2014年8月18日月曜日

NHK「花子とアン」第20週「海にかかる虹」感想。

NHK朝ドラ「花子とアン」は、白蓮事件も一難去って、蓮子さんは何事もなかったかのように、一般庶民に落ち着いている。
伝助との別れと許しは、とても印象的な場面だった。
そして、花子は、本来の職業だった、あるいは視聴者も待ちに待ってまちくたびれて、もうすっかり忘れてしまっていたのだったが、翻訳業に本腰を入れ始める。
小学校の教員をしていたときには、文筆の道に進むための、なんらかのきっかけが必要だった。
そして、文筆業が翻訳業へ、そして児童文学へ、と方向性を持つためには、やはり大きなきっかけが必要だったということだろう。
考えてみれば、「文筆」あるいは童話作家というはずだった花子に、「英語の翻訳」という道を示したのが、夫である村岡英治である。
花子の人生と職業選択は、そのときそのときの出会いや、環境にとても左右されているようだ。
しかしこれも、明治、大正、昭和、という、女性の職業の先駆けであった時代であるから、いたしかたない、ともいえる。

夫となる男性、あるいは職場の男性から、職業や社会人としての「作法」を教わることは、女性にとってはよくあることで、どんな社会人たる男性と知り合えるかは、女性の職業に対する姿勢や取り組み方、具体的な仕事の仕方にとても影響してくるようである。
そうした意味で、村岡英治は、ドラマのなかでこそ影薄いイクメンであるが、陰に日なたに、社会人として、職業を、妻の花子に叩き込んだ張本人でもあるかもしれない。
また、花子が夫・英治に対する思いというのも、「仕事をさせてくれた」「仕事を応援してくれた」あるいは、「自身の才能というものを、開花させてくれた」という意味で、とても大きいのかもしれない。
自宅に印刷所まで作ってくれるのだから、すばらしいことである。
当初は、家内制手工業、とも思い、印刷の仕事がたくさんほしいから妻に働かせたのか、ともかんぐったものだが、花子の、当時としては貴重な、英語と翻訳という才能を、だれよりも評価していたのは、夫の英治だったかもしれない。

このあたりで、「夫連」が描かれるのだが、蓮子の夫、シュギシャたる宮本龍一はすでに、姑にやっつけられ、子煩悩なふつうのオジサンになってきている。
なんとも情けない話で、蓮子が駆け落ちしたその理由、男性的な魅力というのが見えてこない。
もしかしたら、宮本龍一というのは、駆け落ち前から、マイホームパパな一面をのぞかせていて、アットホームな雰囲気が、蓮子は好きだったのかもしれない。

どちらにしても、花子も蓮子も、文才を後押ししてくれる夫に出会って、本当に幸せである。
実際には、こんな男性がいるわけない、というのは、誰もがご存知の事実である。

さて、この週「海にかかる虹」の本題は、ひとり息子・歩の件である。
小さな子どもを失う悲しみを、日本中の子どもたちのために、児童文学を翻訳したい、という大きな目標に変換していったのである。
ドラマを見ていても、「こっちがパパのダーリング」と歌まで覚えてしまった視聴者としては、本当に心が痛む思いがした。
そして、花子が、その痛みを、忘れることではなく、常にいつもそばに、歩くんがいる、歩くんに話聞かせている、という気持ちになったこと、これは、とても大切であると、私は思う。

世の中には子どもが大好きでも、子に恵まれない女性もいる。
また、我が子さえよければ、ほかの家の子どもはどうでも関心がない、という母親もいる。
そうしたなかで、ご近所の子どもにも、日本中の子どもにも、自分の文筆力と英語力で、一生懸命仕事をしていきたい、と思えた花子は、とても幸せであると思う。
何か遅咲きなところはあったが、ここからが花子の本領発揮となるのだろう。

海のシーンはとても印象的だった。
もっともっと、ダンナに甘えて、悲しみ苦しみ涙ももっと見せてもよかったのではないか、と思う。
ダンナ自身の苦しみ悲しみ、そして、父親だってつらいのに、母親だけつらいふりする妻、こうした妻をもって、それでも支えていく英治の孤独も、もっと描いてよかったのではないか、とも思う。
父親としての、英治の心意気も、言葉や態度にして、見せてほしかった週であった。