日本テレビ「明日、ママがいない」第一回・感想。

116日に第一回の放送があった、日本テレビの「明日、ママがいない」が、とても話題を集めているようだ。
実在する病院や、医療、教育のシステム、それらの団体が、抗議を申し入れた、という話である。
私は、この木曜日夜10時のドラマは、いわゆる「社会派」という枠であるということで、今回はどんなドラマ作りになるのか、興味があった。
都合で、当日には視聴することはできなかったのだが、翌日、翌々日と、インターネットサイトで無料放映されていて、視聴することができた。
いろいろなことを、たくさん思った。
この問題、いわゆる、親のない子どもたちが、施設で育てられる、というテーマに関しては、とてもデリケートな心で、対応しなければならないものだ、と思う。
なので、私自身の真意が誤解なく伝わるように、という気持ちで、長くなるかもしれないが、買いてみたいと思う。

まずひとつは、ドラマ全体に対する、一視聴者としての、第一印象である。
それは、興味をかきたて、フィクションの世界にのめりこませる、視聴率を上げる、という目標において、とても「ドラマティック」である、ということである。
音楽や映像、エピソードの数々にしても、とてもドラマ的、つまり、フィクション的であって、小説でいえば、「読み物としては面白いが、真実味に欠ける」というところである。
エンターテイメントとして、うまく出来上がっている、というところだと思う。

次に思ったことは、ドラマの出来具合としても関係してくるところだが、テーマが散っている、ということである。
さまざまな理由で、実の両親のもとで暮らすことのできない子どもたち、この子たちが集まった施設、ここでのストーリーである。
社会派として訴えたいのは、ポイントとして、どこになるのだろうか。
「親子、家庭、愛情」という点では、実の親子でも、実際にはうまくいかないことがあったり、理想どおりではなかったり、たくさんの問題があると思う。
それから、この子たちが、この施設に預けられた理由である。
赤ちゃんポストは赤ちゃんポストで、とても大きな社会的なテーマを提起している。
また、一時代には、コインロッカーベイビーということも、実際の社会問題となった。
これらの、「施設に来た理由」には、掘り下げられるべきたくさんの点がある。
それから、実際に施設というのは、どういうところなのか、実際に、親切に子どもたちが育てられているのか、という問題である。
これは、施設のあり方や、現状を変えるべきかどうか、というテーマを含んでいる。
次に、里子・里親問題である。
これは、理由によっては、ほかの理由でも、里子・里親になるケースがあり、そこでの問題も起こっている。

それから、「母親」という女性の生き方の問題である。
このドラマでは、ここに描かれる母親に対しては、批判的であるような印象があった。
恋愛をし、子どもを産み育てる母親、このひとりの人間の生き方も含まれている。

そして、もうひとつ、人間にとって「おかあさん」とな何か、アイデンティティ的な、心理的な意味、出自、「生きること」「なぜ生まれてきたの」という、思想に似た問いかけも含んでいる。

こうして、ドラマとしては、たくさんの社会問題を幅広く扱っているようでありながら、どこか散乱してしまったイメージがある。
ここから先の展開では、どこかひとつにきっちり絞っていったほうがよいのではないか、と思う。

次に、私が思ったことは、このドラマが、最近、とても話題になっている、女の子の子役たちを集めたドラマである、ということである。
この子役の子どもたちに対しての配慮、芸能界というところについて、本当に考えさせられた。
たとえば、人気の女性歌手グループがあるが、ここも、まだ10代前半の少女たちを集めて、人前で歌ったり踊ったりする。
問題は、それらが映像として残る時代である、ということである。
それから、これらの子どもたちが、まだ自分自身の意思で、「テレビに出たい」と決定できる以前に、いわゆるステージママという人が、わが子をテレビに出させたい、という気持ちのもとに、小さな子どもに仕事をさせているところである。

芸能界では、子役時代にとても人気のあった女優さんが、親がステージママであったことや、芸能界のしきたりから、仕事の内容を選ぶことができず、大人になって、芸能界というものがわかってから、人生の苦痛を味わった、ということである。
こうした、ドラマ作り、映画作り、というところで、小さな子どもを子役として演技をさせることに、なんらかの人権的な配慮は、できないものだろうか、と思う。
子どものときに演じた役が、一生ついてまわって、その負荷に耐えられない、という人がいるのではないか、と思えるふしがある。

また、こうして、ドラマ作りをするときに、監督、脚本、テレビ局のほうでは、ひとつの作品としてのドラマを作るときに、子役だけではなく、女優さんをも、自分たちの作品を作るための、素材として扱っているところがあるのではないか、と思う。
私は、時に「もしかしたら悪意なのかしら?」とも思えるのは、いわゆる清純派として、仕事を選んできた女優さんに、「汚れ役」をさせる傾向が、このところ目立つように思えるところである。
女優としての、イメージ作りや仕事上のスタンスは、大切にされるべきで、その上でもっと大切なのは、ひとりの人間として、どう扱われるか、ということだと思う。
日本には、伝統的に、歌舞伎や狂言などの芸能があり、そうしたからみから、子役や女優の扱いに対して、まだまだ非人間的なところが、あるように思う。
文化を追求するなら、社会派を思うなら、まず監督・脚本、自らが、本当に人権に配慮した作品作りをしているのか、自らをよく問いなおすべきであると、私は思う。

そうした、作品としてのドラマ、を、全面的には肯定できない、ということを前提にして、ここからもう少し書き進めたいと思う。
ひとつは、赤ちゃんポストの必要性の問題、それから、こうした児童施設の必要性の問題である。
まず、児童施設の問題である。

私は、事情がどうであっても、さまざまな状況で、実の親元で暮らすことがむずかしい子どもたちに関しては、積極的な支援を、もっと行うべきではないか、と思う。
たとえば、高齢者の施設に関しては、必要性もあり、需要もあり、すでに年金のシステムも整っていて、次々に整備されていく状況である。
それと同じように、社会的に、弱者という言い方はあまり好まないが、ひとりで生計を立てていけない状況の子どもを、社会全体で、守り、育てる仕組みは、大切なのではないかと、私は思う。

ドラマのなかでは、「本当のお母さん」ということが、とても大切になっていたが、実際は子どもたちは、「母親的な存在」のもとで、健やかに育つことができる。
それは、親戚のおばさんであったり、近所のおばさんであったり、お姉さんであったり、幼稚園の先生、保育士さん、そうした、あたたかい母性というものである。
小さな子どもにとっても、大人にとっても、「お母さん」という存在はとても大切なものである。
心理学的にもアイデンティティに関わる問題でもある。
また、愛され恵まれ望まれてこの世に生まれて来た、という確信が、人には必要なのだと思う。
そのときに、小さな子どもたちに、そばにいる人たちが、ありったけの愛情を注いであげることは、できると思う。

また、ドラマを見ていた視聴者の皆様が、「本当は実際はどうなのか?」と、このような児童施設の実態を知らない、ということがあるようである。
実は私は、まだ高校生のときに、学校のボランティア活動の一環で、こうした児童施設を、訪れたことがある。
それは、施設のクリスマス会であった。
こうした施設では、クリスマス会に、この施設の卒業生や、学校の友達、友達の親などを、積極的に呼ぶようにしている。
そして、施設の小さな体育館で、コーラスや、演劇を披露する。
全体的に、そこにいる子どもたちが、そんなに悲しそうであったり卑屈であったりする印象はなかった。
一番記憶に残っているのは、施設の少年たちと卒業生たち、これは男の子たちであるが、彼らがバンドを組んで、ロックというのを演奏したときのことである。
中学で卒業しなければならない施設を出て、いろいろな職業に就いているのであろう。
元気いっぱいに「クールズ」という、ちょっとかなり不良っぽいバンドの曲を、ドラムを打ち鳴らし、シンバルを打ち鳴らして、がなり立てていた。
がんがん歌ったあとに一言「てめえら、クールズなめんなよ!」とボーカルの少年が叫んだ。
そのとき、私の後ろに座ってみていた、年配のおばちゃんが、「キヨシく~ん!!」といって、立ち上がって大きな拍手をしたのである。
「キヨシく~ん、大きくなったわね~!」
その席は、職員の人が集まる席だったので、おそらくは、このキヨシくんを、小さなときから面倒みてきた保育士さんだったのだろう、と思う。
キヨシくんは、ふくれっつらをして、照れていた。
その場にいた全員が、笑って、拍手をした。

施設の実際の様子、それから、職員の人たち、教師や保育士さんが、どんなに真心をこめて、どんな気持ちで、この子どもたちを育てているのか、本当のことを、ドラマからではなく、知るべきであると、私は思う。
できる限り、精一杯のことを、してあげている、と私は思う。
そうした意味で、今回のドラマは、「キテレツな」エピソードが多く、賛成できない点がとても多い。
そして、また、こうした子どもたちに、もっと興味や関心を持って、必要とされる子どもたちに、充分な環境が授けられるように、と願うものである。

次に、赤ちゃんポストの必要性について、である。
これについては、実際にこれを行っている病院施設があり、そちらにたくさんの考えがあるようなので、意見はゆずりたいと思う。

メモ

アンジェリーナ・ジョリーとブラッド・ピットは、アメリカハリウッドを代表する大物俳優と女優の夫婦である。
アンジェリーナさんは、先日、手術を受けた。
国連UNHCR親善大使である。
ここの夫婦は、現在は正式な結婚をしているが、以前は、事実婚であった。
そして、里子を数名もらって、育てている。
最近になって、この子どもたちからの希望があって、正式な夫婦となった。
それなので、このドラマでは、あこがれの里子先として、描かれている。

次、「ドキュン」とはDQNとも表記される。
ずっと以前、十数年前であるが、「目撃ドキュン」という番組があった。
そこで扱っていたのは、実録で視聴者参加型で、中学校卒業程度で、配管工をしているようないわゆる不良と呼ばれる人たちの、更生の物語を扱っている。
「ヨロシク」を「夜露死苦」と、当て字して、地下道の壁などに、スプレーで書いたような状況である。
この「当て字」の様子と、最近のキラキラネームの様子を合わせて、当て字を使った一般的ではない名前を、「ドキュンネーム」と呼ぶ。
これは、学歴や育った環境などを、差別した言葉である。

次、女流文学において、たとえば、ジェーンエア、たとえば、「赤毛のアン」などでも、孤児であったり、孤児院の様子が描かれたりしている。
そこにおいて、女の子たちの友情は、とても重要なテーマとなっている。

次、ずっと以前、子役の安達祐美さんが有名になった「家なき子」では、「同情するなら金をくれ」というせりふが有名になった。
このシチュエーションでは、父親がなく、母親が、大変に重い病気で、入院していて、手術のために、大金が必要である。
このお金を稼ぐために、小さな女の子が、お金を稼いでくる、という物語であった。
このときにも、経済が苦しい状況というなら、なぜ、そんなに立派なきれいなパジャマを着ているのか、と視聴者から、問い合わせがあったようだ。
このときに、母親役を演じていたのは、今は亡き、スーちゃんこと、キャンディーズの田中好子さんである。
やさしい、あたたかい、お母さん役であった。

安達祐美さんは、その後、子役という仕事に関して、さまざまな発言をしている。
その、主たる主張は、母親がステージママであり、小さな子どものときから、自分の意思に関係なく、さまざまな役をさせられたことである。

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赤ちゃんポストについて。
赤ちゃんポストの是非が、「今になって」とさえ思える状況で、とても論議となっている。
赤ちゃんポストは、九州の産婦人科病院が、設置を決めたもので、母親は匿名のままで、さまざまな理由で育てることができない、赤ちゃんを、あずける場所である。

この設置に関しては、賛否両論あったなかで、この病院が、設置を決めた。
私が思うのは、産科・婦人科の医師たちが、実際に現場で婦人科の診療にたずさわっているときに、この設置を決心せざるを得ない、たくさんの状況があったのではないか、ということを思うのである。
病院、医療、という職業がら、個人の秘密を守ることが、求められている。
そうした状況のなかで、医師としての個人的道徳から、決心したのではないか、と思う。

私がもうひとつ思うのは、この赤ちゃんポストを設置した病院が、キリスト教の病院だ、ということである。
今、アメリカでは、「超保守派」と呼ばれる人たちが、キリスト教の信仰、マリア様の信仰と結びつけて、人工妊娠中絶に、絶対反対を唱えている。

「赤ちゃん」「信仰」「妊娠」と出産について、この病院では、宗教や思想信条上の、信念があるのではないか、と思われる。
「赤ちゃん」「生命」という点で、生命倫理の思想が、関連しているように思われる。





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