どんな夜にも、朝が来る。
「あさが来た」の題名の意味の深さを、なにか感じさせる、きょうこのごろである。
ヒロインあさは、ようやく炭鉱を運転させることができた。
その名も「加野炭鉱」である。
立派な看板も作ってもらって、机もひとつもらって、
本当に「働く女性」になってきた。
看板も机も、働く女性として仕事が認められたという証で、
あさにとっては、本当にうれしかっただろうと思う。
仕事の一番の報酬は「次の仕事がもらえること」だと、
どこかで聞いたことがある。
まさにこれが、あさにとっての、働く女性としての、入り口となるだろう。
物語は序盤のクライマックスを終え、次の山に入ろうとしている。
ここで、さまざまな伏線が混みあってきて、面白くなってきた。
ひとつは、姉はつとの対比である。
姉のはつは、同じく両替屋に嫁いだのに、その店は倒産してしまう。
そして、今は、小さいながら農業を営んでいる。
子どもがひとりいて、きょう、おなかの中にまたひとり増えた状況である。
一方でヒロインの妹あさは、働く女性であり、子どもはまだいない、という状況である。
女性が仕事をする、という大きなテーマに、真正面から体当たり、という構図である。
NHK朝の連続テレビ小説は、今年2015年前期は「まれ」であった。
「まれ」でも、仕事と家庭を両立させる女性を描いたのだったが、
「まれ」がなんとも素通りしてしまって、あっさりと、家庭と仕事、育児と夢、
両方を実現してしまったのに比べて、
今回の「あさが来た」では、「まれ」がいとも簡単にはしょってしまった、そのもやもやした部分に、堂々と切り込んでいるのである。
姉のはつが、「子育てをする専業主婦」、
対立するあさは、「仕事をするキャリアウーマン」である。
私が、「よく描けている」と思うのは、
専業主婦には専業主婦の悩みや葛藤がある、という点である。
つまり、はつに「私には、子どもを産むことしかできないのかしら?」という、
女性として、人間としての、根本的な疑問を、抱かせているのである。
また、キャリアを持って働く女性である、あさには、
子どもがいない、夫と一緒に仲良く暮らすことができない、
「なんだかすっきりしない」「充足感がない」という気持ちを、言わせているのである。
それが、貧しくても子を持ち、母親になった姉のはつに対しての、
「お姉ちゃんにはかなわない」というセリフである。
片方は、「子どもを産み育てる専業主婦になってもなんだか人生が充実しない」
もう片方は、「仕事をして成功しても、やっぱり人生が充実しない」
その葛藤を、ふたりの姉妹の対照を通して、見事に描いている、と思う。
現代の女性たちが思う、仕事と家庭の葛藤が、
はつとあさの、「子どもか自分か」「家庭か仕事か」
という悩み苦しみに、描かれている。
また、現代でも、「男性のがわの意識変革が必要」と強く言われているが、
今の状況では、あさの夫・新次郎の態度を見ていると、
まさに意識変革を、望んでしまうところである。
あさがこの問題をどのように乗り越えていくのか、
はつがこの悩みをどのように超えていくのか、
とても見どころになってきた、と思うのは、私だけではないと思った。
ところで、このところ、次のクライマックスに向けての、
とても面白い伏線が明らかになってきた。
それは、五代ディーン・フジオカの登場である。
五代氏は、あさの幼少時から、縁のあった男性であった。
この男性が、こともあろうに、すでに結婚している、あさに、
「らぶ」という言葉を使って!言い寄ってきているのである。
朝の連続テレビ小説で、こうして、ヒロインをめぐる、
ふたりの男性が描かれることは、そんなに珍しくはないかもしれない。
しかし、大森美香女史の描き方は、
この、ヒロインをめぐる男二人の対立と、
そのときに揺れるヒロインの心の描き方が、断然ちがうのである。
これは、「不機嫌なジーン」でも、
主要なテーマとして描かれていた。
思えば、向田邦子女史も、こうして、
ヒロインをめぐる、ふたりの男性、
あるいは、三人の関係、というものを、
絶妙で微妙な表現で、描き切っていたと思う。
このあたりも、これから特別に、見どころとなってきた。
時代は移り変わっても、季節は移り変わっても、
また、あさは来る。
明日もあさっても、「あさ」を楽しみに、
きょうもがんばろう!