今週も、「花子とアン」で、朝を迎えた。
気が付けば、25週間となり、放送回数も150回で、残すところあと6回である。
こうなると、見ているほうもなんとなく、「最後まできっちり見終えたい」という気持ちになってくる。
一冊の本を読み終えようとするとき、残りのページ数が手でさわっても薄くなってくると、なんだかドキドキする。
本当に残りを全部読み終えて「完走」できるのか、「登頂」できるのか、不安になってみたり、読み終えることがこわくなったり、もったいなくなったりもする。
ちょうど、テレビ局でも、秋の番組改編の時期であり、会社でも、大学でも、年度の前期が終わり、後期が始まるころである。
花子の人生の物語も、あの登場人物はこう落ち着いて、この登場人物はこう落ち着いて、とあちこちで決着がついてくる。
これは、テレビドラマの終盤だから、という理由ではないと、私は思う。
花子の人生が、「決着のとき」を迎えているのではないか、と思う。
若い人たちは、親の世代やその上の世代を見ていて、「結果って表れるものなんだな」と思うことは、ないだろうか。
人生は、生きてきたようにしか死んでいけない、とも言われる。
自業自得、という言葉もあるし、努力は必ず実を結ぶ、とも言う。
誰の、どんな人の人生にも、山があって谷もあるが、結論が出るときがあるのではないか。
現代の世の中、孤独にひとり老後を迎える人もいれば、息子や娘、孫たちに囲まれて、老後をにぎやかに迎える人もいる。
仕事で成果を成し遂げる人もいれば、手の中に何も残っていない人もいる。
はっきりとした言い方かもしれないが、あまりにもはっきりとしているが、本当に自分のしてきたことの結果が、老いたときに表れるのではないか、と思う。
今週は、ヒロイン花子の翻訳家としての人生、教育を受けた女性としての人生の初めに、とても大きな影響を与えた、父親の吉平が人生を終えている。
花子という娘、兄妹たちを持った、父・吉平の人生も、語るにあまりあるものだ。
父と娘の関係というのは、面白いものだ。
このところは、父親不在とか父親がいらない、とかいう説もある。
父親がいなくても子どもは子どもとして立派に人権を与えられるのはともかくとして、果たして父親に「父性愛」「父性本能」がない、と言い切れるだろうか?
娘たち、子どもたちは、父親なしで、本当に、佳い人生を生きていけるだろうか?
少なくとも花子には、父親が必要であったと思う。
お父さんも、花子を学校に行かせるために、とてもがんばった。
経済的にも、あるいは親の愛情としても、そして結婚のときも、地震のときも、戦争のときも、田舎にいて、田舎から出てきて、無償の愛情を注いだのは、父・吉平であった。
母親にできることはまず「産む」ということかもしれない。
父親の愛情は、母親とはちがって、むしろもしかして、縁もゆかりもないところに結ばれる絆だからこそ、尊いのかもしれない。
社会に出て活躍して生きていくためには、教育が必要で、一生を見守っていくことが必要だ。
父親の目と経済力と、深い父性愛が必要である。
花子の人生が、たとえば、英語でアメリカ人と対等に話をし、本を出版し、子どもたちを育て、家庭を育み、戦争を乗り越えて生きた証を現実にした、父の吉平は、その立派な教育の証を、目で見て耳で確かめるのである。
花子はラジオで、自分の人生を語り始めている。
人生と仕事と教育が実を結ぶとき、心に初めて浮かぶのが、たくさんの人たちに支えられたという、感謝の気持ちなのかもしれない。