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NHKドラマ「ごちそうさん」感想。

NHK朝の連続テレビ小説「ごちそうさん」は、とても人気があるようだ。
その前の「あまちゃん」の人気から始まって、ツイッター上でも、共通の話題になるような、インターネット世代の、テレビとツイッターの連動が、うまく行っているのかもしれない。
テレビドラマの感想を、ツイッターで交わせるような、そういう時代の先駆けなのかもしれない。
私自身は、以前は毎朝必ず、テレビ小説を観ていた時期もあったが、ライフスタイルの変化で、見ない時期もある。
朝の連続テレビ小説は一日一回15分という「短さ」と、月曜日から土曜日までという放送スタイルとで、国民のライフスタイルを担う、大事なテレビドラマだと言えるだろう。
私も一時期は、朝起きるとNHKをつけて、時計代わりに、朝の支度のひとときを、送っていたものである。

「ごちそうさん」の人気は知っていて、人気になってから数回、実際に見てみて、それで、やっぱりストーリーはよくわからない部分もあったけれども、「ごちそうさん」という題名の由来を聞いて、なるほど、と思うところもあった。
戦争中で食料も乏しく、また人の心が苦しみ荒んでいるようなときに、おいしい料理を作ってふるまう、それで「ごちそうさん」という呼び名がついたのだという。
「ごちそうさまでした」というときに「ごちそうさん」と言うのが東京の人なので、そのあたりは、大阪の感覚なのかもしれない。

私は昨夜、ずいぶん回復してきた大雪の流通にほっとしながら、それでも生協さんには欠品や遅れがあって、自宅で保管してきた食品を計算して分けて使う状況になっていた。
それでも、「こういうときだから」ということで、とっておいたお味噌を、新しくふたを開けた。
そして、豚汁を作った。
「こういうときだから」と、ちょっとしょっぱめに作ってみた。
「少ししょっぱめのほうが、元気が出る」と思ったのだ。

それを家族の椀に取り分けて「さあ、できたわよ」という瞬間に、
「ああ、これが「ごちそうさん」っていうのかも」と、思ったのである。

そのときの気持ち、というと、「さすが、こういうときに、備蓄のコメや味噌を取ってある」とほめられたことや、家族が、とてもおなかを空かせていて、自宅付近を見て回っても、予想以上の被害に、なんだか元気がなかった状況、そういう状況のなかで、もしかしたら隣家の冷蔵庫は空っぽという状況のなかで、自分だけは、食料を備蓄してあったこと、そしておいしくてあったかい料理をふるまえること、そこに、何かの喜びと誇りを、発見したのである。
料理はいつも作っているが、こうした状況のなかでの、料理、そして、それをふるまって喜んでもらえることは、何かとても貴重な体験であった。

こうして、お料理上手さん、ご家庭上手さんが、いざというときに、家族だけではなく、近隣の人々にまで、心も元気が出る料理をふるまえることが、「ごちそうさん」の才能であったり、努力であったり、料理上手の極意なのかもしれない、そして、これが、ドラマのテーマなのだろう、と思うのだ。

グルメブームで、このドラマに出てくる料理が、とてもおいしそうだとか、レシピを再現してみたいとか、そういうことも、テレビドラマの楽しみ方だと思う。

それにしても、この「ごちそうさん」は、「食べさせたい」という女性の願望を、あますところなく追求しているドラマではないだろうか、と思う。
女性の願望そのまま、という点では、このドラマには、まざまざと見せつけられる点が、たくさんある。
ひとつは、最近の朝ドラには、よくあるパターンであるが、結婚を申し込むのが、女性ヒロイン側である、ということである。
男女同権の時代であるが、これは、とても興味深い話である。
つまり、女性の側が、自分の好きになった人と結婚したい、という根強い願望である。
これは、朝ドラの視聴者の大半が、高齢のかたであることを考えると、自由に結婚相手を選べなかった時代を反映しているものか、と思われる節もある。

次に、結婚相手であるが、背の高い、帝国大学の学生である。
もともと、ヒロインの親が下宿屋さんをしていて、そこに下宿住まいをするようになった学生を、下宿屋さんの娘さんが見初めて、声をかけたのだから、恐れ入る。

また、自分の作った料理を食べさせたい、というのは、女性の本能的な愛情表現である。
それを喜んで食べてもらえることは、女性にとって、愛情を受け入れてもらった、という証拠となる。

現代の女性たち、妻たち、主婦の皆様たちは、せっかく作った料理を、夫や子どもたちはてはペットにまで、「食べてもらえない」という苦悩を抱えている。
ペットのエサのコマーシャルに「食べてくれる」「食べてもらえる」と繰り返し出てくるのは、いかにペットに「食べてもらえないか」ということを、飼い主が本当に苦しんでいるからである。

小さな子どもの離乳食でも、幼稚園のお弁当作りでも、「食べてもらえる」ことは、重要なテーマとなっている。
そのくらい、みな、誰も、食べてくれないのである。

女性にとって、自分が作った料理は、自分からの愛情そのものである。
それを食べてもらって、おいしいと言ってもらって、初めてこの愛情は、一方通行ではなく、通じ合ったものとなる。
しかしそれは、女性の側からの一方的な愛情表現を、ただ受け取ってもらいたい、という本能的な欲求なのではないか、と思う。

それでも、受け取ってもらうために、おいしいと言ってもらうために、味付けや食材の買い方、レシピの研究、小姑とはりあいながら、人間関係に心をすり減らしながら、家庭料理に時間を費やしている。

女性の生き方、本当にこれでよいのだろうか。
家族のため、それはただ数名分のためである。
しかし根本は、料理は、自分の愛情欲求である。

料理は、一日三食で、本当に時間がかかるものだ。
一日に3時間、5時間とかける主婦もいることだろう。
そうした時間を、ただ自分の愛情表現だけでなく、もっと広く、社会のために使えないものなのだろうか。
時間と労力を、ただ愛を受け取ってもらって自分が満たされる目的のためだけでなく、広く社会のために、使えないものなのだろうか。

毎日、時間をかけて、そのことにばかり、時間を費やす、そういうのってくだらない。
もう少し、何か社会のためになることをしたらいいと思う。