昨日は、あさの女性経営者としての仕事ぶりに学んだところであった。
きょうは、あさの姉、はつについて、考えてみたいと思う。
あさとはつの姉妹は、ダブルヒロインということで、対照的な女性の姿、生き方を描いているそうだ。
昨今は、このようなダブルヒロインや、姉妹ものが、とてももてはやされているそうである。
流行である、ということは、それだけ女性たちから、興味や関心が持たれている、ということなので、このあたりも学んでいきたいと思う。
私がこのふたりの姉妹について思うのは、さまざまな対照であるが、なかでも、同じように両替屋に嫁いだのに、妹のあさは、時代の変化のなかで、両替屋としてまた商売を営む家として、生き残った、ということである。
そしてもう片方の姉のはつの家は、両替屋はとっくに潰れてしまった。
時代の変化の波に飲み込まれて、生き残れなかった、ということである。
私たち現代人も、今、時代の変化の波のなかにいる。
ふたりの女性の生き方から、「生き残れる女性」「生き残れない女性」という対照を、見ていきたいと思うのである。
生き残った加野屋のあさ、妹であり主役であるが、こちらのほうは、両替の仕事が「あぶないのではないか」ということを、とても早くに察知した。
加野屋としては、大旦那も若旦那もまだまだ、時代の変化に気づくことができず、また、蔵のなかの金貨を数えることも、大福帳を計算しなおすことも、していなかった。
それを行ったのが、嫁に入ったあさである。
あさが大福帳の計算をしていなかったら、時代の先読みをしていなかったら、まちがいなく加野屋も、倒産の憂き目にあっていただろう。
それが生き残ったのだから、嫁であるあさの才覚によるものである。
一方、はつの嫁いだ山王寺屋ではどうであったか。
これは、姑の菊や、その夫であり大旦那である辰巳卓郎、このあたりにすでに、伏線があるようだ。
というのは、婿養子で、菊がこの山王寺屋を仕切っていた、という事情があり、婿養子も息子も、この菊に頭が上がらない状況だった、ということである。
なので、時代の変化のときに、見栄や外聞が先にたって、打つべき手を打てなかった、という点が大きい。
そこへ嫁入りしたのが、当時の女性としての身だしなみを身に着けた、はつであった。
お琴にお花、お裁縫である。
この、はつは、山王寺屋の商売、仕事にまったく口出しをしなかった。
あさとは対照的である。
もしも、山王寺屋に入ったのが、あさであったなら、山王寺屋は生き残った可能性が高い。
女性の才覚、仕事に関する「口出し」というよりは、女性らしい時代への敏感な感性、そういったものが、はつにはないのである。
また、はつは、当時の女性の生き方振舞い方として教えられていたとおりであるだろうが、外の世界に出ようとしなかった。
外の世界や、あるいは社会のなかで何が起こっているのか、まったく興味を持たないのである。
社会のなかに生きていながら、社会の動静にまったく興味を持たない女性が、現代の世の中にも多数存在するが、はつはそのような女性であった。
また、夜逃げをして、夫が失踪して、その後、夫の惣兵衛が戻ってくるのであるが、「よい仕事人でなくてもいいから、よいお父さんになってください」と言う。
これは、男性陣から見たら、問題発言である。
女性は、良い家庭を築きたいと願う。
そうした意味から、夫にはよい夫、よい父親であってほしいと願うものである。
だから、女性の目から見たら、これはごくごく自然な発言で、こうした発言をする女性は、よくいる。
しかし、男性は、仕事で成功したいものではないだろうか。
家庭を守れるだけの稼ぎがあればいい、というのは、妻が夫に言うにしては、残酷な言葉でもある。
男性は、なかなか父親にはなりきれないものだ、という。
これは心理的なものであるだろう。
しかし、父親である以前に、「男として」生きたいのではないだろうか。
「男として」妻から褒められたいのではないだろうか。
はつの妻のしての言動は、夫の可能性を封じ込めるものであり、夫の男らしさを認めていないものなのである。
こうした妻をもって、惣兵衛が男として成功できるかというと、これはむずかしい。
妻のはつも、母親の菊も、まったく同じ、うちに内にと閉じこもるタイプで、男性を抑圧するタイプなのである。
しかし、こうした惣兵衛の姿に、自分自身を重ねるのだろうか、惣兵衛ファンがとても多い、ということである。
女性たちは怖れをもって、この「惣兵衛ファン」の増加を見守るしかない。