映画「八日目の蝉」おすすめポイント。

今夜7月12日(土)夜8時30分から、BSプレミアムで、映画「八日目の蝉」が放送される。
「蝉」といえば、あの宇田川満代先生、ではなくて、角田光代女史の、最高傑作とも評される文学作品の映画化である。
この「蝉」には、井上真央さんが出演される。
井上真央さんといえば、来年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」で、主演を務められる女優さんである。
今、新進気鋭で評価の高い女優さんというと、やはり井上真央さんなのではないか、と思う。
井上さんは、ドラマ「花より男子」のヒロイン・つくし役で、一躍有名になった。
あの可愛らしくて元気な「つくし」のイメージがとても似合っていて、印象的だった。
「八日目の蝉」は、ミステリーとかサスペンスとかいう評価もあるようだが、満たされぬ恋愛と、強い本能的な母性愛とを描いているように思える。
映画の冒頭部分では、泥沼の状態に陥った、不倫の恋愛が描かれる。
そして、非情といえば非情であるが、正妻のおなかに宿った命は生かされ、不倫の愛人の子どもは、堕胎される。
そこから、愛人・希和子の流浪の旅が始まる。
正妻の子どもを、盗んでしまったのである。
ある女性のもとから、夫を盗み、子どもを盗んだ、希和子の業が、これでもか、これでもか、と綿密に描かれている。

そして、その希和子が盗み育てた子どもが、これは女の子であるが、この女の子が大きくなった娘さんの姿を演じるのが井上真央さんであるが、役名・恵理菜は、これまた、育ての母と同じく、不倫の恋と、なさぬ仲の子どもの妊娠、となるわけなのである。
本当に、業を持った女性の人生というのは、こういうものなのか、とため息が出てしまう。
この義理の娘は、不倫のなれの果てである育ての母・希和子を許すとも愛すとも理解するともつかない状況でのらりくらりと生きているのだが、自分自身が希和子と同じ状態を経験することで、希和子を許す、という変なストーリーである。

印象的な場面は、小さな島で、子どもを誘拐した「母」と、盗まれたことを知らない「娘」が、会話をかわすところである。
この娘さんは、人目を忍ぶためであろうか、男の子のような服装をさせられている。
そして、「お母さん大好き」「誰よりもお母さんだけが好き」と言う。

このところ、シングルマザーが増えているという。
私には、こうした「子どもがあれば生きていける」という母親の気持ちが、こんなふうに見える、つまり、誰からも愛されなかった女性が、子どもからは愛される、愛の渇望である。
愛されることに餓えていた女性が、子どもからのひたむきな愛情を受け取って、ようやく生きていける状態である。
しかし、小さな子どもが、親を愛さない、欲さない、ということが、あるだろうか。
小さな子どもは、自分が生きていくためにも、親を必要としているのである。
「愛されたい」「必要とされたい」という女性の切実な渇望が、子どもによって満たされるとしたら、これは、母親のひとりよがり以外、なにものでもない気がする。
そうしたエピソードが、島の美しい情景とともに映像化されると、見事に美化されるものなのだ、と感心する。

また、このシーンも印象的であった。
娘が大きくなって、誘拐事件もそれなりの解決をして、娘は一人暮らしをしている。
その時、この娘の父親、不倫の中心にいた男性であるが、この父親が、娘に会いに来る。
「大学だけは出席して卒業したほうがいい」
「金は足りているか、ほら、な」
財布からお札を取り出して渡そうとする父親を、この娘は軽蔑したように見下すのである。
「あなたっていう父親は、いつもお金ばっかり」と。

私は、この母娘(育ての)に、何か根源的なまちがいを感じる。
父親からの、最大の愛情表現は、教育を受けさせることである。
そして、血と汗と涙の結晶である、金銭を渡すことである。
ときには、保証人となり、後見人となり、後ろ盾にもなる。

世の中の不満ある妻と娘たちは、なんらかの誤解をしているのではないだろうか。
夫そして父親の、経済という屋根があって初めて、母子は安心して暮らして、生きて、成長していけるのである。
夫は、父親は、社会の屋根と、経済的基盤を支えるために、一生懸命働いて稼ぎをもってきているのだ。
それは、夫の愛、父親の愛の最大の表現である。
これを、軽蔑して、一笑に付して「あんたっていつもそれだけ?」と言ってみる女性は、男性からいったい、何がほしいというのだろうか。

私は正直言って、この希和子という女性に、母親らしいところは、どこにもない、と思った。
食べるものも、友達も家も環境も何も準備してあげなかった。
ただただ、自己中心的な本能に従っているだけだった。

子どもを産みたい、育てたい、というのは、人間が生物として生まれ持った、種の保存の欲求である。
欲求に溺れて生き、そして育てた子どもにも、同じく、欲望にまみれた生き方を教え、「それしか」残せなかった親を、はたして母親と呼ぶことができるだろうか。

小さな子どもに、幸せになるために、ありとあらゆる手だてを、たくさんの人たちが、大きな社会のなかで、してあげたいものだ、と心から思う。



☆それにしても、かわいそうな女性である。
平安時代には、2号さんでも3号さんでも、子どもを産み、その子が認知されて、跡を継ぐこともできた。
今後、2号さんや3号さんの、人権や社会的立場の保証、扶養手当や厚生年金、老齢年金まで、すべて対応できる社会にしていったほうがいいのか、ちょっと悩んでしまう。