2014年2月5日水曜日

女性の職業選択。

このところ、女性と職業について、考えている。
男女平等の時代となり、男女雇用機会均等法が施行されてから、20年経つ。
そうした時代は進んで、今は道路工事や建設現場など、力仕事や大きな機械を使う作業にも、女性が職業進出をしてきた。

しかし私は、やはり、女性には女性に、生まれ持った性質にふさわしい職業が、あるように思えてならない。
これは、感覚的なものかもしれない。
また、女性にとって、何が幸せなのか、幸せになるにはどうしたらいいのか、を考えるときに、職業の選択は、実はとても大事な問題ではないか、と思える。

そして、考えるのは、昔も今も変わらないが、いわゆる「水商売」と呼ばれる職業の女性たちのことである。

以前とはちがって、女性たちの間でさえ、「平等感」が、浸透してきている。
そして、水商売であろうと、どんな職業であろうと、差別はいけない、という考えが、どんどん、特にむしろ、インテリ層と呼ばれる女性たちの間に、浸透してきているように思える。

直感的に、あるいは、とても世間的に、「水商売をしているなんて…」と批難するような認識は、なくなってきているのだろうか。
そして、直感的に、世間的に、「水商売をしてはいけないよ」とアドバイスする人に対して、「なぜいけないの?」「悪いことなの?」「法律でも決められていることだし」「みんな行っている」
あるいは、「必要な資金を稼ぐためなら、お金はお金、仕事は仕事と割り切ってすればいいんじゃないの?」という批難を受けてしまうことになる。

しかし、本当に、お金のため、それも、たとえば母子家庭が必要な生計を立てるため、とか、学業の資金のためであるとか、そういったことで、水商売を選ぶのは、本当に「よい選択」なのだろうか。

私は思う。
やはり、昔とちがって、職業選択の権利は、自分自身が持っているのである。
ずっと以前は、明治維新以前などは、たとえば、社会の事情があって、どうしても職業を選べなかった時代もあった。
しかし、現代は、自分の力で、選ぶことができるのである。

また、給金が高いのは、それはそれだけの「もの」を売っているのである。
売っているものは、「女性」であり、「プライド」でもある。

この、「女性を売る」「プライドを売る」ということを、一度でもした女性は、その当時もそれから一生も、ずっと、「プライドを捨てた女性」として、世間から、ばい菌のような扱いを受けることになる。
それは、人間として自尊心を、捨ててしまったからで、そうした選択をする女性は、なにかしら堕落の雰囲気を周囲に影響させるからである。

私は、こうして文章を書いてきて、常に考えている言葉がある。
それは、「人は、パンのみにて生きるにあらず」という言葉である。
生計を立てること、食べること、つまりパンだけで生きて行ってそれでよいのならば、プライドでも女性でも、販売することは差支えない、ということになるだろう。
しかし、人間は、パンだけで生きていく動物とは、一線を画して、社会を維持して、幸せを確立していくのである。

私は、生計のために、「割り切って」水商売をする選択は、よいとは思えない。
私だったら、どんなに生活に困っても、どんなにお金が必要であっても、水商売はしない。したくない。
それは、人間としての、尊厳を、持っていたいからである。
自分で自分を、もっと大切にしたいのである。

たとえば、最近では、大学生が、勉強して上の学校に進学するため、そして、資格試験に合格するために、資金を必要とするため、それを自分で調達するために、以前とはちがった感覚で、水商売をする人がいるという。
そうした人は、これも「割り切って」ということなのだろう。
しかし、やはり、たとえ勉強とか、高い目標があったとしても、そのためなら手段を選ばない、という道筋は、まちがっていると私は思う。

その水商売の経歴のおかげで、身にはそれなりの雰囲気がつき、その後も、男性からは見下されて、生きていかなければならない。

男性には男性のものの見方、社会構造というのがあり、それは、男性の視点や感性を実際に尋ねてみないと、わからないときもある。
要するに、水商売をした女性は、それなりの扱いしかできない、店に行くことはあるかもしれないが、自分の妻や娘は、こうした「下の下」の職業には絶対に就かせない、これが、男性の本心であり、男性から見える世界なのである。

こうした、男性から見える社会のなかで、女性たちは生きているわけであるから、これを批難したり文句を言ったりする前に、職業選択の自由意思でもって、自尊心のある職業を、選ぶべきではないだろうか。

女性たちは、男性社会のなかで、「尊重して扱われたい」という気持ちを持っている。
尊重されるには、尊重されるだけの、貴重な自尊心を、保ち続けていることが、とても大切であると、私は思う。