2014年1月24日金曜日

NHKドラマ「紙の月」第三回「清らかな罪」感想。

新春から始まった、NHKドラマ「紙の月」も、第三回の放送が終わった。
5回の放送であるから、物語もなかばを過ぎたわけである。
今週のテーマは、どうにも「お金と女性」であるように思えた。
「お金と夫婦仲」のようにも思えるし、「お金と愛」のようにも、感じられる。
人間にとって、「お金」とは、なんだろうか?
私は、これは、考えれば考えるほど、わからなくなる。

世間には、経済学なる学問がある。
私にとっては、政治も歴史にも、それなりの法則を見出してきたわけであるが、経済学だけは、どうにもわからないところがある。
経済学の専門に聞いても、それぞれ、理論や学派もあるようで、どれが正しいというわけでもなさそうだ。
日本では、一昨年の暮れから、新しい経済政策が始まっていて、世の中の経済が回転している、というかんじがする。

今回は、40代の女性友達、三人の、それぞれの金銭事情が描かれれているように思う。
これらは、現代の女性たちが、抱える金銭事情、家庭事情を、3人の人物に象徴して描いたようにも思える。

主人公の梨花は、裕福な家で育ち、その実家の会社経営がうまくいかなくなった、という経歴を持つ。
また、高校時代には、ご両親からもらったおこずかいから、ボランティア募金をしていた。
そして、結婚してからは、仕事は忙しいが収入が高い夫のもとで、主婦として暮らしているが、何か物足りないものを感じて、銀行のパートを始める。
そして、銀行のお金を横領してしまう。

友人のひとりである、木綿子は、何か役名の通りの、「木綿の」イメージのある主婦である。
夫と、小学生の娘の三人で暮らしている。
この木綿子は、いわゆる「節約主婦」である。
今、とても「節約」がはやっているようである。
これは、デフレと呼ばれた時代のものでもあるが、やはり一家の家計を預かる主婦としては、収入が一定なので、支出をできるだけ抑えれば貯金ができる、というシンプルな理論から、節約を心掛けている。
ただ、木綿子は、「お金があればそれがイコール幸せだとは思わない」という信念を持っている。

もうひとりの友人である亜紀は、離婚ののちに、ファッション雑誌の編集の仕事を続けながら、ひとりで暮らしている。
恋人がいるがうまくいかない。
元夫ともうまくいかない。
元夫のもとに引き取られた娘とも、会ってはみるけれど、うまくいかない。
この亜紀の悩みは、買い物依存症である。
買い物依存で使いすぎたのか、元夫からは「もう自分では物足りなくなったのだろう」と言われて、縁を切られた、というわけだ。
そして、離婚してから数年たってからも、買い物依存から抜け出せない自分を、自分で情けなくなっているようだ。

ここで、私は、四人目のお友達になってあげて、彼女たちといろいろ、お話をしてみたい、と思う。
まず、ヒロインの梨花は、すでに横領が見つかって、外国を放浪している状態なので、まずは日本に帰ってきてもらうことが先決かな、と思う。
そのうえで、やっぱり、学生時代に「困った人がいたら、何かしてあげたい」という気持ちがあったのなら、学生時代にでも、結婚してからでも、ボランティア活動をしたり、NPO活動をしてみたらどう?と話すと思う。
自宅にいても、ちょっとした手芸品を作って、近所の小学校のバザーをすることができるし、地域の子ども会の役員をすることもできる。
ちょっと前には、「緑のおばさん」という横断歩道を渡してくれるボランティアがいたものだ。
そうしたところから、海外活動への取り組みなどを、勉強してみたらよかったのではないかと思う。
また、お金のことに関していえば、実家のご両親が、会社経営でうまくいかなくなったことを話している。
大人になってからでいいので、会社の経営とはどういうものなのか、そして、商業とはどういうものなのか、学んでみたらよかったのに、と思う。
お金、特に、会社の経営をするとか銀行で扱う金額というと、なかなかカンがつかめないものだ。
私自身も、もちろん、1億円といっても、まさに、「500円のランチを一日三食たべて、何年間生きられる」という計算をしてみないと、よくわからないところがある。
ただ、この計算を、してみなさい、と言ってくれた上司がいて、OL時代には、計算機を持って、「この金額を係長のカレーライスで計算してみなさい」と言ってくれたものだ。
また、三億円の宝くじを買ったらどうするか、これを考えてみたことがある。
というのは、三億円の年末ジャンボなら、一枚で300円なのだが、この一枚だけを買ったわけである。
宝くじは夢を買う、というわけなので、この一枚で、できるだけ多くの夢を見てみよう、と思った。
それを、近所のおばさんにちょっと話すと「あなたね、若いんだから、それだけお金があったら、海外留学をしてきなさいよ」というのである。
それで、さっそく、海外留学の手続きと費用を調べた。
ところが、2年間の海外留学、オーストラリアあたりに行ってきても、3000万円くらいしか、「かからない」のである。
それで、ほしかったCDをリストアップして、すべて買う、とか、ほしかった本をすべて買う、と計算してみた。
しかし、である、CD100枚も買ったとしても、たかだか30万円なのである。
それでさらに、マンションも買ってみることにした。
毎日、新聞の折り込みに入ってくるチラシを見て、マンションを選んでみる。
これだって、3000万円もあれば、手に入るのである。
それで、三億円を使うのは、本当に大変なものだ、とだんだん、身に染みてわかってきた。
それで、宝くじのテレビコマーシャルで「宝くじが当たったので、遊園地をお取り寄せしたの」という話では、これはまったくでたらめだ、ということがすぐにわかった。
遊園地は、三億円では、建てることはおろか、経営だって成り立たないのである。

そんなふうにして、梨花さんには、お金の感覚、それも、大金の感覚を、シュミレーションでいいから、覚えてほしかったように思う。
ある意味、一億円くらいは、たいしたことないのである。

次に、木綿子さんとお話をしてみよう、と思う。
木綿子さんの気持ちになってみると、収入が決まっていて、奥さんがパートには出ないことが決まっている状態なので、支出を少なくする、そして、お金をためておいて、「好きなこと」を「自由にする」のを目的としている。
そして願いは、家族の幸せである。
それから、やはり学生時代のことが描かれているが、実家がそれほど裕福ではなかったことから、お金のありがたみ、ということを痛切に感じていて、そして、その上に「お金があることだけが幸せではない」というひとつの思想を、信じ込もうとしているところがあるように思う。
今のところ、木綿子さんの家庭では、借金などに困ることはないので、これはとても庶民的な、いわゆる「普通の」考えだと思う。
ただ、やっぱり、「貧しさに負けた」「いいえ、世間に負けた」という歌があるように、お金がないところに、愛は生息できない。

木綿子さんがしている節約生活は、貯金通帳のなかにどんなに数字を積んだとしても、貧しい生活である。
年ごろの娘さんには、従姉妹のおさがりのワンピースを継あてをして、着させる。
娘の友達が見ていても、スーパーの特売セールに走る。
冷蔵庫の開け閉めにはうるさいし、夫のシャワー水道水使用タイムまで決定しているのである。
これは、節約生活ではなくて、貧しいかたがたの生活そのものである。
ここのご主人は、いっしょうけんめい働いてきたのに、自宅でくつろぐ、ということができない。
外で働いて、この家を維持する賃金を働いてきたのは、いったい何のためなのだろうか。
自分が家でくつろぐこと、そして、愛する奥さんと子どもに、楽しい暮らしをさせるためではないだろうか。
ここの木綿子さんは、そこのところを、完全にピントをはずしてしまっている。

おうちに帰ってきたら、ご主人にたくさんお湯を使わせてあげて、幸せそうなのどかな表情で、くつろがせてあげたらいいのに、と思う。
そして「あなた、お仕事、いつもありがとう」「あなたの働いたお金で、ちょっとぜいたくさせてもらっちゃった、いいかな、きょうはケーキよ」なんて、言ってみたらいいのに、と思う。
ご主人の前で「あなたのおかげでこんなに幸せです」と表現してみたらいい。
そうしたら、ご主人も、幸せそうな笑顔を見に、ほかの女性にワインをおごることもなくなるだろう。

次に、亜紀さんである。
このかたは、仕事を持つ女性である。
買い物依存症というのは、現代病のひとつのテーマとしてとても大切なことなのだろうと思う。
ここでとても大切になるのは、ファッションとお金、という問題である。
亜紀さんがライフワークにしているファッションというのは、ひとつの重要な芸術である。
そして、世界的には、パリコレに代表されるように、フランス、パリのあたりが中心となって、世界の最先端、最高峰が、構築され、進んでいるのである。

このときに、元夫は、亜紀さんのファッションを、「派手である」と評価したようである。
そして、亜紀さんと別れたあとは、娘さんに、ちょっと見てそれとわかるほどの、質素な服装をさせている。
これは、ファッションというものを、まったく理解していなかった、そして亜紀さんの仕事をまったく理解していなかった、ということなのだ。
しかし、仕事上の上司である、この編集長は、ファッションの仕事、最高峰を目指すということ、そして、20万円の服を日本で買うのでは、全然足りないのだ、ということを、しっかりと理解していたのである。
仕事で、ファッションで、世界の最高峰を目指している、この仕事の醍醐味と、そこでのストレスと、そして充足感、こうした、仕事を持つ女性の生き生きとした姿を、愛することが、認めることが、できるかどうか、ということである。