NHK朝の連続テレビ小説「花子とアン」。
放送終了まであと2週間とない状況となった。
終結していく物語を惜しむべく、ここで、ドラマ感想の番外編として、ヒロイン花子の妹である「カヨ」のことを、いろいろに考えてみたいと思う。
カヨは、長女の花子が女学校に入るために、一家全員で経済協力体制をとったため、カヨ自身は女学校には進学できなかった。
そして、自分で決めて、製糸工場に女工として住み込みで働いた。
しかし山梨の製糸工場は労働環境がとてもきつかったようで、そこを逃げ出してきた。
考えてみると、花子の周囲には、厳しい環境から逃げてきた女性ばかりが集まってきたようである。
花子の腹心の友たる蓮子もそうであるし、花子・カヨ・モモの三姉妹として、モモも北海道の生活がつらかったということで、逃げてきた。
蓮子の元には、やはり苦境から脱してきた女性たちが身を寄せている。
カヨは、製糸工場から脱出してきたとに、花子が東京の女学校にいたコネクションで、洋裁のお針子さんとして働き口を見つけることができる。
これは、住み込みであるようだ。
現代ではそうでもないが、今よりももっと、当時はコネクションというのは、強い縁故となったようである。
縁故というのは、信頼の証としてとても大切である。
花子が東京で信頼を築いていたから、その血のつながった妹であるカヨも、住み込みの勤め口を見つけることができたのだ。
その後、花子は、女学校を卒業してから山梨で教員をするのであるが、一念発起して、作家になるために、出版社で働くことにして、上京してくる。
その時には、カヨはお針子さんをやめて、銀座のカフェの女給さんとなっている。
このカフェで、花子と職場の仲間たち、夫や友達も集まってさまざまなエピソードが繰り広げられるのであるから、場の中心として、花形として、とても重要な役柄となっている。
このときのカヨはすでに、「愛される女性」「愛を集める女性」としての性質を、開花させてきているように思う。
このカフェ・ドミンゴで、花子と夫である英治との恋愛が紡がれていく。
カヨは、ここで、一生涯の愛する男性・郁弥と出会う。
この郁弥は、姉である花子の夫の実の弟である。
カヨと郁弥との最初の出会いは、カフェに来た、郁弥からの「こんにちは」から始まる。
そして、郁弥の一目惚れらしく、郁弥はカヨに、小さな花をプレゼントしている。
それは「勿忘草(わすれなぐさ)」の花で、この一枝を、カヨの髪に差してあげている。
村岡印刷の次男であった郁弥は、イギリスのロンドンで、最新の印刷技術を学んで、帰国したばかりであった。
西欧かぶれ、あるいは、ちょっとバターの香りがするような、と表現するべきであろうか、きざっぽいところもありながら、にくめない茶目っ気があった。
そして、その茶目っ気と天性の無邪気さで、カヨにアタックするのである。
カフェ・ドミンゴを訪れるたびに、花のプレゼントである。
作者がどのような思い入れでこうした、弟・郁弥を描いたのかはわからないが、こうした天真爛漫な男性、その朗らかさは特に女性への恋愛表現として表れているのだが、そうした男性は、本当に素敵な存在である。
この郁弥青年は、兄・英治と花子との恋愛に、当初、割り切れない思いを抱いている。
それは、郁弥が「お義姉さん」と呼んでいたのは、英治の最初の妻・香澄だったからである。
兄・英治が、先妻との間柄に悩み、新しく出会った女性・花子への気持ちの板挟みになるときに、弟・郁弥は、「ぼくは割り切れない」「義姉さんがかわいそうじゃないか」と憤慨する。
そうして、兄の感情、その場の感情を代弁しているのである。
感情を代弁して発言することで、兄の気持ちも花子の気持ちも、むしろ浄化され、整理整頓されていくことができただろう。
こうした、感情の素直な男性は、群像劇には、ひとりはいて、その場の真実を、あたかも道化のごとく、口にするのである。
郁弥は、そうしたタイプの男性である。
そして、郁弥の気持ちのなかで、兄・英治と、のちの妻となる花子の関係が了承されていったときに、初めて英治と花子が、本当に夫婦として認められた、という状況にもなる。
ヒロイン花子にとっても、とても大切な存在であった。
本当のことを、言ってくれる貴重な人であったと思う。
英治と花子が結婚して家庭を築く。
この家庭とは、物理的に「家」を指したようなところがある。
英治と花子の結婚生活が始まったあと、この群像劇の主たる舞台は、ふたりの家、居間となる。
カフェ・ドミンゴという、社交の場から、もっと家庭的なサロンの場へと群像劇の舞台が移ってのち、郁弥はこの村岡家で、もっとカヨと親しくなり、そして、カヨへのプロポーズへと至るのである。
この時期まで、カヨの恋心については、あまり描かれないというか、注目されないところがある。
それは、視点がヒロインにばかり行っていたからではなく、カヨが、「愛される側」「選ばれる側」であったからである。
ヒロイン花子もそうであるし、その友・蓮子もそうであるが、こうした自立を求める女性は、恋愛に関して、女性が「選ぶ側」「愛する側」に、なりたがる傾向がとても強いように思われる。
そして、男性と女性と、どちらが先に愛し始めたか、という点において、「私が先に愛し始めた」という、決定打を打ちたいところがあるように思う。
つまり、恋愛関係における、積極性であり、主導権を握りたい、という強い決心のように思われるのだ。
そして、その主導権と自主性こそが、恋愛と結婚における、「女性の自立である」と強く強く訴えたいようである。
しかし、カヨは、受け身である。
まず先に、郁弥が一目惚れをして、カヨにアタックを始めたのである。
プロポーズも、郁弥のほうから決断をして、またそしてプロポーズの仕方も、弦楽四重奏の楽団を呼び、ロマンチックな場所を考え、時間を決めて、服装もびしっと決めて、前日には兄と義姉にも日程を伝えて、衝動ではない計画的な、ライフイベントを決断したのである。
私は常々思っているのだが、男性にも、「告白する権利」「プロポーズをする権利」「どんな素敵なプロポーズをしようか夢見て計画して決行する権利」があるのではないだろうか。
バレンタインデーには、女性は「勇気を持って」告白するのだが、それは、本当に、男性にとって、ありがたいことなのだろうか。幸せなことなのだろうか。
一時的には男性はバレンタインデーのチョコレートの数を自慢しあったりして有頂天であるが、最終的には、告白する女性たちは、男性の人生上とても素敵な体験と権利を、はく奪してしまっているのではないだろうか。
確かに、女性から「好き」と言ってもらえれば、男性にとっては、一見、楽に思えるかもしれない。
誰かを好きになって、遠くから見ていて、まず一声かけて、名前と顔を覚えてもらって、デートにさそって、お話をして、そのお話が意気投合して、と恋愛を進めるのは、とてもとても険しく曲がりくねった道なのである。
そのワインディングロードを一気に縮めてくれるのが、女性からの告白と、女性からの積極的な恋愛行動である。
こうした、恋愛ロードの短縮は、男性にとって、「彼女との一生の思い出」がないままに、結婚式になってしまった、という結果になる。
女性に主導権を握られて、どっちが誰を愛していたのか、本当に彼女と結婚をしたいと思って決断した理由がなんだったかわからないままに、結婚生活が始まり、続いていくことになる。
つまり、女性が主導権を握って愛し始めた状況では、男性にとっては、「だって、ボクのほうから君を選んだわけじゃないでしょ」「ボク、ひとこともそんなこと言ってないよ」「結婚したいって言ったの、君じゃないの、ボク言ってないよ」ということになる。
そして、困難があったり、妻のほうから言い出した話合いに、「ボク、関係ないからね」と逃げ出すことにもなったりする。
家庭のなかで「ここ一番」と男性に主導権を握ってもらいたいとき、決断してほしいときに、「ボク、君と結婚するっていつ決めたっけ?」となってしまうのではないか。
そうした結婚生活を続けていくのは、山坂ある人生、なんだかつらかったり、乗り越えられなかったりするものではないだろうか。
しかし、カヨのように、女性が恋愛に関して、受け身であると、男性は、「ボクが考えに考え抜いて決心した人」「ボクが選んだ人」ということになる。
そして、愛情もたくさん持って、この女性を大切に守るようになるだろう。
女性の立場からすると、積極的に「愛する」というよりは、男性から心づくしで「愛される」という状況になる。
愛に包まれ、思いやりに包まれ、男性の力強さと勇気と決断に常に守られている状況である。
カヨは、郁弥からプロポーズを受け、そのお返事をする前に、運命の打撃に遭ってしまう。
関東大震災がで郁弥が亡くなったのである。
このとき、カヨは人間として女性として、本当につらい体験をする。
この状況から立ち直るには相当の時間と気持ちが必要だった。
しかしカヨには、「愛された」という体験が残っている。
郁弥の愛は、カヨの身を包んでいるかのように見える。
愛される体験は、重ねてみないとなかなか、わからないものである。
どうして女性は、「選ばれる」より、「選ぶ」ほうを、自立だと捉えるのだろう?
誰かに選ばれてから、その人を愛することは、できないのだろうか。
どうにも女性は、誰かに先に愛されてしまうと、気が強かったり、主導権が握れないことが許せなかったりして、誰かから先に愛の告白を受けると、絶対に断らずにはいられない、というタイプの人が、いるようだ。
それも、たくさんいるようだ。
愛される女性・カヨの、「愛された」「花を贈られた」「プロポーズをされた」という愛され体験は、誰も描くことはないのだろうか。
郁弥に先立たれたあとも、カヨは、郁弥の愛に包まれながら、力強く、自分のライフワークである、新しいカフェ、自分のお店を開く。
これは、女性としては、とても力強い行動力である。
こうしたときに、カヨを支えているのは、郁弥を愛する思いと、愛された思いであるだろう。
店を続けることが、郁弥との思い出を紡ぐことになるのだろう。
郁弥の時計が、お守りのように、カウンターのうしろの棚に置かれている。
このお店はとても繁盛して、軍人さんたちもたくさん集まった。
人が集まる、ということは、たくさんの人から好かれる、愛される、ということである。
カヨはいわゆる、愛される性格になったのだろう。
戦争中にカヨは、婦人会の一員として、軍人さんを応援する立場になるのだが、それは、軍人さんつまり、男性の気持ちがよくわかるようになって、戦争のぜひや理屈はともかくとして、がんばっている男性を心から応援する気持ちに、自然な心の発露として、思ったのだろうと思う。
今週の放送では、カヨも40代なかばを越えているが、やはり独身のままである。
それは、言うまでもないが、郁弥を今も愛しているからである。
空襲を逃れた、郁弥の思い出の本を、抱きしめた。
形として作ったカフェは空襲にともなう火事でまたもなくなってしまったけれど、カヨには愛された思い、が残っている。
愛されることが、永遠の愛につながるかのように、カヨの笑顔はふっくらとして、故郷の林檎のように愛らしい。