでも、タブレットでもスマートフォンでも、リアルタイムに競技の放送を楽しめる、というわけである。
私もさっそく、NHKのサイトから、スマートフォンの視聴ができるように、アプリをダウンロードしておいた。
準備万端である。
今年のNHK杯の見どころは、いろいろあるが、各種スポーツ新聞、スポーツサイトなどでたくさん書かれている。
私もそういった、詳しい競技の記述を読むのが大好きである。
男子のショートプログラムでは、金メダリストの羽生結弦選手はもちろんとして、そのライバルである、無良崇人選手の演技も、とても楽しみである。
先月のアメリカでの演技を、動画で観たのだが、ショートプログラムの「黒い瞳」は、とても素晴らしかった。
ロシア民謡は、フィギュアスケートの定番であるが、無良選手は、どんな女性の「黒い瞳」を思っていたのだろうか、奥さんであろうか、まだ幼い娘さんであろうか、地に足の着いた、しっかりとした、男の愛情を感じさせるものであった。
指から、エッジから、あふれるような、「真冬の男の愛情」が、感じられた。
明日もとても楽しみである。
無良選手の、フリーの曲は、シルク・ド・ソレイユの「O」である。
「O」は、「オー」であり、フランス語の「水」を意味するそうだ。
シルクドソレイユといえば、現代の前衛の大道芸で、世界的にとても有名で人気がある。
前衛というのは、カウンターカルチャーとも呼ばれる類の芸術である。
その本質というのはなんなのか。
なんなのかわからないところが、前衛的、というところだろうか。
カウンターカルチャーと言えば、「今あるものに対抗する」「今まであったもの、既成概念に抵抗する」というような意義がある。
そして、シルクドソレイユの舞台もそうであるが、ボーダレス、つまり、国境のない文化芸術を表現している。
「国境のない」という言い方も、さまざまな解釈があるだろうが、私の感じるところでは、たとえば、西洋的であるとか、東洋的であるとか、あるいは、民族的であるとか、時には政治的であるとか、そういったことのすべてを超越したところに、新しい芸術を求めたものである、と思える。
しかし、無良選手の「O」にも見て取れるように、「西洋でも東洋でもない」というよりは、「西洋であり、東洋でもある」というふうに、たくさんの複雑な要素を取り入れたもの、といえそうだ。
このあたりを、無良選手がどのように表現するのか、とても興味深い。
ところで、町田樹選手はどうしたのだろう?
昨年、シーズンの途中で引退表明をして、それっきりである。
とても惜しい選手である。
しかし、町田選手の昨年の選曲には、少し無理があった。
というのは、ベートーベンの第九合唱付きを選んだからである。
合唱というのは、たくさんの人数が集まって表現するものである。
それを、ひとり氷上で表現するには、かなりの技術が必要とされた。
町田選手はそこに挑んだわけであるが、惜しくも引退である。
実は今年の無良選手にも、同じようなことが言える。
無良選手のフリー曲「O」は、たくさんの劇団員が集まって表現するものなのである。
舞台というのは、友情の集まりである。
実は、前衛的である人たちというのは、話をしてみると、人懐っこく、和気あいあいとしているチームである場合が多い。
同じ感性を持ち、同じ舞台をやり遂げようとする、目的意識や連帯感があるかもしれない。
「前衛」それ自体は、とてもシュールで時には「なんかこわい」ものであるのに対して、それを演じる人たちは、むしろ明るくて陽気で、底抜けに楽しいのである。
考えてみれば、ボーダレスというのも、「みんなで仲良くやろうよ」という意味かもしれない。
それくらい、今の世界は、ボーダレスな気心で満ちている、とも言える。
明日のNHK杯は、夕方4時にはスタートである。
各種情報をかき集めて、冬の夕暮れの寂しい時間帯には、鍋でも囲みながら、アイススケートを楽しみたいものである。
私も、そんなふうに、冬の夕べを迎えることにしようと思っている。
フィギュアスケートNHK杯公式サイト →
http://www.nhk-trophy2015.jp/
NHK杯 ネットで観るには →
http://www.nhk.or.jp/figure/
フィギュアスケートのNHK杯が開かれる。
明日27日金曜日は、女子と男子のショートプログラムが行われる。
あさって28日土曜日は、女子と男子のフリースケーティングが行われる。
とても楽しみである。
特に今年は、日本でもテレビとインターネットの同時放送を始めるための、今回は、試験放送ということで、パソコンのインターネットでも、タブレットでもスマートフォンでも、リアルタイムに競技の放送を楽しめる、というわけである。
私もさっそく、NHKのサイトから、スマートフォンの視聴ができるように、アプリをダウンロードしておいた。
準備万端である。
今年のNHK杯の見どころは、いろいろあるが、各種スポーツ新聞、スポーツサイトなどでたくさん書かれている。
私もそういった、詳しい競技の記述を読むのが大好きである。
男子のショートプログラムでは、金メダリストの羽生結弦選手はもちろんとして、そのライバルである、無良崇人選手の演技も、とても楽しみである。
先月のアメリカでの演技を、動画で観たのだが、ショートプログラムの「黒い瞳」は、とても素晴らしかった。
ロシア民謡は、フィギュアスケートの定番であるが、無良選手は、どんな女性の「黒い瞳」を思っていたのだろうか、奥さんであろうか、まだ幼い娘さんであろうか、地に足の着いた、しっかりとした、男の愛情を感じさせるものであった。
指から、エッジから、あふれるような、「真冬の男の愛情」が、感じられた。
明日もとても楽しみである。
無良選手の、フリーの曲は、シルク・ド・ソレイユの「O」である。
「O」は、「オー」であり、フランス語の「水」を意味するそうだ。
シルクドソレイユといえば、現代の前衛の大道芸で、世界的にとても有名で人気がある。
前衛というのは、カウンターカルチャーとも呼ばれる類の芸術である。
その本質というのはなんなのか。
なんなのかわからないところが、前衛的、というところだろうか。
カウンターカルチャーと言えば、「今あるものに対抗する」「今まであったもの、既成概念に抵抗する」というような意義がある。
そして、シルクドソレイユの舞台もそうであるが、ボーダレス、つまり、国境のない文化芸術を表現している。
「国境のない」という言い方も、さまざまな解釈があるだろうが、私の感じるところでは、たとえば、西洋的であるとか、東洋的であるとか、あるいは、民族的であるとか、時には政治的であるとか、そういったことのすべてを超越したところに、新しい芸術を求めたものである、と思える。
しかし、無良選手の「O」にも見て取れるように、「西洋でも東洋でもない」というよりは、「西洋であり、東洋でもある」というふうに、たくさんの複雑な要素を取り入れたもの、といえそうだ。
このあたりを、無良選手がどのように表現するのか、とても興味深い。
ところで、町田樹選手はどうしたのだろう?
昨年、シーズンの途中で引退表明をして、それっきりである。
とても惜しい選手である。
しかし、町田選手の昨年の選曲には、少し無理があった。
というのは、ベートーベンの第九合唱付きを選んだからである。
合唱というのは、たくさんの人数が集まって表現するものである。
それを、ひとり氷上で表現するには、かなりの技術が必要とされた。
町田選手はそこに挑んだわけであるが、惜しくも引退である。
実は今年の無良選手にも、同じようなことが言える。
無良選手のフリー曲「O」は、たくさんの劇団員が集まって表現するものなのである。
舞台というのは、友情の集まりである。
実は、前衛的である人たちというのは、話をしてみると、人懐っこく、和気あいあいとしているチームである場合が多い。
同じ感性を持ち、同じ舞台をやり遂げようとする、目的意識や連帯感があるかもしれない。
「前衛」それ自体は、とてもシュールで時には「なんかこわい」ものであるのに対して、それを演じる人たちは、むしろ明るくて陽気で、底抜けに楽しいのである。
考えてみれば、ボーダレスというのも、「みんなで仲良くやろうよ」という意味かもしれない。
それくらい、今の世界は、ボーダレスな気心で満ちている、とも言える。
明日のNHK杯は、夕方4時にはスタートである。
各種情報をかき集めて、冬の夕暮れの寂しい時間帯には、鍋でも囲みながら、アイススケートを楽しみたいものである。
私も、そんなふうに、冬の夕べを迎えることにしようと思っている。
フィギュアスケートNHK杯公式サイト →
http://www.nhk-trophy2015.jp/
NHK杯 ネットで観るには →
http://www.nhk.or.jp/figure/
2015年11月21日土曜日
羽生結弦選手、「オペラ座の怪人」素敵でした!
きょうも、とても寒い。
本格的な冬のシーズンが始まろうとしている。
冬には冬の楽しさがある。
それが、私も大好きな、フィギュアスケートである。
男子選手で、その演技を楽しみにしているのは、
ソチ五輪で金メダルをとった、羽生結弦選手である。
圧倒的な強さで、昨シーズンも絶好調であった。
昨シーズンは、フリーの曲は、「オペラ座の怪人」であった。
「怪人」の恋する悲しみとその切ない思いが、
美しく表現された、素晴らしい演技だった、と思う。
私も、テレビ画面の前で、拍手をおしまなかった。
感動をたくさんもらえて、
本当に、フィギュアの選手の素晴らしさを思った。
今年もシーズンが始まり、
羽生選手の演技を見ていると、
本当に、すがすがしい冬の凛とした北風を思わされる。
ソチで金メダルをとったころよりは、
体格が、よくなったと思う。
これは、きっと誰からも言われることだろうと思う。
年齢的に、身体がどんどんできていくときなのだろうと思う。
今の羽生選手は、男らしい力強い演技ができる。
そういう体つきになっていると思う。
これも日ごろの訓練のたまものである。
ショートプログラムのショパンのバラード。
ショパンは、鍵盤の詩人、とか、ピアノの詩人、
とか呼ばれてたくさんの人から愛されている。
たとえば、浅田選手もソチのショートプログラムで使った
「ノクターン9番」などは、
繊細なピアノのメロディと、和音が奏でられる。
しかしショパンは、繊細さと同時に、
男らしさ、力強さのある、作曲家である。
たとえば、祖国ポーランドで革命がおこったときに、
エチュード「革命」を、作成している。
この、激しさと情熱は、
繊細さの裏側にある、ショパンの「底力」とも呼べるものである。
フリーの曲では、映画「陰陽師」から、SEIMEIを選ばれている。
これは、映画「陰陽師」の主人公「安倍清明」のテーマである。
日本的で、アジア的な、また横笛を使ったオリエンタルな、
そういったところに、今年の羽生選手は、挑戦している。
「陰陽師」「陰陽道」というと、
現代の日本人には、ちょっとなかなか、理解しずらいところもある。
「日本的な」ということで、歌舞伎や狂言でも、現代ものとして、
新作でトライされているのであるが、
日本の思想というと、仏教や神道が、主として思われるところであるので、
私たちの日常には、陰陽道が息づいているとは言い難い。
しかし、平安時代には、陰陽道が実際にあったわけである。
古代の日本人の「思い」を表現するには、
とてもよいテーマ曲であると思う。
平安時代というと、現代では考えられないことであるが、
まずは、電気がなかった時代である。
また、発達した医学や科学もなかった時代である。
だから、たとえばある日突然に、日食が起こったりすると、
それはそれは、恐怖であった。
明るかった昼間が、みるみる薄暗くなり、
太陽に影がさすのである。
また、今年も冬が来てインフルエンザが流行り始めるが、
こうした、目に見えないウイルスというのが、
まだわからなかった時代であるから、
いつの間にか罹患する病、はやり病というのは、
悪夢との戦いだった。
そして、何よりも恐ろしかったのが、
闇、である。
現代では、24時間、真夜中でも、
道路には街路灯が照らされ、
コンビニエンスストアの明かりが遠くからもまぶしい。
しかし、平安の時代には、夜となると、
小さな揺れるろうそくの光以外は、
すべて「闇」なのである。
古代の人々は、この「闇」と闘っていた。
闇のなかにうごめく、さまざまな目に見えない敵と、
力いっぱい戦っていた。
それは、おのれの心の中の、恐怖心と戦っていた、
ということかもしれない。
陰陽師は、そうした怖れに打ち勝つための、
まじない師である。
誰もが彼に頼り、そして、闇と病に打ち勝つことができた。
平安の都の、医師でもあり、祈祷師でもあり、
誰よりも頼れる、正義の味方であったのだろう、と思う。
古代の人々は、真冬を乗り越えるのもこわかった、
と言われている。
今度こそ本当に、もう二度と春は来ないのではないか、
このまま冬が続くのではないか、とこわくなったそうである。
フィギュアスケートは、氷のなかに咲く、春である。
冷たい北風の季節、心を熱くさせて、
今年も、私は、じっと、スケートリンクを、見つめている。
本格的な冬のシーズンが始まろうとしている。
冬には冬の楽しさがある。
それが、私も大好きな、フィギュアスケートである。
男子選手で、その演技を楽しみにしているのは、
ソチ五輪で金メダルをとった、羽生結弦選手である。
圧倒的な強さで、昨シーズンも絶好調であった。
昨シーズンは、フリーの曲は、「オペラ座の怪人」であった。
「怪人」の恋する悲しみとその切ない思いが、
美しく表現された、素晴らしい演技だった、と思う。
私も、テレビ画面の前で、拍手をおしまなかった。
感動をたくさんもらえて、
本当に、フィギュアの選手の素晴らしさを思った。
今年もシーズンが始まり、
羽生選手の演技を見ていると、
本当に、すがすがしい冬の凛とした北風を思わされる。
ソチで金メダルをとったころよりは、
体格が、よくなったと思う。
これは、きっと誰からも言われることだろうと思う。
年齢的に、身体がどんどんできていくときなのだろうと思う。
今の羽生選手は、男らしい力強い演技ができる。
そういう体つきになっていると思う。
これも日ごろの訓練のたまものである。
ショートプログラムのショパンのバラード。
ショパンは、鍵盤の詩人、とか、ピアノの詩人、
とか呼ばれてたくさんの人から愛されている。
たとえば、浅田選手もソチのショートプログラムで使った
「ノクターン9番」などは、
繊細なピアノのメロディと、和音が奏でられる。
しかしショパンは、繊細さと同時に、
男らしさ、力強さのある、作曲家である。
たとえば、祖国ポーランドで革命がおこったときに、
エチュード「革命」を、作成している。
この、激しさと情熱は、
繊細さの裏側にある、ショパンの「底力」とも呼べるものである。
フリーの曲では、映画「陰陽師」から、SEIMEIを選ばれている。
これは、映画「陰陽師」の主人公「安倍清明」のテーマである。
日本的で、アジア的な、また横笛を使ったオリエンタルな、
そういったところに、今年の羽生選手は、挑戦している。
「陰陽師」「陰陽道」というと、
現代の日本人には、ちょっとなかなか、理解しずらいところもある。
「日本的な」ということで、歌舞伎や狂言でも、現代ものとして、
新作でトライされているのであるが、
日本の思想というと、仏教や神道が、主として思われるところであるので、
私たちの日常には、陰陽道が息づいているとは言い難い。
しかし、平安時代には、陰陽道が実際にあったわけである。
古代の日本人の「思い」を表現するには、
とてもよいテーマ曲であると思う。
平安時代というと、現代では考えられないことであるが、
まずは、電気がなかった時代である。
また、発達した医学や科学もなかった時代である。
だから、たとえばある日突然に、日食が起こったりすると、
それはそれは、恐怖であった。
明るかった昼間が、みるみる薄暗くなり、
太陽に影がさすのである。
また、今年も冬が来てインフルエンザが流行り始めるが、
こうした、目に見えないウイルスというのが、
まだわからなかった時代であるから、
いつの間にか罹患する病、はやり病というのは、
悪夢との戦いだった。
そして、何よりも恐ろしかったのが、
闇、である。
現代では、24時間、真夜中でも、
道路には街路灯が照らされ、
コンビニエンスストアの明かりが遠くからもまぶしい。
しかし、平安の時代には、夜となると、
小さな揺れるろうそくの光以外は、
すべて「闇」なのである。
古代の人々は、この「闇」と闘っていた。
闇のなかにうごめく、さまざまな目に見えない敵と、
力いっぱい戦っていた。
それは、おのれの心の中の、恐怖心と戦っていた、
ということかもしれない。
陰陽師は、そうした怖れに打ち勝つための、
まじない師である。
誰もが彼に頼り、そして、闇と病に打ち勝つことができた。
平安の都の、医師でもあり、祈祷師でもあり、
誰よりも頼れる、正義の味方であったのだろう、と思う。
古代の人々は、真冬を乗り越えるのもこわかった、
と言われている。
今度こそ本当に、もう二度と春は来ないのではないか、
このまま冬が続くのではないか、とこわくなったそうである。
フィギュアスケートは、氷のなかに咲く、春である。
冷たい北風の季節、心を熱くさせて、
今年も、私は、じっと、スケートリンクを、見つめている。
2015年11月20日金曜日
ニューヨークの皇太子さま。
先日、11月17日に、皇太子さまが、ニューヨークに出発された。
ニューヨークの国連本部で、18日に、
「水と災害に関する特別会合」の開会式が行われた。
そこで基調講演をされた。
「水と衛生に関する諮問委員会」の最終会合にも
出席される予定であるという。
日本へは、いつお戻りになるのだろうか。
もう、帰途につかれただろうか。
13日の金曜日には、フランス・パリで、同時多発テロがあり、
その後、ISからは、アメリカへの攻撃の予告も行われた。
もちろん、ワシントンもニューヨークも、
テロのターゲットである。
なにかよからぬ予感がしたニュースであったが、
その後、ソルトレークシティーなどで、
アメリカの航空機が臨時着陸をしている。
もしも、日本の皇太子殿下が、ニューヨーク滞在中に、
テロに遭遇したりすれば、
日本に対するテロ攻撃とみなすこともできて、
日本も非常事態宣言が発令されるような事態となる。
とうとう日本も巻き込まれる、ということなのだ。
しかしこれは、日本としてもアメリカとしても、
戦略的なことで、
初めから予定されていたことなのではないか、と、
私は思う。
皇太子さまのニュース動画→
http://www.news24.jp/articles/2015/11/17/07315094.html
宮内庁の案内→
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/02/gaikoku/h27america/cpv-h27-america.html
ニューヨークの国連本部で、18日に、
「水と災害に関する特別会合」の開会式が行われた。
そこで基調講演をされた。
「水と衛生に関する諮問委員会」の最終会合にも
出席される予定であるという。
日本へは、いつお戻りになるのだろうか。
もう、帰途につかれただろうか。
13日の金曜日には、フランス・パリで、同時多発テロがあり、
その後、ISからは、アメリカへの攻撃の予告も行われた。
もちろん、ワシントンもニューヨークも、
テロのターゲットである。
なにかよからぬ予感がしたニュースであったが、
その後、ソルトレークシティーなどで、
アメリカの航空機が臨時着陸をしている。
もしも、日本の皇太子殿下が、ニューヨーク滞在中に、
テロに遭遇したりすれば、
日本に対するテロ攻撃とみなすこともできて、
日本も非常事態宣言が発令されるような事態となる。
とうとう日本も巻き込まれる、ということなのだ。
しかしこれは、日本としてもアメリカとしても、
戦略的なことで、
初めから予定されていたことなのではないか、と、
私は思う。
皇太子さまのニュース動画→
http://www.news24.jp/articles/2015/11/17/07315094.html
宮内庁の案内→
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/02/gaikoku/h27america/cpv-h27-america.html
2015年11月19日木曜日
NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月19日。
どんな夜にも、朝が来る。
「あさが来た」の題名の意味の深さを、なにか感じさせる、きょうこのごろである。
ヒロインあさは、ようやく炭鉱を運転させることができた。
その名も「加野炭鉱」である。
立派な看板も作ってもらって、机もひとつもらって、
本当に「働く女性」になってきた。
看板も机も、働く女性として仕事が認められたという証で、
あさにとっては、本当にうれしかっただろうと思う。
仕事の一番の報酬は「次の仕事がもらえること」だと、
どこかで聞いたことがある。
まさにこれが、あさにとっての、働く女性としての、入り口となるだろう。
物語は序盤のクライマックスを終え、次の山に入ろうとしている。
ここで、さまざまな伏線が混みあってきて、面白くなってきた。
ひとつは、姉はつとの対比である。
姉のはつは、同じく両替屋に嫁いだのに、その店は倒産してしまう。
そして、今は、小さいながら農業を営んでいる。
子どもがひとりいて、きょう、おなかの中にまたひとり増えた状況である。
一方でヒロインの妹あさは、働く女性であり、子どもはまだいない、という状況である。
女性が仕事をする、という大きなテーマに、真正面から体当たり、という構図である。
NHK朝の連続テレビ小説は、今年2015年前期は「まれ」であった。
「まれ」でも、仕事と家庭を両立させる女性を描いたのだったが、
「まれ」がなんとも素通りしてしまって、あっさりと、家庭と仕事、育児と夢、
両方を実現してしまったのに比べて、
今回の「あさが来た」では、「まれ」がいとも簡単にはしょってしまった、そのもやもやした部分に、堂々と切り込んでいるのである。
姉のはつが、「子育てをする専業主婦」、
対立するあさは、「仕事をするキャリアウーマン」である。
私が、「よく描けている」と思うのは、
専業主婦には専業主婦の悩みや葛藤がある、という点である。
つまり、はつに「私には、子どもを産むことしかできないのかしら?」という、
女性として、人間としての、根本的な疑問を、抱かせているのである。
また、キャリアを持って働く女性である、あさには、
子どもがいない、夫と一緒に仲良く暮らすことができない、
「なんだかすっきりしない」「充足感がない」という気持ちを、言わせているのである。
それが、貧しくても子を持ち、母親になった姉のはつに対しての、
「お姉ちゃんにはかなわない」というセリフである。
片方は、「子どもを産み育てる専業主婦になってもなんだか人生が充実しない」
もう片方は、「仕事をして成功しても、やっぱり人生が充実しない」
その葛藤を、ふたりの姉妹の対照を通して、見事に描いている、と思う。
現代の女性たちが思う、仕事と家庭の葛藤が、
はつとあさの、「子どもか自分か」「家庭か仕事か」
という悩み苦しみに、描かれている。
また、現代でも、「男性のがわの意識変革が必要」と強く言われているが、
今の状況では、あさの夫・新次郎の態度を見ていると、
まさに意識変革を、望んでしまうところである。
あさがこの問題をどのように乗り越えていくのか、
はつがこの悩みをどのように超えていくのか、
とても見どころになってきた、と思うのは、私だけではないと思った。
ところで、このところ、次のクライマックスに向けての、
とても面白い伏線が明らかになってきた。
それは、五代ディーン・フジオカの登場である。
五代氏は、あさの幼少時から、縁のあった男性であった。
この男性が、こともあろうに、すでに結婚している、あさに、
「らぶ」という言葉を使って!言い寄ってきているのである。
朝の連続テレビ小説で、こうして、ヒロインをめぐる、
ふたりの男性が描かれることは、そんなに珍しくはないかもしれない。
しかし、大森美香女史の描き方は、
この、ヒロインをめぐる男二人の対立と、
そのときに揺れるヒロインの心の描き方が、断然ちがうのである。
これは、「不機嫌なジーン」でも、
主要なテーマとして描かれていた。
思えば、向田邦子女史も、こうして、
ヒロインをめぐる、ふたりの男性、
あるいは、三人の関係、というものを、
絶妙で微妙な表現で、描き切っていたと思う。
このあたりも、これから特別に、見どころとなってきた。
時代は移り変わっても、季節は移り変わっても、
また、あさは来る。
明日もあさっても、「あさ」を楽しみに、
きょうもがんばろう!
「あさが来た」の題名の意味の深さを、なにか感じさせる、きょうこのごろである。
ヒロインあさは、ようやく炭鉱を運転させることができた。
その名も「加野炭鉱」である。
立派な看板も作ってもらって、机もひとつもらって、
本当に「働く女性」になってきた。
看板も机も、働く女性として仕事が認められたという証で、
あさにとっては、本当にうれしかっただろうと思う。
仕事の一番の報酬は「次の仕事がもらえること」だと、
どこかで聞いたことがある。
まさにこれが、あさにとっての、働く女性としての、入り口となるだろう。
物語は序盤のクライマックスを終え、次の山に入ろうとしている。
ここで、さまざまな伏線が混みあってきて、面白くなってきた。
ひとつは、姉はつとの対比である。
姉のはつは、同じく両替屋に嫁いだのに、その店は倒産してしまう。
そして、今は、小さいながら農業を営んでいる。
子どもがひとりいて、きょう、おなかの中にまたひとり増えた状況である。
一方でヒロインの妹あさは、働く女性であり、子どもはまだいない、という状況である。
女性が仕事をする、という大きなテーマに、真正面から体当たり、という構図である。
NHK朝の連続テレビ小説は、今年2015年前期は「まれ」であった。
「まれ」でも、仕事と家庭を両立させる女性を描いたのだったが、
「まれ」がなんとも素通りしてしまって、あっさりと、家庭と仕事、育児と夢、
両方を実現してしまったのに比べて、
今回の「あさが来た」では、「まれ」がいとも簡単にはしょってしまった、そのもやもやした部分に、堂々と切り込んでいるのである。
姉のはつが、「子育てをする専業主婦」、
対立するあさは、「仕事をするキャリアウーマン」である。
私が、「よく描けている」と思うのは、
専業主婦には専業主婦の悩みや葛藤がある、という点である。
つまり、はつに「私には、子どもを産むことしかできないのかしら?」という、
女性として、人間としての、根本的な疑問を、抱かせているのである。
また、キャリアを持って働く女性である、あさには、
子どもがいない、夫と一緒に仲良く暮らすことができない、
「なんだかすっきりしない」「充足感がない」という気持ちを、言わせているのである。
それが、貧しくても子を持ち、母親になった姉のはつに対しての、
「お姉ちゃんにはかなわない」というセリフである。
片方は、「子どもを産み育てる専業主婦になってもなんだか人生が充実しない」
もう片方は、「仕事をして成功しても、やっぱり人生が充実しない」
その葛藤を、ふたりの姉妹の対照を通して、見事に描いている、と思う。
現代の女性たちが思う、仕事と家庭の葛藤が、
はつとあさの、「子どもか自分か」「家庭か仕事か」
という悩み苦しみに、描かれている。
また、現代でも、「男性のがわの意識変革が必要」と強く言われているが、
今の状況では、あさの夫・新次郎の態度を見ていると、
まさに意識変革を、望んでしまうところである。
あさがこの問題をどのように乗り越えていくのか、
はつがこの悩みをどのように超えていくのか、
とても見どころになってきた、と思うのは、私だけではないと思った。
ところで、このところ、次のクライマックスに向けての、
とても面白い伏線が明らかになってきた。
それは、五代ディーン・フジオカの登場である。
五代氏は、あさの幼少時から、縁のあった男性であった。
この男性が、こともあろうに、すでに結婚している、あさに、
「らぶ」という言葉を使って!言い寄ってきているのである。
朝の連続テレビ小説で、こうして、ヒロインをめぐる、
ふたりの男性が描かれることは、そんなに珍しくはないかもしれない。
しかし、大森美香女史の描き方は、
この、ヒロインをめぐる男二人の対立と、
そのときに揺れるヒロインの心の描き方が、断然ちがうのである。
これは、「不機嫌なジーン」でも、
主要なテーマとして描かれていた。
思えば、向田邦子女史も、こうして、
ヒロインをめぐる、ふたりの男性、
あるいは、三人の関係、というものを、
絶妙で微妙な表現で、描き切っていたと思う。
このあたりも、これから特別に、見どころとなってきた。
時代は移り変わっても、季節は移り変わっても、
また、あさは来る。
明日もあさっても、「あさ」を楽しみに、
きょうもがんばろう!
2015年11月16日月曜日
NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月16日。
きょうも、「あさが来た」で始まる「あさが来た」! というかんじである。
昨日は、あさの女性経営者としての仕事ぶりに学んだところであった。
きょうは、あさの姉、はつについて、考えてみたいと思う。
あさとはつの姉妹は、ダブルヒロインということで、対照的な女性の姿、生き方を描いているそうだ。
昨今は、このようなダブルヒロインや、姉妹ものが、とてももてはやされているそうである。
流行である、ということは、それだけ女性たちから、興味や関心が持たれている、ということなので、このあたりも学んでいきたいと思う。
私がこのふたりの姉妹について思うのは、さまざまな対照であるが、なかでも、同じように両替屋に嫁いだのに、妹のあさは、時代の変化のなかで、両替屋としてまた商売を営む家として、生き残った、ということである。
そしてもう片方の姉のはつの家は、両替屋はとっくに潰れてしまった。
時代の変化の波に飲み込まれて、生き残れなかった、ということである。
私たち現代人も、今、時代の変化の波のなかにいる。
ふたりの女性の生き方から、「生き残れる女性」「生き残れない女性」という対照を、見ていきたいと思うのである。
生き残った加野屋のあさ、妹であり主役であるが、こちらのほうは、両替の仕事が「あぶないのではないか」ということを、とても早くに察知した。
加野屋としては、大旦那も若旦那もまだまだ、時代の変化に気づくことができず、また、蔵のなかの金貨を数えることも、大福帳を計算しなおすことも、していなかった。
それを行ったのが、嫁に入ったあさである。
あさが大福帳の計算をしていなかったら、時代の先読みをしていなかったら、まちがいなく加野屋も、倒産の憂き目にあっていただろう。
それが生き残ったのだから、嫁であるあさの才覚によるものである。
一方、はつの嫁いだ山王寺屋ではどうであったか。
これは、姑の菊や、その夫であり大旦那である辰巳卓郎、このあたりにすでに、伏線があるようだ。
というのは、婿養子で、菊がこの山王寺屋を仕切っていた、という事情があり、婿養子も息子も、この菊に頭が上がらない状況だった、ということである。
なので、時代の変化のときに、見栄や外聞が先にたって、打つべき手を打てなかった、という点が大きい。
そこへ嫁入りしたのが、当時の女性としての身だしなみを身に着けた、はつであった。
お琴にお花、お裁縫である。
この、はつは、山王寺屋の商売、仕事にまったく口出しをしなかった。
あさとは対照的である。
もしも、山王寺屋に入ったのが、あさであったなら、山王寺屋は生き残った可能性が高い。
女性の才覚、仕事に関する「口出し」というよりは、女性らしい時代への敏感な感性、そういったものが、はつにはないのである。
また、はつは、当時の女性の生き方振舞い方として教えられていたとおりであるだろうが、外の世界に出ようとしなかった。
外の世界や、あるいは社会のなかで何が起こっているのか、まったく興味を持たないのである。
社会のなかに生きていながら、社会の動静にまったく興味を持たない女性が、現代の世の中にも多数存在するが、はつはそのような女性であった。
また、夜逃げをして、夫が失踪して、その後、夫の惣兵衛が戻ってくるのであるが、「よい仕事人でなくてもいいから、よいお父さんになってください」と言う。
これは、男性陣から見たら、問題発言である。
女性は、良い家庭を築きたいと願う。
そうした意味から、夫にはよい夫、よい父親であってほしいと願うものである。
だから、女性の目から見たら、これはごくごく自然な発言で、こうした発言をする女性は、よくいる。
しかし、男性は、仕事で成功したいものではないだろうか。
家庭を守れるだけの稼ぎがあればいい、というのは、妻が夫に言うにしては、残酷な言葉でもある。
男性は、なかなか父親にはなりきれないものだ、という。
これは心理的なものであるだろう。
しかし、父親である以前に、「男として」生きたいのではないだろうか。
「男として」妻から褒められたいのではないだろうか。
はつの妻のしての言動は、夫の可能性を封じ込めるものであり、夫の男らしさを認めていないものなのである。
こうした妻をもって、惣兵衛が男として成功できるかというと、これはむずかしい。
妻のはつも、母親の菊も、まったく同じ、うちに内にと閉じこもるタイプで、男性を抑圧するタイプなのである。
しかし、こうした惣兵衛の姿に、自分自身を重ねるのだろうか、惣兵衛ファンがとても多い、ということである。
女性たちは怖れをもって、この「惣兵衛ファン」の増加を見守るしかない。
昨日は、あさの女性経営者としての仕事ぶりに学んだところであった。
きょうは、あさの姉、はつについて、考えてみたいと思う。
あさとはつの姉妹は、ダブルヒロインということで、対照的な女性の姿、生き方を描いているそうだ。
昨今は、このようなダブルヒロインや、姉妹ものが、とてももてはやされているそうである。
流行である、ということは、それだけ女性たちから、興味や関心が持たれている、ということなので、このあたりも学んでいきたいと思う。
私がこのふたりの姉妹について思うのは、さまざまな対照であるが、なかでも、同じように両替屋に嫁いだのに、妹のあさは、時代の変化のなかで、両替屋としてまた商売を営む家として、生き残った、ということである。
そしてもう片方の姉のはつの家は、両替屋はとっくに潰れてしまった。
時代の変化の波に飲み込まれて、生き残れなかった、ということである。
私たち現代人も、今、時代の変化の波のなかにいる。
ふたりの女性の生き方から、「生き残れる女性」「生き残れない女性」という対照を、見ていきたいと思うのである。
生き残った加野屋のあさ、妹であり主役であるが、こちらのほうは、両替の仕事が「あぶないのではないか」ということを、とても早くに察知した。
加野屋としては、大旦那も若旦那もまだまだ、時代の変化に気づくことができず、また、蔵のなかの金貨を数えることも、大福帳を計算しなおすことも、していなかった。
それを行ったのが、嫁に入ったあさである。
あさが大福帳の計算をしていなかったら、時代の先読みをしていなかったら、まちがいなく加野屋も、倒産の憂き目にあっていただろう。
それが生き残ったのだから、嫁であるあさの才覚によるものである。
一方、はつの嫁いだ山王寺屋ではどうであったか。
これは、姑の菊や、その夫であり大旦那である辰巳卓郎、このあたりにすでに、伏線があるようだ。
というのは、婿養子で、菊がこの山王寺屋を仕切っていた、という事情があり、婿養子も息子も、この菊に頭が上がらない状況だった、ということである。
なので、時代の変化のときに、見栄や外聞が先にたって、打つべき手を打てなかった、という点が大きい。
そこへ嫁入りしたのが、当時の女性としての身だしなみを身に着けた、はつであった。
お琴にお花、お裁縫である。
この、はつは、山王寺屋の商売、仕事にまったく口出しをしなかった。
あさとは対照的である。
もしも、山王寺屋に入ったのが、あさであったなら、山王寺屋は生き残った可能性が高い。
女性の才覚、仕事に関する「口出し」というよりは、女性らしい時代への敏感な感性、そういったものが、はつにはないのである。
また、はつは、当時の女性の生き方振舞い方として教えられていたとおりであるだろうが、外の世界に出ようとしなかった。
外の世界や、あるいは社会のなかで何が起こっているのか、まったく興味を持たないのである。
社会のなかに生きていながら、社会の動静にまったく興味を持たない女性が、現代の世の中にも多数存在するが、はつはそのような女性であった。
また、夜逃げをして、夫が失踪して、その後、夫の惣兵衛が戻ってくるのであるが、「よい仕事人でなくてもいいから、よいお父さんになってください」と言う。
これは、男性陣から見たら、問題発言である。
女性は、良い家庭を築きたいと願う。
そうした意味から、夫にはよい夫、よい父親であってほしいと願うものである。
だから、女性の目から見たら、これはごくごく自然な発言で、こうした発言をする女性は、よくいる。
しかし、男性は、仕事で成功したいものではないだろうか。
家庭を守れるだけの稼ぎがあればいい、というのは、妻が夫に言うにしては、残酷な言葉でもある。
男性は、なかなか父親にはなりきれないものだ、という。
これは心理的なものであるだろう。
しかし、父親である以前に、「男として」生きたいのではないだろうか。
「男として」妻から褒められたいのではないだろうか。
はつの妻のしての言動は、夫の可能性を封じ込めるものであり、夫の男らしさを認めていないものなのである。
こうした妻をもって、惣兵衛が男として成功できるかというと、これはむずかしい。
妻のはつも、母親の菊も、まったく同じ、うちに内にと閉じこもるタイプで、男性を抑圧するタイプなのである。
しかし、こうした惣兵衛の姿に、自分自身を重ねるのだろうか、惣兵衛ファンがとても多い、ということである。
女性たちは怖れをもって、この「惣兵衛ファン」の増加を見守るしかない。
2015年11月15日日曜日
NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月15日。
11月もなかばとなり、秋から始まった朝の連続テレビ小説「あさが来た」は、快走を続けている。
私は、このドラマから、さまざまな視点で、女性の生き方や、時代背景を学びたい、と思っている。
そのなかでも、大きなテーマとして、働く女性の悩みとその解決を、見つけたい、と思っている。
今週は、女性経営者にとって、女性管理職にとって、まったく頭の痛い問題である、「男性の部下をどのようにして働いてもらうか」「指示を聞いてもらうか」というテーマで、興味津々であった。
また、ヒロインとしても、炭鉱夫を相手に啖呵をきって、女性経営者として、しっかりと責任を果たした話題の場面であるから、とても楽しみにしていた。
一週間、見終わった。
ドラマのストーリーとしては、あれだけ反抗していた炭鉱夫たちが、おとなしくなって、あさは信頼を勝ち得ることができて、そして仕事を始めたのであるから、これは成功である。
しかし、やはりどこか見ていて、つじつまが合わないというか、「本当にこれで、彼ら炭鉱夫たちが納得したのか?」「あさのどのあたりの言動に、炭鉱夫たちが信頼をしたのか?」という点では、はてなマークがいくつも付くところであった。
とにかく、あさは、なんでもした、と思う。
女性経営者として、「私のほうが立場が上です」という尊大な態度もとってみた。
あるいは、丁寧に「石炭を掘る」という意味を、蒸気機関の働きまで説明して、誇りをもってもらった。
あるいは、頭を下げた。
あるいは、大阪から夫に来てもらった。
あるいは、相撲を取って勝った。
あるいは、仕事の内容を深く理解したいと思って、実際に炭鉱に入ってもみた。
ドラマのなかで、決め手として取り扱われていたのは、ピストルの暴発であるように思う。
それらのたくさん工夫したうちの、「どれかひとつ」が、きっと、炭鉱夫の心をつかんだのだろう、と思う。
でももしかすると、これだけたくさんいろいろなことをしたから、ようやく働いてもらえた、ということなのかもしれない。
どうなのだろう?
印象的な言葉、これは、夫の新次郎からも言われたし、祖父の林与一からも言われていることであるが、「女性のやわらかい力」は、いったいどこにあったのだろうか。
やはり、史実としても、ドラマとしても、炭鉱夫を動かした決め手は、ピストルという武器のようである。
それが、「おなごのやわらかい力」なのだろうか?
おりしも、フランスでは、武器の力には、武器の力で対抗する、というテロリズムが行われているところである。
私は、今週のドラマには、少なくとも「女性らしい柔らかい力」は、意味不明のまま未消化に終わったと思った。
これは、これからの課題として、残されていると思う。
私が、女性管理職として、男性の部下に働いてもらうために、これが大事だ、と思うことをここでまとめてみようと思う。
あさが工夫したさまざまな事柄のなかに、たくさんのヒントが隠されている。
たとえば、実力は男性並みか、それ以上であること。
これは、働く女性が管理職で仕事をしていく上で、もっとも大事なことである。
男性にひけをとらないくらい、男性であろうと女性であろうと、仕事の実力は同等かそれ以上であることである。
次に、彼ら命をかけて働く男たちに、命をかけるほどの「価値」「意味」「大義」を伝えることである。
男の人たちは、何か大きなことのために、命を張りたいものだと思うのだ。
あさは、明治の時代を開く大きな意味を、この石炭事業に見出した。
炭鉱で働く男たちには、蒸気機関車や、開けていく東京の様子などは目に見えない。
時代の変化も、時代が朝を迎えていることも、まだわからない。
しかし、「わたしたちが、あなたがたが、新しい日本の国づくりをしていくのです」と言ったときに、男たちの胸に火が灯ったのではないだろうか。
大事なのは、仕事に誇りを持つことである。
命をかける価値のある仕事を見出した時、男性たちは、力いっぱい、自分たちの自主的な自発能動で、動き始めたように思う。
私は、こうした男性たちの、意欲を引き出す力が、あさにはあった、と思ったのである。
これからも、働く女性にはがんばってほしい。
私も、「あさが来た」から学んで、一生懸命、自分の道を生きていきたいと思う。
私は、このドラマから、さまざまな視点で、女性の生き方や、時代背景を学びたい、と思っている。
そのなかでも、大きなテーマとして、働く女性の悩みとその解決を、見つけたい、と思っている。
今週は、女性経営者にとって、女性管理職にとって、まったく頭の痛い問題である、「男性の部下をどのようにして働いてもらうか」「指示を聞いてもらうか」というテーマで、興味津々であった。
また、ヒロインとしても、炭鉱夫を相手に啖呵をきって、女性経営者として、しっかりと責任を果たした話題の場面であるから、とても楽しみにしていた。
一週間、見終わった。
ドラマのストーリーとしては、あれだけ反抗していた炭鉱夫たちが、おとなしくなって、あさは信頼を勝ち得ることができて、そして仕事を始めたのであるから、これは成功である。
しかし、やはりどこか見ていて、つじつまが合わないというか、「本当にこれで、彼ら炭鉱夫たちが納得したのか?」「あさのどのあたりの言動に、炭鉱夫たちが信頼をしたのか?」という点では、はてなマークがいくつも付くところであった。
とにかく、あさは、なんでもした、と思う。
女性経営者として、「私のほうが立場が上です」という尊大な態度もとってみた。
あるいは、丁寧に「石炭を掘る」という意味を、蒸気機関の働きまで説明して、誇りをもってもらった。
あるいは、頭を下げた。
あるいは、大阪から夫に来てもらった。
あるいは、相撲を取って勝った。
あるいは、仕事の内容を深く理解したいと思って、実際に炭鉱に入ってもみた。
ドラマのなかで、決め手として取り扱われていたのは、ピストルの暴発であるように思う。
それらのたくさん工夫したうちの、「どれかひとつ」が、きっと、炭鉱夫の心をつかんだのだろう、と思う。
でももしかすると、これだけたくさんいろいろなことをしたから、ようやく働いてもらえた、ということなのかもしれない。
どうなのだろう?
印象的な言葉、これは、夫の新次郎からも言われたし、祖父の林与一からも言われていることであるが、「女性のやわらかい力」は、いったいどこにあったのだろうか。
やはり、史実としても、ドラマとしても、炭鉱夫を動かした決め手は、ピストルという武器のようである。
それが、「おなごのやわらかい力」なのだろうか?
おりしも、フランスでは、武器の力には、武器の力で対抗する、というテロリズムが行われているところである。
私は、今週のドラマには、少なくとも「女性らしい柔らかい力」は、意味不明のまま未消化に終わったと思った。
これは、これからの課題として、残されていると思う。
私が、女性管理職として、男性の部下に働いてもらうために、これが大事だ、と思うことをここでまとめてみようと思う。
あさが工夫したさまざまな事柄のなかに、たくさんのヒントが隠されている。
たとえば、実力は男性並みか、それ以上であること。
これは、働く女性が管理職で仕事をしていく上で、もっとも大事なことである。
男性にひけをとらないくらい、男性であろうと女性であろうと、仕事の実力は同等かそれ以上であることである。
次に、彼ら命をかけて働く男たちに、命をかけるほどの「価値」「意味」「大義」を伝えることである。
男の人たちは、何か大きなことのために、命を張りたいものだと思うのだ。
あさは、明治の時代を開く大きな意味を、この石炭事業に見出した。
炭鉱で働く男たちには、蒸気機関車や、開けていく東京の様子などは目に見えない。
時代の変化も、時代が朝を迎えていることも、まだわからない。
しかし、「わたしたちが、あなたがたが、新しい日本の国づくりをしていくのです」と言ったときに、男たちの胸に火が灯ったのではないだろうか。
大事なのは、仕事に誇りを持つことである。
命をかける価値のある仕事を見出した時、男性たちは、力いっぱい、自分たちの自主的な自発能動で、動き始めたように思う。
私は、こうした男性たちの、意欲を引き出す力が、あさにはあった、と思ったのである。
これからも、働く女性にはがんばってほしい。
私も、「あさが来た」から学んで、一生懸命、自分の道を生きていきたいと思う。
2015年11月13日金曜日
これから先、10年後の日本を考える。
ここ数年、特に震災後、日本国内も、国際情勢も、
変化、変化の毎日である。
今起こっていること、これから起こるであろうこと、
その変化の激しさに、不安や恐怖を感じている人々も、
たくさんいると思う。
私自身もその一人である。
それで、これからの「人生対策」「生活対策」として、
10年後の日本、というテーマでいろいろと、
個人的に考えている。
10年後に残っているもの、変わっていないものは、
いったいどれくらいだろうか?
どんなものが生き残っているだろうか?
10年後に変わっているもの、なくなっているものは、
どんなもので、どんなふうに変わっているだろうか?
10年後に、確実に絶対に変わっている、とは言い切れないけれども、
変わっている可能性のあるもの、というと、
どんなものだろうか?
私なりに、思いつくままにメモをしてみたので、
そのリストを、ここにアップしてみようと思う。
☆ 10年後に変わっている可能性のあるもの
政府
学校制度 (教育制度)
病院 (先進医療 TPP)
通貨 (仮想通貨)
新聞 (デジタル化)
雑誌 書籍 (電子化)
寺院 (宗教 数)
お店 (なくなっている?)
パソコン (インターネット)
スマホ (もっと進化する)
宇宙旅行 (可能になる?)
交通 (リニアモーターカー、新幹線)
自動運転車
海外旅行
国際情勢 (勢力分布図)
TPP (食品やあらゆる文化)
農業
テレビ (なくなっている?)
結婚制度
苗字制度
東京駅
渋谷駅
山手線
税制
ざっとこんなところである。
そうすると、「変わらないもの」というと、
衣食住、といった、人間の基本的な生活に関することぐらい、
と思えてくる。
家族や愛情、といったものは変わらないかというと、
やはり変化がやむを得ないというところだ。
これらの変化は、震災後、ここ数年で出来た法律と、
深く関わっている。
率直に言って、現政権の安倍総理大臣になってから、
次々に作られた法律に基づいて、これらの変化が起こっている、
ということになるだろう。
新しい法律を施行するために、2~3年から十数年かけて、
現実化していくものもある。
すでに決まってしまった法律の現実化である。
10年後の日本は、とても変わった国になっている。
これは、誰が予測して、誰が予定した国なのか。
それは、安倍総理大臣である。
私たちは、10年後には、安倍総理大臣が理想と掲げた、
「美しい国」に暮らしていることになる。
そして、これから10年間は、
安倍総理大臣の理想の実現のために、
毎日毎日、一生懸命働いていくことになる。
私は思う。
みんなが理想として掲げた国づくりなら、問題ない。
しかし、一個人が理想にした「美しい国」というのは、どうなのか。
いつの間にか、総理一個人の理想を、一国全体で実現する羽目になってしまった。
私は、自分自身の理想を実現するために、生きて働いていきたいと思う。
本当にみんなは、こうして安倍総理大臣の掲げた理想のために、
これから働いていく気持ちがあるだろうか?
私は、NO!と言いたい。
変化、変化の毎日である。
今起こっていること、これから起こるであろうこと、
その変化の激しさに、不安や恐怖を感じている人々も、
たくさんいると思う。
私自身もその一人である。
それで、これからの「人生対策」「生活対策」として、
10年後の日本、というテーマでいろいろと、
個人的に考えている。
10年後に残っているもの、変わっていないものは、
いったいどれくらいだろうか?
どんなものが生き残っているだろうか?
10年後に変わっているもの、なくなっているものは、
どんなもので、どんなふうに変わっているだろうか?
10年後に、確実に絶対に変わっている、とは言い切れないけれども、
変わっている可能性のあるもの、というと、
どんなものだろうか?
私なりに、思いつくままにメモをしてみたので、
そのリストを、ここにアップしてみようと思う。
☆ 10年後に変わっている可能性のあるもの
政府
学校制度 (教育制度)
病院 (先進医療 TPP)
通貨 (仮想通貨)
新聞 (デジタル化)
雑誌 書籍 (電子化)
寺院 (宗教 数)
お店 (なくなっている?)
パソコン (インターネット)
スマホ (もっと進化する)
宇宙旅行 (可能になる?)
交通 (リニアモーターカー、新幹線)
自動運転車
海外旅行
国際情勢 (勢力分布図)
TPP (食品やあらゆる文化)
農業
テレビ (なくなっている?)
結婚制度
苗字制度
東京駅
渋谷駅
山手線
税制
ざっとこんなところである。
そうすると、「変わらないもの」というと、
衣食住、といった、人間の基本的な生活に関することぐらい、
と思えてくる。
家族や愛情、といったものは変わらないかというと、
やはり変化がやむを得ないというところだ。
これらの変化は、震災後、ここ数年で出来た法律と、
深く関わっている。
率直に言って、現政権の安倍総理大臣になってから、
次々に作られた法律に基づいて、これらの変化が起こっている、
ということになるだろう。
新しい法律を施行するために、2~3年から十数年かけて、
現実化していくものもある。
すでに決まってしまった法律の現実化である。
10年後の日本は、とても変わった国になっている。
これは、誰が予測して、誰が予定した国なのか。
それは、安倍総理大臣である。
私たちは、10年後には、安倍総理大臣が理想と掲げた、
「美しい国」に暮らしていることになる。
そして、これから10年間は、
安倍総理大臣の理想の実現のために、
毎日毎日、一生懸命働いていくことになる。
私は思う。
みんなが理想として掲げた国づくりなら、問題ない。
しかし、一個人が理想にした「美しい国」というのは、どうなのか。
いつの間にか、総理一個人の理想を、一国全体で実現する羽目になってしまった。
私は、自分自身の理想を実現するために、生きて働いていきたいと思う。
本当にみんなは、こうして安倍総理大臣の掲げた理想のために、
これから働いていく気持ちがあるだろうか?
私は、NO!と言いたい。
2015年11月11日水曜日
NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月11日。
NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」が、好調である。
視聴率もグングンアップしている、と毎日、インターネットニュースで、
話題になっている。
誰が見ても、無条件で楽しい、というテレビドラマは、
毎日の生活に、朝の光を照らしてくれるみたいで、
本当に元気がでる。
「あさが来た」は、今、物語序盤のクライマックスに入っている。
それは、前評判でも有名なシーンが近づいている、ということである。
きょうの放送でもすでに、あさが、炭鉱の男たちを前に、
啖呵を切るシーンがあった。
本当にかっこよかった。
炭鉱と言えば、私も北海道にいたので、
夕張の炭鉱のことを思い出す。
夕張の炭鉱はすでに閉山してしまったが、
「石炭の歴史村」は行ったことがあって、
炭鉱の模型があったりして、当時の状況を知ったりすることができた。
また、映画「幸福の黄色いハンカチ」でも、
主人公の高倉健が、炭鉱夫で、とても男らしくてかっこよかった。
きょうのテレビドラマでも、炭鉱に入るときには、
ガス探知のための、小鳥のかごを持って入っていて、
とてもリアリティがある。
炭鉱の仕事は、まさに命がけである。
あさの加野屋が、新しくこの山を買い取ったのに、
肝心の炭鉱夫たちが、まったく仕事をしないで、
困っているのが、現状である。
いったい、あさは女性経営者として、
どのように「部下」に働いてもらうのだろう。
ここが今週の見どころであるように思う。
これから女性管理職もたくさん増えてくるだろう。
そうしたときに、男の人たちというのは、
多かれ少なかれ、炭鉱夫のような性分を持っているわけであるから、
どうしたら、「真面目に」「きちんと」「自主的に」
働いてもらえるのかどうか、
ここは、しっかりとテレビドラマから学びたいところである。
今週はこのあたりをしっかりと描いてほしいところである。
私なりに思うところがあるけれども、それは、テレビドラマで、
ストーリーが進んでから、私なりの感想を書いてみたい、と思う。
あさのもとで、彼らゴロツキが、
どんなにおとなしくなるものなのか、ここは見どころである。
(本当に、おとなしくなる、ということなのだろうか?)
ところで、あさの姉「はつ」である。
今、「姉妹」というのは、とても話題性のあるテーマになっている。
昨年のディズニーアニメ「アナと雪の女王」あたりから、
流行があるのだろうか。
女性たちにとっては、ふたつの異なる個性、
その対立と融和というのは、大きなテーマである。
「あさが来た」でも、姉のはつと、妹のあさの、
ふたりの性格と人生が、対照的に描かれていて、
とても興味深い。
「はつ」は、姉妹の長女という役割である。
そのためか、「しっかりもので、芯の強い」と描きたいようだ。
しかしこのごろの、はつ、には、
女の弱さ、というものがありありと見てとれるように思う。
というのは、はつは、ひとりでなんでも頑張るタイプで、
周囲からの手助けに対して、非常に拒絶的であるからである。
世の中にこういう女性は「いるいる」というかんじである。
何に関しても、人の手助けを受けることが嫌いな強情ッパリで、
外面はよいが、内面は弱々しくてボロボロである。
それに比べると、姑や舅、夫や番頭さんの手助けを、
快く受け取る妹のあさは、
周りから見ていて、何かと安心である。
周りの人を心配させない、というのは、
女性としてのたしなみであり、礼儀であり、常識である、
と私は思う。
そういう点で、皆に心配をかけながら、
本当は誰が見ても全然大丈夫じゃないのに、
大丈夫、大丈夫、と虚勢を張る、はつは、
周りから見て、迷惑を広げる存在であるかもしれない。
これからも、はつ、とあさ、のふたりの対照を、
女性の生き方や振舞い方の手本として、反面教師として、
一生懸命、学んでいきたい、と思っている。
「あさが来た」毎朝、楽しみに観ています!!!
視聴率もグングンアップしている、と毎日、インターネットニュースで、
話題になっている。
誰が見ても、無条件で楽しい、というテレビドラマは、
毎日の生活に、朝の光を照らしてくれるみたいで、
本当に元気がでる。
「あさが来た」は、今、物語序盤のクライマックスに入っている。
それは、前評判でも有名なシーンが近づいている、ということである。
きょうの放送でもすでに、あさが、炭鉱の男たちを前に、
啖呵を切るシーンがあった。
本当にかっこよかった。
炭鉱と言えば、私も北海道にいたので、
夕張の炭鉱のことを思い出す。
夕張の炭鉱はすでに閉山してしまったが、
「石炭の歴史村」は行ったことがあって、
炭鉱の模型があったりして、当時の状況を知ったりすることができた。
また、映画「幸福の黄色いハンカチ」でも、
主人公の高倉健が、炭鉱夫で、とても男らしくてかっこよかった。
きょうのテレビドラマでも、炭鉱に入るときには、
ガス探知のための、小鳥のかごを持って入っていて、
とてもリアリティがある。
炭鉱の仕事は、まさに命がけである。
あさの加野屋が、新しくこの山を買い取ったのに、
肝心の炭鉱夫たちが、まったく仕事をしないで、
困っているのが、現状である。
いったい、あさは女性経営者として、
どのように「部下」に働いてもらうのだろう。
ここが今週の見どころであるように思う。
これから女性管理職もたくさん増えてくるだろう。
そうしたときに、男の人たちというのは、
多かれ少なかれ、炭鉱夫のような性分を持っているわけであるから、
どうしたら、「真面目に」「きちんと」「自主的に」
働いてもらえるのかどうか、
ここは、しっかりとテレビドラマから学びたいところである。
今週はこのあたりをしっかりと描いてほしいところである。
私なりに思うところがあるけれども、それは、テレビドラマで、
ストーリーが進んでから、私なりの感想を書いてみたい、と思う。
あさのもとで、彼らゴロツキが、
どんなにおとなしくなるものなのか、ここは見どころである。
(本当に、おとなしくなる、ということなのだろうか?)
ところで、あさの姉「はつ」である。
今、「姉妹」というのは、とても話題性のあるテーマになっている。
昨年のディズニーアニメ「アナと雪の女王」あたりから、
流行があるのだろうか。
女性たちにとっては、ふたつの異なる個性、
その対立と融和というのは、大きなテーマである。
「あさが来た」でも、姉のはつと、妹のあさの、
ふたりの性格と人生が、対照的に描かれていて、
とても興味深い。
「はつ」は、姉妹の長女という役割である。
そのためか、「しっかりもので、芯の強い」と描きたいようだ。
しかしこのごろの、はつ、には、
女の弱さ、というものがありありと見てとれるように思う。
というのは、はつは、ひとりでなんでも頑張るタイプで、
周囲からの手助けに対して、非常に拒絶的であるからである。
世の中にこういう女性は「いるいる」というかんじである。
何に関しても、人の手助けを受けることが嫌いな強情ッパリで、
外面はよいが、内面は弱々しくてボロボロである。
それに比べると、姑や舅、夫や番頭さんの手助けを、
快く受け取る妹のあさは、
周りから見ていて、何かと安心である。
周りの人を心配させない、というのは、
女性としてのたしなみであり、礼儀であり、常識である、
と私は思う。
そういう点で、皆に心配をかけながら、
本当は誰が見ても全然大丈夫じゃないのに、
大丈夫、大丈夫、と虚勢を張る、はつは、
周りから見て、迷惑を広げる存在であるかもしれない。
これからも、はつ、とあさ、のふたりの対照を、
女性の生き方や振舞い方の手本として、反面教師として、
一生懸命、学んでいきたい、と思っている。
「あさが来た」毎朝、楽しみに観ています!!!
2015年11月7日土曜日
浅田真央さん。「素敵なあなた」
冬が始まった。
フィギュアスケートのシーズンである。
私は、フィギュアスケートが大好きで、
だから冬のシーズンが大好き、といってもいいくらいである。
今年の冬は、「あの」浅田真央さんが、
一年間の休養ののちに、姿を現した。
きのうのショートプログラムでは、ジャズの名曲「素敵なあなた」を、
熱演された。
本当に素晴らしかった。
一年間の休養が、浅田さんにとてもよい「豊かさ」と「余裕」を与えてくれたように思った。
今夜は、グランプリシリーズ中国杯で、フリーの演技が披露される。
とても楽しみである。
フリーの曲目は「蝶々夫人」である。
「蝶々夫人」は、日本人女性の純粋な愛情を描いた物語である。
作曲家のプッチーニは、こうしたアジアティックな名オペラを、
数多く残した作家である。
その代表作がこの「蝶々夫人」である。
私たち現代の日本人女性が、この物語に触れるとき、
それは、とても悲しく、時には「悔しく」思える愛の形を見る。
それは、戦後間もないころである。
舞台は、日本の長崎である。
日本という「現地」で恋愛をし、
「かりそめの」愛を誓って、結婚式を挙げた。
そして、日本での海軍の任期が終わると、
恋愛もそこで終わらせて、
さっさとアメリカに帰ってしまうのである。
そして、日本での愛も妻もなかったことのようにして、
アメリカで新しい、アメリカ人の妻をめとり、
人生を送っていく。
蝶々夫人は、そうした、戦争のあとに起こった、
「現地妻」の、状況を描いたものである。
決して帰ってこないつもりで、いつわりの愛を誓う夫、
その結婚を心配する日本の人々、
しかしここでとても大事なのは、
信じる気持ちと、純粋な愛情を持つ、蝶々夫人の、
希望を持つ愛情なのである。
プッチーニが描きたかったのは、
若い女性の持つ、純粋な愛情である。
アメリカへ行ってしまう、(本当は帰ってしまうのだが)夫が、
「きっと必ず私のところに帰ってきてくれる」
「そして迎えに来てくれる」と、信じて、
再会のときを夢に見るのが、この曲、「ある晴れた日に」
である。
私たち、日本の女性が、このオペラを思うと、
本当は悲しい。
本当はつらい。
でも、プッチーニが日本女性のなかに見たのは、
悲しみのなかで、生き生きと夢見る、
純粋な乙女の恋心なのである。
今夜も、必ず見ています。
浅田さん、フリーがんばってくださいね。
応援しています!
2015年11月5日木曜日
NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月5日。
朝の連続テレビ小説「あさが来た」の視聴率が、
とても上がっているそうである。
朝ドラ初の時代劇に、AKB48の爽やかな歌声、
こうしたところで、新しい視聴者層をつかんだのかもしれない。
ところで、今週に入ってから気になっていた、
「愛と仕事の両立」である。
働く現代女性にも通じるこの「家庭と仕事の両立」
というテーマを、大森美香女史が、どのように描いてくれるのか、
私たち働く女性に、どのようなメッセージとアドバイスをくれるのか、
とても楽しみにしていた。
しかし、たくさんの女性視聴者にとってそうであるように、
「これはどうなのかな?」と、考えさせられる、
問題提起、という形になっていると、私は思う。
私が疑問に思ったのは、
ひとつは、「あさ」の悩み方である。
夫からの愛情を得たい、という気持ちが、
そのまま子どもがほしい、という気持ち、
女性として見られたい、という悩みに直結してしまっている。
でも、男性にとって、「愛」とか、
「女性を愛する」とかいうことは、
性的な欲求を抱くこととイコールなのだろうか?
女性は、男性からの「愛」を、
性的な行動とカンチガイしやすいのではないか、と思う。
あさの夫・新次郎は、お家のこと、仕事のこと、
特に新しい仕事のことでとても悩んでいるけれども、
その状態で、あさに対しては、やはり内心、
感謝の気持ちでいると思う。
そうした、「お家とりつぶし」も近いかもしれない状況のときに、
性的な気持ちになれないのは、
まっとうな男性として当たり前で理性的だともいえるかもしれない。
人間として、しっかりしているのではないか、と思う。
ところで、大森美香女史の、対照的な女性、
このドラマでは、姉妹であるが、
この描き方には、まだまだ不足があるように思う。
というのは、お家取りつぶしになった山王寺家が、
ああいった状況で暮らすことになって、
その家や、家族の、心の状態を、
しっかりと描いていないからである。
お家がなくなって、生活の質が極端に落ちたところに、
笑顔があるはずがない。
こうした状態の描き方には、
現代のリストラ家族や、倒産家族にも共通するところがあるので、
しっかりした人間観察がほしいところである。
荒んだ心や、荒んだ表情、荒んだ言葉のやりとり、
こうしたものが、まったく描けていない。
また、貧困家庭で、妊娠という事象が起こると、
「やだ、できちゃったわ」というのが、本音ではないだろうか。
少子化問題に何か問題提起したいのかもしれないが、
子どもが生まれてくるということは、
母親にとっても家族にとっても、
「おめでたい」では済まないものが、たくさんあるはずだ。
そうした複雑な心情や状況が、まったく描けていないと思う。
また、当時は、貧しい家では、子どもの「間引き」が、
当然のように行われていた。
「あさ」と、「はつ」の家の事情の描き方に、
ドラマ作りをする人たちの、
もう一歩、人間観察、社会観察を、
期待したいと思う。
2015年11月2日月曜日
NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」感想。11月2日。
NHK朝の連続テレビ小説「あさが来た」は、
朝ドラ初の時代劇にトライ、ということで、
たくさんの視聴者から、とても好評のようである。
私も、毎朝とても楽しみに観ている。
「あさが来た」は、ヒロインが女性実業家、
ということで、女性が働くということ、
女性が活躍する、ということが、
大きなテーマとなっているように思う。
時代背景もあり、明治維新のころ、
夫とともに、お家とともに、
時代を駆け抜けた女性、ということになるだろうか。
私はここで、もうひとつのテーマを追いかけてみたい、と思った。
それは、女性脚本家の持つ、固有のテーマである。
「あさが来た」の脚本家である大森美香女史のテーマはなんだろう?
私は、向田邦子賞も受賞した、フジテレビのドラマ「不機嫌なジーン」
にも共通するテーマを観た気がした。
それは、「男性の浮気」である。
「不機嫌なジーン」でも、
ヒロインが、研究や仕事に夢中になっていると、
パートナーであり恋人でもある男性が、
浮気をしてしまうのである。
「不機嫌なジーン」では、男性が浮気をすることを、
遺伝子のせいにしていて、
「男は浮気をする生き物である」
というようなことを、表現していた。
明るくて闊達で、仕事に夢中になっている女の子が、
恋人に浮気をされるのは、とても痛いことである。
それが、ヒロインのちょっとした劣等感になっていて、
「色っぽい女性にはかなわない」
「私には色気がない」と、意気消沈してしまうのである。
今回の、「あさが来た」でも、
元気で仕事の能力のあるヒロインの、夫が、
どうにも「色っぽい」女性と、浮気をしそうなところである。
また、姉の「はつ」も、しんみりとした色気があり、
そちらのほうが「しあわせ?」と問いかけたいような、
ストーリー展開になってきた。
しかし、NHKの朝の連続テレビ小説で、
朝から国民の皆さまの前で、
「男は浮気をする生き物である」と、
テーマを打ち出すのは、どうなのだろう?
NHKの朝ドラとして、ヒロインが、
「男性の浮気」というテーマを、
どのように風に乗り、ふわりと乗り越えるのか、
ここからが見どころである。
また、働く女性にとって、
家庭と仕事の両立とは、
愛と仕事の両立であり、
仕事に打ち込めばダンナの愛が逃げていく、
という大テーマになってきたので、
ここはNHKから、大いに学びたいところである。
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